冥途の旅の一里塚

引退老人がトボトボと散歩したり旅します.

2018年6月22日 (金)

初めての台湾 (七)

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* 前回の記事《初めての台湾 (六) 》 
 
 九份 (Wikipedia【九フン】) までのバス車中で,現地ガイドのRさんが九份という古い町の歴史を話してくれた.旅の途中で感じたことだが,美人のRさんはとても賢い人でもあるらしく,バス車中ではずっとマイクを放さないで喋り続けているが,台湾が日本の植民地であった時代のことに触れざるを得ない時でも,上手に「植民地」とか「統治」という言葉を避けてガイドをした.
 クラブツーリズム添乗員のSさんとは仕事で旧知の間柄らしく,SさんはRさんの人柄を手放しで褒めるのだった.Sさんも仕事のデキる添乗員だったから,このツアーはいい旅であった.メンバーが女性ばっかりだったし.ヾ(--;)
 さて Wikipedia【九フン】にも書かれていることだが,九份はかつて金を産出する鉱山の町で,日本統治時代に最盛期を迎えた.
 台湾出身で最も有名な歌手の一人である一青窈の父は,九份の金鉱経営で成功し,台湾五大財閥の一つに数えられた顔一族の長男・顔恵民であった.
 金鉱は第二次世界大戦後に採掘量が減り,1971年に金鉱が閉山されてから九份は寂れたが映画『悲情城市』のロケ地になったことをきっかけに観光地化に成功し,現在は台湾を代表する観光地である.
 
 その九份観光について書かれたブログを覗くと,「九份」と書く人もいるし「九份老街」と書いている人もいるが,混乱している人もいる.「老街」は固有名詞ではなく“old town”の意だから「九份老街」は間違いではないだろうが,地域の呼称としては少し広いかも知れない.
 そこら辺の的確な解説はないかと検索したら,《基山街》というウェブコンテンツに,
 
基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります。平均3メートルに満たない幅の曲がりくねった細い老街です。「基山」とは「基隆山」のそばにあることを意味し、基隆山のふもとの古道から山沿いに曲がり道が続き、大竿林地区で軽便路と合流します。全長は850メートルにも達し、古くは「暗街仔」と称されました。
 
基山街の歴史は明治38年(1905年)ごろ、基山街と豎崎路の交差点付近にいくつかの店舗が並び始めたところから始まります。大正5年(1916年)には、顔雲年が土地を提供し、台北庁が経費を負担してできた魚菜市場(現公営市場の前身)が営業を開始し、基山街の地位が確立して商店が林立しました。ゴールドラッシュの時期には、基山街は九份で最もにぎわう商店街でした。
 
九份が没落すると、基山街は3~4軒の商店しか残らないほど寂れました。そして九份が再び繁栄すると、基山街は地の利を生かしてあっという間に大商店街の活気を取り戻しました。両脇には200軒もの商店が軒を連ね、基山街は狭く曲がりくねっていますが、人の波が押し寄せ、まるで影響はありません。民国89年(2000年)に九份では「大紅燈籠まつり-媽祖を迎え、百年を慶ぶ」が催され、多くの人出でにぎわいました。そして沿道の赤い燈籠も基山街と豎崎路の主な特色のひとつとなっています。
 
バス停の表示は基山街の入口が「旧道口」、豎崎路の入口が「九份」となっています。その理由は汽車路が開通する前、九份の主要幹線は豎崎路と保甲路を通って物資を運んでおり、豎崎路が九份地区の代表だったからです。昭和12年(1937年)、自動車路(汽車路の旧名)が開通すると、交通の中心は汽車路に移り、基山街は現地で「旧道」と呼ばれるようになりました。そして汽車路と基山街の交差点は「旧道口」と呼ばれ、九份地区の生活物資の出入口となり、貨物輸送の新たな中心となったのです。

 
という説明があった.
 
 上の引用中の《基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります》が「老街」の意味と規模を示す良い用例だと思われる.ついでにこのサイト《九份老街日帰りの旅》は台湾観光に大層役に立つと紹介しておく.
 
 九份の街に到着してツアーバスを降りると,すぐ昇り階段があり,ここを上がって行くと狭い広場があった.
 今日の夕食会場はこの広場に面した九戸茶語だ.
 
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 添乗員Sさんが「この階段をどんどん上がって行くと,茶館やレストランが両側にあって,途中に撮影スポットもあるし,上の方の十字路で左右に曲がるとお店がたくさんありますので,夕食まで自由時間をお楽しみください」とメンバーに行動予定を説明した.
 私は単独行動したが,女性たちは数人のグループで買い物やお茶を楽しんだようだ.
 Sさんが「この階段」と呼んだのは豎崎路という細い坂道で,ここに『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆婆の湯屋のモデルであると自称している阿妹茶酒館 (阿妹茶樓) がある.日本人女性観光客必訪の店であり,それでかなり儲けていると思われるが,さすが宮崎監督は事を荒立てることなく大人の対応である.日台友好万歳.
 
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 さらに坂を昇ると,上の引用文に書かれている九份最大の商店街である基山街と交差する.街区の名称が基山街で,観光客向け案内図には“street”と書いてあったから,たぶんこの細い道自体は基山路というと思う.
 ここを左に曲がると,行けども行けども果てしなく商店が並んでいる. 無駄遣い 買い物と 暴飲暴食 飲食を楽しむつもりのない私は飽きてしまい,途中で引き返して,会食場所の九戸茶語に戻り,再集合までそこらをぶらぶら歩きして時間をつぶした.
 九份散策を楽しみたい向きには,ブログ《ぺたぺた台湾とりっぷ 》がよくできているので紹介しておく.
 
 さてそうこうするうちに陽が落ちて,広場から豎崎路の上まで張り巡らされた提灯に灯がともった.九戸茶語の周辺は異国情緒たっぷりで,台湾では女性観光客に人気のレストランの一つとされているのが納得である.
 
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 会食の献立は台湾の郷土料理だそうであるが,それほど普通の中国料理と異なるものではなかった.
 コースの中で「エビの紹興酒蒸し」が出されたのだが,昼に鼎泰豐で会食した時に「甲殻類は気持ち悪いので食べられない」と放言したツアーメンバーAが「エビは気持ち悪くて食べられないので,どなたか私の分を食べてください」とまたもや言いやがったのだ.
 同行者の中で一番御高齢と思しい上品な御婦人がツアーに参加しておられたのだが,料理が運ばれてくると,マナー知らずのAは年長者をそっちのけでターンテーブルを回し,自分の食いたいものをどんどん取って行くのであった.「エビをあげるんだから,いいわよね」と言わぬばかりの呆れた振る舞いだった.この女がいなければ最高な夕食のはずであったのだが,私は呆れつつ老酒の盃を口に運ぶのであった.
 
