新・雑事雑感

主に時事的話題です.

2017年6月24日 (土)

傲慢な喫煙者の代表 飯島勲

 飯島勲という男が週刊文春に「飯島勲内閣参与の激辛インテリジェンス」という連載コラムを書いている.
 飯島勲は,Wikipedia【飯島勲】

メディア戦略や情報操作に長けており、日本のメディアからは「官邸のラスプーチン」、アメリカのメディアからは「日本のカール・ローヴ」と評され、歴代の総理秘書官と比較してメディア露出が多い。

と書かれているように,日本政界に暗躍する一種の怪人物である.
 昭和四十七年 (1972年) に小泉純一郎の秘書となった以後,紆余曲折あって小泉と対立し,現在は安倍晋三の取り巻きとして生きている.
 こいつが文春 (6/15号) の連載コラム冒頭に次の文章を書いた.

オレも色々とご縁の深い政治家だった与謝野馨元経済財政相が、亡くなられたな。ここに謹んで哀悼の意を表させていただくぜ。

 私は長いこと生きてきてたくさんの文章を読んだが,こんな馬鹿な日本語は初めて目にした.
 普通に「ここに謹んで哀悼の意を表させていただく」で何故いけないのか.
 飯島は,これに無礼にも「ぜ」をつけることで,故人に対して「謹んで」哀悼の意を表する気持ちが全くないことを示していることになる.
 ところが,この書き出しに続く以降の文章では,飯島は与謝野馨氏を特に愚弄しているわけではない.無礼なのは冒頭の一文だけなのである.
 ということは,飯島は「ここに謹んで哀悼の意を表させていただく」には「ぜ」を付けてはいけないことを知らぬと考えていい.
 つまり日本語に関して無知なのである.
 飯島勲は人生のスタートから,政治家秘書として虎の威を借る狐の生き方をしてきた.
 こういうふんぞり返った男は,礼儀も常識も学ぶことがなかったのだろう.

 翌週の週刊文春 (6/22号) で飯島は,受動喫煙について,《小池「禁煙条例」がひどすぎる》と題して以下の通り書いた.

小池氏が代表に就いた「都民ファーストの会」は、都議会選挙に向けて、公共施設や飲食店の屋内全面禁煙の条例制定を公約でぶち上げたじゃん。
 加えて「子どもを受動喫煙から守る条例」も創るって、冗談じゃないぜ。自宅でも「子どもと同室の空間で喫煙をしてはならない」とかさ。もっとひどいのは「子どもが同乗する自動車内において喫煙をしてはならない」だって。それじゃどこで吸えばいいの?

 普通の喫煙者は,なんとか非喫煙者に迷惑をかけないようにしたいと思っているだろう.ところが飯島は子供の受動喫煙なんか考慮する必要はないと言い切ったのだ.
 ここに至っては,飯島勲には常識どころか,そもそも知性というものが無いと言わざるを得ない.こんな男が安倍晋三の取り巻きなのである.
 飯島勲のコラムのタイトルは「飯島勲内閣参与の激辛インテリジェンス」であるが,知性がないのに「インテリジェンス」が笑わせる.このコラムは,週刊文春のコラムの中でも最低の内容であり,よくまあこんな阿呆なことを毎週書けるものだと,情けない思いがする.

 飯島は,安倍晋三の御友達の中でも,レイプ犯でありながら警察の「忖度」によって起訴を免れたあの山口敬之と並ぶ馬鹿である.

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2017年6月21日 (水)

哀れ丼紙ナプキン

 諸般の事情でブログ更新が暫く滞った.
 事情の粗方が片付いたところで,時間の余裕ができたので更新を再開する.

 先日その事情に関連してだが,三年前に住んでいた東京の国分寺市へ出かけた折,ちょうど昼飯時だったが,急いでいたので国分寺駅上り線ホームにある立食い蕎麦屋 (椅子はあるから立って食べる正調立食い蕎麦ではない) で軽く腹に入れることにした.
 自動販売機で食券を買って店内に入ると,先客は一人だけであった.痩せた五十代半ばと思しき軽装の男であった.平日の昼間にポロシャツ一枚であったから,会社員ではないだろう.

 私は特に理由もなくL字カウンターの端に腰かけた.先客との位置関係は下記略図のようであった.

          ■
       ※  ■
          ■先客
■■■■■■■■■■■
         私
(※は従業員のおばさんである.ちなみに上図から右方向が東京駅方面である)

 私が席に腰掛けたとき,店のおばさんは「はいおまちどうさま~」と先客にかき揚げ蕎麦の丼を渡した.立食い蕎麦は,おばさんに食券を渡せばすぐ出てくるのであるから,先客は私のすぐ前に店に入ったものと思われた.
 私の冷やしたぬき蕎麦も続いて出来上がり,客二名は音もなく蕎麦を食べ始めたと書けばただの日常風景であるが,この時はそうでなかった.
 痩せたポロシャツ男は,激しい鼻炎だったのである.

 男の鼻はほぼ完全に詰まっており,よせばいいのにそんな状態で熱い汁蕎麦なんぞを食うものだから,鼻水が出てきたらしい.
 会社員であればポケットティッシュの一つくらい仕事かばんの中に入れてあるものだが,この男は手ぶらであり,ティッシュの用意はなかった.
 では男がどうしたかというと,カウンターに置かれている紙ナプキンで鼻をかむことにしたのである.
 男は「ズガブーッ」と爆音のごとき音を立てて鼻をかみ,その鼻紙代わりの紙ナプキンを,私から見えるところに置いた.下の図の (*) である.

