冥途の旅の一里塚

引退老人がトボトボと散歩したり旅します.

2018年12月 8日 (土)

旅行中です

 今,カンボジアを旅行中だ.年金暮らしに入る前から,アンコール遺跡を見てみたいと思っていたのだが,ようやくそれが叶った.
 今回のカンボジアはツアーなのだけれど,男性参加者は私ともう一人の二人だけ.国内でも海外でも,私が参加するツアーはほとんど女性ばっかりだ.ほんとに女性は元気だなー.
 帰国は明後日の早朝に成田着だ.ブログ更新はそれ以降になる予定.

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2018年12月 5日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 18)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 17) 》の末尾を再掲する.

私たち戦後生まれの読書人が柴五郎に抱いている人物像は,『警視庁草紙』に描かれた柴青年なのである.

 さて私は,柴五郎を恨み辛みに凝り固まった男として描いた石光真人著『ある明治人の記録』が,日本近代史を叙述する際の出典として採用できない性質のものであることを,これまでに述べてきた.
 石光真人は,『ある明治人の記録』第一部を編集する際に《当用漢字 》(柴五郎の没後に制定された) を用いたと明記していることから,第一部の編集時期が柴の没後であることが明らかである.従って『ある明治人の記録』第一部は,柴五郎による著者校正が行われていない.しかるに第一部は「遺書」と題して,柴の第一人称で書かれている.これは歴史の偽造であり,『ある明治人の記録』第一部は偽書であることを示している.これに騙されて,ネット上では『ある明治人の記録』第一部の著者は柴五郎であるとの誤解が広まっており,大きな問題である.『ある明治人の記録』第一部の著者は石光真人なのである.
 日本のカレーライスについても,幼年学校 (のちに陸軍幼年学校と改称さる;脚註) の給食 (土曜日の昼食) にカレーライスが提供されたと『ある明治人の記録』に書かれているが,この記述は,幼年学校ではフランス式の食事が提供されたということと矛盾し,信用できない.
 そこで,カレーライスの発祥を追うために,もう一度,Wikipedia【ライスカレー】の《年譜 》に戻る.

1860年(万延元年)福沢諭吉が「増訂華英通語」でカレー(コルリ)を紹介。
 1864年(文久4年)、江戸幕府の横浜鎖港談判使節団の岩松太郎が、船中でアラビア人が食事する様子を見て「飯の上へトウガラシ細味に致し、芋のどろどろのような物を掛け、これを手にてまぜ手にて食す。至って汚き人物の者なり」と日誌に記している。
 1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。また、同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された。
 1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
 1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
 1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。

 まず《1860年(万延元年)福沢諭吉が「増訂華英通語」でカレー(コルリ)を紹介 》だが,福沢諭吉は軍艦咸臨丸に乗り込んで渡米した際,サンフランシスコの書店で『華英通語』という中国語と英語の辞書を手に入れた.帰国後,この辞書に載っている言葉 (英語の部分) に日本語の発音を書き入れ,『増訂華英通語』として出版した.従って福沢諭吉は,辞書から辞書を作っただけであり,カレーがどのようなものであるかは知らなかったと思われる.この辞書では Curry の発音を「コルリ」と表記しているが,実際に英語の発音を聞いて「コルリ」と書いたのか疑わしい.スペルから発音を想像しただけだろう.
 
 次の岩松太郎が《船中でアラビア人が食事する様子を見て … 》以下は,吉田よし子が著書『カレーなる物語』中で,この目撃談は岩松太郎ではなく三宅秀のものであると嘘を書いたために,いくつかのカレー関係の本やブログに,孫引きされて嘘が定着してしまった.だが,この点は Wikipedia【ライスカレー】の記述が正しい.ただし,《芋のどろどろのような物 》がカレーだったという証拠はない.そして,岩松太郎が目撃した料理がカレーだったとする説を誰が唱えたのかは不明である.もしかすると吉田よし子かも知れない.
 
 次の《北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された 》は,既に述べたように,こじつけだと思われる.
 
 続く《同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された 》は事実であるが,著者らが実際にカレーを作ったかどうかの保証はない.これらは単なるレシピ集である.
 
 その次の《1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》は,詳述したように,根拠のない説である.
 
 また《1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが … 》については,札幌農学校の寮でカレーライスが提供されたとする根拠はないと北海道大学当局が明言している.これは伝説と言っていいだろう.

 さて《1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる 》に至って,ようやく風評伝説の類ではなく,当事者の証言が出てくる.東京凮月堂の公式サイトのコンテンツ《凮月堂の歴史 》に掲載されている《沿革 》である.
 
(脚註) 『ある明治人の記録』第一部は,柴五郎が入学した帝国陸軍の教育機関の名称を《陸軍幼年生徒隊 (陸軍幼年学校の前身) 》としている.ところが Wikipedia,ブリタニカ国際大百科事典,世界大百科事典 第2版,日本大百科全書 (ニッポニカ),百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,大辞林第三版等の辞書,事典には《陸軍幼年生徒隊 》は見当たらない.またウェブを検索しても陸軍幼年生徒隊 》はヒットせず,書籍をも調べたが,発見できなかった.『ある明治人の記録』が間違っているのか否かは,防衛省に出かけて史料を調べないと決着はつかないかも知れないので,深追いはしない.

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2018年12月 1日 (土)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 17)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 16) 》の末尾を再掲する.

幼年学校が陸軍幼年学校に名称が変わったのちの柴五郎が登場する小説がある.団塊世代に読者の多い山田風太郎が書いた『警視庁草紙』(文藝春秋,1975年;現在はちくま文庫の「山田風太郎 明治小説全集に収められている) である.

 この連載の本題 (カレーライスの話) に戻る前に,もう少し明治という時代のことを書く.
 周知のように,戊辰戦争が終結したのちも,政情が安定したわけではなかった.近代日本の出発は西南戦争で西郷隆盛が敗死するまで待たねばならなかったのである.
 西南戦争の前に,各地で旧武士階級出身者の反乱があった.その一つに永岡久茂らによる「思案橋事件」があった.
 Wikipedia【思案橋事件】から一部を引用する.