 夕食後は台北のホテル,洛碁大飯店・林森館に戻ったのだが,ロビーでAを除く若い娘さんたちに「飲みにでかけるのですけど御一緒しませんか」と誘っていただいた.爺さんに否やのあろうはずはなく,欣喜雀躍して彼女たちとタクシーに乗った.行先は日本人に人気のあるというパブだ.
 私はいつも紙パック入りの安い焼酎を愛飲しているのだが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.ワインメニューからおしゃれなカクテルを選び,彼女らのおしゃべりを楽しく聴いた.もちろん勘定は私持ちである.(あとでカード請求された日本円金額を見て驚いたが後悔はしてない.するもんか.うう)
 
 暫くして,一番若いお嬢さんが「また夜市にいきません?」と言うので,そうしましょうそうしましょうとタクシーをパブに呼んでもらい,ホテルに一番近い夜市に行った.
 その夜市は観光客相手というよりは地元の人たちが食事をするところらしく,固定ではない屋台が道路の真ん中にテントを張って営業していた.私は満腹だったので,ウズラ卵のフライを食べた.これは,ウズラ卵を,油を引いたタコ焼きの鉄板に手際よく投入し,衣なしの素揚げにしたものを,食べやすいように串刺しにしたものである.日本の屋台では見たことがない.調味は屋台店に備え付けのケチャップとかマスタードである.これは小腹がすいた時に二本くらい食べるとちょうどいいかも知れない.
 
 そんな風に二日目の夜は更けていったが,若いお嬢さんたちは頗る元気で,ホテルは近いから歩いて帰りましょうと言う.私はいささか疲労していたが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.元気っぽく彼女らの後を付いていき,ホテルの部屋に戻るなりベッドにぶっ倒れたのであった.
(続く)

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2018年6月15日 (金)

初めての台湾 (六)

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* 前回の記事《初めての台湾 (五) 》 

 前回の記事の終わりに《そうこうしているうちに腹が減ってきた.添乗員Sさんが,昼食は台北でも人気のレストランに案内してくれるという》と書いたが,手帳を見たら,国立故宮博物院見学のあと,昼飯の前に国民革命忠烈祠に行ったのだった.かなり前の旅行なので記憶が曖昧になっている.手帳にメモしたことを確かめながら旅行記を書かねば.

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 で,その国民革命忠烈祠は,辛亥革命から日中戦争に至るまでの,戦没した英霊を祀る祠なのであるが,衛兵交代のセレモニーが有名になって観光スポット化している.
 現地ガイドのRさんは,その衛兵交代セレモニーを解説しながら,衛兵たちを「イケメンです!」「カッコイイ!」「エリート!」を連発したが,衛兵たちは日本語でいうところの「イケメン」というより,「凛々しい」という表現が適切かと思われた.

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 なにしろ Wikipedia【国民革命忠烈祠】によれば,かれら儀仗兵は《儀杖兵の資格だが、高卒以上で犯歴がなく、身長175cm - 195cm、体重65kg±1kgが条件で、その上に厳しい訓練が課せられ、それを成し得た者のみが儀仗兵になれる》とあるのだ.

 私たちが見物したときの儀仗兵のみなさんは,身長180cmほどと見受けられたが,それで《体重65kg±1kg 》は非常にスリムな体格である.正装の軍服を着用してなおスリムに見える体格の兵士を選抜しているのだろう.
 台湾では,一般の青年たちは四ヶ月の軍事教練を受けることになっていて,教練終了後は民間に戻るわけだが,その教練期間中に儀仗兵に選抜されるのだろうか.それとも志願兵の中から選抜されるのだろうか.そして,儀仗兵は軍の中で昇進の途が開けているのだろうか.詳しいことはガイドさんに訊き損ねた.

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 ちなみにこの儀仗兵は,担当する軍が半年ごとに変わり,軍服が陸軍は深緑,海軍は夏の場合は白で冬は黒,空軍は青だという.私たちが見学したときは海軍の冬服であった.
 余談だが,軍服の色ってのは,およそ世界的に共通の傾向があるようで,陸軍はいわゆるアーミーグリーンまたはグリーン系のカーキが多いような気がするのだが,どうだろうか.

 さてツァー二日目の昼食は,小籠包がおいしいことで有名な人気の繁盛店,鼎泰豐 (ディンタイフォン;Wikipedia【小籠包】にも紹介されている店) の本店だ.
 この店は公式サイトに書かれているように,日本にも支店を出していて,新宿,汐留,日本橋,玉川にあるというが,私はいずれにも行ったことがない.しかしツアー一行の女性たちの多くは日本の支店を既に御承知のようで,「台湾の本店に来てみたかったのよねー」と言っていた.
 一般には小籠包は上海が発祥の地だとされている.Wikipedia には,

上海旧市街の豫園商城内にある「南翔饅頭店」が本家を名乗っているが、上海近郊以外にも台湾と香港などの中華圏で広く食べられている一般的な料理である。台湾の台北市には観光客に人気のある鼎泰豊の本店があり、現在では上海にも出店している。観光客は前述のような有名かつ比較的高級な店に集中しがちであるが、台湾では特別な料理ではなく街中の定食屋で安価に提供される庶民の味である。

とあるが,私は若い頃に「南翔饅頭店」へ行ったことがある.まだ小籠包が今ほど普通の食べ物でなかった時代だった.
 ある日本の商社が,中国製の小籠包やその他の点心の冷凍品を日本に輸入して販売しようとしていて,その関係で上海にある冷凍食品製造会社の工場を視察に行ったのだ.
 工場視察のあと,商社の人が豫園商城内の「南翔饅頭店」に連れて行ってくれて,私はそこで初めて小籠包を食べたのだった.
 結局そのその商談は成立しなかったのだが,今は懐かしい思い出である.

 さて鼎泰豐での私たちの会食は点心のコースであった.鼎泰豐は日本人観光客絶賛のお店だけのことはあって,どの蒸籠の点心も,とてもおいしかった.
 ただ,海老焼売が運ばれてきて,みんなが「わーおいしそー」と喜んだとき,ツアーメンバーの一人Aが (三十代の女性) 「私の分は誰かどうぞ食べてください.私,甲殻類はだめなんです」と言った.
 これに対して他の人が「アレルギーですか?」と訊いたら,Aは「いいえ,アレルギーじゃなくて,エビとかカニとか,ああいう気持ち悪いのって食べられないんです」と答えた.
 これに私はカチンときた.他の人がおいしいって言ってるものを,「気持ち悪い」というのはいかがなものか.きらいなものは,嘘でも「アレルギーなんです」と言うのがマナーというものだろうに.
 出発前に添乗員のSさんが「ツアーは,食事のときにトラブルになることがあります」と言ったのは,こういう女のことだったのかと腑に落ちた.

 食事が済んだあとは,鼎泰豐本店のある地区一帯で,日本人観光客の多い「永康街」を散策する自由時間だった.永康街は,雑貨屋や靴屋,ブティックなどの商店や,かき氷屋などがあって,ぶらぶら歩くと楽しい街である.個人旅行でくる機会があれば,時間無制限で街歩きしてみたいものだ.

