冥途の旅の一里塚

引退老人がトボトボと散歩したり旅します.

2019年2月16日 (土)

アンコールを一目でも (六)/工事中

 ベトナム戦争がようやく和平へ向けて動き始めたと日本の世論が思い始めた時,実は戦火は西方に拡大しつつあった.下に旧フランス領インドシナ (「旧仏領インドシナ」「インドシナ三国」とも) の地図と,ホーチミン・ルートの略図を示す.
 
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(ベトナムの標高図;Wikipedia【ベトナム】から引用した図<パブリックドメイン画像>に,当記事の筆者が文字を書き入れた)
  
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(ホーチミン・ルート(1967年);Wikipedia【ホーチミン・ルート】から引用,パブリックドメイン画像)
  
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(ベトナム・カンボジア国境線沿いに設置された共産側の司令部を示す地図;Wikipedia【カンボジア作戦】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 最初に示したベトナム標高図を見ると,北ベトナムから南ベトナムへの物流が,ラオスとカンボジアを通って行われた事情がよくわかる.
 次のホーチミン・ルートの図で,ラオス領内におけるピンク色の線がホーチミン・ルートである.そのうちで丸数字が付されているのは道路で,その他のピンク色の線は細い物資補給ルートだ.
 また図中の赤褐色の地帯は北ベトナム軍が侵入していたエリア.赤い太線はホーチミン・ルートの一部で「シハヌーク・トレイル」と呼ばれたが,カンボジアではなく北ベトナムが設置した兵站路である.
 三番目の図で“COSVN”とあるのは,北ベトナム軍の拠点「南部中央局」である.“NLF”は“National Liberation Front for South Vietnam”すなわち南ベトナム民族解放戦線のこと.“PRG”は,ベトナム解放民族戦線,民族民主平和勢力連合,人民革命党が主体となって1969年6月8日に樹立した南ベトナム共和国臨時革命政府である.
 
 さて,ジョンソンの米国が,南ベトナムの解放民族戦線をいくら殺しても殺しても,銃と弾丸と兵士が,北ベトナムからやってきた.北ベトナムは,軍事境界線 (北緯17度線;第一次インドシナ戦争の停戦ライン) を突破するのではなく,ラオス領内を通ってカンボジア領内を通過する迂回路を用いて,人と物資を南ベトナムに送り込んだ.軍事境界線は実際には,北緯17度の少し南を流れているベンハイ川だったから,非常強固な守備下にあるこの川を,米軍の攻撃を受けることなく船で渡り,物資輸送することはできなかったからである.
 そこでニクソンは現地軍司令官の具申に基づき,現在は「メニュ作戦」として知られる秘密作戦を展開し,カンボジア東部を爆撃した.1969年3月18日~1970年5月26日までの間に3,000回以上の出撃が行われたという.この米軍によるカンボジア爆撃の最中,カンボジアで政変が起きた.Wikipedia【カンボジア作戦】から一部引用する.
 
1970年1月、シハヌークがフランスへ静養に出かけている間に政府主催の反ベトナムデモがカンボジア中で開催された。ロン・ノル国防相兼首相は共産勢力の支援に使用されていたシハヌークビルの港湾施設を閉鎖し、3月12日には北ベトナムに対して72時間以内のカンボジア領内からの撤退を求める最後通牒を送った。このロン・ノルが発表した反共的な「暫定協定」に憤慨したシハヌークは、ハノイ政府に圧力を掛けて北ベトナム軍によってロン・ノル派を鎮圧させるべく、直ちにモスクワおよび北京訪問を調整した。
3月18日、カンボジア国会はシハヌークを追放し、ロン・ノルを暫定元首に選定した。このことでシハヌークは北京に亡命政府を樹立し、彼自身は北ベトナム、ベトコン、クメール・ルージュ、そしてラオスのパテート・ラーオなどと連携することとした。これらの勢力はシハヌークの知名度と人気をカンボジア農村部の支配に利用した。

 
 カンボジアの王族として生まれたノロドム・シハヌークは,第二次大戦後に植民地復活を目指したフランスに抵抗し,カンボジアの独立を勝ち取って「独立の父」と呼ばれた.しかし1955年3月3日に王位を退き,政治家に転身した.同年,政治団体「社会主義人民共同体 (通称サンクム)」を結成し,その総裁として国会選挙に臨み,全議員から支持を得て翼賛体制を築き,1960年には国会選挙の結果,全議員の支持を得て国家元首の地位に就いた.この当時の日本の新聞報道を思い起こすと,シハヌークは,対立する左派右派両勢力を巧みに操る政治家の印象が強い.いわば危ういバランスの上にシハヌークの政権は成立していたと言える.
 そのバランスが1970年に崩れた.それが上の引用箇所に書かれているロン・ノルのクーデターであった.ロン・ノルがクーデターを起こした理由はよくわからない.Wikipedia は項目により理由の記述が異なる.Wikipedia【ロン・ノル】は,次のように述べて,王族内部の対立を指摘している.
 
そして、1970年3月18日に癌治療でモスクワと北京へ訪れているノロドム・シハヌーク国家元首の政権をクーデターで倒した。国会にシハヌークの退位を決議させた。これらは、当時、副首相だったシハヌークの従兄弟であるシリク・マタク親王の強い意志によるものとされ、ロンノルに強く迫ったためであるとされている。
 
 一方,Wikipedia【ノロドム・シハヌーク】は,米国の謀略と言っている.
 
クーデターは、アメリカがシハヌークを北ベトナムや南ベトナム解放民族戦線と近い「容共主義者」と見なし、親米派のロン・ノルを支援して追放させたと言われている。
 
 真相は不明だが,いずれにせよロン・ノルのクーデターは米国の歓迎するところであった.シハヌークは,ニクソンのカンボジア爆撃 (ホーチミン・ルートの破壊) を公然と非難していたからである.
 ロン・ノルのクーデター後,北ベトナムはシハヌークを支援するためにカンボジアに侵攻した.これはクメール・ルージュからの要請に基づいた行動だったとされている.ここでようやく,カンボジア内戦の主人公であるクメール・ルージュが表舞台に登場したのであった.
 北ベトナム軍は速やかにカンボジア東部を蹂躙し,プノンペンに迫ったが,クメール・ルージュは北ベトナムとは独立した軍事行動をとったとされる.
 一方の米軍は,1972年に,ロン・ノル支援のために短期間のカンボジア侵攻を行ったが,1973年にベトナムから撤退する際に,あっさりとロン・ノルを見捨てた.捨てられたロン・ノルは,1975年4月,ハワイに亡命し,1985年に世を去った.

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2019年2月15日 (金)

アンコールを一目でも (五)

 ベトナムの戦況に話を戻すと,「テト攻勢」の報道でベトナム戦争の現実を目の当たりにした米国民は,これを転換点にして民意がベトナム戦争反対に大きく傾いた.そして政権内部からも継戦に反対する意見が強くなって,遂にリンドン・ジョンソンは大統領職を退く決意をした.ジョンソンは1968年3月31日夜にテレビ演説を行い,北ベトナムへの北爆を部分的に停止 (完全停止は10月) して北ベトナムに交渉を呼びかけた.
 振り返れば戦争当初,ジョンソンは地上軍によって,南ベトナムの一般村民と解放民族戦線ゲリラを分離区別して戦闘する方針だった.ベトナムの一般人を殺そうとは思っていなかったのだろう.しかし実際にはこの作戦は,その一般人が抵抗したため実行不可能だった.そのため,次第に村民もゲリラも無差別に殺戮する作戦に移行せざるを得なくなり戦争は泥沼化し,消耗戦の様相をあらわしたのだった.
 次の大統領になったニクソンの為すべきことは,北ベトナムおよひ解放民族戦線との講和と撤退であったから,地上軍の撤退を開始しつつ,敵の本体である北ベトナムを交渉の場に引きずり出すことにした.そこでニクソンはジョンソンが停止した北爆を再開 (1972年5月8日) し,対日本戦並みの物量を投入して北ベトナムを爆撃した.
 
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(爆弾を投下するアメリカ空軍のボーイングB-52;Wikipedia【ベトナム戦争】から引用,パブリックドメイン画像)
 
 再開後の北爆に関する記述を,Wikipedia【ベトナム戦争】から引用する.この当時の戦況がよくまとめられていると思う.
 