          ■
       ※  ■
          ■先客
■■■■■■■■■■■ (*)
         私

 男は再び蕎麦をすすると,「ブガブーッ」と爆音のごとき音を立てて,垂れてくる鼻水をかみ,その鼻紙代わりの紙ナプキンを同じところに置いた.
 これが蕎麦一すすりごとに繰り返され,遂に鼻水紙ナプキンは,丼一杯ほども積み上げられたのである.

 現役会社員時代の私なら,男の横面を「うるせえっ,花粉症性鼻炎なのに熱い汁蕎麦を食うとは無思慮にして迷惑な騒音野郎っ」と説明調に張り倒していたものであるが,今は年金で細々と暮らしている老人である.鼻炎野郎の爆騒音にひたすら耐えたのであった.

 とまあ,ここまでなら,ただの日常風景ではないが,異常な光景とは言い難いだろう.
 真に驚愕すべきことは,その男が蕎麦を食い終わったときに起こった.
 男は,積み上げられた鼻水まみれの紙ナプキンを,先程までかき揚げ蕎麦が入っていた丼にぶち込んだのである.丼に残っていた汁を吸った鼻水まみれの紙ナプキンが茶色に染まっていくのを私は呆然と眺めた.
 現役会社員時代の私なら,男の横面を (中略),今は年金で細々と暮らしている老人である.店を出ていく鼻炎野郎の後ろ姿を静かに見送った.

 私はまだ若い頃,蕎麦屋で相席になった会社員風の客が,テーブルに置かれた爪楊枝入れから一本抜き取った爪楊枝で,シーハシーハと汚らしい音を盛大に立てて歯を掃除し,その爪楊枝を元の爪楊枝入れに戻したのを目撃したことがある.
 これが昭和から平成にかけて「輝け!蕎麦屋迷惑客ベストテン」の不動の第一位であるが,今回の丼鼻紙事件は一気に第二位にランキングされたのである.
 第三位以下については,御要望があれば書きたいと思う.そんなもん要らないですか.わかりました.

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2017年5月29日 (月)

無責任IT男

 まずはmsnニュースが TechCrunch日本版から転載した《トップ棋士に3連勝したAlphaGo、引退を表明 》を御覧頂きたい.
 翻訳ソフトを使用して「翻訳」した結果をそのまま載せているのがあからさまである.当然のことながら全く日本語の文章になっていない.この呆れた記事の責任者は岩谷宏という高齢の人物である.

 翻訳ソフトが悪いのではない.現状の翻訳ソフトはその程度のものだから,普通の英語力がある人は翻訳ソフトなんか使わない.翻訳ソフトは,できの悪い中学生がネット記事を「読んだつもりになる」ために使うものである.

 上に紹介した馬鹿記事に関して,悪いのは, TechCrunch日本版の「翻訳」スタッフをしている岩谷宏氏である.
 岩谷氏は,その翻訳ソフトと同程度の英語力しかないから TechCrunch に掲載された英文を翻訳ソフトで処理し,その出力を自分で全く読まずに TechCrunch日本版に貼り付けたわけで,よくまあそんな無責任な仕事振りで飯が食えるものだ.
 私のような年寄りは,まじめに働いていればお天道様と米の飯はついてまわる,と親に教えられて育った.岩谷宏 (もう呼び捨てにする) も同じはずだが,この体たらくはどうしたことだ.
 若い人ならばともかく,青年たちに範を垂れるべき年齢の男が,こんな有様で平然としている.この国の土台が腐ってきている兆候でなければよいが.

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2017年5月25日 (木)

金に吹かれて 再論

 先週掲載した記事《2017年5月20日 (土) 金に吹かれて 》 で,私は以下のように書いた.

京都大学の山極寿一総長が今年春の入学式で,日本人によるカバー曲ではタイトル「風に吹かれて」として知られるボブ・ディランの "Blowin' in the Wind" の歌詞を,式辞に引用したことが問題になっている.
 言うまでもなく,口頭で述べる式辞中で歌詞を読み上げても何ら法的問題はないが,京都大学は当該式辞を大学のウェブサイトに掲載した.これについて日本音楽著作権協会 (JASRAC) は歌詞の使用料が必要になると大学側に伝えたという.
 朝日新聞DIGITAL が報道したところによると,京都大学広報担当者は,これは適正な引用であるから許諾は不要であると主張している.
 おもしろそうなので京都大学のサイトを覗いてみた.
 その式辞は《平成29年度学部入学式 式辞 (2017年4月7日) 》であるが,一読して,残念ながらどうみても明らかに不適切である.
 歌詞を引用する場合は,その歌詞そのものに対する批評が不可欠なのであるが,山極先生の式辞中には,ボブ・ディランが作った歌詞に対する批評がまったくない.単に話のマクラに歌詞を紹介しているだけであり,適正な引用どころか不適正な引用にすらなっていない.
 ボブ・ディランの歌詞を話のマクラにしたいなら,原歌詞を山極先生が翻訳し,大学のサイトに掲載する文章には,その歌詞を式辞に用いればよかったのである.
 ましてや文章中に歌詞を引用などすれば,強欲で知られる JASRAC からクレームが来るのは常識だ.不用意であったとしか言いようがない.

