新・雑事雑感

主に時事的話題です.

2017年4月25日 (火)

昭和の時代考証 (五)-3

 先週の『ひよっこ』は,大晦日になっても正月を迎えても,矢田部みね子 (有村架純) の父,実 (沢村一樹) が出稼ぎ先の東京から戻らなかったところで終わった.
 年末に,みね子の母,谷田部美代子 (木村佳乃) は仏壇の引き出しに入れてある現金を数えて思案に耽る.夫が行方不明になってから送金が途絶え,家計が逼迫していたからである.
 そこへ,近所の農家で美代子の幼馴染である助川君子(羽田美智子)がやってくる.
 君子は矢田部家の困窮を案じており,美代子に現金を渡そうとするが,美代子はそれを押し戻して受け取らない.
 そこで君子はいったん家に戻るが,再び来る.そして背中の竹籠一杯の食料を持ってきて美代子に「これはお歳暮だ」と言う.
 美代子とみね子は,君子の親切に感謝して「歳暮」をありがたく受け取るのであった.

 という先週のストーリーをわざわざ紹介したのは,君子の歳暮の中に肉があったからである.
 包の大きさからすると豚肉 (北関東では牛肉を食べることは希であった) 五百グラム程であろうか.
 若い人には信じがたいことだろうが,昭和三十九年当時の豚肉五百グラムは,なかなかの贈り物であった.
 この頃,私の育った家では,一家五人がカレーライスを作って食べるときに使う豚肉の小間切は百グラムであった.食い盛りの子ども三人を抱える家庭で,大鍋に投入された百グラムの豚小間切は,注意深く探さないと見つからないのであった.(北関東の庶民の食事が如何に食肉から縁遠かったかは,戦後の少年時代を栃木県で過ごした東海林さだおがエッセイに「肉なしカレー」の思い出として何度か書いている)
 一方,『ひよっこ』の中で描写されていたのだが,矢田部家五人のカレーライスには,魚肉ソーセージ一本が用いられた.農村に肉屋はないから,魚肉ソーセージのカレーは普通のカレーであったろう.
 余談だが,実を言うと,私の父は歴とした国家公務員 (刑務官) であったが,その年収は,『ひよっこ』中で説明された矢田部家の年収を下回っていたのである.奥茨城村で一番貧乏な矢田部家は,私の家よりは良い暮らしであったのだ.(泣)
 このように貧しい矢田部家 (しつこいようだが,私の家よりは貧乏ではない) に,助川君子はど~んと豚肉をプレゼントする.これは脚本家が,奥茨城村で矢田部家だけが貧しいことを描写するためのエピソードに違いない.このことが,みね子が集団就職することの伏線なのだろう.

 話かわって,少し前まで私は,テレビ東京系列で放送されている『昼めし旅~あなたのご飯見せてください~』を毎日観ていた.今はもう飽きたのでやめたが.
 どんな番組かというと,同局サイトの番組紹介に次のようにある.

番組内容
毎日食べる「ご飯」、おいしいお店を紹介するグルメ番組は沢山あるけど、実際は一体どんな人がどんなものを食べているのでしょうか?
毎日愛妻弁当の店長…漁が終わった後の早めの昼食…有名店のまかない飯は?
ニッポンの「リアルなご飯」にスポットをあて、「あなたのご飯見せて下さい」を合い言葉に「昼めし旅」を敢行!
時には観光スポット、時には田舎、そして地元の駅前や商店街など、芸能人や番組スタッフが様々な場所へ旅をしながら、その土地ならではのお昼ご飯や人気店、魅力的なご飯をご紹介!
さらに、「ご飯」を通してのそこに住む人の人生や物語(ドラマ)を描いてゆきます。

 これは月曜から金曜までオンエアしているテレ東の主力番組で,上の惹句にあるように《時には観光スポット、時には田舎、そして地元の駅前や商店街など、芸能人や番組スタッフが様々な場所へ旅をしながら、その土地ならではのお昼ご飯や人気店、魅力的なご飯をご紹介!》するわけだが,何年かこの番組を観続けた印象でいうと,レポーターが取材する対象の半分が《時には田舎》の農家や漁師の家庭だった.
 例えばの話であるが,典型的な内容は次のようなものである.
 レポーター (テレ東の若いAD) が,辺り一面に水田や畑や果樹園が続く田舎道を歩いていると,農作業している老人がいる.「何を作っているんですか」と声をかけて,作業を見せてもらったり,土地の話を聞いたりする.そしてやおら「あなたのご飯見せて下さい」と言うと,老人は快諾し,レポーターを軽四輪トラックに乗せて家に戻る.
 老人の自宅に着くと,そこにあったのは,大豪邸だった.
 見かけは昔風の農家だが,中に入るとリフォーム済みである.息子夫婦のために手を入れたとかで,十二畳のDKは,若い女性が見たらため息をもらすような,高価なシステムキッチンである.思わずレポーターが「すごいお家ですねー」と感嘆すると,老人は「農家はみんなこんなもんだ」と事も無げに言う.
 都会のマンションのように六畳間に家具がいくつも押し込まれているなんてことはない.老人の家は,十二畳とか十八畳間が一階と二階に全部で六部屋あるという,都市部勤労者世帯の人々が唖然呆然とするような間取りなのである.しかもその豪邸に住んでいるのは老人夫婦と息子夫婦の家族四人だという.
 『昼めし旅』は,まあ,ざっとこんな番組である.
 上に書いたのは田舎での取材だが,そうではないこともある.毎回の放送の半分は芸能人がレポーター役で,地方都市のありふれた商店街を旅することも多い.
 再び例えばの描写をすると,一人暮らしのお婆さんがやっている雑貨屋をレポーターが訪ねる.店の奥が台所と四畳半の狭い住居スペースで,「あなたのご飯見せて下さい」と言うと,お婆さんは四畳半の小さなテーブルで,「いっつも残りもんだよ」と言いながら朝飯の残り物を食べるのであった.
 以上が『昼めし旅~あなたのご飯見せてください~』の番組内容概略である.私は一年以上もこの番組を観てきたが,現代日本の貧富格差があまりにも赤裸々に描かれるところが辛くて,もう最近は観ていない.

