冥途の旅の一里塚

引退老人がトボトボと散歩したり旅します.

2018年10月 7日 (日)

マッカーサーの朝食

 このブログの更新が滞っていた時期のことだが,横浜港周辺を散歩するツアーがあったので参加してみた.

 某月某日,桜木町駅に集合したツアーの参加者は私を入れて五人だった.男は私ひとりで,残りの四人は女性である.あとでわかったのだが,その四人のうちで私より若いかたは一人だけだった.
 この街歩きの前に参加した芦田愛菜ちゃんのライブを観るツアーも女性ばかりだった.爺さんたちはどこにいるのだろう.
 この五人の参加者に,街歩きガイドさん (かなり御年輩の女性) とツアーコンダクタさん (若い女性) が同行する.
 まずは練習船「日本丸」が係留されているドックまで行き,ガイドさんの説明を受けた.このガイドさんは資料を入れたかなり分厚い透明ポケットファイルを持っていて,たった五人の私たち参加者は,その資料集を覗き込みながら説明を聞いた.耳から聞くだけではないので,大変にわかりやすい.人数が少ないことは,色々と行き届いて,参加者にとってはありがたいことだが,旅行代理店は,社員の人件費を計算に入れると赤字に違いない.しかしこれはたぶん所謂「健全な赤字」であって,いくつかの大手旅行代理店が,講演会とか街歩きとかの企画を充実させるマーケティングを行っているのは,それが海外や国内のツアーによい効果を与えるからだろう.
 
 みなとみらい地区に係留されているこの練習船は,正確には「初代日本丸」である.山下公園に固定されている「氷川丸」と共に,昭和という時代を今に伝える記念碑的船舶だ.ほぼ一ヶ月に一度,帆を上げて帆船としての雄姿を横浜市民にお披露目しているが,実をいうと私はまだ帆を上げた日本丸の姿を見たことがない.死ぬ前に一度,見ておきたいものだが,両船とも,いつまでもあるとは限らぬ. 
 この日は,「日本丸」の目の前にある「横浜みなと博物館」は休館日だったのでスルー.
 ここから遊歩道「汽車道」を辿り,「赤レンガ倉庫」に立ち寄った.倉庫前の広場では何もイベントをしていなかったが,しかし人生の残り時間がまだ五十年以上はありそうなカップルの若い人たちが,食事なのかショッピングなのか,大勢いた.
 私の残り時間はあと十年あるかないか.山田風太郎が『あと千回の晩飯』(角川文庫) に収められたエッセイを発表し始めたのは七十一歳の時だった.《晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う》とエッセイの冒頭に書いた風太郎は,実際にはもう少し飄々と長生きして,享年は七十九であった.
 同じ勘定をすると,私はあと三千回の晩飯を食うことになるわけで,三千回も食うのかと思うと,まだ当分は死なないという気がしてくる.実は十年なんてあっという間だと思うけれど.
 閑話休題.「赤レンガ倉庫」から「象の鼻テラス」は,ほんの少しの距離だ.この公園にある「象の鼻カフェ」でトイレ休憩と,水分補給.
 次に「ジャックの塔」と呼ばれている開港記念会館へ行き,入館してステンドグラスを見学した.この開港記念会館にはボランティアのガイドさんたちがいるので,ツアーではない一般の来館者でも詳しい説明をしてもらえる.横浜市民でもあまり知らない話を聞くことができるので,これはお勧めである.
 開港記念会館を出たところで,正午を回った.少し進行が遅れ気味だったので,ツアーコンダクターのお嬢さんは私たちと別れて,レストランへ「遅れる」と連絡するために先に昼食会場へ向かった.
 
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水の守護神像
 
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氷川丸を望む.
 
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木々の向こうにホテルニューグランドが.
 
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 ホテルの玄関で,昼食をとる予定のレストランの人と,ツアーコンダククターさんが待っていてくれた.ここで街歩きガイドさんとはお別れ.
 
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イタリアンの「イル・ジャルディーノ」エントランス
 
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 ここに写っている室内写真の窓際の席に案内された私たちのランチは,肉料理のAコースで,厚く切ったローストビーフだった.ローストビーフもよかったが,デザートのケーキ (たぶん日替わり) が出色の出来で,スイーツを好きな女性はたまらんだろうと思った.
 食事のあと,ホテル従業員のお嬢さんが,館内のガイドをしてくれた.普段は別の仕事をしているだろうこのお嬢さんは,まだホテルに就職したばかりという感じの初々しい娘さんであった.
 彼女は,ちらりちらりと資料に目を遣りながら,時々絶句したり,漢字を読み間違ったりした.しかし私たちは,彼女の絶句をにこにこと見守り,誰も彼女の誤読を訂正しなかった.ツアー参加者にとってみれば彼女は孫みたいな年頃だからである.漢字の読みなんかは,どうせいずれ先輩が教えてくれるに違いない.若い娘さんというものは,それでいいのである.男だったらびしびし指摘するが.おいおい.w
 
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中庭の噴水
 
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 中庭にはイル・ジャルディーノのテラス席がある.希望すればここで食事できるという.

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 ホテルニューグランド旧館は,エントランスを入るとすぐに階段があり,階段を上がったところに昔はフロントがあったという.
 その旧フロントに向かって右側奥に「レインボーボールルーム」が,左側の突き当りに「フェニックスルーム」がある.
 大正十二年 (1923年) の関東大震災で瓦礫と焼け野原の街となった横浜に,復興のシンボルとしてホテル建設の構想が立てられた.その中心となったのは当時の有吉忠一市長だった.彼は今で言う第三セクター方式で資金を調達し,昭和二年 (1927年) 十二月にホテルニューグランドは開業した.
 ホテルの名称を市民に公募したところ,最後まで残ったのは「ニューグランド」と「フェニックスホテル (ホテルフェニックスかも知れない)」だったそうである.
 結局震災以前に山下公園の前にあった横浜を代表するホテル「グランドホテル」を蘇らせる意味で「ホテルニューグランド」が採用されたのだが,横浜復興の象徴としては「フェニックス」も捨てがたいとして,宴会場の名に遺された.
 
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フェニックスルームのドアの上に掲げられているルームネームプレート
 
 下の写真は,もう一つの宴会場「レインボーボールルーム」の前の柱に接して置かれた開業以来の椅子であるが,これは腰かけると幸せになるとかいうパワースポットなんだそうである.そろそろお迎えが来る歳になって今更ではあるが,寝たきり防止に効果があるかも知れないから,私も腰かけてみた.
 
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 二階を案内してもらったあと,ホテル側のガイド嬢としばし質疑応答.
 私は例の「マッカーサーズ スイート」は見せてもらえるのか問うたところ,「マッカーサーズ スイート」は,ほぼ通年,予約がぎっしり入っているので,まず部屋の中を見ることはできないとのことだった.続いて宿泊料金を訊いたら,一泊三十万円近いという.
 戦後,厚木飛行場に降り立ったマッカーサーは,東京に行く前にここで三泊しているから,今かつてのマッカーサーと同じことをすると,百万円近く要することになる.

 マッカーサーは戦前,ホテルニューグランドに二度滞在したことがあり,そのうちの一度は新婚旅行だった.そんなことから,お気に入りのホテルであったと思われる.厚木で占領声明を読み上げたあと,どこに行くかと指示を聞かれたマッカーサーは「ホテルニューグランドへ」と答えたそうだ.
 ちなみに,マッカーサーがホテルニューグランドに到着し,ホテルを米軍が接収した日の彼の夕食は,貧しい魚料理だったそうだ.戦後は東京も横浜も,都市部は極度の食糧危機の状態にあり,ホテルはとてものことに食事を提供できる状態になかった.それでも占領軍司令官に何とか一皿を出したのだが,元帥は一口食べて,あとは残したという.それほどに粗末な料理しか出せなかったレストランのシェフの心中は察するに余りある.
 そのときマッカーサーは,翌日の朝食の卵料理に注文をつけた.それはサニーサイドアップを二つと卵一つのスクランブルドエッグであった.指示を受けたホテル側は,必死に卵を探したが,卵は一つしか手に入らず,しかも朝食には間に合わなかった.
 その日の昼,皿に載せられた僅か一つのサニーサイドアップを見たマッカーサーは,シェフを呼び,一個しかない理由を問いただした.シェフは,命令を受けて必死に卵を探したが,これしか入手できなかったと答えた.
 このエピソードは,現在のホテルニューグランドが用意している宿泊客向けパンフレットには記載がなく,次のように書かれている.
 
