冥途の旅の一里塚

引退老人がトボトボと散歩したり旅します.

2019年12月 5日 (木)

東京都美術館のケーキ

 私は長いこと関東地方に住んでいるが,今年の秋ほど悪い秋はなかった.
 台風のことだ.
 いのちを失った方々,果樹園や田畑が泥に埋まって離農に追い込まれた人たち.家を失い,あるいは職を失った被災者.
 自分が直接被害に遭ったわけではないが,千葉県南部や長野県,福島県など大被害を被った地方は今も災害から立ち直ったとは言い難く,それはテレビでも時折報道されている.
 実は台風15号の来襲する前に,私は北陸旅行の計画を立てていた.しかし北陸新幹線にのって旅に出る予定の日あたりに台風が来そうだということで急遽,宿をキャンセルしたのだった.
 
 それからあと,北陸新幹線が営業できなくなったりで,すっかり旅の意欲を失ったままになった.
 旅行のことはそれとして前々から秋になったら東京都美術館の「コートールド美術館展 魅惑の印象派」にも出かけるつもりだったのが,それもなんとなく行きそびれたままになっていた.
 それが十二月の声を聞いて,少し慌てた.このままではせっかくの美術展が終わってしまう.それで昨日,腰を上げた.
 たいていの美術展は,開催期間の途中で来館者が少し減って,終わりが近くなるとまた混雑するようになるものだ.
 だから九時半の開館に合わせて自宅を出た.上野駅の公園口を出たのは予定の九時半を少し過ぎた頃だった.
 改札口のすぐ前が東京文化会館だが,ここで唐突に昔の記憶が立ち戻ってきた.
 中学の同級生で,○井素子さんという女の子がいた.彼女は音楽大学に進んだのだが,ある年の秋,彼女がオケのメンバーとしてステージに上がる音楽会に誘われたことがある.それが東京文化会館だった.
 そのコンサートの演目が何だったか全く覚えていないが,彼女のかわいらしかった顔立ちを思い出して,少しセンチメンタルになった.
 
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 この美術展の目玉は上の写真にある通り,マネの『フォリー・ベルジェールのバー』だ.それとルノワールの『桟敷席』,ゴーガンの『ネヴァーモア』,セザンヌの油彩画多数など.
『フォリー・ベルジェールのバー』は私が若かった時に,デパートで開催されたコートールド・コレクション展で観て,それ以来だが,調べたらそれは1997年のことだった.
 
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(フォリー・ベルジェールのバー;パブリックドメイン,File:Edouard Manet 004.jpg from Wikimedia)
 
 主要作品には,大きな解説パネルが設けられていて,鑑賞のポイントが書かれている.こういう試みは初めて見た.
 これについて美術展の公式サイトには次のように書かれている.
 
名画を読み解く
 コートールド美術館の研究所の展示施設という側面に着目し、名画を「読み解く」方法を紹介します。画家の語った言葉や同時代の状況、制作の背景、科学調査により明らかになった制作の過程などを知ることで、新たな見方を楽しむことができるかもしれません。
 
 中野京子先生の著書を読み慣れたファンとしては,『フォリー・ベルジェールのバー』のパネル解説はジュニア向けというか,いささか物足りないと言わざるを得ない.(近刊としては『中野京子と読み解く 運命の絵 もう逃れられない』にこの作品が取り上げられている)
 しかし『桟敷席』とモディリアーニ『裸婦』の解説には「ほお」と思うところがあった.例えば『桟敷席』で,後ろの紳士と着飾った女性との境に描かれているものが何だかわからないままでいたのだが,それが解説に書かれていて,ようやくわかったのである.
 
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(桟敷席;パブリックドメイン,File:Pierre-Auguste Renoir, La loge (The Theater Box).jpg from Wikimedia)
 
 全体的に見応えのある美術展だった.展示会場を出たのが十二時だったから,たっぷり二時間も楽しんだわけである.
 展示会場出口の特設グッズ売り場でマグネットを二個買い,さて昼飯はどうしようと少し考えて,一階にあるカフェ,cafe Art で「紅茶のシフォンケーキ キャラメルアイスを添えて」を食べることにした.これは今回の美術展とのコラボメニューだとのこと.
 
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 おいしかったけれど,これのどこが魅惑の印象派なのかというと,コートールド美術館は英国だから「紅茶つながり」ということらしい.
 カフェを出て公園の中を散策したら,大道芸の若者がパフォーマンスをしていた.二十人くらいの観衆がいて,私が後ろのほうに立ったら,彼 (自分ではパフォーマーだと言っていた) が前の方に詰めて欲しいと言った.言われるままに前に出たら,帽子を取り出して見物料の話をし始めた.どうやら彼のショーは終わりらしい.私は彼の芸を全然見ていないのだから,そそくさと逃げ出した.
 そのあと,公園の中をぶらぶらと歩いてはみたが,樹々はあまりきれいに色づいてはいなかった.
 お昼御飯にケーキというのもいいけれど,すぐ小腹がすくかも知れない.東京駅のグランスタで松露サンドでも買って帰ろうかと思った.
 
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2019年6月 9日 (日)

まさかのお一人様ディズニー (三)

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 夕方六時過ぎは,まだまだ明るくて気温も高かった.これからエントランスを通ってやってくる若者たちもいるわけだが,老人はそろそろ靴を脱ぎたい.
 
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「じゃらん」によるTDR周辺ホテルの人気ランキング (2019年5月~6月の取扱金額) では,舞浜・浦安地区の第一位が「東京ベイ舞浜ホテル クラブリゾート」で,第二位が「サンルートプラザ東京」となっている.
 この二つのホテルと比較すると,大人一人の最低宿泊料金が倍に跳ね上がる「東京ディズニーセレブレーションホテル」が第三位につけて健闘している.これは,公式ホテルの部屋をとれなかった皆さんの次善の選択なのだと思われる.そりゃ誰でも一度は公式ホテルに泊まってみたいだろうが,そう簡単には予約は取れない.若いカップルとか小さいお子さんのいる御夫婦とか,ミラコスタに泊まりたいがセレブレーションで我慢するか,といった客層なんだろう.
 爺さんはオフィシャルホテルで何の不満もないので,サンルートプラザにした.フロントでチェック・インの際に,好感度120% (当社比) の女性ホテルマンが「御予約頂いたのはクルージングキャビン3でございますけれど,今日は同一料金でもう少し広いお部屋がございます.アップグレードはいかがでしょうか?」と言う.そりゃもう断るはずがない.w
 アップグレードしてくれた部屋は,あとで調べたらキャッスルルーム・クラシックだった.
 
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 私見だが,宿泊施設で何が一番大切かは,まず掃除が行き届いて清潔であることだ.それさえあれば,車寅次郎が泊まるような商人宿でも一向に構わない.帳場から二階に上がる階段がギシギシと音を立てようが,畳が黄色く色褪せていようが私は平気だ.
 一泊一万円近い宿泊料金を取りながら,浴槽に体毛が散らばっていて,掃除をした形跡がないビジネスホテル (ex. 某所のダイワロイネットホテル他) については,このブログでホテル名を挙げて罵倒してきた.手抜きを旨とし,自分の仕事に誇りを持っていない野郎は罵倒されて然るべきである.会社員相手の商売をしておきながら,会社員をなめるんじゃねえ.w
 しかしこの晩のサンルートプラザ東京は,非の打ちどころがなかった.ホテル自体は昔からのものだが,部屋のメンテは,内装,寝具,水回り,共にきちんと行われていると思われた.
 
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 特にうれしかったのは,浴室に洗い場があったこと.湯量も豊富で,ユニットバスではないから,体を洗っている間にバスタブを湯で満たすことができる.
 
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 話を戻すと,チェックインの際にフロントの女性が「よろしかったらどうぞ」と,レストランのクーポン (千円割引) を二枚くれた.
 実は事前にサンルートプラザ東京の口コミを調べていた.すると,かなり古いレビューだが,
 
冷えない冷蔵庫
サービスについていた2000円のミールクーポンは、バイキングとコースにしか使えないと教えてくれなくて、昼過ぎにアラカルトで利用しようとして使えなかった。
意地になってお夜食に日本料理の店で使ったら、料理はまずいのにしっかり高くて、2000円引いてもとても高くついて割りに合わない。
朝食は長蛇の列でレストランに入店するのに30分待ち。そして不味い。
立地だけは良いがもう利用はしない。
 
¥3,000もする朝食について一言
ノースサイド1階にはバイキング形式の朝食をとれるレストランが3か所ありました。
 6時30分オープンの『カリフォルニア』は6時40分には列が出来ていました。
 中を覗くとまだ空席があったので「スムーズに行ってないんだなあ」と思い諦め、7時オープンのレストランに向かいました。
 どちらも15名位並んでたので時間は変わらないだろうと思い和食レストランに6時50分頃に並びました。
 オープン時間丁度に開店したのですが、私の順番直前で入店規制がかかりました。
「料理を取る列が混んでいるのでお待ちください」とのことです。
(おいおい毎日営業してるのに改善しないのか?まだ20人も入ってないぞ)
 順番を待つ間に支払いを先に済ませたらすでに7時25分。そこから待つことさらに5分。
「開店と同時に食事を開始して、8時30分のパークオープンに間に合うか?」という一刻を争う午前7時に一大事です。
 もうひとつの洋食レストランにすれば良かったと後悔していたら、そちらの列の進みも牛歩なみでした。
 問題は3つのレストラ共バイキング(ブッフェ)形式で、朝食料金が均一価格なのか¥2,887で統一されていることです。
 朝食で約¥3,000は驚きです。しかも全店同じ価格なので料金で選ぶ事が出来ません。バイキングにしなきゃ良かったと思おうにも皆バイキングです。
(これをリゾートホテルのバイキングと呼ぶのも気が引ける品揃えと食材)
 料理も私の個人的感覚で¥1,500が妥当カナ?と思う品揃えです。
(デザートは丸ごとのみかん!ウーロン茶もありません、お茶はポットだしドリンクコーナーまでもお粗末です)
 個人差があったとしても、この朝食料金を「お得・お値打ち」だと思う方はほとんどいらっしゃらないのではないかと思います。
 ちなみにここでディナーは¥3,200です。ディナーとモーニングが¥300円程度しか変わりません。ディズニーランドのディズニーキャラクターブレックファストでも¥1,800です。「クリスマス・ファンタジー スペシャルブッフェ」は3倍の品揃えで¥2,800です。ミラコスタの2階ではショーをテラスから見られるランチブッフェ(デザートも豊富)が、感動する品質と接客と設備で¥3,500です。
 朝食として異常な料金な上に品質と品揃えに対しても割に合わない料金設定、なによりもパークオープン前の貴重な時間を大切にしているゲストの気持ちに応える努力がされていないなところが残念でした。
 どうしてもホテルで朝食が取りたい方には朝食付きの宿泊プランをお勧めしますが、オープン前にパークに並ぶ計画の方はここのレストランのオープンにも30分前に並ばないとなりません。
 空席があり「10名位しか並んで無いから・・」と思うのは早計です。
 入店にも、料理を取るにも時間がかかります。接客も優れていません。ちなみに利用したのは平日です。土日祝はいったいどれだけ待つのでしょうか。
 ここで時間とお金を無駄にするならパークに1時間並んで選択幅(アトラクション・レストラン・ショッピング・ショーなど)を広げた方が思い描く楽しい休日を過ごせると思います。

 との評価を読んでいたので,私は朝食をパークの中で食べることに決めていた.しかし,好感度120% (当社比) の女性ホテルマンがくれたクーポンなのだ.朝食時間にレストランの前に長蛇の列ができていたらレビューが当たっているのだろうから,朝食はパークで食べる.席への案内が滞っていないなら,クーポンを使って食べよう.そういう事にして,朝七時半にレストランに行ってみた.
 するとわかったことは,上に引用したレビューは,歪曲した「ディスり」だということである.
 下の写真,手前の皿は野菜をたっぷり採ってバジル風味のドレッシングをかけたもの.右はコーン・ポタージュ.奥の皿には,ソーセージとフライドポテト,ベーコン,温野菜と白身魚のフライ,トマトソースの生スパゲッティを載せた.
 
