新・雑事雑感

主に時事的話題です.

2019年6月15日 (土)

そら豆考

 六月はビール好きには堪らぬ月だ.枝豆とそら豆が一緒に店頭に並ぶからである.ビールでなくてもいい.発泡酒でも第三のビールでも,この時期の豆は最高の酒肴だ.
 枝豆は夏の間ずっと手に入るが,そら豆はすぐに季節が終わってしまう.それが欠点だが,それ故にか,出回ると食べずにはいられない.
 今日も今日とてスーパーへ食料の買い出しに出かけ,そら豆を一袋,買った.枝豆もついでに購入した.
 そら豆は,ほとんどの人が塩茹でにして食っていると思うし,私もそうなのであるが,もしかしたら旨い料理の仕方があるやも知れぬと思って,ネットを検索してみた.検索対象はいくつかのレシピサイト,食品会社サイトのレシピコーナーである.すると驚いたことに,料理以前の塩茹でにする段階で既に皆さんが好き勝手なことを主張していることがわかった.
 
 その好き勝手な主張を整理すると,(1) 下拵えで,皮のどこに包丁をいれるか,(2) 茹で時間は何分か,という二点に絞られる.
 まず (1) だが,皮に包丁を入れなくてよいとする主張は一件も見当たらなかった.まあこれは当然で,豆をさやから外した状態のまま茹でた場合,茹でている最中に中の空気が膨張するのだが,茹で終わって豆を鍋から取り出して室温に戻すと,中の空気が収縮する.その結果,皮にシワがよって見栄えが悪くなってしまうのだ.だから誰でも皮に包丁を入れる下拵えをするのである.
 
 では,豆のどのあたりに包丁を入れるといいのか.これには三つの方法がある.
 一つは,豆の黒いスジのところ.この部分は「お歯黒」呼ぶらしいが,なぜ「お歯黒」と呼ぶかは知られていないようだ.お歯黒をした口に見えることは確かなのだが,それじゃあ「そのまんま」で芸がない.何かないかと調べたが,そら豆と藁と炭がお伊勢参りをするという奇想天外な日本昔話があっただけである.
 
 話が横に逸れた.「お歯黒」に包丁を入れる (言わずもがなだが,これには包丁の「あご (顎)」を使う) のにはメリットが一つある.茹で上がっても豆の見た目がかわらないのだ.
 下の画像右は,実際に「お歯黒」に包丁を入れて茹でたものである.これで立派にシワは防止されているし,塩味もほんのりと着く.諸兄御存知のようにこの季節は,小料理屋さんで突き出しにそら豆が出ることがある.そのそら豆は,見た目はさやから出したままの姿だが,実は「お歯黒」に包丁が入れてあるのだ.諸兄も機会があったら確認して頂きたい.
   
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 上の画像左は,「お歯黒」の反対側に切り込みを入れて茹でたものである.包丁を入れた部分が大きく裂けている.なんかこう,股が裂けたズボンみたいである.これをジッと見ていると,青年は色んなことを考えるかも知れぬが,私は老境に達しているので何も思わない.
 それはそれとして,このやり方の一大メリットは,「お歯黒」のあたりを軽く指で押さえると,皮が裂けたところからツルンと中身が飛び出てくることだ.枝豆と一緒で,片手で食べられるのである.
 これはとても快適で,自分ちで茹でて食うなら見た目なんかはどうでもいいから,このやり方に限る.ちなみに,このやり方は「お歯黒」方式よりも少し強めに塩味が付くような気がする.
 
 三番目の仕方は,「お歯黒」とその反対側の,中間あたりに包丁を当てる.包丁を握り慣れない人には,このやり方が易しいかも知れないが,茹で上がりの見た目も特に良くないし,さりとて食べやすくもない.某食品会社のサイトで推奨されていたが,つまらぬことを考えるものだと思った.
 
 さて本題は,そら豆を茹でて,そのまま食うのもいいが,あと一手間の料理というのがあるか,という話だ.
 単なる試みだから聞き流して頂きたいが,「お歯黒」の反対側に切り込みを入れて茹で,中身を出したものを拵える.これをポリ袋に入れて,冷たい濃いめの出汁を注ぐ.これを冷蔵庫で暫く放置すると,冷たい煮びたしのようになる.煮びたしじゃないけどね.
 そら豆は,単に茹でて食うのもいいけれど,冷たい出汁で味付けするのもいいと思った.めんどくさくなければお勧めである.
 
 あ,茹で時間についての蘊蓄を書き忘れた.茹で時間について,二分きっちりでなければいけないとか書いている阿呆がいるが,茹で時間は,そら豆の熟し具合によって決まる.茹でながら様子を見て,茹で上がりを決めればいいだけである.臨機応変,これに尽きる.(了)

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2019年6月13日 (木)

同情できない

 江川資具という自称「ライター」が,ニュースサイト「ROCKET NEWS 24」に
Amazon’s Choiceの商品を購入したら「転売屋の罠」にかかった話 / 青いカレーこと『ネモフィラカレー』を買った後に問い合わせると…
と題した愚かな体験記を投稿 (寄稿?) していた.(2019/06/12 19:00)
 記事の内容は,Amazonを舞台にして不届きな商売をしている「転売屋」に騙されたという話だ.
 この男,Amazonの利用者にとっては常識になっていることを全くせずに騙されたのだから全く同情できないのだが,その体験記自体が愚かなので,同情以前の話になっている.
  
Amazon’s Choice
なんとなくAmazon’s Choiceになっている商品はイイモノという認識があるのは筆者だけではないだろう。でも冷静に考えれば、根拠や基準は不明。たとえAmazon’s Choiceでも油断してはいけないのだ……と今だからわかるが、この時の筆者は未熟だった。
完全にAmazon’s Choiceに安心しきって、これ以上のチェックをしなかったのである。店舗名が公式だし、Amazon’s Choiceだし? イケるっしょ? ポチッとな。
 
と書いているが,《Amazon’s Choiceになっている商品はイイモノという認識があるのは筆者だけではないだろう》などという認識を持っているのは,この男だけである.それから,《この時の筆者は未熟だった》は日本語として誤りである.「未熟」は継続的な状態であるから,「この時の」という時間指定は不可能なのである.

HPによると公園内のショップでは、レトルトのネモフィラカレーは550円で販売されているそう。Amazonのほうは筆者購入時において1398円。これは倍の価格で転売する転売ヤーにやられてしまったようだ 》に至っては常識がないとしか言いようがない.
 観光地の「ご当地カレー」に千円以上出す阿呆がどこにいる.相場は四百五十円~五百五十円なのだよ.というのは,土産物のレトルトカレーを専門に製造するメーカーがあって,観光地の販売業者はそこから仕入れるだけだから,必然的に常識的な価格帯ができるのだ.それは知らなくても仕方ないが,千円以上の価格なのは,有名レストランやホテルが委託製造で販売している贈答用のレトルトカレーだ.それとても所詮はレトルトカレーだから,千円の価値はないが.

転売という行為自体は違法ではない(2019年6月14日からチケット不正転売禁止法が施行されるので、これに引っかかる場合はNG)ので追求も何も無いのだが、店舗名で公式を語ってまで販売するとはなんという芸の細かさ 》を読めば,この自称ライターの頭の程度が知れる.「公式を語る」などと書く頭のレベルは,まるで義務教育を受けていないかのようだ.「かたる」は和語だから平仮名で書いて何の問題もないが,敢えて漢字を用いるならば「騙る」だ.こういう無教養男は,恰好つけずに平仮名で書けばよいのである.この手の自称ライターは自分が天下に恥をさらしていることを自覚していない.まるっきりおもしろくないYouTuberと同じ穴の貉である.

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2019年6月12日 (水)

祈る人 後白河院

 昨年,クラブツーリズム主催の講座「国宝」で講師の橋本麻里さんが,三十三間堂 (蓮華王院本堂) の諸仏について解説をされた.この講座の受講者はほぼ全員が高齢者だったのだが,橋本先生は「高齢者のかたは意外と,修学旅行で一度しか三十三間堂に行ったことがないようです.それはもったいないことですから,ぜひもう一度,千と一体の木造千手観音立像を拝観に行っていただきたいと思います」と話された.その講座が終わったあとの秋に,木造千手観音立像が国宝に指定される予定であることも.
 その時は「そうだなあ,京都に行くことはあっても三十三間堂はお詣りしないなあ」と思っただけだった.

 この四月にNHK『歴史秘話ヒストリア』のキャスターが渡邊佐和子さんに交代した.それ以後,あまりおもしろい内容の放送はなかったのだが,先日の《三十三間堂 国宝大移動 よみがえる平安の祈り》はなかなか興味深かった.番組内容は,主に放送時間の前半に,昨年夏に行われた二十八部衆立像と風神像および雷神像の配置変更について紹介した.後半では,三十三間堂と後白河院のことについてであった.
 
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 三十三間堂諸仏の配置については,Wikipedia【三十三間堂】に次のように書かれている.
 
木造二十八部衆立像
国宝。寄木造、彩色、玉眼。像高は最大の大梵天王が169.7センチ、最少の神母女(旧称・摩和羅女)が153.6センチ。『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされる。これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。やせ衰えた老人の肉体をリアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙(ばすせん)像は28体の中でもよく知られている。
 
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 NHKの取材に対する寺院側の説明によると,二十八部衆は千手観音の眷属であるが,その中でも大弁功徳天と婆藪仙は千手観音の脇侍であり,特別な地位にあるのだそうである.ただしこれは三十三間堂側の現在の見解であり,他の寺院では,天部の中では別格の地位にある梵天と帝釈天を配する例もある.実際に昨夏までは三十三間堂でも梵天と帝釈天を脇侍に配置していたのだから,急に掌を返されたのでは,他寺の立場はどうなるんだということになる w
 
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 三十三間堂側の見解では,仏教美術で,千手観音の足元左右に女性と老人が描かれているものがあり,これが大弁功徳天と婆藪仙だという.
 それはそれでいいのだが,番組のナレーションが,大弁功徳天は《音楽や芸能を司り,財を授けてくれる女神として広く信仰される弁天様です 》と言ったので,私は驚いて安楽椅子からヘナヘナと崩れ落ちた.しかしこれはお間違いのコンコンチキなのだ.
 大弁功徳天は功徳天に同じ.功徳天は別名を吉祥天 (吉祥天女とも) といい,元々はヒンドゥー教の女神であるラクシュミー(Lakṣmī)が仏教に取り入れられたものである.
 一方の弁財天は大弁財天ともいい,吉祥天と同様にヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教に取り込まれた呼び名である.
 この二天は,字面が似ていることから混同されるが,起源が異なる別の女神である.これについてはWikipedia【吉祥天】に《早くより帝釈天や大自在天などと共に仏教に取り入れられた。後には一般に弁才天と混同されることが多くなった 》と書かれている.「弁才天と混同」というよりは弁才天が,美と財宝の女神であった吉祥天の性格を取り込んで変容したらしい.そのため弁才天は弁財天とも書かれるようになった.さらに弁才天は,出自不明の蛇神である宇賀神と習合し,頭上に翁面蛇体の宇賀神を載せた奇怪な異形の神となった.その代表格が近江の竹生島弁才天である.一方で吉祥天は美女の代名詞として尊ばれた.代表的な像は,奈良・浄瑠璃寺の吉祥天女像である.
 下の画像は三十三間堂の大弁功徳天像であるが,どう見ても弁才天には見えない.今の高齢者の趣味として「仏像鑑賞」が定着した感があるが,お寺巡りのベテラン爺婆に訊ねてみれば,皆がこれは吉祥天だと答えるだろう.
 しかも,蓮華王院三十三間堂の公式サイトに次のように明記されているのだ.
 