 ところで,現代日本における貧富の格差についていえば,ワーキングプアのことがある.
 この間の日曜日,朝六時十五分から《もっとNHKドキュメンタリー 高校生ワーキングプア 》が放送された.
 これを観た私は朝から泣いた.おそらくこの番組に出てくれた三人の高校生は特殊ではない.「貧乏が見えにくくなっている」と言われる現在,彼らは貧しいが,しかしまたどこにでもいる少年たちだと思うと,泣けたのである.(ちなみに私は「再放送希望」をポチッとした)
 子供の六人に一人が貧困状態にあると言われる現在,週刊文春のテレビ批評コラムに亀和田武が能天気に

日本中が浮かれまくり、会社員と公務員の大半は、自らを中産階級と信じて疑わなかったあの時代、恩恵に浴せない人々がいた。
 遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
 みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ。奥茨城に戻れるのは、稲刈りや田植えなどの繁忙期だ。
(…中略…)
 東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。そして、そこに暮らす人々は、小金持ちを羨むことなく、つましく支えあって生きている。

と,見てきたような嘘を書いたその農村は,今どのような状態になっているか.
(この項続く)

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2017年4月23日 (日)

昭和の時代考証 (五)-2

 テレビ番組批評というのは書評と同じだ.本を読まずに書評は書けないし,観てもいないドラマの番組批評は書けないはずである.
 しかし亀和田武は,昨日の記事に書いたように,『ひよっこ』の筋書きを全く知らないのに週刊文春のコラム『テレビ健康診断 624回』に「一九六九年の奥茨城にじんわり『ひよっこ』」を書いた.
 普通の神経の持ち主なら恥ずかしくて連載コラムの執筆者から降りるところだが,亀和田に「そのコラム,間違ってますよ」と親切な指摘をしてやる読者はいないだろうから,これまでと同じに,これからも『テレビ健康診断』を書き続けていくのだろう.
 亀和田がトンチンカンな『ひよっこ』批評を書いたのは,頭の中に〈出稼ぎ=貧乏な村〉という幼稚な図式があるせいだと思われる.
 だから,みね子の父が出稼ぎに出たのは農協から借りた金を返済するためなのに,奥茨城村は貧乏な村だと決めつけてしまったのだ.
 たぶん亀和田武は,自分が生まれ育った北関東の風土に無関心なのだろうし,おまけに「出稼ぎ」という言葉を抽象的に知っているだけで,それがどんな地理的歴史的な意味を持っているかを知ろうともしないから,こんな恥を晒してしまったのである.

 それでは,Wikipedia【出稼ぎ】をみてみよう.

日本における出稼ぎ
日本における出稼ぎは、戦前は農村や山村などにおいて製炭などに従事する労働力を他村から受け入れることがあった。戦後の高度成長期 (1970年代まで) に顕著となり、主に東北地方や北陸・信越地方などの寒冷地方の農民が、冬季などの農閑期に首都圏をはじめとする都市部の建設現場などに働き口を求めて出稼ぎに行くことが多かった。出稼労働者の所得確保の一方で、高度成長に伴う旺盛な需要により労働者不足に悩む都市部への重要な供給源となった。また出稼ぎを題材にした映画や楽曲が多数作られた。(ああ野麦峠や吉幾三の津軽平野など)
新潟県出身の田中角栄が首相になると、出稼ぎをしなくても雪国で暮らせるようにしようにと日本列島改造論が唱えられ、全国で公共事業が増えた。その結果、出稼労働者は、1972年度の54万9千人をピークに次第に減少している。
2003年8月に独立行政法人労働政策研究・研修機構が実施した「出稼労働者就労実態調査票」によると、北海道、青森県、岩手県、秋田県、山形県、新潟県、石川県、兵庫県、長崎県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の12道県のハローワークが作成した「出稼労働者台帳」 (2003年3月末現在有効なもの) に記載された出稼労働者数は41,620人であった。
2010年度は1万5千人にまで減少し、出身地域別の内訳は、北海道32.0%、東北60.7%、九州・沖縄4.7%、その他2.6%である。
2011年度には送出地の北海道・青森・岩手・沖縄のハローワークに出稼労働者就労支援員 (送出地担当) が配置されていた。その目的は「地元における安定した就労を促進しつつ、やむを得ず出稼就労する者に対しては職業相談員によるきめ細やかな職業相談を実施するとともに、受入事業所の指導等を実施」することであり、2015年度も北海道・青森・岩手等に配置されている。

 上の記述に明記されているように,大規模な「出稼ぎ」は戦後の一時期に発生した現象である.
 戦前あるいはそれより以前のことについていうと,人間の移動が制限されていた江戸時代には珍しく富山藩主が薬売りを他領へ商売に出ることを奨励した例 (これは産業規模に成長した) とか,やはり江戸時代に全国各地に発生した職能集団「杜氏」が代表的であるが,これらは近代以降の「出稼ぎ」が単純労働力であったのとは質的に異なるものであった.
 明治以降では,ノンフィクション文学作品『あゝ野麦峠』を原作とする同名の映画 (Wikipedia【あゝ野麦峠(1979年の映画)】参照) によって広く知られたが,戦前に岐阜県飛騨地方の農家の娘たちが,野麦峠を越えて長野県の製糸工場へ働きに出た.明治の中頃には,全国に六百五十五あった器械製糸場のうち三百五十八工場が長野県に集中していたのである.彼女らは「出稼ぎ工女」と呼ばれたが,実際には,彼女らはいわゆる出稼ぎではなく製糸工場に就職したのであった.
 このような例について一つ一つ述べるのは省略するが,一般的な意味での「出稼ぎ」は季節労働 (Wikipedia【季節労働】) であった.上に示した Wikipedia【出稼ぎ】に,

戦後の高度成長期 (1970年代まで) に顕著となり、主に東北地方や北陸・信越地方などの寒冷地方の農民が、冬季などの農閑期に首都圏をはじめとする都市部の建設現場などに働き口を求めて出稼ぎに行くことが多かった。出稼労働者の所得確保の一方で、高度成長に伴う旺盛な需要により労働者不足に悩む都市部への重要な供給源となった。

とある通りである.
 冬でも積雪がないため園芸農業ができる地方は出稼ぎをする必要がなく,また出稼ぎにでる余裕はなかった.(例えばドラマ中の奥茨城村)
 しかし上の引用にあるように,東北,北陸,信越地方などの寒冷地方では冬は全くの農閑期になってしまうため,男手は出稼ぎに出て都市部における労働力となり得たのである.
 Wikipedia【出稼ぎ】に,2003年の出稼ぎ労働者の送り出し地方のハローワークとして

北海道、青森県、岩手県、秋田県、山形県、新潟県、石川県、兵庫県、長崎県、宮崎県、鹿児島県、沖縄県の12道県

が挙げられているが,これは高度成長期の職業安定所から継続しているのであろう.
 出身地域は北海道,東北,北陸でほとんどを占め,残りわずかが地元で労働力を吸収できない沖縄県からの労働者だったと考えられる.