1876年(明治9年)10月29日、萩の乱の発生を電文で知った永岡久茂ら旧会津藩士他14名は、東京・思案橋から千葉に向けて出航しようとしていた。しかし不審に思った者の通報により駆け付けた警官隊と切りあいとなり、永岡ら数名はその場で逮捕された。逃走を図った者は中根米七を除き、最終的には逮捕されている。主犯の永岡は事件の時に負った傷が元で翌年1月に獄中死し、その年の2月7日に行われた裁判では井口慎次郎、中原成業、竹村俊秀の会津藩士3名が斬罪となった。中根は1878年(明治11年)、喜多方町の寺院境内で切腹している。警察側は寺本義久警部補と河合好直巡査の2名が殉職した。

 この事件で興味深いのは,旧会津藩士である永岡久茂が西郷隆盛の支持者だったことである.
 幕末から明治にかけては,いわば日本における「アメリカン・ドリーム」の時代であった.下級武士の子であっても,政治家,官吏,学者,軍人として世に出ることが可能な時代が来たのである.
 西日本諸藩は諸外国との接触が多かったためか,早くから思想的に身分制社会から脱して,下級の武士たちが時代を牽引したが,無能な松平容保のもとで思考停止に陥っていた旧会津藩士の約二万人は,容保の子,容大を領主として斗南藩が成立すると,そのうちの一万七千三百人余りが藩主と共に厳寒不毛の地に移住した.明治三年のことであった.
 しかし明治四年七月の廃藩置県によって斗南藩が廃止されて旧藩主松平容大が上京したのち,旧会津藩士たちの過半は会津に帰郷したが,青森県に留まる者,東京で一旗上げようとする者など様々な形で離散した.
 それまで,農業や商工業に従事する人々から収奪することで生きてきた藩士たちは,働かねば食っていけない事態に直面し,ようやく幕藩体制下における身分制度の呪縛から離れ,思考停止から脱した.その典型例が,会津藩家老の地位にあった佐川官兵衛である.佐川は廃藩置県後,川路利良 (薩摩藩中でも身分の低い家に生まれたが,戊辰戦争では会津から東北を転戦し,その後に初代大警視を務めた「日本警察の父」である) に懇請されて警視庁に奉職して一等大警部に任命された.惜しくも西南戦争で戦死したが,薩摩がどうのこうのという,後に小説家や,会津戦争を観光資源化して金儲けすることを目論んだ会津若松市当局が拵えた「会津の怨念」から自由な人であった.一流の人物とは,こういう人のことであろう.
 他にも,白虎隊の兵士として会津戦争を戦ったが,戦後は明治四年に国費留学生として渡米し,後に東京帝国大学総長となった山川健次郎らも,新しい時代の日本の建設に努めた.
 一方,冒頭に記した永岡久茂は,在野の論客として西郷隆盛を支持して明治政府を糾弾する側に立ったが,明治九年 (1876年) 十月二十九日,萩の乱に呼応して千葉県庁襲撃を意図したが,事前に発覚して逮捕された.これが思案橋事件である.
 山田風太郎『警視庁草紙』が描くのは,思案橋事件に関わった旧会津藩士の父親たちが逮捕され,路頭に迷ったその子供らである.
 陸軍幼年学校生徒・柴五郎は,子供たちを率い,敢然徒歩で警視庁の目の届かぬ安全な村へ送り届ける役を買って出たのである.
 柴五郎の凛とした姿を描いたこの一節は,引用するには長すぎる.ただ,柴五郎と子供たちが出発したあと,山田風太郎は次のように結んだことを紹介する.

明治三十三年、いわゆる義和団の蜂起により北京が包囲されたとき、悪戦苦闘の籠城五十余日、その間駐留軍の総指揮官としてついに守りぬき、その勇名とともに軍規の厳正をもって連合軍の賞賛のまととなった北京駐在日本武官柴五郎中佐は、この若者の後身である。
 
『警視庁草紙』は『ある明治人の記録』が出版された少しあとに書かれた.山田風太郎は『ある明治人の記録』を読んだに違いないが,その影響を受けていないところが,さすがである.私たち戦後生まれの読書人が柴五郎に抱いている人物像は,『警視庁草紙』に描かれた柴青年なのである.

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2018年11月29日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 16)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 15) 》の末尾を再掲する.
 
とはいうものの,この手紙は西郷が岩倉具視に宛てて覚悟を促したもので,大久保と西郷が交わした言葉ではないから,《「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」 》の出典ではない.止むを得ず,今は大久保利通の評伝を数冊読んで,この文言がその中にあるかどうか調べている.
 
 西郷と大久保が討幕に際して交わした文言に関する史料のことは,この連載記事の主題である「日本カレーライスの発祥の地は,本当に横須賀なのか?」から少々離れることだから,ここで『ある明治人の記録』第一部のことに話を戻す.
 第一部に書かれているのは,柴五郎の幼年時代から陸軍幼年学校に入学し,明治十一年 (1878年) 八月二十三日に起きた帝国陸軍近衛兵部隊による武装反乱事件「竹橋事件」までである.
 大久保利通暗殺さるの報を「喜べり」と書かれているのは第一部の最終章であるが,会津戦争の始まりから竹橋事件発生に至るまで,第一部の基調は薩長に対する憎悪と怨念である.
 その怨念がどれほど深いものであったかが,第一部の最初の章で次のように書かれている.
 
時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言なれど,ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。
 …… (中略) ……
 悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。
 
 この一節の真贋は,如何であろうか.
 江戸期は言うに及ばず,明治の人々にとっても,現代の私たちよりずっと仏教の信仰は親しいものであったろうと思う.それ故に石光真人は,柴五郎が幼年時の回想録を恵倫寺に奉納したことは《会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔うためと推測される 》と書いているわけだが,しかし上の引用箇所にあるように《心を悟道に託すること能わ 》ずして,怨念の書を今は亡き肉親に献ずることは,その菩提を弔うことになるのであろうか.
『ある明治人の記録』第一部に書かれているように,もしも柴五郎がその死に至るまで,既に世を去って久しい西郷や大久保らを憎み続けたとすれば,柴五郎はその執着により死して必ずや鬼となったであろう.だがやがて鬼と化すべき者に亡き家族の菩提を弔えるはずがないことくらい,明治人である柴五郎にわからぬはずがない.
 よって柴五郎は晩年に心の平穏に努め,死を目前にして真筆の回想録を《心を悟道に託 》して恵倫寺に奉納したに違いない.その回想録は『ある明治人の記録』と異なり,憎悪や怨念の書ではなかったであろう.またそうでなければ,恵倫寺の住職がこれを供養として仏前に受理することはなかったと思われる.
 
 ここまでに述べたことを箇条書きにまとめる.
 