ホテルニューグランドでマッカーサー元帥を迎えたのは、当時の当ホテルの会長、野村洋三でした。野村は、マッカーサーに何のおもてなしもできないことを心から詫びるとともに、日本の窮状を流暢な英語で訴えました。横浜全域が空襲で焼失したこと、老人や女性、子供たちが食糧難にあえいでいること、また市民の不安など…。野村の言葉に、マッカーサー元帥は気軽に耳を傾けたそうです。そして、かつては日本を代表したホテルが扇風機ひとつ、ハンバーガー一つ用意できない惨状からも市民の窮状を察したのでしょう。数日後には、横浜市民のための大量の物資を用意してくれたといいます。
 
 しかし上述したマッカーサーがオーダーした朝食の卵料理のエピソードは,ガイド嬢が持っていた内部資料には書かれているようで,彼女の口から聞くことができた.おそらく事実であろう.
 伝聞でものを書くブロガーの常であるが,このブログ《マッカーサーの目玉焼き 》は,次のように話を大盛に盛っている.
 
《「無いんです。横浜中を探し回りましたが、この卵ひとつしか手に入りませんでした。」
この瞬間、マッカーサーは日本の置かれている悲惨な状況を、正確に把握したと言われています。
成人男子の必要な栄養は1日約2500カロリー。
終戦直後の栄養摂取量は
一日わずか1200カロリーにしか満たない状況であり、
町中に栄養失調や餓死者が溢れていました。
『横浜中を走り回って、たった一個の卵しか手に入らない・・・・・・』
マッカーサーは、この日本の悲惨な食糧事情について、すぐさま本国に報告書を送り、わずか三日後には軍艦より大量の食糧が陸揚げされることとなりました。
『即決の人』マッカーサーに判断をうながした一皿の目玉焼き。
そんなエピソードです。

 どこから写したか知らぬが,このブロガーは,戦後日本の食糧事情と栄養学をもう少し勉強したほうがいい.一日に 1,200kcal も摂れれば《町中に栄養失調や餓死者が溢れ 》るわけがない.医師から誤ったエネルギー制限食事療法を指示された糖尿病患者には,このくらいのエネルギー摂取で暮らしている人たちが日本中にゴマンといるのである.それから,マッカーサーが所望した卵は三個だからね.コピペする時は信用できそうなブログから剽窃するように.w
 また,別のブログ《平和への一歩?…》には,こんなことが書いてある.
 
マッカーサーは料理人を呼び出し問いただし、帰ってきた答えは
『私は将軍(マッカーサー)から命令を受けてから今まで八方手を尽くして、ようやく卵をひとつ手に入れることができました。』
と答えたのです。
その瞬間マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分のためすべき
〈原文のママ〉仕事を理解したと言われています。
つまり、日本がポツダム宣言を受け入れ、ようやく平和な世の中になりつつあるこの状況で卵1つ手に入れることも困難な世の中なのだということを痛感させるエピソードでした。
ただ、これを事実として証明する関係者の証言はないみたいです。

 
ただ、これを事実として証明する関係者の証言はないみたいです 》ってあなた,事実であるという根拠も知らずにこんな話を書いていいのか.
 
その瞬間マッカーサーは、日本が現在置かれている状況と、自分のためすべき仕事を理解したと言われています。》って君,誰からそんなヨタ話を聞いたのだよ.
 
 昭和史の常識だが,Wikipedia【連合国軍占領下の日本】くらい読みなさい.
 
日本への食糧・物資援助と貸与

初期対日方針
連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:終戦処理費として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年(昭和20年)9月22日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。
1945年(昭和20年)11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の生活水準を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。1945年(昭和20年)12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と記載されている。
食料輸入禁止
占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた。
1945年(昭和20年)9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出。日本政府は、1945年産米の収穫量を5,500万石と予想し、穀類約 300万トン、砂糖100万トン、コプラ30万トン、ヤシ油5万トンの輸入を要請したが、極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。本国が大きな戦争被害を受けていたイギリスや中華民国、ソ連などは日本に食料を輸出する余裕はなく、またアメリカは世界的食糧不足で解放地域からの援助要請の殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年(昭和21年)2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
》 (下線と文字の色は当ブログの筆者による)
 
 上に引用した記述にあるように,終戦直後,マッカーサーも米国政府も,日本に食糧支援する気はさらさらなかったのである.それどころか,日本政府の食糧輸入を禁止したのであった.
 しかし占領開始翌年の二月になって,ようやく日本の危機的食糧事情を理解したGHQは,方針転換に踏み切った.再び Wikipedia【連合国軍占領下の日本】から引用する.
 
米国からの食糧輸出解禁
1946年(昭和21年)2月、GHQは日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧配給制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」とアメリカ政府に抗議した。3月にアメリカの農務長官クリントン・プレスバ・アンダーソンの特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年(昭和21年)5月から10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、68万トンの食糧が輸出されることになった。

 
 GHQの方針転換と,日本政府の食糧輸入を禁止する米本国政府の占領政策に対する抗議が受け入れられたのは,言うまでもなくこの年の五月の《食糧メーデー》の結果である.宮城前広場に二十五万人が集結して食糧要求を訴える集会を行った翌日,占領政策の修正を決断したマッカーサーは,吉田首相に対して,アメリカが日本に食糧支援をすることを約束したのであった.従って,マッカーサーがホテルニューグランドに滞在したときの目玉焼きが,戦後の食糧支援を決定づけたなどというのは,大嘘なのである.ホテルニューグランドのパンフレットが,マッカーサーの朝食の話に触れていないのは,世間に流布しているこの嘘話に加担せぬための配慮だと思う.
 上に挙げた二つのブログ,《『即決の人』 》とか《すべき仕事を理解した 》などと,知りもせぬことについて見てきたような嘘を広めてはいけない.反省しなさい.
 
[追記]
 ホテルニューグランドの見学が終わってツアーが解散したあと,私はホテルのショップで,お土産にクッキー (Sサイズ) を買った.このクッキー,あまり知名度は高くないが,安くてなかなかおいしいので,特にここに記しておく.

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2018年7月21日 (土)

黒糖焼酎を買いに

 大正八年生まれだった私の父親は島倉千代子のファンであった.
 貧しい生活だったから昔の言葉の「ステレオ」なんかはなくて,ラジオから流れる島倉千代子の歌声に聞き惚れる程度のファンではあったが.
 島倉千代子の歌謡曲歌手としてのデビューは昭和三十年 (1955年) 三月,十六歳のときであった.デビュー曲は『この世の花』で,島倉千代子と同世代であり,かつ時代の同伴者であった美空ひばりを凌ぐ早熟の歌唱であった.
 その島倉千代子の生涯の代表曲の一つが昭和三十二年 (1957年) の『東京だョおっ母さん』である.彼女はまだ十九歳であったが,レコード売上枚数は百五十万枚といわれた.
『東京だョおっ母さん』の歌詞は宮城と靖国神社,浅草寺を詠み込んだものであるが,昭和天皇の戦争のために人生の大切な時期を失った私の父は,島倉千代子のファンではあったが『東京だョおっ母さん』を口ずさむことはなく,生前遂に宮城と靖国神社を訪れることはなかった.
 私は骨の髄から戦後民主主義者であり,反昭和天皇であったから,齢六十八のこの歳まで,皇居と靖国に足を踏み入れることはなかったのだが,昨日,とうとう皇居の中に入った.主義,心境の変化があったわけではない.皇居の中でしか買えない特製焼酎を飲みたかったからである.牛にひかれて善光寺参りだ.ヾ(--;) チガウ

 宮内庁は一日に二回,皇居一般参観 (ガイド付きツアー) を実施している.各回,事前申請手続の定員が二百人,当日受付の定員が三百人となっているが,さすがに季節がよくないので,昨日の午後一時過ぎに「桔梗門」前に集合した参加者は,おそらく三百人くらいで,定員に達する程の数ではなかった.
 桔梗門前で職員に手続きをすると,まとまった人数ごとに係員に案内されて,門をくぐり,待機場所である窓明館まで行く.