 ところで Wikipedia【出稼ぎ】には,田中角栄の日本列島改造論に基づいて全国各地で公共事業が行われるようになり,出稼ぎが終焉を迎えたことは書かれているが,なぜ戦後の高度成長期に出稼ぎが甚だしくなったのかという前史は明記されていない.次はそれについて.
(この項続く)

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2017年4月22日 (土)

なんだその態度は

 下の画像は,イオンのPBで「黒糖かりんとう」という商品の包装である.パッケージの右上に切り込みがあり,「切り口」と書かれている.「この袋は縦に切ってください」というわけだ.

40170422b

 ところが,包装を裏返して裏面を見ると,袋の一番上の辺りにハサミのマークと「ここからお切りください」と書いてある.これは「横方向に切ってください」ということだ.

20170422a

 縦に切るのか,横に切るのか.この黒糖かりん糖を買った消費者は,どちらの指示に従えばよいのだろう.
 しかも,縦方向に切る場合は,袋上部の切り込みを使用するとハサミがなくても開封できる (樹脂製の袋には方向性があり,縦方向なら手で容易に切断できるため) ので,その指示は納得できるのだが,横方向に切る場合は,どうせハサミを使わにゃならんのに,自分の切りたいところではなく横点線の位置で切断せよとの意味不明な指示だ.その位置で切断しなければいけない理由を示せと私は言いたい.余計なお世話だ.昔懐かしのパーティーカットにしてみたい人もいるだろうに,なんだその態度は.
 て息巻いてみましたが,どうでもいいですか.ですよねー.(高田純次風にどうぞ)

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2017年4月21日 (金)

昭和の時代考証 (五)-1

 週刊文春今週号 (4/27号) の連載コラム,亀和田武『テレビ健康診断 624回』のタイトルは「一九六九年の奥茨城にじんわり『ひよっこ』」であった.
 亀和田武は昭和二十四年一月栃木県の生まれで,義務教育の学年でいうと私より一学年上である.
 亀和田武はコラムニストであるという.コラムニストとはつまり雑文書きである.同世代の呉智英 (昭和二十一年生まれ) や関川夏央 (昭和二十四年生まれ) のような批評家としての才能があるわけではなく,さりとて一世代下の堀井憲一郎 (昭和三十三年生まれ) のような奇才でもなく,中途半端な雑文家であるが,週刊文春にはテレビ番組批評の連載コラムを書き続けている.
 その亀和田が今週号で『ひよっこ』について次のように書いている.

日本中が浮かれまくり、会社員と公務員の大半は、自らを中産階級と信じて疑わなかったあの時代、恩恵に浴せない人々がいた。
 遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
 みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ。奥茨城に戻れるのは、稲刈りや田植えなどの繁忙期だ。

(…中略…)
 東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。そして、そこに暮らす人々は、小金持ちを羨むことなく、つましく支えあって生きている。

 テレビ番組を批評するのはいいが,ドラマの筋書きを勝手に捏造してはいけない.
『ひよっこ』のヒロイン,矢田部みね子の父はなぜ東京に出稼ぎにでているか.
 亀和田は《みね子の家も、父の実 (沢村一樹) が東京にでている。こめ作りだけでは、家族を養えないからだ》と書いているが,そうではない.
 以前,不作の年があり,矢田部家はその時に農協に借金ができたのである.その借金がなければ矢田部家の家族は農業で食っていけるのであるが,米と野菜作りだけでは現金収入が足らず,農協への借金返済ができない.そこで父親は農閑期の畑を家族にまかせて,出稼ぎに出たのである.
 これはドラマ『ひよっこ』の大前提の話であるから,祖父と両親がみね子に家の経済状態を言って聞かせるシーンで,収入は米がいくら,野菜がいくら,母親の内職がいくら,と視聴者に説明されたのである.有村架純ちゃんの笑顔がかわいいので,亀和田は見とれて上の空でテレビを観ていたのだろう.きっとそうに違いない.
 で,みね子の父の出稼ぎの理由が借金返済のためであり,村が貧しいからではないから,奥茨城村で出稼ぎに出ているのはみね子の父だけという設定になっている.詳しいことは略するが,そのことが,村の「聖火リレー」でみね子がアンカー走者になることに繋がっていくのだ.
 では,不作の年に矢田部みね子の家だけが農協に借金を拵えてしまったのはどうしてか.
 これはドラマ中で説明がなされていない.妙な話である.
 夏が寒冷であったなどの理由であれば,奥茨城村一村全体が不作に見舞われるはずだ.
 無理に説明するとすれば,冷害はそれほどのものではなかったが,奥茨城村で矢田部家だけは,経営規模が元々小さい (所有農地が少ない),あるいは土地が悪くて反収が低い,といった理由で,不作の打撃が大きかったというところか.
『ひよっこ』の脚本家に農業知識を求めても仕方ないので,まあそんなところにしておこう.

 さて亀和田武は次のように書いている.

遠い東北だけではない、東北にほぼ隣接する北関東でも、過疎の村に暮らす住民は高度成長を享受するのでなく、むしろ出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた。
東京のすぐ隣に「貧しさ」が、まだあった。

