新・雑事雑感

主に時事的話題です.

2018年10月19日 (金)

インチキ寺田屋

 昨日の記事に寺田屋事件のことを書いた.その補遺を少し.

 私が京都伏見の旅館「寺田屋」に行ってみたのは昭和五十年代のことだった.その当時は,「寺田屋」は坂本龍馬が襲撃された寺田屋事件の現場であると世間の人たちは信じていた.「寺田屋」がそう宣伝していたので,私もそう信じていた.
 ところが次第に色々と辻褄の合わないことが判明したため,平成二十年 (2008年) に京都市は調査を行い,公式に「寺田屋」が偽物であることを認めた.龍馬が襲撃された寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失したのである.そこで元々の建屋があった場所の隣に,寺田屋の経営者が旅館を再建し,この新しい「寺田屋」が寺田屋事件の現場であるかの如き虚偽の宣伝を行ったのである.
 昔,私が見学したときも,いかにもそれらしく粉飾されていて,簡単に騙されたのがまことに腹立たしい.この件について,Wikipedia【寺田屋事件】から少し引用する.
 
現在の寺田屋
現在寺田屋を称する建物(同一敷地内)には、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年(1905年)に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年(1908年。お龍はその2年前に病没)に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。平成20年(2008年)になって複数のメディアでこの点が取り上げられ、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に幕末当時の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。
京都市歴史資料館のウェブサイトにある「いしぶみデータベース」では、「寺田屋は鳥羽伏見の戦に罹災し、現在の建物はその後再建したものである。」と紹介している。
大正年間に現在の寺田屋の土地・建物は幕末当時の主人である寺田家の所有ではなくなっており、のちに経営そのものも跡継ぎのなくなった寺田家から離れている。この「寺田屋」は昭和30年代に「第14代寺田屋伊助」を自称する人物が営業を始めたものであり、「第14代寺田屋伊助」自身、寺田家とは全く関係はない。
》 (文字の着色は当ブログ筆者による)
 
 この「寺田屋」がインチキであることは今ではかなり知られているが,腹の立つことに,今なおインチキ「寺田屋」は「お龍さんは裸だった」という嘘を流し続けている.そして「寺田屋」を見物したブロガーたちはこれに騙されて,「お龍さんは裸で風呂場を飛び出した」との誤情報を拡散し続けている.
「寺田屋」が風呂を増築し,これを「お龍が入っていた風呂」としたのは明治三十八年だとのことだから,この嘘の出所は「寺田屋」かも知れない.お龍さんが亡くなったあとになって風呂を作り,虚偽の宣伝を開始するあたり,元々の寺田屋の経営者はかなり悪質なペテン師であったし,それを引き継いで世間を騙し続けている現在の経営者も相当なワルである.京都市は,このインチキ「寺田屋」を放置してネット上で笑いものになっているのだから,法的な処置をとれぬものか,考えるべきだろう.「寺田屋」は京都の恥である.
 
 余談だが,司馬遼太郎は歴史家ではないから,かなり簡単に偽書,似非史料にだまされており,司馬ファンは,そのあたりを気を付けて読む必要がある.とはいうものの,司馬遼太郎には,小説家でありながら「司馬史観」と呼ばれる程の思想があったことは間違いない.その司馬遼太郎に比較して,無思想にして無節操な半藤一利や出口治明が書くインチキ「歴史」漫談が売れているのは,まことに残念無念である.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月18日 (木)

成金

 自分のことを放っておいて言うのはナンだが,片山さつき大臣という御人も,何を着てもだめだなあ.とにかくあの昭和中頃のキャバレー歌手みたいな髪型ではどうにもならぬ.
 先日の内閣認証式の直前になって服装がドレスコードにアウトだと内閣府職員に指摘され,慌ててシルバーのドレスをデパートで購入したというドタバタ騒ぎは既に報道されたところであるが,そのドレスがもうほんとに似合ってませんでしたなあ,下品で
 で,今現在のさつき氏は文春砲に撃たれて不正疑惑の只中にあるわけだが,これを報じた産経新聞に載ったさつき氏の写真がすごい.意外な美脚であるのは横に置いて,アメ横で買ったのか,この服は.w
 私は思うのであるが,さつき氏はストレートのセミロングにしたらどうか.今の ケバケバ うっとおしい イメージを払拭しないと政治家としての将来はないと思われる.ま,在庫整理内閣だけど.
 さつき氏は文春を名誉棄損で「訴える方針だ」と記者会見したが,実際には訴えないというのが見え見えだなあ.ああうっとおしい.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

こうして歴史は作られる

 時代考証について書いたついでに,もう一つ.
 もう亡くなって久しいが,稲垣史生という時代考証家がいた.「時代考証家」は稲垣の造語で,時代考証家と名乗ったのはこの人物が最初である.
 稲垣史生は,江戸文化・風俗の研究家として名高い三田村鳶魚が遺した膨大な文章を整理して事典形式にまとめた「三田村鳶魚 江戸武家事典」「三田村鳶魚 江戸生活事典」(青蛙房) や,『三田村鳶魚全集』(中央公論社) の編者として知られる.
 その稲垣史生の著書『江戸時代大全』(KKロングセラーズ) の「まえがき」に,有名な寺田屋事件について次のように書かれている.