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(おなじみ天仁茗茶の店)

 短い自由時間が終わって,一行は地下鉄 (台北捷運;呼称はMRT=Mass Rapid Transit) 東門駅の入口階段前に再集合した.ここから地下鉄体験というイベントなのである.いずれ皆さん個人旅行に来るだろうから,台北市内を移動するのに便利な地下鉄の使い方を覚えてくださいね,という企画だ.

 一行は永康街の東門駅に入り,一人ずつ自販機で片道切符を買って乗り,一駅隣の中正紀念堂駅で下車した.
 中正紀念堂蒋介石の顕彰施設である.日本ではあまり知られていないと思うが,蒋介石の本名は蒋中正なのである.
 中正紀念堂は,広大な敷地に設けられた公園広場の入口に立ち,蒋介石の座像が収められた本堂を遠くに望むと,左右に国家戯劇院と国家音楽庁が建てられていて,堂々たる構えである.
 
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(中正紀念堂正門.自由広場と書かれている)

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(本堂遠景)

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(蒋介石座像;背後の壁には,蒋介石の政治理念である「倫理・民主・科学」が掲げられている.これは蒋介石の筆跡である)

中正紀念堂からまた団体バスに乗り,次は九份へ向かう.
(続く)

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2018年6月 5日 (火)

初めての台湾 (五)

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* 前回の記事《初めての台湾 (四) 》 

 今回のツアーで三連泊した台北市内の洛碁大飯店・林森館は普通のビジネスホテルだが,朝食は充実していた.私が朝食会場に入ると,厨房から料理を運んでくるおばさんが,私が日本人観光客だと気が付いて,すごくフレンドリーに料理の説明をしてくれた.その料理は,日本のビジネスホテルの朝食では,見かけないものがいくつもあった.
 食事後,ロビーに再集合したツアー同行者のみんなと「朝食に出たアレはおいしかったけど,アレは一体何なの?」と話題になったが,結局よくわからない正体不明の料理がいくつかあった.おいしかったから正体不明でもいいけど.w

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 ホテルは大き目な交差点の角にあるのだが,玄関を出ると,すぐ目の前の角地に寺院があった.交差点の角のあと二つにはオフイスビルが立っていた.
 団体バスに乗り込み,ツアー二日目は午前中に,ルーブル,エルミタージュと並び称されるミュージアムであり,台湾観光の最大の目玉である国立故宮博物院に行く.

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 正門からだとバスを下車したあとちょっと歩くことになるとかで,ぐるっと団体バス専用らしき入口に回り,バスを降りて玄関ロビーに入ると,中華民国建国の革命家にして「国父」である孫文の大きな像が鎮座していた.日本語でも「国父」というと普通は孫文を指す.日本には「国父」がいないから,それでいいのだ.w
 この日は団体記念写真を撮るためにカメラマンが同行していて,彼と少し話をしたのであるが,彼は孫文を「孫文先生」と敬愛の念を込めて呼んだ.

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 成田空港のクラブツーリズムのブースに集合した時,添乗員Sさんから渡されたビニールポーチにはインカムが入っていた.国立故宮博物院の玄関ロビーで,私たちはそのインカムを首から下げてスイッチをオンにした.帰国するまで,現地ガイドRさんの説明や行動指示はこのインカムで行われるのだ.
 二階にはミュージアムショップとカフェなどがあり,ドアを出ると広いテラスになっていて,正門とその向こうが遠く見渡せるようになっている.ここで同行カメラマンが団体写真を撮った.

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 今の日本では,かなりの高齢者は別として,私のように七十歳前後くらいの者は,自分が撮影した旅の記念写真は,スマホとかPCに画像で保存していると思われる.ツアーの団体写真は,撮影した画像をプリントし,見開きのアルバムにして販売されるのだが,私はそれをスキャナでデータにして保存し,アルバムは捨てている.二度手間である.w
 だからこれまで国内ツアーの団体写真をほとんど買ったことはないのであるが.今回は買った.
 私は,大昔の文化大革命の時から,大陸の共産党中国 (中国は共産党が支配しているが,現在はもう共産主義国ではない) は陰謀渦巻く権力闘争の国 (共産党というのはレーニンの昔からそういうものかも知れないが) という印象が強くて好きでない.しかし,孫文が建国した中華民国には親近感を持っている.これに加えて,戦争中の恩讐を超えて,東日本大震災で台湾の人々が示してくれた友情に深く感動したこともある.
 さらに!,花も恥じらう美人ガイドのRさんが,私たちが買い物をすると満面の笑みで「日台友好ありがとうございます」と言うのである.それを見たら,たかが団体写真でケチっていられるかと思うのであった.日台友好万歳.

 さて記念写真を撮影したあと,私たち一行は国立故宮博物院の展示を粛々と鑑賞して回った.
 国立故宮博物院の所蔵品のうちで,ここを訪れた観光客が必ず観るものといえば,至高の名品「翠玉白菜」 (↓) である.

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 この「翠玉白菜」は四年前に短期間,東京国立博物館で海外出品されたことがあるのだが,この時の展示を私は迂闊にも見逃してしまった.それ以来ずっと一度は観たいものだと思ってきたので,ようやく望みが叶ってとても嬉しかった.

 実は故宮博物院が所蔵している同様の彫刻は三つある.(参考記事;《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》 )
 翡翠の白菜は本当は四つあったのだが,一つは現在行方不明なんだと,現地ガイドRさんが説明してくれた.戦後のどさくさに紛れて誰かが私蔵してしまったのだろうか.
 私たち一行は「翠玉白菜」のすぐ近くに寄って観ているのだが,Rさんは大勢の観光客たちの邪魔にならぬよう離れたところから解説をするわけで,これがインカムの必要な理由なのであった.

 で,台北の国立故宮博物院に三つ現存 (「翠玉白菜」「翠玉小白菜」「翠玉白菜花挿」;花挿は花を生ける花器のこと) するとして,残りの二つはどこにあるかというと,北京の紫禁城 (画像) と天津博物館 (画像 の五つ目) だ.
 前記の《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》では,

また、中国大陸にも北京の故宮博物院に高さ16センチ、幅6センチの「玉鏤霜菘花挿」が残されているほか、天津博物館にも1点収蔵されている

としているが,これは間違い.
 天津博物館に所蔵されているのが「玉鏤霜菘花挿」だ.中国語で「白菜」は「菘菜」とも言うが,「玉鏤霜菘花挿」の姿と色は,いかにも霜枯れした白菜だ.
 一方,北京にあるものは,上に示した画像の展示ケースに書かれている通り,「翠玉白菜式花挿」だろう.
 この《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》を読んだ人のために,ここに誤りだと指摘しておく.