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 ここには大きなディスプレイがあって,参観コースの凡そを見せてくれている.さらにツアーガイドから日本語と英語で参観の際の注意事項が説明された.日本語ガイドと英語ガイドの二つのグループにわかれて参観するのである.
 英語のガイド (女性) は日本人ではなく,発音を聞くとネイティブスピーカーでもなく,もしかすると中国人観光客に対応するために中国語もできる人なのかも知れない.いかにも東洋人的な英語だった.
 参観出発は 13:40 だが,それまでの時間は「窓明館」の奥にある売店でお土産をどうぞとガイドが言うので,というか皇居土産が目的である私は勇躍して売店に行った.
 売店はとても狭く,JR駅構内のコンビニよりずっと小ぶりの店舗であったが,驚いたことに,ここで買い物をする参観客はほんの一握りで,ガラガラなのであった.多分,窓明館でしか買えない土産物の購入が目当てでやってきたのは私だけかも知れないと思った.
 で,買ったのは長期保存奄美黒糖焼酎「御苑」,桐紋入りの打ち菓子,菊紋のタオルハンカチと同じく菊紋の夫婦箸である.焼酎は自分用だが,あとは人様に差し上げようと思ったものである.
 
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 黒糖焼酎「御苑」は宮内庁生活協同組合が発売元で製造元は町田酒造 (鹿児島県大島郡龍郷町) である.価格は二千六百円 (720ml) で,私が日頃飲んでいる焼酎 (1800ml の紙パック) や泡盛が千五百円前後だから,私にしてはかなりの高級酒である.もったいないから正月に開封することにした.

 さて参観に出発した日本語ガイドのグループは二十人くらいの少人数だったが,若いカップルと三十過ぎと思われる男を除くほぼ全員が高齢者であった.
 また,高齢者の女性が,もはや歩くのが困難な自分の母親を車いすに乗せているという二人連れが三組であった.
 この車いすの女性たちが大変に不届きな連中で,急に進路を変えたり,追突してきたりするので,この連中から距離をとって参観コースを歩く必要があった.その中の一組が,窓明館の出口で私のアキレス腱のあたりに車いすをぶつけてきて,私が「痛っ」と声を上げて転倒しそうになったのに,無視して通り過ぎて行った.
「失礼じゃないかっ」
と声を荒げたら
「あらそうですか?」
と言って,この馬鹿女はソッポを向いた.参観のしょっぱなから実に腹の立つことであった.

 さて参観コースは,窓明館から出ると「皇宮警察本部」(↓) の建物を右に見て左に進む.

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 幕府の命により実際に江戸城を建設したのは,石垣や櫓などの工事を分担したり石材を提供した大名たちであるが,各藩は家紋を石垣に残しているのだそうである.東京に高層ビルがなかった時代には富士山が望めたであろう「富士見櫓」の手前,桔梗門脇にある石垣には,丸に十の字の島津藩の紋が刻まれていた.(画像の黄色い↓の位置)

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 富士見櫓 (↑) を通り過ぎた正面に宮内庁 (↓) がある.戦後の一時期,この建物の最上階が宮殿に転用されていたことがあるそうだ.

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 ここを左に進むと,左手に坂下門,右手に割と急こう配勾配の「塔の坂」がある.
 
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 塔の坂を上がったところが宮殿東庭で,正月の参賀はこの東庭に面した長和殿に設けられるガラス張りのベランダで皇族の皆さんが「お手振り」をされる.テレビ報道を見るとベランダは高い位置にあるような印象だが,実際は低いところにある.
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 参観ガイドはライトグレーのシャツを着た宮内庁の職員 (帽章は桐) だが,皇居内の要所要所にライトブルーのシャツを着用した皇宮護衛官 (帽章は桜) が歩哨に立っている.日頃の厳しい訓練に耐えている護衛官は大したもので,この日の猛暑炎天下にもかかわらず,シャツに汗染み一つないのであった.

 進路の途中あちこちでガイドが「ここは左側を歩いてください」などと参観者たちに注意を促すのだが,その中の三十過ぎの男が無視して右側に行こうとした途端,近くにいた護衛官の裂帛の「ヘイッ!」という叱責 (参観者は外国人が多いから「ヘイッ」なのであろう) が響き渡った.ガイドの宮内庁職員はソフトな人物の印象だったが,護衛官は極めてハードなのであった.
 宮殿東庭を過ぎると参観コースの折り返し地点「正門鉄橋 (いわゆる二重橋) 」である.
 二重橋の名の謂れと沿革は Wikipedia【二重橋】に譲る.
 そこら辺の知ったかぶりブログに「二重橋は正式名称正門鉄橋を指し,正門石橋のことだと誤解している人が多い」なんて書かれているが,「二重橋は正門鉄橋と正門石橋の総称でもある」が宮内庁の見解である.ガイドの職員さんがそう言っていた.
 ここで冒頭に書いた島倉千代子の件を回収する.
『東京だョおっ母さん』の第一連で,老いた母の手を引いた娘は二重橋 (この歌の流行した当時は実際に木造二重橋であった) を背景にして記念写真を撮る.遠い昔の記憶であるが,正門石橋前の広場には記念写真屋がいたのである.
東京だョおっ母さん』を始めとする彼女の歌唱は「泣き節」と呼ばれた.米国六十年代ポップスを代表する歌手であったコニー・フランシスの歌も泣き節と呼ばれたが,島倉千代子の震えるような泣き節は,コニー・フランシスに劣らないと私は思う.

 閑話休題
 さて正門鉄橋から振り返ると,櫓の中で一番姿が美しいといわれる伏見櫓が遠くに見える.
このあと参観客は引き返して,宮内庁の後ろ側を迂回して出発地点に戻って解散した.
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 私は再び桔梗門から外に出て東京駅まで歩いた.
 藤沢駅に戻ってカフェで休憩したあと,夕刻五時少し過ぎに,以前から気になっている酒場を訪ねた.その店は「ビストロ酒場 Del Crocus's (デル クロッカス) 」という.
 
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 店を開けたばかりであったから客は私一人であった.カウンター席に着いてシェフにハウスワインの赤と燻製の盛り合わせを頼んだところ,ややあって到着した燻製がこれ.
 
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 何と呼んでいいのかわからないが,自作の道具に金串が四本吊り下げられている.左から合鴨,ハーブソーセージ,秋刀魚そしてサーモンである.
 燻香は微かに仕上げられており,ワインの香りを邪魔することなく,なかなかいい塩梅の料理であると思った.
 シェフが「いつもはスタッフがいるんですが,みんな夏バテして今日は私一人です」と言った.
 私が「一人で来るならこの時間帯がいいですか」と訊ねると,ウチは一人のお客さんが多いから,もっと遅くても大丈夫ですと言う.そして「女性のお一人が多いです」と力を込めて言った.
 シェフは私の顔を見て,女性客が多いと言えばリピーターになる客だと判断したのであろう.
 そこまで言われれば仕方ない.また近いうちに来ることにしよう.ヾ(--;)

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2018年6月26日 (火)

初めての台湾 (八)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】
 
* 前回の記事《初めての台湾 (七)
 
 ツアー三日目は,台湾鉄路管理局平渓線の終着駅である菁桐駅 (Wikipedia【菁桐駅】) まで団体バスで移動し,ここからローカル線の乗車体験をする企画だ.
 
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 行先は十分駅だ.九份は「份」で,十分は「分」だが,意味というか歴史というか地名の由来的に関係があるらしく,現地ガイドRさんが説明してくれたが,忘れてしまった.ヾ(--;)
 十分駅で何をするかというとランタン飛ばし (天燈上げ) だ.平渓線は運行がまばらなので,観光客は線路に立ち入り,ランタンを飛ばして遊ぶのである.
 十分駅の線路沿いには商店が立ち並んで,Wikipedia【十分駅】 に
 
線路沿いの飲食店・民芸品店・ランタン店は合わせて140軒あり、これらは線路すれすれの場所に位置しており、列車入線時には写真を撮る人や手を振る人で賑わう。
 
と書いてある通りの賑わいだった.
 
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 ぶらぶら見物しながら歩いていたら,商店街のはずれに縁日屋台的な店があった.その店の食い物がとても旨そうだったので,私は朝飯を食って間もないのに買い食いしていたら,添乗員のSさんもその店にやってきて,この店,おいしいんですよ,と言った.
 Sさんは台湾の仕事が多いのだそうで,台湾のB級グルメは詳しそうであった.
 
 さてランタン (天燈,天灯,スカイランタンとも) は下の写真のごときビニール風船的熱気球で,Wikipedia【天灯】によれば,本来は紙製のようだが,私たちが飛ばしたのはビニールだった.紙では使い捨てになるが,観光業者は,飛ばした気球を回収して使い回しすることと,安全性 (紙製の天燈は火災の原因になるだろう) に配慮しているのだろう.
 
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 ということなのだが,ランタン飛ばし自体は大の大人がおもしろいと喜ぶようなものではない.夜に,大勢で一斉に飛ばしたら,きれいな光景かも知れないが.
 