【大弁功徳天像】
通常、吉祥天と呼ばれる施福の女神で、二十八部衆の婆数仙と共に千手観音の脇侍として必ず登場する一尊。
 
『歴史秘話ヒストリア』は痩せても枯れても歴史番組なんだから,NHKの制作スタッフはもっと勉強してもらいたい.勉強といっても簡単なことだ.取材させてもらった僧侶に「大弁功徳天って何ですか?」と訊けばいいだけである.さすれば「吉祥天の別称で…」と教えてくれたであろう.そこまで知恵が回らなかったら,帰ってから三十三間堂の公式サイトを閲覧すればよい (というより,これは取材先に対する礼儀であるなあ).それすらやる気がないなら,せめてWikipediaを読んでくれ.頼むからNHKにお金を払っている視聴者に嘘を教えてくれるな.
 
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 上に掲げた大弁功徳天と婆藪仙の二尊が,元々どの位置にあったかを示したのが下の図である.下の段に並べられていた大弁功徳天と婆藪仙は千手観音座像の脇侍として上段に移動した.
 この図で,二十八部衆像の左右両端にあるのが風神像 (左) と雷神像 (右) である.この二像も今回の移動で大きく位置が変わった.左右の配置を入れ替え,左に雷神像,右に風神像としたのである.
 
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 下の画像は,言わずと知れた俵屋宗達の風神雷神図 (建仁寺蔵;京都国立博物館に寄託) だ.Wikipedia【風神雷神図】には次のようにある.
 
風袋を両手にもつ風神、天鼓をめぐらした雷神の姿は、北野天神縁起絵巻(弘本系)巻六第三段「清涼殿落雷の場」の図様からの転用であるが、三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘される。
 
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 この日の放送では《三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘される》から一歩踏み込んで,宗達の風神雷神図は三十三間堂の風神像と雷神像を基にして描かれたとした.そして宗達の屏風絵では左に雷神,右に風神であることから,三十三間堂の両像は左右が入れ替わってしまっている,とした.ただし,この仮説の根拠についてナレーションは全く触れず,放送終了後にネットを探し回ったのだが,類似の説は見当たらなかった.仮にこの説が,ネット上に書かれている程の広く知られた説ではなく,高度の専門書に書かれていることであるならば,その説の提唱者が誰であるかを,番組は明らかにして放送すべきであった.それがない以上,これはNHKの「独自研究」としなければならないだろう.
 一方,風神像と雷神像の左右配置を入れ替えたことについての,三十三間堂側の説明は,この両像の「向き」が根拠であった.
 すなわち,昨夏以前の配置では,本尊千手観音座像と二十八部衆が構成する世界へ,風神と雷神が外部からやってきたという「向き」になっている.ところが風神像雷神像を入れ替えると,両像は本尊千手観音座像の足元から外部へ向かう形になる.つまり二十八部衆像と同一の世界観に組み入れられることになる.それ故に両像を入れ替えたという寺側の説明は,説得力があった.なるほど,と私は納得できたのである.従ってNHKは,俵屋宗達を持ち出す必要はなかったと思う. 
 
 さて,前半はボロボロだった番組の後半は,後白河院の千手観音信仰と,三十三間堂についてであった.Wikipedia【三十三間堂】から引用する.
 
この地には元々、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、現在の三十三間堂である。上皇が眠る法住寺陵は三十三間堂の東隣にある。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 残念ながら,これだけでは蓮華王院三十三間堂の何たるかは全くわからない.そもそも三十三間堂の公式サイトにしてからが,創建に関して,わずかに下のことしか記していないのだ.
 
久寿2年(1155)、第77代天皇として即位した後白河天皇は、わずか3年で二条天皇に位を譲って以後、上皇として「院政」を行いました。三十三間堂は、その御所に造営されましたが、80年後に焼失し、まもなく後嵯峨上皇によって再建されました。
 
 たったこれだけである.それでは法住寺殿はどうか.現在も法住寺という寺はある.しかしこの寺は,後白河院と全くの無関係ではないものの,ややこしい沿革を持っている.その話の始まりは平安時代中期の公家である藤原為光である.
 為光は第六十五代花山天皇に娘の忯子を入内させ,宮中で重きを為した.しかし永祚元年 (989年) に妻と忯子が急死してしまう.そこで為光は妻と忯子の菩提を弔うために法住寺を建立した.寺域は,南北は八条から七条の北に及び,東西は東山の裾から現在の京都国立博物館あたりまでの広い土地を占めていたようだ.ところがこの寺は,残念ながら長元五年 (1032年) に焼失してしまった.
 この跡地に離宮を造営して住んだのが後白河院である.後白河院はここで院政を行った.この御所は,かつて法住寺があったところであることから法住寺殿と呼ばれはしたが,為光が建てた法住寺は焼けて廃寺になったのであるから,法住寺と法住寺殿の間に直接の関係はない.
 後白河院は
 それどころか後白河院は,新たにこの地に,長寛二年 (1164年) 十二月十七日,千体の観音堂・蓮華王院を造営し,千手観音の信仰を深くしたのであった.
 後白河院はその後の永暦元年 (1160年) に,御所の鎮守社として比叡山の鎮守社である日吉社を勧請して新日吉社 (いまひえしゃ) とした.これについてはWikipedia【妙法院】の記述を下に引用する.
 
この新日吉社の初代別当(代表者、責任者)に任命されたのが妙法院の昌雲という僧であった。昌雲は御子左家(みこひだりけ)の藤原忠成の子であり、天台座主(天台宗最高の地位)を務めた快修の甥にあたる。昌雲は後白河上皇の護持僧であり、上皇からの信頼が篤かったという。妙法院の門主系譜では最澄を初代として、13代が快修、15代が後白河法皇(法名は行真)、16代が昌雲となっている。続く17代門主の実全(昌雲の弟子で甥でもある)も後に天台座主になっている。18代門主として尊性法親王(後高倉院皇子)が入寺してからは門跡寺院としての地位が確立し、近世末期に至るまで歴代門主の大部分が法親王(皇族で出家後に親王宣下を受けた者を指す)である。
 
 時代は遥かに下って豊臣秀吉の治世に,秀吉は自らの権勢を誇示すべく蓮華王院の北に方広寺と大仏殿を建立し,土塀を築いて新日吉社と三十三間堂を境内に取り込んだ.しかし豊臣家が滅ぶと,徳川幕府に積極的に協力した妙法院がこれらの寺院を支配した.近代になって方広寺と新日吉社は妙法院から独立したが,三十三間堂は現在も妙法院の所有である.余談だが,妙法院が徳川に与したというのは世を偽るためであり,実は豊臣家の再興を密かに図っていたとする説があり,調べていくと実におもしろいのであるが,そこを書いていくとキリがないので深入りしないが,Wikipedia【新日吉社】に僅かに記述があることを付記するに止める.
 ところで後白河院は没後,三十三間堂の東隣に祀られた.法住寺陵すなわち後白河天皇陵である.明治維新後,後白河天皇陵は宮内省の所管となったが,陵の域内にあった不動堂は大興徳院の寺号で独立した.宗派は天台宗であるが,浄土真宗ゆかりの仏像を所蔵している.
 昭和三十年に大興徳院は,藤原為光が建てた法住寺とも,後白河院が造営した法住寺殿とも無関係であるにも関わらず,法住寺に寺号を変えた.これについて「現在の法住寺」公式サイトには次のように,たった一行の説明がなされている.
 
昭和三十年、法住寺の名を止めるため大興徳院は法住寺と復称されることとなりました。
 
「法住寺の名を止めるため」は目的であって理由ではない.どのような理由で大興徳院の名を捨て,「法住寺の名を」復活させる必要があったのかは,示されていない.「法住寺」の方が何となく由緒正しい寺院のようだからか.(^^;)?
 
 以上,ネット上の資料を調べた限りでは,後白河院の生涯や三十三間堂の歴史についての資料はあるが,後白河院の千手観音信仰に関する資料は見つからなかった.大雑把に言えば「後白河院は三十三間堂を建てて千手観音を信仰した」と一言で言える程度のことしか書かれていなかったのである.もし資料があるとすればそれは,おそらく日本史研究者の論文レベルであり,私のような一般人には簡単には入手できないものだろうと思う.
 それでは歴史学的な見方から方向を変えて,後白河院の人物像の観点から,その信仰がどのようなものであったかを見てみよう.
 この日の放送では,二人の学者が後白河院について見解を述べられた.同志社大学名誉教授の竹居明男先生 (日本文化史) と元杉野服飾大学教授であり,梁塵秘抄の研究者である馬場光子先生 (日本歌謡文学) である.
 竹居先生は『年中行事絵巻』(平安後期の絵巻,六十余巻;後白河院の勅命で常盤光長らが宮中および民間の年中行事を描いたもの) を例に用いて,後白河院は庶民の暮らしに対する強い関心を持っていたと解説した.
 馬場先生は,梁塵秘抄に採録された今様の多くが庶民の生活を描いたものであったことから,やはり後白河院の庶民に対する強い関心を指摘した.その馬場先生の指摘の中で興味深かったのは,作者不詳とされている今様の一つを後白河院の作であるとしたことだ.
 その今様とは,梁塵秘抄の中で最も有名な下の歌である.
 
遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそゆるがるれ

 この歌は,小西甚一著『梁塵秘抄考』(三省堂,昭和十六年) 以来,いくつかの異なる解釈が為されてきた.
 余談だが,昔から文章中でこの書物の著者を呼ぶ時は,小西甚一先生でも小西甚一教授でもなく,特別な尊敬を込めて小西甚一博士とされてきた.昭和四十年代に大学受験勉強に励んだ高齢者諸兄は,小西甚一博士の『古文研究法』をご記憶であろう.大学受験参考書でありながら,一般向け書籍としても読み継がれ,とうとう文庫化された.後にも先にも文庫に入った受験参考書はこの一冊だけである.
 閑話休題
 小西博士はこの歌の作者を遊女であるとした.「遊び」や「戯れ」は遊女の生業を指す.そして博士は「平生罪業深い生活を送ってゐる遊女が、みつからの沈淪に対しての身をゆるがす晦恨をうたったものであらう」と解釈した.私はこんなことをして生きるために生まれてきたのでしょうか.遊女は我が身の取り返しのつかない転落をそう嘆いたのである.
 私たちの世代の人間は,「遊びをせんとや生まれけむ…」を小西博士の解釈によって理解した.たぶんそれ以外の解釈は受験参考書にも註釈書にも書かれていなかったと思う.
 ところがいつの間にか,この今様は全く違う意味に解されるようになった.私がそれを知ったのはWikipedia【梁塵秘抄】を読んだときだから,Wikipedia発足以後のことで,そう古い話ではない.違う意味とは,この歌は童心を歌ったものだとする解釈のことである.
 すなわちこの歌謡をWikipedia【梁塵秘抄】は,
 
『梁塵秘抄』と言えば、
遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。
舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん。
のような童心の歌が有名であり、…》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
と記述し,「童心の歌」だとしている.つまり「遊びをせんとや生まれけむ」を推量の意味に解している.この解釈の立場に立って私が現代語訳すれば次のようになる.
 