 私の郷里は群馬だが,私より一歳年上の亀和田は,群馬の隣県である栃木の生まれである.私と亀和田は同時期に北関東で少年時代を過ごしたのである.(余談だが関川夏央少年はその頃,新潟にいた)
 亀和田は,群馬,栃木,茨城の北関東各県の人々が,かつて《出稼ぎという形で、時代の繁栄を支えた》と断定的に言うが,それは私が知っていることと異なる.亀和田武は少年時代に北関東農村部の状況をその目できちんと見ていたのかと私は言いたい.
 北関東は,冬でも全くの農閑期ではなかった.栃木と茨城の農村事情は確認する資料を持っていないが,昭和三十年代の群馬は,渋川市以北の山間部は別として,南半分の関東平野北限地帯では二毛作が行なわれていた.つまり春から秋にかけては稲作が行なわれ,秋に稲を収穫したあと翌年の春までは麦が栽培されていた.従って群馬は出稼ぎ地帯ではなかったのである.資料を示せないが,まず間違いなく栃木も同じであり,群馬や栃木よりも気候温暖な茨城は言うまでもない.『ひよっこ』の脚本でも,みね子と仲の良い同級生の時子の家は米作と酪農を兼業しており,また同じく同級生の三男の家は米の他に果樹園芸をやっているという設定だ.(NHKの番組紹介サイトに記載がある)
 時子の家も三男の家も,どちらかといえば裕福で,出稼ぎ農家ではないのである.奥茨城村で父親が出稼ぎに出ているのは,借金を抱えている矢田部家だけというのであるから,ドラマ中の架空の村である奥茨城村は,昭和三十年代の北関東のありふれた村だと考えていい.
(この項,続く)

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2017年4月17日 (月)

昭和の時代考証 (四)

 NHKの新朝ドラ『ひよっこ』が第三週に入った.
 この稿は《NHKの時代考証力を見るのも一興であろうから,暫く朝ドラを視聴してみようか》と書いて始めたものだ.第一週の放送に関しては時代考証が変だと異議を申し立て,第二週の内容については,ヒロイン矢田部みね子の家庭,矢田部家の飯についての疑義を述べた.
 先週 (第二週) の終りあたりで,みね子の父,実が出稼ぎ先の簡易宿泊所から失踪したことが判明し,ドラマは導入部が終ったところだ.
 みね子の母,美代子が常磐線に乗って上野駅に到着したシーンでは,当時の上野駅のモノクローム動画がテレビ画面に映し出された.私の記憶にもある懐かしい映像であった.
 それはいいのだが,画面が上野駅のセット撮影のシーン (これは上野駅の実際とかなり雰囲気が異なっていたが,上野駅をセットで作るのは無理というものだから仕方ない) に切り替わったとき,駅構内に浮浪者 (註) と思しき人が一人歩いていた.私はこのシーンに違和感を覚えたので,以下の (註) にそのことを書く.

(註) 今の言葉では「ホームレス」だが,当時は報道でも「浮浪者」と呼んだので本稿でも,時代背景を反映させるために「浮浪者」と書いておく.
 
Wikipedia【ホームレス】には,

かつては乞食・ルンペンなどと呼ばれており、特に日本では浮浪者という名称が定着していたが、差別用語との指摘を受けて放送禁止用語となったことにより、海外での同様な状況を指す英語の the homeless に由来する「ホームレス」という呼称がマスメディアを中心に外来語として定着した。

と書かれているが,これは正しくない.
 平成十三年 (2001年) 一月に実施された中央省庁再編により,旧厚生省と旧労働省を廃止統合して厚生労働省が発足したちょうどその頃だと思うが,平成十四年公布の「
ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」(平成十四年八月七日法律第百五号) の検討に入っていた厚労省が,《かつては乞食・ルンペンなどと呼ばれており、特に日本では浮浪者という名称が定着していた》ことに鑑み,行政上の用語としてより適切な言葉はないかと考え,有識者等の意見を入れた結果「ホームレス」を採用したのであった.ちなみに同法の定義は以下の通りである.

(定義)
第二条 この法律において「ホームレス」とは、都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者をいう。

「乞食」「ルンペン」「浮浪者」が差別用語であるとしてメディアから排除されたのはもっと前のことで,それ以後から「ホームレス」が一般化する前までは,新聞社,テレビ局により多くは路上生活者,まれに無宿者 (むしゅくしゃ) 等色々な呼び名が使用されていた.しかし厚労省が採用した用語にメディアも倣って,これ以後「ホームレス」が定着したのであった.
 ただし法律と行政の用語である「ホームレス」は極めて限定的であり,実際に私たちの周りの路上生活者やそれに近い人々は意図的に網羅していない.そのためメディアでは「ホームレス状態にある方」と呼ぶことが多い.
 ちなみにバブル経済崩壊後,東京都では青島都知事が都庁周辺から「ホームレス状態にある方」を徹底排除した.
 新宿駅から都庁への道路で,貧困者支援団体のデモが抗議する中,「ホームレス状態にある方」を引きずるようにして警視庁機動隊がどこかへ連れて行くのを,私も現地にいて見た.その光景を今も忘れない.
 JRも夜間は入口にシャッターがある駅ビルではこれを閉めて「ホームレス状態にある方」を追い出した.これがために真冬の東京 (同じ施策をやった大阪も同様) では,夜が明けると「ホームレス状態にある方」の凍えた遺体が通勤客に発見されるということが起きた.その状況を報道するテレビの報道番組を私は今でも思い出す.

 さて私の記憶では,ドラマ『ひよっこ』の時代の少し前に,上野駅構内から浮浪者が排除された.日本と東京はこの頃,終戦直後の貧しい雰囲気を都内から一掃しようと躍起になっていたのである.
 私は昭和三十五年の秋,小学校の東京修学旅行で上野駅に着いた.
 この時は駅舎の外に,少ないながらもまだ戦災孤児がいたのを記憶している.担任の先生が戦災孤児の説明してくれたのだった.しかしこの頃はもう大部分の浮浪者や孤児は上野公園にいたのだろうと思う.
 当時は,東京オリンピックを観にやってくる海外からの観光客らに,復興成った日本を見せることが国と都の至上命題であった.
 都内を流れる生活廃水で汚れた河川を暗渠化したのと同じ発想で,浮浪者と戦災孤児は人の目に触れぬよう繁華地帯から追い出されたのであった.

 閑話休題.
 矢田部美代子が実の失踪届を出しに赤坂の警察署を訪れたとき,ナレーション (増田明美) が「この頃,東京にやってきて行方不明になる人を蒸発者ということがあり,年間一万人近くになった」旨のことを語った (録画を消去してしまったので正確ではない).

 昭和中頃の行方不明者の状況を Wikipedia【失踪者】から一部抜粋する.