 この日は天気が悪く,十分にいた午前中はまだ雨が降ったり止んだりしていたが,その次に向かった基隆中正公園あたりから本降りになった.
 雨のせいか基隆中正公園には人影はなく,その次は野柳地質公園に近い野柳漁港へ行き,その波止場に面した海鮮料理店で昼食をとり.それから野柳地質公園を見学した.
 その料理店はかなりカジュアル w な店構えで,レストランは二階だが,階下は魚屋であった.日本でもそういうタイプの海鮮料理店は,伊豆とか三浦半島の漁港でお目にかかる.海鮮は鮮度が命だから,魚屋がやっている店はたいてい美味な料理を出すものと決まっている.(私の普段の行動範囲にも,茅ヶ崎,藤沢から鎌倉に至る海岸にその手のおいしい店がある)
 で,この海鮮料理店での昼食でも,例のAが「甲殻類は気持ち悪くて食べられないので,私の分を誰か食べてください」攻撃をぶちかましてくれた.
 円卓に次々と料理が運ばれてくると,真っ先にターンテーブルを回して,一番の御馳走である大きな清蒸魚 (団体の会食用に,店員さんが切り分けてくれた) を自分の取皿に取ったり,無作法放題の挙句にようやく前菜の皿を手前に持ってきて
「だーれー? 前菜取り過ぎたひとはー これじゃ私の分が少ないじゃない!」
と放言した.前菜を最初に取らないお前さんのマナーが悪いのだよ.
 話は先に飛ぶが,この日の夕食を食べた広東料理店でも同じで,山盛りのエビ料理に誰も手を付けないという珍事が起きた.エビは気持ち悪いと何度も言われりゃ食欲は失せようというものである.願わくばAにエビの呪いがかかりますように.
 
 さて食事後,野柳地質公園に入ったのだが,台風並みの荒天で,海からの風が強くて傘を両手で差していたので写真が↓しかない.orz
 
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 写真が撮れなかったのは残念だが,ネットにはほかの人がたくさんの写真を掲載しているから,それでよしとする.ヾ(--;)
 
 強風と雨の野柳地質公園を後にして,台北に戻り,龍山寺行天宮に参詣した.
 
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 いずれも大層な人出で,にぎやかであった.ツアーメンバーの中の若いお嬢さんたちは,現地ガイドのRさんから,龍山寺の恋愛の神様「月老神君」 の前で台湾式御神籤のやり方を教えてもらった.せっかく教えてくれたのだが,もはや恋愛に縁のない私はやり方をもうすっかり忘れた.でもネットを参照すれば方法は出ているから,それでよしとする.ヾ(--;)
 
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 ホテルに帰った三日目の夜,私はどこにも出かけずに,残ったウイスキーを部屋で飲んで寝た.
 
 さて最終日は台北滞在は午前中だけなので,観光はせず御土産を買うのに充てられている.DFSとかなり大きい土産物店と,「茶楽」というお茶屋さんだ.
 DFSはブランドものばかりなので私は無縁.茶楽では中国茶の淹れ方セミナーを受けて,そのあとショッピングした.私の後ろを日本語ペラペラの婆さん店員が密着して離れず,あれをどうだこれはどうだと喧しく,とうとう押しの強さに負けてプーアル茶を買った.
 
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 そのプーアル茶は直径 11cm,厚さ 2cm ほどの円盤状に固めてあり,円盤一個がおよそ日本円で二千円で,六個入りだ.万円を超すから土産として安くはないが,茶としては日本の高級な煎茶よりずっと安いし,少量で何度も (色がでなくなるまで,と茶楽の店員さんは言っていた) 淹れられるから,日常茶の部類だと言ってもいいだろう.正直を申し上げて,これはよい買い物だった.柔らかな風味の飲みやすいプーアル茶で,私はそこら辺のウーロン茶よりも旨いと思う.現在もまだ愛飲し続けているが,横浜の中華街で入手できるならまた買いたいと思う.
 買い物のあとは空港へ行き,搭乗前にSさんやツアーメンバーとお別れ.成田到着後は自由行動の流れ解散となるからである.
 さて次回の旅行はいつになるか.秋までは南の方へはしんどいから行かない予定である.
(了)

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2018年6月22日 (金)

初めての台湾 (七)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】
 
* 前回の記事《初めての台湾 (六) 》 
 
 九份 (Wikipedia【九フン】) までのバス車中で,現地ガイドのRさんが九份という古い町の歴史を話してくれた.旅の途中で感じたことだが,美人のRさんはとても賢い人でもあるらしく,バス車中ではずっとマイクを放さないで喋り続けているが,台湾が日本の植民地であった時代のことに触れざるを得ない時でも,上手に「植民地」とか「統治」という言葉を避けてガイドをした.
 クラブツーリズム添乗員のSさんとは仕事で旧知の間柄らしく,SさんはRさんの人柄を手放しで褒めるのだった.Sさんも仕事のデキる添乗員だったから,このツアーはいい旅であった.メンバーが女性ばっかりだったし.ヾ(--;)
 さて Wikipedia【九フン】にも書かれていることだが,九份はかつて金を産出する鉱山の町で,日本統治時代に最盛期を迎えた.
 台湾出身で最も有名な歌手の一人である一青窈の父は,九份の金鉱経営で成功し,台湾五大財閥の一つに数えられた顔一族の長男・顔恵民であった.
 金鉱は第二次世界大戦後に採掘量が減り,1971年に金鉱が閉山されてから九份は寂れたが映画『悲情城市』のロケ地になったことをきっかけに観光地化に成功し,現在は台湾を代表する観光地である.
 
 その九份観光について書かれたブログを覗くと,「九份」と書く人もいるし「九份老街」と書いている人もいるが,混乱している人もいる.「老街」は固有名詞ではなく“old town”の意だから「九份老街」は間違いではないだろうが,地域の呼称としては少し広いかも知れない.
 そこら辺の的確な解説はないかと検索したら,《基山街》というウェブコンテンツに,
 
基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります。平均3メートルに満たない幅の曲がりくねった細い老街です。「基山」とは「基隆山」のそばにあることを意味し、基隆山のふもとの古道から山沿いに曲がり道が続き、大竿林地区で軽便路と合流します。全長は850メートルにも達し、古くは「暗街仔」と称されました。
 
基山街の歴史は明治38年(1905年)ごろ、基山街と豎崎路の交差点付近にいくつかの店舗が並び始めたところから始まります。大正5年(1916年)には、顔雲年が土地を提供し、台北庁が経費を負担してできた魚菜市場(現公営市場の前身)が営業を開始し、基山街の地位が確立して商店が林立しました。ゴールドラッシュの時期には、基山街は九份で最もにぎわう商店街でした。
 
九份が没落すると、基山街は3~4軒の商店しか残らないほど寂れました。そして九份が再び繁栄すると、基山街は地の利を生かしてあっという間に大商店街の活気を取り戻しました。両脇には200軒もの商店が軒を連ね、基山街は狭く曲がりくねっていますが、人の波が押し寄せ、まるで影響はありません。民国89年(2000年)に九份では「大紅燈籠まつり-媽祖を迎え、百年を慶ぶ」が催され、多くの人出でにぎわいました。そして沿道の赤い燈籠も基山街と豎崎路の主な特色のひとつとなっています。
 
バス停の表示は基山街の入口が「旧道口」、豎崎路の入口が「九份」となっています。その理由は汽車路が開通する前、九份の主要幹線は豎崎路と保甲路を通って物資を運んでおり、豎崎路が九份地区の代表だったからです。昭和12年(1937年)、自動車路(汽車路の旧名)が開通すると、交通の中心は汽車路に移り、基山街は現地で「旧道」と呼ばれるようになりました。そして汽車路と基山街の交差点は「旧道口」と呼ばれ、九份地区の生活物資の出入口となり、貨物輸送の新たな中心となったのです。

 
という説明があった.
 
 上の引用中の《基山街は九份を代表する老街の一つで、九份地区で最も商業の盛んな老街でもあります》が「老街」の意味と規模を示す良い用例だと思われる.ついでにこのサイト《九份老街日帰りの旅》は台湾観光に大層役に立つと紹介しておく.
 
 九份の街に到着してツアーバスを降りると,すぐ昇り階段があり,ここを上がって行くと狭い広場があった.
 今日の夕食会場はこの広場に面した九戸茶語だ.
 