「きっと子供というものは遊び戯れるために生まれてくるのであろうよ.遊んでいる子供たちの声を聞くと,その子たちの声に釣られて私の体までがつい動いてしまう」
 
 ところが,もう十年以上前に亡くなったミュージシャンの桃山晴衣が残したCD『遊びをせんとや生まれけん 梁塵秘抄の世界』に付けられた解説によると,現代語訳は次のようである.
 
遊び戯れようとしてこの世に生まれて来たのだろうか。遊ぶ子どもの声を聞くと、自分の体までが自然に動き出すようだよ。
 
 この現代語訳は,いかにも中途半端である.これでは前半部が,子供が遊ぶことの意義に疑問を呈する形になっているが,後半部では一転して子供の遊びの楽しさを肯定している.どっちなんだと言いたくなる非論理的な訳文だ.高校生の試験答案ならこの程度の意味の通らぬ逐語訳でも構わぬが,こんな「現代語訳」の付いたCDを売って人様からお金を頂戴してはいけない.この今様を童心を詠んだ歌に解釈したいならば,「遊びをせんとや生まれけむ」を,はっきりと推量であることがわかるように訳さねばいけないのである.
 実はこの桃山晴衣の訳文と同工異曲の「現代語訳」を,同志社大学文学部の植木朝子教授が著書に載せている (『梁塵秘抄 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』,角川ソフィア文庫等々).この程度で中世歌謡の専門家を名乗れるのだからお気楽ではある.
 ついでに言うと,桃山晴衣はCDのタイトルを『…生まれけん』としているが,原文の「…生まれけむ」を書き換えた意図が皆目わからない.私はこのCDを持っていないが,Amazonのユーザーレビューにも否定的評価が一件あるけれど,その通りであり,梁塵秘抄に敬意を払って作った作品ではないと思う.
 
 さて仏文学者の鹿島茂氏が立ち上げた書評サイト“ALL REVIEWS”に,俵万智さんが書いた『梁塵秘抄』(筑摩書房) の書評が再録されている.(初出は『本をよむ日曜日』,河出書房新社)
 その中から一部を下に引用する.
 
遊びをせんとや生れけむ
 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声聞けば
 わが身さへこそゆるがるれ

 好きな歌はと聞かれれば、まず第一にこれである。『梁塵秘抄』の歌は、どれもしらっと冷めた感じと、きゅっとせつない感じが融けあっていて、そこに惹かれる。
「しらっ」と「きゅっ」が、一番深く胸に迫ってくるのが、この歌だ。
遊びをしようとこの世に生まれてきたのだろうか――という問いかけには、何のために生まれてきたのかわからない、という純粋な疑問と、いいやそうじゃないはずだ、という複雑な反語とが、微妙に混ざっている。
そして遊んでいる子供の声を聞くと、なおその思いが深く胸を去来する。追いかけっこをしたり、勝ち負けを争ったり、歌をうたったり……子供の遊んでいる姿を見ていると、人生とは結局この繰り返しなのではないか、と思われてくる。
――正確な解釈ではないかもしれないがこんなふうに私はこの歌を受けとめてきた。「遊び」という言葉の持つ広がりや、時代的な背景を考えると、少し違うのかもしれないけれど。
 
 俵万智さん自ら《少し違うのかも知れないけれど 》と書いているように,この歌の解釈には難しいところがある.まず第一に「や」と「けむ」の係り結びを,推量とするか,疑問もしくは反語と解するかによって解釈が変わるのだが,俵万智さんは後者の,疑問と反語が混じった心境だとしている.次に,文法的な点だけなら,俵万智さんの解釈は小西甚一博士の見解と同じであるが,この歌を詠み歌ったのは誰かという観点によって,歌の解釈がまた異なってくるのである.
 俵万智さんは遠慮がちに《「遊び」という言葉の持つ広がりや、時代的な背景をかんがえると、少し違うのかも知れないけれど》と書いているが,明らかにこれは,古くから小西甚一博士の解釈が行われてきたことを踏まえている.そしてしかし,小西解釈の遊女とは異なった作者像を,つまり近代知識人層に近い精神性の人物を,俵さんはこの歌から感じ取っているのだ.桃山晴衣や植木朝子教授あたりにはわからぬだろうが,これは歌人の感性というものだろう.
 そして俵万智さんとほぼ同じことを指摘したのが,番組に今様研究者として出演した馬場光子先生である.ただし馬場先生は,俵万智さんの解釈を一歩進めて,作者不詳とされる「遊びをせんとや生まれけむ…」の作者は後白河院その人であろうとした.
 馬場先生と歴史学者の竹居先生によれば,後白河院は庶民の暮らしぶりに強い関心を寄せて,御所を出て唐車の窓から市井の人々の暮らしを見て回ったと言う.その時,後白河院が見たものは何であったか.新興武士階級が争う戦乱の世の底辺で苦しむ庶民の姿であったと番組ナレーションは語った.それが後白河院を千手観音信仰に向かわせたのであると.
 飢えて死を待つ底辺の人々にとって,帝の政など何の意味もない.児戯に等しい.そんな現実を目の当たりにして後白河院は,自らが生まれてきた意味を自問するしかなかった.それが今様「遊びをせんとや生まれけむ…」であったというのが番組の語ったところである.
 観音は一切の衆生に救いの手を差し伸べる菩薩である.この国の庶民の信仰は観音信仰であった.すなわち後白河院が三十三間堂に千体仏を祀って祈ったのは,自分ではなく民草の救済に他ならない.そう考える馬場先生の意見に私は納得したのである.
 ちなみに,「遊びをせんとや生まれけむ…」は遊女の作ではなく,教養人であろうとの見解を述べている資料があるので下に一部を引用して紹介しておく.(了)
 
梨塵秘抄の歌一首とその作者推論
  鈴木一男(奈良教育大学名誉教授)
 
遊びをせんとや生まれけむ戯れせんとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けばわが身さへこそゆるがるれ
 この歌について、小西甚一博士が『梁塵秘抄考』で「平生罪業深い生活を送ってゐる遊女が、みつからの沈論に対しての身をゆるがす晦恨をうたったものであらう」と述べられたが、今日の注釈書類では、無心に遊ぶ児童の天真瀾漫の声を聞いての感懐としている。
 筆者はこの歌の用語から歌の作者を仏典に親しんでいる階級層、僧侶またはそれに近い教養をもった知識人ではあるまいかと想像している。以下その根拠となる点を述べてみることにする。
(中略)
 筆者はこの点に注目して、この歌謡の作者は、仏典の「為」字をもつ疑問文の形式と同一発想の上でこの歌謡を作ったと推定したく思う。そうすると既述の「遊戯」の背景に仏典を予想することと相まって、いよいよ遊女の感慨を述べたとみる説を否定し、僧侶または、仏徒の誰かの作と認めたいような気がしてならないのである。

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2019年6月10日 (月)

ザゼンソウ補遺 あるいは弱者の戦い

 日本のザゼンソウ群生地の一覧を再掲する.
 
日本のザゼンソウ群落
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栃木県 大田原ザゼン草群生地      2月中旬~3月中旬 (?)
群馬県 菖蒲沢&針山群生地       4月上旬~下旬
群馬県 赤城山中腹           2月中旬~3月下旬
群馬県 草津ザゼンソウ公園       3月上旬~4月下旬
新潟県 原虫野のザゼンソウ       4月上旬~4月下旬
長野県 白馬ざぜん草園         3月下旬~5月上旬
長野県 落倉自然園           4月下旬~5月中旬
長野県 宮の森自然園          3月下旬~4月中旬
長野県 居谷里湿原           3月下旬~4月下旬
長野県 鷹山湿原ザゼンソウ群落     3月下旬~4月上旬
長野県 和田峠・湿原歩道        4月中旬~5月上旬
長野県 有賀峠「ザゼンソウの里公園」  3月下旬~4月中旬
長野県 阿智村寺尾座禅草群生地     3月下旬~4月下旬
長野県 伍和原の平禅草群生地      3月上旬~4月上旬
山梨県 竹森のザゼンソウ群       2月中旬~3月下旬
滋賀県 今津広川座禅草群落       2月下旬から3月
兵庫県 ハチ北高原           3月下旬~4月下旬
芦津渓谷                絶滅危惧状態

 日本のザゼンソウ群生地は,滋賀県を南限としてそれ以北にある.北限はどうか.北海道森林管理局のサイトにザゼンソウが一株,咲いている写真が掲載されている.撮影時期は2012年4月27日,撮影地は石狩地方と推察される.このように,ザゼンソウは北海道にも存在しているのだが,群生地という規模には繁殖していないと思われる.
 植物にとって,寒冷な地域は温暖な地域よりも厳しい環境であると断定してよかろう.なぜなら,あらゆる高等生物の生命維持はその細胞内の酵素反応によって行われているからである.酵素には至適温度 (Wikipedia【酵素】から引用《最適pHと同様に、酵素の活動がもっとも激しくなる温度が存在する。これを最適温度(optimal temperature)という。至適温度ともいう。ヒトの酵素の場合、通常は生理的温度である35℃から40℃付近とされる。》) があり,それ以下の温度では活性が低下する (高温では失活する).啓蟄という言葉も,毎年の春,桜前線に象徴される「花の便り」が北上するのも,まさにこのことを示している.
 ではなぜザゼンソウは,厳しい環境である寒冷地や標高の高い土地に群生地があるのだろう.繁殖地に南限があるということは,細胞の活動が不活発なところで繁殖することを意味している.すなわちザゼンソウ (だけでなく厳しい環境で繁殖する多くの植物) の性質は,植物本来の生命活動とは逆の方向を向いている.つまり,生命全体に押し広げていいかどうか私は知らないが,植物について言えば,必ずしも繁殖に良い環境で繁殖しているわけではないのだ.土壌や日照や大気温などはいわばインフラだが,それ以外の条件がある.それは競争と競争に勝つ戦略である.
 こういう分野の話について,一般向けに解説してくれる本はないかと探したら,静岡大学農学研究科の稲垣栄洋教授の著書に,植物の競争と競争戦略について論じた書物があった.
 『たたかう植物 ──仁義なき生存戦略』 (ちくま新書)
 『雑草はなぜそこに生えているのか』 (ちくまプリマー新書)
 『弱者の戦略』 (新潮選書)
等である.
 稲垣先生の論法には,生物の競争に関する考察を人間社会のことに外挿してしまうなど,いささか大胆すぎる記述が見られることと,進化を,結果ではなく合目的な変化であるかのように書いてしまっているところがある (もちろん一般人に理解しやすくするためだろう) ので,読む際には注意が必要だが,色々な生物,特に植物の競争について実例を挙げているところが,わかりやすくてよい.
 注意が必要なのは,もう一つは専門用語の問題.稲垣教授の本には,定義のはっきりしない用語が出てくる.
 例えば『たたかう植物 ──仁義なき生存戦略』には次のような記述がある.
 
ジョン・フィリップ・グライムは、植物の成功戦略を三つに分類した。それがCSR戦略と呼ばれるもので、植物の成功戦略には、C、S、Rという三つの戦略があるというものである。》(Kindle版の位置No.285)
 
 まず,書名に含まれている「生存戦略」は,実は生物学で用いられる言葉である.Wikipedia【戦略】に以下のように書かれている.