風俗で思い出すのは寺田屋騒動のときの坂本龍馬で、慶応二年 (一八六六年) 一月、伏見の寺田屋で幕吏に襲われた龍馬は、意外にもまずおのれの袴をさがした。隣室に脱いだことを思い出し、やむなく袴なしで戦ったが、護衛の三吉慎蔵はきちんと袴をつけてから戦っている。
 敵の白刃が眼前に迫っているのに、なぜ命がけで袴をはかねばならなかったか。当時、袴は武家スタイルには不可欠であり、ほとんど皮膚の一部分とみなされていた。だから血闘の直前でも、手と眼は無意識で袴をさがした。もし龍馬がここで死ぬようなことがあれば、あわてて袴もつけていなかったと、のちのち口の端にのぼるのが耐えられなかったのである。
 これは龍馬の手紙にある史実だが、まさに現代人には理解できない生活感情といえよう。

 ほとんどの読者は,《これは龍馬の手紙にある史実だ》と書いてあるので,そのまま信じてしまうだろう.
 そこで,この寺田屋事件の経緯を坂本龍馬が記した手紙が青空文庫に収められているので,稲垣史生が《これは龍馬の手紙にある史実だ》と書いている部分を下に引用しよう.

上ニ申伏見之難ハ去ル正月廿三日夜八ツ時半頃なりしが、一人の連れ三吉慎蔵と咄して風呂より揚り、最早寝んと致し候処に、ふしぎなる哉(此時二階居申候。)人の足音のしのび/\に二階下をあるくと思ひしに、六尺棒の音から/\と聞ゆ、おり柄兼而御聞に入し婦人、(名ハ龍今妻也。)勝手より馳はセ来り云様、御用心被成べし不謀敵のおそひ来りしなり。鎗持たる人数ハ梯の段を登りしなりと、夫より私もたちあがり、はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付、其儘大小を指し六連炮を取りて、後なる腰掛による。連れなる三吉慎蔵ハはかまを着、大小取りはき鎗を持ちて是も腰掛にかゝる。》 (当ブログ筆者の註;原文にある漢文調の箇所に挿入されている返り点は,読みにくいので敢えて省略した.)

 驚いたことに稲垣史生は《なぜ命がけで袴をはかねばならなかったか 》と書いているが,龍馬の手紙のどこにも「命がけで袴をはこうとした」などと思わせる記述はないのである.単に《はかまを着と思ひしに次の間に置有之ニ付 》とあるだけだ.
 また稲垣史生は《(袴は) ほとんど皮膚の一部分とみなされていた 》と言うが,「ほとんど皮膚」であるなら,なぜ龍馬は寝るときに袴を脱いだのか.風呂にも袴をはいて入るのか.その説明がない.当たり前だが,袴は武士の準正装衣服の一つに過ぎない.生きるか死ぬかの緊急時に身に着ける必要はないし,実際に龍馬は袴なしで闘った.
 さらに稲垣史生は《だから血闘の直前でも、手と眼は無意識で袴をさがした 》と話を大盛にしているが,龍馬の手紙のどこに「無意識で」などと書いてあるのか.これは史実だと書けば,読者は原文を読まないに違いないと,稲垣史生は読者をナメているのに違いない.いい加減にせよと言いたい.
もし龍馬がここで死ぬようなことがあれば、あわてて袴もつけていなかったと、のちのち口の端にのぼるのが耐えられなかったのである 》に至っては,もはや時代考証家の文章ではない.小説家気取りである.普通の神経の持ち主であれば《耐えられなかったのである 》と断定するのではなく,「耐えられなかったのであると考えられなくもないと思うにやぶさかではない」くらいにするところだ.w
 稲垣史生はこういう 口から出まかせ 融通のきく人間だから,NHKは多くの大河ドラマの似非「時代考証」をやらせたものと考えられる.NHK大河ドラマは事実と異なる架空の演出が許される時代劇であって,史実に基づく歴史劇ではないから,厳格な時代考証をしたら成立しないのである.

 寺田屋事件ついでに,もう一つ.
 Wikipedia【寺田屋事件】に次のように書かれている.