 この問題が最初に報道された時,京都大学広報課は,歌詞使用料に関する手続きが必要だと JASRAC から伝えられた (=使用料を請求された),とメディアの取材に回答している.これは京都新聞のウェブサイトが記事《式辞に歌詞引用、著作権料を 京大HP掲載でJASRAC 》(2017年05月19日5時00分掲載) で伝えたものをテレビ,他紙およびネットニュースが追従して報道した.
 翌日になると JASRAC は,メディアの反響の大きさに驚いたと見えて,歌詞使用料を請求したのではなく事実確認をしただけである,とメディア各社の取材に対して一歩後退した.
 そして遂に昨日,JASRAC の浅石道夫理事長は定例記者会見で,本件は引用であると認め,使用料は請求しないと発表した.
 これは,歌詞の引用に関して,以前から一貫してJASRAC が取ってきた方針と百八十度異なるものであるので,以下に解説する.

 「引用」すなわち合法的無断引用の詳しい解説は Wikipedia【引用】を参照して頂きたい.
 この Wikipedia の記述を踏まえて,それではどのような場合に引用が可能かは,文化庁ウェブサイトのコンテンツ《著作物が自由に使える場合 》に以下の如き指針が示されている.

(注5)引用における注意事項
 他人の著作物を自分の著作物の中に取り込む場合,すなわち引用を行う場合,一般的には,以下の事項に注意しなければなりません。
(1)他人の著作物を引用する必然性があること。
(2)かぎ括弧をつけるなど,自分の著作物と引用部分とが区別されていること。
(3)自分の著作物と引用する著作物との主従関係が明確であること(自分の著作物が主体)。
(4)出所の明示がなされていること。(第48条)

 ここで最も重要なことは,引用の必然性である.
 (2) の引用部分が明確であるか否か,(3) の自分の著作物と引用部分の主従関係において引用部分が従であるか否か,は判断基準が曖昧である.
 また,(4) の出所の明示は,どこまで詳しく書けばいいのかという問題がある.
 それ故,以上の三点について合法かどうかは,最終的には訴訟で争われることになるが,しかし,必然性のない無断引用については,特段に司法の判断を待たずとも,健全な常識に基づいて判断ができる.
 例えば必然性のない無断引用の一例だが,ブログあるいは個人ウェブサイトにおいて,検索でヒットされやすくするために当該記事の内容に無関係にヒット曲の歌詞を書き込むということが,かつて流行したことがある.しかしこのような行為は,著作権法の趣旨に照らして,健全な常識のみで合法に非ずと判断できるのである.

 そこで件の京都大学山極先生の式辞に戻る.
 まず引用の必然性についてであるが,ボブ・ディランが「風に吹かれて」の中で歌ったことは,歌詞を引用せずとも十分に可能であったと考えられる.
 例えば「ボブ・ディランは『風に吹かれて』で,答えは風の中にあると歌っています.その意味は……ということだと私は思います」と,歌詞を直接書かなくても,ボブ・ディランが歌詞に込めた思いを解説すれば,著作権法上,何の問題もなかったのである.
 それに,同じ趣旨のことは,わざわざ「風に吹かれて」を引き合いに出さずなくても,新入生に伝えることができる.山極先生は話のマクラに「風に吹かれて」を持ち出しているに過ぎないのであり,そう判断するのが健全な常識というものである..
 その上しかも,京大のウェブサイトに掲載された当該式辞の末尾には,

(“ ”は、Bob Dylan氏の「blowin' in the wind」より引用)

と書かれているが,実際には引用開始を示す《》と引用終わりを示す《》との間に,日本語訳が紛れ込んでいる.
 これは引用部分を明示することという文化庁が示した指針に反しているのである.

 さらに続けて言おう.
 山極先生は,式辞後半で茨木のり子の詩を引用している.その箇所を下の《》に示す.

最後に、皆さんに私の大好きな詩を贈ろうと思います。自分がもっとも美しかった青春時代を、戦時中の学徒動員と敗戦のがれきのなかで過ごした茨木のり子の「6月」という詩です。

 この引用に続いて山極先生は,茨木のり子が追い求めた美しい村や街を大学の中に創造したいと述べた.
 それはどのような村や街であったかを入学式に出席したすべての学生に知ってもらうには,その詩を引用する以外の方法はない.茨木のり子の詩は,誰でも知っているわけではないからである.
 すなわち,式辞中に茨木のり子の詩を引用することには大いに必然性がある.その引用は,式辞の中で大変に重要な部分なのである.
 であるとすれば,文化庁の指針にある「引用に必要な条件」を満たさねばいけないのであるが,山極先生はその詩の出典を示さなかった.これでは合法な無断引用とは認められないのである.
 ちなみに,その詩は,初出が昭和三十一年六月二十一日の朝日新聞に掲載されたもので,二年後に彼女の第二詩集『見えない配達夫』(飯塚書店,昭和三十三年十一月刊) に収載された.
 この詩を式辞で述べるのは問題ないが,大学のサイトに式辞文章の一部として掲載するのであれば,著作権法上,少なくとも詩集『見えない配達夫』が出典であることを明記しなければ違法なのである.