 ただし,北京のものは他の「翠玉白菜」と形が随分違う.私には北京のものは青梗菜 (チンゲンサイ) の形をしているように思われたので,ネットで資料を探した.すると,青梗菜は,白菜 (パクチョイ) の茎が緑色のものをそう呼ぶのだと書かれていた.しかし別の資料には逆に,白菜 (パクチョイ) は青梗菜 (チンゲンサイ) の茎が白いものをいうとあり,もう何が何だかわからぬ.
 それどころか,中国原産で明治時代初期に日本に渡来し,漬物や鍋物に多用される一般的な白菜も,日本には昭和五十年代に導入された中国野菜である白菜 (パクチョイ) も,青梗菜 (チンゲンサイ) も, みんな総称「白菜」の一種なんだそうである.総称の「白菜」は,中国語の読みを強引に片仮名で書くと「パァィツァィ」らしいが,よくわからぬ.だとすると「パクチョイ」はどこの言葉だ.

 ところで Wikipedia【翠玉白菜】には

翠玉白菜は国立故宮博物院の「最も有名な彫刻」と言われており、清明上河図、肉形石と合わせて国立故宮博物院の三大至宝とされている。(ただし翠玉白菜と肉形石は台北市の国立故宮博物院に、清明上河図は北京の故宮博物院にある。)

との記述が見えるが,これは間違いだろう.
 正しくは《国立故宮博物院の三大至宝》ではなく「故宮博物院の三大至宝」ではないか.というのは,中国語版 Wikipedia には,国立故宮博物院の「三宝」は,「翠玉白菜」「肉形石」と,清明上河図ではなく青銅器の「毛公鼎」の三つであるとして,以下のように書かれているからである.

常態展出的〈翠玉白菜〉、〈肉形石〉和〈毛公鼎〉3件展品,合稱「故宮三寶」

 国立故宮博物院は中華民国の博物館で,台北にある.その所蔵品が北京にあるわけがない.「国立」を取り去って「故宮博物院の三大至宝」とすれば,台北と北京の故宮博物院の文物を総称した意味にとれるから,とりあえず矛盾はなくなる.
 当然だが,国立故宮博物院が北京にある清明上河図を自らの「至宝」とするわけはないから,「翠玉白菜」「肉形石」「毛公鼎」の三つを宝物としているのである.
 穿った見方をすると,Wikipedia【翠玉白菜】のこの箇所を編集した執筆者は,台湾は中国の一部であるとする中国政府の主張を支持している政治的立場なのかも知れない.そうだとすると,この箇所は,「国立故宮博物院は中華人民共和国の施設である」という歴史的事実とは異なる政治的な主張を密かにしていることになる.しかし,その主張はいくら何でも強引だと指摘しておきたい.北京の故宮博物院と台北の国立故宮博物院は,本館と別館の立場にあるのではなく,別々の施設である.

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 その三宝の一つである「肉形石」は,「翠玉白菜」より知名度は劣るかも知れないが,これまたすばらしいものであった.

 さて,故宮博物院での見学自由時間はたっぷりあったので,カフェでツアーメンバーの女性たちにタピオカミルクティーを御馳走し,それからミュージアムショップに入ったら,メモ帳やらノートやら鉛筆やらの各種文房具,冷蔵庫のドアなど使うマグネット等々,物欲を刺激する数々の土産が置かれていたので,私はドカドカと音を立てて買いまくった.

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(マグネット)

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(木製の鉛筆箱.中に鉛筆が八本入っている)

 そうこうしているうちに腹が減ってきた.添乗員Sさんが,昼食は台北でも人気のレストランに案内してくれるという.
(続く)

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2018年5月29日 (火)

初めての台湾 (四)

 前回の記事《初めての台湾 (三)
 
 ツアー一行は,士林夜市の入り口で自由行動となった.
 私はこの台湾旅行で事前に何の下調べもしておらず,添乗員のSさんに「自由行動でーす」と言われてから,やおら「さーてどうしよう」と考えるという始末であったが,さすがに女性はしっかりしている.年配の御婦人一名と若い娘さんたちが「やっぱりタピオカミルクティーよねー」というので,何が「やっぱり」なのかわからぬが,その三人グループに混ぜてもらった.
 タピオカミルクティーを探しつつ士林夜市の狭い雑踏を歩く.
 この夜市=ナイトマーケットは,路上で営業しているテント張の屋台ではなくて,固定屋台店で構成されている商店街というかショッピングセンターみたいなものだと思った.
 
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 それでも出口に近い辺りでは通路の上の屋根はなくなって,屋台街らしい雰囲気が漂っている.
 
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 メインストリートの突き当りには,寺院らしきものがあった.調べると慈諴宮という寺院で,士林夜市は元々がこのお寺の門前に発達した屋台街なのだという.なるほどこの界隈は,先程通り過ぎてきた屋根付き屋台街よりも濃いアジアンテイストが漂っている (ような気がする).
 
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 本堂前のスペースはそれ程広くないが,若者たちが軽食を食べながらたむろしていた.
 本堂に入ると,恋人たちと思しき二人連れが,何やら赤く彩色した木片を床に投げている.
 
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 女性三人と私の一行は,「あれって何してるのかな」と訝しんだが,そのカップルが真剣な表情をしているので,彼らに「何してるんですか?」と訊くのはためらわれた.あとで現地ガイドのRさんに訊くと,台湾式の占いだそうで,観光の最後に行った寺院でやり方を教えてもらった.
 
 慈諴宮から士林夜市入口への戻りは,別の筋を通り,横丁にも出たり入ったりして散策を楽しんだ.そして小さなタピオカミルクティー専門の屋台 (JR東日本の駅構内にあるジューススタンド「ハニーズバー」のブースの半分くらいの間口) を見つけ,私たちはようやくタピオカミルクティーにありついた.
 女性たちは先刻御承知の飲み物らしかったが,私は初めて口にした.なかなかうまいじゃないかと思った.そして翌日から一日に一回はタピオカミルクティーを飲んだ.
 
 それから士林夜市の入り口に戻り,そこから地下にあるフードコートへ降りて中をウロついた.
 女性たちは買い食いをしたようだったが,私はこのフードコートで小エビの素揚げをテイクアウトで買って,これをつまみにホテルの部屋で酒を飲むことにした.
 
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 自由時間が終わって再集合した一行は士林夜市からバスに乗り,宿泊する洛碁大飯店・林森館へ向かった.
 洛碁大飯店・林森館はビジネスホテルだが,小さくても大飯店なのである.日本にもよくあるけれど,ホテルのすぐ隣にコンビニがあるというタイプのビジネスホテルであった.部屋はかなり狭いが,一日中観光して帰ったら寝るだけだからこれでいいのだ.
 私は隣のコンビニ (セブンイレブン) で日本製のチューハイとウイスキーのハーフボトルを買って部屋飲みを始めたのだが,夜市で買ってきた小エビの素揚げのうまさに感動した.日本の居酒屋にも同じような品があるが,こちらは塩加減が絶妙で,はるかにうまいと思った.
 さて明日はいよいよ故宮博物院見学である.深酒はしないで眠ろう.
 と思ったが,チューハイ二本とウイスキーのハーフボトルを半分空けてしまった.
(続く)

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2018年5月15日 (火)

初めての台湾 (三)

 前回の記事《初めての台湾 (二) 》 

 キャセイ・パシフィック台北行フライトの搭乗口前に再集合したツアー参加者に,添乗員Sさんは,簡単に自己紹介をしましょうと言った.参加者は十人で,男性は私ともう一人であった.