生物学における戦略
 生物学の分野、特に生態学の個体群生態学や行動生態学の分野では「個々の生物種あるいは個体が複数の行動を取りうるときに、それぞれの行動や行動の組み合わせ」を戦略と呼び、以下のように用いる:
 生存戦略
 繁殖戦略
 繁殖戦略の中の小卵多産戦略
 捕食行動における待ち伏せ戦略
 個体群増加に関するr-K戦略
 最適戦略
 生活史戦略
 生物学における「戦略」は生物自身の意思や自主性を含意しない。つまり意図的にその生物が特定の戦略をとっているのではなく(そのような場合もあるかもしれないが)「そのような行動を促す遺伝子が自然選択によって広まる(広まった)」という意味で用いられている点に注意が必要である。》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 その一方で,《ジョン・フィリップ・グライムは、…》に出てくる「成功戦略」はビジネス界でよく用いられる用語であるが,植物学ではあまり用いられない.なぜかというと,「生存戦略」の意味は明確だが,植物にとっての「成功」が何を意味するかはっきりしないからだ.実際,「成功戦略 × 植物」でネット検索すると,稲垣教授の著書関連の資料が上位にヒットする.つまり「(植物の)成功戦略」は,おそらく稲垣教授が植物の戦略を説明する際に,ビジネス用語を援用して定義なしに用いている言葉である.
 このように稲垣教授の著作には,読者の誤解を招きかねない比喩 (植物の競争を人間社会の競争に喩えている) が多々あるのだが,それを指摘した上で,以下に引用する.
 
弱い植物が、強い植物に勝てる条件というのは、どのようなものなのだろうか。
 野球やサッカー、テニスなどのスポーツの試合を考えてみるとわかりやすいが、条件が良い場合には、番狂わせは起こりにくい。恵まれた好条件であれば、誰もが実力を出すことができる。そして、実力どおりの結果になるから、実力のない弱者には勝つ見込みがないということになる。
 逆に、条件が悪かったとしたら、どうだろう。雨が土砂降りで、強風も拭いている。けっして良いコンディションとはいえない。こんな環境で勝負をするのは、誰だっていやである。しかし、番狂わせが起きるとすれば、得てして条件が悪いときだ。
 そもそも、実力のあるチャンピオンは、わざわざそんな実力も出せないような条件の悪いところでゲームはしたくないと思うだろう。そうなれば、実力のない弱者が不戦勝である。
 そこで、弱い植物は、自ら強い植物が力を発揮できないような悪条件を選んで生えている。それが、S戦略とR戦略の植物である。
 S戦略は、「ストレス・トレランス(ストレス耐性型)」と呼ばれる。植物にとってのストレスとは生育に対する不良な環境のことである。たとえば、水が不足したり、光が不足したり、温度が低いことなどは、植物にとってストレスとなる。このような環境では、競争に強い植物が勝つとは限らない。とても競争をしている余裕などないのだ。このようなストレス環境に耐える力を持ち、過酷な環境を棲みかとしているのがS戦略の植物なのである。
 たとえば、水の少ない砂漠に生きるサボテンや、氷雪に耐える高山植物は、S戦略の典型である》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
氷雪に耐える高山植物は、S戦略の典型である 》は,「C-S-R三角形」仮説 (稲垣教授はこの仮説を「CSR戦略」と呼んでいるが,それは一般的ではなかろう) の立場からすれば,そういう解釈になる.そして《実力のあるチャンピオンは、わざわざそんな実力も出せないような条件の悪いところでゲームはしたくないと思うだろう 》は妥当な比喩であることになってしまう。
 だが,そうだろうか.“「強い植物」は条件の悪いところでゲームをしたくない”から悪環境では生えないのだろうか.この理屈は,「強い植物」はどこでも強いという前提に立っている.しかしそうではなくて,稲垣教授が言うところの「強い植物」でも,自分にとって条件の悪いところにおいては単に「弱い植物」に過ぎないから生えないとする方が自然ではないか.
 どの植物も「自分が他の植物よりも強い環境」で生えている,とする考え方がある.「棲み分け」とか「競争排除」と呼ばれる考え方である.Wikipedia【ニッチ】から下に引用する.

棲み分け
生物を見れば、同じ場所で同じものを食べているように見えても、種類が違えば何かしら違ったやり方で食べたり、時間をずらしたりして、互いの活動が完全にぶつからないようになっていることが多い。これは、一見同じニッチに見えても、それぞれ少し異なるニッチを占めていると見ることができる。
同じようなニッチを占める2種が、少し場所をずらせることで共存する場合がある。たとえば、渓流釣りの対象となる魚であるヤマメとイワナはいずれも上流域に生息するが、イワナの方がやや冷水を好む。それぞれが単独で生息する川ではどちらの魚も上流域を占有するが、両者が生息する川では混在することなく、最上流域をイワナが、そして上流域のある地点を境に、それより下流をヤマメが占有する。
このように、活動範囲を分けることで2種が共存することを棲み分けという。
生態学者の今西錦司は、河川の水生昆虫の分布からこのような生物種間で生息域をずらせる現象を指摘して棲み分けと呼び、独自の棲み分け理論を展開した。

競争排除
棲み分けは微小な環境差を使い分けることで2種が共存する仕組みであるが、共存するためにはそのような環境の差が存在する必要があるとも見える。逆に、共存しているよく似た2種は、環境に対する要求に何らかの差を持っているはずだとも言える。
一般に同じ資源(餌や営巣のための場所など)を必要とする生物同士は、一か所に長期間共存することはできないと言われる。1つのニッチを複数の種が共有することはできないため、その環境によって適応した種が生存し、環境への適応という点で劣る種は排除されてゆく。この過程ないし現象を競争排除といい、競争排除が起こるメカニズムのことを競争排除則(ガウゼの法則)という。
 
 ザゼンソウの繁殖地に南限があるのは,緯度がそこよりも低いところでは,ザゼンソウの開花期には他の植物も活動を活発にしていて,ザゼンソウは生存あるいは繁殖に必要な資源の獲得競争に勝てないからである.
 寒冷地の冬の終わりにザゼンソウが群生して開花するのは,気温が低すぎて資源の獲得競争に他の植物が参加できないからだろう.
 同じ湿地帯に生えるザゼンソウとミズバショウについて考えると,この二つは長い年月をかけて,開花期を少しずらすことで競争排除を回避したのであると私には思われる.逆に言うと,ミズバショウと開花期が重なるバリエーションのザゼンソウは滅んだのだ.
 
 尾瀬一帯でザゼンソウがレアな植物であるのは,ザゼンソウにとって不幸なことに,尾瀬では五月の前半も深い積雪が残っているからである.五月後半に雪が解け始めると,ミズバショウの開花が始まる.本来の開花期に出遅れたザゼンソウは,昆虫などの資源をミズバショウと争わねばならないが,ミズバショウの大群落にはとても勝てない.雪解けの尾瀬では,そのような現象が起きているのだと思われる.
 私が少年期に,尾瀬でザゼンソウの花を見ることができなかったのは,今にして思えば上のようなことがあったからだろう.あれから五十年後に,ようやく納得できたように思う.(了)

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2019年6月 2日 (日)

曲学阿世の売国奴

 まず次の日本医事新報社の記事から引用する.

《NEWS 【高血圧治療ガイドライン2019公表】成人の降圧目標を130/80mmHg未満に引下げ

 詳細はこの新聞記事に譲るとして,注目すべきは,次の記述である.

19日の会見で、JSH2019作成委員会の平和伸仁事務局長は、降圧目標を変更した理由について、「厳格治療と通常治療を比較すると、厳格な降圧により心血管イベントを抑制することができる」と述べ、エビデンスに基づいた変更であることを説明した。また、「生活習慣の修正が治療の基本」と強調。例えば、リスク層別化により低・中等リスクに分類された患者が降圧薬治療で140/90mmHg未満になった場合には、生活習慣の修正を強化して130/80mmHg未満を目指すなどとした。
一方で平和氏は、降圧目標の変更により、新たに450万人が降圧薬治療の対象になるとの試算を紹介。》(文字の着色は,このブログの筆者が行った)
 
 これはつまり,例えば収縮期血圧が137mmHgくらいであるので降圧剤を服用せずにいた四百五十万人もの国民が,唐突に医師から「あなたは高血圧ではありませんが,降圧剤を出しますので飲んでください」と言われることを意味している.
 高血圧ではないが降圧剤を飲まなければいけない,と高血圧学会は主張する.私たち国民には理由がわからない.降圧剤治療は,高血圧患者に対して行われるものではないのか.
 そしてこれがどれだけ巨額な医療費の増大をもたらすか.公的医療保険制度を揺るがす,まさに国難ともいうべきこの事態に際して,テレビ各局のニュースは一斉にこの高血圧学会の新治療ガイドラインを報道した.
 
 翻って,日本高血圧学会とは何者なのか.一体全体何の権限があって,高血圧治療の方法を決定できるのか.医療費の抑制は国策であるが,なぜ日本高血圧学会は,その国策を無視できるのか.その権力の源泉が国民の目に見えない.
 社会問題化したから私たちは記憶しているが,ディオバン事件という医学界の不祥事があった.Wikipedia【ディオバン事件】から下に引用する.
 
ディオバン事件(ディオバンじけん)とは、高血圧の治療薬であるディオバン(一般名:バルサルタン)の医師主導臨床研究にノバルティス日本法人のノバルティスファーマ社の社員が統計解析者として関与した利益相反問題(COI: Confilict of Interest)、および、臨床研究の結果を発表した論文のデータに問題があったとして一連の論文が撤回された事件を指す。
ディオバンの日本での臨床研究には、5つの大学(京都府立医科大学・東京慈恵会医科大学・滋賀医科大学・千葉大学・名古屋大学)が関わり、それぞれ、Kyoto Heart Study、Jikei Heart Study、SMART (the Shiga Microalbuminuria Reduction Trial)、VART (The Valsartan Amlodipine Randomized Trial)、Nagoya Heart Studyを実施し、論文を発表した。しかし2018年8月にNagoya Heart Study論文が撤回され、上記の5論文のすべてが撤回(retraction)される異常事態となった。
不正発覚までディオバンは日本国内で年間1000億円超を売り上げていたため、不正論文により年間200億円の損害が国民と患者に生じたとする試算もなされている。》(文字の着色は,このブログの筆者が行った)
 
 どうであろうか.自然科学系の諸学問分野で,企業利益のために論文が捏造されるのは,私の知る限り医学・薬学分野だけである.そして医師や薬剤の研究者が論文を捏造するのは,言うまでもなく彼ら自身に企業利益の分け前が配られるからである.
 上記のディオバン事件に関して日本高血圧学会はどのような態度をとったか.同じくWikipediaから引用する.
 