龍馬や長州の三吉慎蔵らは深夜の2時に、幕府伏見奉行の捕り方30人ほどに囲まれ、いち早く気付いたお龍は風呂から裸のまま裏階段を2階へ駆け上がり投宿していた龍馬らに危機を知らせた。

 このときのことを,お龍自身がのちに「千里駒後日譚」と題した口述筆記 (川田雪山による聞書,「土陽新聞」連載,明治三十二年十一月) を残している.該当箇所を同じく青空文庫から引用する.ちなみに千里駒とは龍馬を指している.

私は一寸と一杯と風呂に這入つて居りました。処がコツン/\と云ふ音が聞えるので変だと思つて居る間もなく風呂の外から私の肩先へ槍を突出しましたから、私は片手で槍を捕え、態 (当ブログ筆者の註;読みは「わざ」) と二階へ聞える様な大声で、女が風呂へ入つて居るに槍で突くなんか誰れだ、誰れだと云ふと、静にせい騒ぐと殺すぞと云ふから、お前さん等に殺される私ぢやないと庭へ飛下りて濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足 (当ブログ筆者の註;読みは「はだし」) で駆け出すと

濡れ肌に袷を一枚引つかけ、帯をする間もないから跣足で駆け出す 》にはリアリティがある.事件は慶応二年一月二十三日 (1866年3月9日) の夜のことである.京都の三月は厳しい寒さだったろう.それなのに風呂から裸で飛び出られるはずがないではないか.しかも二十代半ばの花も恥じらう女性だ.取り急ぎ袷を引掛け,しかし帯なんかする暇はないから片手で前を合わせて駆け出したに違いない.昔も今も,どんな女性でもそうするだろう.
 さあ,一字違いは大違い.お龍さんが「はだしで駆け出した」と言っているのに,「はだかで駆け出した」と話を盛ったのは誰だろう.稲垣史生か,稲垣史生を高く評価していたとされる司馬遼太郎か,あるいはもっと前の作家か.調べてみると面白いかも知れない.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月16日 (火)

渡世人の飯椀 (補遺2)

 江戸時代の博徒というと,多くの年寄りは昔のテレビ時代劇『木枯紋次郎』を思い出すのではなかろうか.
 この紋次郎の飯の食い方は,当時の視聴者に大きなインパクトを与えたようで,今でも「紋次郎食い」で検索すると,色々なウェブページがヒットする.動画の例から,その一シーンを,モニター画面のハードコピーをして下に掲載する.
 
20181016b
 
 ところが,この場面は時代考証的には大嘘なのである.時代考証家の山田順子さんや杉浦日向子さんらが江戸時代に描かれた絵を調べたところによると,当時の飯屋や居酒屋には,テーブルとイス (大抵は酒樽である) はなかったという.客は縁台 (床几ともいう) に腰かけるか,履物を脱いで小上がり (畳または板敷) で飲食をしたのである.(「江戸庶民風俗図絵」などを検索されたい)
 しかし別の放送回で紋次郎は,街道筋にある茶屋兼の飯屋では縁台に腰かけて飯を食っている.このことから推測するに,江戸や宿場などにあった飯屋や居酒屋は現代の飲食店に似ているだろうという思い込みが,放送作家や演出家など番組制作サイドにあったのだろう.
 これはかつての人気テレビ時代劇『鬼平犯科帳』も同じである.この動画を見ると,御丁寧に,テーブル席だけでなくカウンター席まである.w
 映画でもテレビでも時代劇というものは,鎌倉時代や江戸時代を舞台にしてはいるが,それは表層的なことであり,実は描かれているのは現代人なのだという解釈は正しいと私は思う.従って演出が時代考証的に正しいのが好ましいとは思うが,あまりそれに拘ると,時代劇そのものが成立しなくなるおそれがあり,それでは本末転倒かも知れないと思う.そもそも鬼平こと長谷川宣以が居酒屋で酒を飲むわけがないからである.w
 
 以上,既述のように,江戸時代の博徒の生活に関する史料は多くないと思われ,それ故,時代劇に出てくる親分の生活や賭場の様子は時代考証的には,あまり信用しないほうがよいだろうと,付け加えておく.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月15日 (月)

渡世人の飯椀 (補遺1)

 昨日の記事の末尾を再掲する.
 
このように我が国の食文化史上,一膳飯が嫌われたという事実はない.
 しかるに武田親分は《一杯は仏様だと嫌うから作法に外れ》るという.これは武田親分の地元である群馬のローカルルールだというわけでもない.実は,いつの頃からか,一膳飯と枕飯の混同が発生したのである.