 女性ツアーメンバーの年齢はまちまちで,お一人はおそらく七十歳を越しておられるのではと思われた.お元気であるなあと感服.女性の服装のことはわからないのだが,彼女は高級ブランドと思われるパーカーをお召しになって,背筋はピンと伸びていらっしゃるのだった.
 一番若い女性は,まだメイクも初々しい印象で,あとで食事の時に訊いたら,高校を卒業したばかりで,このツアーが初めての海外旅行だという.全然物怖じせずに一人で卒業旅行だ.今の若者は颯爽としているなあと感心した.あとは二十代が一人と三十代が二人で,残りの女性三人は年齢を推定すると四十代,五十代,六十代がお一人ずつ.Sさんは落ち着いてみえるが,三十代ですと言っていた.
 そのあとでSさんのガイダンスがあり,私たちのフライトは午後すぐの便だから,夕食の機内食はかなり早いはずだという.でも今夜は台北の夜市にご案内しますから,お腹がすいたらそこで何かを召し上がってください,とのことだった.
 またSさんは,ツアーのマナーについても説明した.参加者の間で発生するトラブルの一つに,食事のことがあるという.会食の際に料理をマズいと貶す人がたまにいらっしゃいますけど,おいしいと思う人もいるわけですから,料理を貶さないでくださいというのがSさんの話であった.なるほどと納得.実に行き届いた添乗員さんである.

 参加者同士で軽くおしゃべりしているうちに搭乗案内のアナウンスがあり,私たちはそれぞれのシートに着いて機内の人となった.(ところで「車中の人となった」「機内の人となった」は手垢の付いた常套句だが,最初は誰が書いたのだろう)
 早めの機内食の時間になり,CAさんが「牛肉か鶏肉か」と訊くので鶏料理をくれと答えた.すると配られたのはマカロニグラタンで,小指の爪ほどの鶏肉が数個入っていた.これなら「牛肉か炭水化物か」と訊くべきだと思った.私は現在,糖質制限中の身であるが,しかしこのグラタンを食べないと夜市観光まで腹がもたないだろうから,半分食べた.
  そうこうしているうちにキャセイ CTX**** 便は台湾桃園国際空港へ着陸態勢に入った.

 到着ロビーで再集合した私たちは,ロビーで待ち受けていた現地ガイドの女性Rさんと会った.
 Rさんは御本人の口から二十九歳だと明言.彼女はかなりの美人で,しかも常に口角上がりっぱなしという好感度五つ星なのであった.私はこれが初めての台湾旅行であるが,Rさんを見て台湾は良い国であると即断した.
 すぐにチャーターしてあるバスがやってきて,ツアー一行は士林夜市 (台北市内の観光マップには,○○観光夜市とただの△△夜市とがある.士林夜市はマップ上は士林観光夜市と書かれている.どう違うのかわからないのでSさんに訊ねたが,たぶんテキトーに名乗っているんじゃないかという回答だった) へ向かった.
 バスの中でRさんに両替をしてもらい,やがて一時間ほどでバスは夜市に到着した.いよいよ台湾観光のスタートである.

 
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(続く)

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2018年5月 9日 (水)

初めての台湾 (二)

 前回の記事《初めての台湾 (一)
 
 台湾ツアー出発の数日前に,クラブツーリズム添乗員のSさんから電話があった.旅をよろしく御一緒お願いしますという挨拶と,何か事前に訊いておきたいことはありますか?という内容だった.特に確認しておきたいことはないと答えると,では当日成田でお会いしましょうということで電話は切れた.
 Sさんは,言葉遣いも声もきちんとした印象の女性で,このツアーの少し前にやはりクラブツーリズムで白川郷ツアーに行ったのだが,そのときのダメダメ添乗員とは大違いだと思った.
 
 ツアーの当日,出発空港は成田なので,大船駅から成田エクスプレスで成田の第2ターミナルビルに行った.乗るのはキャセイパシフィックである.
 集合指定時間より少し早めに到着して出発ロビーフロアにあるクラブツーリズムのブースに行くと,若い女性社員がいて,チケットと名札などが入ったポーチを渡された.搭乗券は参加者各自で取るようで,キャセイの発券機の場所を教えてくれた.
 発券機へ行く途中で,たぶんSさんと思われる女性が,私より年配と思しき御婦人ツアー参加者のお世話をしていたので「Sさんですか?」と訊ねるとそうだと言うので,よろしくと挨拶し,それから発券機で手続きをした.
 
 クラブツーリズムのブースに戻って少しすると,参加者全員が揃った.Sさんの先導でキャセイのカウンターへ行って荷物を預け,それから手荷物検査場へ向かった.参加者各自で検査を受けたら,台湾行 CTX**** 便の搭乗口前で再集合してくださいとのことだった.
 私は出発前に買い物をするわけでもないから,再集合まで時間が余ってしまい,喉が渇いたこともあって,ドリンク売り場に行った.
 すると若い東南アジア系外国人カップルの先客がいて,何を飲むかという相談をしていた.言葉がわからないが,たぶんそういう話をいつまでも続けるのであった.
 私は次第にイライラ感がつのってきた.
 自分の飲むドリンクくらい相談せずに自分で決めればいいのにと諸兄は思われるかも知れぬが,こやつらはプラスティックのカップに入れてストローを挿したドリンクを半分飲んだら交換するに違いないのだ.
 そして二人の目を見つめ合って「うふ」「うふふ」などと微笑み合うのだ.そうとしか考えられぬ愚かな行動である.
 後ろでイライラしている私を無視して数分間の相談を終えた二人は各自の飲み物を注文した.
 店員さんはあっという間に飲み物を用意してカウンターに置き,合計の値段を二人に告げた.
 ところがこのとき,男が小銭入れの口を開けたまま床に落とした.彼らが日本滞在中に貯め込んだ大量の小銭がぶち撒かれたのである.
 二人はたぶん彼らの言葉で「うわーっ」「あらーっ」とか何とか言いながら,それでも何だか楽しそうに見つめ合いながら硬貨を拾い集め始めた.うふ.うふふ.
 だめだこりゃ (死語 by いかりや長介).ここに至って遂に私は飲み物を買うのを諦め,搭乗口前に戻ったのである.
 