 さらに,ここが一番肝心であるが,掲載された山極先生の式辞の中で,詩の題が,驚くべきことに

茨木のり子の「6月」という詩です。

と書かれている.しかし,正しくは《6月》ではなく,「六月」なのである.
 詩の題を間違うようでは,山極先生がこの詩を大好きだというお話は本当なのかという疑念が湧く.自分の大好きな詩の題を間違う馬鹿はいないからである.いや婉曲な言い回しはやめよう.私は嘘であると考える.つまり大学の代表者が,学生の前で嘘をついたのである.
 茨木のり子は詩人である.言葉に対する感受性をもって人生を生きた人である.その人が題を《6月》なんぞとするわけがない.詩の題は,新聞記事の見出しとは異なるのだ.「六月」を《6月》と書くことは,彼女に対する侮辱であると言う他はない.
 必然性のないボブ・ディランの歌の歌詞を話のマクラに書いたことといい,茨木のり子の「六月」を,題を《6月》に改変 (これは著作権法上,非常に悪質な行為である) した上に,出典を示さなかったことといい,当該式辞には,大学人の言説として重大な問題がある.京都大学は,当該式辞を大学のウェブサイトから取り下げるべきである.

[余談]
 JASRAC が京都大学に歌詞の使用料を請求しないとしたことを伝えた毎日新聞は,山極先生の肩書を京都大学学長と書いた.言うまでもなく京都大学総長である.あっちもこっちも,この国は一体どうなっているのか.

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2017年5月24日 (水)

オオタカ

 朝日新聞デジタルに掲載された記事《自然環境保護の象徴オオタカ、希少種解除へ 懸念の声も》をmsnが転載して報道したところによれば,以下の通りである.

自然環境保護の象徴的な存在であるオオタカについて、環境省は22日、種の保存法に基づく国内希少野生動物種 (希少種) から外す方針を決め、有識者らの小委員会に示した。国民から意見を聴いた上で、8月以降に解除される見通し。

 環境省に限らず他の行政官庁すべてについて言えることだが,《有識者らの小委員会に示した》段階でその施策の実施は確定しているのである.
 というのは,官庁はその施策に同意する「有識者」を委員にするのである.そして「有識者」お墨付きを得たという形を整えてから《国民から意見を聴》くことにする.
 ここで《国民から意見を聴》くといっても国民投票に付するわけではなく,官庁ウェブサイトにひっそりと掲示して,パブリックコメント (通称「パブコメ」) を募集するだけである.
 募集期間が終ると当該官庁はパブコメを集計し,国民から提出された各意見に対して省庁側の立場からのコメントを付けて公表するのだが,このコメントがもう国民をナメ切った態度なのである.
 例えば,ある施策に賛意を示す意見 (明らかなサクラでも) に対しては丁重な応対をするが,批判的意見に対しては,酷い時には「参考に致します」の一言だけだったりする.
 私も現役会社員時代に,食品関連法案の変更時に何度かパブコメを提出したことがあるが,すべて一言でバッサリと切り捨てられてしまった.
 こういう事が続くと,一般の国民は呆れてパブコメに手を出さなくなる.ところがこの事態こそ官僚の思うツボであって,パブコメを募集すると,提灯持ちからの賛同意見ばかりが集まるようになる.こうしてパブコメ制度は既に形骸化してしまったと言っていい.

 環境省は,オオタカを国内希少野生動物種から外す気まんまんである.
 この方針を覆すのは極めて困難なのであるが,しかし圧倒的に多数のパブコメ提出意見が反対であれば,これを無視するとメディアが取り上げる可能性が高くなる.
 個人の提出意見は,環境省に相手にされないこと確実であるが,しかし集計結果 (賛否の数) は公表せねばならないからである.
 オオタカに関心ある向きは,当該施策のパブコメに参加されては如何だろうか.

 冒頭に紹介した記事を読むと,オオタカの希少種指定が解除されれば,現在の営巣地は指定解除を待ち望んでいる業者によってたちまちのうちに開発され,また再びオオタカは減少に向かうのではないかと危惧される.
 大抵の場合,このような施策の裏には,業者からなにがしかの陳情がなされていると推測される.週刊誌は「官邸の最高レベル」とその夫人が何かしていないか調べたらどうだ.(笑)

 自然保護の大義のために,あの田中角栄にも歯向かった初代環境庁長官,大石武一 の如き政治家は遠い昔の話となった.国の天然記念物であるコウノトリを射殺するハンターがいる国だもの.嗚呼.

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2017年5月21日 (日)

金八先生

 昨日,録画しておいたテレビ番組を観終えて,地上波放送に戻したら,クイズ番組をやっていた.日本テレビ『究極の○×クイズ!!超問!真実か?ウソか?』の再放送のようだった.(4/7放送分)
 私が観たときのクイズは,武田鉄矢が「間違えやすい日本語50」に全問正解できるか否かを,ゲスト回答者が○×で答えるというもの.
 武田鉄矢は結局,全問正解したのであるが,最後の問題は《「やぶさかではない」の正しい意味は?》で,武田鉄矢は《努力を惜しまず喜んでする》意味だと答え,番組が用意した正答はこれと全く同じであった.

 よかったよかったと言いたいところであるが,実はこれ,間違いなんである.
 一部のネット辞書が現在そのような誤った語義を載せているが,そうなったのは平成二十五年度の文化庁「国語に関する世論調査」において,「協力を求められればやぶさかでない」の意味を問う設問の答えを「喜んで協力する」としたことが影響していると思われる.武田鉄矢の知識も,おそらくこの時の「国語に関する世論調査」に基づいているのであろう.