 
 人は誰でも,若い時には葬儀の際のあれこれを知らずとも,歳を重ねるに従い何度も親戚知人の葬儀に出席すると,仏教各宗派によって葬儀の仕来りが少しずつ異なることを知るようになる.
 特に浄土真宗と他の宗派との違いが大きい.
 その違いの一つに,死者あるいは棺の枕元に置く枕飯あるいは枕団子がある.枕飯や枕団子は,死者がこの世に残した未練を慰め,送り出すためのものだが,浄土真宗では,死者はただちに成仏することになっているので,これを行わないという.
 しかしこんなことは仏式で葬儀を行う際の形式的な仕来りであって,大した意味はなく,葬式仏教の僧や葬儀屋がああだこうだと言っているに過ぎない.試みに「一膳飯」をネット検索してみると,葬式関連のコンテンツばかりである.民俗学的な議論は全くみつからない.
 当たり前だが,十七世紀の京都で一膳飯屋が生まれてから現在に至るまで,一膳飯は単に「盛り切りにした一膳の飯」の意であり,それ以上のことではない.しかるに,この一膳飯に箸を立てると枕飯になるのだが,枕飯が一膳盛り切りであることから逆方向に,枕飯を一膳飯と呼ぶ誤用が発生したものと考えられる.ネットを検索調査したところでは,この誤用の伝播者は葬祭業者だろうと思われる.例えば,この匿名サイト.下に少し引用する.   

茶碗に山盛りにご飯を盛って、真ん中に箸を立てる「一膳飯」 (当ブログ筆者の註;正しくは「枕飯」) は、誰でも目にしたことがあるのではないでしょうか。
もともと一膳飯は、二膳や三膳はない、一善
(当ブログ筆者の註;正しくは膳) 限りということで、旅立って二度と戻らない相手との別れの膳で出されていた古くから (当ブログ筆者の註;何世紀から?) の習わしです。これは嫁入り (当ブログ筆者の註;正しくは一膳飯ではなく「高盛り飯」という.もちろん枕飯とは別物であり,箸を立てたりはしない) や独立の際にも行われていた作法でした。
このように、一膳飯は最後の食事という意味合いがある
(当ブログ筆者の註;出典は?) ことから、「死者のこの世での最期の食事」としてお葬式の作法に使われるようになりました。

 上記引用の説に従えば,江戸時代の一膳飯屋では,客に《死者のこの世での最期の食事 》を提供していたことになる.常連客もいただろうに何を言っておるのか.阿呆もいい加減にするがよい.

 さて葬祭業者以外で,この誤用を拡散させているブログがよく用いているのが,戦時歌謡の替歌「軍隊小唄」の一節「仏様でもあるまいに一膳飯とは情けなや」である.
 飯茶碗に飯を高く盛って箸を立てた枕飯は,死者の霊に供える枕飾りの一つであって,仏壇にお祀りされた仏様にお供えするものとは異なる.仏壇に供えるのは仏飯という.
 仏飯もおかわりはないところから,「軍隊小唄」は軍隊の一膳飯を仏飯に喩えたのだろう.すなわち「軍隊小唄」の歌詞にある一膳飯は,箸を立てた枕飯のことではない.これを誤解しているブロガーがいるので,特に書いておく.
 また,これはものの喩えであるから,常識的には仏飯を一膳飯と呼んではいけない.
 
 以上,昭和の博徒の親分は一膳飯と枕飯を混同していたが,それは親分が無知だったせいではなく,世間一般に一膳飯の誤用が広まっていたからであるということを付け加えておく.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月14日 (日)

渡世人の飯椀 (二)

 昨日の記事の末尾を再掲する.
ところが,私が江戸時代の食文化史を勉強している過程で,『江戸やくざ研究』(雄山閣) という妙な古書を入手したのだが,そこには別のことが書かれていた.

『江戸やくざ研究』の著者は田村栄太郎という在野の左翼歴史家,風俗研究家である.Wikipedia【田村栄太郎】に書かれている田村氏の著書一覧を見ると,左翼でありながら裏社会にも通じているという一口では言い難い人物像が浮かぶ.
 それはともかくとして,『江戸やくざ研究』の中で著者は昭和十三年頃,群馬県高崎市の博徒である武田親分に,仁義のきり方から始まる詳細なインタビューをしている.その中から食事についての部分を引用する.