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 七十歳になろうかという年寄りが,朝っぱらから二皿も三皿も大量の飯を食ってんじゃねえ!とお叱りを受けるやも知れぬが,それは誤解だ.私の弁明を聞いて頂きたい.
 実は上の写真の他に,卵二つのプレイン・オムレツ,朝カレー,ワンタンスープも食べたのだ.しかも,最初の皿に少し載せたトマトソースの生スパゲッティが秀逸だったので,お替りもしたのである.
 いかがであろう.私が食べたのは六皿だ.誤解は解けたであろうか.ヾ(--;)ゴカイジャネーヨ…
 以上は,サンルートプラザ東京の朝食に対する不当な非難「まずい,貧弱な献立だ」に,このブログで反論せんとして摂取したのである.あれもこれも,すべてはサンルートプラザ東京の名誉のためであることに,ご理解とご協力をお願い致します (JR東日本駅構内放送から引用).
 もう少し詳しく述べる.このレストランでは,料理人がゲストの目の前でオムレツやワンタンをサーブしてくれる.(ライブ・キッチンと呼んでいるようだ)
 オムレツのブースは三人がいて,ボウルに卵を割り入れる係が一人と,焼く係が二人だ.そのうちの一人はまだ若い女性だが,オムレツの形を整える手際は実に見事だった.私も多少は卵料理の心得はあるのだが,彼女のオムレツを焼くスピードはとても真似ができない.すばらしい腕前だったと褒めたい.
 それから,地味ではあるが,サラダのドレッシングはなかなかのものだった.千円割引のクーポンがあるから実質二千円のブフェ・スタイル朝食で,この料理レベルは文句を言う筋合いのものではないと私は思う.
 上に引用した二番目のレビューは,宿泊者には千円引きのクーポン券が提供されることを隠しているし,《デザートは丸ごとのミカン!》という嘘には悪意すら感じられる.一番目のレビューには《サービスについていた2000円のミールクーポンは、バイキングとコースにしか使えないと教えてくれなくて、昼過ぎにアラカルトで利用しようとして使えなかった 》とあるが,そんなことは当然クーポンの券面に書いてあるものなのだ.(下画像の矢印)
 しかるにいい大人が「教えてくれなかった」とはいかにも情けない.
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 このレビュワーは続けて《意地になってお夜食に日本料理の店で使ったら、料理はまずいのにしっかり高くて、2000円引いてもとても高くついて割りに合わない 》とも書いている.夜食というからにはコースではなかろう.それなのにクーポンを使ったというのだから,そこでかなり店側に不当な要求をしたのだろう.立派に悪質クレーマーの域に達している.
「食べログ」のように,どんなに悪質な飲食店に対する正当な批判であっても店に対する批判は掲載されないと投稿ガイドラインに明記されている口コミサイトは論外だが,逆にホテル等の評判サイトには嘘でも何でも掲載されてしまうから,ユーザー側でしっかり判断する必要があるなあと,改めて思った次第である.
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 さて二日目はディズニーシーだ.朝食後に身支度を整えて,チェック・アウト.前日のチェック・インの時に宿泊代を前払いしておき,そのあとで部屋に付けた食事代等の追加料金がなければ,翌朝はフロントへ電話するだけでチェック・アウトできる.忙しい朝に,これはありがたい.
 
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 ホテルのエントランスを出て,シャトルバスとディズニーリゾート・ラインに乗ってディズニーシー・ステーションで下車.九時のオープンだが,私がパーク・エントランスを通過したのは二十分後だった.
 
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 実を言うと,私の家族がディズニーシーに行くようになった頃は,子供たちはもう大人がいなくても大丈夫な年ごろになっていたせいで,私自身のたくさんの思い出のスポットはランドの方にあって,シーの方にはあまり思い入れはない.だからこの日は,無計画に過ごすつもりだったのだが,天気が悪く午前十時頃から雨が降り始めた.これではベンチに腰掛けて日向ぼっこするわけにもいかず,止む無く坂道を歩いてミステリアスアイランドへ.
 ここでアトラクション「海底二万マイル」へ入場.待ち時間は五分ほどで,潜水艇に乗艦し,すぐに帰港.これでは時間つぶしにならぬなあ.次に,傘をさしてマーメイド・ラグーンとアラビアンコーストを散歩した.
 
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 それからさらに,ロストリバーデルタを目指して歩く.「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー;クリスタルスカルの魔宮」に着いたあたりで雨が激しくなった.スタンバイの列に並ぶのは濡れそうなので,ファストパスを入手して,少し離れた屋根のある所で雨宿りをした.若い人たちは少々の雨降りなんぞ屁でもないから,楽しそうにスタンバイの列で笑いさざめいている.
 
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 ファストパスの指定時刻が来たので入場.十二人乗りの乗り物 (名称がわからない) に乗ったのは,この爺さんを除いて,あとはすべて女性だった.
 さあ走り始めるぞ,というその一瞬前から女性たちの絶叫が始まり,あとはそのまま「キャー!」「ギャー!」「ウギャー!」と絶叫しっぱなし.魔宮の中でクリスタルスカルが何か台詞を言ったのだが,全く聞き取れなかった.w
 インディ・ジョーンズのアトラクションを出ると,蒸気船航路「ディズニーシー・トランジット スチーマーライン」の発着場がある.これに乗って「メディテレーニアン ハーバー」までの短い船旅をして,午前中のスタートラインに戻った.さーてこれからどうしよう.
 
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 そういえば,私はこれまで,「アメリカン ウォーター フロント」エリアの客船「S.S.コロンビア号」で食事をしたことがない.いい機会だから今日の昼飯はこの船で食べることにしよう.(S.S.はSteam Shipのこと)
 とはいうものの船上にレストランは二つある.カジュアルな方がいいかな,というよりバーで昼酒が飲みたいな,と思って,「テディ・ルーズヴェルト・ラウンジ」にした.ヾ(--;)
 もう一軒のレストランでも酒を飲めるが,そちらは料理がメインなので,酒はワインでないと恰好がつかない.
 
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 言わずもがなであるが,テディ・ルーズヴェルトは米国第二十六代大統領セオドア・ルーズベルトのことである.テディはセオドアの愛称だ.ぬいぐるみ好きでなくても誰でも知っているテディベアは,各位既にご案内の通り,セオドア・ルーズベルトのエピソードに由来する.そのエピソードをWikipedia【テディベア】から引用する.
 
1902年の秋、ルーズベルト大統領は趣味である熊狩りに出かけたが、獲物をしとめることができなかった。そこで同行していたハンターが年老いた雌熊(一説には傷を負った子熊)のアメリカグマを追いつめて最後の1発を大統領に頼んだが、ルーズベルトは「瀕死の熊を撃つのはスポーツマン精神にもとる」として撃たなかった。
このことが同行していた新聞記者のクリフォード・ベリーマンによって記事にされ、『ワシントン・ポスト』紙に挿絵 (*註) 入りで掲載された。この挿絵のベアは「ベリーマンベア」と呼ばれた。このルーズベルトの逸話に触発されて、ロシア移民モリス・ミットム(英語版)がアイデアル社(Ideal Novelty & Toy)を興し、熊の縫いぐるみを製造したのが、アメリカ国内初のテディベア・メーカーといわれている。》(当ブログ筆者による註;Wikipediaはベリーマンをワシントン・ポスト紙の記者であるとしているが,ベリーマンは政治漫画家であった (つまり件の挿絵はベリーマンの筆による) とする説もある.あるいは記者兼漫画家であったか.当初は,このエピソードのクマはベリーマンベアと呼ばれたが,のちに流行したクマのぬいぐるみはテディベアと名付けられた.セオドア・ルーズベルトはこのテディベアを気に入り,一緒に撮った写真が残っている)
 
 で,「テディ・ルーズヴェルト・ラウンジ」だが,ほとんど待たずに入れた.席に案内してくれた笑顔の素敵なお嬢さんが「テーブルになさいますか,それともカウンターがよろしいでしょうか」と訊いたので,「カウンターで」と私は答えた.
 カウンターにはテディベアを彫刻した柱が立てられている.(内装は公式ページ参照)
 私が,そのお嬢さんに「荷物 (リュックとお土産を入れた小さな紙袋) は足元に置いていいですか?」と訊ねたら,彼女は「小さなものならクマちゃんの足元にどうぞ」と微笑んだ.
 この店は,想像していたよりもずっと本格的なバーだった.(メニューとワインリスト,ソフトドリンクのリストは,公式ページ参照)
 何を飲もうかと思案していたら,女性バーテンダーが「季節のカクテルはいかが?」と言うので,まずはそれにした.ワインベースの,ステアである.
 
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 実際の「季節のカクテル」は上の画像よりもずっときれいなブルーだった.そしてうっかり,浮かせてある赤い花びらの,花の名前を訊きそびれた.「季節の」は四季で変わるということかな.あるいは月替わりか.
 創作カクテルに,敢えて固有の名前をつけないということ.それは,創作者から見れば同じ「季節のカクテル」でありながら,その色も味も変わっていくということだ.このバーを年に数回訪れる,たまさかの客から見れば,「季節のカクテル」とは一期一会ということに他ならない.そして,しかし,花びらを浮かせるという意匠は続いて行く.そのことに私は強い印象を受けた.
 
 次にウイスキーベースのカクテルにしようかと一瞬迷ったが,軽めにジン・トニックにした.それから「パストラミのグラハムサンドウィッチ,フライドポテト添え」も.
 このサンドウィッチ,皿が届いてから私は,その大きさに驚いた.全粒粉 (グラハム) のパンはイギリス風山型パンで,普通の食パンの五割増しの大きさ.型に蓋をしないパンは大きく軽い焼き上がりになるが,しかし挟んである中身は,パンが大きくなる分,ずっしりと重くなる.
 朝食にあれだけのものを食って,昼飯がこれだ.w
 サンドウィッチを肴に飲もうと思ったのだが,もはやこれまで.潔く引き上げることにした.
 
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 ところで,ディズニーシーは,ランドよりも飲食店によい店が多そうだ.ファスト・フーズで済ませるのもいいけれど,時間があるなら落ち着いた雰囲気の店を選びたい.私が若ければ年間パスポートを購入して,アルコールを提供しない店も含めてレストラン探訪をするところだが,いつ死ぬかもわからぬ老人には年間パスポートは使いきれない.夏は体に堪えるから,秋になったらまた飲みに来よう.(了)

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2019年6月 7日 (金)

まさかのお一人様ディズニー (二)

(《まさかのお一人様ディズニー 》の続き)
 
 七時前の電車で藤沢駅を出て,舞浜駅で下車し,TDLパークエントランス前の数千人の大群衆の最後尾に着いたのは八時半頃だった.
 
 この短い一泊旅の始まりだ.これは子育て時期の思い出を訪ねるノスタルジック (鈴木奈々さんはこれをノストラジックと言った.私はそういう彼女のファンだ)・ジャーニィだから,何はともあれ,イッツ・ア・スモールワールドだ.
 その方向に歩きながら私は意外に思ったことがある.以前は開演と同時に若いお父さんたちが,妻と子供の期待に満ちた眼差しを背に,あちこちにあるファストパス発券機へダッシュし,返す刀で人気レストランの予約を取りに走ったものだった.しかしこの朝,エントランスでは「園内では走らないでください」と放送してはいたが,ワールド・バザールはもちろん,その向こうの広い園内でも,走る人は一人もいなくて,みんな楽しそうに談笑しながら,思い思いの方向に歩いていた.若いお父さんとお母さんは,二人の子供と手をつないで,こっちに行こうか,それともあっち?とでも言うかのように眼を交わしていた.同じ色のネズミ耳を頭につけたお嬢さん二人は,おそろいの白いワンピースを着て,手をつないで歩いていた.きっといつも,二人でここに来るときはこの服を着てくるのだろう.
 大学生くらいの五人組男女は,全員が頭にプーさん人形 (←カチューシャ) を載っけて,はじけるように笑っていた.
 誰も彼も,「効率よくアトラクションを廻る」なんてことは頭の中にないようだった.
 そうか,長い時間をかけて,このテーマパークはこの全き祝祭日に到達したのだな.私はそう思った.

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 さてイッツ・ア・スモール・ワールドに着いて,入口にいたスタッフにファストパスはどこですか?と訊いたら「六月からファストパスのアトラクションから外れていまーす」とのことだった.それなのに列はできておらず,入口から十五分で乗れるという.まずは好調な滑り出しだ.
 数分後,せーかいーはひとーつ,と口ずさみながら出口を出て,次はビッグサンダー・マウンテンへ向かった.こちらは列の最後尾から四十分だった.これも楽勝.だが,TDRは,どこかしらが必ず工事中だ.今月はアメリカ河とその施設が改良工事に入っていた.スプラッシュ・マウンテンも.
 特にアメリカ河系アトラクションは私にとっての目玉エンターテインメントなので,これにはちょっとがっかりした.
 
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 もはや大昔のことになった話をしても仕方ないのだけれど,ビッグサンダー・マウンテンを降りて出口からアメリカ河の畔に歩いて行くと,フライドチキンを売っている店 (下の写真) があった.そしてその隣には広い開放的なステージがあって,ショーをやっていた.下の写真の右側のところだ.ところがここが様変わりしていた.アメリカ西部の香りのする建築ではなく,ただの休憩所になってしまっていた.休憩所の名称は「キャンプ・ウッドチャック キッチン」(提供;J:COM) といい,それらしい名前なのだが,安普請の二階建ての小屋で,J:COMは何か勘違いをしているとしか思えない.
 