《2013年5月13日に、日本高血圧学会は臨床試験に関わる第三者委員会報告書を公表した。
 2013年7月18日に、学会公式ホームページ上で、「最近の報道と関連して高血圧治療について」と題して、高血圧治療に関する考え方を公表した。
 2013年8月1日に、学会公式ホームページ上で、「バルサルタン(ディオバン(R))を用いた臨床研究に関する報道と高血圧治療について」と題して、Jikei Heart Studyの論文不正問題に関する見解を公表した。学会側は「ディオバン用いた治療は担当医師と相談して適切に継続すべきだ」としたが、武蔵国分寺公園クリニックの名郷直樹院長は産経新聞にて、"この学会の見解では患者の疑問に回答しようとしておらず、ディオバンを飲ませ続けることだけに腐心しているように受取られかねない"との趣旨で批判した。》(文字の着色は,このブログの筆者が行った)
《日本高血圧学会でも検証がなされていたが、第三者委員会(同学会顧問弁護士 平井昭光, 京都大学臨床研究管理学教授 川上浩司, 日本高血圧学会理事で名古屋市立大心臓・腎高血圧内科学教授 木村玄次郎,大阪大学臨床遺伝子治療学教授 森下竜一)と日本高血圧学会理事長の堀内正嗣はVART Studyに不正は無いと擁護していた。》(文字の着色は,このブログの筆者が行った)
 
 結局この事件では,厚労省がノバルティスファーマを薬事法違反の疑いで東京地方検察庁に告発し,東京地方検察庁はノバルティス元社員の男を薬事法違反として逮捕したが,東京地裁は,論文捏造の事実関係を認めた上で,薬事法違反には当たらないとする無罪判決をした.ディオバンの臨床試験結果は捏造であるが,薬事法違反ではないとしたのである.国民の健康に関する臨床試験データが捏造されたのに,どうして法違反ではないのか,私たち国民には理由がわからない.東京地裁の「データは嘘だが法違反ではない」は,非論理性であることにおいて「高血圧ではないが降圧剤を飲みなさい」と似ている.w
 
 このように私利私欲のために医学研究が歪められるのは,特に生理検査の基準値に関してであろう.数値がほんの少し変わるだけで,巨額の企業利益がもたらされるからである.以前は週刊ポスト誌が日本高血圧学会を批判する記事をしばしば掲載したが,現在はどうなのだろうか.今回の「高血圧ではないが降圧剤を飲みなさい」という治療指針が策定されるに際して,高血圧学会幹部の所属研究室に製薬会社から資金が流れた形跡はないのかどうか.私は,収縮期血圧が130mmHgを超える高齢者の一人として,週刊誌に事実関係の調査報道を期待している.
 さて一昨日,掛かりつけの医院で定期的に受けている診察のあと,降圧目標が下げられたことについて医師と話をした.
 私の掛かりつけ医は「あれは数字をいじって言葉遊びをしているんです」「あまり惑わされないほうがいいと思いますよ」と語った.
 学会のボスたちは曲学阿世の徒であるが,市井の内科医たちは健全なのである.私は安心した.

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2019年5月31日 (金)

まさかのお一人様ディズニー

 爺さん婆さんたちも,昔は若かった.子育ての時期,例えば上の子が中学校で下の子が小学校だなんて頃に,東京ディズニーランドに子供たちを連れて行った思い出のある人は多かろう.

 それが次第に,子供たちは学校の友達と遊びに行くようになり,私たちはTDRと縁遠くなった.
 今の若い人たちにとってミッキーマウスはキティちゃんと同じ着ぐるみジャンルのキャラではないかと思うが,私たち爺婆には両者は全く異なるものだ.ミッキーマウスは映画スターだったのだ.
 私たち団塊の年寄りが初めてミッキーを知ったのはアニメーション映画作品『ファンタジア』だと思う.日本公開は1955年だから,1950年生まれの私は観ていないが,それからずっと後に,日本テレビの高視聴率番組『ディズニーランド』で,太っ腹なスポンサーの三菱電機が『ファンタジア』のダイジェストを放送したのを観た.もちろんこの番組では,初期のモノクロ短編アニメのミッキー映画を何度も再放送した.しかしそれは「ギャグで笑いをとる」タイプのアニメであり,「それを観た少年が爺さんになっても内容を覚えている」といった質の高いアニメではなかった.
 Wikipedia【ファンタジア】に次のように書かれている.
 
製作過程
ウォルト・ディズニーは一連のミッキーマウス映画を製作しつつ、ミッキー映画と全く正反対の、芸術性の高い作品を製作することを願っていた。その手始めとしてSilly Symphony(シリー・シンフォニー)シリーズが誕生した。しかし、ウォルトはこれにも満足せず、さらに自身初の大作「白雪姫」を1937年に世に問うたことにより、かねてから願っていた「芸術性の高い映画」の目標を、完成度が高かった「白雪姫」よりもさらに高いものにすることに決めた。そこで、ウォルトはSilly Symphonyの方向性を多少は維持しながらもより物語性のある音楽作品を作ることにして、その筆頭候補として「魔法使いの弟子」を題材として取り上げることにした。さらにウォルトは、権威付けを狙って著名な指揮者の起用を考え、レオポルド・ストコフスキーを指名した。レストランで意気投合した後、1937年頃から製作を開始した。
 
 ウォルトの意図は果たされた.短編アニメに出てくる真っ黒なネズミではないミッキーを初めて見た日本の子供たちは,『ファンタジア』のミッキーが夢と魔法の国の主人公であることを知ったのである.
 ミッキーマウスの他にもう一人,子供たちをわくわくさせたのは,不定期に放送されたテレビ映画『トム・ソーヤーの冒険』シリーズだった.
 現在,Wikipedia を始め,ネット上を隈なく探しても,このディズニー版『トム・ソーヤーの冒険』に関する資料は見つからない.しかし,このテレビ映画があったればこそ,米国と東京のディズニーランドに「トム・ソーヤ島」が作られたのである.カリフォルニアの元祖ディズニーランドのものはウォルト・ディズニー自身が設計に携わったとされ,おそらくウォルトには,世界中の子供たちに人気のあったマーク・トウェインの原作に対する,自分自身の思い入れがあったのだろうと思われる.
 だが今や,テレビ映画『トム・ソーヤーの冒険』を記憶しているのは高齢者世代だけになった.だから元祖ディズニーランドの「島」は改装されてしまったし,パリのディズニーランドには元から「トム・ソーヤ島」がない.
 私の子どもたちが幼かった三十年近く前から,彼らが成長するまで,我が家では何度も東京ディズニーランドに出かけたが,子供たちと妻がアトラクションを楽しんでいる時に,私はウエスタンランドで少年時代の追憶に浸るのが好きだった.
「モノより思い出」と言ったのは誰であったか.確かに人生の終末期になって,何が大切かといったら,誰にとっても子供時代の思い出が一番だろう.私は,自分自身の少年時代と,私の子どもが小さかった頃のことを思い出したりしているうちに,ウエスタンランドで一日を過ごしてみたくなった.いわゆる「まさかの一人ディズニー」をしてみようと思ったのである.
 ディズニー好きな若者のブログ情報にあたってみると,宿泊は東京ベイ舞浜ホテルクラブリゾートが一人客が多いので,一人ディズニーにオヌヌメなんぞと書いてある.そこでJTBの特設コーナーで宿泊プランを探してみた.すると,スタンダードの部屋一室に大人一人で泊まると四万円~,デラックスなら五万円~だとのこと.若者よ,君たちは結構リッチだなあ.でも一室大人二人宿泊の場合は,一人当たりの宿泊料金はその半額だから,まあリゾートとしてはそこそこリーズナブルだといっていいだろう.つまり東京ベイ舞浜ホテルは,そもそも「まさかの一人ディズニー」は想定していないんじゃなかろうか.
 私ゃよく知らぬが,旅行代理店によって得意な宿泊施設が異なるのではないか.私はいつもは楽天トラベルで予約していて,これまで不満を感じたことはなかったが,今回は楽天トラベルには希望する条件の宿泊プランは見つからず,JTBのサイトで比較的リーズナブルなプランを見つけた.最初の希望日は,天気予報を調べたりしてオタオタしているうちに売り切れてしまったが,第二希望日は予約がとれた.
 というわけで,まさかの一人ティズニーを決行する.w 一日目はランド,二日目はシーで遊び,そのレポートは来週にでも書くつもりである.

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2019年5月21日 (火)

ザゼンソウ (八)

 話をザゼンソウに戻す.
 昨日の記事《薔薇ノ花》に私は次のように書いた.(空白行と画像および一部文章を省略)

私たちの国は,四季折々に咲く花に恵まれた.花が咲くのは日常普段のことだから,何が咲いて何が散ったか,気もつかぬうちに四季は過ぎていく.
 北原白秋の大正三年の詩集『白金之独楽』(金尾文淵堂) に「薔薇二曲」がある.(中略)
一 薔薇ノ木ニ
  薔薇ノ花サク。
  ナニゴトノ不思議ナケレド。
二 薔薇ノ花。
  ナニゴトノ不思議ナケレド。
  照リ極マレバ木ヨリコボルル。
  光リコボルル。
 字面だけなら,薔薇の木に薔薇の花が咲くのは当たり前なのだけれど,「ナニゴトノ不思議ナケレド」は,薔薇の花を見た白秋の感動を表現している.何の不思議はないけれど私の心は打ち震えた,と言っているのだ.
 それに,この部分は「薔薇ノ木ニ」がなくても成立する.「薔薇ノ花サク。」だけで白秋の感動は読み手に伝わる.それは,季節巡りて,咲くべき時に花が咲く自然の営みに心驚く詩人の感性である.
 そのことは,第二連に繋がる.時が来れば花は咲き,そして時過ぎれば花は散るのだと詩人は歌ったのである.
 
 季節巡りて,咲くべき時に花が咲く自然の営み.現代の植物生理学の教科書は,花芽の形成に関わる遺伝子や,ホルモンなど細胞内の機序については語ってくれるが,では春夏秋冬それぞれの季節に,それぞれの花が咲くのはなぜなのかは教えてくれない.その秘密は依然として,詩人の言葉のうちにある.
 さて花が咲くことを開花というが,学問的には植物が花芽を付け,花芽が生長して蕾となり,そして私たちの目に見える形で花が開くまでの過程を開花と呼ぶ.花芽は,いずれ花となる芽のことであるが,これは三つの遺伝子の働きによって,葉となる芽から分化したものだ.花芽を構成する苞,萼片,花弁,雄蘂,雌蘂,心皮を花葉と云う.外側から順に葉の性質を失い,それぞれの花に特徴ある形態と機能を発現するようになる.
 園芸植物は元の野生植物から人為的に様々なものが作出されるので,開花の季節も様々であるが,野生植物の多くは特定の季節に花を咲かせる.これは多くの場合,花芽の形成が日長や温度によって決定されるからだ.これは確かめられた事実である.
 それでは,特定の季節に花を咲かせるための花芽が形成されるのはいつ頃か.これについては植物生理学者から園芸家に到る諸分野の人々によって,矛盾した様々な情報がネット上に記載されており,どれが本当なのか私たちにはよく理解できない状態だ.
 あるサイトには,一般の草本の場合は花が咲く一~二ヶ月前に花芽形成が始まっているとみられ,樹木では花の咲く数ヶ月前に花芽が形成される場合が多いと書かれている.また別のサイトでは,半年以上も前だと言う.
 花が一斉に咲いて一斉に散るソメイヨシノは,花芽形成がさぞクリティカルなんだろうと思われるが,ある趣味的な園芸愛好家は,サクラの類を十把一絡げにして
 
桜の花芽分化期は夏の7月〜8月頃で、花後に伸びた短果枝に作られ翌年に開花します
 
と述べている.こんな大雑把なことでいいのかなあと心配になるが….
 一方で日本植物生理学会のサイトでは,Q&Aにこう書かれている.短いからほぼ全文を引用させてもらう.
 