飯は丼ぐらいの茶碗に二杯、山盛りにして出すのですが、これは誰でも食いきれない。しかし少しでも残しては作法に外れるから、はじめの一杯の山盛りの飯の真中だけを食べて真中に穴をこしらえてそこへまた飯を足してもらい二杯分ということにします。山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。菜は有合せを出します。魚を出せば旅人は骨は白紙に包んで懐中に入れるのです。何を出さなければならないという作法はありません。それに旅人は待遇上の不平はいえないのです。草鞋銭をもらってすぐ使ったところを、子分にでも見つかれば取持ちが気に入らなかったかと殴られます。》 (当ブログ筆者の註;「取持ち」はインタビューの他の所にも出てくる言葉で,応接とか接待とでもいう程の意)

 とまあこのような次第であるが,この問答の中で武田親分は,博徒の仁義は上州と江戸で異なると述べている.上州は著しく博徒,無法者の多い土地柄であったから,江戸とは違う独自の流儀ができたのだろう.
 また著者の田村氏は,博徒の仁義作法は時代によって変わり,武田親分が述べたのは昭和のやり方だと書いている.ただし,これは武田親分の年齢が不明なので何とも言えない.明治・大正もさほど変わらなかったと考えることは可能だが,考察する材料がない.というか,こんな分野 (やくざの社会) に関する史料なんてものはないと思うが.
 で,武田親分の口述によると,戦前の昭和,上州における博徒の作法では,旅人の夕飯には飯のおかわりを盛ってくれる給仕役がつく.それはおそらく親分の御内儀 (仁義の言葉では「お姉さん」という) だろう.
 重要なのは,有合せでよいが「菜」を出すとしていることだ.これは,夕食を軽く済ませていた江戸時代と異なって,明治以降は夕食の重要性が増したことを意味している.
 Wikipedia【夕食】に,

日本
日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化の一つに属している。夕食は、一日で最も質・量ともに充実した食事になることが多い。また、夕食は一日の食事の中では最も時間的なゆとりがある食事である。

とあるが,言うまでもなく食事の在り方は時代によって変化してきた.そもそも夕食というのは,江戸時代に一日二食から一日三食に変化してからの話である.明治時代以降,家族が揃って夕食を摂るという食のスタイルが長く続いたが,昭和以降は「食の個食化」が進行し,家族がバラバラに夕食を食べるようになり,夕食は重視されなくなった.今では,一日三食は肥満の原因の一つだとして夕食を食べない人もいる.あるいは逆に少量ずつ一日に何度も食事する人もいる.そのような多様化が進んだ現在,《日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化》だとするのは余りにも大雑把すぎる.史料も根拠も示さないこの主張は「独自研究」(=口から出まかせ) というべきだろう.

 本題に戻る.次に武田親分は,一宿一飯の飯を盛る器は,飯椀ではなく丼ほどの茶碗だという.となると,これは重いから旅人の携行品ではない.戦前の群馬の親分衆の家では,客人用の食器一揃いを箱膳にでも収めて用意していたのだろう.もはや日本の近代は,博徒が荷物の中に飯椀を入れて旅をした時代ではなかったのである.

 さてちなみに,武田親分の語った内容で興味を引かれたことが一つ↓ある.

山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。

 つまりこの親分は,一膳飯と,死者の枕元に供える枕飯を混同しているのだ.
 江戸では,ファストフードではない一膳飯屋が生まれ,人口のかなりの割合を占めていた男性単身者たちの胃袋を支えた.《一杯は仏様だと嫌》われていたという事実はない.
 明治以降は,軍隊が一膳飯であった.死んだ私の父親が語ったところによれば,軍隊というところは,食事も排泄も就寝も起床も,行動すべて迅速であることを旨としたから,悠長な飯のおかわりなんぞが許されようはずがなかった.
 刑務所も一膳飯である.これは毎度の食事で摂取するエネルギーが,受刑者の年齢や作業強度に基づいて計算されるからで,受刑者本人の好きにはならないのである.肥満体であった堀江貴文が収監され,出所した時には普通の体型になっていたことを覚えている人は多いだろう.
 病院も一膳飯であるのは,病院食が栄養計算に基づいた食事だからである.
 現代は国民総健康志向の時代であるからして,糖尿病を恐れる中年以上の国民で,御飯のおかわりをする人はいないはずだ.おかわり自由のとんかつ屋で,白飯をおかわりしているのは若い人だけである.
 このように我が国の食文化史上,一膳飯が嫌われたという事実はない.
 しかるに武田親分は《一杯は仏様だと嫌うから作法に外れ》るという.これは武田親分の地元である群馬のローカルルールだというわけでもない.実は,いつの頃からか,一膳飯と枕飯の混同が発生したのである.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月13日 (土)

渡世人の飯椀 (一)