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 それだけならまだしも,献立がフライドチキンではなく,燻製のターキーレッグに変わっていた.
 大昔,この店で売られていたフライドチキンは,日本で一番旨いチキンだと言われていた.誰が言っていたかというと,私だ.それが残念なことに,なくなってしまったのである.代わりに七面鳥だという.
 死んだ子の歳を数えても仕方ない.私はターキーレッグのセットを買って,小屋の二階に上がった.そして七面鳥の肉を歯でむしり取って驚いた.下味を付けずにスモークしてあったからである.旨味のないバサバサの硬い肉で,しかるにずっしりと,やたらに量があった.KFCのオリジナルチキン四ピースを買うと入っているドラムの二本分はあった.TDLに来て最初の食事がこれだったのは,まことに残念だった.私は戦後すぐの生まれで,食事作法については古い教育を受けて育ったので,食べ物を残すことに罪悪感を感じる.そして「おいしい」は言えるが「まずい」は心中で思うだけだ.だから伏字で書く.「○○いものを最後まで食べきるのは拷問のようである」
 で,この小屋の二階の窓は磨りリガラスが嵌め込まれていて外が見えないようにしてあった.もしかすると,それは工事中のアメリカ河のアトラクションをゲストに見せないようにしてあるのかも知れなかった.
 
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 アメリカ河の畔には,ぐるとりと板塀が建てられていた.そして所々に,お訊ね者のなどのポスターの絵が描かれていた.
 ちなみに下の写真は板塀に描かれているポスターを写したものだが,このポスターの女性は,悪漢ではなくてアニー・オークレイだ.アニーは射撃の天才で,その名を知らぬ者なしのガンマンであったバッファロー・ビルが主催した興行『ワイルド・ウェスト・ショー(Wild West show)』のスターであった.そのアニーを題材にしたミュージカル『アニーよ銃をとれ』は有名だが,団塊爺婆にとっては,同名の連続テレビドラマ (フジテレビ) が懐かしい.
 
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 工事現場をゲストの目から隠すための板塀にアニー・オークレイのポスターを描くというのは,このテーマパーク運営のマニュアルに書いてあるのだろうか.ゲストの99.9%を占める若い人たちは,アニー・オークレーと聞いても誰のことか全くわからぬわけで,しかし敢えてこのポスターを描いた関係者たちに私は拍手だ.
 
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(Wikipedia【アニー・オークレー】から引用;パブリックドメイン画像)
 
『アニーよ銃をとれ』が実際に放送されていた期間は短いのだが,美人で優しい主婦が理想の女性像だった時代 (ex.『うちのママは世界一 (ドナ・リード・ショー)』) に,女ガンマンという設定があまりにもカッコよくて,子供たちだけでなく大人たちにも熱狂的にウケた.主演はゲイル・デーヴィスで,ドラマを収録したディスクがAmazonで販売されている.
 
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 アトラクションを二つ廻った十時過ぎ,既に人々の影は黒く,陽差しは真夏の様相を呈していた.ガーデンパラソルの下で子供たちは氷菓を手に,母さん父さんと談笑していた.
 パレードは常設と企画があるが,六月から七月までの企画は「七夕グリーティング」だ.短いパレードで,終わりまで観ると二十五分.大きな山車は出てこないけれど,ディズニー・プリンセスたちはゲストの眼前を踊りながら,手の届きそうな所を通って行くわけで,大きいパレードよりこっちの方がいいかも知れない.プリンセスたちがやって来ると,娘さんたちが「きゃーかわいい!」「きゃーかわいい!」「きゃーかわいい!」と大騒ぎ.パレード・ミュージックが聞こえない.w
 
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 パレードが通り過ぎたあと,私は「魅惑のチキルーム:スティッチ・プレゼンツ“アロハ・エ・コモ・マイ!”」へ.
 昔は単に「魅惑のチキルーム」といい,天井から吊り下げられた閑古鳥たちが歌うというショーで,ランドで一番不人気な寂れたアトラクションだったが,今はそうでもない.

 
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 経済成長期にあった私たちの世代の家族像といえば,ライド系のアトラクションばかりを,がつがつとめぐって喜んでいた.それに比べると今の若い家族たちのほうが成熟しているのかも知れないと思った.ただの遊びなのに,まなじりを決して園内を走りまわる父親の姿は全然ないしね.
 
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 次はジャングルクルーズだ.このアトラクションの入口は昔のままのようであるが,
 
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中はかなり私の記憶と違っていた.昔よりも河幅が狭く,ウネウネと曲がっているような気がするのだが,違うだろうか.例えば下の写真みたいなのは記憶にない.各アトラクションは,十年一日のショーをやっているわけではなく,長いあいだには色々と変化があるんだろう.
 
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 さてお次は午後二時からのパレード「ドリーミング・アップ!」だ.家族連れの皆さんはこの炎天下に席取りしなければいけないので大変であるが,私はちょうどいいところに隙間があったので,そこに立って観覧した.
 
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 これはメインのパレードだから.スターたちは大きな山車に乗って通り過ぎて行く.
 
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 アリスにミニーに,
 
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そしてパレードの華は,やはりこのシンデレラですなあ.ちなみに,ちっちゃな女の子たちがディズニー・プリンセスのコスプレで若いママに連れられてパレードに声援を送っていた.この日のパレード沿道で私が目撃したのは,ベルが四人と白雪姫が二人,シンデレラは一人だった.
 
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 ウェンディ (左) はおなじみのキャラクターだが,パレードのメリー・ポピンズは初めて見た.ネット検索すると,それほど古くから登場していたのではなく,YouTubeには,五年前にメリーポピンズのグリーティングがアップされている.そういえば,私は観ていないが『メリー・ポピンズ リターンズ』の公開は去年のことだった.これは今後シリーズ化されるかも知れないとのことである.
 パレードのあと,そろそろ疲れてきたし,とにかく暑いので,そこら辺の店のテラス席に腰掛けては,飲み物を喉に流し入れた.年寄りの熱中症は大事に至る可能性が高い.パーク内の放送でも,こまめに水分補給をしてくださいと繰り返していた.だが,予想をはるかに上回った気温と陽差しに,水分はなんとかなったが日焼け止めの用意はしてこなかったので,午後三時過ぎには腕が赤く焼けてヒリヒリしてきた.
 
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 実は事前に「2019年版 ディズニーランド攻略!」みたいなブログに目を通してきたのだが,そんな必要はないようだった.平日のゲストたちは,飲食店のテラス席で,ゆったりと家族友人たちと過ごして,時折アトラクションに入る,といった一日の過ごし方をしているようだった.だから私もそんな風に午後を過ごした.
 ホーンテッド・マンション (十五分待ち),スペース・マウンテン (二十分待ち) を観たあと,夕刻の六時すこし前に早めに食事をして,ホテルにチェック・インすることにした.レストランをどこにしようかと歩いていたら,ワールド・バザールにある日本食の「れすとらん北斎」の前に女性店員さんが立っていて,前を通るゲストたちに声をかけていた.訊けば今は三十分待ちで食べられるという.それはありがたいと思って,私は二階に上がった.
 暫く順番待ちをしたあとに案内された席は,割と奥まったところにある二人掛けのテーブルで,落ち着いて食事できそうなところだった.私のテーブルの隣は四人掛けテーブルで,たぶん三十代の女性が一人で席に着いていた.
 すぐに店員さんがオーダーを取りにやってきて,私は「七夕膳 スーベニア箸付」を注文した.オーダーを受けた店員さんがレジの方向へ下がると,隣の席の女性がおずおずと私に声を掛けてきた.
「あのー,ちょっと耳に入ったんですけど,お箸をもらえるんですよね」
「はい」
「そのお箸,わたしに売ってもらえませんか?」
 どうやら彼女は別の料理を注文したのだが,そのあとでスーベニアの箸が欲しくなったようだ.私は取り立てて土産の箸は欲しくもなかったので,「いいですよ」と応じた.
 そして食べ終わってから彼女に「この席で待っていてね」と言い,レジへ食事代の精算をしに行った.スーベニアの箸は,精算時にレジでもらえるからであった.
 私が席に戻ると,彼女は「おいくらでしょうか」と私に訊いた.
 私は「プレゼントしますよ」と言った.
「えっ!」
「このお箸,今日の思い出になるといいですね」
 言ってしまってから,我ながらクサイ台詞だと恥ずかしくなり,私はそそくさと出口方向に逃げたのであった.ヾ(^^;)
(三に続く)
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2019年3月 2日 (土)

アンコールを一目でも (補遺2)

 アンコールクッキー社が,ネット上で攻撃されていたのを読んで思うところがあった.
 例えば,「アンコールクッキーが,カンボジア人の支援だと考えているなら,日本と同じ給料を払え」という主張がある.だが,もし日本と同じ程度の労務費をかけて成立するビジネスなら,日本でやればいい.いや日本でやるべきだ.日本に貧困がないわけじゃないからである.しかし,日本の洋菓子マーケットは競合会社が多い.アンコールクッキーが競争を勝ち抜いて,小さなお菓子屋さん以上の会社に成長するのは困難だと言わざるを得ない.同社がカンボジアで成功しているのは,競合が少ないカンボジアだからであろう.
 アンコールクッキー社はネット上で売上を公開していないが,たぶん年商は億を越したくらいではなかろうか.それくらいであると,少しずつではあるがビジネスを拡大していく余裕があるだろう.事実,同社は飲食店や食材販売に手を広げてきている.発展途上国におけるビジネスとしてかなり健闘していると思われる.
 もし従業員に日本並みの賃金を払っていたら,同社が実行してきた雇用の拡大なんか不可能だったわけであるから,アンコールクッキー社の経営者の才覚はなかなかのものだと言える.
  
 そもそも,同社が公式サイトに掲げている「企業理念」は,私のように企業社会に身を置いてきた人間にとっては,当然すぎる内容である.つまり同社は,カンボジアの国家再建には,海外からの福祉的援助以外に,カンボジア人の雇用を創出しなければならないと言っているのだ.この企業理念を誹謗する人たちは,国家建設における雇用創出の重要性がわかっていない.その種の人々には,支援といえば福祉的援助しか理解できないのである.いや,あるいは企業活動そのものを悪と考えているのかも知れない.
 
 私も若い頃,ベトナムで製造した食品を日本に持ってきて販売するというプロジェクトに参画したことがある.これはある総合商社がコーディネートした.
 このプロジェクトは結論として実を結ばなかったのだが,プロジェクトの目的にベトナムの経済支援なんてことは考えていなかった.参加企業は,日本国内における事業と同様にプランニングすればよく,違う点は,従業員を現地採用することである.そこに生じる日本との賃金格差が参加企業のメリットになるのだが,現地で新たに創出される雇用がプロジェクトの果実になるわけだ.
 日本国内において自治体が企業誘致をする場合を考えればわかりやすい.企業にとって何のメリットもないなら誘致に応じるわけがないから,工場建設用地を格安で提供するとか,道路などのインフラを整備して工業団地にするなどの優遇措置を誘致する側が講じ,その代わりに住民の雇用を求める.これは,雇用の創出が如何に大切なものであるかということを示している.
 
 アンコールクッキー社が日本人に誹謗される理由は,経営者が日本人であるということだ.もし経営者がカンボジア人だったら,アンコールクッキー社を攻撃する人たちの「日本国内と同じ賃金を払え」という要求は根拠を失う.同社を誹謗する人は,たぶんまだ実社会で働いたことがないので,アンコールクッキー社の企業理念が理解できないのである.だから海外資本が行う企業活動による支援を,海外からの福祉的援助と混同してしまうのだ.
 カンボジアには海外からの産業誘致が必要だ.インフラを整備しなければいけないビジネスを誘致するのは不可能に近いが,食品製造業なら敷居は低い.かつて日本のいくつもの食品企業がタイに進出して成功した.それらの企業がカンボジアにも進出してくれないものかと思う.
 それにしても,日本の若者たちが,海外で成功した日本人の会社を「現地人を搾取している」かのように攻撃するのは,愚かと言うしかない.これからカンボジアに進出しようという会社があるとして,彼らがその会社の事業意欲を削げば,現地に雇用は生まれず,カンボジアの再建はままならないのである.
 昨日の記事に紹介した幼稚な意見を再掲しよう.
 
カンボジアの方々が潤うどころか、何かにより、それを阻めていることに力を貸してしまっているのではないか?
 
 この意見の投稿者に倣えば,カンボジアに進出した企業を誹謗することは「カンボジアの方々が潤うどころか,それを阻んでいる何者かに力を貸してしまっているのではないか?」と言えるのである.(投稿者の小学生みたいな文章を,まともな日本語に添削した w)
 想像するにこの投稿者は,どこかで「貧困 (再生産) ビジトネス」の話を聞き齧ったのではないか.政府が発展途上国に,貧困に対する「人道的支援」の名目で,多額の寄付金や税金を贈るとする.すると,それを生産財や消費財に変換する民間ビジネスが発生する.これが時として,発展途上国の経済に打撃を与えることがある.長年に亘り食糧援助をしたために,その国の農業が衰えた,たなどである.
 こういう大規模な経済援助関連ビジネスと,観光客が買い物して現地に落とす少額のお金を混同して「カンボジアの方々が潤うどころか,それを阻んでいる何者かに力を貸して」いるなどと言う無知はまことに恥ずかしい.私たちはこういう穏やかな見識の旅行者でありたいものだ.
(カンボジア旅行記完)

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2019年3月 1日 (金)

アンコールを一目でも (補遺1)

 カンボジアの御土産について.
 