 年度      総数  男性  女性  成人  少年 所在確認数
1966(昭和41)年  91,593 46,144 45,449 46,783 44,810 63,667
1970(昭和45)年 100,753 49,195 51,558 55,761 44,992 74,218
1980(昭和55)年 101,318 48,398 52,920 55,206 46,112 88,821

 上の表から,東京オリンピックのあと,昭和四十一年の数字では大雑把に男性/女性/成人/少年の各セグメント比率が同じくらいなので,失踪届出の総数から所在確認数を引いた二万八千人のうちの七千人が成人男性失踪者と見做していいだろう.これはおそらく農村からの出稼ぎ労働者で失踪した人の数に近いのではないか.
 これに対して Wikipedia【蒸発】を見ると,

その他の用法
人に関して
液体で可視物として存在していたものが気体という不可視のものになってしまうことから転じて、人が突然行方不明になって (失踪して) しまうことにも「蒸発」を用いる。
1960年代には集団就職で上京した若者による失踪事案が多く、1967年 (昭和42年) に公開された今村昌平監督の映画『人間蒸発』や、1968年 (昭和43年)に矢吹健が歌唱した『蒸発のブルース』により流行語となる。
1970年代には約9,000名もの蒸発者が生じ、社会問題にもなった。

と書かれている.しかしこの《約9,000名もの蒸発者》が単年度のおよその蒸発者なのか,《1970年代に》蒸発した人の合計なのかが不明だ.
 不明ではあるがしかし,『ひよっこ』のナレーションから推測すれば,これは単年度の蒸発者ではなかろうか.
 私が出稼ぎ労働者の失踪と推定した七千人に,少年の失踪事案を足せば,ほぼ『ひよっこ』のナレーションの「年間一万人」に近くなるのではないかと想像する.
 交通事故死者数の推移に関するデータによると,昭和三十九年 (1964年) には死者約一万三千人であったが,現在 (2016年) は大きく減少し,四千人を下回っている.
 これに対して年間失踪者の実数も平成二十五年 (2013年) に約千八百人で,高度成長期に比較して激減している.
 半世紀,遥けくも来つるものかは.感慨深いものがある.

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2017年4月16日 (日)

昭和の時代考証 (三)

 NHKの新朝ドラ『ひよっこ』の第二週が終った.
NHKの時代考証力を見るのも一興であろうから,暫く朝ドラを視聴してみようか》と私は前々稿に書いた.
 第一週の放送に関しては時代考証が変だと文句をつけたが,第二週の内容については,時代考証の誤りではなく,矢田部家の飯についての疑問を述べたい.

 まず下の画像を御覧頂きたい.(録画データから静止画を切り出すのはたぶん許可を要するので,面倒くさいからテレビ画面を撮影してそれをトリミングした.これなら正当な引用の範囲で使用できる)
 茨城県の北部で農業をしているヒロインの家庭では,麦飯が常食であると第一回の放送で説明がなされた.
 その時の食事風景では家族が食べている麦飯を録画して観察できなかったのだが,第二週の放送で,皆揃ってカレーライスを食べる場面があり,下の画像はそのカレーライスである.

20170416a

20170416b

 さて私たちが麦飯と呼んでいるものは,通常は米と押麦を炊いたものである.これについては Wikipedia【麦飯】の記述が正確妥当なので下に引用する.

精麦
麦を精白したものを精麦という。麦粒は米に比べて煮えにくいので、先に丸麦を煮ておき水分を捨てて粘り気を取り、米と混ぜて一緒に炊いた。湯取り法の一種である。また麦をあらかじめ煮る手間を省くため、唐臼や石臼で挽き割って粒を小さくした麦は、米と混ぜて炊くことができた。これを挽割麦という。これは主に農家の自家消費用であったが、明治十年頃からは一般にも販売されるようになった。
現在多く流通しているのはいわゆる「押し麦」であるが、これは麦を砕く代わりにローラーで平たく押しつぶし、煮えやすくしたものである。明治35年に押し麦が発明されたが、当初は麦を石臼にかけ、手押しのローラーで押して天日で干す手作業で製造していた。大正二年、発明家の鈴木忠次郎が麦の精殻・圧延機を開発し、精麦過程が機械化された。更に鈴木は精麦機械の改良に取り組み、この「鈴木式」精麦機を備えた工場が各地に設立されて、精麦の大量生産体制が整った。
昨今ではさまざまな精麦が開発されている。
丸麦   大麦の外皮を取り除き、精白した状態そのままのもの。
押麦   精白した大麦に水と熱を加えて2つのローラーで押したもの。粒の真ん中に黒条が残る。麦とろに良く用いられる。
切断麦  黒条(中央の線)を縦に半分に切り、水と熱を加えて2つのローラーで押したもの。
米粒麦  黒条から縦に半分に切り、米粒状に剥いたもの。押麦や切断麦は水洗いの際に浮きやすいのに対し、米粒麦は米と混ざりやすくなっている。

 上の記述にあるように,戦後の一般家庭で食べられていた麦は押麦である.
 押麦が発明される以前は丸麦が食べられていたのだが,これは米と一緒に炊いたのでは堅くて食べにくい.そのため丸麦を食べるには,米とは別にあらかじめ炊いておき,軟化したもの (えまし麦という) を米に混ぜて炊くという二度手間が必要であった.
 そのため,炊事に火を用いてよいのが一日一度に限られていた江戸時代の都市部一般町人 (お上から火災予防のためにきついお達しがあった) は,麦飯ではなく米の飯を食わざるをえなかった.
 体によいとかの理由で玄米や丸麦を食べていた人は昔からいたであろうが,一般国民に麦飯が広く普及したのは昭和の戦後である.
 で,『ひよっこ』のヒロインの家庭は農家であるが,これまでの放送内容からすると,米の単作 (一毛作) である.
 これは特に無理のない設定であるが,その場合は,麦飯を日常食とするとしてもその麦は押麦以外ではあり得ない.なぜなら,自給できない故にわざわざ購入する麦を,押麦ではなく炊飯コストの高い丸麦にする理由がないからである.

 そこで上の画像だが,押麦と丸麦は実物を一目見れば瞭然であるが,残念ながら上の画像は解像度が低くてよくわからない.
 次の問題は色である.カレーソースと共に映っている炊かれた米も麦も非常に濃い黄褐色をしている.これは,カレーソースの色に色調が影響されているのではなく,カメラを少し引いたシーンでも同じ色調であった.
 私は今も時折麦飯を食うが,こんな色の麦飯は見たことがない.普通の麦飯はやや灰色を帯びてはいるが黄褐色ではない.これほど黄褐色なのは玄米御飯に違いないと思われる.
 だとすると,使われている麦は押麦ではなく,搗精度の高くない丸麦だと思われる.(玄米と押麦を一緒に炊くのは無理だ)
 だがしかし,そうすると,ヒロインの矢田部家ではわざわざ丸麦を買って食べていることになり,それはおかしい.
 ドラマでは詳しい説明がなされていないが,矢田部家の飯は一体どのようなものであるのか.若い人は「あれが麦飯なのねー」と思うだけだろうが,私のような年寄りは疑問に思う.爺さん婆さん視聴者が納得できるような説明して欲しいと思う.