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 添乗員Sさんが「この階段をどんどん上がって行くと,茶館やレストランが両側にあって,途中に撮影スポットもあるし,上の方の十字路で左右に曲がるとお店がたくさんありますので,夕食まで自由時間をお楽しみください」とメンバーに行動予定を説明した.
 私は単独行動したが,女性たちは数人のグループで買い物やお茶を楽しんだようだ.
 Sさんが「この階段」と呼んだのは豎崎路という細い坂道で,ここに『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆婆の湯屋のモデルであると自称している阿妹茶酒館 (阿妹茶樓) がある.日本人女性観光客必訪の店であり,それでかなり儲けていると思われるが,さすが宮崎監督は事を荒立てることなく大人の対応である.日台友好万歳.
 
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 さらに坂を昇ると,上の引用文に書かれている九份最大の商店街である基山街と交差する.街区の名称が基山街で,観光客向け案内図には“street”と書いてあったから,たぶんこの細い道自体は基山路というと思う.
 ここを左に曲がると,行けども行けども果てしなく商店が並んでいる. 無駄遣い 買い物と 暴飲暴食 飲食を楽しむつもりのない私は飽きてしまい,途中で引き返して,会食場所の九戸茶語に戻り,再集合までそこらをぶらぶら歩きして時間をつぶした.
 九份散策を楽しみたい向きには,ブログ《ぺたぺた台湾とりっぷ 》がよくできているので紹介しておく.
 
 さてそうこうするうちに陽が落ちて,広場から豎崎路の上まで張り巡らされた提灯に灯がともった.九戸茶語の周辺は異国情緒たっぷりで,台湾では女性観光客に人気のレストランの一つとされているのが納得である.
 
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 会食の献立は台湾の郷土料理だそうであるが,それほど普通の中国料理と異なるものではなかった.
 コースの中で「エビの紹興酒蒸し」が出されたのだが,昼に鼎泰豐で会食した時に「甲殻類は気持ち悪いので食べられない」と放言したツアーメンバーAが「エビは気持ち悪くて食べられないので,どなたか私の分を食べてください」とまたもや言いやがったのだ.
 同行者の中で一番御高齢と思しい上品な御婦人がツアーに参加しておられたのだが,料理が運ばれてくると,マナー知らずのAは年長者をそっちのけでターンテーブルを回し,自分の食いたいものをどんどん取って行くのであった.「エビをあげるんだから,いいわよね」と言わぬばかりの呆れた振る舞いだった.この女がいなければ最高な夕食のはずであったのだが,私は呆れつつ老酒の盃を口に運ぶのであった.
 
 夕食後は台北のホテル,洛碁大飯店・林森館に戻ったのだが,ロビーでAを除く若い娘さんたちに「飲みにでかけるのですけど御一緒しませんか」と誘っていただいた.爺さんに否やのあろうはずはなく,欣喜雀躍して彼女たちとタクシーに乗った.行先は日本人に人気のあるというパブだ.
 私はいつも紙パック入りの安い焼酎を愛飲しているのだが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.ワインメニューからおしゃれなカクテルを選び,彼女らのおしゃべりを楽しく聴いた.もちろん勘定は私持ちである.(あとでカード請求された日本円金額を見て驚いたが後悔はしてない.するもんか.うう)
 
 暫くして,一番若いお嬢さんが「また夜市にいきません?」と言うので,そうしましょうそうしましょうとタクシーをパブに呼んでもらい,ホテルに一番近い夜市に行った.
 その夜市は観光客相手というよりは地元の人たちが食事をするところらしく,固定ではない屋台が道路の真ん中にテントを張って営業していた.私は満腹だったので,ウズラ卵のフライを食べた.これは,ウズラ卵を,油を引いたタコ焼きの鉄板に手際よく投入し,衣なしの素揚げにしたものを,食べやすいように串刺しにしたものである.日本の屋台では見たことがない.調味は屋台店に備え付けのケチャップとかマスタードである.これは小腹がすいた時に二本くらい食べるとちょうどいいかも知れない.
 
 そんな風に二日目の夜は更けていったが,若いお嬢さんたちは頗る元気で,ホテルは近いから歩いて帰りましょうと言う.私はいささか疲労していたが,それをお嬢さんたちに悟られてはならぬ.元気っぽく彼女らの後を付いていき,ホテルの部屋に戻るなりベッドにぶっ倒れたのであった.
(続く)

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2018年6月15日 (金)

初めての台湾 (六)

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* 前回の記事《初めての台湾 (五) 》 

 前回の記事の終わりに《そうこうしているうちに腹が減ってきた.添乗員Sさんが,昼食は台北でも人気のレストランに案内してくれるという》と書いたが,手帳を見たら,国立故宮博物院見学のあと,昼飯の前に国民革命忠烈祠に行ったのだった.かなり前の旅行なので記憶が曖昧になっている.手帳にメモしたことを確かめながら旅行記を書かねば.

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 で,その国民革命忠烈祠は,辛亥革命から日中戦争に至るまでの,戦没した英霊を祀る祠なのであるが,衛兵交代のセレモニーが有名になって観光スポット化している.
 現地ガイドのRさんは,その衛兵交代セレモニーを解説しながら,衛兵たちを「イケメンです!」「カッコイイ!」「エリート!」を連発したが,衛兵たちは日本語でいうところの「イケメン」というより,「凛々しい」という表現が適切かと思われた.

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 なにしろ Wikipedia【国民革命忠烈祠】によれば,かれら儀仗兵は《儀杖兵の資格だが、高卒以上で犯歴がなく、身長175cm - 195cm、体重65kg±1kgが条件で、その上に厳しい訓練が課せられ、それを成し得た者のみが儀仗兵になれる》とあるのだ.

 私たちが見物したときの儀仗兵のみなさんは,身長180cmほどと見受けられたが,それで《体重65kg±1kg 》は非常にスリムな体格である.正装の軍服を着用してなおスリムに見える体格の兵士を選抜しているのだろう.
 台湾では,一般の青年たちは四ヶ月の軍事教練を受けることになっていて,教練終了後は民間に戻るわけだが,その教練期間中に儀仗兵に選抜されるのだろうか.それとも志願兵の中から選抜されるのだろうか.そして,儀仗兵は軍の中で昇進の途が開けているのだろうか.詳しいことはガイドさんに訊き損ねた.

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 ちなみにこの儀仗兵は,担当する軍が半年ごとに変わり,軍服が陸軍は深緑,海軍は夏の場合は白で冬は黒,空軍は青だという.私たちが見学したときは海軍の冬服であった.
 余談だが,軍服の色ってのは,およそ世界的に共通の傾向があるようで,陸軍はいわゆるアーミーグリーンまたはグリーン系のカーキが多いような気がするのだが,どうだろうか.

 さてツァー二日目の昼食は,小籠包がおいしいことで有名な人気の繁盛店,鼎泰豐 (ディンタイフォン;Wikipedia【小籠包】にも紹介されている店) の本店だ.
 この店は公式サイトに書かれているように,日本にも支店を出していて,新宿,汐留,日本橋,玉川にあるというが,私はいずれにも行ったことがない.しかしツアー一行の女性たちの多くは日本の支店を既に御承知のようで,「台湾の本店に来てみたかったのよねー」と言っていた.
 一般には小籠包は上海が発祥の地だとされている.Wikipedia には,

上海旧市街の豫園商城内にある「南翔饅頭店」が本家を名乗っているが、上海近郊以外にも台湾と香港などの中華圏で広く食べられている一般的な料理である。台湾の台北市には観光客に人気のある鼎泰豊の本店があり、現在では上海にも出店している。観光客は前述のような有名かつ比較的高級な店に集中しがちであるが、台湾では特別な料理ではなく街中の定食屋で安価に提供される庶民の味である。

とあるが,私は若い頃に「南翔饅頭店」へ行ったことがある.まだ小籠包が今ほど普通の食べ物でなかった時代だった.
 ある日本の商社が,中国製の小籠包やその他の点心の冷凍品を日本に輸入して販売しようとしていて,その関係で上海にある冷凍食品製造会社の工場を視察に行ったのだ.
 工場視察のあと,商社の人が豫園商城内の「南翔饅頭店」に連れて行ってくれて,私はそこで初めて小籠包を食べたのだった.
 結局そのその商談は成立しなかったのだが,今は懐かしい思い出である.