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 左上の箱は,経営者が日本人だということでよく知られたアンコールクッキー.「ぼったくりだ」とか,「企業理念」が欺瞞だなどと悪評高い.「ぼったくり」とは,このショップに観光客を連れて行ったガイド (の会社) に高率のリベートが払われることを指している.
 私は,ツアーの現地ガイドさんに,立派な観光案内をしてもらったことに感謝の意を込めて,アンコールクッキーを購入した.日本人観光客がこれを買えば,ガイドさんたちの会社に利益がもたらされるわけで,それのどこが悪いことなのか理解に苦しむ.
 右下の袋はバナナ・チップである.プノンペンの空港で買った.カンボジアの食品は一般的に期限表示がなく,このバナナチップも同じ.帰国して開封したら,酷い劣化臭がした.アンコールクッキーのショップで試食した同種の商品はおいしかったが,空港で販売されていた現地生産品は,間違いなく「製造した順に販売する」,つまり「先入れ先出し」と言う基本が守られていない.
 右上は薄皮付きのピーナッツとハーブを混ぜたものである.ホテルのバーで飲んだ時に突き出しに出てきたもので,なかなか旨かったので空港で買った.帰国して食べようとしたが,激しい酸化臭がして食べられたものではなかった.これもバナナチップと同じく,かなり前に製造されたものが,今でも販売されているのだ.
 アンコールクッキーのショップで販売されている商品は期限表示がされている.すなわち同社では「先入れ先出し」が行われている.日本人の食品会社ではこれは基本中の基本だ.これが食品の品質管理上でどれほど大切なことか,アンコールクッキーの店を非難する人たちに一考して欲しい.
 販売する店側にとって,期限表示は「先入れ先出し」のための有力なツールなのだ.買う側にも安心感を与えるし.
 
 左下は塩蔵の黒コショウである.これもガイドさんがバス内で注文を取って販売したものだ.これは日本人相手の商品だからか,期限表示がある.試食したところ,実にすぐれものだった.これも御土産店で売られているが,どうせ買うなら,行方不明になったトラブル爺のために捜索隊を出してくれたことへのお礼の意味で,このガイドさんから買いたいと思って購入した.ツアーメンバーたちは全員が買った.
 これを,帰国して,ピザにトッピングして食べたら風味抜群であった.炒飯,焼きそばにも合う.なんなら白飯にもどうぞ.
 写真の背景にしたのは,オールド・マーケットで購入したテーブルクロスだ.いい色だと思うので,このブログに載せる写真の背景に使いたい.
 
 上に紹介した《地球の歩き方 Q&A 》に掲載された《アンコールクッキーについて皆様はどう思われますか 》に,《高いお勉強代と思って。》と題したレスが付いている.そこから少し下に引用する.
 
ただ、本当にカンボジアという国の将来の発展を案ずるのであれば「その国の為に」という名目に心を曇らされて「安易」にお金を落としてはいけないと思います。
よく遺跡近辺で物売りの子供、レストランや道端で寄って来る物売りの子供、とても可愛いし、あの目で懸命に訴えられたら、買ってあげたくなります。しかし、それはとても安易な、そしてその子供達の助けにはならないお金です。

 
 私たちのツアーに,若いお嬢さんが二人いた.サンボープレイクック遺跡を見学している時に,日本なら小学校にあがったばかりくらいの男の子と女の子が,「買ってください」という表情で,彼女らに両手で持ったスカーフを見せた.二人は,そのスカーフを品定めして,「あ,これかわいいー」と言って買った.男の子と女の子は,はにかむような,うれしそうな表情をした.
 投稿者は《それはとても安易な、その子供達の助けにはならないお金です 》と言うが,めんどくせー奴だなと思う.
 観光客が物売りの子からスカーフを買うと,その子が鞭で打たれるというのか.そんなことはなかろう.ならば「あ,これかわいいー」で買ってもいいじゃないか.投稿者は《カンボジアの方々が潤うどころか、何かにより、それを阻めていることに力を貸してしまっているのではないか?》(当ブログ筆者の註;日本語になっていない) と言うが,それは根拠のあることなのか.
 かわいいスカーフを買った彼女たちは,ある日,引き出しの中のスカーフを手に取り,カンボジアでそれを売っていた子供たちの笑顔を思い出すだろう.それでいい.私はそう思う.
アンコールを一目でも (補遺2) へ続く 〉
 
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2019年2月28日 (木)

アンコールを一目でも (十四)

 さて翌日はツアー最終日.午前中はベンメリア遺跡の見学だ.バスを参道の入り口にある駐車場というか広場に停めると,左右に御土産を売る店があった.固定店と,テント店がいくつか.
 
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 今回のカンボジア旅行では,たくさんの犬を見かけたが,猫は一匹も見なかった.どうしてだろうとあとで調べたら,猫の写真を載せた旅行記が見つかった.どうやら市街部にいるらしい.私たちは遺跡観光ツアーだからほとんど郊外にいた.それで猫の姿を見かけなかったのかも.
 
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 下の写真,参道の向こうから,地雷被害者楽団が演奏する曲が聞こえてきた.楽団はあちこちの遺跡で演奏しているのだが,観光客がカメラを向けるのはあまりにも無礼というものだろう.従って私の旅行アルバムにその写真はない.
 
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 ベンメリアには,廃墟感が漂う.敢えて修復をしていないらしい.下の写真の右端に通路が写っている.
 
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 下の写真のように瓦礫というか,石造遺跡の崩れた跡をたくさん見ることができる.遺跡の中は観光客が侵入すると身の危険があるし,遺跡周辺は地雷地帯であるせいか,レンジャーっぽい服装の女性がパトロールしていた.

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 夏草やつわものどもが夢のあと,というのが私たちの文学だが,それは人々の木材に拠った営為が木材と共に朽ち果てていく有様である.クメールの石造寺院遺跡はそうではなく,樹木が旺盛に人間の作ったものを瓦礫化していく過程を見せてくれる.日本の樹木にはこれほどの生命力はない.
 さて,私たちのバスは,ベンメリアへ行く途中で,弁当を仕入れていた.下の写真だが,お握りにウインナ,揚げ餃子などのおかずが実によくできている.日本の食材を調達するとコストがバカにならないと思われるが,日本のスーパーで「お握り弁当」と名付けて売っても全く違和感がない出来栄えだった.
 たった数日のツアーだから「日本食が恋しい」なんてことは全然ないのだが,ここまで来てお握りを食べるとは思ってもいなかったので,楽しい趣向であった.
 
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(カンボジアのお弁当;お握りの向こうに山菜,タクアンときゅうりのキューちゃんがある)

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(昼食を摂った休憩所の犬)
 
 午後は,カンボジアで三番目の世界遺産サンボープレイクック遺跡を観る.Wikipedia に項目がないくらいの,観光的にはマイナーな遺跡だ.ネット上の資料としては《カンボジアの森に眠る古代都市「イシャナプラ」(サンボー・プレイ・クック)探訪 》を推奨.
 サンボープレイクック遺跡はシェムリアップの南東かつプノンペンの真北の中間地点にある.これはアンコール遺跡に先行する都市と寺院の遺跡群で,日本の時代では飛鳥時代あたりに相当するらしい.アンコール遺跡等は石造だが,この遺跡は煉瓦造りである.寺院建築に使う砂岩がこの付近では採れないとか,あるいは運ぶ手段がないとかの理由があったのだろう.
 この遺跡がアンコール遺跡などと決定的に違うのは,遺跡が存在する一帯の森林の様相である.ネット上でそういう指摘をするのは私が最初のようであるが.
 私は,大学院は農芸化学だが,学部は農学部林産学科の森林化学講座というところを卒業した.この講座は,樹木を始めとする森林の植物を化学的な立場から研究するという学問ジャンルであったが,それは研究レベルの話であって,私たち学部学生は隣接分野である林学の講義も受講した.林学研究の方法の一つに,森林を生態系として捉えた生態学・環境学的アプローチがあり,私はそのほんの入り口をかじったのである.
 話は横に飛ぶが,少し前にNHKスペシャルの名作として知られる『明治神宮 不思議の森 ~100年の大実験~ 』が再放送された.この番組は,明治神宮創建の際に,計画的に造林された「神宮の森」を取り上げたものである.Wikipedia【明治神宮】によれば,次のようである.
 
明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計には、林学の本多静六本郷高徳・上原敬二・田村剛・川瀬善太郎・中村斧吉(林苑課長)・大溝勇・山崎林志・中島卯三郎、農学/造園の原煕、大屋霊城・狩野力・太田謙吉・森一雄・水谷駿一・田阪美徳・寺崎良策・高木一三・森一雄・井本政信・北村弘・横山信二・石神甲子郎、また、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。
こうして集められた明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 引用文中の《およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達する 》は神宮の森における仮説検証のことと考えたほうがよいだろう.というのは,日本とカンボジアでは樹木を含む植物種全体が全く異なる上に,気候条件も違う.従って「百年後」は東南アジアの密林に適用されないとはいえる.だが,アンコール遺跡周辺の密林と,このサンボープレイクック遺跡がひっそりと存在する明るい林では受ける印象が随分と違う.いずれも百年どころか千年近い歳月を経て形成された森である.どちらがカンボジアの風土における極相林なのであろうか.
 
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 上の写真は, ガジュマルの気根が,煉瓦造りの遺跡を崩壊から守っている.
 
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 これ↑は祈りを捧げる堂だ.遺跡ではあるが,今も周辺の村人たちがお詣りしている現役の宗教建造物である.草が生えているが,これを放置するといずれ崩れてしまう.
 
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 これ↑もガジュマルが,わずかに残ったレンガを支えている.
 
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 上の写真のお堂は,草による風化を防ぐために屋根で覆われている.
 
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 現地ガイドさんによると,サンボープレイクック遺跡をぐるりと一周して,ガジュマルが守っているこの堂↑の前で記念撮影するのがよいとのこと.ガイドさんがそう言うと,十二人の女性たちが,まず自分一人で一枚撮影し,次にガイドさんと並んで一枚撮るのを繰り返した.それくらい好感度の高いモテモテなガイドさんであった.各自の記念撮影が済んだら,このツアーは予定終了でプノンペンに行く.バスで四時間以上かかる移動であった.
 このプノンペンまでの道中は,カンボジアの農村地帯であった.残念なことにバスの窓から撮った農村の写真が全部ピンボケで,ここに掲載できない.写真はないが記憶に残るのは,田を耕すために飼われている牛たちが,農家の庭先に繋がれていたり,あるいは田で草を食んでいたのだが,ことごとく痩せさらばえて,アバラ骨が浮き出ていたことである.カンボジアの農村は貧しい.そう思わざるを得ない光景であった.
 
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 プノンペンに到着して,空港近くのレストランで夕食を摂った.街中には上の写真のようにクリスマスの電飾があり,そこそこの人出はあった.
 食後,空港までの短い間に,現地ガイドさんが自分のことを話した.想像だが,彼は学校教育を受けていないのかも知れない.ポル・ポトのせいである.カンボジアは,ポル・ポトが知識人層を殺戮しつくしたために,学校の先生そのものがいなくなってしまった.およそ国というものの礎は教育である.だからカンボジアの人々は祖国を再建するにあたって,まず学校の先生を育成するところから始めなければならなかった.今でもカンボジアの小学校は二部制だとガイドさんは言った.先生が足りないからだという.しかし仮に先生がいても,貧困を克服しなければ子供たちは学校に通えない.カンボジアは困難な両面作戦を強いられている.
 農業技術,工業技術,芸能など知識層を必要とする社会のあらゆる分野で,カンボジアはポル・ポトの大虐殺から立ち直れていない.三十年前のベトナムよりも貧しいかも知れないのだ.
 誰がカンボジアをこんな国にした.軍事顧問団を派遣して対ベトナム戦を指導し,武器や地雷を売りつけて代金として米を収奪し,人々を飢餓に陥れた中国か.カンボジアに産するルビーの利権欲しさにポル・ポト派を自国領内に保護し,そこから出撃させて戦争を長引かせたタイか.国連の場で売国王シハヌークを持ち上げた西側諸国か.
 私は覚えているが,日本のメディアはシハヌーク寄りだった.日本の知識人層もシハヌーク支持が大勢だった.シハヌークの背後に中国と北朝鮮がいたからである.彼らは,細々と伝えられていたカンボジアの惨状から目を逸らし,偉大な文化大革命の中国と,「地上の楽土」北朝鮮の幻影の前に平伏した.その最悪な例は,元朝日新聞記者で週刊金曜日編集長でもあった本多勝一である.本多はポル・ポト政権を賞賛していたが,風向きが悪くなると途端に掌を返した.本多は世渡り上手な似非左翼の典型であった.本多と同じ穴の貉である佐高信や落合恵子など週刊金曜日の古参編集委員たちにポル・ポトの評価を訊いてみたいものである.
 かつての日本でポル・ポトを礼賛した者や毛沢東主義者だった者を列挙していくと血圧が上がってしまう.若い人たちは,カンボジアの悲劇はポル・ポト個人が極悪人だったからだと思っているかも知れないが,直接的にポル・ポトを支援した国だけでなく,当時の国際社会の多くがポル・ポト支持だったことを知って欲しい.そんなことを成田への帰国便の中で私は思った.(カンボジア旅行記本文,了)
アンコールを一目でも (補遺1) へ続く 〉
 
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2019年2月27日 (水)

アンコールを一目でも (十三)

 アンコール・ワットを見学したあと,ツアー一行の予定は,オールド・マーケット (シェムリアップ市街地にある観光客向け商店街) の観光である.