 話は唐突だが,最近「エアポート投稿おじさん」とかいうのが流行しているのだそうだ.
 ネットニュース日刊 SPA!の《なぜおっさんはSNSに“空港にいる俺”の写真をアップするのか? 20代女性からブーイング》 (2018/05/02 08:55 掲載) に書いてあった.
 このエアポート投稿おじさんたちは
 
一番の特徴は、空港のラウンジや搭乗口の写真をアップして、そこに一言だけ添えていること。『しばらく旅に出ます』『東京を離れます』とか。でも、一番ムカつくのは『さて、どこに行くでしょう?』というクイズ文ポスト。誰も知りたくねーよ、とつっこんでます
 
気持ちはわからなくはないですが、こっちはそろそろうんざりしていることに気付いてほしいです。空港第2ビルに着いた瞬間に浮かれてんじゃねーよ、と言いたい
 
と若い女性たちにバカにされても SNS 投稿をやるのだというが,記事はその理由を次のように推測している.
 
さらにこうした投稿をより勢いづかせてしまうのが、空港にいる時間は圧倒的に暇であるということ。搭乗まで時間があるので、ついスマホで写真を撮影、迂闊に若者とつながっているFacebookに更新してしまうのかもしれない。
 
 なるほどねー.エアポート投稿おじさんたちは第2ターミナルビルにいるのか.だったら暇潰しにドリンク売り場に行くとよいだろう.
 なかなか出発しないが,続く.

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2018年4月30日 (月)

初めての台湾 (一)

 会社員が定年退職したあと,うまくいけば残りの人生を十五年ほど生きることができるわけだが,十五年なんてあっという間に過ぎるだろうなあ.
 私なんか今六十八歳だから,あと十年ちょっとだ.
 終末期が二年とすれば,動けるのは十年あるかどうか.
 現役会社員だったときには,悠々自適になったら,大英博物館やルーブル美術館に行ってみたいと思っていたが,いざ仕事を辞めたら,長時間の空路に耐えられるか自信がなくなっていた.
 徳島の大塚国際美術館へ行った旅行記を既にアップしてあるが,あの時,ルーブルにある名画の陶板レプリカを前にして二人連れの中年の女性たちが「本物を見ちゃうと,こんな偽物はお話にならないわね」と声高に話していた.
 陶板レプリカと贋作は違うんだけどなあ,と私は思ったが,しかし大塚化学渾身の陶板レプリカを一笑のもとに貶せる彼女たちを羨ましくも思った.
 
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
  (萩原朔太郎『純情小曲集』から「旅上」;青空文庫にある)
 
 朔太郎は旧制前橋中学を出ていて,前橋高校出身の私の同窓の先輩にあたる.
 上に引用した「旅上」は高校生の時から好きな詩の一つだ.
 年が明けたばかりの一月のある日,ふと「ふらんすへ行きたしと思へども」と口ずさんだ私は,朔太郎のように新しき背広を着て旅に出てみたいと思った.
 どこに行こうか.
 ルーブルは無理だが,近場で行きたいところがあった.台北の故宮博物院だ.
 思い立ったが吉日.クラブツーリズムの一人旅ツアー「はじめての台湾ハイライト 4日間」に参加を申し込んだ.
 聞いた話では,故宮博物院の所蔵美術品をちゃんと鑑賞する気になったら一日では無理らしい.だからいずれ個人旅行で台北二泊くらいの旅行をするとして,しかし全く土地勘がないのはちょっとね,ということで先ずはツアーで行こうと考えたのである.
 ここら辺がいかにも年寄りの思考だ.かつて青年沢木耕太郎が『深夜特急』の旅に出た時,彼の頭の中に土地勘なんて言葉はなかっただろうに.
 沢木耕太郎は別格として,海外旅行に人一倍臆病だった私だが,出張とか成り行きでアメリカや中国,東南アジアに行ったことはある.そして懐かしい思い出の土地はあるが,もう再訪することはないだろう.あと数回,東南アジアに行ければ,それでいいやと思っている.
(続く)

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2018年4月15日 (日)

白川郷と雪中立往生の旅 (五)

(前回の記事は《白川郷と雪中立往生の旅 (四)》)
 
 翌朝,朝食後にロビーに集まったのは,ツアー一行の三分の一ほどであった.大部分の参加者は朝一番の新幹線で帰ったのだった.
 クラブツーリズムの小旗を右手で掲げたN澤は,不通の国道158号に突っ込んで降りしきる雪の中でバスを立往生させた自分の責任を微塵も感じていないと思われる明るい笑顔で言った.
「それでは長野駅まで御案内しまーす」
 
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 ホテルを出ると雪は上がって銀世界だった.
 この日の朝,長野市内は氷点下だったらしく,積もった雪は凍って,靴に滑り止めを装着するほどではないが,しかし慎重に歩かないと転倒してしまいそうだった.
 後で確認したのだが,この日の前夜の雪は長野市では久しぶりの降雪だったという.
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 長野駅のコンコースで添乗員N澤は,残留した十人ほどのツアーメンバーを前にして
「それではこのツアーはここで解散とします.お疲れさまでしたー」
と言い,足取り軽く改札口の向こうに消えていった.
 この無能にして無責任な男は,最後まで「私の判断ミスで御迷惑をおかけしました」と言わなかった.
「私のことは嫌いでも,クラブツーリズムのことは嫌いにならないでください!」とでも言うかと思ったのだが,言わなかった.
 近畿日本ツーリストの一部門としてスタートしたクラブツーリズムが旅行代理店として独立し,ここまで大きくなったのは,経営者も社員も優秀だったからだろう.しかしどんな組織にも,「権限がありません」を口実にして仕事をしない,仕事のできない社員が,いつの間にか紛れ込んでくるのは避けがたい.ほぼ定説となっているのは,駄目社員は二割だという話だ.この説に,私は実感として同意する.
 この説をツアー添乗員に適用すると,ツアーに五回参加すると,一回はN澤みたいな無能無責任添乗員にぶち当たってしまうことになる.かなりの高率だと言わざるを得ない.
 旅行代理店によって色々だと思うが,クラブツーリズムの場合は,申込時点で希望しておけば,旅行前に添乗員が電話で連絡 (挨拶) をしてくれる設定のツアーがある.あるいはツアーの担当部署に電話で添乗員の名前を訊ねるかして,今後は事前に添乗員がN澤でないことを確認しておくことにする.海外旅行の場合,添乗員にでたらめな仕事をされて「延泊のホテル代と帰りの航空運賃はお客様各自の御負担となります」と言われたら困るからだ.
 この白川郷ツアーでは腹立たしい思いをしたが,これをもってクラブツーリズムのツアーを全否定する気はさらさらない.
 実はこの白川郷ツアーに参加する前に,クラブツーリズム催行の台湾ツアーを申し込んでいた.そのツアーの女性添乗員さんは語学堪能にして性格は明るく有能で,彼女が独身であったら,うちの息子の嫁にしたいと思ったくらいである.w
 というわけで,この旅行記はクラブツーリズムを非難するものではないことを記しておく.
 