アメリカ軍は講和条件を有利にするため、カンボジア・ラオス領内に越境してまで北ベトナム軍の拠点と補給ルートの壊滅を図ったものの、戦況は好転せず、1972年の3月末には、北ベトナム軍が戦車多数を含めた大兵力で非武装地帯を横切って南ベトナムに侵攻する大攻勢を始めたため、講和を急いだニクソン大統領は1972年5月8日に北爆再開を決定した (ラインバッカーI作戦) 。この作戦は、圧倒的な航空戦力を使って「ホーチミン・ルート」を遮断し、アメリカ地上軍の削減と地上兵力の南ベトナム化を進め、また北ベトナム軍の戦力を徹底的に削ぐことにより、北ベトナム政府が和平交渉に応じることを狙った作戦でもあった。アメリカ空軍は第二次世界大戦における対日戦以来の本格的な戦略爆撃を行う事を決定し、軍民問わない無差別攻撃を採用した。この作戦では従来の垂れ流し的な戦力の逐次投入をやめて戦力の集中投入に切り替えられ、15000機の航空機が参加して60,000トンの爆弾を投下するとともに、ハイフォン港などの北ベトナムの港湾を機雷で封鎖した。特に12月18日に開始されたラインバッカーII作戦では、爆撃の効果を上げるため、首都ハノイとハイフォン港の2つを目標とし、2週間で20,000トンの爆弾が投下され、その内容としては、ボーイングB-52戦略爆撃機150機による700回出撃に及ぶ夜間絨毯爆撃で15,000トン、アメリカ海・空軍の攻撃機での爆撃で5,000トンに及んだ、そのため、ハノイやハイフォン港の区域は完全に焼け野原になり、軍事施設だけでなく電力や水などの生活インフラストラクチャーにも大きな被害を与えた。さらに新たに前線に投入された音速爆撃機のジェネラル・ダイナミクスF-111や、開発に成功したばかりのレーザー誘導爆弾ペイブウェイ、TV誘導爆弾AGM-62 ウォールアイなどのハイテク兵器を大量投入して、ポール・ドウマー橋やタンホア鉄橋といった難攻不落の橋梁を次々と破壊、落橋させた。
海上でもハイフォン港等の重要港湾施設に対する大規模な機雷封鎖作戦も行われ、ソ連や中華人民共和国、北朝鮮をはじめとする東側諸国から兵器や物資を満載してきた輸送船が入港不能になった。港内にいた中立国船舶に対しては期限を定めた退去通告が行われた。中越国境地帯にも大規模な空爆が行われ、北ベトナムへの軍事援助のほとんどがストップした。中には勇敢にも強行突破を図った北ベトナム艦船もいたが、そのほとんどは触雷するか優勢なアメリカ海軍駆逐艦や南ベトナム海軍船艇の攻撃を受け、撃沈、阻止されていった。
アメリカ軍による対日戦並の本格的な戦略爆撃や、南ベトナム海軍とアメリカ海軍が共同で行った機雷封鎖は純軍事的にほぼ成功を収めた。北ベトナムは軍事施設約1,600棟、鉄道車両約370両、線路10箇所、電力施設の80%、石油備蓄量の25%を喪失するという大損害を被り、北ベトナム軍は弾薬や燃料が払底、継戦不能な事態に陥った。この空爆の結果、北ベトナム軍では小規模だった海軍と空軍がほぼ全滅し、絶え間ない北爆とアメリカ陸空軍による物量作戦の結果、ホーチミン・ルートは多くの箇所で不通になっており、前線部隊への補給が滞りがちになった北ベトナム軍は崩壊の一歩手前に追い込まれるまで急激に戦況が悪化した。
アメリカ軍による空爆は、北ベトナム国民に大量の死傷者を出し、併せて只でさえ貧弱な北ベトナムのインフラストラクチャーにも大打撃を与えたことから、北ベトナム軍と国民にも少なからず厭戦気分を植え付けた。北ベトナム軍にとって幸いなことに、クリスマス休暇中による再度の北爆は、国際社会の轟々たる批難と反発を受け、短期間で中止されたが、アメリカ合衆国連邦政府の目論見通り、この空爆の成功は、北ベトナム軍を戦闘不能な状態に持ち込み、北ベトナム政府をパリ会談に出席させ、停戦に持ち込まざるを得ない立場に追い込む事に成功した。

 

 このあと,ベトナム戦争史のメインストリームは,1973年1月27日のパリ和平協定 (「北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相および南ベトナム共和国臨時革命政府 (南ベトナム解放民族戦線とベトナム民族・民主・平和勢力連合との連合政府) のグエン・チ・ビン外相」対「米国のウィリアム・P・ロジャーズ国務長官および南ベトナムのチャン・バン・ラム外相」の四者間で交わされた) から,米軍の全面的撤退 (ニクソンは1月29日に戦争終結を宣言し,1973年3月29日に撤退を完了した),米国に継戦の意思なしと判断した北ベトナムによる戦争再開 (1975年3月10日),南北ベトナムの統一へと進んだ.
 だが,ニクソンの北爆再開の前に,第三次インドシナ戦争勃発の前触れである出来事が起きた.北ベトナムのカンボジア侵攻である.

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2019年2月13日 (水)

アンコールを一目でも (四)

 昭和四十三年の春,上京して中野区に住処を定め,駒場の教養学部に通学を始めた私が驚いたのは,駒場東大前駅の出口から大学正門まで,道の両側にズラリと並べられた立て看板であった.毎日毎日,駅前だけでなく学内に入っても立て看板の列は続いていた.
 この頃の立て看板に何が書かれていたかというと,この時既にストライキに入っていた医学部における学生処分問題が主だが,他には三里塚闘争やベトナム反戦についてのものがあった.当時のテレビ放送は,報道という点ではまことに非力なメディアであり,ベトナムの現状を知るために,立て看板とアジビラはかなり役に立った.朝日ジャーナルなどの週刊誌は,貧乏学生が購読するには高かったから,誰かが買ったものを回し読みした.
 そうこうしているうちに,六月十六日に教養学部の自治会正副委員長選挙が行われ,フロント (社会主義学生戦線;当時は構造改革路線のマイナーセクトだった.私と同年に入学した世代の著名人では阿部知子氏がこのセクトだった) の候補が当選した.続いてフロントのヘゲモニーにより全学投票が行われ,ストライキが決定した.さらに七月五日の全学投票で無期限ストライキに突入した.
 
 さて無期限ストライキに突入したはいいが,この時点ではストライキの最終的な目的が何かは分明でなく,しかも無期限ということは納期がないということで,一般学生は自分が何をすべきかわからず,ただ呆然とするだけであった.ストライキに入ったのが時期的には夏休みだったこともあり,キャンパスに出かけてもほとんど学生はいなかった.ある日たまたま,同じ語学クラスの高橋君という人と学内で遭った.私たちは,駒場寮 (当時) の前の植栽の石積みに腰掛けて「俺たちこれからどうなるんかなー」と話したことを思い出す.
 私が住処にした中野の学生寮は二人一室で,いろんな大学の学生がいたのだが,その中に王子博夫君 (東大文学卒.週刊新潮に在籍したが夭逝した) と,同室の西山栄一君 (日大文学部) がいた.この二人はアグレッシブで,ベ平連の集会やデモによく出かけていた.私は彼ら二人からべ平連のことを教えてもらった.
 ベ平連については,後にべ平連活動家の山口文憲らが内側のことを少し書いているが,山口のような中心的な人たちと,集会などに参加する一般人との距離感がかなりあるんじゃないかという印象を私は受けた.
 実際,ずっとあとになって知った (Wikipedia【共産主義労働者党】などに記述あり) が,いいだもも亀和田武らのベ平連の中心的活動家は,共産主義労働者党・プロレタリア学生同盟のメンバーであり,ベ平連はその大衆組織であった.ベ平連の非公然活動に一つに,米軍脱走兵を亡命させるということがあって,その活動に失敗した山口文憲が警察に逮捕されるという事件 (1968年11月) が報道された.一般学生にしてみたらこれは唐突なできごとで,ベ平連て,何か妙なことをやっているなあと私は思った.後に判明したことであるが,べ平連幹部は米軍脱走兵逃亡支援をするにあたって悪名高いKGBに資金援助を要請していた.これは共産主義労働者党が親ソ連派組織だったことと合わせれば,なるほどねーと納得のいくことだった.
 
 べ平連に胡散臭さをかんじた私は,ベ平連系の集会 (翌1969年に盛り上がった新宿西口のフォークゲリラなども含めて) には行かなかった.一つおもしろいのは,フォークゲリラは,高石ともや岡林信康高田渡らフォークシンガーたちから距離を置かれていたということだ.このことは中川五郎が《フォークゲリラWORD》(2015年6月28日) に書いている.ベ平連の政治性と,音楽の実作者であるフォークシンガーたちは,反りが合わなかったということだろう.
 ベ平連のことはそれとして,不思議なのは日本共産党のベトナム反戦運動だった.
 北ベトナムはソ連と中国から軍事的支援 (武器も人的にも) を受けていて,その武器で南ベトナム解放民族戦線は戦っていた.これは戦場では一目瞭然のことだから,秘密でも何でもなかった.
 日本共産党は,ベトナム戦争が泥沼化しつつあった1966年3月に,中国共産党,朝鮮労働党,ベトナム労働党を訪問した.これは当時のメディアが報道したので一般にも知られていた.そのことに関して Wikipedia【日中共産党の関係】に以下の記述がある.
 
アメリカ衆国のベトナム侵略に反対する統一戦線の形成方法をめぐって朝鮮労働党とも意見が一致しベトナム労働党とも意見が一致したが、中国共産党との会談では不首尾に終わった。だが北京においては不一致点はあったが友好的関係は今後も保持するという結論になった。》 (当ブログの筆者による註;このときの中国共産党首脳は鄧小平や劉少奇.この当時,日本共産党と朝鮮労働党が友党だったことはツっ込まないように)
 
 これで帰国しようとした日本共産党代表団 (団長は宮本顕治) が最後に上海で毛沢東と儀礼的な会談を行ったところ,文化大革命を立ち上げて権力闘争を開始しようとしていた毛沢東が,突如宮本顕治にかみついた.Wikipedia【日中共産党の関係】からまた引用する.
 