(1) 石光真人は,柴五郎に回想録の添削を依頼されたと称しているが,実際に添削したかどうかは,『ある明治人の記録』に書かれていない.
(2) 石光真人は,柴五郎の没 (昭和二十年) 後,かなり後になって「柴五郎に回想録の校訂を委託された」と詐称して,無断で校訂の範囲を大きく超える加筆と編集を行い,これを『ある明治人の記録』第一部とし,昭和四十六年に中公新書から出版した.編集したのは,出版時期から推定すると昭和四十年代であろう.
(3) 柴五郎が,柴家の菩提寺である恵倫寺に回想録を奉納して門外不出としたことからすると,柴はこれを『ある明治人の記録』第一部として出版するつもりはなかったと考えられる.実際,石光真人は,柴五郎から出版許可を得たか否かについて触れていない.著作権のことがあるから,出版許可を得ていれば,石光はそれを明記したはずである.従って許可は得ていないと断定できる.
(4)『ある明治人の記録』の出版は昭和四十六年であるから,当然,その第一部は没後久しい柴五郎による著者校正が行われていない.著者校正がされていないということは,書かれている内容を事実として引用してはならない,ということである.
(5) 以上のことから,『ある明治人の記録』第一部は,石光真人が柴五郎の回想録を材料にして,会津怨念史観を盛り込んで創作した偽書であると私は考える.真の柴五郎回想録は,柴家菩提寺恵倫寺にあるはずだ.
 
 柴五郎が幼年学校に在籍したのは明治六年四月から十年五月 (この年に陸軍幼年学校は陸軍士官学校に吸収された) までである.開校当初はフランス人教師による教育が行われ,給食はフランス料理であったと『ある明治人の記録』第一部に書かれている.しかるに同書に《土曜日の昼食のみライスカレーの一皿を付す 》とあるのは唐突で奇異なことに思われる.これが仮に事実だとしても,この「ライスカレー」は「カレー風味のフランス料理 Riz au Cari 」(Riz au Cari ;これは現在の和風洋食でいうと,カレー味のピラフだと思われる) だったと解するのが妥当だろう.日本語の「ライスカレー」の初出は,東京のレストラン「風月堂」の明治十年に洋食店を開業したときのメニューだとされている.(後述)
 ちなみに柴の記憶にある「ライスカレー」とフランス料理が幼年学校で提供されたのは,幼年学校の初期,明治八年 (この年に,幼年学校は陸軍幼年学校に名称が変更された) までであったと推定される.『ある明治人の記録』第一部に書かれているように明治八年には陸軍の命令でフランス式教育が廃止され,食事は陸軍式の白飯偏重で副食軽視となったと思われるからである.実際,それが原因で柴五郎はやがて脚気を発症することになった.『ある明治人の記録』第一部に,明治十一年のこととして,《八月二十三日、この日はわが家族、会津において殉難せる日なれば、余は脚気の脚を引きずりて …… 》と書かれているのである.
 
 幼年学校が陸軍幼年学校に名称が変わったのちの柴五郎が登場する小説がある.団塊世代に読者の多い山田風太郎が書いた『警視庁草紙』(文藝春秋,1975年;現在はちくま文庫の「山田風太郎 明治小説全集に収められている) である.

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2018年11月24日 (土)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 15)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 14) 》の末尾を再掲する.
 
かようにこの一節はよく知られているが,これはまた私が『ある明治人の記録』第一部の中で,最も違和感を持つ箇所なのである.
 
 上の《 》にある《この一節 》も再掲する.
 
この年の五月、内務卿大久保利通暗殺さる。大久保は西郷隆盛とともに薩藩の軽輩の子として生まれ、両親ともども親友の間柄なるも、大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる大久保とは、征韓論を境に訣別し、十年の西南戦争においては敵味方の総帥として対決し、しかも相前後して世を去る。余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭にあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すことあたわず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結と断じて喜べり。
 これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、いまもなお咎むる気なし。

 
 私が抱いた違和感とは,この文章の主体がブレていることである.
 例えば,《大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる大久保 》は,まるで二人に関する中立的な評伝中の文言のようである.いや,二人に対するリスペクトさえも感じられる.
 しかし《結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結と断じて喜べり 》は,西郷と大久保の専横と暴走を非難する立場に立っている.西郷と大久保が天寿を全うできなかったことを《喜べり とまで言い切っている.
 しかるに,この文中の《非業の最後 》は「志半ばで倒れた」ということであり,両人に対する同情を示す表現なのである.従って《一片の同情も湧かず 》とは矛盾している.敵である者が戦争で敗死 (西郷) したり,あるいは暗殺 (大久保) されたりした場合,日本人の感性ではこれを「前世の業」の当然な結果であるとして,「非業の死」とは言わない.文章の一貫性としては,「両雄無残な最期を遂げたるを」でなければならないのである.
 また「血祭に上げたる」は,会津を倒すことで戦意高揚した側に立った表現である.政府軍に戦意高揚されては困る会津藩側の人間 (柴五郎) が使う言葉ではない.
 以上のように,『ある日本人の記録』第一部の中で,この箇所は非常にちぐはぐな印象を与える.西郷隆盛と大久保利通に対する評価の立ち位置が定まっていない.あたかも,元の文章に後から誰かが手を入れたかのようである.
 
 また,《この年の五月、…… 今もなお咎むる気なし 》に一貫性がないということとは別の話であるが,この箇所における《「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」》だが,わざわざ括弧に括って書いているということは,この文言がそのままの形で書かれた文書 (出典) があることを意味している.それは文脈からすると,西郷隆盛と大久保利通の間で交わされた文言である.明治維新前夜,徳川慶喜に大政奉還させたのち,慶喜を新しい政治権力の中に留めておこうとする勢力に対して,大久保と西郷は徳川幕府を武力で倒す意思を貫いた.そのことに関する言葉であろう.
 