 ところが,である.
 この「協力を求められればやぶさかでない」という例文自体が日本語になっていないのである.(笑)
 というのは,この「やぶさかでない」には定型があって,この例でいえば「求められれば協力するにやぶさかでない」としなければいけないのだ.
 しなければいけない,というのは少々強い言い方かも知れないが,慣用表現というものは,定型から外れると聞く者に違和感を覚えさせるので,特に文芸表現上の必要性がなければ,定型に従っておくべきである.
「やぶさかでない」の定型とはすなわち「○○するにやぶさかでない」という形である.
 では,問題の「やぶさか (吝か)」とはどのような意味か.
 ネット辞書の「実用日本語表現辞典」に行き届いた解説があるので,それを下に引用する.

吝かではない
読み方:やぶさかではない
形容動詞「吝か(である)」の否定形で、多くの場合「やりたい」というおおむね積極的な意思を示す表現。
「吝か」は、それ自体「気が進まない」「気乗りしない」「あまりやりたくない」といった後ろ向きな気持ちを示す。これを「吝かではない」と、否定形によって表すことで、「やりたくないわけではない」、「やってもよい」、あるいは、「どちらかと言えばやりたい」、「むしろ喜んでする」といった肯定的・積極的な姿勢を婉曲的に表す。
「吝かではない」のように否定的表現を否定する修辞法は「緩叙法」とも呼ばれる。例えば「嫌いではない」(わりと好きだ)、「悪くない」(けっこう良いと思う)などのような表現でも緩叙法が用いられている。

 さて「やぶさかでない」には一筋縄でゆかぬところがある.
 まず一つには,普通は上の解説にあるように《おおむね積極的な意思を示す》時に用いる表現なのであるが,実は心中で「喜んで○○する」と思っていても,口に出す時にはもったいぶって「○○しないわけではない」と言う時にも用いるのである.
 二つ目には,緩叙法表現の意味には,上の解説の例でいうと「嫌いではない」には,「嫌いではないが,取り立てて好きというわけでもない」から「わりと好きだ」まで,ニュアンスに幅があるのだ.そして「嫌いではないが好きでもない」であるのか「わりと好きだ」なのかのニュアンスは,文脈から読み取る必要がある.

「やぶさかでない」の定型表現を知らぬことといい,必要な文脈を示さずに,しかも不適切な例文「協力を求められればやぶさかでない」の意味を質問したことといい,ほんとに文化庁の三流役人は頭が悪いと言うにやぶさかでない.もっと本を読め.

 ネット辞書の「goo辞書」は文化庁の大間違いに基づいた語義を載せている三流辞書であるが,用例はなぜか適切な例文を載せているので紹介する.

賢明なる三菱当事者のために夫人の便宜を考慮するに吝かならざらんことを切望するものなり。》 (出典は青空文庫の芥川龍之介「馬の脚」である;ところが goo辞書は何をトチ狂ったか「龍之介」を「竜之介」と誤記しており,いかにも三流辞書であるなあと呆れる)

この点では志賀直哉の功を認めるに吝かではない。》 (出典は青空文庫の織田作之助「可能性の文学」である)

その局部に対しては大に賛成の意を表するに吝かならざるつもりである。》 (出典は青空文庫の夏目漱石「文芸委員は何をするか」である)

 私は武田鉄矢と義務教育同学年の者として,武田鉄矢の日本語知識はかなりのものであると以前から感心しているが,ただ,試験勉強的に知識を得るのではなく,小説を読むなどの読書によって日本語の力を蓄積して頂きたいと思うのである.

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2017年5月20日 (土)

金に吹かれて

 京都大学の山極寿一総長が今年春の入学式で,日本人によるカバー曲ではタイトル「風に吹かれて」として知られるボブ・ディランの "Blowin' in the Wind" の歌詞を,式辞に引用したことが問題になっている.

 言うまでもなく,口頭で述べる式辞中で歌詞を読み上げても何ら法的問題はないが,京都大学は当該式辞を大学のウェブサイトに掲載した.これについて日本音楽著作権協会 (JASRAC) は歌詞の使用料が必要になると大学側に伝えたという.
 朝日新聞DIGITAL が報道したところによると,京都大学広報担当者は,これは適正な引用であるから許諾は不要であると主張している.

 おもしろそうなので京都大学のサイトを覗いてみた.
 その式辞は《平成29年度学部入学式 式辞 (2017年4月7日) 》であるが,一読して,残念ながらどうみても明らかに不適切である.
 歌詞を引用する場合は,その歌詞そのものに対する批評が不可欠なのであるが,山極先生の式辞中には,ボブ・ディランが作った歌詞に対する批評がまったくない.単に話のマクラに歌詞を紹介しているだけであり,適正な引用どころか不適正な引用にすらなっていない.
 ボブ・ディランの歌詞を話のマクラにしたいなら,原歌詞を山極先生が翻訳し,大学のサイトに掲載する文章には,その歌詞を式辞に用いればよかったのである.
 ましてや文章中に歌詞を引用などすれば,強欲で知られる JASRAC からクレームが来るのは常識だ.不用意であったとしか言いようがない.

 ところで周知のように,JASRAC は正当な引用でも認めない.引用が適正であっても訴訟に持ち込む姿勢を明確にして音楽ファンを威嚇している.JASRAC は,とにかく金が欲しいのである.
 最近では,子供の音楽教室にまで魔の手を伸ばしている.
 先生が子供にエレクトーンを教える場面を想像して欲しい.先生がお手本を演奏すると,JASRAC はこれをカラオケ伴奏と同列に見做して,金を取るというのである.
 JASRAC は,音楽教室の生徒が音楽を好きになることとか,あるいは生徒の中から将来,演奏家が育つかも知れないなんてことには興味がないのである.音楽文化の発展より,現金が欲しいのだ.
 我が国の音楽シーンをダメにしたのは,日本の歌を荒廃させた演歌の職業作家と JASRAC なのである.