毛沢東が「北京指導部は軟弱」と突如横槍を入れる形で問題を紛糾させ、結局会談は決裂、これを期に中国共産党の中国政府をも動員した日本共産党への攻撃がはじまった。
この後「暴力革命こそが日本の来る革命の唯一の道」であると北京放送や『人民日報』が報じはじめた。中国共産党は、「日本共産党指導部を打倒する」という方針を出し、自らの影響下にある日本共産党員に対して「日本共産党を打倒して自分たちが新しい党をつくれ」という指令を出した。

 こうして1966年秋に,日中共産党は対立関係になった.日本共産党とソ連共産党は既に絶縁状態にあったから,その二ヶ国と深い関係にあるベトナム労働党と南ベトナム解放民族戦線をなぜ支持するのか,その理由が私たち一般国民には理解できなかった.忖度すれば,ベトナム労働党が日本共産党の内政に干渉しなければ,特に関係を絶つ必要はないということなのであろう.こんな状況だったから,ベトナム戦争に関する情報は,日本共産党の筋からも日本に伝えられてはいて,つまり民青の活動家から教えてもらうことも多々あったのである.

 このようにして,私たち学生は,ベトナム戦争について一応の知識はあると思っていたのだが,それが大きな間違いだったことを知ったのは,ベトナムから米軍が撤退し,南北ベトナムが統一されたあとのことだった.

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2019年2月12日 (火)

アンコールを一目でも (三)

  ケネディが暗殺されたあと,リンドン・ジョンソンが大統領を継いだ.ジョンソンの業績については,Wikipedia【リンドン・ジョンソン】に,わかりやすくまとめられている.この記述にあるように,もしもケネディが戦争を始めなかったら,ジョンソンは内政に腕を揮い,歴史に名を遺す大統領になったかも知れない.しかしジョンソンにとって不運なことに,ケネディには,米国は人間の自由の守護神であるとの信念があった.そしてそれはジョンソンもほとんどすべての米国民も同じであった.ケネディの信念“ask not what America will do for you, but what together we can do for the freedom of man.”が彼らをベトナム戦争の泥沼に彷徨わせたのであった.
 1960年12月に結成された南ベトナム解放民族戦線によって,偶発的にであるが1964年にトンキン湾事件が勃発した.次いで1965年2月7日にはアメリカ軍事顧問団基地が解放民族戦線に攻撃され,アメリカ軍将兵が死傷した.これにジョンソンは怒り,北ベトナムへの爆撃 (北爆) を開始した.北爆の効果を過大に評価していた米国政府は,1965年3月8日にダナンにアメリカ軍海兵隊2個大隊3,500人が上陸し,本格的な地上戦を開始した.Wikipedia【リンドン・ジョンソン】から下に抜粋引用する.

ジョンソンはウエストモーランド司令官の要請を受けて1965年末には184,000人に増派し、サイゴンのグエン・バン・チュー政権と南ベトナム解放民族戦線(北ベトナムが支援しその背後には中ソがいた)との内戦であったベトナム戦争がアメリカのベトナム戦争となり、ベトナム全体が戦場と化した。以後トンキン湾決議に基づき全軍の最高司令官としての大統領に付与された権限を行使して、現地の最高司令官ウエストモーランドの要請に応えて小刻みに増派を繰り返し1965年末に184,000人、1966年末に385,000人、1967年末に486,000人、1968年末には536,000人がベトナムの地で戦い、多くの若者が暑いジャングルの中で心身ともに傷ついていった。戦死者数が1966年4,000人、1967年7,000人、1968年は実に12,000人に達した。また1961年から1971年まで全土で散布された枯葉剤は約70,000キロリットル、1972年末までに第二次世界大戦で米軍が使った量の3.5倍に達する爆弾総量がインドシナ半島に投下された。
 
 ベトナム現地からの増派要請にいくら応えても戦局は改善しなかった.むしろ次第に後退を余儀なくされるようになった.
 ベトナム戦争の歴史で忘れられがちなのが,戦争に果たした韓国の役割であった.米国でケネディが大統領になった年の5月,朴正煕第2軍副司令官がクーデターにより政権を掌握し,国家再建最高会議議長に就任した.朴正煕は国家再建最高会議議長は11月に訪米し,ベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた.目的は「ベトナム特需」であった.韓国が自ら参戦を望んだのは,アメリカを軍事支援することによって「ベトナム特需」と派兵の見返りとして経済援助を獲得するというものであった.Wikipedia【ベトナム戦争】の[韓国軍・SEATO連合軍の参戦]から引用する.
 
1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに、ベトナム一般市民の犠牲を尻目に官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓進、大宇などの財閥が誕生した。アメリカはその見返りとして、韓国が導入した外資40億ドルの半分である20億ドルを直接負担し、その他の負担分も斡旋し、日本からは11億ドル、西ドイツなどの西欧諸国からは10億3千万ドル調達した。また、戦争に関わった韓国軍人、技術者、建設者、用役軍納などの貿易外特需(7億4千万ドル)や軍事援助(1960年代後半の5年間で17億ドル)など韓国は無関係の第三国に軍事侵攻した事で漢江の奇跡と呼ばれる高度成長を果たした。
 
 ケネディ自身は韓国の自薦を受け入れなかったが,ジョンソンは1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた.韓国は,国ぐるみで「戦争の犬」となったのであった.
 この際に米国と韓国には,韓国軍が何をしても問わないという密約があったとする説がある.その根拠を私は知らないが,韓国軍の戦い方については Wikipedia【ベトナム戦争】の[韓国陸軍によるビンディン省攻撃と大量虐殺]に次の記述がある.
 
《・1965年10月にベトナムに上陸した韓国軍は同年12月から翌1966年1月までにビンディン省プレアン村、キンタイ村などを掃討、九つの村には化学兵器を使用し、また同時期にプウエン省のタオ村で女性市民42人全員を殺害した。
・1966年1月1日から4日にかけてブン・トアフラとヨビン・ホアフラ地方では市民の財産を略奪したり、カオダイ教寺院を焼き払い、仏教寺院から数トンの貨幣を横領した。ナムフュン郡では老人と女性7人を防空壕のなかでナパームとガスで殺害し、アンヤン省の三つの村では110人、ポカン村では32人以上の市民を虐殺した。
・さらに韓国軍は1966年1月11日から19日にかけて、ジェファーソン作戦の展開されたビンディン省で400人以上のベトナム人市民を、1月23日から2月26日にかけては同ビンディン省で韓国軍が市民1,200人を虐殺した(タイヴィン虐殺)。
・1966年2月にはベトナムビンディン省タイビン村で韓国軍猛虎部隊が住民65人を虐殺(タイビン村虐殺事件)、さらに2月26日には同ビンディン省で住民380人を虐殺したゴダイの虐殺が発生する。韓国軍は女性137人、老人40人、子供76人を防空壕のなかへ押し込め、化学薬で殺害したり、目を潰したといわれる。
・1966年3月26日から28日にかけて韓国軍はビンディン省の数千の農家と寺院を炎上させ、老若とわず女性を集団強姦した。同年8月までに韓国陸軍はビンディン省における焦土作戦を完了した。さらにブガツ省では3万5千人のベトナム人が「死の谷」で虐殺された。
・1966年9月3日には韓国陸軍第9師団(通称:白馬部隊)もベトナムに上陸する。
・同1966年10月には共同作戦中の米軍と韓国軍(猛虎師団、青龍師団、白馬師団等)が、ベトナム市民の結婚の行列を襲撃し、花嫁を含め7人の女性を強姦し、宝石を奪い、3人の女性を川の中へ投げ込む暴行事件が発生。その後、メコン川流域で19人の少女の遺骸が発見される。

 
「ベトナム特需」および米国から韓国への経済援助の他に,韓国軍兵士には米国から給料が支払われた.兵士はそのほとんどを家族に送金し,これも韓国経済を潤した.現在の韓国経済の基礎は,ベトナムの人々の殺戮,強奪,女性の凌辱の上に構築されたのである.私たち団塊の世代は,上京してベトナム反戦運動の中でこれを知り,それまで日本の植民地とされた被害者としての韓国のイメージを覆された.旧日本軍の侵略戦争よりも,現在進行形であるだけに,ショックは大きかった.
 今の若い人の「嫌韓」の理由を私は知らないが,高齢者に韓国に好感を持つ人が少ないのは,この朴時代のベトナム参戦が大きく影響している.日本のように形だけでも八紘一宇とかの大義名分を掲げることなく,単に金のために他国民を殺し,奪い,犯す国という韓国のイメージを,私たちは未だに覚えているし,死ぬまで忘れないだろう.
 さて,このような韓国の戦争の犬たちの戦いぶりに,次第に米軍は精神的に荒廃していった.「サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦」である.
 