 しかし,ネットを検索してもこの文言を含む史料が見つからない.ヒットするのは『ある明治人の記録』のこの一節を引用したブログ等の記事だけである.
 もしかすると「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」は,出典と少し語句が異なっているのかも知れない.慣用的な表現では「耳目を惹く」ではなく「耳目を集める」と書くのだが,それを考慮して検索しても,この文言の出典は発見できなかった.
 しかし,私には西郷が遺した文章に,これに似た表現があったような記憶があった.そこで奈良本辰也『西郷隆盛語録』(角川ソフィア文庫,2010年) を購入した読んだところ,書簡の部に次の文章があった.(Kindle 版の位置 No.2345-2347)
 
このたび朝廷では御英断なされ、王政復古のご基礎を召し立てられたいとの御命令をお出しになりました。大混乱がおこるかもしれませんが、人心は二百年もの泰平の旧習に慣れきっておりますから、いちど戦乱がおこればかえって天下の耳目を新しく切りかえることができ、政局安定の御盛挙になるはずです。戦乱の決心をなされ、死中に活を得られる御覚悟が最も急務であると考えます。
 
 『西郷隆盛語録』には,この現代語訳は『大西郷全集』(大西郷全集刊行会,大正十五年,国会図書館はじめ首都圏の公立図書館には蔵書なし) を底本としていると書かれているが,同じ文章が,毛利敏彦『大久保利通 維新前夜の群像 5』(中公新書,1974年、改版1992年,Kindle 版の位置 No.1659-1661) では次のようになっている.
 
一動干戈候て、かえって天下の眼目を一新、中原を定められ候御盛挙と相成るべく候得ば、戦を決し候て、死中活を得るの御着眼、最も急務と存じ奉り候
 
 そして,これは議論の根拠とするような種類の本ではないが,高橋伸幸『人生を切り開く 西郷隆盛の言葉 100』(扶桑社,2017年) には下のように書かれている.
 
今般、朝廷では御英断なされ、王政復古の御基礎を召し立てられたいとの御命令について、必ず大混乱がおこるかもしれませんが、人心は二百年もの泰平の旧習に汚染されておりますから、一度戦争が起こればかえって天下の耳目を一新することができ、政局安定の御盛挙になるはずです。戦いの決心をなされ、死中に活を得る御覚悟が最も急務であると考えます。
 
 これらの本には 「天下の耳目を新しく切りかえる」「天下の眼目を一新」「天下の耳目を一新する」とあるが,正しいのは「耳目」なのか「眼目」なのか,よくわからない.仕方ないので『大西郷全集』の古書を手に入れて読んでみることにした.
 とはいうものの,この手紙は西郷が岩倉具視に宛てて覚悟を促したもので,大久保と西郷が交わした言葉ではないから,《「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」 》の出典ではない.止むを得ず,今は大久保利通の評伝を数冊読んで,この文言がその中にあるかどうか調べている.

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2018年11月23日 (金)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 14)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 13) 》の末尾を再掲する.

得々として《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが》と書いて,折角の嘘を台無しにしてしまったというわけである.

 せっかくの嘘を台無しにした石光真人の失策をもう一つ挙げる.それは《本書の由来 》の中の次の文言である.

死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵林寺に納め、門外不出とした。》 (引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 石光の無知ではなく,失策の話に移る.ここで《本文 》(ほんもん) とは,石光が柴に無断で「校訂」して確定させたテキストを意味している.すなわちこれは,柴の原稿を材料にして石光が作成・編集した原稿=『ある明治人の記録』の第一部を指している.

 それは柴五郎の没後に作られたものであるから,時系列的に会津若松の菩提寺恵倫寺に納めることは不可能である.従って,柴五郎が昭和二十年に恵倫寺に納めて門外不出としたものこそが,柴が推敲清書した自筆の回想録に違いない.
 これを石光は《本文の抜粋 》と書いたが,これは取りも直さず,柴の自筆原稿よりも『ある明治人の記録』の第一部のほうが分量が多いということを意味している.石光は,柴五郎の原稿から,無断で,

翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略し

た.それでもなお『ある明治人の記録』の第一部のほうが分量が多いということは,柴五郎の許可なく,石光の手によってかなりの加筆がなされたことを意味している.
『ある明治人の記録』の第一部において,石光真人が勝手に挿入した加筆部分を特定することは,柴の自筆稿が門外不出であるから,不可能である.
 しかし,おそらくそれは,『ある明治人の記録』の第一部において,会津藩を倒した薩摩藩と長州藩を糾弾している部分であろうとは容易に想像できる.
『ある明治人の記録』の第一部において石光は,柴五郎をエキセントリックで,かつ身分差別意識の強い人間として描いている.だが果たしてそれは柴五郎の実像だったのだろうか.それに関して,私が「如何なものか」と思う箇所の例を二つ,下に挙げる.
 一つ目は明治元年,戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いで,新政府軍に敗北した会津藩主松平容保が,会津藩士を置き去りにして敵前逃亡し,会津城下に戻ってきた時のことである.

この布告を読みて切歯扼腕せざるものなく、噂の真実なるを知りて怒るもの悲嘆するもの城下に満つ。街の様子喪に服せるがごとし。余等幼きものとても悲憤やるかたなく、木刀もて手当り次第立木を打ちまわり、小枝たたき折りて薄暮におよべるを記憶す。
「薩摩の芋武士奴!来たれ!」
「目にものみせてくれん!」
 満面涙に濡れてたたきまわりたれども心おさまらず。その夜、食卓に着けども一人として声を発する者なし。芋武士というは薩摩人の常食が薩摩芋 (唐芋) なりと伝えられ、これを軽蔑してかくよびたるなり。討幕、討会の軍は薩摩、長州、安芸、土佐、大垣の連合軍なれど、その主導権を握れる薩摩藩兵を当面の怨敵となしおれり。
》 (当ブログ筆者による註;この箇所は改版された中公文庫『ある明治人の記録』の p.22にある.また「芋武士」には「いもざむらい」とルビが付されている)

 上の引用箇所中,(唐芋) は柴五郎の原稿にはなく,石光真人がテキスト中に挿入し,テキストと一体化させてしまった註記である.
 また《怨敵となしおれり 》は武人の用いる言葉とは思われぬ.単に「敵」とすべきであるのに「怨敵」としたところに,後世に流行した「観光史学」あるいは「会津怨念史観」の影響が見られる.すなわち《この布告を読みて 》以下の一節は,おそらく柴五郎の言ではなく,石光真人が加筆した文章と思われる.
 話が横に逸れるが,「食い物の恨みは…」という.上に引用した文章には,会津藩士たちが薩摩藩士を芋武士と呼んで軽蔑したと書いてあるが,こんなことを言われたほうは,いかばかり悔しかったであろうか.薩摩藩士たちは粗食に耐えて,新時代到来に備えて富国強兵に励んできた.それに対して会津藩は,領民に重税を課してその苦しみの上に胡坐をかき,しかも武士としての鍛錬を怠った.それが会津戦争の勝敗を分けた.鳥羽・伏見で敵前逃亡した領主と弱卒藩士たち.薩摩藩士の気持ちとすれば,謂われなく薩摩藩士を芋武士と嘲笑した連中は,下北の果てまで追いつめて滅ぼしてくれる,と思っていたのではないか.薩摩からすれば,会津こそが「怨敵」だったに相違ない.
 話を元に戻す.上の引用箇所を読んだ読者は,柴五郎を「心中に独善的な怨念を燃やす品性卑しい人間」だと感じるのではないか.上の引用箇所が本当に柴五郎の言ならば,少なくとも私はそう感じる.
 しかしその程度の人間が,義和団事件において,北京籠城した各国人を団結させ,僅か五百人弱の武官・兵士を指揮して二ヶ月近い籠城戦を戦い抜けるものであろうか.そんなはずがない.これも,上に引用した一節が,柴五郎の原稿にはない,石光真人の創作ではないかと私が思う理由である.