 

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(昼寝する子犬)
 
 上の写真は,アンコール・ワットからオールド・マーケットへのバス移動中,トイレ休憩に立ち寄った茶店の片隅で昼寝する子犬である.アンコール遺跡周辺や,シェムリアップ郊外で見かけた犬たちは,飼い犬だけど首輪なしで自由気ままだ.犬は元々が楽天的な生き物で,好人物に飼われると,実に天真爛漫に育つ.この茶店で買われているカンボジアの犬たちは,リードなしで楽しそうに遊んでいた.
 昔,仕事で中国の上海以南の地方を旅行した時,ガイドさんがこう言った.「中国人は机以外の四本足はすべて食べます.中国に野良犬はいません」ヾ(--;)
 上海の食料品市場を視察した時,犬が売られていたのを見た私は,ガイドさんの説明が嘘でないことを知った.そして今や中国は犬虐待大国だ.ヾ(--;)ニホンモナ
 この休憩所で,私の他にもう一人ツアーに参加していた爺のセクハラ行為を目撃した.爺は売店でココナッツを買い求め,店の人にストロー用の穴を二つ開けてもらい,ストローを二本挿した.そしてこれをツアー参加者の女性たちに「一緒に飲もう!」と言い寄ったのである.若いとは言い難い婦人たちはきっぱりと断ったが,娘さんたちの一人が断り切れずにストローを口にした.私は昼食時にこの爺に絡まれて喧嘩になりかかったので,爺のセクハラ狼藉を見てもぐっと堪えた.
 思うに,こういう非常識行動をとる参加者を制止するのはツアコンダクタの責務である.旅行代理店は,ツアーメンバーのセクハラにどう対処するか,添乗員の教育を徹底すべきであろう.
 
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(シェムリアップの観光スポット,オールド・マーケット)
 
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(橋の手前はオールド・マーケットで,川向こうはナイト・マーケット)
 
 私たちのバスは,市街を流れるトンレサップ川沿いのオールド・マーケット (WIkipedia【シェムリアップ】) 側で一行を降ろし,買い物を済ませたツアー参加者を拾って夕食会場のレストランへ行く予定になっていた.
 上の写真に写っている橋が集合場所だったのだが,集合時間になっても誰も来ない.同じような橋が近くにもう一つあるので,私はそちらに行ってみたが誰もいない.私が焦りぎみになって二本の橋を二往復していたら,ようやく皆がやってきた.呆れたことにツアコンダクタも遅刻した.買い物をしていたらしいが,添乗員が買い物にうつつを抜かしてどうする.
 しかも参加者のうちの一人,朝は寝坊して皆の出発を遅らせ,遺跡観光では奇声を発して騒ぎ,道中でセクハラ行為をしたあのトラブル爺が行方不明になっていることが判明した.これがその夜のドタバタ劇の開演であった.
 添乗員S青年は暫く待ちましょうと皆に言ったが,いくら待っても来ない.S青年は電話連絡しようとしたが,彼のスマホはバッテリー切れ間近だった.そこで彼は会社支給のガラケーを取り出したのだが,使い慣れないと見えて,なかなか爺のケータイにかけられなかった.
 余談だが,海外旅行中の電話のかけ方を知らない人がいる.私はドコモのガラケー使用者なので,相手の携帯番号の前に「+81」を付けて発信する.これはコマンドメニューから呼び出すこともできるし,直接入力もできる.この「+81」を付けて電話帳登録することもできる.ところが,この「+」の出し方を知らない人が割と多いのである.英数記号の「+」ではないからである.S青年がそうだった.
 ようやく爺の携帯電話にかける操作がわかったS青年は,爺に電話をかけ続けると共に東京に応援と指示を仰いだ.だがこのままではツアー一行は夕食とカンボジア民族舞踊の鑑賞ができなくなる.状況を見かねた現地ガイドさんは,S青年に,マーケット周辺で爺を捜索するように指示し,現地ガイドさんの所属する会社に捜索の応援を求めた.その会社から何人かが集められて捜索隊を作って夜の大捜索が開始された.S青年と捜索隊にあとをまかせて,現地ガイドさんは私たちを夕食会場のレストランへ案内した.
 
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(アプサラダンス;Amazon Angkor Restaurant にて.中央の踊り手が主役)
 
 私たち一行が夕食を摂る予定になっていた“Amazon Angkor Restaurant”は,カンボジアの伝統民族舞踊のショーを鑑賞できるレストランである.あまり高級とは言い難い店だが,日本人観光客が多い店だとネットに書かれている.
 私たちはショータイム付きの食事時間に大幅に遅れたので,到着した時はもうショー開演の寸前だった.食事はブフェ形式であったが,他の客たちはもう食べ終わっていたから,料理の保温容器 (チェーフィングディッシュ;chafing dish) はほとんど下げられていて,私たちの食べる分はあんまり残っていなかった.私は仕方なく皿に,固形燃料が燃え尽きたので冷えてしまった飯と,カンボジア風のカレーを盛って席に着いた.
 
 クメール王朝の頃から伝わるカンボジアの伝統民族舞踊の一つに「アプサラダンス」がある (上の写真).クメール民族の伝統舞踊には大衆舞踊と宮廷舞踊があり,アプサラダンスは宮廷舞踊である.アプサラは天女のこと.
 カンボジアという国家の解体を目論んだポル・ポトは,およそ文化と呼ばれるものと,その担い手を憎み,殺した.アプサラダンスの踊り手もほとんど殺されたという.だが,わずかに生き残った人々がこの舞踊を現代に復活させた.Wikipedia【シェムリアップ】の記述を紹介する.
 
伝統舞踊
カンボジア古典舞踊は、ユネスコの世界無形文化遺産に登録されている。カンボジアの舞踏には、古来より、宮廷の儀式で舞われた王宮古典舞踏と、庶民に受け継がれた民族舞踏の二つの流れがある。カンボジアの宮廷古典舞踏は、アンコール時代、王や神々への祈りのために舞われ、以来王宮で大切に保護されていたが、クメール・ルージュの弾圧の対象となり、9割の舞踏家や楽師の命が失われ一時滅亡の危機に陥る。しかし、1980年、王室や生き残った舞踏家たちにより、王立芸術大学が再開し、古典舞踏も蘇る。
古典舞踏の代表的な演目に「アプサラ・ダンス」があり、カンボジア舞踏を通称 アプサラ・ダンス と呼ぶこともある。アプサラの語源は、「アプサラス」という古代インド神話に登場する天女で、天の踊り子、または、クメール王からの神への最高使者を意味する。世界遺産アンコールワットの壁画の浮彫(レリーフ)にも、アプサラ(天女)の舞の様子が無数に刻まれている。

 
 正直に言うと,私はカンボジア舞踊をナメていた.カンボジア舞踊にはストーリー性がある (あとで知った) から,ちゃんと鑑賞するには下調べが必要だったのに,疎かにしたので,何が何やらわからなかったのである.
 まず押えておく必要があるのは,ベトナムのメコンデルタにはクメール人が少数民族として存在していること.そしてカンボジアの伝統舞踊は,彼等のアイデンティティを構成していることだ.
 次に資料によると,ベトナムからアプサラダンスに取り込まれた振付があるらしい.また隣国タイはクメール文化が受容された歴史があるから,クメールの宮廷舞踊と音楽は,タイの舞踊に大きな影響を与えたという.実際に動画を観てみると,似ている.
 それから,カンボジアの伝統舞踊はアプサラダンスが有名で,ショーを観た日本人のブログではこれを紹介したブログが多い.大衆舞踊を観た感想は少ない.
 
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 上の写真は,ココナッツダンスと呼ばれる.大衆舞踊の一つ.
 
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 次も大衆舞踊.舞踊の名称はフィッシングダンス.川で魚を獲るのに使う籠を持った青年たちと,農作業に使う笊を持った村娘たちの踊りと思われるが,文字情報だけで比定しているので,確信はない.ヾ(--;)
 これと全く同じモチーフの踊りが沖縄にあって,沖縄の民謡と舞踊を観ながら食事する店で鑑賞したことがある.大衆舞踊には,色々な国や民族に共通するところがあるのかも.
 
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 上の踊りはモニメカラダンス.左側は巨人リェムソー.右側は女神のモニメカラ.この踊りはストーリーを予習しておいたほうがよい.現代でも雨乞いの時に踊られるという.足を後ろに跳ね上げる振り付けはカンボジア舞踊の特徴だ.
 
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 上はたぶんテップノロムダンス.だと思う.じゃないかなー.
 
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 上の写真の踊り手は,女神たちの踊りの主役であるが,ソロでも踊った.舞踊名称不明.
 他の踊り手たちは少年少女という年齢だったが,このかたは大人の女性だった.
 とまあ,舞踊ショーは美しかったが,食い物がなかったのは残念だった.あの爺のせいだと腹を立てつつ席を立ったその時,添乗員S青年がレストランに到着した.爺を発見したという.
 ツアーメンバーがS青年を取り囲んだところでS青年は言った.「○○さん (爺の本名) はホテルに戻っていました」
 どうやら,道に迷った爺は,トゥクトゥク (タイでは三輪タクシーだが,カンボジアではバイクが人力車みたいなものを引いて走る) で勝手にホテルに帰ったようだ.私の推理では,この クソ 爺は海外での携帯電話のかけ方を知らなかったのではないか.それで添乗員S青年に連絡しようとしなかったのだ.阿保にも程がある.
 実はS青年は,海外旅行添乗の経験がほとんどないのだということがこの時に判明した.それなのに大トラブルに見舞われて,傍目に見ても,かなり落ち込んでしまった.(新人はもっとやさしい国の担当にしてあげればいいのに…)
 そこで彼に「ホテルのバーで飲もうよ」と誘った.会社員は,誰だって最初は失敗が避けられない.それをいくつも経験して一人前になる.そんなことをエラソーに話して元気づけてあげようと思ったのである.他の女性たち数人にも声をかけたら,二つ返事で参加してくれることになった.
 ところが,ところが,である.その激励会にクソ爺 (取消線なし) が現れたのである.そしてふんぞり返ってビールを飲みながら,添乗員が悪いから俺は迷子になった (意味不明) んだと文句を垂れた.私は呆れ果てて,自分の飲み物の代金をテーブルに置き,体調が悪いので,と言って自分の部屋に戻った.
アンコールを一目でも (十四) へ続く 〉

 

 

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2019年2月26日 (火)

アンコールを一目でも (十二)

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(中央祠堂)

 

 1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退すると,カンボジアではロン・ノル政権が崩壊必至の状況となり,1975年4月にロン・ノルは国外へ亡命した.ベトナムではサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結したが,その13日前にクメール・ルージュは首都プノンペンを陥落させた.翌1976年1月に国名を民主カンプチアに改称した.1976年7月,南北ベトナムが統一されたベトナム社会主義共和国が建国された.
 こうしてインドシナ半島から,共通の敵であった米軍が撤退すれば,次は国際共産主義運動の正統たるベトナムと,異端のポル・ポト派カンボジアの覇権争い,戦争は必須であった.「国際共産主義の正統」とは,革命を一つの国の中に留めないことである.それをしないのは「修正主義」なのである.これまでベトナムはラオスやカンボジアに共産党を設立し,教育訓練を行ってきたが,それはインドシナ半島全体に社会主義革命を展開するためであった.一方のポル・ポト派にしてみれば,ベトナムは歴史的にカンボジアを領有支配してきた国家であったから,ベトナムは憎むべき敵であったのである.1976年には早くも衝突が始まったが,1977年から両国は本格的に交戦を開始した.この時期,空想的,観念的にして,為政者としても軍人としても無能だったポル・ポトは両面作戦を取った.すなわち対ベトナムの戦争と,カンボジア国家の解体である.
 米軍が撤退した頃既にカンボジア東部の農業は危機に瀕していたが,たぶん額に汗して労働をしたことのないポル・ポトは,増産の号令をかければ地面から米が湧いてくると思っていたのかも知れない.Wikipedia【民主カンプチアから下に引用する.
 