まず質問の「花が咲いた後に葉が出る植物」の場合、いつ花芽を形成しているのか考えてみましょう。当たり前の話ですが、種子から発芽して、先に花をつけて、その後に葉をつける植物はありません。まず葉をだし、花を咲かせ、実を付けてから、葉を落とします(落葉樹の場合)。そして、また葉をつけるというサイクルになります。
サクラの場合も、前年の夏に花芽を形成し、冬には休眠して、翌春に花を咲かせるということをしています。もっとも夏にどういったきっかけでサクラが花芽をつくるのかはよく判っていません。この段階で日長が関係していることも考えられますが、'染井吉野'では6月にすでに花芽の形成は始まっているという報告もありますので、単純な短日植物でないことは確かなようです。また、花芽の分化に温度が関係しているとも考えられますが、詳細な関係は調べられていないようです。ちなみに10月ごろに'染井吉野'が咲く「狂い咲き」という現象がありますが、これはこの時期までに花芽が形成されていた証拠です。「狂い咲き」は花芽が形成された後、きちんと休眠していないときに気温が上昇して咲くのです。なお、きちんと休眠状態になった花芽は冬の低温期に休眠が破れます。休眠が終わった花芽は温度が上昇すれば開花しますので、春になって気温の上昇が南から北上するためにサクラの開花も北上することになります。これが桜前線とよばれているのです。》(文中の下線は,このブログの筆者が付した)
 
 さすがに研究者は違う.不明なことは不明であると,きちんと書いているから,これなら納得できる.しかし,数百本もの桜の並木が一斉に花開くという点で,ソメイヨシノは花芽形成の研究材料として非常に優れていると思われるが,にもかかわらず,花が咲くに至る一連の開花の機序のうちで,花芽が形成される最初のきっかけが「よく判っていない」というのだから,他の植物については推して知るべしだ.ここで「最初のきっかけ」というのは,関与する遺伝子が働き始めるきっかけということだ.
 すぐ上のQ&Aにある「短日植物」という用語があるが,これは説明が要る.Wikipedia【光周性】から下に引用する.
 

動物・植物を問わず、多くの生物で光周性が認められる。動物では渡りや回遊、生殖腺の発達、休眠、毛変わりなど、植物では花芽の形成、塊根・塊茎の形成、落葉、休眠などが光周性によって支配されている。中でも花芽の形成と光周性の関係については最も研究が進んでおり、有名である。
なぜ日長を用いるのか
年周期的に変化する外的要因には、日長のほかに気温があるが、気温は日長に比べて不安定な要因であり、日によってはしばしば一か月前や後の平均気温を示すこともめずらしくない。したがって、気温の変化によって花芽の形成や落葉などの時期が決定されてしまうと、季節はずれの時期に花が咲いたり、葉が落ちたりしてしまうことになりかねない。生物の年周期的な反応は、花芽の形成にしろ生殖腺の発達にしろ、生存上重要なものが多い。
長日植物
一日の日長が一定時間(限界日長)より長くならないと反応が起きないことを長日性といい、花芽の形成が長日性である植物のこと。(正しくは、長日植物とは、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より短くなると花芽が形成される植物のことである。) 例としてアブラナ、ホウレンソウ、コムギなどが挙げられる。
短日植物
一日の日長が一定時間(限界日長)より短くならないと反応が起きないことを短日性といい、花芽の形成が短日性である植物のこと。(正しくは、短日植物とは、連続した暗期が一定時間(限界暗期)より長くなると花芽が形成される植物のことである。) 例としてアサガオ、キク、オナモミ、コスモスなどが挙げられる。
中性植物
一日の日長(暗期)と反応が無関係であることを中性といい、花芽の形成が中性である植物を中性植物という。例としてトウモロコシ、キュウリ、トマト、エンドウなどが挙げられる。
 
 ネット上に,ザゼンソウの植物学的な学術資料は,私が調べた限り,ない.わずかに,既に紹介した稲葉靖子氏の研究があるが,これは分子生物学的研究であって,植物学的な範疇の研究ではない.そこで国内に自生しているサゼンソウがいつ咲くのかを調べたら,《全国のザゼンソウの名所》という貴重な資料が見つかった.この資料の作成されたのがいつであるか不明 (かなり古い資料の可能性がある) だが,その資料を見やすく整理したのが下表である.
 
日本のザゼンソウ群落
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栃木県 大田原ザゼン草群生地      2月中旬~3月中旬 (?)
群馬県 菖蒲沢&針山群生地       4月上旬~下旬
群馬県 赤城山中腹           2月中旬~3月下旬
群馬県 草津ザゼンソウ公園       3月上旬~4月下旬
新潟県 原虫野のザゼンソウ       4月上旬~4月下旬
長野県 白馬ざぜん草園         3月下旬~5月上旬
長野県 落倉自然園           4月下旬~5月中旬
長野県 宮の森自然園          3月下旬~4月中旬
長野県 居谷里湿原           3月下旬~4月下旬
長野県 鷹山湿原ザゼンソウ群落     3月下旬~4月上旬
長野県 和田峠・湿原歩道        4月中旬~5月上旬
長野県 有賀峠「ザゼンソウの里公園」  3月下旬~4月中旬
長野県 阿智村寺尾座禅草群生地     3月下旬~4月下旬
長野県 伍和原の平禅草群生地      3月上旬~4月上旬
山梨県 竹森のザゼンソウ群       2月中旬~3月下旬
滋賀県 今津広川座禅草群落       2月下旬から3月
兵庫県 ハチ北高原           3月下旬~4月下旬
芦津渓谷                絶滅危惧状態
 
 日照時間 (正しくは連続した暗期) を感知するセンサーは葉にあるという.多年生植物であるザゼンソウは秋に地上部が枯れるから,その時点で地下部分に花芽が生じているはずだ.ザゼンソウが特殊な植物ではないとすると,花芽は直ちに休眠状態になるが,その後に冬の低温ストレスを受けて休眠が打破され,気温が上昇すると苞と花序が生長を始めることになる.
 上の一覧表で,まだ春にならぬうちから咲き始めるのは,栃木県大田原,赤城山中腹,山梨県竹森の各群生地である.栃木県大田原の群生地については,地元の観光案内サイトの記述では「一月から二月にかけて咲く」としている.おそらくこちらが事実だろうから,上表には?を付しておく.また大田原群生地と赤城山山腹は積雪地帯ではない.山梨県竹森も,ネット上の写真を見た限りでは,それほど積雪がある地帯ではない.大田原群生地では毎年,二万株のザゼンソウのうちの一割,二千株が花をつけるという.これは随分と低い数字のように私には思われるのだが,専門家はどうみるのだろう.
 上に挙げた資料では,上記三ヶ所に少し遅れて,長野県白馬ざぜん草園が開花する.ここは数十万株のザゼンソウがある日本最大の群生地であるという.おそらくザゼンソウの繁殖に好条件を備えたところなのだろう.だとすると,三月下旬から五月上旬というのが,ザゼンソウが咲く本来の時期なのだろうと考えられる.ただし,他の資料によれば,熊の食害のために,ここのザゼンソウは激減したと書かれている.残っている古い写真を見ると,雪解けが進んでから花が咲いており,積雪はあまり多くない地帯のようである.
 一方,咲くのが遅いのは新潟県原虫野,長野県の落倉および和田峠,並びに群馬県の草津および菖蒲沢群生地 (片品村) である.これらは多積雪地帯であり,開花は四月にずれこんでいる.開花が早い栃木県大田原に遅れること三ヶ月である.このことから推察するに,各地で開花時期が異なるのは,気温と共に積雪量が関係しているのではないだろうか.ぶ厚く積もった雪の下では,花芽は大量の雪で冷却されてしまうから,生長開始したばかりの花序が多少の発熱をしたとしても,花を咲かせるまでには至らないのではないか.また,当然だが,たとえ苞が生長して花が咲いても人の目には観察されない.つまり開花時期が遅い群生地というのは「低温条件下で開花の遅れた株が融雪後に咲き,その花が観察される」のだと思われる.
 いよいよ尾瀬 (尾瀬ヶ原,尾瀬沼) のザゼンソウについて考える.少年時代に私は遂に尾瀬でザゼンソウの花を見ることができなかった.当時は尾瀬のザゼンソウについて記した資料自体がなかったが,今はネットが参照できる.しかしそれでも,尾瀬のザゼンソウに関する記事は少ない.またそれらの記事を見ると,現在も尾瀬ではザゼンソウはレアなのだという.目撃できた人は幸運だと書かれている.
 それはなぜなんだろう.私の郷里である群馬県のザゼンソウ群生地を考えてみる.赤城山の頂上は,最高峰黒檜山 (1,828m) とその他の外輪山 (1,500m級) に囲まれたカルデラになっている.このカルデラには覚満淵という小さな湿原があるが,上の資料にある「赤城山中腹」の群生地は赤城山南面に広がる富士見村の村有林のなかにあると書かれているので,覚満淵ではないようだ.だとすると,ここには積雪は滅多にない.冬の寒さもそれほどではない.
 標高はそれとあまり変わらないが,片品村の菖蒲沢と針山の群生地は,雪深い土地である.片品村は,スキー場があり,関東地方では豪雪地帯として知られるが,降水量は西に隣接するみなかみ町よりも少ない.
 さて尾瀬である.尾瀬は片品村の北限部にあるが,峠を南に下ったあたりよりもずっと積雪量は多い.五月になっても雪は融けず,例年の雪解けは五月の下旬である.いわんや各地の群生地でザゼンソウの花が咲く三月,尾瀬一帯はニメートル余の雪に埋もれている.花の目撃情報によると,尾瀬のザゼンソウ開花は五月中旬から下旬にかけてであるとのこと.開花の期間がこんなに短いのは,雪のために咲き遅れたザゼンソウがけなげに急ぎ花を開くからだろう.
 ザゼンソウが同類のミズバショウに比較してかなり悪条件下に開花するよう進化したのは,他の湿原植物,とりわけ一緒に生えていることが多いミズバショウとの競争を回避したからだろう.回避することで生き延びてきたと言うほうがいいかも知れない.虫媒花にとって競争というのは,具体的には昆虫の獲得競争ということだ.
 尾瀬のザゼンソウが開花する五月の下旬,既に一帯はミズバショウの大群落となっている.五月下旬の尾瀬では,山小屋周辺には下界から移り住んで増えたハエがいるが,その他の昆虫は非常に少ない.そんな条件下では,ザゼンソウの花序が発熱するとか,花序が臭気を発するだとかの昆虫誘因能力を持っていたとしても,ミズバショウ大群落の中では,一つのザゼンソウ個体に昆虫が来てくれる可能性は著しく低いと想像するに難くない.
 他のザゼンソウ群生地では,ミズバショウと開花時期をずらすことで,棲み分けを行ってきたのだろうが,豪雪の尾瀬では,かつて両者が真正面から競争せざるを得なかった.そしてザゼンソウは負けた.尾瀬でザゼンソウが繁殖していないのは,そういうことではないだろうか.
 ミズバショウが競争に強いのは,自家受粉が可能だからである.昆虫が少ない時期でも結実し,個体を増やす.数で他の種を圧倒すれば,虫媒花として本来の繁殖様式が可能となる.
 一方のザゼンソウは自家不和合であるから,昆虫が訪問してくれなければ結実しない.昆虫が少ない雪解け時期の尾瀬でもミズバショウは旺盛に繁殖していくが,ザゼンソウはいつまで経っても増えないのである.これが,尾瀬ではザゼンソウが希少な植物である理由だと思われる.
 ちなみに,ミズバショウにしてもザゼンソウにしても,これを散布する役割は小哺乳類だと思われるが,これについて貴重な調査研究「尾瀬地域の小哺乳類の分布および捕獲率の変動」があるので,リンクを示しておく.(了)