 二つ目は,明治十一年の五月のこと.

この年の五月、内務卿大久保利通暗殺さる。大久保は西郷隆盛とともに薩藩の軽輩の子として生まれ、両親ともども親友の間柄なるも、大義名分と情誼を重んずる西郷と、理性に長けたる大久保とは、征韓論を境に訣別し、十年の西南戦争においては敵味方の総帥として対決し、しかも相前後して世を去る。余は、この両雄維新のさいに相謀りて武装蜂起を主張し「天下の耳目を惹かざれば大事成らず」として会津を血祭にあげたる元凶なれば、今日いかに国家の柱石なりといえども許すことあたわず、結局自らの専横、暴走の結果なりとして一片の同情も湧かず、両雄非業の最後を遂げたるを当然の帰結と断じて喜べり。
 これらの感慨はすべて青少年の純なる心情の発露にして、いまもなお咎むる気なし。

 上の引用部分は,作家やブロガーたちが,丸ごとあるいは部分的に引用することの多い文章である.Wikipedia【柴五郎】は,例によって出典を示さずに,部分的に引用している.
 かようにこの一節はよく知られているが,これはまた私が『ある明治人の記録』第一部の中で,最も違和感を持つ箇所なのである.

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2018年11月22日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 13)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 12) 》の末尾を再掲する.

その程度の知力でよくまあ《校訂を依頼された 》と嘘を書いたものだと呆れる他ない.

 文章というものは,事実をありのままに書けば,何の矛盾破綻もなく,辻褄が合う.当然だ.事実だからである.
 ところが,事実の中に嘘を紛れ込ますと辻褄が合わない文章になる.そこで嘘がばれないように色々と辻褄合わせをやらねばならぬことになるのだが,それは頭の悪い人間には無理な相談で,どこかで矛盾が露呈する.
 石光真人はそういう種類の人間のようで,辻褄合わせに見事に失敗している.ところが石光は小細工はできるけれど,ばれない嘘をつく詐欺師的能力に欠けており,その結果,自分が辻褄合わせに失敗しているという認識をできず,堂々と『ある明治人の記録』を出版した.
 石光の小細工とは何か.
『ある明治人の記録』の第二部に,柴五郎に回想録の原稿を添削してくれと頼まれた (これが事実だとの証拠はない) ことを切っ掛けにして,その原稿を筆写する (柴の許可を得たと書いているが,事実だとの証拠はない) ことができたと書かれている.本書の終わり近くにある第二部のこの叙述が,『ある明治人の記録』の巻頭に置かれた《本書の由来 》に続くという倒叙になっているのは,石光の苦心したところであろう.連続して書けば,嘘がモロバレなのだが,読者が読み流してしまうかも知れない《本書の由来 》に

この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。

と分割して書けばバレないと思ったのだろう.実際,石光が,当用漢字云々と余計なことを書かなければ,私は石光の嘘に気が付かなかったかも知れない.柴五郎に添削を依頼された原稿中の漢字を,柴の没後に公示された当用漢字に置き換えることは,時系列的に不可能であるから,これで石光の嘘がバレてしまったのだ.
 では,何故に石光は当用漢字のことに触れたのか.それは石光が新聞業界の人間だったからである.
 どのような理由か知らないが我が国は,政治体制あるいは権力構造に大変動が起きた際に,アンチ日本語の動きが二度にわたって発生した歴史を持つ.その最初の有名な例は,明治十八年年 (1885年) ,第一次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任した森有礼が主張した「英語を日本の国語とすべし」との論であった.そういう主張を,日本語を母語として育った森有礼は,頭の中では日本語で考えていたわけであるから,もう頓珍漢でお話にならないものではあった.この問題は別の機会にふれるとして,次は先の大戦で敗戦したあとのことである.
 戦後,GHQは,日本が軍国主義に走ったのは国民の教育レベルが低かったことに起因すると考えた.国民が皆きちんと読み書きできれば,情報を平等に受け取ることが可能となり,ひいては戦後日本の民主化に寄与するとでも考えたのであろう.そこで,欧米人からすると日本語習得の壁となっている漢字を廃し,日本語をローマ字表記とする方針を立てた.そして日本国民の識字率を調査したが,案に相違して日本人の識字率は非常に高かった.そのため日本語のローマ字表記化は頓挫した.
 しかし,GHQの意向を忖度したのか,従来からの漢字廃止論者が勢い付いた.詳細は Wikipedia【漢字廃止論】に譲るが,「漢字が廃止されるまで当面の間,可能な限り漢字の使用を制限する」ことを目的として昭和二十一年に当用漢字が内閣告示された.
 Wikipedia【当用漢字】には《1981年(昭和56年)の当用漢字表の廃止以降は書き換えに強制力(法的拘束力)はなくなったが 》とあり,あたかも当用漢字に法的拘束力があったのように書いているが,これは嘘である.公文書においては行政的に強制が行われたが,その他の一般社会には,当用漢字が国民的コンセンサスなしに制定されたことから,科学者や文学者など,業として日本語を読み書きする人々から反対の声が上がったのである.
 例えば作家の舟橋聖一は第1期国語審議会第3総会で次のような反対意見を述べた.

われわれ作家と審議会との関係は対立的であるように世間では見ている。しかし,われわれは国語の簡素化に反対でなはい。小説家は,やさしい表現と達意のために骨身を削っている。でないと読者が離れるからである。ところが当用漢字表は,達意のじゃまをする。山本有三氏がわれわれの代表として審議会に参与したのがまちがいである。山本氏のやり方は,独善的,独裁的で,もまないでまとめることばかりにほねをおる。審議会は大いにもんでもらいたい。》 (この引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者による)

 また当用漢字の強制力については,やはり第1期国語審議会第3総会における山口吉郎 (東京大学工学部教授) と宮沢俊義 (東京大学法学部教授,審議会副会長) との間で以下の遣り取りがあり,当用漢字に法的強制力はないことが明言されている.