さらに、内戦による都市から農村への人口の流入も相まって、農村での食糧生産はすでに大打撃を受けており、1975年4月にはアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)が「カンボジアの食糧危機回避には17.5万 - 25万トンの米が必要である」と報告し、アメリカ国務省は「民主カンプチアは今後外国からの食糧援助を拒否するため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測していた。
そのため、ポル・ポトは米の生産量を3倍に引き上げることを目標に掲げ、この目標の下、農村に移住させられた都市住民は、農作業や灌漑施設の建設などのために、劣悪な環境の中で朝5時から午後10時まで働かされた。近代的な機械は資本主義の罪悪の象徴とされたため使用を許されず、全ては人間の手作業によって行われた。このような過酷な労働環境の結果、過労により死亡する者が相次いだ。
また、生産された米の多くは外国からの武器調達資金を得るために輸出されたため、1日2杯のおかゆだけしか許されない食生活と劣悪な労働環境は、多くの人民を、飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやっていった。このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、自身の政策の失敗の原因を政策そのものの問題とするよりも、カンボジアやクメール・ルージュ内部に、裏切り者やスパイが潜んでいるためであるとして猜疑心を強めた。このような猜疑心は、後に展開される党内での粛清、カンプチア人民への大量虐殺の大きな要因の一つとなっていった。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 中国がポル・ポト派をタダで支援するはずはなく,中国製の武器弾薬は,カンボジア人の命を持って贖われていたのである.お人よしの米国は,莫大な戦費と自国の兵士の生命を南ベトナムに注ぎ込んで戦ったが,中国にとってカンボジアは金儲けの相手であった.
 
 ポル・ポトの思想における「農業生産」の観念性は,数千万人の餓死者を出して惨憺たる大失敗に終わった毛沢東の大躍進政策を想起させる.ポル・ポトは毛沢東主義者だったとする定説を疑う声があるが,ポル・ポトが,科学的近代農法はもちろん伝統農法も無視したことに関しては,紛れもなく毛沢東の影響である.
 ポル・ポトの両面作戦の一つ,カンボジアという国家の解体すなわち原始共産主義化はうまくいくはずもなく,内政の破綻は自国民の大量虐殺という人類史に未曾有の地獄を現出させた.
 もう一方のベトナムとの戦争はどうなったか.ポル・ポトはカンボジア東部の自国軍を,反乱の疑いありとして,攻撃した.攻撃された側 (東部軍管区) の十数万人の将兵たちはベトナムに逃亡した.再び Wikipedia【民主カンプチア】
から下に引用する.
 
1978年1月、民主カンプチアはカンボジア東部からベトナム領内へ越境攻撃し、現地住民を虐殺した上ベトナムと国交を断交した。5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区(そこはベトナム系カンボジア人の住民が多く、実際にベトナム政府が民主カンプチアへの反乱を提案したこともあった)を攻撃し、東部地区の大量のカンプチア将兵を処刑した。このため、ベトナム領内には、軍民を問わず、10数万人にのぼる東部地区の避難民が流入した。その中にはヘン・サムリンなどの指導者も多数含まれていた。ベトナム政府は、ベトナム領内への侵攻と、カンボジア内のベトナム人虐殺をやめるよう民主カンプチア政府に働きかけようとしたが、その対話は成功しなかった。同年4月から5月には、カンボジア軍がベトナムに侵入し、アンザン省バチュク村(英語版)の2地区のほとんどの住民、3,157名を虐殺した(バチュク村の虐殺)。これに対し、翌6月にはベトナムも反撃を開始し、空軍が国境付近に空爆を開始した。またベトナム政府は、クメール・ルージュのカンボジアからの排除の意思を固めた。ベトナムはソ連にカンプチア侵攻に対する援助を要請し、1978年11月3日、ソ越友好協力条約が結ばれた。この動きに対し、民主カンプチアと友好関係にあった中国は、ベトナムに軍事作戦を示唆する警告を発したが、ベトナムはこれを無視した。
1978年12月25日、準備が整ったと判断したベトナムは、ベトナム国内に避難していたカンボジア人の中から人員を選び、カンプチア救国民族統一戦線として親ベトナムの軍を組織させた。カンプチア救国民族統一戦線の議長にはヘン・サムリンが選ばれた。そして、カンボジア国内の反ポル・ポト派とも連携し、カンボジア国内に攻め込み、カンボジア・ベトナム戦争が勃発した。ベトナム戦争からまだ数年しか経っておらず、アメリカがベトナムに残した武器装備を保持し、ソ連から援助を受け、戦い慣れした将兵に事欠かなかったベトナム軍、および彼らに訓練を受けたカンプチア救国民族統一戦線にとって、粛清の影響による混乱で指揮系統が崩壊していた民主カンプチア革命軍の排除は、全く手間取るような作戦ではなかった。カンプチア革命軍は中国の支援を受けて装備は充実していたが、正面からベトナム軍を食い止めようとしても敵わず、わずか2週間でカンプチア革命軍の兵力は文字通り半減した。
1979年1月7日、ベトナム軍はプノンペンに入り、ポル・ポトの軍勢を敗走させた。そしてベトナムの影響を強く受けたヘン・サムリン政権(カンプチア人民共和国)が成立した。クメール・ルージュ軍およびポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。タイはカンボジア領内でポル・ポト派によって採掘されるルビー売買の利権を得、さらに反ベトナムの意図から、自国領を拠点にポル・ポト派がベトナム軍およびヘン・サムリン政権軍に反攻することを容認した。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、タイ領内からの越境攻撃も行いつつ、以後も反ベトナム・反サムリン政権の武装闘争を続けた。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 忘れられがちであるが,カンボジアの隣国タイはカンボジアの惨状を知りつつ,中国と並んでポル・ポト派を保護,支援したのである.それも恥ずべきことに,金儲けのために
 中国は金蔓の敗勢を見て,対ベトナム報復攻撃を開始した.しかしカンボジア侵略の大義を持たぬ中国人民軍は,士気高いベトナム軍の敵ではなかった.Wikipedia【カンボジア内戦】から下に引用する.
 
しかし、戦争に慣れ、士気・錬度が高く、ソ連から軍事援助を供与され、さらにアメリカ軍が南ベトナムに残した大量の兵器を有するベトナム軍に中国人民解放軍は惨敗し、3月には撤収した。その後、クメール・ルージュとシハヌーク国王派、ロン・ノル派の流れをくむソン・サン派の三派は連合し、ベトナム軍およびヘン・サムリン軍との内戦が続いた。プノンペンを支配するヘン・サムリンはベトナムの傀儡と化しており、長期にわたるベトナム軍の駐留は国内外から非難された。
1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム三派は北京で会談を開き、7月には反ベトナム三派の連合政府・民主カンボジアが成立、カンボジアは完全に二分された。一方、1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談では、ベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、ベトナムはこれに従わず、3月にポル・ポト派の拠点を攻撃した。
1984年7月の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に大攻勢をかけ、反ベトナム三派の民主カンボジアの拠点であるマライ山を攻略、3月にはシハヌーク国王派の拠点を制圧し、民主カンボジア政府の軍事力はほぼ壊滅した。

 

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(第二回廊のデバター像)

 現在でこそポル・ポト派を支持する者はいないが,当時は違った.
 
国境を接する国家間の侵略とそれに対する防衛戦争との線引きは難しいが,国際社会の反応はベトナムに厳しかった.イギリスなど数ヶ国を除いて,民主カンプチアを承認した.ポル・ポト政権 (民主カンプチア) の直接支援国である中国とタイは別として,西側諸国やASEANがポル・ポト政権支持に動いたのは,自国の民よりも我が身の保身のために生きたシハヌークの働きが大きかった.Wikipedia【カンボジア・ベトナム戦争】に以下のようにある.
 
第34回国際連合総会で、カンプチア人民共和国と民主カンボジアの双方が代表権を主張した。前者はカンボジアとカンボジア人民の唯一の正統な代表でもあると、国連安保理の参加国に伝えた。対して国連資格委員会は、政権時代の恐怖政治にもかかわらず、6対3で民主カンボジアを承認することに決した。従って民主カンボジア代表団は中国の強い支援を受けて総会に代表を送ることができた。1980年1月、29か国がカンボジア人民共和国と外交関係を樹立したが、依然として80か国近くが民主カンボジアを正当な政権として承認していた。同時に西側列強と東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟国は、ベトナムが武力でクメール・ルージュ政権を排除することを激しく非難した。》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 要するに国際社会は,よってたかってポル・ポトを支持したのである.だがベトナムは,国際的包囲網に屈せず,ポル・ポト派の打倒まで戦い続けた.ベトナムの意図は別として結果的には,カンボジア民族が絶滅に瀕せずに済んだのは,ベトナムによるカンボジア侵略のおかげだと言える.外国の侵略がその国の民の命を救った.なんという歴史の皮肉か.
 
 ポル・ポト派はベトナムに打倒される前,アンコール・ワットに立て籠もって戦ったが,ベトナムとその傀儡政権 (ヘン・サムリン率いるカンプチア人民共和国政府) の軍は, アンコール・ワット内への侵攻をためらった.戦争とはいえ,さすがにこの文化遺産を破壊するに忍びなかったのであろう.Wikipedia【アンコール・ワット】の記述を引用する.
 
1979年にクメール・ルージュが政権を追われると、彼らはこの地に落ち延びて来た。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が最近まで確認できた(現在は修復されている)。
だがこれが、遺跡自身には災いした。クメール・ルージュは共産主義勢力であり、祠堂の各所に置かれた仏像がさらなる破壊を受けた。内戦で受けた弾痕も、修復されつつあるが一部にはまだ残っている。
内戦が収まりつつある1992年にはアンコール遺跡として世界遺産に登録され、1993年にはこの寺院の祠堂を描いたカンボジア国旗が制定された。
今はカンボジアの安定に伴い、各国が協力して修復を行っており、周辺に遺された地雷の撤去も進んでいる。世界各国から参拝客と観光客を多く集め、また仏教僧侶が祈りを捧げている。

 
 現地のガイドさんたちは観光客に,遺跡に残っている弾痕を示す.それを見る私たちは,かつて国際社会がポル・ポト派を支持していたことを思い起こさねばならない.とりわけ,アンコール・ワットを見物しながらワイワイと陽気に騒いでいる中国人観光客を見て,私は強くそう思った.カンボジアの人々は,かつてポル・ポトと組んでカンボジアを絶滅の危機に追い込んだ連中が観光に来て落とす金を,生活のために必要としているのだ.心中察するに余りある.
アンコールを一目でも (十三) へ続く 〉

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2019年2月25日 (月)

アンコールを一目でも (十一)

 昨日の記事の訂正.昼食を摂ったレストランの名をメモし忘れたと書いたが,撮影した画像の中に店名が写っていた.w

 

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“PARADISE ANGKOR VILLA HOTEL”
 
 件のレストランは「パラダイス アンコール ビラ ホテル」のメインダイニングだったと思われるので,同ホテルのサイトを閲覧したところ,The Lian Hua Restaurantのようだ.清潔感のあるホテルでカンボジアでは四つ星だと口コミにあった.

 

 さて,私たちのバスは,タ・プローム遺跡からシェムリアップに戻り,そこからまたアンコール・ワットへ向かった.この日の朝は遠景を観ただけなので,今度は中に入る.
 
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(シェムリアップからアンコール・ワットへ移動するバスの窓から撮影)
 
 (上) 何かわからないけれど,果実を瓶に詰めて売っている.
 (中) 街角のカフェ
 (下) こうやって見ると,日本の田舎の街道沿みたいである.家の屋根がね.w
 
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(日本語で書かれた記念碑)
 
 由来がよくわからないのだが,アンコール・ワットへの道に日本語で書かれたモニュメントがあった.もしかしたら,アンコール遺跡群が世界遺産に登録されるにあたって,日本も貢献したのであろうか.
 調べてみると,1980年代の動乱の時代が終わった後,アンコール遺跡群を修復し,これを世界遺産に登録しようとする各国の協力が始まった.この事業はカンボジア復興のための国際協力が開始される契機となったという.遺跡の修復と世界遺産登録は,一体の大事業だったようである.この修復と世界遺産登録の初期段階から日本は支援を継続していると,遺跡修復事業に携わった下田一太氏 (筑波大学) の《アンコール遺跡群 》にあった.上の写真の記念碑は,世界遺産登録だけでなく遺跡修復に関係した各界が建てたものだろう.ちなみに文字の下の図にはユネスコ世界遺産と彫られている.
 
 さて,カンボジアの近現代史は比較的知られているが,古代史は日本語で書かれた資料が少ない.私が持っているのは,今川幸雄編訳『アンコール遺跡とカンボジアの歴史』(株式会社めこん発行,1995年) である.今川幸雄氏は日本の外交官である.その立場を反映してか,シハヌークに関する評価にバイアスがかかっている.それを考慮すればよい参考書だろう.
 同書には,アンコール遺跡群建設に関するカンボジアの伝説が記されているので,概略を紹介しよう.ただし,同書に書かれているままの文章は辻褄の合わない部分があるので,話の筋を損なわぬ程度のわずかな修正を行った.
 