・韓国海兵隊による無差別殺戮
 韓国海兵隊 (青龍師団) が1968年2月12日にクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の村民79人を殺害 (フォンニィ・フォンニャットの虐殺) し,同2月25日に同省ハミ村で村民135人を虐殺した (ハミの虐殺).
・米陸軍による無差別殺戮
1968年3月16日,アメリカ陸軍第23歩兵師団第11軽歩兵旅団のウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が,クアンガイ省ソン・ティン県ソンミ村のミライ集落において村民504人を無差別射撃で虐殺した (ソンミ村虐殺事件).
 
 もはや米国のベトナム戦争には大義も名分もなかった.“for the freedom of man”はどこかに行ってしまった.米軍の敵は解放民族戦線ではなく,ベトナムの村の人々になったのである.
 ソンミ村虐殺事件は,事件翌年の1969年12月,シーモア・ハーシュが『ザ・ニューヨーカー』で真相を報じたことが端緒となり,『ライフ』誌も報道して,米軍史に残る大虐殺事件が明らかになった.ハーシュの記事は“My Lai 4: A Report on the Massacre and its Aftermath”と題して出版され,1970年度ピューリッツァー賞を受賞した.
 これより少し前から,米国内での反戦運動が高揚を始めていた.米国のベトナム戦争介入の理論的支柱「封じ込め」政策を提唱した本人であるジョージ・ケナンが1966年に上院の外交委員会・ベトナム公聴会で,ジョンソンのベトナム政策は過剰介入だと批判した.1967年に入るとキング牧師らの公民権運動の指導者は公然と反戦の声を上げるようになった.これに呼応するかのように,学生たちの反戦運動の波が高まり,次第に全米に反戦運動が波及した,そしてその様子は,日本でも報道されるようになった.
 この年の11月,民主党政権のベトナム戦争最高責任者であったロバート・マクナマラ国防長官が辞意を表明した.マクナマラは,この戦争には勝てないと考えたのである.
 年が明けてベトナムの旧正月,1968年1月30日夜から北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線は南ベトナムに対する大攻勢,すなわち「テト攻勢」を開始した.Wikipedia【テト攻勢】とWikipedia【ベトナム戦争】とで僅かな齟齬があるが,この「テト攻勢」で解放民族戦線側は軍事的には失敗したが,米国の継戦意思を挫き,戦略的には成功したといえる.
 Wikipedia【テト攻勢】から一部を抜粋引用する.
 
南ベトナム事態は、メディアを通じて世界に報道された。特にテレビにより、生々しい映像がアメリカ合衆国に伝えられ、世論に大きな影響を与えた。また南ベトナムの国家警察総監グエン・ゴク・ロアン(阮玉灣)はサイゴンの路上で、解放戦線の捕虜、グエン・ヴァン・レム(阮文歛)とされる人物を拳銃で即決処刑した。その残酷な場面は、カメラマンのエディ・アダムズに撮影され、世論に衝撃を与えた。アダムズはこの写真(『サイゴンでの処刑』)、で1969年度ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を受賞した。
戦術的には、解放民族戦線側は損害の大きさの割に成果が少なく、攻撃は失敗に終わった。しかし、ベトナム戦争の終結は間近であると知らされていたアメリカ国民にとって、一時的にせよアメリカ大使館が占拠された事態は、衝撃をもって受け止められた。このような理由から、戦略的には解放戦線が成功を収めたといえる。
特に、フエやチョロンその他デルタ地帯の都市部への空爆の実態なども、改めて米国民の知るところとなり、アメリカ本土のベトナム反戦運動は非常に高まった。これにより、アメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンは、次期アメリカ合衆国大統領選挙への出馬を自ら取り止めた。

 
 ベトナム戦争の状況がこのような大きく変化した時に,私は大学入学試験を受け,合格して上京の荷造りをした.昭和四十三年の春三月であった.

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2019年2月11日 (月)

「エコノミック・アニマル」考

 連載旅行記《アンコールを一目でも》を書き始めて,今はまだイントロを書いているところだ.イントロとは,カンボジアの戦乱でアンコール遺跡が破壊されるまでのことである.
 カンボジアを舞台にした戦乱,通称カンボジア内戦は1970年 (昭和四十五年) にカンボジア王国が倒れてから二十三年の長きに亘って戦われた.
 そのカンボジア内戦が始まった昭和四十年代にはやった日本 (人) を表現するキー・ワードに「エコノミック・アニマル」という言葉がある.

 この言葉は『精選版 日本国語大辞典』で次のように解説されている.

昭和四〇年(一九六五)、アジア‐アフリカ会議でパキスタンのブット外相が日本人の経済活動を評価する意味で「日本人はエコノミックアニマルのようだ」と評したのが初めとされる。その後、主として東南アジア諸国への日本の経済進出に対する反発から日本人への蔑称となった。

 大雑把な話としてはこれでもいいのだが,正確に言うと間違いである.というのは「アジア・アフリカ会議」(略称はAA会議) は1955年 (昭和三十年) に一回開催されただけで,1965年の第二回会議は開かれなかったからである.我が国における国語辞典の根本辞典というべき日国にも誤りはあるということだ.
 それについて,昭和四十年 (1965年) 六月二十八日の日本経済新聞夕刊記事から一部を抜粋する.この日経の記事は,元外交官で宮内庁侍従も務めた多賀敏行氏の著書『エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった ― 誤解と誤訳の近現代史 ― 』(新潮新書,2004年) からの引用である.

"日本人は政治わからぬ動物"パキスタン外相が暴言
【アルジェ二十七日共同】第二回AA会議のパキスタン主席代表ブット氏は二十七日、アルジェの宿舎で記者会見し、AA会議延期のいきさつについて説明した。

 この記事は,上の引用箇所に続く部分が,内容的には共同通信の大誤報 (後述) なのであるが,共同通信が記事を配信した日付自体は正しいから,昭和四十年 (1965年) 六月末あるいは七月初めあたりに第二回AA会議が開催予定されていたが,延期されたということを意味している.そしてAA会議は,延期されたまま遂に開かれることはなかった.
 AA会議に関しては資料が新聞記事くらいしかないので断定はできないが,首脳会議である第二回AA会議の前に,おそらく外相会議が予定されていたと思われる.ところがAA会議常設準備委員会は,外相会議に諮らずにAA会議の延期を決めた.外相会議はAA会議の下部組織だったわけではないだろうから,それは特に問題ではないだろう.パキスタン主席代表ブット氏 (この時は外相,のちにパキスタン大統領,次いで首相に就任) が二十七日に記者会見したのは,これも推測だが,ブット氏が常設準備委員会の代表だったからではないかと思われる.

 ここから先は多賀敏行氏 (実は私と同年の生まれ) の推理なのだが,この時の記者会見席上で,ブット氏に「なぜAA会議を外相会議に諮らずに延期したのだ」と不当かつ執拗に絡む日本の地方紙特派員がいて,その人物とブット氏との間で一悶着あったらしい.そしてその応酬の中でブット氏が“economic animal”“not political animal ”という表現を用いたようだ.
 ところがその“animal”に共同通信が噛み付いた.なにしろ昭和四十年のことだから,共同通信社といえども皆が全員,ネイティブ・スピーカー並みに英語が堪能ではなかったようで,“animal”を“beast”と混同,誤解し,おまけに激昂して《"日本人は政治わからぬ動物"パキスタン外相が暴言 》と題して共同通信本社に打電したのであろう.それをまた日経 (この当時の日経は三流紙) が拡散した.私と多賀敏行氏の記憶は一致しているし,私の育った家では新聞は読売だったから,おそらく全国紙は皆この共同通信の配信を垂れ流したと思われる.

 日経の記事からの引用に続いて,共同通信の配信が内容的に大誤報だったと書いたのは,以上のことである.
 ブット氏は“econmic animal”に批判的意味を込めたわけではなかった,というのが多賀敏行氏の見解だが,私もそれに同意する.(多賀氏はさらに「誉め言葉だった」旨の意見だが,それには同意しない.animal は中立的な語だと思う)
 しかしこの報道以来,“econmic animal”という言葉は「エコノミック・アニマル」に日本語化して独り歩きを始めた.「日本は経済のことしか頭にない二流国家である」との意味に変質し,日本国内の知識人とメディアが自虐的に用い始めたのである.
 そして悲しいかな当時,「日本は経済のことしか頭にない二流国家」は事実であったし,エコノミック・アニマルが流行語だった時代に続いて田中角栄が登場して拝金主義が横行し,日本人はお金のことしか頭にない二流国民に成り下がったのであった.
 
 日本がどれだけ“econmic animal”ならぬ「エコノミック・アニマル」だったかは,国際外交において,如何にアジア・アフリカ諸国家が大切かを全く理解していなかったことに示されている.すなわち第一回AA会議に各国からは,中華人民共和国の周恩来,インドのネール,エジプトのナセル等の元首あるいは首相級が出席したのに,日本は外相代理級の代表 (高碕達之助経済審議庁長官) しか送らなかった.しかも日本代表が経済審議庁長官だったことは,まさに「日本は経済のことしか頭にない二流国家」だったことを示していた.
 このAA会議の第一回 (1955年) は「バンドン会議」とも呼ばれ,アジア・アフリカ諸国が平和と反植民地主義,民族自決を謳い上げた歴史的国際会議であったが,日本はこれに無関心であった.それは,その後のベトナム戦争に関して,日本が米国に無批判に追従した姿勢に繋がるものだった.