 今から五十年以上前の事である.
 後に東京都知事になった青島幸男が,ラジオで一人トークの雑学情報番組を持っていた.
 その放送で青島幸男が語った話だが,江戸時代の渡世人は,振分荷物に飯椀を入れて携行していたという.
 静岡市清水区に,山岡鉄舟ゆかりの「鉄舟寺」という寺があり,この寺には宝物殿といえるほどではないが,歴史関係の資料が展示されている.昭和五十年頃のかなり昔のことであるが,私が鉄舟寺を拝観した時には,展示されていた歴史資料の中に,渡世人が旅をする際に携行していた飯椀の実物があった.それが今も展示されているかどうかはわからないが.
 静岡市清水区は,静岡市に吸収合併される前は清水市といい,東海道一の親分であった清水次郎長の縄張りだったところだから,記憶は定かでないものの,その飯椀は幕末から明治にかけて実際に使われたものだったと思われる.
 なぜ鉄舟寺に渡世人の持ち物が展示されていたかは,山岡鉄舟と清水次郎長の親交によるものだろう.
 で,飯椀のことだが,渡世人が携行していた飯椀は,旅先の土地の親分に仁義を切って泊めてもらうときに使ったのである.
 これは上述の青島幸男の番組でのトークと,鉄舟寺にあった飯椀の展示品説明書とが一致していたので,信憑性が高い.
 街道を堂々と旅をしたのでは身に危険が及ぶ凶状持ちや,ほとんどボロボロな恰好をした乞食渡世人は別として,賭場を渡り歩く普通の渡世人は,日が暮れる前に土地の親分のところに顔を出して挨拶をしなければならない.これが「仁義をきる」ということである.
 先を急ぐときは仁義をきってすぐ立ち去るが,そうでなければ例の「一宿一飯」にあずかる.
 仁義の詳細は略すが,一通りの作法を済ませ,食事をもらう時間になると,御内儀さんが飯櫃を持ってくるので,御内儀さんに持参の飯椀を渡す.すると御内儀さんは飯椀に飯をてんこ盛りにしてくれる.もちろん漬物が付いてくる.
 さてここで問題は,何かおかずが出され,それで飯を食ったのか,ということである.

 江戸庶民の日常食は,朝に白飯を炊いて,味噌汁と漬物がこれに付く.これが「一汁」である.漬物は飯とセットなので「菜」のうちには含まれない.
 昼飯は冷や飯と漬物に,煮物とか焼き魚などを付けて食べる.味噌汁は付けない.つまり「一菜」である.
 夜は屋台で天ぷらとか鮨,蕎麦 (江戸の後期) などのファストフードを小腹に入れる (杉浦日向子さんの考証によると,それらをたくさん食べるのは粋ではないとされていたようだ) か,あるいは長屋に帰ってから,漬物で冷や飯を茶漬けにして食う.「一汁」でも「一菜」でもない,この飯と漬物のセットを呼ぶ言葉はないが,敢えていうなら「一飯」,「一宿一飯」の「一飯」だ.
 某似非「食文化史研究家」や農水省の御用学者たちは「一汁三菜が日本の伝統食である」という大嘘を世間に広めたが,実は,我が国庶民の日常の食事は「一汁一菜」ならいいほうだったのだ.

 さて,中山道や三国街道,東海道などの街道筋で親分の家に草鞋を脱いだ渡世人に,江戸のやり方で食事が提供される場合は,大盛の雑穀一膳飯 (江戸の外では白飯は普及しなかった) と漬物が出されただろう.江戸の流儀の夕飯であるから,おかずも汁もない.江戸流ではなく,北関東など貧しい土地の貧乏な親分のところでは,雑穀の雑炊だけだったかも知れない.私は長いことそう理解していた.
 笹沢佐保の小説を原作にしたテレビ時代劇『木枯らし紋次郎』でも,確かそんなシーンがあったように思う.
 ところが,私が江戸時代の食文化史を勉強している過程で,『江戸やくざ研究』(雄山閣) という妙な古書を入手したのだが,そこには別のことが書かれていた.
(続く)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月11日 (木)

フェイク報道

 昨日 (10/10) の日本テレビ『ザ!世界仰天ニュース』で《死者8人...住宅地でまかれた猛毒ガスの真実 》で,松本サリン事件の再現ビデオ映像が放送された.
 その中で,土谷正実元死刑囚がサリン合成の実験をする場面があったが,これは誤解を招く映像だった.
 下の画像で,土谷正実役の俳優が両手を差し込んでいる箱のようなものは,化学実験室なら必ず設置されているドラフトチャンバーと呼ばれる実験室用設備機器である.
 しかし,この設備ではサリンは作れないのである.サリンの合成実験は,完全に湿度ゼロの乾燥した雰囲気下で行う必要があり,そのためにはグローブボックスという設備を使用する.これはどの化学実験室にもあるというものではないが,市販はされていて,非常に特殊な設備というわけではないから,これを保有している大学や企業の実験室でロケさせてもらえばよかったのだ.
 