 さて鼎泰豐での私たちの会食は点心のコースであった.鼎泰豐は日本人観光客絶賛のお店だけのことはあって,どの蒸籠の点心も,とてもおいしかった.
 ただ,海老焼売が運ばれてきて,みんなが「わーおいしそー」と喜んだとき,ツアーメンバーの一人Aが (三十代の女性) 「私の分は誰かどうぞ食べてください.私,甲殻類はだめなんです」と言った.
 これに対して他の人が「アレルギーですか?」と訊いたら,Aは「いいえ,アレルギーじゃなくて,エビとかカニとか,ああいう気持ち悪いのって食べられないんです」と答えた.
 これに私はカチンときた.他の人がおいしいって言ってるものを,「気持ち悪い」というのはいかがなものか.きらいなものは,嘘でも「アレルギーなんです」と言うのがマナーというものだろうに.
 出発前に添乗員のSさんが「ツアーは,食事のときにトラブルになることがあります」と言ったのは,こういう女のことだったのかと腑に落ちた.

 食事が済んだあとは,鼎泰豐本店のある地区一帯で,日本人観光客の多い「永康街」を散策する自由時間だった.永康街は,雑貨屋や靴屋,ブティックなどの商店や,かき氷屋などがあって,ぶらぶら歩くと楽しい街である.個人旅行でくる機会があれば,時間無制限で街歩きしてみたいものだ.

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(おなじみ天仁茗茶の店)

 短い自由時間が終わって,一行は地下鉄 (台北捷運;呼称はMRT=Mass Rapid Transit) 東門駅の入口階段前に再集合した.ここから地下鉄体験というイベントなのである.いずれ皆さん個人旅行に来るだろうから,台北市内を移動するのに便利な地下鉄の使い方を覚えてくださいね,という企画だ.

 一行は永康街の東門駅に入り,一人ずつ自販機で片道切符を買って乗り,一駅隣の中正紀念堂駅で下車した.
 中正紀念堂蒋介石の顕彰施設である.日本ではあまり知られていないと思うが,蒋介石の本名は蒋中正なのである.
 中正紀念堂は,広大な敷地に設けられた公園広場の入口に立ち,蒋介石の座像が収められた本堂を遠くに望むと,左右に国家戯劇院と国家音楽庁が建てられていて,堂々たる構えである.
 
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(中正紀念堂正門.自由広場と書かれている)

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(本堂遠景)

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(蒋介石座像;背後の壁には,蒋介石の政治理念である「倫理・民主・科学」が掲げられている.これは蒋介石の筆跡である)

中正紀念堂からまた団体バスに乗り,次は九份へ向かう.
(続く)

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2018年6月 5日 (火)

初めての台湾 (五)

【この連載記事のバックナンバーは,左のサイトバーにある[ カテゴリー ]中の『冥途の旅の一里塚』にあります】

* 前回の記事《初めての台湾 (四) 》 

 今回のツアーで三連泊した台北市内の洛碁大飯店・林森館は普通のビジネスホテルだが,朝食は充実していた.私が朝食会場に入ると,厨房から料理を運んでくるおばさんが,私が日本人観光客だと気が付いて,すごくフレンドリーに料理の説明をしてくれた.その料理は,日本のビジネスホテルの朝食では,見かけないものがいくつもあった.
 食事後,ロビーに再集合したツアー同行者のみんなと「朝食に出たアレはおいしかったけど,アレは一体何なの?」と話題になったが,結局よくわからない正体不明の料理がいくつかあった.おいしかったから正体不明でもいいけど.w

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 ホテルは大き目な交差点の角にあるのだが,玄関を出ると,すぐ目の前の角地に寺院があった.交差点の角のあと二つにはオフイスビルが立っていた.
 団体バスに乗り込み,ツアー二日目は午前中に,ルーブル,エルミタージュと並び称されるミュージアムであり,台湾観光の最大の目玉である国立故宮博物院に行く.

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 正門からだとバスを下車したあとちょっと歩くことになるとかで,ぐるっと団体バス専用らしき入口に回り,バスを降りて玄関ロビーに入ると,中華民国建国の革命家にして「国父」である孫文の大きな像が鎮座していた.日本語でも「国父」というと普通は孫文を指す.日本には「国父」がいないから,それでいいのだ.w
 この日は団体記念写真を撮るためにカメラマンが同行していて,彼と少し話をしたのであるが,彼は孫文を「孫文先生」と敬愛の念を込めて呼んだ.

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 成田空港のクラブツーリズムのブースに集合した時,添乗員Sさんから渡されたビニールポーチにはインカムが入っていた.国立故宮博物院の玄関ロビーで,私たちはそのインカムを首から下げてスイッチをオンにした.帰国するまで,現地ガイドRさんの説明や行動指示はこのインカムで行われるのだ.
 二階にはミュージアムショップとカフェなどがあり,ドアを出ると広いテラスになっていて,正門とその向こうが遠く見渡せるようになっている.ここで同行カメラマンが団体写真を撮った.

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 今の日本では,かなりの高齢者は別として,私のように七十歳前後くらいの者は,自分が撮影した旅の記念写真は,スマホとかPCに画像で保存していると思われる.ツアーの団体写真は,撮影した画像をプリントし,見開きのアルバムにして販売されるのだが,私はそれをスキャナでデータにして保存し,アルバムは捨てている.二度手間である.w
 だからこれまで国内ツアーの団体写真をほとんど買ったことはないのであるが.今回は買った.
 私は,大昔の文化大革命の時から,大陸の共産党中国 (中国は共産党が支配しているが,現在はもう共産主義国ではない) は陰謀渦巻く権力闘争の国 (共産党というのはレーニンの昔からそういうものかも知れないが) という印象が強くて好きでない.しかし,孫文が建国した中華民国には親近感を持っている.これに加えて,戦争中の恩讐を超えて,東日本大震災で台湾の人々が示してくれた友情に深く感動したこともある.
 さらに!,花も恥じらう美人ガイドのRさんが,私たちが買い物をすると満面の笑みで「日台友好ありがとうございます」と言うのである.それを見たら,たかが団体写真でケチっていられるかと思うのであった.日台友好万歳.

 さて記念写真を撮影したあと,私たち一行は国立故宮博物院の展示を粛々と鑑賞して回った.
 国立故宮博物院の所蔵品のうちで,ここを訪れた観光客が必ず観るものといえば,至高の名品「翠玉白菜」 (↓) である.

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 この「翠玉白菜」は四年前に短期間,東京国立博物館で海外出品されたことがあるのだが,この時の展示を私は迂闊にも見逃してしまった.それ以来ずっと一度は観たいものだと思ってきたので,ようやく望みが叶ってとても嬉しかった.

 実は故宮博物院が所蔵している同様の彫刻は三つある.(参考記事;《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》 )
 翡翠の白菜は本当は四つあったのだが,一つは現在行方不明なんだと,現地ガイドRさんが説明してくれた.戦後のどさくさに紛れて誰かが私蔵してしまったのだろうか.
 私たち一行は「翠玉白菜」のすぐ近くに寄って観ているのだが,Rさんは大勢の観光客たちの邪魔にならぬよう離れたところから解説をするわけで,これがインカムの必要な理由なのであった.

 で,台北の国立故宮博物院に三つ現存 (「翠玉白菜」「翠玉小白菜」「翠玉白菜花挿」;花挿は花を生ける花器のこと) するとして,残りの二つはどこにあるかというと,北京の紫禁城 (画像) と天津博物館 (画像 の五つ目) だ.
 前記の《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》では,

また、中国大陸にも北京の故宮博物院に高さ16センチ、幅6センチの「玉鏤霜菘花挿」が残されているほか、天津博物館にも1点収蔵されている

としているが,これは間違い.
 天津博物館に所蔵されているのが「玉鏤霜菘花挿」だ.中国語で「白菜」は「菘菜」とも言うが,「玉鏤霜菘花挿」の姿と色は,いかにも霜枯れした白菜だ.
 一方,北京にあるものは,上に示した画像の展示ケースに書かれている通り,「翠玉白菜式花挿」だろう.
 この《台湾・故宮博物院所蔵の名物“白菜”、実は全部で3つ》を読んだ人のために,ここに誤りだと指摘しておく.

 ただし,北京のものは他の「翠玉白菜」と形が随分違う.私には北京のものは青梗菜 (チンゲンサイ) の形をしているように思われたので,ネットで資料を探した.すると,青梗菜は,白菜 (パクチョイ) の茎が緑色のものをそう呼ぶのだと書かれていた.しかし別の資料には逆に,白菜 (パクチョイ) は青梗菜 (チンゲンサイ) の茎が白いものをいうとあり,もう何が何だかわからぬ.
 それどころか,中国原産で明治時代初期に日本に渡来し,漬物や鍋物に多用される一般的な白菜も,日本には昭和五十年代に導入された中国野菜である白菜 (パクチョイ) も,青梗菜 (チンゲンサイ) も, みんな総称「白菜」の一種なんだそうである.総称の「白菜」は,中国語の読みを強引に片仮名で書くと「パァィツァィ」らしいが,よくわからぬ.だとすると「パクチョイ」はどこの言葉だ.