 あと,もう一つ.失踪した夫の消息を訊ねにヒロインの母が東京に行く日の朝,炊事をするシーンで,研いだ米を電気炊飯器に入れて蓋をしたが,このとき麦を入れなかった.
 えまし麦も押麦も,研いだ米を炊飯器に入れる時に混ぜなければいけない.
 米と押麦を一緒に研いで,それを同時に炊飯器に入れたとドラマの演出家は言い訳するかも知れないが,昔から押麦は研がずに用いる.研いだ米を羽釜とか鍋,あるいは電器炊飯器に入れ,それに押麦を加え,それから水加減をして炊くものなのである.
(参考;全国精麦工業協同組合連合会のサイトのQ&Aから引用.
Q. 麦は洗わずに使えるって本当?
 A. 精麦製品の原料となる麦は、外皮が硬いため、製造工程で麦粒の40~50%は、削り取られていきます。したがって、その過程で糠も除去されますので、特にお米のようにとぎ洗いする必要はありません。

 言い忘れたが,有村架純ちゃんはかわいいが,ヒロインの母の木村佳乃さんもいいなあ.美人は麦飯の炊き方なんか知らなくても全く構いません.よかったよかった.

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2017年4月12日 (水)

ビジネスマンが書く日本史とは (十二)

(ブログ筆者註;タイトルの「ビジネスマン」は,週刊文春誌上で《ゼロから学ぶ「日本史」講義》を連載しているライフネット生命保険株式会社代表取締役会長兼CEOの出口治明氏を指し,氏を批判することが本連載の趣旨である)

 前回の記事では,宮内庁編纂『昭和天皇実録』の公刊本が発売されたとき,琉球新報が社説《昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ 》において指摘した三項目のうち,最初の一つ《最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない》について,誤解を招きやすい箇所《天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した》について註を施した.
 再度強調しておくが,「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」は,「もう一度戦果を挙げなければ和平交渉は困難だ」という意味ではなく,「もう一度戦果を挙げなければ東條英機ら陸軍主流派を排除する粛軍は困難だ (ブログ筆者註;この粛軍は近衛文麿が昭和天皇に進言した)」という意味である.これは『木戸幸一関係文書』(木戸日記研究会編,東京大学出版会,1966年,495~498頁) に書かれている.
 すなわち近衛が,戦争継続派である東條英機ら陸軍主流派を排除して和平交渉を進めるべしと上奏したのに対して,昭和天皇は,東條英機らの排除は無理であると近衛に答え,結果的に昭和天皇は近衛が主張した和平交渉開始を否定したのであった.いささかややこしいが,昭和天皇は近衛に対して,この時点では戦争継続の意志を婉曲に示したのであった.
 「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」を「もう一度戦果を挙げなければ (ブログ筆者註;日本が米軍との戦闘でもう一度戦果を挙げなければ,という意味) 和平交渉は困難だ」とする誤った解釈が流布している理由は不明であるが,そのように記述している書籍やネット上の記載文章がかなりあるので,注意を喚起しておく.実際,ネット上の右派論者たちは,この誤りを取り上げて「サヨクの情報操作」と非難している.

 さて琉球新報が社説で述べた二つ目の指摘は,戦争末期,和平交渉の仲介を依頼したソ連に対して日本側が示した和平条件の中に,領土として沖縄を放棄するとされていた理由はなぜかということである.社説の当該箇所を再掲する.

二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。

 昭和天皇の戦争継続の意志と戦局挽回への期待に反して,状況は悪化の一途をたどった.
 四十五年二月十九日に米軍は硫黄島に上陸し,翌月十七日に守備隊は全滅した.
 四月一日,米軍が沖縄本島への上陸を開始した.
 昭和天皇の臣下を自称する右派論客は,著作中で平和を希求する天皇像を描くことに腐心しているが,実は昭和天皇は近衛文麿の和平上奏を退けたあと積極的に戦争指導を行っていた.昭和史の解説書に書かれているように,昭和天皇の戦争指導は,「○○せよ」という命令ではなく,臣下に対する質問という形を取って行われた.「質問」は「指導」ではないというのは子供じみた言い訳にすぎない.

 しかし戦場現地の状況を把握していない昭和天皇の戦争指揮は,軍に混乱をもたらすばかりであった.

4月3日の戦況上奏の際に、昭和天皇(大元帥)が梅津陸軍参謀総長に対し「(沖縄戦が)不利になれば今後の戦局憂ふべきものあり、現地軍は何故攻勢に出ぬか」と下問した。その下問を受けて梅津は「第32軍に適切な作戦指導を行わなければならぬ」と考え、大本営陸軍部は第32軍に対しアメリカ軍に奪われた北・中飛行場の奪回を要望する電令を発した。さらに沖縄戦を最後の決戦と位置づける連合艦隊からも、北・中飛行場を奪還する要望が第32軍に打電されている。これらの督促を受けて、長第32軍参謀長は攻勢を主張、八原高級参謀は反対するも、牛島軍司令官は北・中飛行場方面への出撃を決定した。4月8日と12日に日本軍は夜襲を行ったが、第62師団の2個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。》 (Wikipedia【沖縄戦】から引用)

 戦艦大和の出撃のときも同じであった.

第五航空艦隊長官の宇垣中将は戦時日誌に、及川軍令部総長が「菊水一号作戦」を昭和天皇に上奏したとき、「航空部隊丈の総攻撃なるや」との下問があり、天皇から『飛行機だけか?海軍にはもう船はないのか?沖縄は救えないのか?』と質問をされ「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と奉答してしまった為に、第二艦隊の海上特攻も実施されることになったとして及川軍令部総長の対応を批判している。》 (Wikipedia【大和(戦艦)】から引用)

 昭和天皇の質問に対して臣下たちは,天皇の意志がどうであるかを察して行動した.これが世にいう「忖度」である.忖度は昔からの日本統治システムだったのである.

