昆虫食 (二) /工事中
<昆虫食 (一) からの続き>
Wikipedia【いなごの佃煮】に《イナゴは長野県(伊那谷地方)や群馬県など、海産物が少ない山間部では食用とされた》とあり,農水省のサイトへのリンクがある.しかしリンク先は長野県の郷土料理を紹介する記事であり,Wikipedia は根拠なく群馬県 (私の郷里) をイナゴを食べる地域としているが,これは嘘である.かつて日本中の田んぼが農薬まみれになった昭和三十年代にイナゴを食べる習慣は全国的に絶えたことを高齢者は良く知っている.食べようとしても入手困難になったのである.
またイナゴの調理方法として《秋に田んぼなどで大量に発生するイナゴを集める》と書かれているが,イナゴが大発生するようなところは,もはや田んぼではない.稲作農業を放棄した荒廃地である.w
こういう嘘を書くやつが跳梁跋扈しているから,百科事典としての Wikipedia の質は低いままなのである.デカデカと寄付要請の広告を載せている暇があったら,明らかな嘘は削除しろと言いたい.
嘘といえば,コオロギ加工品を製造販売している例の株式会社グリラスは,公式サイトに次のようなことを書いている.
《昆虫食としての蚕は、糸を取ったあとの蚕です。蚕を食べる習慣は中国や韓国にもあり、漢方薬としても効能を発揮するといわれてきました。日本でも蚕は食用として人気があり、第2次大戦中には小学校でイナゴ採りが推奨され、製糸工場では糸を取った後の蚕のサナギを女子工員が食べてしまうほどでした。
糸を取ったあとの蚕のさなぎは、佃煮にして食べるのが一般的です。蚕の佃煮は日本だけでなく韓国でも食べられており、タイや中国では油で揚げて食べることがあります。》
この一節中の《日本でも蚕は食用として人気があり》《製糸工場では糸を取った後の蚕のサナギを女子工員が食べてしまうほどでした》は本当か.
私には到底信じられない.
明治の開化以後,長野県と群馬県は日本の養蚕業の中心となった.私は群馬県前橋市の中心部から南に少し外れた地域の生まれ育ちだが,小学校時代の昭和三十年代には,群馬の養蚕業は衰えていた.それでも小学校への通学路には糸を繰る (作業名は「繰糸」という) りをする家内工業がまだ残っていて,初夏から晩秋までは,糸を取るために繭玉を鍋で煮る悪臭がそこら中に蔓延していた.
昔の養蚕農家は,蚕が桑を食べるのを止めると蔟 (まぶし) という道具に蚕を移して繭を作らせた.
蔟で蚕が繭を作り終えると,農家はすぐ眉を収穫し,業者に売って換金する.収穫から先はスピード第一である.
業者は製糸工場に売る.(群馬県には明治に始まる官営の製糸所から戦後の民間企業の工場に至る歴史がある.Wikipedia【富岡製糸場】参照)
製糸工場では,まず最初に繭を乾燥する工程がある.大きな工場ではボイラーがあるから,その熱を利用して熱風乾燥する.家内工業的には天日乾燥も行われた.
この工程の目的は,繭の中の蛹 (さなぎ) を殺し,かつ水分活性を落としてカビの発生を防ぐことである.乾燥までに時間がかかりすぎると中で蛹体が崩れたりして糸の品質を落とすので,強い乾燥を行う.
この乾燥工程で,蛹は,タンパク質の分解と酸化が進行する.
昔,私が大学院にいた頃,私の知人が行った分析 (論文化できなかったため非公開) によると,乾燥蛹にはメチオニンSオキシド残基を有する酸化分解物が生成し,これが異様な悪臭を放つという.
フラスコに入ったその試料の臭いをかいだ私は,小学生の頃に前橋の町はずれに漂っていた臭いをただちに思い出した.
どんな臭いかというと「死んだ昆虫の臭い」としか表現できないのが残念だ.w
田舎育ちの人は子供の頃,夏休みの宿題で野原の虫をたくさん捕まえてきたはいいが,きちんと標本を作らずにほったらかした経験があるかも知れない.
その結果,干からびた昆虫から酷い悪臭が発生する.といっても,経験のない人には伝わらないのが残念だ.
ただ,この悪臭が充満した非人間的な労働環境を表現しようとした作品に,細井和喜蔵のルポルタージュ『女工哀史』(1925年),山本茂実のノンフィクション『あゝ野麦峠』(1968年),これを原作とした山本薩監督作品『あゝ野麦峠』(1979年) がある.
いずれも現代の若い人たちが忘れ去った時代の記録であるが,これらの記録自体を歪曲する傾向が見られる.
あるブロガーが長野県の岡谷蚕糸博物館を見学し,文学や映画に描かれている臭いのことを職員に質問したところ「あれは話を盛っている」と説明されたと書いている.(《野麦峠~岡谷蚕糸博物館 ~あゝ野麦峠~》)
法政大学人間環境学部教授の湯澤規子が《女工と白米|湯澤規子「食べる歴史地理学」第2話》[掲載日 2020年7月21日 12:00] という記事を《HB ホーム社文芸図書WEBサイト》に掲載している.その冒頭の部分を下に引用する.