 ところで Wikipedia【翠玉白菜】には

翠玉白菜は国立故宮博物院の「最も有名な彫刻」と言われており、清明上河図、肉形石と合わせて国立故宮博物院の三大至宝とされている。(ただし翠玉白菜と肉形石は台北市の国立故宮博物院に、清明上河図は北京の故宮博物院にある。)

との記述が見えるが,これは間違いだろう.
 正しくは《国立故宮博物院の三大至宝》ではなく「故宮博物院の三大至宝」ではないか.というのは,中国語版 Wikipedia には,国立故宮博物院の「三宝」は,「翠玉白菜」「肉形石」と,清明上河図ではなく青銅器の「毛公鼎」の三つであるとして,以下のように書かれているからである.

常態展出的〈翠玉白菜〉、〈肉形石〉和〈毛公鼎〉3件展品,合稱「故宮三寶」

 国立故宮博物院は中華民国の博物館で,台北にある.その所蔵品が北京にあるわけがない.「国立」を取り去って「故宮博物院の三大至宝」とすれば,台北と北京の故宮博物院の文物を総称した意味にとれるから,とりあえず矛盾はなくなる.
 当然だが,国立故宮博物院が北京にある清明上河図を自らの「至宝」とするわけはないから,「翠玉白菜」「肉形石」「毛公鼎」の三つを宝物としているのである.
 穿った見方をすると,Wikipedia【翠玉白菜】のこの箇所を編集した執筆者は,台湾は中国の一部であるとする中国政府の主張を支持している政治的立場なのかも知れない.そうだとすると,この箇所は,「国立故宮博物院は中華人民共和国の施設である」という歴史的事実とは異なる政治的な主張を密かにしていることになる.しかし,その主張はいくら何でも強引だと指摘しておきたい.北京の故宮博物院と台北の国立故宮博物院は,本館と別館の立場にあるのではなく,別々の施設である.

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 その三宝の一つである「肉形石」は,「翠玉白菜」より知名度は劣るかも知れないが,これまたすばらしいものであった.

 さて,故宮博物院での見学自由時間はたっぷりあったので,カフェでツアーメンバーの女性たちにタピオカミルクティーを御馳走し,それからミュージアムショップに入ったら,メモ帳やらノートやら鉛筆やらの各種文房具,冷蔵庫のドアなど使うマグネット等々,物欲を刺激する数々の土産が置かれていたので,私はドカドカと音を立てて買いまくった.

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(マグネット)

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(木製の鉛筆箱.中に鉛筆が八本入っている)

 そうこうしているうちに腹が減ってきた.添乗員Sさんが,昼食は台北でも人気のレストランに案内してくれるという.
(続く)

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2018年5月29日 (火)

初めての台湾 (四)

 前回の記事《初めての台湾 (三)
 
 ツアー一行は,士林夜市の入り口で自由行動となった.
 私はこの台湾旅行で事前に何の下調べもしておらず,添乗員のSさんに「自由行動でーす」と言われてから,やおら「さーてどうしよう」と考えるという始末であったが,さすがに女性はしっかりしている.年配の御婦人一名と若い娘さんたちが「やっぱりタピオカミルクティーよねー」というので,何が「やっぱり」なのかわからぬが,その三人グループに混ぜてもらった.
 タピオカミルクティーを探しつつ士林夜市の狭い雑踏を歩く.
 この夜市=ナイトマーケットは,路上で営業しているテント張の屋台ではなくて,固定屋台店で構成されている商店街というかショッピングセンターみたいなものだと思った.
 
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 それでも出口に近い辺りでは通路の上の屋根はなくなって,屋台街らしい雰囲気が漂っている.
 
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 メインストリートの突き当りには,寺院らしきものがあった.調べると慈諴宮という寺院で,士林夜市は元々がこのお寺の門前に発達した屋台街なのだという.なるほどこの界隈は,先程通り過ぎてきた屋根付き屋台街よりも濃いアジアンテイストが漂っている (ような気がする).
 
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 本堂前のスペースはそれ程広くないが,若者たちが軽食を食べながらたむろしていた.
 本堂に入ると,恋人たちと思しき二人連れが,何やら赤く彩色した木片を床に投げている.
 
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 女性三人と私の一行は,「あれって何してるのかな」と訝しんだが,そのカップルが真剣な表情をしているので,彼らに「何してるんですか?」と訊くのはためらわれた.あとで現地ガイドのRさんに訊くと,台湾式の占いだそうで,観光の最後に行った寺院でやり方を教えてもらった.
 
 慈諴宮から士林夜市入口への戻りは,別の筋を通り,横丁にも出たり入ったりして散策を楽しんだ.そして小さなタピオカミルクティー専門の屋台 (JR東日本の駅構内にあるジューススタンド「ハニーズバー」のブースの半分くらいの間口) を見つけ,私たちはようやくタピオカミルクティーにありついた.
 女性たちは先刻御承知の飲み物らしかったが,私は初めて口にした.なかなかうまいじゃないかと思った.そして翌日から一日に一回はタピオカミルクティーを飲んだ.
 
 それから士林夜市の入り口に戻り,そこから地下にあるフードコートへ降りて中をウロついた.
 女性たちは買い食いをしたようだったが,私はこのフードコートで小エビの素揚げをテイクアウトで買って,これをつまみにホテルの部屋で酒を飲むことにした.
 
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 自由時間が終わって再集合した一行は士林夜市からバスに乗り,宿泊する洛碁大飯店・林森館へ向かった.
 洛碁大飯店・林森館はビジネスホテルだが,小さくても大飯店なのである.日本にもよくあるけれど,ホテルのすぐ隣にコンビニがあるというタイプのビジネスホテルであった.部屋はかなり狭いが,一日中観光して帰ったら寝るだけだからこれでいいのだ.
 私は隣のコンビニ (セブンイレブン) で日本製のチューハイとウイスキーのハーフボトルを買って部屋飲みを始めたのだが,夜市で買ってきた小エビの素揚げのうまさに感動した.日本の居酒屋にも同じような品があるが,こちらは塩加減が絶妙で,はるかにうまいと思った.
 さて明日はいよいよ故宮博物院見学である.深酒はしないで眠ろう.
 と思ったが,チューハイ二本とウイスキーのハーフボトルを半分空けてしまった.
(続く)

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2018年5月15日 (火)

初めての台湾 (三)

 前回の記事《初めての台湾 (二) 》 

 キャセイ・パシフィック台北行フライトの搭乗口前に再集合したツアー参加者に,添乗員Sさんは,簡単に自己紹介をしましょうと言った.参加者は十人で,男性は私ともう一人であった.

 女性ツアーメンバーの年齢はまちまちで,お一人はおそらく七十歳を越しておられるのではと思われた.お元気であるなあと感服.女性の服装のことはわからないのだが,彼女は高級ブランドと思われるパーカーをお召しになって,背筋はピンと伸びていらっしゃるのだった.
 一番若い女性は,まだメイクも初々しい印象で,あとで食事の時に訊いたら,高校を卒業したばかりで,このツアーが初めての海外旅行だという.全然物怖じせずに一人で卒業旅行だ.今の若者は颯爽としているなあと感心した.あとは二十代が一人と三十代が二人で,残りの女性三人は年齢を推定すると四十代,五十代,六十代がお一人ずつ.Sさんは落ち着いてみえるが,三十代ですと言っていた.
 そのあとでSさんのガイダンスがあり,私たちのフライトは午後すぐの便だから,夕食の機内食はかなり早いはずだという.でも今夜は台北の夜市にご案内しますから,お腹がすいたらそこで何かを召し上がってください,とのことだった.
 またSさんは,ツアーのマナーについても説明した.参加者の間で発生するトラブルの一つに,食事のことがあるという.会食の際に料理をマズいと貶す人がたまにいらっしゃいますけど,おいしいと思う人もいるわけですから,料理を貶さないでくださいというのがSさんの話であった.なるほどと納得.実に行き届いた添乗員さんである.