[補遺]
 さてツアーが長野駅で解散したあと,私は善光寺に参詣することにした.
 実は私はこれまで長野市に一度も来たことがなく,仕事をリタイアしたあとずっと,この国に生まれたからには死ぬまでに一度は善光寺にお詣りしたいものだと思ってきたのである.
 もしかすると西日本での善光寺の知名度は高くないかも知れないのだが,東日本では江戸時代から「一生に一度は善光寺詣り」とまで言われた大名刹なのである.
 ひょんなことから長野市にやってきて,善光寺にお詣りすることになったは御仏のお導き,何かの御縁かも知れぬ.これを江戸時代から「牛に引かれて善光寺詣り」という.いわないか.
 白川郷ツアーでは無能添乗員のせいで一万五千円ほどの余分な出費を強いられてしまった.しかしこれとは別に善光寺詣りをしたとすれば,なにがしかのお金はかかるわけだから,まあ元は取れたと言えなくもない.
 
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 駅前の広場には鳩が寒そうに寄り集まってじっとしていた.広場には駅前バス停があり,そこの案内板を読んだら,suica を始めとする全国区のICカードは使えないと書かれていた.あとで調べると KURURU という長野市内のバス会社 (長野電鉄,アルピコ交通,市営バス) 共通のICカードがあるのだった.
 
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 この KURURU は交通系ICカードのネットワークに背を向けているため,コンビニなどでは使えない.バス以外に使い道のない単なるバスカードである.どうしてこんなものを作ったんだろう.観光客や市民へのサービスのことは念頭にないのだと思われる.
 
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 お詣りしたあと,寺域から参道 (仲見世通り) に出た所の角に「九九や旬粋」というしゃれたお店があり,その二階にカフェがあったので寄ってみた.
 
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 アールグレイをオーダーし,紅茶が運ばれてくるまで暫くの間,二階の窓から善光寺を眺めた.雪をかぶった建物や樹々はとても美しかった.
 長野市は北信濃だから雪国のイメージがあるけれど,カフエのマスターに訊いたら,長野市内ではこの冬は大雪は降っていないとのことだった.
 
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 カフェを出て仲見世通りを少し下ると蕎麦屋「かどの大丸」が店を構えていたので,ここで昼食を摂った.
 糖質制限中ではあるが,信州信濃の善光寺まで来て蕎麦を食わない法はないだろうと思ったのである.ところがこの店の天ぷら蕎麦は,天ぷらは上手に揚げられていたけれど,蕎麦そのものは大した出来ではなかったのが残念だった.これが善光寺門前の蕎麦の水準じゃないよね,と思ったことである.
(了)

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2018年4月13日 (金)

白川郷と雪中立往生の旅 (四)

(前回の記事は《白川郷と雪中立往生の旅 (三)》)
 
 さて菅沼集落の近くにある郷土料理店で昼食を摂ったツアー一行は,バスに乗り込んで帰路に就いた.松本までバスで行き,そこから「あずさ」で新宿へ向かうのである.
 五箇山からは東海北陸自動車道で飛騨清見まで行く.そこから中部縦貫自動車道で高山へ.そして高山から国道158号に入ったところで土産物店に立ち寄り,買い物とトイレ休憩をした.
 この時,チャーターしたバスのドライバーに会社から連絡が入った.国道158号でトラック数台が衝突横転する事故が発生し,現在不通になっているというのである.この日,中部地方から関東にかけて東日本の山岳地帯は大雪に見舞われていた.トラックはおそらく雪のせいで運転を誤ったのだろうと想像された.
 ドライバーはツアー添乗員のN澤にそれを告げたが,N澤は別段驚く様子もなく,予定通り,雪降りしきる国道158号へ出発を指示した.
 私はバス後方の席で,隣に座った中年男性と「おいおい大丈夫かよ」と話し合った.
 その男性は「真冬の山ん中の一般道で事故ったら復旧はかなり大変ですよねー.警察も消防も事故現場に来ること自体がすごい大変ですもん」と言った.以前同様の状況に見舞われたことがあるのだそうだ.
 私も彼に全く同意で,N澤添乗員に不信感を抱いたのだが,果たして程なくしてバスは渋滞に突入し,それから先に進めなくなった.そしてバスは立往生したままやがて日が暮れた.それでも前方から引き返して来る車があるせいか,時たまノロノロと進むことはあり,そうこうする内に前方にドライブインがあったので,何とか駐車場にバスを入れた.一行はもう何時間もバスに閉じ込められていて,なんとしてもトイレ休憩が必要だったのである.
 
 N澤添乗員はツアーの一行にこう言った.
「渋滞で止まっている車がいつ動きだすかわからないので,トイレを済ませたらバスの中で待機してください」
 私たちはN澤添乗員の指示通りシートに腰かけたまま待機し,疲労のうちに時間がじりじりと経過した.
 ツアーメンバーの一人が「おなかがすきました.ここのドライブインのレストランで何か食べてきてもいいですか」と言った.
 N澤添乗員もさすがにダメだとは言えず,食べたらすぐ戻ってくださいねと言った.しかしレストランに行った私たちは食事をせずすぐにバスに戻ることになった.
 誰でも腹はすく.駐車場で車に閉じ込められていたたくさんの旅行客たちは,とっくに夕食を済ませていて,そのためレストランには食材がなくなり,全品完売で営業終了していたのである.
 それどころか,パンも菓子も売り切れていた.N澤添乗員がバス内待機を指示したおかげで一行は夕飯を食い損ねたのであった.
 私は仕方ないから酒でも買って飲もうとした.しかし,世の中にそんなドライブインが存在するのかと驚いたことに,そして不運なことに,このドライブインは酒類を販売していないのだった.
 
 落胆した私はバスに戻り,また暫く時間が経過し夕刻六時を回った頃,N澤添乗員がこう言った.
「予約していた〈あずさ32号〉には乗れないことが確実になりました.このツアーは松本ではなく長野駅から新幹線の自由席で東京に帰ることにします」
 この頃,ようやく事故現場は復旧したらしく,車の列は少しずつ動き始めた.しかしノロノロ運転であることは変わりなく道路は渋滞したままであった.
 遂に夜八時を過ぎたとき,何事か携帯電話で話をしていたN澤添乗員が言った.
「もう新幹線の最終にも間に合いません.会社と相談しましたが,このツアーは今夜,長野市内のホテルに一泊して,翌朝の新幹線で東京に帰ります」
「ホテルはJALシティ長野が予約とれました.つきましては,宿泊費と帰りの新幹線代は皆さん各自の御負担となります」
 
 ツアー参加者から「えーっ」という声が上がった.
参加者「わたしそんな余分のお金,持ってきてないです」
参加者「わたし,明日は予定があって今日中に帰らなくちゃだめなんです」
参加者「そもそもさー,国道が通行止めになった時点で富山に引き返してバスで迂回するなり富山から新幹線に乗れば,今日中に帰れたはずだよ」
N澤「あの時点では,ツアーコースの大幅な変更はできなかったんです」
私「どうして?」
N澤「私はクラブーツーリズムの正社員じゃなくて派遣社員なんです」
私「それがどうしたの?」
N澤「派遣にはそういう権限がないんです」
私「会社の中での派遣の権限のことなんか私たちには無関係だ.派遣だろうが正社員だろうが君はクラブーツーリズムを代表してここにいるんだよ,そうじゃないかい?」
N澤「ま,とにかくお金を集めます」
 
参加者「ホテル代を払ったら,わたしもうお金ないです」
N澤「クレジットカード持ってませんか.カードで切符買えますよ.やり方は教えてあげますから大丈夫」
 
 私の隣の中年男性が「カードがあれば大丈夫って,悪徳業者丸出しですね」と囁いた.私は苦笑しつつ「ほんとだね」と同意した.
 