 
 以上は,連載記事《アンコールを一目でも 》の補足の意味で記した.

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2019年2月 8日 (金)

アンコールを一目でも (一)

 高校生の時,教科書か世界史の参考書にアンコール・ワットの写真が載っていた.1960年代の東南アジアの戦乱が激しくなる前に撮影されたものではなかったかと思う.美しい寺院だと思った.以来,その写真の印象は私の脳裏から消えることはなかった.
 
 第二次世界大戦が始まる前から,東南アジアは戦乱の地であった.
 東南アジア戦乱の当事者の一つは日本であったが,太平洋戦争に日本が敗北するや,この地に君臨していたフランスが植民地の復活を画策した.連合国の中心であった米国のルーズベルト大統領はフランス植民地の復活に反対していたが,1945年3月24日にルーズベルトが死去すると情勢は変わった.Wikipedia【ベトナム戦争】の「連合軍・自由フランス軍の再進駐」から下に引用する.
 
ルーズベルトが1945年4月12日に死去してからアメリカ国務省はインドシナ問題を検討し、4月20日に国務省欧州担当官はルーズベルトのあとを継いだトルーマンに対して「アメリカはフランスのインドシナ復帰に反対すべきでない」と、反共産主義の立場から進言し、同極東担当官も翌日同内容の進言を行った。6月22日にアメリカ国務省は「アメリカはフランスのインドシナ主権を承認する」との統一見解を決定する。
1945年7月26日に連合国によって開かれたポツダム会議で、「インドシナは、北緯16度線を境に、北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して、約6万のインドシナ駐留日本軍を武装解除してフランス軍に引き継ぎ、インドシナの独立を認めない」と決定された。9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言を受けて、南部に進駐していた駐英領インド軍のダグラス・グレイシー将軍は騒乱を理由にベトナム民衆から武器の押収をはじめる。9月6日には駐英領インド軍の部隊がサイゴンに入り、9月9日には盧漢将軍率いる中華民国軍がハノイに入った。
》 (引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)

 上の引用箇所の一部《9月2日のベトナム民主共和国の独立宣言》を補足すると,7月26日のポツダム会議では第二次世界大戦前のインドシナにおけるフランス植民地を復活させると決定されたが,戦時中から活動していたベトナム独立同盟 (ホー・チ・ミンヴォー・グエン・ザップが指導していた) は,8月15日に日本がポツダム宣言を受諾した旨を「玉音放送」すると,8月17日にハノイを占拠し,9月2日にベトナム民主共和国の樹立を宣言,ホー・チ・ミンが初代国家主席兼首相に就任したのであった.
 さてベトナムに進駐した連合軍は,ベトナム民主共和国の独立宣言などお構いなしに旧日本軍の捕虜収容所に入れられていたフランス軍将兵を開放し,再武装を援助した.フランス軍はサイゴン侵攻を開始し,公共機関を占拠してフランス国旗を掲げ,サイゴン全域を制圧した.翌月にはフランス軍増援部隊が到着し,ベトナム南部の独立を目指す勢力を一掃し,さらに北上を開始した.
 この動きに続いて1946年3月5日,連合軍東南アジア軍司令部は南部インドシナが連合軍統轄下よりフランス軍管理下に移行したと発表し,フランス軍は北緯16度線以南を接収した.フランス軍は3月18日にはハノイに侵攻し,同年5月までにラオスも制圧してインドシナ一帯を占領した.
 これより先に,ホー・チ・ミンらが率いるインドシナ共産党 (1930年に結成された) は,ベトナム北部に進駐した中華民国軍との軋轢を避けるために,1945年11月に一旦非公然化し,党員は公然組織ベトナム独立同盟会 (ベトミン) に加わった.
 1946年3月にフランスは,制圧したコーチシナ (ベトナム南部の,フランス植民地時代の名称) で傀儡国家であるコーチシナ共和国を成立させた.こうしたフランス軍の軍事行動に対してホー・チ・ミンらは抵抗し,1946年11月20日,ハイフォン港 (ベトナム北部の主要港) で密輸船取締りの際の銃撃事件を契機にしてフランスとベトミンとの全面戦争が開始され,インドシナ戦争 (第一次インドシナ戦争) が勃発した.
 開戦当初はフランス軍が全土を平定したかに見えたが,農村地帯に退避してゲリラ戦に移行したベトミンは次第に優勢となった.1947年10月,フランスは機械化部隊15,000人を投入して北部山岳地帯のベトミン軍拠点を攻撃したが敗北した.これ以後,ベトミン軍は守勢を脱し,ゲリラ戦から正規軍による積極的反攻にでた.
 これ以後の詳細は,Wikipedia【第一次インドシナ戦争】【ベトナム戦争】【ベトナム】などの記述に譲るが,それぞれの記述中のリンクを丹念にたどれば,Wikipedia だけでも相当詳しくインドシナ半島の近代史を知ることができる.上に私が述べたことも,Wikipedia の記述を要約したものである.

 結局,ディエンビエンフーの戦いにフランスは大敗し,ベトナムから撤退することになる.第一次インドシナ戦争におけるフランスの敗北については,士気の低さが指摘されることが多い.これについて Wikioedia【第一次インドシナ戦争】は次のように述べている.
 
手榴弾や小型地雷や罠で手足を切断され、ゲリラ容疑の村民を殺傷する掃討作戦によって身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士の姿に、フランス本国は大きな衝撃を受けた。このため1949年には本国軍徴集兵の海外派遣が禁止される法律が制定され、極東遠征軍団はフランス人志願兵・現地人・モロッコやアルジェリアおよびセネガル等の他の植民地人・ドイツ人やイタリア人などの外人部隊兵で構成されることとなる。
 
 この引用中の《身体と精神に障害を負い帰国した若い兵士》は,フランスからベトナムの戦乱を継承した米国が引き受けた運命に重なる.やがて米国がフランスの轍を踏むことになろうとは,米国民は想像もしていなかったであろう.
 さて,私たちの世代は,上に述べたフランスの植民地が消滅するまでのことは,後に学校教育において歴史的事実として学ぶことになったのであるが,1961年1月20日,米民主党のジョン・F・ケネディが合衆国大統領に就任して以後の東南アジアの戦火は,私あるいは私と同世代の人々にとって,歴史ではなく,自分の人生とリアルタイムに同時進行するできごとであった.

 ケネディ大統領という人は,不幸にも若くして暗殺されたが,逆にそれはある意味でラッキーだったかも知れない.ベトナム戦争は実質的にケネディが始めた戦争なのに,米国のみじめな敗北をその目で見ずに済んだからである.

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2019年2月 7日 (木)

琵琶湖竹生島 (補遺)

[1]
 まず酔っ払いの記憶違いを訂正する.
 竹生島旅行記を書き終えて,醍醐寺のパンフレットとか,入ったカフェのレシート,遊覧船のチケットの半券などを整理していたら,資料の中から店の名入りの箸袋が出てきた.それを見たとたん,記憶の大間違い気が付いた.私は彦根の四番町スクエアから歩いて彦根駅前に戻り,実はそこで飯屋の暖簾をくぐったのだった.飯屋の名は八千代といい,鮒寿司の一件はその八千代での話なのである.その店で結構酔っ払ったが電車に乗り,長浜駅で下車したはいいがホテルに行く前に,煤けたような飲み屋でハシゴ酒を食らったというのが事実である.それで,その線で《琵琶湖竹生島 》の (二) と (三) を訂正した.

[2] 
 長浜港から竹生島へ渡るクルーズ船の中に大きなディスプレイがあり,観光案内のビデオや歌をかけていた.竹生島が近くなった頃,ディスプレイに「琵琶湖哀歌」と歌のタイトルが映り,男声コーラスの歌が流れたのだが,それを聴いて私は心底驚いた.メロディーが「琵琶湖周航の歌」そのまんまだったからである.帰宅してから Wikipedia で調べてみたら以下の事情であることがわかった.