 それはさておき,六月二十三日午前四時頃 (異説あり),沖縄県民に多大な犠牲を強いた「捨て石」沖縄戦の最高指揮官たる第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が,最後まで戦うことなく摩文仁の軍司令部で自決した.翌二十四日頃,沖縄守備軍基幹部隊であった歩兵第22・第89連隊は軍旗を燃やして玉砕した.これによって沖縄守備軍の指揮系統は消滅し,沖縄戦が終った.
(続く)

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2017年4月 9日 (日)

昭和の時代考証 (二)

 NHKの新朝ドラ『ひよっこ』の第一週が終った.
NHKの時代考証力を見るのも一興であろうから,暫く朝ドラを視聴してみようか》と私は前稿に書いたが,第一週の内容で気に入らぬ点がある.

 ヒロインの母親である谷田部美代子 (木村佳乃) が炊事をしながら鼻歌で,元祖一発屋歌手の一人である渡辺マリが昭和三十六年 (1961年) に放った大ヒット曲「東京ドドンパ娘」を歌ったのである.
 またヒロイン谷田部みね子 (有村架純) も学校から自転車に乗っての帰り道に,やはり「東京ドドンパ娘」を歌っていた.

 「東京ドドンパ娘」のリリースは昭和三十六年で,ヒットした当時はラジオもテレビも商店街のスピーカーも猫も杓子もドドンパッドドンパッと歌ったのであるが,流行はあっという間に終息し,『ひよっこ』第一週の時代,つまり三年後の昭和三十九年 (1964年) の秋には,もう誰一人として渡辺マリの歌なんか見向きもしなくなっていたはず.
 東京オリンピックがもうすぐだという頃になっても,いまだに母も娘も揃ってドドンパッドドンパッは,時代考証的に明らかにおかしい.数人の団塊世代の知人に訊ねてみたが,ドドンパ娘ってのはオリンピックよりずっと前の歌だ,と皆が答えた.脚本を書いた人間が,「東京ドドンパ娘」で昭和感を出そうとしたのであるなら,大きな間違いである.もっと年寄りに訊いてよく調べて書けと言いたい.
 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の山崎貴監督は同作品への批判に対して《当時の現実的情景の再現以上に、人々の記憶や心に存在しているイメージ的情景の再生を重視した》と釈明したという.(《》は Wikipedia【ALWAYS 三丁目の夕日】から引用)
 NHKは,山崎監督と同じようにして嘘くさい「昭和」を朝ドラででっち上げたいのなら,それは年寄りが死に絶えてからにしたほうがいい.
 東京オリンピック直前は,商店街の街頭スピーカーは日がな一日中,前年からヒット街道を突っ走っていた三波春夫「東京五輪音頭」を流し続け,ラジオやテレビから聞こえるのはヒット曲を連発するザ・ピーナッツと坂本九の歌ばっかりだったのである.(西田佐知子「東京ブルース」と井沢八郎「ああ上野駅」もこの年の記念すべきヒット曲だが,田舎の女子高校生とその母親が歌うにはふさわしくない〈笑〉)
 それとも何か.皆様のNHKは,茨城の流行は東京の三年遅れだとでも言いたいのか.茨城を馬鹿にすっでねえ.
 ところで有村架純ちゃんの方言は今イチであるが,かわいいから許

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2017年4月 7日 (金)

美しい飯 (二)

 昨日の記事の続き.

 未来食堂で「ただめし券」を使った客は,券の裏面にメッセージを書いて残していく.
 それは例えば「《3日食事してなかったので すごい食べました ありがとうございます》といった短い言葉である.
 そんなメッセージが書かれた使用済みの「ただめし券」を,小林さんはファイルに入れて保存している.
 どうやら「ただめし券」は使い捨ての食券ではなく,小林さんと,店の手伝いをした人と,「ただめし券」を使って食事をした人とを結ぶツールのようなものであるらしい.

 小林さんが「ただめし券」を発想した原点は,彼女が高校生の時,進路のことで悩み,わずかなお金を持って神戸から上京したプチ家出の経験だと,番組のナレーションは説明した.
 小林さんはアルバイトをしながら東京で一人暮らしを始めたのだが,誰とも会話することのない孤独な日々であったという.
 そんなある日,バイト先の名前も知らない同僚たちが,お昼御飯の時に彼女に唐揚げ弁当を手渡し,一緒に食べようと声をかけてくれた.
 私が想像するに,同僚たちは小林さんに,このまま放っておいたらドロップアウトしてしまいそうな危うさを感じ取ったのであろう.
 手を差し伸べられた小林さんは同僚たちに,ありがとう,いただきます,と言って,涙が止まらなくなったという.
 私は独りじゃないんだ.そう思ったのだ.

 こんな経験をしたあと小林さんは東京工業大学数学科に進み,卒業後はIBMやクックパッドにエンジニアとして勤務したが,その後はどんどん飲食業に接近していく.
 昨日の記事の中程に記したことだが,小さな定食屋に過ぎない未来食堂が公式ウェブサイトを持ち,事業計画を公開するなど,食堂開業を「起業」としてアピールしている方法論は,会社員時代の経験に裏打ちされていると思われる.

 ここら辺のことは小林さんの著書『未来食堂ができるまで』(小学館.他に Kindle版がある) に譲るが,小林さんの東京工大卒の技術者としての人生を大きく方向転換させ,未来食堂の起業に向けて走らせた原動力は,高校生の時の家出体験だと,番組中で次のように語った.

横に誰かがいるっていうことが,それが,なんか自分にとって必要なことなんだなって,その時に気づいたんですね.
 自分と同じように今にも落ちそうな人.
 未来食堂って一個の,ただのちっちゃなお店なので,知ってる人を少しでも増やして,落ちそうな人まで届けたいんですよね

 未来食堂は,「今にも落ちそうな人」に,あなたは独りじゃないんだというメッセージを届けるためのものなんだと彼女は言いたいのであろう.彼女が作る定食はメッセージなのだ.
 だから彼女は「未来食堂はブランドです」と『カンブリア宮殿』MCの村上龍に語った.