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思考停止大臣

 産経新聞のウェブサイトに《教育無償化「財源確保が基本」 麻生財務相 「公平感が難しい」》と題した記事が掲載された.(5/19 11:58配信,すぐにリンク切れになるがURLはここ)

 記事の内容は,麻生太郎財務相が昨日 (5/19) の閣議後会見で,高校や大学の授業料免除など教育無償化に関して与野党が検討している「教育国債」を創設した財源確保案に対して,かねてよりの持論である教育国債反対論を示したというものである.
 記事によれば麻生財務相は記者団に対して次のように述べた.

大学卒業者は、中学卒、高校卒の人より生涯獲得賃金が多い。大学卒業のための税金を中学卒、高校卒の人が収める税金で賄っている。公平感(を与えること)が極めて難しい

 一見もっともらしいが,これは根拠に乏しい意見である.
 2014年の数字であるが,各学歴の三月卒業者で就職した者の総数は,大学院卒が約65,000人,大卒が約395,000人,高等専門学校卒が約5,000人,高卒が約184,000人,中学卒が約6,000人である.
 これを見れば明らかなように,所得税を納める国民は主に大学院卒者と大卒者になっているのである.
 しかも,麻生大臣は《大学卒業のための税金を中学卒、高校卒の人が収める税金で賄っている》と言うが,学歴別所得税納付額などという統計数字は存在しない.(そんなことは調査不可能だ)
 その上,大卒以上の人の《生涯獲得賃金が多い》 (これには異論が存在する) ならば生涯に納める所得税も多いから,麻生財務相の発言はそもそも誤りである.
 さらには非正規雇用の問題があって,話は簡単ではないのだ.
 就職者に占める大卒以上の者が,その他の学歴者合計を上回った平成十年頃以前には,麻生財務相のような意見を想像で根拠なく言う人がいたことは確かであるが,それ以後,目にしなくなった.
 このコミック好きで日本語の不自由な大臣の頭の中は,その当時のままで止まっているのである.大丈夫か日本.(「大丈夫ではない」の反語表現)

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2017年5月19日 (金)

幇間コメンテーター (二)

 昨日,夕食を摂りながらラジオのニュース (文化放送) を聴いていたら,この日 (5/18) に開催された「第6回豊洲市場における土壌汚染対策等に関する専門家会議」の様子が報道された.

 会議の様子を伝えたNHKのネットニュースは,《豊洲問題 専門家会議「無害化」めぐり議論かみ合わず 5月18日17時56分 》だが,専門家会議で報告された追加対策費用には触れていない.
 追加対策費用に関しては,会議開催前のニュース《豊洲市場の安全対策費 最低でも35億円 都が試算 5月18日4時45分 》で次のように報道していた.

豊洲市場の土壌汚染対策を検証する東京都の専門家会議は施設の安全性をさらに高めるためとして、地下空間の底をコンクリートなどで覆い換気設備を整備することや、汚染された地下水をくみ上げる「地下水管理システム」を強化する案をまとめ、18日に公表する予定です。
これを受けて東京都が対策にかかるコストを試算したところ、最も低い場合でも35億円程度に上ることがわかりました。
具体的には、地下空間の底をコンクリートで覆う場合、総額で35億円から45億円程度に上るとしています。
また、密閉性の高い特殊なシートで覆う場合は70億円から80億円程度に上るとしていて、これらの試算は18日に開かれる専門家会議で報告される予定です。
18日の会議では、先月行われた地下水のモニタリング調査でも、それ以前と同様に最大で環境基準の100倍となる有害物質が検出されたことが報告される見通しですが、専門家会議は新たな対策を講じることで土壌の汚染を環境基準以下に抑える「無害化」を目指せるとする見解を示す予定です。

 上の引用箇所に書かれている追加対策費用の明細については,新聞各紙によってバラバラであるため,正確には専門家会議のレジュメを確認しないといけない.
 しかし報道された金額を見る限りでは,私が現役会社員時代の工場建設に関する経験からすると,安めに見積もっているかな,という感じがする.
 というのは,追加対策の一つで,建屋地下の空洞部分に防水シートを敷いて地下水の侵入を防ぐ,という工事が提案されたようだが,これは実際には地下空洞の既存のコンクリート床と壁を全部ひっぺがしてから実施することになるだろう.これはつまり「全部やり直し」ということであり,地下空洞をコンクリート施工前の状態に戻す工事は見積に含んでいないんじゃないかと思われるのだ.
 専門家たちが一事が万事この調子で見積もっているとすると,追加対策の総費用は一桁多い数百億円になるだろう.
 で,このニュースの時点でNHKのネットニュースは《専門家会議は新たな対策を講じることで土壌の汚染を環境基準以下に抑える「無害化」を目指せるとする見解を示す予定です》としたが,どうやらこの《「無害化」を目指せるとする見解》で紛糾したようだ.
 文化放送のニュースでは,会議を傍聴した築地市場関係者の女性がインタビューに応えて「専門家は数字を並べるだけで豊洲市場が安全にできるのかどうか全然はっきりしないっ」(録音していないが,概ねこんな感じだった) と怒っていた.
 この専門家会議のメンバーは,本来は築地市場関係者からの罵声を浴びるべき当事者ではないから,その点は深く同情するが,それにしても,「無害化」をする,でもなければ,「無害化」を目指す,でもない《(「無害化」を) 目指せる》などという役人風の玉虫色表現は拙劣であった.
 結局,傍聴者からの追及に,「無害化」を目指すが,達成はいつになるかはわかりません,と言わざるを得ず,会議は実質中断に追い込まれたのであった.