琵琶湖周航の歌
この曲は1917年(大正6年)6月28日、第三高等学校(三高。現在の京都大学)ボート部の部員による恒例の琵琶湖周航の途中、部員の小口太郎による詞を「ひつじぐさ」(作曲:吉田千秋)のメロディーに乗せて初めて歌われた。その後この歌は、三高の寮歌・学生歌として伝えられた。

琵琶湖哀歌
1941年 (昭和16年)6月にテイチクレコードから出された流行歌。
作詞を奥野椰子夫、作曲を菊池博が行い、東海林太郎と小笠原美都子が歌った。
 同年4月6日に琵琶湖でボート練習中に突風のため転覆し水死 (琵琶湖遭難事故) した第四高等学校 (現・金沢大学) 漕艇部の部員11人を悼んで作られたとされている。歌詞には遭難事故には全く関係のない琵琶湖八景が詠み込まれており、またメロディの半分ほどは琵琶湖周航の歌の借用である。東海林太郎と小笠原美都子のデュエットも即席で、レコードが発売されたのは、まだ遭難者の捜索が続いていた最中であった。
》 (当ブログ筆者による註;遭難者の捜索が続いている最中に,悲劇を金儲けのタネにするところが凄い.今ならネットで炎上だ)
 
 Wikipedia【琵琶湖哀歌】は《メロディの半分ほどは琵琶湖周航の歌の借用である 》とか《琵琶湖周航の歌 - しばしば混同される別の学生歌 》とかなんとか書いているが,借用でも混同でもない.琵琶湖哀歌は,完全なパクリと断定していい.YouTube はこれ.当時の日本が如何に知的所有権に無関心だったかがわかる.ちなみに作詞者の奥野椰子夫は,資料によれば,日本著作権協会理事であったという.日本著作権協会の黒歴史だ.w
 しかし,さらに言うなら,そもそも琵琶湖周航の歌自体がパクリなのであった.パクラれた「ひつじぐさ」のYouTube はここ
 琵琶湖周航の歌,琵琶湖哀歌のパクリ問題については,かなり専門的な議論が既にあるようだ.私は極悪非道な「ヒット曲」琵琶湖哀歌をしらなかったのだが,先人がわかりやすく整理してくれている
 この件の道義的問題につき,京都大学関係者や,経済的利益を得た加藤登紀子はどう考えているのだろう.
 
[3]
 彦根城の中の茶店「聴鐘庵」でいただいた和菓子「金亀 (こんき) 」を土産物店や駅で探したが見つからなかった.それで,帰宅してから通販で購入した.
菓心おおすが (大菅製菓 彦根市中央町4-39)

 水分活性が非常に低い砂糖菓子なので,冷蔵すれば相当な長期間の保存が可能だろう.賞味期限が切れて一ヶ月後に食べてみたが,全く劣化 (カビの繁殖) はなかった.化学的劣化について,冷凍して数年後に食べてみようかと思っている.どういう義理があってそこまでするのか自分でもわからぬが.

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2019年2月 6日 (水)

琵琶湖竹生島 (三)

 四番町スクエアから彦根駅前に歩いて戻った.長浜はすぐだから電車に乗ろうとも思ったのだが,さすがに空腹なので彦根駅前の飯屋の暖簾をくぐった.店の名は「八千代」といった.蕎麦もうどんも丼物もあるし,酒も飲ませるという広角打法の店だった.いつもはフレンチだのイタリアンなどとほざいている私だが,旅にしあれば,なんでもありの食堂や,商運既に傾いて煤けた飲み屋なんかがよろしい.旅人の旅情をなぐさめてくれるのは,その手の店である.
 飲み物は例によって例の如くハイボール.下の写真を撮る前に,串かつを食べて,ハイボールは二杯目.
 品書きを開いて,次は何にしようかと思ったら鮒寿司 (Wikipedia【鮒寿司】 によると正しくは鮒鮓と書くものらしい) があった.(↓の写真の角皿)
 
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 鮒寿司は,最初に食べた時の体験がその後の好き嫌いを決定するといわれる.ホヤと同じだ.ホヤは東北の漁港で水揚げされたばかりのものは美味だと聞いているが,私が初めて食べたホヤは,異臭のするゴム状のものだったので,それ以来,口にしない.
 鮒寿司を初めて食べたのは静岡市内の小料理屋であった.店の主人は京都の「たん熊」で修業した料理人で,鮒寿司は滋賀の知己から取り寄せているといった.その鮒寿司が実に旨かった.それで鮒寿司には抵抗感がないのであるが,しかしその店の鮒寿司が私の最初で最上の体験で,以来,それよりおいしい鮒寿司に出会ったことがない.今にして思えば,その店の鮒寿司は,滋賀から届いたものに何らかの「仕事」を施したものだったのだろう.程よい塩味と噛み応えだった.
 さて期待はしていなかったが,長浜駅前のチープ感あふれる飲み屋の鮒寿司は,私の鮒寿司体験の中で最低に位置付けられるものであった.とにかく塩がきつい.スルメのように硬い.臭い.そして異常に安い.w
 品書きに書かれた値段を見て私は,小皿に三切れほど載せられて出てくるものと予想していたのだが,上の写真のように無造作に,まるで〆鯖一人前のように盛られて登場したのである.滋賀土産で販売されている価格の半値ほどだから,飲み屋の旦那が趣味で自作したものかも知れない.とにかく硬くて,血圧が150を突破して耳から煙がでるくらいに塩辛かったので,食うのが苦行であった.
 ついでに書くと,角皿の隣の椀は,件の鮒寿司に付いてきたものだ.椀に湯が入っていて「これに鮒寿司を少し入れて鮒寿司汁にしてください」と店のおかみさんが言った.そして「塩気がたりなかったら調節してね」と,小瓶入りの塩も置いていった.
 言われた通りにしたら,三倍に強化された発酵臭が湯気と共に立ち昇った.食い物を粗末にしてはいけない.食い残してはいけない.食い物はすべてありがたいものだから,口が裂けてもマズイと言ってはいけない.そういう昭和の価値観を引きずっている私は,泣きながら鮒寿司汁を飲んだ.父上様,母上様,鮒寿司汁おいしうございました.幸吉はもう走れません.
 あとそれから,鉄皿に盛られた料理は,ほんとは何を注文したのか今となっては思い出せないのであるが,とにかく予想とは異なるものが鮒寿司に続いて大量に出てきたのである.画像の中の 巨大イトミミズ 赤い 血管のような ものは,滋賀名産の赤コンニャクを糸コンニャクにしたもの.鮒寿司汁でHPが大幅に減っていた私は,「あ,もういかなくちゃ,お勘定してくださーい」とわざとらしく言って支払いを済ませ,私の旅情をしみじみと慰めてくれた店を後にした.
 
 駅前からタクシーに乗り,予約してあった「北ビワコホテル グラツィエ」に着いた.
 チェックインしたら,目を見張るほどの美人フロント係に旧館へどうぞと言われた.「旧館てどこ?」と訊いたら,ホテルの玄関を出て,右に歩いたところにあるという.暗い道を歩いて旧館に着き,中に入るとホテルマンがいたので「飲み物の自販機は何階ですか」と訊ねたら,自販機は本館 (フロントのある建物) にしかないと彼は答えた.そして,この棟は門限があるとも言った.私は慌ててお茶のペットボトルを買いに本館に走った.
 このホテルは琵琶湖の竹生島クルーズが出る長浜港に至近なので予約したのだが,一人客には不便な旧館の部屋が割り当てられるらしい.フロントの前にいたたくさんの客の中で,旧館を割り当てられたのは私だけだった.
 二つの宿泊棟でサービスに差のあることが公式サイトで明示されていないのはよくない.宿泊プランに「旧館は門限あり.自販機なし」と書いてあれば,他のプランにしただろうし,もっとよいサービスのホテルを探したかも知れない.

 ということがあった翌日,チェックアウトして港に行った.写真手前の船が竹生島行きで,その後ろには琵琶湖の対岸に行く大きな船が停泊していた.
 
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 下の写真は竹生島に接近中の時に撮ったもの.船着き場はもっと左にある.
 
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 ウェルカムのポールはあるし,庭園でもないのに石灯籠はあるし,色んな石柱とか琵琶湖周航の歌の石碑はあるしで,竹生島はホスピタリティ満載なのであった.
 
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 数は少ないながらも巡礼姿の人々もいた.
 
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 下の写真は,本尊の弁財天 (宝厳寺では,厳島と江ノ島の弁財天を下に見て,竹生島は「大弁財天」だと言っている w) が祀られている本堂.
 
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 下の写真の弁財天像は前立ち像だが,本尊の完全なレプリカではないかも知れない.
 秘仏の本尊は六十年に一回開帳し,次の開帳は2037年となる.
 
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 宝厳寺弁財天については別稿で議論することにして,旅行記を続ける.
 竹生島の島内を一時間と十五分かけて参拝し,長浜に戻った.長浜港から市内へはバスがない.歩いて行ける距離ではあるので,朝の散歩代わりに歩いた.すると,長浜駅の手前に昔の長浜駅駅舎を保存している歴史資料館があったので,入ってみた.

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 鉄道資料館を出て長浜駅構内をスルーして,どんどん歩いて行くと「黒壁スクエア」に通じる小路があった.
 
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 長浜の黒壁スクエアは,Wikipedia【黒壁スクエア】に次の記述がある.
 
400年の伝統に支えられた寂れた商店街と古い住宅街が、今や湖北最大の観光スポットへと変貌を遂げている。町おこしの成功例として有名で、日本各地から視察が絶えない。
 
 この町起こしを企画した人々は確かにいいセンスをしてると思う.爺さん婆さんを集客するには内容不足だろうが,中学高校の生徒とか若い女性たちを集めるにはなかなかいいセン行ってる.彦根の出来損ない観光スポットとはエライ違いだ.
 黒壁スクエアには,修学旅行の生徒たちが立ち寄りそうな海洋堂が三店舗ある.その一つ「海洋堂フィギュアミュージアム」に入ってみた.

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 展示品は二階にある.階段を上がると大きいケンシロウとユリアが出迎えてくれる.
 
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 アニメ系のフィギュアもいいが,私は下の仏像フィギュアが気に入った.
 