私の近くにいた参加者「あのー,領収書ください」
N澤「領収書は出せません」
私「どうして?」
N澤「ホテルの予約は団体で取りましたから,一人一人に領収書は出せないのです」
私「あのさ,領収書がだめなら君がサインした手書きの預かり書でいいよ.ひとからお金を集めたら,トラブルにならないよう領収書なり預かり書を出すのが社会の決まりだ」
N澤「私が個人的に預かり書は書けません」
私「どうして?」
N澤「派遣社員にはそういう権限がないんです」
私「……もう話にならんな」
 
 そんなやり取りをしているうちにバスは長野市内に到着した.そしてバスはコンビニに立ち寄り,腹をすかせた参加者たちは弁当を買い,ホテルに着いてチェックインした.
 ロビーでN澤は言った.
「明日の朝は八時にロビーに集合してください.まとまって長野駅まで御案内します」
 
 私の隣席にいた中年男性は私に耳打ちした.
「私は明日,目が覚めたらすぐにツアーを離脱して帰ります.こんなアホな添乗員に付き合ってられません」
 私は「そうですか.お疲れさまでした」と言い,彼と別れて部屋に入り,コンビニで買った酒をあおってから寝た.
(続く)

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2018年4月11日 (水)

白川郷と雪中立往生の旅 (三)

 五箇山地方に行ったら,先ずは国指定重要文化財である村上家住宅を訪れてみるものだそうである.というのは,村上家住宅は,作られて以来,内部が改造されておらず,合掌造りの古い様式を今に伝えているからだという.もちろん近代的な生活をするために水廻りなどの改造はされているだろうが.
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 私たちのツアー一行は村上家住宅の中に入り,他の団体客と一緒に,村上家御当主による五箇山民謡「こきりこささら踊り」を鑑賞した.
 
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(囲炉裏の手前に,馬蹄形に置かれているのが打楽器「ささら」である)
 
 次に私たち一行は五箇山菅沼集落に向かった.
 白川郷と五箇山で世界遺産を構成しているのだが,五箇山の合掌造り集落には二つの集落 (相倉と菅沼) がある.またこの集落から少し離れたところに前記の国重文村上家の他に同じく国重文の岩瀬家と羽場家がある.
 で,菅沼集落だが,ここには二つの観光施設,「五箇山民俗館」と「塩硝の館」がある.塩硝は古くは煙硝もしくは焔硝と書き,硝酸カリウムのことである.これはかつて五箇山地域の地場産業であった.
 
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 Wikipedia【硝石】に次のように書かれている.
 
戦国時代の鉄砲伝来以降、欧州系の火器の伝来とともに南蛮貿易による東南アジアからの硝石供給の道が開け、日本は大陸のアジア諸国に一足遅れて火器の時代に本格参入することとなった。当初は硝石供給を基本的に中国や東南アジア方面からの輸入に頼っていたが、やがて需要の大きな硝石の国産化への試みが始まる。こうして古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する方法が発見される。また加賀国や飛騨国などでは「培養法」という、サクと呼ばれる草や石灰屑、蚕の糞を床下の穴に埋め込んで、数年で硝石を得る技術が開発され、硝石を潤沢に生産するようになったが、この方法は軍事機密扱いされて産地は五箇山など秘密を保ちやすい山奥に限られ、他の地方に伝えられなかった。
日本では幕末まで、主に古土法で硝石を得ていた。古土法による生産量は少なかったが、江戸期に入って社会が安定したことにより火薬の需要が減り、国内での全需要を古土法で賄えるようになった。幕末期になると、日本にも硝石丘法が伝来した。しかし既に1820年ごろ、チリのアタカマ砂漠において広大なチリ硝石の鉱床が発見されており、安価なチリ硝石が大量に供給されるようになっていた。また火薬そのものも進化し、硝石を原料としない火薬に需要が移ったため、土から硝石を得る硝石生産法は、やがて全く姿を消した。
 
 上はちょっと長い引用だが,要するに加賀国と飛騨国では,黒色火薬の原料である硝石 (硝酸カリウム) を短期間に製造できる「培養法」(これは後世の近代科学の用語だが) が開発されたが,この製法は技術秘匿に適した五箇山でのみ行われ,他国に伝えられることはなかった.
 全国的には,製造に時間のかかる「古土法」で硝石が作られていたが,火薬の需要が減少した江戸期にはそれで間に合った.幕末にはまた火器のための火薬需要が増大したが,これには安価に輸入できるチリ硝石が用いられ,国産硝石が出る幕はなかった.
 さらには,1884年 (明治十七年) にフランス人のポール・ヴィエイユはB火薬と呼ばれる無煙火薬を発明した.この火薬は近代的なライフル銃の弾薬として最適な特性を有しており,これ以後,火器は長足の進歩を遂げていく.
 日本では,陸軍卿大山巌が欧州視察の際にこのB火薬をフランスから少量贈与されて帰国し,その後これを研究して1893年 (明治二十六年) に板橋火薬廠にて日本における初めての製造が行われた.
 この国産無煙火薬を初めて用いた軍用銃が1889年 (明治二十二年) 制式採用の二十二年式村田連発銃 (Wikipedia【村田銃】参照) であった.
 二十二年式村田連発銃 (正式名称「明治二十二年制定大日本帝國村田連發銃」) の開発以後,国産火器に黒色火薬が使用されることはなく,軍用硝石製造の意味はなくなった.
 こうして,五箇山の山奥で生まれた培養法による塩硝製造は,遂に他藩に知られることなくひっそりと姿を消した.現在,五箇山の塩硝製造の歴史を伝えるものは,菅沼の「塩硝の館」ただ一つであるという.
 後年,培養法による塩硝製造を復活すべく試みた人がいたらしいが,成功しなかったと聞く.一つの発酵生産技術の根幹は,それに使用される微生物そのものである.一旦失われた発酵生産技術は,古文書を読んで再現できるというような簡単なものではない.
 
 さて菅沼集落には「五箇山民俗館」と「塩硝の館」以外に,見るべきものがあるかというと,なーんにもないのである.あるのは合掌造りの土産物屋と飲食店,少し歩いたところの合掌造りの宿泊施設だ.五箇山も白川郷同様,見事にテーマパーク化している.我が国における世界遺産というのは,要するにこういうものなのであろう.
 
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20180411f
 
20180411h
 
(続く)

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