山口
 学術語の全部が当用漢字表で制約され,術語を変えろと言われているが困る。学術語にはジャーナリズムには使わないが,出度の高い文字がある。攪(かく)拌を「まぜること」,抛(ほう)物線を「物を投げる線」では困るし,「楕(だ)円」の楕の字はない。鉱物の名称・色・形・結晶・成分など,1850字の範囲内で決めることはむずかしい。文部省の検定教科書には,術語の表記が漢字・かな混用の不便・不体裁のものがある。当用漢字表はどの程度厳格なものか許容はどの程度認められるのか,学会の連中は困っている。きょうは,ぜひこの点について確かな返事をもらって帰らなければならない。
 
 宮沢副会長
 どうやれというような命令はどこからも出ていない。もし強制するなら法律で決めなければならないのだから,今のお話は問題にならないのではないか。

 制定当初の状況で放置すれば当用漢字の普及は望めなかったであろうが,ここで政府のお先棒を担いだのが新聞業界であった.敗戦直後の反省もどこへやら,率先して漢字制限を実践して普及に努め,政府に協力したのであった.
 上に述べたことは私のような高齢者にとっては常識だが,Wikipedia の編集に参加するような若い人たちは,調べずにテキトーに書くことが当たり前だと見えて,当用漢字に強制力があったなどと百科事典に書いてしまうのである.
 余談だが,当用漢字に不信感を表明した科学者,山口吉郎は,俳人の山口青邨である.

 ともあれ新聞業界人の石光真人は,当用漢字表外の漢字は難読漢字であるとの思い込みがあり,柴五郎の原稿中の漢字をそのままにしておくべきではないと考えたのであろう.得々として《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが》と書いて,折角の嘘を台無しにしてしまったというわけである.

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2018年11月21日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 12)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 11) 》の末尾を再掲する.
 
この引用部分には,私たちが簡単に気が付く重大な撞着がある.それは次回に指摘する.
 
 重大な撞着とは次の記述である.
 
当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが
 
 この箇所が何を意味するかについて説明する前に,『ある明治人の記録』の編著者である石井真人が,《本書の由来 》に
 
このように血涙のにじんだ貴重な文書を私に貸与され、筆写を許された理由には、永い間いろいろないきさつがあった。第二部として付加した「柴五郎翁とその時代」を読んで理解していただきたい。

 
と書いているので,第二部に書かれている重要な箇所から一部を引用する.
 
亡父の遺稿整理のためしばしばお訪ねして、少年時代のことなどお聞きしているとき、持ち出されたのが本書の草稿であった.毛筆で半紙に細々と書かれていた.
 翁はこれを私に貸与するにあたって、きわめて謙虚慇懃に添削、訂正を求められ、私は恐縮当惑するばかりであった。
「私は少年時代に戊辰戦争のため勉強する機会がありませんでした。その後も下男のような仕事をしていたので、十分な教育が受けられませんでした。幼年学校に入るときは、文字通りの泥縄、一夜漬けで、野田豁通閣下のお蔭で合格しました。合格してみたら、意外にも幼年学校の教官はすべてフランス人で、私たちもフランスの軍服を着て、フランス語でフランスの地理、歴史、数学などを学び、正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。その頃の教育は、新しい外国の学問がどんどん入って来て、小学校などはアメリカの教科書の翻訳でしたが、上級に進むにしたがって、やはり漢籍による文章の訓練が行われたのです。そのような基礎訓練を充分受けられなかったので、フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文がだめなのです。ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。よけいなことをお願いしてすみませんが添削してください。書き足りないところ、疑問に思う箇所についても指摘してください」
 このような謙虚な言葉に私は恐縮した。
「それでは拝見させていただきます、添削とか何かは別としまして……」
と答えて、内容も見ずに持ち帰ったのであった。
 ところが、帰宅してから数日後に内容を読むにしたがい、戊辰戦争に関する私の先入観はくつがえされ、非常な驚異を感じたので、このまま巻を閉じて柴家の筐底に納むべきでないことを知り、筆写することを乞うたところ、幸いにも許された。

 
 柴五郎は,学歴こそ陸軍士官学校卒のみで陸軍大学校は出ていないが,義和団事件で勇名を世界に轟かせ,会津出身でありながら最終的に大将の地位に上った俊秀である.その柴五郎の《日本文がだめ 》なはずがない (柴五郎は語学堪能であり,英語,仏語,中国語に通じていた) のである.従ってこれはほんの謙遜に過ぎず,《添削してください。書き足りないところ、疑問に思う箇所についても指摘してください 》と言ったのは,単に文章の軽微な瑕疵を添削してくれ程度の依頼に違いない.またここで重要なのは,《書き足りないところ、疑問に思う箇所について 》は指摘してくれとだけ言っている点である.
 ところが,ここで前回の記事で引用した《本書の由来 》に戻るが,石光は巧妙に
 
この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。
 
と,柴五郎に《校訂を依頼された》ことにしてしまった.校訂とは,文書に異本がある場合に比較検討してテキストを確定するなど,文章の添削や不具合の指摘をする以上のことを含む行為なのである.柴の原稿には異本がないから校訂のしようがないのだが,添削を校訂と言い換えることで,石光は大胆不敵なことを始めた.
 そこで,これに続く箇所を《本書の由来 》から再度引用しよう.
 