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 海洋堂を出て,黒壁スクエアの中心部で飯屋を探したが,結局,交差点「札の辻」を東に折れてすぐの京極寿司に入った.どこでもお好きな席に,とカウンターの中の職人さんが言うので,カウンター席に腰掛けて,松花堂弁当とグラスの赤ワインを頼んだ.弁当もワインもなかなかおいしくて,昨夜の鮒寿司汁で受けたクリティカルダメージから私は回復し,フルHPになったのであった.
(連載了)

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2019年2月 5日 (火)

琵琶湖竹生島 (二)

 彦根駅に着いたのはまだ日が落ちる前で,夕飯には少し早いのでホテルへ行った.歩いていける距離である.
 予約しておいたのは「彦根キャッスル リゾート&スパ」だが,彦根城にはこのホテルが一番近くて,翌日の観光に都合がよい.
 それはよかったのだが,着いてみたらホテル付近に飲食店がない.それで,チェックインしたあと,また駅まで戻ることにした.
 彦根駅からホテルへ歩く途中で思ったのは,随分と静かな街だなあ,ということ.駅前の大通りを歩いてみたが,コンビニひとつないのではあるまいか.
 駅前にほとんど店がなく活気もない.他に「袋町」という飲み屋街があるらしいが,画像を見ると,激しく寂れまくっているようだ.
 諸兄におかれても異論はなかろうと思うが,初めての土地で居酒屋に飛び込むのは,旅の楽しみである.しかしこれだけ寂れた街は初めてで,どうしようかと途方に暮れた.結局よさげな店を探すのは諦めて,駅のすぐ前にある「いろはにほへと」という大き目の店に入った.ところが,すぐに気が付いたのであるが,この店は宴会向けで,お一人様が入る店ではなかった.私が店員さんに「こちらへー」と通されたのは六~八人は入ろうかという個室であった.そしてそれから,広いテーブル席にポツンと一人腰掛けて,黙々とハイボールを飲んだ.
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 この伝票で明らかなように,私は最初にハイボールを三つ注文した.ちまちまと注文の品を持ってきてもらうのが面倒くさかったからである.
 お通しとハイボール三つが到着し,それから酒肴を何にしようかと吟味した.彦根は内陸だが,「鰹の藁焼き」つまり鰹のタタキ,それと平目の刺身を頼んだ.開店すぐで客が少なかったせいか,二皿とも待たずに届けられた.そして食べてみたら,わるくない.この二品はリーズナブルだった.それで,いい店じゃん,と思ってハイボール大盛と串かつを追加注文した.だが,届けられた串かつを見て私は驚きの余り,席から床に転げ落ちた.東京とか神奈川の話だが,肉屋やスーパーの総菜コーナーで販売されている串かつの,半分ほどの太さだったのである.ウインナソーセージくらいの太さと言えばわかりやすいだろうか.
 この手の大きい店舗の居酒屋によくあることだが,これはたぶん業務用冷凍総菜である.そして私が串かつに対して抱いているイメージと随分異なるので不思議に思い,翌日,長浜の飲み屋でも串かつを注文してみた.すると,出てきたのは全く同様のものだった.その店は業務用食材を使うような種類の店ではなく,従って滋賀県の串かつはスリムタイプがデフォであると断定していいようだ.とはいえ,値段がすごく安いので文句はない.それと,後で調べたら滋賀では,串かつは,関東では「串揚げ」に相当するものらしくて,いろんなネタを串にさして揚げる.「串かつ屋」というジャンルの店があるらしい.なるほどねー,覚えておこう.
 というようなことがあった翌日,ホテルをチェックアウトして外に出ると,すぐそこに彦根城へ続く道路があった.道路の右側には「滋賀縣護國神社」があり,突き当りを右折したり左折したりすると,道の左側,内堀と反対側にに重文の「馬屋」があった.しっかり見学したのだが,写真を撮り忘れた.
 馬屋を過ぎてすぐ右側に,内堀を渡って城内に入る入口 (表門橋) があった.(地図参照)
 そこに「本日のひこにゃん」と書いた立て看板があり,ひこにゃんが出没する場所と時刻が告知されていた.魔法の国のネズミは複数同時に出没するけれど,ひこにゃんはどうなんだろう.出没予定の時間以外のときはなにをしてるんだろう.

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 城内に入ると「彦根城博物館」がある.ここには往時の表御殿が復元されている.
 
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 このかつての表御殿はいくつもの建屋が通路でつながった構造だが,そこにできる中庭というか空いたスペースは,かなり質素な佇まいである.下の写真は復元された庭園であるが,地味な印象である.武将の住居であるから,実際にもこんなものだったのかなあ,という印象を持った.
 
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 彦根城博物館では特別展として特別展「長曽祢虎徹 ― 新刀随一の匠 ―」が開催されていた.私は刀剣には素人だから虎徹と聞くと近藤勇を想起するが,これは嘘だという.そりゃそうだろなーと思う.
 各地の歴史資料館みたいなところで,刀剣の常設展示を観たことはあるが,この虎徹特別展のような催し物は私は初めてである.素人の感想だが,虎徹は新刀だけれど,あるいは新刀だからか,意外に美術的に美しい (銘の書体とか) ものだと知った.
 正宗とか虎徹とか,刀剣に精神性を付与する文化的傾向は日本独特のものなのだろうか.単なる刃物ではない刀剣で最も有名なのはアーサー王のエクスカリバーだ.「指輪物語」にも“named”な刀剣,グラムドリングオルクリストが登場する.しかし欧米の伝統では,刀剣そのものが固有の名称を持つことはあっても,村正や長船など刀鍛冶の名で呼ばれることはないのではなかろうか.と思ったら,日本にも天叢雲剣や草薙剣があった.よくわからぬ.誰か文化史的見地から刀剣史を書いてくれていないだろうか.
 博物館を出て,石の土留がある坂道 (表門山道;下の写真) を登り,重文の天秤櫓を眺めながら歩いて行くと,時報鐘の近くに聴鐘庵という茶店があった.
 
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 聴鐘庵の門をくぐり,茶店の中に入ると,小紋をお召しになった若い (当社比) お嬢さんが迎えてくれた.抹茶には「金亀」という御菓子が付いてきた.かなり甘いが,おいしいので「このお菓子はどこで買えますか」と訊ねたら,市内の御土産屋さんとか,どこでも買えますよ,とのことだった.
 
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 喉を潤してから順路を進み,本丸に到達すると国宝彦根城天守とひこにゃんの雄姿が.
 彦根城は,天守が国宝指定された五城のうちの一つである.他は松本城,犬山城,姫路城,松江城の四城だ.
 折角ここまできたのだから天守の中を見学したのだが,木造梯子のような階段が非常に急な傾斜に拵えてあり,すべり落ちはしないかと,昇降がひやひやものだった.これは,天守に攻め込まれても,敵兵が簡単に昇ってこられないような造りになっているのだろう.もちろん下から火をかけられたら一巻の終わりだが,燃え上がる火の中,天守最上階で城主は落ち着いて切腹できるというわけだ.
 
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 本丸の一角に展望台があり,琵琶湖や伊吹山の方向を眺望できる.この案内板の手前側に楽々園と玄宮園と書いてあるので,そちらへ廻ってみた.まず本丸の西北に進み,西の丸三重櫓のところから山崎山道を下る.右に折れてどんどん歩いて行き,黒門橋を渡って内堀の外側に出ると,楽々園の前に出た.
 
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 楽々園は正式名は槻御殿という藩主の下屋敷だとかで,建物部分を楽々園,その庭園部分を玄宮園と呼び分けているのだそうだ.一緒にして呼ぶときは楽々玄宮園である.
 
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 さて,楽々玄宮園の中を散策しながら,ここには何となく侘び寂びに繋がるものがあるなあ,という印象を私は持った.後で調べたら,歴代彦根藩主は茶の湯を嗜んだことで知られ,十三代藩主井伊直弼は石州流の一派を創立した茶人でもあったという.
 武家茶道あるいは大名茶と呼ばれる茶道は,門外漢の私は太閤秀吉の金ぴか趣味を連想するのだが,そうではないという.むしろ秀吉が異端者らしい.
 彦根城下には武家茶道の伝統が今も受け継がれているという.なるほどー.彦根に立ち寄った甲斐がある.勉強になりました.
 
 玄宮園を出ると,屋形船の乗船場所があった.訊くと,内堀を半周して戻ってくるのだという.この日は晴れて風もなく,船に揺られて遊覧も一興と思って乗り込んだ.乗客は私一人かと思ったら,出発間際に若い (当社比ではない) お嬢さんが乗ってきた.
 