 仏歴六百年 (西暦57年) 頃,サンハイという所にルム・センという名の中国人がいた.ある日,ルム・センの家の庭に五人の天女が降りてきて遊んでいた.そのうちの一人,テップ・セダチャンという天女は勝手に庭の木の枝から花を摘んだ.これを怒った雷神インドラはテップ・セダチャンに,六年間,ルム・センの妻になるよう命じた.ルム・センの妻となったテップ・セダチャンは,絹糸を買って美しいサンポット (腰巻) を織った.ルム・センが金貸しにそのサンポットを見せたところ,これを賞賛した金貸しはルム・センに金を貸し与えた.この金で絹糸を買い,妻が織ったサンポットを売って,ルム・センは金持ちになった.
 やがて夫婦には子が生まれ,プリヤ・ヴィサカムと名付けられた.ヴィサカムには美術的な才能があった.六年の罰が終わるとテップ・セダチャンは天に帰った.
 その頃,カンボジアを統治していた王が世継ぎを残さずに死んだ.ある日,ティアという像使いが川で象を洗っていると,料理された鶏を載せたタライが流れてきた.ティアがこれを寺の和尚に見せたところ,和尚はこれが特別なものであることを知り,自分は頭を食べ,ティアに体の部分を,ティアの妻に骨の部分を食べさせた.するとティアと妻は魔法にかかり,王と王妃に変身した.そして二人の間にはプリヤ・ケットメリアという王子が生まれた.
 一方,ヴィサカムは天に帰った母を探し求めて流浪していたが,ある日,大勢の天女が踊っているところに遭遇し,その中にいた母テップ・セダチャンと再会した.テップ・セダチャンがヴィサカムを天に連れて行くと,雷神インドラはヴィサカムに多くの技術を教え,それをカンボジアの民に教えるよう命じた.
 インドラはまた,カンボジアからケットメリアを天に連れてきて,四百歳まで生きる呪術を施し,ヴィサカムに寺院を建設させよと命じた.
 ヴィサカムは,ケットメリアに命じられた寺を次々に建設したが,二人に諍いが生じ,ヴィサカムは中国に逃亡した.
 
 この伝説の前半,天女が人間の妻になるという話は,日本の羽衣伝説に似ている.
 後半のケットメリア誕生譚は,鶏を桃に置き換えると,日本の桃太郎伝説の類型である.桃太郎伝説は,Wikipedia【桃太郎】によれば,明治時代初期までは桃を食べて若返ったお爺さんとお婆さんの間に桃太郎が生まれたという回春話であったという.それが一説には,明治になってから教育上の配慮から「桃太郎は桃から生まれた」と改作されたらしい.
 興味深いのは,この伝説は,カンボジア王が中国人技術者を使役してアンコールの寺院群を建設させた物語だということ.古代の両国の接触が垣間見える.
 
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(西参道から西塔門を望む)

 ところで,アンコール・ワットは,カンボジア・ベトナム戦争 (カンボジア内戦と呼ぶよりも実態をよく表していると私は思う) 中,ポル・ポト派が立て籠もったことで有名である.ここを訪れた高齢者には,よくぞまあ破壊されずに残ったものだと感慨を抱く人は多かろう.
 若い人が書いたウェブページにも,ポル・ポトの大虐殺を取り上げたものがある.例えば《カンボジアの悪夢》だ.これは本当に立派なレポートで,私は筆者を尊敬する.
 ただ,この記事は残念ながら,ある種の狂人といっていいポル・ポトを一国のトップに据えたのは誰か,ポル・ポトの背後にいた者は誰なのかについての考察が不充分と言わざるを得ない.ポル・ポトが政権を奪取した当時の国際情勢や,国際共産主義運動の知識がないと,ポル・ポト個人の悪行として理解してしまうのは無理からぬことではあるのだが.
 
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(西塔門)
 
 ポル・ポトがカンボジアの地にもたらした災厄については,インドシナ半島における各民族が建てた王朝の歴史,フランスによるインドシナの植民地化,太平洋戦争,民族独立の動きと半島における共産主義運動,ベトナム戦争,そして国際共産主義運動内部の対立とカンボジア・ベトナム戦争という時系列で見ていくとわかりやすい.この歴史は,最終的に,カンボジアの共産主義者とベトナムの共産党の戦争,そして中ソ対立を背景にした代理戦争へと進んだわけだが,ポル・ポト派による自国民大虐殺は,その過程で発生した悲劇だった.スターリン以後の共産主義運動あるいは共産主義そのものの暗黒面が,あからさまになった例の一つであった.
 
 カンボジアとベトナムの対立は,アンコール王朝が成立した十三世紀に始まるというから,日本で言えば鎌倉時代の合戦を二十世紀まで続けたようなものだ.十九世紀前半にカンボジアはベトナムの属国となり,十九世紀中頃にはベトナムに併合された.
 その次にフランス植民地時代となるが,これ以後もベトナムにとってカンボジアは,ベトナムの一部であるという意識があったと思われる.そのため,フランスが去った後のベトナム戦争の際に,ベトナムは,ラオスとカンボジア東部を自国領土のように振舞った.これがホーチミン・ルートである.米国 (ニクソン大統領) は,ベトナムからの撤退を進めるために,北ベトナムを軍事的に追い詰め,交渉の場に引き込む必要があった.その時に起きたのが,米国に支援されたロン・ノルが,元首シハヌークを追放したクーデター (1970年3月) である.その時の状況を Wikipedia【ベトナム戦争】から引用する.
 
このような状況の中、1970年3月29日、北ベトナムはカンボジアに対する攻撃を開始した。この侵攻の理由であるが、公開されたソ連邦時代の記録文書から明らかになったところによると、この攻撃はクメール・ルージュのヌオン・チアからの明確な要求によって行われたとされている。北ベトナム軍はカンボジア東部を瞬く間に蹂躙し、プノンペンの24km以内に迫った。カンボジア軍を破った後、北ベトナム軍は獲得した地域を地元の武装勢力へと引き渡していった。一方、クメール・ルージュは北ベトナム軍からは独立して活動し、カンボジア南部および南西部に「解放区」を打ち立てた。この後、ロン・ノル率いるカンボジア政府軍と、中華人民共和国の支援を受けた毛沢東思想の信奉者であるポル・ポト率いるクメール・ルージュの間でカンボジア内戦(1970年 - 1975年)が始まった。
なお、ロン・ノル政権は、北ベトナムへの対応措置として、カンボジア在住のベトナム人への収容・虐殺を行い、多くのベトナム人が殺されたり南ベトナムに避難し、ロン・ノル政権は、南北ベトナムから強く批判された。
さて、北ベトナムのカンボジア侵攻に対して、4月26日には、南ベトナム軍とアメリカ軍が、中華人民共和国(とソビエト連邦)からの北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線への物資支援ルートである「ホーチミン・ルート」と「シハヌーク・ルート」の遮断を目的として、ロン・ノルの黙認の元、カンボジア東部領内に侵攻した。この侵攻は、アメリカ軍の兵力削減と同時に、中華人民共和国、ソビエト連邦などの共産圏から北ベトナムへの軍事物資支援ルートを遮断することで、泥沼状態の戦況から脱し、アメリカ側に有利な条件下で北ベトナム側を講和に導くことが目的とされている。
カンボジアに侵攻した南ベトナムとアメリカの連合軍は、圧倒的な兵力を背景にカンボジア領内の北ベトナム軍の拠点を短期間で壊滅させ、同年6月中には早々とカンボジア領内から撤退した。しかし同年末には両ルートとカンボジア領内の北ベトナムの拠点は早々と復旧し、結果的に目的は成功しなかった。
なお、クーデターによってカンボジアを追放されたシハヌークは中華人民共和国の首都である北京に留まり、そこで中国共産党政府の庇護の下、亡命政権の「カンボジア王国民族連合政府」を結成し、親米政権であるロン・ノル政権の打倒を訴えた。シハヌークはかつて弾圧したポル・ポト派を嫌っていたが、ポル・ポト派を支持していた中華人民共和国の毛沢東や周恩来、かねてより懇意だった北朝鮮の金日成らの説得によりクメール・ルージュらと手を結ぶことになり、農村部を中心にクメール・ルージュの支持者を増やすことに貢献した。
》(引用文中の文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
 ポル・ポト,毛沢東,周恩来,金日成.ここに悲劇の立役者たちが舞台に登場した.悲しいまでに愚かなシハヌークは,自分の地位を回復するためには鬼悪魔と手を結ぶことを厭わなかった.そしてポル・ポトの宣伝塔に堕したシハヌークは,国際社会を欺き,カンボジアの国土がキリング・フィールドと化すのに大きな役割を果たしたのであった.

 

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(西参道から中央祠堂を望む)
 
 上に Wikipedia【ベトナム戦争】から引用した1970年の戦況は,カンボジア作戦と呼ばれる.この軍事行動に続いて米軍は,1971年1月末に同様な目的でラオスにも侵攻したが,これもはかばかしい戦果をあげることができなかった.
 米国にとって戦況がなかなか好転せぬうちに,1972年の3月末,北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を突破して南ベトナムへの侵攻を開始したため,講和を急いだニクソン大統領は1972年5月8日に北爆再開を決定した.この大規模かつ集中的な爆撃により,北ベトナムは大損害を被り,継戦不能な状態に追い込まれた.歴史にイフはないが,この時にニクソンが北ベトナムを完膚なきまでに降伏させてから講和に持ち込んだら,インドシナは今とかなり異なったものになっていたかも知れない.だがニクソンは,北ベトナムとの交渉が可能になった段階で,米軍の撤退を優先した.それと同時にニクソンは1972年2月に訪中し,両国の関係を改善強化する方向に動いた.中ソ対立の状況下に,対ソ連外交で有力なカードを得るためであった.
 この中国の動きを,北ベトナムは裏切りとして受け止め,以後,ソ連との関係を強化することになった.逆に中国はポル・ポト派との関係を強化し,こうしてインドシナ半島に中ソの代理戦争の種が撒かれたのであった.
 以上は《アンコールを一目でも (五) 》とアンコールを一目でも (六) 》で簡単に触れたが,1972年秋頃にパリで秘密交渉が持たれたあと,和平交渉開始から4年8か月経った1973年1月23日に,フランスのパリに滞在する北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の間で和平協定案の仮調印が行われた.そして4日後の1月27日に,南ベトナムのチャン・バン・ラム外相とアメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官,北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相と南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の4者の間でパリ協定が交わされたのであった.
パリ和平協定で「アメリカ軍正規軍の全面撤退と外部援助の禁止」「北ベトナム軍に捕えられていたアメリカ軍捕虜の解放」「北緯17度線は南北間の国境ではなく統一総選挙までの停戦ラインであること」の確認などについて合意が成立し,1973年1月29日にニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した.ベトナム戦争の最盛期の1968年に南ベトナムに派遣されていた米軍540,000人は,1969年以後の撤退計画が実行され,1973年1月の協定締結時にはベトナムへの派遣軍は24,000人まで削減されていたため,2ヶ月後の3月29日には撤退が完了した.
 米軍の撤退完了を見て北ベトナム政府は,停戦協定を破り,南ベトナムを完全に制圧して南北ベトナムを統一すべく1975年3月10日に南ベトナム軍に対する全面攻撃を開始した.
 1975年4月中旬には南ベトナム政府軍が首都サイゴンの防衛に集中するため,主な前線から撤退を開始した.
 4月29日,米軍放送は,アメリカ人および関係者がサイゴンから撤退するように促す暗号放送として,ビング・クロスビーの"White Christmas"を頻繁に流した.このエピソードをリアルタイムのこととして記憶している日本の世代は,すでに高齢者となった.
 4月30日の早朝には,サイゴンに残っていた南ベトナム政府の要人や軍の上層部,南ベトナムに住んでいたアメリカ人の多くが,サイゴン市内の各所からアメリカ陸軍や海兵隊のヘリコプターで南シナ海上に待機するアメリカ海軍の空母に向けて脱出した.
 日本政府は民間機を使ったサイゴンからの撤退作戦を行うことができず,在留邦人は混乱のサイゴンに取り残された.この時の状況については,牧久『サイゴンの火炎樹』(ウェッジ,209年) が参考になる.
 同日の午前11時30分に北ベトナム軍の戦車が大統領官邸に突入し,ベトナム戦争は終わった.そして1976年4月に南北統一選挙が行われ,7月1日に南北ベトナム統一とベトナム社会主義共和国樹立が宣言された.
アンコールを一目でも (十二) へ続く 〉

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2019年2月21日 (木)

アンコールを一目でも (十)

 私はクラブーツーリズムの街歩き企画に時々参加するのだが,ツアーコンダクタの他にガイドさんが付く.このガイドさんたちは,厚さが十センチはあろうかという分厚い資料ファイルを持ってくる.いかに彼らが勉強家であるかがわかる.私だって鎌倉の中世史跡の歴史くらいは説明できるが,近世は皆目わからぬ.その上,仏像や絵画の説明はお手上げなので,鎌倉のガイドにはなれそうもない.
 ところが,今回のアンコール遺跡ツアーの現地ガイドさん (たぶん四十代) は,資料ファイルなんぞ持たずに,流暢な日本語で痒い所に手の届く説明をしてくれた.しかも,私たちのツアーは二日間に亘ってあちこちの観光をしたわけだが,どこに行っても,屋台店のおばさんや,遺跡を管理している政府公務員,遺跡の保護にあたっているレンジャー,同業のガイドさんたち,果ては物売りの子供たちまでが,彼を見るとにっこり笑って話しかけてくるのだ.これは単なるベテランというだけの理由ではないと私には思われ,すごい人物が世の中にはいるものだと感心した.
 その現地ガイドさんは,アンコール・トムで,中国人の団体には決して接近しないように私たちを先導して進んだ.その理由を訊いたら,アンコール遺跡群では中国人の窃盗団が暗躍していて,観光客の被害が後を絶たないからだそうである.ちなみに,中国人観光客の団体は遠くからでも識別できる.声が大きいからである.
 また,窃盗団は論外だが,中国人観光客も現地ガイドさんたちに嫌われているようである.何しろ彼らは,ガイドの説明を全く聞かず,大声で私語する.勝手に順路を外れて歩き回る (これは日本人のツアーの御婦人も同じ).公衆道徳がないから道の真ん中でも平気でポイ捨てをする (日本人は植え込みの陰とか見えないところにポイ捨てする) し,人目もはばからずにそこ等へんで堂々とオ○ッコをする (日本人は物陰に隠れて立シ○ンする) 等々.いずれも私たちが日本の観光地で見かける中国人の行動だ.ヾ(--;)ニホンジンダッテ
 余談だが,最近,奈良公園で鹿に噛まれる中国人観光客が増えているらしい.奈良公園の鹿は,しかせんべいを見せると,「それをください,お願いします」とでも言うかのように,おじぎをするのだが,テレビニュースのVTRでは,中国人女性が,しかせんべいを見せびらかして「おじぎの仕方が足りない,もっとおじぎをしろ」みたいな躾けをやっていた.そして焦らされた鹿は,怒ってその中国人の服に噛みついたのだった.そりゃ噛み付かれるわなあ.躾けるなら鹿でなく,TDLの中の広場でオ○ッコをしないように自分の子供を躾けなさい.
 閑話休題.現地ガイドさんは冗談めかして次のように言った.
「中国人はお金持ちです.お金持ちになるには,どうしたらいいでしょう.他の人のことを考えなければいいのです」
 彼が暗に,ポル・ポト派に武器弾薬,地雷を供給した中国を指していることはあきらかだった.
 