筆写を許されたこの文書は半紙に細字の筆で書かれていて、題名も署名もなかった。初めて読む者にとっては、内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞き取ったものを補足して整理したものである。
 
 この箇所を読むと,石光真人著『ある明治人の記録』は,柴五郎の依頼を受けて,柴の草稿を石光が整理したもののように受け取れる.ところが違うのである.
 この記事の冒頭に戻るが,《本書の由来 》には重大な撞着がある.それはこの後にある《当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが 》である.
 柴五郎が没したのは昭和二十年 (1945年) 十二月十三日であるが,当用漢字が内閣告示されたのは翌昭和二十一年 (1946年) 十一月十六日である.ということは,
 
翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略した。
文体は草稿の調子と明治の雰囲気を崩さないようにリライトして統一し、
当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが、
一方、読みやすさを考えて、仮名にできる漢字は仮名にし、また仮名遣いは現代風に改めた
 
は,柴五郎が没した二十五年後に,柴の許可なく行われたのである.すなわち,上の《 》に挙げた作業は,柴五郎の添削依頼とは無関係の,昭和四十六年 (1971年) になって石光が中公新書の一冊として『ある明治人の記録』を出版する際に行われた編集作業なのだ.つまり柴五郎は石光真人が『ある明治人の記録』に何を書いたか,知らずに亡くなったのである.
 この石光真人の勝手な行為の中でも,特に暴挙と言うべきは,柴五郎にとって如何ほどに大切な思い出であったかも知れぬ《身辺の些細な記憶 》や《幼時に親しんだ人々 》についての記述を削除したことである.この乱暴狼藉により,『ある明治人の記録』は,明治人柴五郎の回想録としての価値を失ってしまった.
 また,文は人也,文体はその人そのものである.それを勝手に《リライト 》するなど許されるものではない.
 さらに,石光の《振り仮名 》は,著しく低レベルであり,例えば浅草寺に「せんそうじ」とルビを振っている.どこの世界にこれを「あさくさでら」と読む馬鹿がいるか.
 さらにさらに,『ある明治人の記録』の第一部を読むと,本文 (ほんもん,テキスト) とは別に書かれるべき多数の「註」を,あろうことか本文中に,括弧に入れて挿入してしまったことがわかる.これは,石光真人が,新聞社出身でありながら校訂の仕方を全く知らないことを意味している.その程度の知力でよくまあ《校訂を依頼された 》と嘘を書いたものだと呆れる他ない.

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2018年11月18日 (日)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 11)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 10) 》で,Wikipedia【カレーライス】が,《大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》という記述の出典として,ハウス食品の企業サイトを記載していることを書いた.
 ところが,ハウス食品のサイトには,たった一行,《陸軍幼年生徒隊の食事、土曜日の昼食はライスカレー 》と書かれているだけであり,これは歴史的なことを調べる際の資料としては全く使えないものであった.すなわち Wikipedia【カレーライス】は,記述の出典として不適切なものを出典だとして記載していたことが判明した.
 だが,これで行き詰ったかというと,そんなことはなくて,実は小菅桂子『カレーライスの誕生』((講談社学術文庫,Kindle 版の位置 No.130-135) に陸軍幼年生徒隊の土曜日の昼食はライスカレーだったとの記載があるのだ.それを以下に引用する.
 
この時代に軍隊ではすでにカレーライスを採用している。『ある明治人の記録』(石光真人編著、中公新書、一九七一年) が伝えてくれる。この本の主人公柴五郎は山川健次郎とおなじく会津の出身、上級武士の五男として生まれているが、祖母、母親、姉妹は会津戦争の際に自決、柴五郎は落城後は捕虜として江戸に収容され、後に下北半島の火山灰地に移され悲惨な日々を過ごしている。柴の残した記録には「ただひとすじに自ら生活し得る道を求めて、あえぎあえぎ月日を送り」とあるが、その後、彼は陸軍大将、軍事参議官まで務めることとなる。
 その柴五郎は明治六 (一八七三) 年に陸軍幼年生徒隊 (のちの陸軍幼年学校) の第二期生として入学し、ここでライスカレーと出会っている。一五歳のときである。幼年生徒隊は陸軍兵学寮の管轄で教官はすべてフランス人、日本人は校長と次長、助手と通弁だけであった。当然食事は洋食である。「スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す」。この西洋風の生活や食事について柴は「同僚の多くは、この生活を窮屈なりと嘆き、食事を不味しと不平いうも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し」と書いている。

 実に整然とした記述である.しかし我が国のカレーライスのルーツ問題は,これで一件落着か.というとそんなことはないのである.
 というのは,小菅桂子『カレーライスの誕生』には誤りが多々あることからすると,石光真人編著『ある明治人の記録』に直接あたって確認してみないと,よかったよかったとはならないのだ.
 そこで『ある明治人の記録』を調べてみた.すると,同書の p.117 に当該の記述《食事もまた洋食にて、スープ、パン、肉類なり。ただ土曜日の昼食のみ、ライスカレーの一皿を付す。同僚の多くは、この生活を窮屈なりと嘆き、食事を不味しと不平いうも、余にとりてはフランス語以外は、まことにもって天国に近し。》がある.
 これすなわち,複数の日本人に継続的に食事としてカレーライスが提供されたと明記された最初の例である.これで高木兼寛による海軍兵食の改善が日本のカレーライスのルーツであるとする横須賀市当局と横須賀市内のカレー屋たちの主張は否定される.
 しんどい調査だったなあと振り返りながら私は,『ある明治人の記録』の前書きに相当する《本書の由来 》を読んだ.そして驚きのあまり,安楽椅子からへなへなと転げ落ちたのである.
 
 さて本書は「第一部 柴五郎の遺書」と「第二部 柴五郎翁とその時代」の二部構成である.第一部は,柴五郎が執筆した文章を石光真人が編集したもので,第二部は石光真人の著作である.
本書の由来 》から下に抜粋引用する.
 
この書は柴五郎翁が、死の三年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。その折、特に筆写保存を許され、さらに内容について数回お話をうかがった。……(中略)…… 本書の内容は、お読みくださる以外に、これを短文で説明することは不可能である。筆写を許されたこの文書は半紙に細字の筆で書かれていて、題名も署名もなかった。初めて読む者にとっては、内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞き取ったものを補足して整理したものである。翁にとっては懐かしい少年期の思い出であっても、本書の本筋から離れた単なる身辺の些細な記憶に類するものは割愛し、また翁の幼時に親しんだ人々でも重要な役割のないものは省略した。記憶ちがいと思われるもの、年月の錯誤も少数あったので、できるだけ多くの年表、史書と照合し訂正したつもりであるが完璧とはいえない。
 文体は草稿の調子と明治の雰囲気を崩さないようにリライトして統一し、読みやすくするように努めた。当用漢字にないものが多く、振り仮名をつけたりしたが、一方、読みやすさを考えて、仮名にできる漢字は仮名にし、また仮名遣いは現代風に改めた。地名は現在は変わっているのが多いが、あえて訂正しなかった。叙述の順序も前後したものが多かったので特殊なもの以外は年月を追って整理しなおした。
 死を前にして翁は、本文の抜粋を会津若松の菩提寺恵林寺に納め、門外不出とした。会津戦争の犠牲となって同寺の墓地に眠る肉親の菩提を弔うためと推測される。したがってこの文書は、弾劾警世を意図して綴られたものではなく、肉親、藩士一同とともに、葬り去られた歴史の一節を密かに菩提寺に葬り、いつかは翁自らも受難の時代とともに眠りにつかれることを考えておられたのではないかと思う。果たしてその通りに、翁が生涯を賭けて護り愛して来た祖国日本が、アメリカ軍に占領されて間もなく昭和二十年十二月十三日逝去され、会津若松の恵林寺の墓所に、柴五郎少年が焼け跡から拾い集めた祖母、母、姉妹の遺骨と並んで永眠された。
 このように血涙のにじんだ貴重な文書を私に貸与され、筆写を許された理由には、永い間いろいろないきさつがあった。第二部として付加した「柴五郎翁とその時代」を読んで理解していただきたい。

 
 この引用部分には,私たちが簡単に気が付く重大な撞着がある.それは次回に指摘する.