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 船頭さんと乗客二人は,和気あいあと雑談しながら短い時間を楽しんだ.その時のことは旅から帰ってすぐに書いた.
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刀剣女子

 昨夜,近江の旅から帰った.
 帰宅して,予約しておいたテレビ番組を観たのだが,その一つが『歴史ヒストリア その切れ味は鋭く、美しく 日本人と刀 千年の物語』だ.
 番組内で,いま京都国立博物館で開催されている「京のかたな」特別展の様子が紹介されていた.展覧会来場者のほとんどは女性であるという.なるほどテレビ画面を見ていても,おっさんの姿はほとんどない.
 ガラスケースに収められた国宝級の銘刀をうっとりと眺める若い娘さんたちの表情が,何とも言えないくらい素敵だ.中には,涙を流しながら刀剣を見つめるお嬢さんもいて,もしかするとそれは,彼女が「刀剣乱舞」で育て,失い,もう二度と会えないキャラなのかも知れない.
 一昨日,彦根城の中堀を遊覧する屋形船に乗り込み,出発時間を待っていたら,あとから若い女性が乗ってきた.船頭さんと三人 (客は二人だけ) で雑談していると,どうやら彼女は刀剣女子であるらしかった.きっと「京のかたな」展にいった帰りに,彦根城でやっている「長曽祢虎徹特別展」を見に来たのだろう.
「いま女性に刀剣がすごい人気なんだそうですね」と私が言うと,彼女はとてもうれしそうに笑った.私にもっと刀剣の知識があれば,お茶に誘ったのであるが,残念であった.
ヾ(--;)
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 この内堀遊覧船は,江戸時代の屋形船を模したもので,それを条件に営業が許可されているのだと船頭さんは語った.あ,つい営業と書いてしまったが,この屋形船の運営主体は「特定非営利法人 小江戸彦根」という団体である.よくわからぬが,町おこしの組織なんだろうか.
 屋形船を下船 (実際は船から船着き場にあがるんだけれど w) して,また歩く.朝に城に入った表門を通り過ぎ,さらに行くと,中堀を渡って市街地に抜ける橋 (京橋) があった.その先に観光施設「夢京橋キャッスルロード」がある.
 屋形船の船頭さんは「お昼はキャッスルロードで食べるといいよ」と言ったのだが,昼飯時を過ぎてからキャッスルロードに到着したせいか,飲食店はすべて準備中の札を下げて,営業をしていなかった.ビジネス街なら昼休みの時間は決められているから,ランチタイムが過ぎたら休憩時間にするものだが,観光客には昼休みはない.観光客は腹が減った時がランチタイムなのに,なんという心得違いをしているのだろう,このキャッスルロードとやらは.彦根駅前に活気がないと既に書いたが,ここもヤル気が見られなかった.
 致し方なく先に進んで行くと左へ曲がる露地があり,その先に「四番町スクエア」という一角があった.
 
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ところが,である.下の写真を御覧あれ.
 
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 上の写真の,どこが大正ロマンなのか.コンセプトが大正時代なら「支那そば」と書かんかい.ビールは,サクラビールは現存していないから,売るならキリンのラガーしかあり得ぬ.そんな知恵も工夫もないのか.
 この一帯の店舗は,外壁等に最近の建材が使われていて,大正ロマンはカケラも見当たらなかった.たぶん各店舗は,大正ロマンの何たるかを理解していないし,外観を古い時代の民家に見せかける資金もセンスもなかったのだろう.その結果,こんなにデキの悪いテーマパークもどきができたのだ.
 
 国宝彦根城の観光は満喫したから,この城下町はもういいや,昼飯抜きで長浜に行こうと思ったが,さすがに空腹なので,彦根駅前で飯屋に入った.

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2019年2月 4日 (月)

琵琶湖竹生島 (一)

 再び近江に旅する.前回の旅は近江の観音信仰がテーマであったが,今回は竹生島の弁財天をこの目で観てみようということである.主目的はそういうことだけれど,ついでだからテ レビ番組みたいに「途中下車の旅」をしてみる.
 移動の経路は新幹線で京都駅に行き,竹生島への船が出る長浜まで引き返すことになる.それで,途中下車の最初は伏見の醍醐寺に立ち寄り,次に彦根で降りて彦根城を見学する.それから長浜へ,という段取りである.
 さて昨年十一月五日,藤沢駅七時過ぎ発の東海道線下り電車に乗り,三十分ほどで小田原着.新幹線ひかり503号・新大阪行に乗り換えた.久しぶりの新幹線である.出張に明け暮れていた現役会社員時代が脳裏に浮かび,少し懐旧の思いに浸った.かつての同僚たちはどうなんだろう.もう昔を思い出すことはないのだろうか.明日 (2/4),友人二人と昼飯を食うことになっているのだが,訊いてみようかしら.
 京都駅で昼酒を少しやって,それから軽く腹ごしらえをした.そうして八条口を出てぶらぶら歩き,醍醐寺直通の京阪バス乗り場に行った.植栽の縁石に腰掛けてバスが来るのを待っていると,歳の頃なら還暦くらいの御婦人が駅の方からやってきた.彼女は私を見て,ここは醍醐寺行きのバスですか,と訊いてきた.そうです,と答えると,私の隣に腰掛けた.そしてにこにこと笑顔で,どちらから来られました?と訊ねてきた.
 一人旅をするフレンドリーな高齢女性ってのは,私のタイプだ.ヾ(--;)
 若い娘さんというのは,ただもう見ているだけでよろしい.世間話をするなら,オバ 御婦人に限る.それで私は彼女と暫くのあいだ他愛もない会話を楽しんだ.実は十一月は,東京のサントリー美術館で「京都・醍醐寺 真言密教の宇宙」展が開催されていて,醍醐寺の宝物は東京に出払っているのだが,まあそれも境内が静かでいいですよね,なんてことを話したのである.
 やがて十二時少し前に京都駅発のバスがやってきた.私たちはなんとなく少し離れた席に着き,バスは三十分ほどで醍醐寺に着いた.彼女は先にバスを降りて,醍醐寺境内の入り口に向かって歩いて行ったが,途中で私を振り返った.旅は味噌漬け世は茄子漬よ (by 四代目柳亭痴楽) という.足早に歩いて追い付こうかという気が一瞬したのだが,しかし旅は一期一会を善しとすると思い直した.

 
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 京都駅からの京阪バスは,団体観光バス駐車場の端にあるバス停に止まる.
 バスを降りると (↓) の写真の右方向に醍醐寺境内の入り口が見える.
 
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 醍醐寺の境内 (案内図) はいくつかのエリアに分かれていて,駐車場をでるとすぐに「霊宝館エリア」の入り口だ.(↓) の写真正面の建物が霊宝館だ.中に入ると,なかなか見ごたえのある美術品が展示されている.古の日本の美術の保護に関して醍醐寺が果たした役割は大きい.寺の公式サイトには次のように書かれている
 
明治維新期には、いわゆる「廃仏毀釈」により、京都・奈良を中心とする多くの寺院は、財源を求め、仏像や什物の譲渡を余儀なくされました。特に海外への流出が盛んに行われたのもこの時期です。醍醐寺も大きな試練に立たされましたが、醍醐寺は、一山に伝わる一切の宝物を一紙に至るまで流出させないことを旨として、困難な時期を乗り越えることができました。
 
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 醍醐寺の宝物を鑑賞後,順路に沿って歩いて行くと,このエリアに入る時にはスルーしたのだが,日本家屋風の建物がある.近づくと「スゥ・ル・スリジェ」というカフェだった.本当は「French Cafe le clos Sous le cerisier (フレンチカフェ ル クロ スゥ ル スリジェ) 」というらしい.長すぎ.
 混んでなかったので,しばしの休憩とアイス・オレ.
 
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 辻に立っている案内 (↓) に従って,金堂・五重塔方向に進む.
 
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 さすがは音に聞く古刹醍醐寺.境内はとんでもなく広い.観光客は思ったよりも少なく,広い道の前方を歩いていた人は下の写真くらいなもの.
 
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 ここ (↓) が西大門 (仁王門) だ.その先には広い敷地に大伽藍が展開している.更にその先は醍醐寺開創の地「上醍醐」だが,台風のために大きな被害を受け,上醍醐への道路は閉鎖されていた.伽藍エリアも,樹林に被害があり,かなり倒木があったらしく,重機が入って修復作業が行われていた.
 
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 倒れた樹々を見ながら進むと,広々としたところに国宝金堂があった.撮影した位置にある石積みに腰掛け,長いこと金堂を眺めていたが,誰も近くを通り過ぎることがなく静かな時間を過ごした.
 
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 下はやはり国宝の五重塔である.村上天皇の天暦五年 (951年) に完成した京都府下最古の建造物である.拝観者は下から見上げる他ないが,はやりのドローンで撮影すれば,さぞかし美しかろうと思った.

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 拝観順路に従って進むと,不動堂と観音堂がある.観音堂は西国十一番札所である.
 
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 観音堂の向こうに,このエリアの食事処「寿庵」(↓) があった.ここでノンアルコールビールを飲んで休憩.
 
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 寿庵を出て,来た道を引き返し,三宝院エリアへ.下の写真は唐門だが,その隣に参拝客入口がある.敷地の中は重文の建物ばかりで,このエリアの中心である表書院は国宝だ.
 
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 表書院の中を進むと庭園がある.ここでは縁側というか通路というか,呼び方がわからぬが,とにかく赤い矢印を描きいれたところに正座して,庭園を眺めていることができる.私は三十分ほどもいたろうか.ここは静かな時間が流れるよいところであった.
 
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 三宝院を拝観したあと駐車場に戻り,そこのバス停で山科行のバスに乗った.山科駅からは琵琶湖線で彦根に向かう.

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