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2019年5月18日 (土)

昼めし旅

 今年の二月だったと思うが,ネット上のニュースで「これまで確定申告にはマイナンバー通知カードを提示すればよかったが,マイナンバーカードの普及を促進するために,来年の確定申告から,マイナンバー通知カードではなく,マイナンバーカードを提示することが必要との方向で政府は検討を進めている」との報道がなされた.
 今その情報ソースを探しているのだが,見つからない.記録しておけばよかったと反省している.
 というのは,私はこれまで確定申告の際に,通知カードの提示で済ませてきたのだが,「いよいよマイナンバーカードを作らねばいけないのか」と観念して,カード取得を申請したのである.
 ところがその後,一向にその続報がない.これは国民をミスリードするためのガセネタだった可能性が高い.つい先日 (5/10),「デジタルファースト法案」が衆院本会議で与党などの賛成多数で可決され参院に送付されたが,むしろ調べてみると,マイナンバーカードは今後も普及しないだろうとするレポートがぽつぽつ現れている.
 現在,マイナンバーカード普及率は今年の三月で,わずかに12.8%に過ぎない.普及が望めないとして既に廃止され,新規発行が停止された住基カードと同レベルの普及率である.これでは何のためにシステム開発に巨費を投じたかわからぬ事態になっている.そこで東京新聞は,マイナンバーカード制度が行き詰まる可能性もあると指摘している.

マイナンバーカード普及率12.8%止まり 来年から更新時期 》(2019年3月18日 東京新聞朝刊)
 
 この記事に次のことが書かれている.
 
昨年秋の内閣府の世論調査では、53・0%が「カードを取得する予定がない」と回答。うち26・9%が取得しない理由を「個人情報の漏えいが心配」と答えており、不信感は根強い。
 
 この引用文中の《個人情報の漏えいが心配 》とあるのは言葉のアヤで,ここで言う個人情報とは収入と金融資産のことである.マイナンバーカードを持ちたくないとする国民は,マイナンバーカードのそもそもその目的であるところの,全国民に広く課税することに拒否感を持っているのである.
 日本国民の過半を占める勤労者 (給与所得者) 層は,マイナンバーカードを持たなくても何の痛痒もない.政府はマイナンバーカードの利便性をテレビでしきりに宣伝しているが,普通の勤労者は,税務署に完全に収入を捕捉されているから,この国民階層には,マイナンバーカードを普及させる意味がないのである.行政サービスを受ける際の利便性がどうのこうのと政府は言うが,運転免許証と健康保険証があれば生活に全く困らない.だから,失うものを何も持たぬ大半の勤労者国民はマイナンバーカードに無関心だ.
 マイナンバーカードに《個人情報の漏えいが心配 》と不信感を持っているのは,収入や金融資産を税務署に捕捉されては困る富裕な国民階層である.それはどのような人々か.
 
 テレビ東京の人気番組『昼めし旅』は,タレントや局のADなどのレポーターが,一般人の食事を拝見するという番組である.
 大半の場合は,レポーターが農村あるいは漁村を歩きながら,畑や漁港で働いている人にインタビューをして「あなたの御飯を見せてください」とノー・アポで頼み込む.都市部で勤労者層の人にインタビューすることは,まずないが,自営業の人たちにはインタビューすることがある.
 それで「いいよ」と承諾してくれた農家や漁師の人の自宅をレポーターが訪問するのだが,これがほとんどの場合,大豪邸なのである.番組レポーターが「すごい豪華なおウチですねー」と驚くと,農家の人は「田舎はみんなこんなもんだー」と事も無げに答える.
 外観こそ普通の瓦葺き日本家屋の農家であっても,玄関を上がると,リフォーム済みの近代住宅だ.システムキッチンを備えた台所だけで六畳あったりして,これに広いダイニングルームが付く.都会なら会社役員のお宅みたいな様子である.
 というわけで,この番組を観ていると,日本の税制に関して,古くはクロヨン,その後はトーゴーサン呼ばれた言葉を思い出さざるを得ない.本来課税対象とされるべき所得の内,税務署がどの程度の割合を把握しているかを示す数値を捕捉率というが,クロヨンとトーゴーサンは次のように書かれている.
 
勤労者が手にする所得の内、課税の対象となるのは必要経費を除いた残額である。本来課税対象とされるべき所得の内、税務署がどの程度の割合を把握しているかを示す数値を捕捉率と呼ぶ。この捕捉率は業種によって異なり、給与所得者は約9割、自営業者は約6割、農業、林業、水産業従事者は約4割であると言われる。このことを指して「クロヨン」と称する。
捕捉率の業種間格差は「9対6対4」に留まらないとの考え方から「トーゴーサン」という語も生まれた。即ち、捕捉率を給与所得者約10割、自営業者約5割、農林水産業者約3割にそれぞれ修正した呼称である。

 大抵の都市部勤労者は,一生働いても,一億円以上の資産を蓄財できる人はホンの一握りだ.だが私の住む陋屋の周辺には,まるで『昼めし旅』に出てくるような農家の豪邸がたくさんある.彼らは地元の祭りにポンと信じがたいような寄付金をだす.以前,氏神様の例祭に使う子供神輿を作るからといって寄付の要請が町内会経由できたとき,農家の皆さんは一戸あたり,現金で若い会社員の年収ほどの寄付をした.
 その時に思ったのだが,現代日本での勝者は農業と漁業の従事者である.彼らの豪邸は,給与所得者たちの血税で贖われている.
 彼らは戸数が減った (言い換えれば,富裕になれなかった人々は離農したのであろう) とはいえ,今でも地方の保守政治家の有力な支持者である.従って,いくら国税当局がマイナンバーカードを普及させようとしても,立法サイドがそれを押しとどめる.国民すべてに公平な課税の理念は,夢のまた夢だ.私の推測だが,マイナンバーカードは,住基カードと同じ運命を辿るだろう.

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2019年5月16日 (木)

自然科学書はやはり最近の書籍がよろしいかと…

 別稿のザゼンソウに関する記事はまだ未完だが,動物でも植物でも細胞が熱を産生するのはミトコンドリアの機能だ.私はもう来年には齢七十であり,ミトコンドリアがどうのこうのという基礎的な科学の勉強から遠ざかって久しい.ザゼンソウの記事を書きながら思ったのだが,忘れてしまったことが多いから,また少し勉強し直してみようという殊勝な考えを持つに至った.
 ミトコンドリアについて書かれているネット上の資料をいくつか読んだら,参考図書として『ミトコンドリアが進化を決めた』(みすず書房) を挙げている大学の現役研究者がいた.定価4,104円 (本体価格3,800円) という少々お高い本である.それで古書を買うことにしてAmazonを検索すると,配送料込で3,296円で評価「中古品 - 非常に良い」の出品が見つかった.早速注文して,それが昨日届いた.
 梱包を解き,本を手に取って「オヤ?」と私は思った.「中古品 - 非常に良い」というより,これは読んだ形跡がないのである.みすず書房宛の読者カードはもちろん,書店の注文伝票までが挟まれているではないか.
 
20190516a
 
 不思議に思いつつ読み始めたら,まだ本論に入る前の「序 ミトコンドリア ― 世界を操る陰の支配者」の,一ページ目の終わりから,次のような記述があった.
 
《… ミトコンドリア遺伝子は母系の姓ののような役目を果たし、そのおかげで、征服王ウィリアムや、ノアや、ムハンマド (マホメット) まで父系の出自をたどろうとするように、母系の祖先をたどれるわけである。最近ではこうした考えの一部に異論も出ているが、おおかたこの見解は有効となっている。もちろん、これを利用すると、われわれの祖先がわかるばかりか、どれがわれわれの祖先でないのかも明らかになる。ミトコンドリア遺伝子を分析した結果によれば、ネアンデルタール人は現代のホモ・サピエンスと交雑しておらず、ヨーロッパの縁 (ルビは「へり」) で絶滅に追い込まれてしまったのである。
 
 ここまで読んで私はガックリとうな垂れた.なぜなら,今からもう十年近くも前 (2010年) に,ネアンデルタール人と現生人類は交雑していたらしいとのことが,DNA分析の結果で認められたからである.(Wikipedia【ネアンデルタール人】)
『ミトコンドリアが進化を決めた』の奥付をみると,2007年に第一刷が出版されていた.そのたった三年後に,著者が書いた《ミトコンドリア遺伝子を分析した結果によれば、ネアンデルタール人は現代のホモ・サピエンスと交雑しておらず、ヨーロッパの縁で絶滅に追い込まれてしまったのである 》はひっくり返ってしまったのだ.これからこの書物で説かれるだろうミトコンドリア遺伝子の分析の信憑性に,疑問が生じたわけである.
 こうなると,『ミトコンドリアが進化を決めた』は内容が古いから,「これは正しい」「これは「誤り」と,書かれていることの正誤を一つ一つ判断しながら読まなければいけないことになる.しかし,それは最新の論文誌に目を通している現役の研究者でなければ無理な相談である.つまり私のような門外漢は,最新の出版物を買って読むべきだったのである.
 ところで,私が購入した『ミトコンドリアが進化を決めた』は読まれた形跡がないと上に書いたが,もしかすると,この本を古本屋に売った人も「序」のネアンデルタール人の交雑の箇所を読んでガックリし,それ以上は読まずに売り払った可能性が高い.w
 さて私はどうするか.読者カードと注文伝票を挟み込んで再度売るか,あるいは書かれていることを他の資料にあたりつつ慎重に読んでみるか,いま思案中である.

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2019年5月13日 (月)

三角おむすび

 先週放送の『チコちゃんに叱られる!』で,例のインチキな「食文化史研究家」の永山久夫が,例によって例の如く,支離滅裂な「独自研究」を開陳した.
 この日の放送の最初の出題は,お握りが三角なのはなぜか,というものだった.そしてこのチコちゃんの質問に対する解説をしたのが,嘘デタラメを平気で放言する永山だった.まず永山は,お握りは弥生時代からあったと主張した.それが下の画像 (テレビ画面をカメラ撮影したもの) である.永山は昭和六十二年に石川県中能登町で発見された「杉谷チャノバタケ遺跡」から出土した炭化した飯の塊が,最古のお握りだと言うのだ.
 
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 確かに,この炭化物が発掘された当初は,日本最古のお握りだとして報道され,地元では町おこしのようにして盛り上がった.ところがよく調べてみると,これはお握りではなく,呪術に用いられたもので,餅米を粽 (ちまき) 状に包んで蒸してから,さらに焼いたものだと判明した.そのため現在は,学術的には「粽状炭化米塊」と呼ばれている.この出土品についての石川県埋蔵文化財センターのコンテンツから,下に引用する.
 