 参加者同士で軽くおしゃべりしているうちに搭乗案内のアナウンスがあり,私たちはそれぞれのシートに着いて機内の人となった.(ところで「車中の人となった」「機内の人となった」は手垢の付いた常套句だが,最初は誰が書いたのだろう)
 早めの機内食の時間になり,CAさんが「牛肉か鶏肉か」と訊くので鶏料理をくれと答えた.すると配られたのはマカロニグラタンで,小指の爪ほどの鶏肉が数個入っていた.これなら「牛肉か炭水化物か」と訊くべきだと思った.私は現在,糖質制限中の身であるが,しかしこのグラタンを食べないと夜市観光まで腹がもたないだろうから,半分食べた.
  そうこうしているうちにキャセイ CTX**** 便は台湾桃園国際空港へ着陸態勢に入った.

 到着ロビーで再集合した私たちは,ロビーで待ち受けていた現地ガイドの女性Rさんと会った.
 Rさんは御本人の口から二十九歳だと明言.彼女はかなりの美人で,しかも常に口角上がりっぱなしという好感度五つ星なのであった.私はこれが初めての台湾旅行であるが,Rさんを見て台湾は良い国であると即断した.
 すぐにチャーターしてあるバスがやってきて,ツアー一行は士林夜市 (台北市内の観光マップには,○○観光夜市とただの△△夜市とがある.士林夜市はマップ上は士林観光夜市と書かれている.どう違うのかわからないのでSさんに訊ねたが,たぶんテキトーに名乗っているんじゃないかという回答だった) へ向かった.
 バスの中でRさんに両替をしてもらい,やがて一時間ほどでバスは夜市に到着した.いよいよ台湾観光のスタートである.

 
20180508a
 
(続く)

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2018年5月 9日 (水)

初めての台湾 (二)

 前回の記事《初めての台湾 (一)
 
 台湾ツアー出発の数日前に,クラブツーリズム添乗員のSさんから電話があった.旅をよろしく御一緒お願いしますという挨拶と,何か事前に訊いておきたいことはありますか?という内容だった.特に確認しておきたいことはないと答えると,では当日成田でお会いしましょうということで電話は切れた.
 Sさんは,言葉遣いも声もきちんとした印象の女性で,このツアーの少し前にやはりクラブツーリズムで白川郷ツアーに行ったのだが,そのときのダメダメ添乗員とは大違いだと思った.
 
 ツアーの当日,出発空港は成田なので,大船駅から成田エクスプレスで成田の第2ターミナルビルに行った.乗るのはキャセイパシフィックである.
 集合指定時間より少し早めに到着して出発ロビーフロアにあるクラブツーリズムのブースに行くと,若い女性社員がいて,チケットと名札などが入ったポーチを渡された.搭乗券は参加者各自で取るようで,キャセイの発券機の場所を教えてくれた.
 発券機へ行く途中で,たぶんSさんと思われる女性が,私より年配と思しき御婦人ツアー参加者のお世話をしていたので「Sさんですか?」と訊ねるとそうだと言うので,よろしくと挨拶し,それから発券機で手続きをした.
 
 クラブツーリズムのブースに戻って少しすると,参加者全員が揃った.Sさんの先導でキャセイのカウンターへ行って荷物を預け,それから手荷物検査場へ向かった.参加者各自で検査を受けたら,台湾行 CTX**** 便の搭乗口前で再集合してくださいとのことだった.
 私は出発前に買い物をするわけでもないから,再集合まで時間が余ってしまい,喉が渇いたこともあって,ドリンク売り場に行った.
 すると若い東南アジア系外国人カップルの先客がいて,何を飲むかという相談をしていた.言葉がわからないが,たぶんそういう話をいつまでも続けるのであった.
 私は次第にイライラ感がつのってきた.
 自分の飲むドリンクくらい相談せずに自分で決めればいいのにと諸兄は思われるかも知れぬが,こやつらはプラスティックのカップに入れてストローを挿したドリンクを半分飲んだら交換するに違いないのだ.
 そして二人の目を見つめ合って「うふ」「うふふ」などと微笑み合うのだ.そうとしか考えられぬ愚かな行動である.
 後ろでイライラしている私を無視して数分間の相談を終えた二人は各自の飲み物を注文した.
 店員さんはあっという間に飲み物を用意してカウンターに置き,合計の値段を二人に告げた.
 ところがこのとき,男が小銭入れの口を開けたまま床に落とした.彼らが日本滞在中に貯め込んだ大量の小銭がぶち撒かれたのである.
 二人はたぶん彼らの言葉で「うわーっ」「あらーっ」とか何とか言いながら,それでも何だか楽しそうに見つめ合いながら硬貨を拾い集め始めた.うふ.うふふ.
 だめだこりゃ (死語 by いかりや長介).ここに至って遂に私は飲み物を買うのを諦め,搭乗口前に戻ったのである.
 
 話は唐突だが,最近「エアポート投稿おじさん」とかいうのが流行しているのだそうだ.
 ネットニュース日刊 SPA!の《なぜおっさんはSNSに“空港にいる俺”の写真をアップするのか? 20代女性からブーイング》 (2018/05/02 08:55 掲載) に書いてあった.
 このエアポート投稿おじさんたちは
 
一番の特徴は、空港のラウンジや搭乗口の写真をアップして、そこに一言だけ添えていること。『しばらく旅に出ます』『東京を離れます』とか。でも、一番ムカつくのは『さて、どこに行くでしょう?』というクイズ文ポスト。誰も知りたくねーよ、とつっこんでます
 
気持ちはわからなくはないですが、こっちはそろそろうんざりしていることに気付いてほしいです。空港第2ビルに着いた瞬間に浮かれてんじゃねーよ、と言いたい
 
と若い女性たちにバカにされても SNS 投稿をやるのだというが,記事はその理由を次のように推測している.
 
さらにこうした投稿をより勢いづかせてしまうのが、空港にいる時間は圧倒的に暇であるということ。搭乗まで時間があるので、ついスマホで写真を撮影、迂闊に若者とつながっているFacebookに更新してしまうのかもしれない。
 
 なるほどねー.エアポート投稿おじさんたちは第2ターミナルビルにいるのか.だったら暇潰しにドリンク売り場に行くとよいだろう.
 なかなか出発しないが,続く.

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2018年4月30日 (月)

初めての台湾 (一)

 会社員が定年退職したあと,うまくいけば残りの人生を十五年ほど生きることができるわけだが,十五年なんてあっという間に過ぎるだろうなあ.
 私なんか今六十八歳だから,あと十年ちょっとだ.
 終末期が二年とすれば,動けるのは十年あるかどうか.
 現役会社員だったときには,悠々自適になったら,大英博物館やルーブル美術館に行ってみたいと思っていたが,いざ仕事を辞めたら,長時間の空路に耐えられるか自信がなくなっていた.
 徳島の大塚国際美術館へ行った旅行記を既にアップしてあるが,あの時,ルーブルにある名画の陶板レプリカを前にして二人連れの中年の女性たちが「本物を見ちゃうと,こんな偽物はお話にならないわね」と声高に話していた.
 陶板レプリカと贋作は違うんだけどなあ,と私は思ったが,しかし大塚化学渾身の陶板レプリカを一笑のもとに貶せる彼女たちを羨ましくも思った.
 
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
  (萩原朔太郎『純情小曲集』から「旅上」;青空文庫にある)
 
 朔太郎は旧制前橋中学を出ていて,前橋高校出身の私の同窓の先輩にあたる.
 上に引用した「旅上」は高校生の時から好きな詩の一つだ.
 年が明けたばかりの一月のある日,ふと「ふらんすへ行きたしと思へども」と口ずさんだ私は,朔太郎のように新しき背広を着て旅に出てみたいと思った.
 どこに行こうか.
 ルーブルは無理だが,近場で行きたいところがあった.台北の故宮博物院だ.
 思い立ったが吉日.クラブツーリズムの一人旅ツアー「はじめての台湾ハイライト 4日間」に参加を申し込んだ.
 聞いた話では,故宮博物院の所蔵美術品をちゃんと鑑賞する気になったら一日では無理らしい.だからいずれ個人旅行で台北二泊くらいの旅行をするとして,しかし全く土地勘がないのはちょっとね,ということで先ずはツアーで行こうと考えたのである.
 ここら辺がいかにも年寄りの思考だ.かつて青年沢木耕太郎が『深夜特急』の旅に出た時,彼の頭の中に土地勘なんて言葉はなかっただろうに.
 沢木耕太郎は別格として,海外旅行に人一倍臆病だった私だが,出張とか成り行きでアメリカや中国,東南アジアに行ったことはある.そして懐かしい思い出の土地はあるが,もう再訪することはないだろう.あと数回,東南アジアに行ければ,それでいいやと思っている.
(続く)

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