20181010a
 
 松本サリン事件発生の当時,警察やメディアは我が国の合成化学の権威者であった森謙治先生 (当時は東大農学部教授) を取材し,森先生からどのような実験室設備が必要であるかという情報を得て (森先生がテレビ局のインタビューに答える場面の報道を私は見た) おきながら,その情報を無視し,あたかもサリンを一般民家で製造できるかのごとき嘘報道の方向に突っ走った.
 あの時,警察が,森先生の説明を理解し,グローブボックスのメーカーのルートを調べ,その設備の購入者を捜査していれば,河野義行さんを犯人扱いすることはなかったのである.
 今回の『ザ!世界仰天ニュース』は,その時の教訓 (=サリン製造は特別な設備を必要とする) を全く理解せず,再び虚偽情報を日本中に拡散してしまった.
 この括弧付き「再現」ビデオは,松本サリン事件に関する基本的な事実の調査をせずに制作されたことが明らかである.従って《死者8人...住宅地でまかれた猛毒ガスの真実 》全体の信用性が疑われるのである.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 9日 (火)

『歴史ヒストリア』の誤謬

 文化庁ウェブサイトに《世界遺産(文化遺産)一覧 》がある.
 これをずらっと見ていくと,平成二十五年の《富士山―信仰の対象と芸術の源泉 》から《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》に至る毎年,連続して世界遺産リストに記載されていることがわかる.
 その一覧中には,昨年の《「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群 》のように,ほとんどの日本国民にとって「何それ?」的なものが混入してはいるが,概ね国民的コンセンサスは得られていると思われる.
 昨日の記事に書いた『歴史秘話ヒストリアSP「世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語」』は,今年の七月に《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》が世界遺産リストに記載されたことを受けて制作されたものに違いない.
 しかしこの番組の制作スタッフも,キャスターの井上あさひアナウンサーも《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》の意義を理解していないのではないだろうか.
 キャスターの井上あさひさんが大阪放送局ブログに載せた文章がそのことを示している.その文章の末尾の一節を引用する.

信仰と生活
 弾圧されていても、神父がいなくとも、立派な教会がなくても、続けられる信仰の形を見つけて脈々と信仰を受け継いでいく。信仰を守るために、生活の一部として密着させ、日々に溶け込むように信仰が営まれていく姿は、とてもナチュラルに感じました。
「信徒発見」以降も、隠れキリシタンの末えいの方々がその営みを続けていらっしゃること。あの美しい教会が、その生活と信仰を支えてきたこと。そういうことを知って味わう世界遺産の旅は、きっと格別なのではないでしょうか。

 井上さんは完全に誤解している.江戸幕府によってキリスト教が禁教とされたあと,元々からして正しくカトリックの教義を理解していたとは言い難い信徒たちは,教義の拠り所とすべき司祭を失い,その後,彼ら潜伏キリシタンの信仰は,神道および仏教と習合して変容し,奇怪な民間信仰と化したのであった.《脈々と信仰を受け継いで 》いったのではなく,変容したのである.
 だが,幕末から明治にかけて,再び神父たちは日本に戻ってきた.
 そしてその一人であるベルナール・プティジャンは,元治二年 (1865年) の三月,大浦天主堂を訪ねてきた潜伏キリシタンと遭遇した.これが,長崎に旅して大浦天主堂や浦上天主堂を訪れた人なら誰でも知っている「信徒発見」と呼ばれる事件であった.

 神父たちは,潜伏キリシタンたちが原罪も三位一体も知らず,彼らの信仰が異端化していることに驚いただろうし,潜伏キリシタンたちも自分たちがキリスト教だと信じてきたものが,そうではなかったことに愕然としたに違いない.

 だがこの時,奇跡のようなことが起きた.ローマ法王は潜伏キリシタンを異端視せず,彼らをカトリックの教義に立ち返らせることにしたのである.
 そして潜伏キリシタンたちの一部は神父たちの指導によってカトリックの信仰に復帰したが,父祖以来のキリシタン信仰を捨てなかった者たちがいた.
 その事情が《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産》公式サイトに述べられている.その《(Ⅳ)宣教師との接触による転機と「潜伏」の終わり 》の一部を引用する.