 さて本題に入る.
 私は昨年秋,このブログに

2016年10月14日 (金) こういう人物も学者というのか 》 

2016年10月20日 (木) 豊洲の地下水は水位下がらず 》 

と題した二つの記事を掲載した.
 この記事にあるように,豊洲新市場の建屋地下空洞に地下水が侵入していると報道された当初から私は,豊洲新市場の地下水の水位を低く保つ仕組み「地下水管理システム」は揚水能力が不足していると指摘していた.
 これは,たぶん私だけでなく,産業界の多くの技術者たちがそう考えただろうと思う.
 あれから半年以上経った昨日の専門家会議で,ようやく揚水能力を増やす提案がなされた.
 仕事が遅い.遅すぎる.こんなにスピード感のない仕事振りでは,民間企業だったらクビである.
 小池都知事は,オリンピックのこともあって大変な状況だと思われるが,役人と学識経験者にやらせていては埒があかないのであるから,もう政治家として決断しては如何か.
 築地再整備でも豊洲の手直しでも,どちらでも技術的観点からすれば,成功に導く色々なやりようがあるだろう.要はスピードだ.もたもたすればするほど,かかる費用は増大していく.

 それはさておき,話を宮崎哲弥のことにする.
 上に挙げた当ブログの記事にあるように,宮崎哲弥は,自分がMCであるラジオ番組に安倍晋三の取り巻きである内閣官房参与の藤井聡を出演させ,藤井の虚言に同調することで,安倍ブレーンになりたい下心を露わにしたのであった.

藤井は,これはもうやり過ぎなほど過剰な汚染地下水対策であり,それが工事費の高騰を招いたのであると,宮崎を相手に饒舌に論じた.つまり藤井は,これだけ巨費が投じられて対策が講じられているから豊洲市場は安全だというのである.
 いやいや,地下水モニタリングシステムの存在は,この問題が発覚したときに既に都の技術部門関係者がテレビで説明したことだ.私のようなレベルの一般人でも知っている.
 問題は実はそんなことではなくて,その巨費を投じた地下水モニタリングシステムがまともに作動していないことなのだ.
 テレビニュースで繰り返し報道されていた,あの地下空間に溜まった地下水は,システムが設計通りに動いていないことの証左なのである.
 それを政府関係者である藤井は承知しているはずだが,それなのに滔々と地下水モニタリングシステムがいかに汚染地下水対策として優れているかを語った.
 いったいこの男は何を考えているのであるか.一般人は馬鹿だから簡単に騙せると思っているのだろうか.また,こんなことを喋る男を番組に招いて議論の相手にしている宮崎哲弥の頭の中はどうなっているのだろう.

 繰り返して言うが,宮崎哲弥は,自分が知識も見識も持たぬ分野のことで安倍晋三に摺り寄るのはやめた方がいい.恥をかくだけだ.
 そんなことより,改憲と日本核軍備を主張すれば,次の参院選で比例区にどうぞとお声がかかるであろう.変節は恥だが役に立つ.頑張れ宮崎哲弥.

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2017年5月17日 (水)

幇間コメンテーター (一)

 青山繁晴という右翼デマゴーグがいる.この男は,第一次安倍内閣の頃までは安倍晋三に対して割と批判的な姿勢であったのだが,安倍が復帰するや,突然に猛烈な安倍応援団の旗を振り始めた.ネット上の一説には,自分と家族に対する安倍周辺からの経済援助 (某大学におけるポスト) を受けたことが変節の理由だとされているが,それは噂に過ぎないのでここでは取り上げない.興味ある向きはウェブを調べて頂きたい.
 ただし安倍晋三との親交は Wikipedia にも書かれているくらいに周知の事実であり,安倍の「お友達」の一人である.
 私は,第二次安倍内閣の発足以後,青山繁晴がラジオで「情報源は秘密ですが,実は……」と見苦しいまでの陰謀論と嘘八百を並べて安倍の政敵を攻撃し,まるで安倍の幇間であるかのように振る舞うのを聞いて,情けない品性の人間も世の中にはいるものだと呆れたが,実はそれは青山の周到にして見事な処世術であった.Wikipedia【青山繁晴】から引用する.

2016年6月20日、大阪市北区の帝国ホテル大阪にて記者会見を行い、通算8回目の出馬依頼を受諾し、第24回参議院議員通常選挙に自民党公認で比例区から出馬する事を表明し、比例区全体の6位である48万1890票を獲得し当選を果たした。

 このようにして今や青山繁晴は参議院議員である.幇間から参議院議員への戦略的 (笑),あるいはナリ振り構わぬ転身は,すべての変節漢の手本とされるであろう.
 この青山繁晴を横に見ていて,切歯扼腕したのは,かつての同業者にして同じラジオ番組で常連コメンテーターをしていた宮崎哲弥であろう.
 そのように想像されるのは,宮崎哲弥はそれまで自称リベラル派であったが,この頃から宮崎の週刊誌とラジオにおける発言が安倍政権支持に大きく舵を切ったからである.宮崎は,青山の水際立った変節を目の当たりにして,深く感銘を受けたのではなかろうか.自分だってこうすれば参院議員になれるのだと.