ご紹介する「チマキ状炭化米塊」は、1987年 (昭和62年) 11月22日、鹿島郡中能登町 (旧鹿西町) に所在する杉谷チャ ノバタケ遺跡から、弥生時代中期 (約2,000年前) の竪穴建物 (住居跡) の壁際より単独で出土したものです。底辺が約5.0㎝、他の二辺が約8.5及び8.0㎝の平面略二等辺三角形を呈する炭化米塊 (厚さ約3.5㎝) は、加工・調理されたものとしては日本最古の出土品として、翌月 (22日) の報道発表以来、「日本最古のおにぎり」(の化石:生物の痕跡を指すという広い意味では、確かに本品はイネの化石 とはいえるのかもしれません) として話題を集め、地元においても町おこしの各種イベント等が開催されてきました。米粒の解析結果により、短粒・極小粒の日本型を呈する水稲品種の晩稲の糯米 (もちごめ) で、おそらく蒸されたのち焼かれたものとされ、形状等からも、炊かれて握られた握り飯 (=おにぎり) というよりは、包まれて蒸された (あるいは煮られた) ものに近いという意味で、チマキ (粽) 状炭化米塊とされたものです。 建物の壁際からの単独出土であることや粽の民俗事例などから、本品については、食用というよりは魔除け等呪的な用途が想定されますが、食べられるものであることに変わりはなく、食に関する体験講座等を支える重要な「証人」ともなっています。》(文字の着色はこのブログの筆者が行った)
 
 中能登町は「おにぎりの里」を自称して町おこしに取り組み,地元の諸々の観光案内系サイトも,いまだにこの出土品を「最古のお握り」として町を応援しているが,学術的にはもう決着がついたことで,この出土品はお握りではなく粽なのだ.町おこしの材料にしたい地元の気持ちは理解できるが,そろそろ諦めたほうがいいのではないだろうか.そして自称「食文化史研究家」の永山久夫は,公共放送でテキトーなことを言うでないと非難されるべきであるが,永山の放言はとどまるところを知らない.何としてでも粽状炭化米塊がお握りだと言い張る永山は,これは粽ではなく,三角お握りの先端が尖ったものだと主張する.
 
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 この出土した炭化米塊が「お握り」であることの説明として永山は,ここら辺へんから独自の境地に立って御託宣を宣う.考古学の専門家が粽であるとした形を,いや違う,これは神のおわします山を象ったものである,とする.何となればお握りは神饌だからであるという.(下の三枚の画像)
 
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 次に永山は,神饌としてのお握りは三角形だったが,人々が口にした食べ物のお握りは三角形ではなかったと述べた.(下の二枚の画像)
 
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 そしてここから突如,永山の支離滅裂な妄想が爆発する.神饌の三角お握りは何処かに行ってしまい,昔のお握りは丸かったという話になる.粽状炭化米塊はお握りだったとする主張を忘れてしまったかのようである.
 そして古来,お握りは丸かったとする根拠に源氏物語を持ち出した.
 
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 番組の画面では全く説明がなかったが,下の画面で「屯食」と書かれているのが,お握りだという.書物を引用するなら,最低でも書物の名称くらいは示さねばならぬが,永山にはそんな常識はない.下の画像の書籍は書誌事項が不明だが,現代語訳だ.読み取りにくいが,潤一郎訳と表紙に書かれているから,三つある谷崎源氏のうちの最初に刊行されたものだろう.谷崎源氏には同じテキストでも普及版やら愛蔵版などがあり,私はこの表紙の本を見たことがないので,どれであるかはわからない.ただし出版社は中央公論社で,国会図書館の蔵書だ.この現代語訳では,屯食は現代語に訳さず,屯食のままにしている.
 
20190514k
 
 しかし,この引用箇所は比較的よく知られたところであり,源氏物語の読者には「源氏物語 桐壺 第六段 源氏元服」であるとわかる.
 そこで下に,源氏物語の原文と,与謝野晶子による現代語訳を示す.

[原文]
 その日の御前の折櫃物 籠物など  右大弁なむ承りて仕うまつらせける 屯食 禄の唐櫃どもなど ところせきまで 春宮の御元服の折にも数まされり なかなか限りもなくいかめしうなむ

[与謝野晶子訳]
 この日の御饗宴の席の折り詰めのお料理、籠詰めの菓子などは皆右大弁が御命令によって作った物であった。一般の官吏に賜う弁当の数、一般に下賜される絹を入れた箱の多かったことは、東宮の御元服の時以上であった。
 
 実は永山久夫の学歴はよくわかっていない.もしかするとそのためかも知れないが,古典文学を読む基本姿勢ができていないようなのである.というのは,屯食が現代のお握りを意味するようになったのは江戸時代なのだ.これは我が国の食文化の常識である.食文化に関する常識がない「食文化史研究家」の永山は,高校生がそうするように,古語辞典を調べてみるべきであったのだ.すなわち平安時代の屯食は,酒食一般,あるいはそれを盛った台のことである.無知無学の永山は,江戸時代の屯食はお握りだから,平安時代もお握りだったと思い込んだのである.今なら大学入試に失敗するに違いない.
 源氏物語の現代語訳はいくつもあるが,与謝野晶子は屯食を「弁当」としている.さすがにこれは,なかなかこなれた訳文である.源氏の元服の祝いの席で,唐櫃と一緒にお握りが並べられているはずがないではないか.絹を収めた唐櫃と,食べ物を詰めた引出物の弁当箱が所狭しと並べられたのである.もちろん弁当箱に詰められたのは,質素なお握りなんかではなく,山海の御馳走であったに相違ない.
 この点について昨年,同志社女子大学の吉海直人先生 (日本語日本文学科教授) が《「おにぎり」と「おむすび」の違い 》と題したエッセイを同大学のサイトに載せておられる.その一部を下に引用する.
 
なおここにあげられている「屯食」は、平安時代から用いられている古い言葉ですが、既に意味が違っています。もともとは酒食のこと、あるいは酒食を載せた台のことだったのですが、江戸時代には公家社会において「握り飯」の意味で用いられるようになっているようです。そのことは『松屋筆記』の「屯食」項に、「公家にては今もにぎりめしをドンジキといへり」とあることからも察せられます。
 
 永山の高校生以下の思い込みは,江戸時代の有名な『守貞漫稿』の「握飯」項に「にぎりめし古はとんじきと云 屯食也 今俗或むすびと云 本女詞也」とあるのを読み齧ったからであろう.だがこれは,永山の無教養だけを指摘すればいいというわけではない.Wikipedia【おにぎり】も,次のように同じ間違いをしでかしている.
 
おにぎりの直接の起源は、平安時代の「屯食」(とんじき) という食べ物だと考えられている。この頃の「屯食」は大型の楕円形 (1合半) で、使われているのは蒸したもち米であった。「屯食」が意味するものは時代によって異なり、江戸時代に入ると公家社会では現在のおにぎりのことを「屯食」と呼ぶようになった。
 
 上の引用の前半が間違いである.平安時代には,台の上に蒸した餅米を盛ったものを屯食と呼んだが,屯食はそれに限定されるものではなかった.吉海先生がお書きになっているように,食べ物一般を屯食といったのである.そしてその平安時代の屯食,一合半ものおこわを台に盛ったものは,手にもって食べられる現代のお握りとは無関係である.いずれにせよ,弥生時代にお握りが存在したという証拠はなく,また平安時代の屯食はお握りではなかった.『チコちゃんに叱られる』で永山久夫がしゃべったことは大嘘なのである.
 
 以上のことだけなら永山は視聴者を騙せたかも知れないが,再び永山の説は暴走を始めた.
 永山は,ここまでの説明で《実は三角形だったのは神様にお供えするおにぎりだけ 》《人々が日常的に食べていたのはより簡単に作れる丸いものが多かった 》としていたが,江戸時代になると《三角おにぎりも日常的に食べるように》なったと述べた.(下の漫画中の赤い矢印は,このブログの筆者が描き入れた;実は私はこの漫画は初見であるため,出典を示せないのが残念である)
 
20190514p
 
 視聴者は,この漫画と永山の説明を聞いて,江戸時代には三角形のお握りが庶民に食べられるようになったのだと思うだろう.
 ところが永山の解説はアクロバット的に急転する.
 江戸時代には三角お握りが日常的にたべられるようになったと言ったすぐあとで,永山が子供の頃,三角お握りはなかったと前言を翻したのだ.なんだそりゃ,である.
 
20190514q
 
 そして,三角お握りが普通になったのはコンビニの影響だと語った.
 
20190514r
 
 下の写真で《思うんですよ》などと言っているが,そういうのを独自研究というのだ.思うのではなく,コンビニ本部に取材に行けと言いたい.
 
20190514s
 
 下の写真で,コンビニが三角形お握りを販売したので《全国的におにぎり=三角形に変化 》と永山は言うが,そんなことはない.今でもコンビニでは,丸い形のお握りが販売されている.中に具を入れて海苔で巻いたお握りを作る製造ラインでは,コンビニにお握りを供給している業界で普及しているお握り成型機の,米飯を充填する型が三角形なのである.フィルムのあいだに海苔を挟んでおいて,食べる時に海苔を巻くタイプのお握りは,三角形に成形するのが都合がいいのである.これについては,お握りの包装に関する技術史をネットで調べると大変に面白いので,関心ある向きはどうぞ検索して頂きたい.
 一方,赤飯とか鶏飯とか,あるいは刻んだ野沢菜を混ぜこんだものとか,要するに海苔で巻かないお握りは丸い形のものが多い.海苔を巻かないタイプのお握りは,成型機の型を交換して自由な形に成形できるのだ.永山はお握りの自動成型の製造ラインを見たことがないのだろう.
 また,現在の主要なコンビニは1970年代に実験店や一号店を出店し,1980年代に店舗数が拡大したのだが,それ以前,私の大学生時代に,立ち食い蕎麦屋やスーパーの食品売り場でお握りが売られていた.東京ではそれらのお握りはすべて三角形であった.三角お握りは,コンビニが普及させたわけではない.お握りの形には地方性があり,関東,特に東京では,コンビニの出店が増えるずっと前から,お握りは三角形だったのである.永山は,自分の母親が作ったお握りが丸かったからというだけの理由で,三角お握りを普及させたのはコンビニだと言うが,世間が狭すぎる.この爺さんは,その歳になるまで一体全体,世の中のどこを見てきたのか.
 ちなみに,私が中学生だった頃,三角のお握りを上手に作れない人のために,木製のお握りの型枠があった.これに飯を詰めてから抜き取ると,今のコンビニお握りのような三角お握りができる.それから,ちょっと角ばったところを丸みをつけるように軽く握れば,きれいな形のお握りができるという次第.やがて木製の型枠はプラスティック製に取って代わられた.合成樹脂製の型は,抜き取っただけでフンワリと丸みを帯びているので,手で形を整えることが不要で,大変に便利なものだ.これが画像の一覧
 
20190514t
 
20190514u
 
 下の写真では,まるで丸い形のお握りはコンビニで販売されていないとでも言いたいようだ.丸いお握りが運搬や陳列の際に安定せず不都合があるなどとは,食品業界にいた私には初耳である.不都合があるなら,もうとっくにお握りは三角形だけになっているはずで,永山はここでも,取材せずに妄想で語っているのだ.
 
20190514v
 
『チコちゃんに叱られる!』に永山久夫がたびたび出演するが,いい加減にNHKは公共放送であることを自覚し,このような嘘吐き爺さんを登場させないで欲しい.幼い視聴者が多いこの番組で永山に解説をさせるのは,嘘を吐いてギャラをもらう生き方を見せることになり,児童教育的に大きな問題である.

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