未来食堂の理念は「誰もが受け入れられて,誰もがふさわしい場所」です.今,飲食店という形で未来食堂が形になりましたけど,これはまだ第一形態.これを見た誰かが,私よりも優秀な誰かが,第二形態に変えていけるんじゃないかって思ってるんですね.もっとこういう面から見たら大きくなるとか,いろいろな人が加わることによって,よりよい形になっていく.そこまで自分は走り続けて,未来食堂というブランドを高めていく.それが自分のやるべきことかなと思います.

 小林さんは新聞など他のメディアで,《いろいろな人が加わることによって,よりよい形になっていく》ことを「未来食堂はオープンソース」だと表現した.これはいかにもIT技術者出身の人らしい言い方だと,微笑ましく感じられた.
 とまれ,小林さんの志「食事というものを通じて,あなたは独りじゃないんだというメッセージを届けること」は,何人もの共感者を得ているらしく,それは店のホワイトボードに貼られた何枚もの「ただめし券」を見ればよくわかる.使用済み「ただめし券」のファイルにも,お金に困った時に「ただめし券」で空腹を満たした人が,「ただめし券」の裏側に,今度は手伝いに行きます,とメッセージを残していた.未来食堂のオープンソース化は順調に進行しているようだ.
 十数年前に,神戸から東京に出てきた家出少女に手渡された唐揚げ弁当は,いま「ただめし券」という形になった.未来食堂がこれから,小林さんの開業の志を支援者と利用者にどう伝え,飲食店という枠を超えてどう成長していくのか見守りたい.

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2017年4月 6日 (木)

美しい飯 (一)

 先月の記事 (3/25) 《飯の粒が立っている 》に次のように書いた.

一昨日 (3/23) 放送のテレビ東京『カンブリア宮殿』は …… 例によって例の如きいつものビジネス成功譚であって,とくにどうということはないが ……》

 『カンブリア宮殿』など日経がスポンサードしているビジネス情報番組は,現役の会社員が観れば「ふむふむなるほどねー」と一応思いはするだろうが,まあいつもはそれだけの,右の耳から入って左の耳に抜けても構わぬ軽い番組ではある.
 ところがこのあいだの放送 (3/30) は,いつものビジネス成功譚ではなかった.

 その回の紹介文をテレビ東京同番組のウェブページから引用する.

人や地域のつながりが希薄化する中で、2つの"食堂"が、小さな奇跡を起こそうとしている。都心のオフィス街に2年前にオープンした風変わりな食堂が注目を集めている。「未来食堂」は、客が店を手伝う「まかない」、それによって手に入れる「ただめし」など、客と店が"つながる"不思議なシステムが盛りだくさん。徹底した"効率経営"と、"客と一体化した店作り"で、食堂の新たな可能性を模索している。一方、「子ども食堂」は経済的困窮や孤食に陥る子どもたちに向けて、低料金で温かい食事を提供する取り組み。地域のボランティアが中心となって、いまや全国で300カ所以上開設されている。子どもたちの新たな"居場所"としてその役割に期待が寄せられている。独自の発想と信念で、失われた社会の"絆"を取り戻そうとする、2つの"感動食堂"を紹介する!

 この惹句に書かれている未来食堂 (トップページ左上にあるタイトルバナーをクリックして欲しい.小さな定食屋で公式ウェブサイトを持ち,事業計画書を公開し,プレスリリースを掲載するという驚くべき店だ.これは店主の経歴によるものだろうが,それについては後述),東京は神田神保町の教育会館地下にある個人営業の大衆食堂である.まだ三十二歳の若い店主,小林せかいさんは,この食堂をビジネスとしてきちんと意識しているようだが,しかし日経のビジネス番組が取り上げるほど営利の飲食ビジネスとして大きな成功をしているとは言い難い.毎月の粗利で八十万円程度の黒字経営ではあるが,そこら辺の料理店やラーメン屋で,もっと利益を上げている店はザラにあるだろう.
 だがこの未来食堂の意義,価値は,毎月の利益がどうのということにあるのではない.この食堂は,大抵の人があっと驚く仕組みを持っているのだ.

 まず,この食堂は狭い店内に十人ほど客が腰掛けられるコの字型ウンターがあって,中で小林さんが忙しく立ち働いているのだが,未来食堂がユニークなのは,誰でも小林さんの手伝いを買って出ることができるということ.
 皿洗いでも調理でもいいが,手伝いをすると,その人は一食分の「ただめし券」をもらえるのである.
 これは以前から類似のシステムがある.一番有名なのは,暴力団などの反社会勢力との関係を疑われた大東隆行元社長が射殺された事件で知られる中華料理チェーン「餃子の王将」の一部店舗がやっている「皿洗いキャンペーン」である.(参照《「王将フードサービス」特集 なぜ、皿洗いをすれば定食をタダにするのか 》)  
 この王将 (京都の出町店) の「皿洗いキャンペーン」は美談のように言われることがあるが,実は皿洗いをすれば一食の飯がただになるという,ただそれだけのことである.王将側は皿洗いの人件費を計算にいれると別段の損があるわけではないから,美談とは少し違うだろう.
 上に紹介したウェブ雑誌記事《「王将フードサービス」特集 なぜ、皿洗いをすれば定食をタダにするのか》では

また、皿洗いをやった客は王将に親しみを感じるでしょう。今はお金を持っていなくとも、将来はリピーターになる客なんです。だから、顧客の囲い込みにもなる

と損得づくのように言われてしまって,まあそこまで言われると,善意でやっているに違いない王将出町店の店長がお気の毒ではあるが.(笑)

 閑話休題.未来食堂の小林さんの発想のすごいところは,「皿洗いや調理を手伝うと飯がただになる」のではなく,「皿洗いや調理を手伝うと見知らぬ誰かに一食分の飯をプレゼントできる」という点にある.
 具体的には,手伝いをした人は,縦横五センチほどのメモ用紙に日付と自分の名前と例えば「この券を使ってください」などと書いて,店の入口にあるホワイトボードに貼り付ける.
 そのボードにはこんなことが書いてある.

ただめし券
誰でも使えます。はがしてもってくると一食無料になります。困った時は使ってください。会計時にみせてください。未来食堂では50分のお手伝いで一食もらえる"まかない"制度があります。ただめし券は"まかない"でもらった食券をどなたかが置いていったものです。

 給料日直前とか何かの事情で切羽詰まって飯を食う金に困った人は,入口のボードに貼り付けてある「ただめし券」を一枚取って席に着けば,ただちに定食が目の前に提供される.これが未来食堂の「ただめし券」システムである.
(続く)

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