これにより潜伏キリシタンは、宣教師の指導のもとに16世紀に伝わったキリスト教であるカトリックに復帰しようとする者、宣教師の指導下に入ることを拒み、引き続き集落内の信仰指導者を中心に従来どおり自分たちの潜伏キリシタン由来の信仰を続けようとする者(かくれキリシタン)や、様々な葛藤の末に、それまでの信仰から離れて神道や仏教に転宗しようとする者などに分かれた。

 潜伏キリシタンの一部はカトリックに復帰し,一部は信仰を捨てて神道や仏教に転宗したため,潜伏キリシタンの伝統的信仰はほぼ終わりを告げた.今もわずかに潜伏キリシタンの信仰を守る信徒が残っているとされるが,しかしやがて遠くない時期に,彼らの信仰の伝統は絶えるであろう.これが《長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》が世界「遺産」たる所以である.
 井上あさひさんは,神父とその信徒たちが建設した教会群について《あの美しい教会が、その生活と信仰を支えてきた》と書いているが,これまた全くの誤解である.実は,それらの教会は,潜伏キリシタンの伝統的信仰を捨ててカトリックに復帰した信徒たちのものであったのだ.彼女は,潜伏キリシタンたちが三派に分裂したことを知らないと思われる.
 番組の画面には,カトリックに復帰した人々の子孫と,潜伏キリシタンの信仰を捨てなかった人たちの子孫の両方が登場したが,彼らの父祖が,明治の初めに袂を分かったことについて何の説明もなかった.潜伏キリシタンについて予備知識のない視聴者は,わけがわからなかったであろう.
 
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 》公式サイトは丁寧に書かれている.関心ある向きは,ぜひ全コンテンツを一読されたい.
 
[参考図書]
カクレキリシタンの実像: 日本人のキリスト教理解と受容』(吉川弘文館,2014年)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月 8日 (月)

絵踏みのこと

 自然科学の多くの分野は論理で構築されているから「昔,学校で習ったことと現在の教育内容が異なっている」ということはあまりない.ただし,そうでないものもあって,例えば栄養学の本に書かれていることは推測と仮説が非常に多いので,もっともらしい「定説」がいとも簡単にひっくり返るのは諸兄御承知の通り.
 人文系の学問も,そもそも論理に無縁の,言った者勝ちみたいなものが多く,例えば歴史学に基づいて書かれている中学や高校の教科書の内容は,時代と共にどんどん変化している.あまり出版物を読まない高齢者層は時代について行けないのが実情だ.

 先日 (10/7) 放送されたNHK『歴史秘話ヒストリアSP「世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語」』を観ていたら,首を傾げざるを得ない点があった.
 まず,記述に問題がある Wikipedia の項目を挙げる.それは Wikipedia【踏み絵】であるが,その中から下に少し引用する.

踏み絵 (ふみえ) とは、江戸幕府が当時禁止していたキリスト教 (カトリック教会) の信徒 (キリシタン) を発見するために使用した絵である。本来、発見の手法自体は絵踏 (えぶみ、えふみ) と呼ばれるが、手法そのものを踏み絵と呼ぶ場合も多い。

 この項目を編集した筆者は《本来、発見の手法自体は絵踏 (えぶみ、えふみ) と呼ばれるが、手法そのものを踏み絵と呼ぶ場合も多い》と書いておきながら,項目名および記述において「本来」の呼び方ではない「踏み絵」を用いている.また《と呼ぶ場合も多い 》と根拠を示さない独自研究を書いているが,現在では,日本史の教科書を含む出版物や放送の分野では「踏み絵」ではなく「絵踏」とするのが一般的になっている.(例えば国立国会図書館のサイトにある,この資料 の二ページ目)

 ところが『歴史秘話ヒストリアSP「世界遺産 長崎・天草 キリシタン不屈の物語」』では,キリシタン発見の手法を,昔の呼び方である「踏み絵」としていた.

20181008b

 不審に思ったので,理由を考えてみたのだが,もしかすると最近世界遺産に記載された「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の関係者 (登録運動を進めてきたのは,たぶん高年齢層の人たちだろう) の間では,未だに潜伏キリシタン発見の手法を「踏み絵」と呼んでいるのかも知れない.それなのに「絵踏」という言葉を用いて放送すると,それらの人々からクレームがつく可能性があることを危惧したのかも知れない.
 NHKの公式サイトの他のコンテンツでは「絵踏」を使っているから,敢えて「踏み絵」を使用した理由は,クレームを事前に回避するためだろう.
 しかし,これから先,中学や高校で,潜伏キリシタン発見の手法を「絵踏」と教えられた生徒たちがテレビ視聴者の中で多数派になるわけだから,ここはやはり「絵踏」を用いて欲しかった.
 
[追記]
 ところで.上に掲載したテレビ画面の画像で,キリシタンを取り締まる役人たちが笠をかぶって居る.晴れた日に何ゆえに笠をかぶっているのか.それが不思議だ.また,その形の笠が天草辺りでは普通の笠であったのか.時代考証はどのようになっているのか,NHKは説明義務があるように思う.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