《日本の女工は「貧しい」「悲惨」?
「先入観にとらわれて」見えない。
それを取り去ってみると見えてくるものがある。
「女工」と聞くと、まず、どんなイメージを抱くだろうか。
学生たちに聞くと、やはり最初は「貧しい」とか、「可哀そう」とか、「悲惨」という言葉が並ぶ。それはきっと、これまで習ってきた社会科の教科書や有名な『女工哀史』(細井和喜蔵、改造社、1925年)や『あゝ野麦峠』(山本茂実、朝日新聞社、1968年)に描かれた世界像を、彼らが「知識」としてキチンと持っているからなのだろう。このイメージに対して、「本当にそうだろうか?」などと疑問を持つこと自体、一般的にみれば少し変わった発想で、かつての私自身も、そんなことは思いもしなかった。
とある理由から、高校では「日本史」ではなく「地理」を選択し、歴史地理学という分野に進学した私があらためて「日本史」に出会ったのは、大学生になってからである。私に初めて本格的な日本史の手ほどきをしてくれた師匠は、今思えばユニークな視点の持ち主で、それこそ「女工は本当に悲惨だったのだろうか」(※注1)と教壇から問いかけてくるような人だった。
私がその思いがけない言葉に「???」と戸惑っていると、講義の内容は彼が歩いた新潟県佐渡の村々の話、そこで出会ったかつての女工たちの昔語りへと展開していく。「工場で食べた白米の美味しかったこと」、「月給をもらって欲しかった着物を買った時には嬉しくて」などというエピソードを次々と紹介しながら、先生はもともとある理論や先入観で目を曇らせることなく、歴史の現場に足を運び、自分の目や耳で確かめて考えることの大切さを教えてくれた。それは、フィールドワーク好きの地理屋の私にはぴったりの発想だった。だから、オーソドックスな歴史学を身につけていないというコンプレックスを感じる暇もなく、私は一風変わった「足で歩く歴史の世界」にあっという間に魅せられ、のめり込んでいった。
愛知県・尾西織物業地域でのフィールドワーク
そんなわけで、7年ほど前に愛知県の尾西(びさい)織物業地域(今の一宮市とその周辺)に足を運び始めた時にも、私はまず、女工たちの日々を具体的に知るところから始めようと思った。》
この「女工と白米」の書き出しで湯澤則子は,学生たちは『女工哀史』や『あゝ野麦峠』に描かれた知識を基にして「女工」に対して《貧しい」とか、「可哀そう」とか、「悲惨」という》イメージを持っているが《本当にそうだろうか?》《女工は本当に悲惨だったのだろうか》という疑問を読者に突き付け,フィールドワークを開始した.
ここまで読むと「女工と白米」の読者は,湯澤則子は苛烈であった製糸工業の現場を調べに行くと思うだろう.
ところが奇想天外なことに湯澤は紡織工業についてフィールドワークを開始してしまうのである.
生産財産業を調べるといいながら,あろうことか消費財産業を調査してしまうのである.
そしてその挙句に湯澤は,女工たちの食事はヘルシーだったと称賛している.つまりは『女工哀史』や『あゝ野麦峠』に描かれた悲惨な労働実態は嘘であると主張しているのだ.
しかし,素っ頓狂な湯澤則子は生産財産業と消費財産業の区別ができていない.そこら辺のアホ学生と同レベルの無知である.いやそれ以下のバカである.
こういう輩でも教壇に立てる法政大学は,はたして学問の府なのであろうか.唖然とするしかない.
湯澤の珍説はさておき話を戻す.
岡谷の製糸工場の女子労働者たちについて,コオロギ加工品を製造販売している例の株式会社グリラスが企業サイトで述べている《日本でも蚕は食用として人気があり》《製糸工場では糸を取った後の蚕のサナギを女子工員が食べてしまうほどでした》は本当か.
実は,ほそぼそと蚕のさなぎの佃煮は製造販売されている.私が調べた限りであるが,それに使用されている蚕の蛹は,悪臭の原因となる強い乾燥を行っていない.繭の中の蛹を殺すにとどめているという.
なにしろ強く乾燥を行った蚕の蛹が放つ異臭 (同定には至っていないが,おそらく含硫有機化合物である) は,未経験者は嘔吐することがあるという.子供の頃から蚕の蛹を煮る臭いに慣れている私でも,ロシアの諜報機関に捕まって「スパイとなって国を売るか,それとも蚕の蛹を食うか」と脅されたら,迷わずに国を売る.それくらい酷い臭いだ.
ウェブを検索すると,細井和喜蔵の「女工哀史」にその記述があるという.(Jタウンネット編集部《怖いくらいリアル! 生々しすぎるカイコの幼虫チョコを食べてみた》[掲載日 2015年9月1日 17:00])
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