 それ以降一年,宮崎は安倍政権擁護の論陣を張ってきたのであるが,彼の言説の中心は,安倍の経済政策,いわゆるアベノミクス礼賛に偏している.これでは中途半端である.安倍晋三の「お友達」となるためには,己の思想的過去にきっぱりと別れを告げなければいけない.具体的には,日本国憲法の改憲を主張することだ.
 宮崎が自称リベラルから右派に転じても,誰も非難はしないだろう.宮崎は思想家ではなく,ただのテレビコメンテーターあるいは週刊誌コラムニストにすぎないのだから.
 変節しても仕事は減らないだろう.マツコのテレビCMなどにも,これまで同様に端役で出させてもらえるだろう.躊躇せずに変節するがいい.頑張れ宮崎哲弥.

 ところでその宮崎が,週刊文春 (5/18 日号) の連載コラム『宮崎哲弥の 時々砲弾』でこんなことを書いていた.

例えば去る三月一四日、ノーベル経済学賞受賞者のジョセフ・E・スティグリッツが経済財政諮問会議で発表した折、……(中略)…… 政府と中央銀行を一体と捉える「統合政府」の考え方に基づき、「政府の負債と日銀の資産が『相殺される』」との見解を示した。「日本の経済論壇は、政府の借金が1千兆円を超えて大変だ」と増税や緊縮へと急き立てるが、日本銀行はその国債を大量に保有しており、「いわば政府の中で債務をやりとりしているようなもの」なので「相殺できる」のだ。然るに、この発言の意味を精確 (*) に報じた新聞は皆無だった。》 (* ブログ筆者註;ここは「正確」と書かねば意味が通らない.しかし宮崎はラジオでしゃべっている際に高校レベルの四字熟語も言い間違うくらいに日本語が不自由なので,文春読者は,このくらいの間違いなら宮崎のいつものことだから許してあげて欲しい.とはいえ,経済問題を論じる前にまず高校の国語を勉強する必要があるとは思う)

 宮崎が上の引用文中で述べている「統合政府」の考え方とは,正確に (笑) いえば,政府の負債と日銀の資産が「統合される」ということである.
 これは特定の条件下,すなわち政府の負債と日銀の資産がバランスしている時は「相殺される」と言っていいことを意味している.宮崎は《(ジョセフ・E・スティグリッツが)「政府の負債と日銀の資産が『相殺される』」との見解を示した。》と何か目新しいことのように書いているが,それは今更ジョセフ・E・スティグリッツに言われなくてもほとんど常識だ.
 ところがここで大切なことは,当たり前だが,政府の負債と日銀の資産がバランスしていない時には「相殺できない」のだということである.
 ここら辺の理屈は吉田繁治氏が書いた《高橋洋一氏「日本の借金1000兆円はやっぱりウソでした」論は本当か? 》がわかりやすい.
 吉田繁治氏はこの《高橋洋一氏「日本の借金1000兆円は……》の中で,政府の負債と日銀の資産がバランスしていない時には,政府の借金は「相殺できない」という仕組みについて述べている.すなわち宮崎哲弥が文春のコラムで書いているところの《政府の負債と日銀の資産が『相殺される』》は,実は簡単な話ではないのである.
 私は経済学徒ではないから,アベノミクスを支持している (と宮崎が書いている) ジョセフ・E・スティグリッツの説と,アベノミクスは失敗だとする吉田繁治氏の説のどちらが正しいかを判断できない.しかし話が簡単ではないことはよく承知している.
 宮崎は,ジョセフ・E・スティグリッツの講演から統合政府の考え方を極めて断片的に紹介しているが,その考え方をアベノミクスの評価に関して安易に適用はできないということを私たちは知っている.少なくとも週刊文春読者の知識レベルを想定した文章を宮崎が書くのであれば,スティグリッツの説と吉田繁治氏の説の両方を紹介しないのはフェアでない.というか,こんなコラムを書いた時点で宮崎哲弥は既に立派なデマゴーグである.
 つまりそこまでアンフェアに,評論家としての矜持を捨ててまで,宮崎哲弥は安倍晋三の幇間になりたいのかと文春読者は思わざるを得ないのである.それ故,私は宮崎哲弥に勧めたい.アベノミクス礼賛で安倍晋三の「お友達」になるより,改憲論の旗を振るほうが楽だよと.頑張れ宮崎哲弥.

 余談だが宮崎哲弥は,吉田繁治氏の文中で批判されている高橋洋一氏の統合政府説を,自説の根拠にしていると推測されるのだが,その高橋洋一という経済学者は変わった人物で,東大卒の元大蔵・財務官僚でありながら,

2009年3月24日、“豊島園 庭の湯”(練馬区)で脱衣所のロッカーから現金や腕時計など約30万円を盗み、同年3月30日に警視庁練馬警察署に窃盗容疑で書類送検された(高橋が事実を認めた上で反省し、被害品も戻されているため書類送検となった)。学校法人東洋大学は同年4月20日付けで高橋を懲戒解雇処分とし解雇した。東京地方検察庁は、同月24日付けで高橋を起訴猶予処分とした。》 (Wikipedia【高橋洋一】から引用)

という経歴を有する.百日の説法屁一つ,とはこのことだ.(嘲笑)
 あ,サイテーな経済学者といえば植草一秀なんてのもいたなあ.しかしあれに比べれば高橋洋一はまだマシかも.

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