 ここで Wikipedia【中華思想】を見てみよう.
 
四夷
中国人の考える中華思想では、「自分たちが世界の中心であり、離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もない」ということから、四方の異民族について四夷という蔑称を付けた。
東夷(とうい) - 古代は漠然と中国大陸沿岸部、後には日本・朝鮮などの東方諸国。
西戎(せいじゅう) - 所謂西域と呼ばれた諸国など。
北狄(ほくてき) - 匈奴・鮮卑・契丹・韃靼・蒙古などの北方諸国。
南蛮(なんばん) - ベトナム・カンボジアなど東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など。
中華世界では四夷は辺鄙な場所に住んでいるために中華文明の影響と恩恵を受けていない「化外の民」であり、いずれ中華文明に教化されることによってやがて文明化されていくとされ、中華世界ではこの「化外の民」を教化して中華文明の世界へ導くことが中華世界の責務であるとされた。特に中華文明を代表する「天子」としての皇帝は自らの徳をもって周辺諸民族を教化して文明へと導くと考えられた。
》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
 
 春秋戦国時代の頃に始まった中華思想に基づいて,中国は理由もなくインドシナ半島の人々を蔑んできた.Wikipedia【ベトナム戦争】に,《ホー・チ・ミンが述べた言葉として『中国人の糞を100年喰らうよりフランス人の糞をしばらく喰らった方がましだ』がというのが有名である 》と書かれている.ここには「要出典」と書かれてしまっているが,ベトナム戦争が始まった頃,よくこの「中国人の糞…」を私は読み,かつ聞いた.ホーが本当にそう言ったかどうかは知らないが,古代中国以来,漢民族がインドシナの人々からどれほど嫌われてきたかをよく表す言葉としてこの言葉は流布したのである.
 ベトナム戦争当時,中ソ対立が激しくなるとベトナムはソ連についた.これはソ連の軍事支援が,軽火器中心だった中国の支援を圧倒していたからと言われるが,ベトナム労働党の反中華思想が底流にあったと思われる.「中国人の糞を百年喰らうよりロシア人の糞をしばらく喰らったほうがまし」だったのだろう.
 中国の「毛沢東主義の輸出=中華思想的教化」に従わないベトナム労働党に対して,中国はポル・ポトのクメール・ルージュに毛沢東主義を掲げさせ,カンボジアで中ソの代理戦争を戦わせた.それだけならまだしも,ポル・ポトは毛沢東主義に基づいて,異常な「革命」を開始した.
 
1976年5月13日、ポル・ポトは民主カンプチアの首相に正式に就任する。民主カンプチアの国家体制は中華人民共和国の毛沢東主義を基盤にした「原始共産主義社会」であり、その実現のために、国立銀行を閉鎖し、貨幣なども廃止する一方、都市住民を農村に強制移住させ、食糧増産に従事させた。しかし、その際に方法論として資本主義に関する文明の利器を全て一掃したため、国民は農作業や灌漑施設の建設などの重労働を全て手作業で行うなどの過酷な労働環境を強いられる。更に生産された米の多くは外国からの武器調達のために輸出されたため、国民の多くは飢餓、栄養失調、過労による死へと追いやられていった。
このような惨状を目の当たりにしたポル・ポトは、裏切り者やスパイの政権内への潜伏を疑って猜疑心を強め、医師や教師を含む知識階級を殺害するなど、国民に対する虐殺が横行した。やがて虐殺の対象は民主カンプチア建国前から農村に従事していた層にまで広がり、カンボジアは事実上国土全域が強制収容所化した。このような大規模な知識階級への虐殺、あるいは成人年齢層への虐殺に加え、ポルポト側が「資本主義の垢にまみれていないから」という理由で子供を重用するようになったため、国内には子供医師や少年兵までもが現れ、人材は払底を極めた。
ポル・ポト政権下での死傷者数はさまざまに推計されている。カンボジアでは1962年の国勢調査を最後に戦争状態に入り、以後1975年までの正確な人口動態が不明となりこうした諸推計にも大きな開きが出ている。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権は1975年から1979年の間の死者数を300万人とした(これはのちに下方修正された)。フランソア・ポンショー神父は230万人とするが、これは内戦時代の死者を含む。イェール大学・カンボジア人大量虐殺プロジェクトは170万人、アムネスティ・インターナショナルは140万人、アメリカ国務省は120万人と推計するがこれらの機関は内戦時代の戦闘や米軍の空爆による死者数には全く言及していない。フィンランド政府の調査団は内戦と空爆による死者が60万人、ポル・ポト政権奪取後の死者が100万人と推計している。マイケル・ヴィッカリーは内戦による死者を50万人、ポル・ポト時代の死者を75万人としている。当事者による推定ではキュー・サムファンは100万人、ポル・ポトは80万人である。

 
 アムネスティ・インターナショナルによる推計で百四十万人の死は,毛沢東主義がカンボジアの地で結んだ血の果実なのであった.
 現地ガイドさんたちは,中国人団体客のガイドを嫌がるそうである.私たちのツアーのガイドさんは「中国人のガイドを引き受けるのは,我慢強い人だけです」と笑いながら語ったが,本当は笑いごとではないのだろうと私は思った.彼はおそらく少年の頃,ポル・ポトの時代を辛くも生き延びた人なのだろう.そしてカンボジア国民にとっても中国はポル・ポトと同一視されているはずで,これこそが中国人がカンボジアで歓迎されない理由だと思われる.
 ところが日本人の中に,デマを流布する者がいる.
 東京大学大学院准教授の阿古智子が現代ビジネス誌 (講談社) に《いま親日国カンボジアの人々が中国に共感し、米国を嫌悪する理由 》を書いているが,ここでは,カンボジアをいまだに貧しい国のままにしている原因がポル・ポト=中国であることは伏せられ,カンボジア国民が中国に《共感し 》ていると書かれている.どこをどうネジ曲げればそんな嘘が出てくるのか.こういう者が大学院で教鞭をとっていることに私は憤りを感じる.
 
 話は変わるが,日本の,例えばTDRの顧客満足度が大きく低下した原因に,中国人観光客の大声があるという.誰が言っているかというと私の知人の女性だ.彼女はディズニーの大ファンだったのであるが,いまはもう全く行かなくなった.なぜかというと,夢と魔法の王国に中国語の大声は似合わないと言うのだ.これが,まるで耳元で詩をささやくフランス語だったら,どうか.彼女はきっと,毎日でもTDRに通うに違いない.w
 アンコール遺跡群は,カンボジア人の誇りであるだろう.彼らの祖先の文化遺産であるし,ましてや宗教的遺跡である.だから私たちはこれに敬意を表して,静かに見学すべきであると思う.
 ところが我がツアーの中に,あたかも中国人であるかのように遺跡の中で大声を発する者がいたのである.この日の朝,集合時間を無視して朝寝をしていたあの爺である.こいつはバイヨン遺跡の中で「はーい皆さん,足元に気を付けてねー,落ちたら死にますよー,ぐははははー」などと阿呆なことをわめき続けたのである.私はカンボジア人のガイドさんに,まことに恥ずかしく申し訳なく思ったのである.
 
 さて,私たち一行はアンコール・トムを後にして,タ・プローム寺院遺跡に向かった.この遺跡は,観光客の目を驚かす奇観と共に,映画『トゥームレイダー』のロケが行われたことで有名になった.この映画はアンジェリーナ・ジョリー主演で彼女の出世作になった作品である.
 
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(タ・プローム寺院遺跡)
 
 ツアーのバスは,タ・プローム寺院遺跡から少し離れた駐車場で一行を降ろし,私たちは参道を歩いて遺跡に向かった.参道の途中で,地雷被害者の楽団が曲を演奏していた.カンボジア内戦の被害者である.かつては物乞いするしか生計の途はなかったというが,支援活動もあって,観光地や都市部で楽団演奏をして寄付を募っているという.
 ネット上の記事には,米国を含め内戦に加わったすべての勢力が地雷を埋めたとしているものがあるが,それは当時の日本に伝えられた報道とは異なる.
 そもそも地雷は,拠点を守備する側が埋めて,敵の接近を防ぐものだ.そう考えると,カンボジア内戦で埋められた地雷のほとんどは,掃討戦をやっていたベトナム軍ではなく,守勢のポル・ポト派が埋めたものだと考えられる.ポル・ポト派は自国民を大虐殺したが,今もカンボジアの人々は彼らの残した恐怖の下で暮らしているのだ.
 
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 上の写真では,倒壊しそうな箇所に補強がなされている.この例では樹木 (ガジュマル) が寺院の建屋の上で生長し,その重みで崩壊しそうになっている.しかし中には,ガジュマルの気根 (地上茎から出た根のこと.主に呼吸や吸廃湿を担う) で建造物が支えられているかのように見える例もあり,遺跡を修復保存する工事の際に,判断の難しい問題となっているそうだ.
 
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 上の写真の樹木は気根の様子からみてガジュマルではないが,名称はわからない.上の写真で,赤い↓が指しているところに内部への入口があり,映画『トゥームレイダー』では,ヒロインのララがそこから中に入るシーンがある.
 話が横道に逸れるが,映画『トゥームレイダー』は同名のPCゲームの映画化作品である.このゲームの第一作はMS-DOS上で動作した.といっても若い人には何のことやらわかるまいが,第一作はPCゲーム草創期の傑作であり,PCゲームというジャンルが消滅した今も,『トゥームレイダー』はただ一つシリーズ化され,製作され続けている作品なのである.
 このゲームのヒロインはララというが,映画の主演女優がアンジェリーナ・ジョリーだと発表された時,イメージが違うとするブーイングが世界中に巻き起こった.しかしその後のアンジーが大女優となったせいで,最近の『トゥームレイダー』作品のララは,アンジー寄りのキャラになっている.w

 
 ともあれ,タ・プローム遺跡は,石の建造物をも密林の中に崩壊,荒廃させてしまう樹木の生命力とせめぎ合いながら,修復が行われていくだろう.下の写真は現地に展示されていた資料である.(上が修復前,下が修復後)
 
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 タ・プローム遺跡を見学したあと,私たちは昼食を摂りに街道沿のレストランに立ち寄った.
 
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 この店のランチセットは,日本のレストランと比較して遜色ないレベルだったが,店の名をメモし忘れた.なぜかというと,例のトラブル爺が私にちょっかいを出してきたのである.
 写真のサラダのあと,スープがサーブされる前に,爺はトイレかどこかにふらふらと出歩き,戻ってきたかと思うと,私の肩にテーブルナフキンを載せた.私が驚いて「これはなんですか!」と言うと,爺は平然としてこう言った.
「床に落ちていたんだ」
「床に落ちていたものをなんで私の肩に載せる? 失礼じゃないか!」
と私が語気を強めると,ツアコンダクタが「まあまあ」と止めに入った.
 私の何が気にくわなかったか知らぬが,唐突に喧嘩を売るとは常軌を逸している.
 遺跡内での奇矯な声といい,この振る舞いといい,ちょっとアブナイ気配があったので,私はこの後,爺から距離を取って歩くことにした.
 ちなみにこのレストランの他にもメモし忘れたことがあり,この旅行記を書きながら,しまったー!と何度か臍を噛んだ.
 
 さて,昼食のあと,いよいよ長年思い描いてきたアンコール・ワットの見学である.
アンコールを一目でも (十一) へ続く

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