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2018年11月17日 (土)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 10)

 一昨日の《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 9) 》には,その前日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 8) 》の補遺を書いた.
 今日は元に戻って《(海軍カレー編 8) 》の記事の末尾を再掲する.

次回も食品大企業の公式サイトのあきれた状況について書く.

 さて,再び Wikipedia【カレーライス】に戻り,《年表 》の最初の部分 (明治時代) を見てみよう.

1872年(明治5年)、北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された。また、同年にカレーライスのレシピを記した本『西洋料理指南』(敬学堂主人)、『西洋料理通』(仮名垣魯文)が出版された。
1873年(明治6年)、大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる。
1876年(明治9年)、当時、札幌農学校の教頭として来日していたウィリアム・スミス・クラークが、「生徒は米飯を食すべからず、但しらいすかれいはこの限りにあらず」という寮規則を定める。
1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる。
1889年(明治22年)、神戸居留地にあるオリエンタルホテルのカレーライスをラドヤード・キップリングが新聞「The Pioneer.」誌上で絶賛する。
1903年(明治36年)、大阪の「今村弥」(現ハチ食品)が、初めて日本でカレー粉を製造販売。
1906年(明治39年)、東京・神田の「一貫堂」が、初の即席カレールウ「カレーライスのタネ」を発売。
1908年(明治41年)、大日本帝国海軍が配布した『海軍割烹術参考書』に、「カレイライス」のレシピが載る。海軍カレーの起こり。
1910年(明治43年)、大日本帝国陸軍が配布した『軍隊料理法』に、「カレー、ライス」のレシピが載る。

 明治五年に《北海道開拓使東京事務所でホーレス・ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供された 》とのことであるが,これは外国人が食べたのであるから,日本のカレーライスのルーツとは無関係な話である.
 しかし《当時の表記はタイスカリイ 》がちょっと気になる.
 江戸でも明治でもそれ以後の時代でも,耳から聞いた音をそのまま片仮名に移すことはよく行われた.例えばヘボン式ローマ字の考案者 James Curtis Hepburn の Hepburn は確かに「ヘボン」であって,これを「ヘップバーン」と発音したら誰のことやらわからない.昔の人の聴覚は正確だったんだなあと感心する.(脚註*)
 とすると,《タイスカリイ 》とは一体何だ.アメリカ英語でもイギリス英語でも「ライスカレー」という言葉はないからである.ホーレス・ケプロンが「ライスカレー」と言った可能性はゼロである.その上,しかも,「タ」と「ラ」では発音が違い過ぎる.従ってこれは何かカレーライスではない他のものだと思われる.
 そこでホーレス・ケプロンが何を食べたかを検索してみたところ,その献立が,北海道立文書館所蔵の『開拓使公文録』に載っていることがわかった.そしてその献立を撮影した画像がネット上のあちこちに散乱している.例えばこれ.  
 その画像を見ると「タイスカレイ」と書かれている.つまり Wikipedia【カレーライス】に《当時の表記はタイスカリイ 》とあるが,この部分の執筆者は『開拓使公文録』の原文を読んでいないことがわかる.原文を調べずにネット記事を孫引きし,そして正確な孫引きならまだしも,「タイスカレイ」を「タイスカリイ」と間違って転記したのがあからさまである.まったくもって話にならぬ.
 さて年表は次に《大日本帝国陸軍の幼年学校生徒隊食堂の昼食メニューに、ライスカレーが加えられる 》とある.
 これが事実なら,これこそは日本のカレーライスのルーツだ.
 そこで,Wikipedia【カレーライス】のこの記述の出典だと記載されている《カレーの日本史 明治時代 - ハウス食品 》を閲覧してみた.すると,そこにあったのは,たった一行の記述であった.
20181117a
 
 この短すぎる記述には,典拠が書かれていない.Wikipedia【カレーライス】を読んだ者が,このハウス食品のウェブページを閲覧しても,これが本当か否か,確かめる術がないのである.よくもまあ Wikipedia【カレーライス】はこんなものを堂々と出典であるとしたものだ.情けなくて涙がでるくらいだ.
 情けないのは Wikipedia だけではない.ハウス食品は食品製造業である.食品製造業というものは,仕入れた原料,例えば小麦粉に関する「201*年の米国産小麦で,これが西海岸○○港から穀物輸送船××丸に積まれて横浜港に輸送され,△△製粉の□□工場で製粉された」などの情報が,消費者から要求されたらたちどころに回答できるようになっている.そのような生産関係情報をトレースする (辿る) システムを有していなければならない.

 ところが,ハウス食品の公式サイトは,カレーライスのルーツに関する情報を,消費者が収集する際のトレーサビリティを途中で遮断している.これは製造業の企業ウェブサイトとしてあるまじき行為である.
 
------------------------------------ 
(脚註*) 似たような例で「ギヨエテとは俺のことかとゲーテ云い」という文句が知られている.これは斎藤緑雨の言葉であるとされており,Wikipedia【斎藤緑雨】には次のように書かれている.
警語
その常識に捉われない機知は、1903年(明治34年)1月から1903年(明治36年)7月まで萬朝報・読売新聞・二六新報などの新聞に発表された「眼前口頭」をはじめとするアフォリズム集によくあらわれている。
" 按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし "
"ギヨエテとは おれのことかと ゲーテ云ひ"

 ところがこれが根拠のない話らしい.東京ゲーテ記念館の公式サイトに,斎藤緑雨の言葉であるという根拠はないと書かれている.ここでも Wikipedia は根拠のない記述をしているわけで,これはもう Wikipedia の体質であり,根本的欠陥だとしていいだろう.

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