外食放浪記

藤沢近辺であれを食いこれを食べ.自炊のことや思い出話もむりやりここに.

2019年1月27日 (日)

記念艦三笠でカレーを (補遺)

 昭和三年の五月,戦艦長門の昼食にカレーが出されたという嘘がまかり通っている.

 私は《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 24) 》の中で,藤田昌雄『写真で見る 海軍糧食史』のp.113に掲載されている表《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》は,捏造された資料に基づくものであると断定した.理由は,その表では同年五月二十七日の海軍記念日の戦艦長門における祝宴で,祝賀献立ではなく通常の食事が供されたことになっているからである.そのようなことは断じてあり得ない.
 そしてこの表では,五月二十四日の昼食として次のように記されている.

カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉

 この引用箇所において,「カレー」は料理名で,生牛肉以下は食材名である.
 表《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》自体が嘘であるから,その表中に書かれている「五月二十四日の昼食がカレーであった」というのも嘘である.しかし,このわずか一行の記述から,真っ赤な嘘の大風呂敷を広げた男がいる.青山智樹という男である.アマゾンに載っているプロフィル (抜粋) は以下の通り.
 
東京都武蔵野市生まれ。学生の頃より同人誌「宇宙塵」に参加。東海大学理学部物理学科卒業後、高等学校に理科教師として勤務。一九九二年長編SF「赤き戦火の惑星」で商業デビュー。
 
 青山は,『自分で作る うまい! 海軍めし』(株式会社経済界,2010年) という著書の中で,表《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》中の《カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉 》を基にしてビーフカレーライスのレシピを創作し,その創作料理を「戦艦長門の昭和3年5月24日のめしを再現した」としている.
 そして,この「再現メニュー」をブロガーたちが出典を隠して無断転用し,その結果,長門でカレーが食べられていたことになってしまっている.
 この『自分で作る うまい! 海軍めし』が流通している限り,「戦艦長門のカレー」という嘘は拡散し続けるだろう.青山智樹が作家であるなら,フィクションは小説だけにして欲しいものだ.
 
 高森直史という元自衛官のデマゴーグがいる.この男は,東郷平八郎が舞鶴鎮守府で肉ジャガを考案したという嘘話をデッチ上げ,舞鶴の町おこしを立ち上げた者たちの一人である.
 その高森が昨年,『海軍カレー伝説』(潮書房光人新社,2018年) を出した.「肉ジャガは海軍が発祥」の嘘はよく知られているところであるが,自分のついた嘘がばれていることを知らないらしく,図々しくもまたその虚説を本書中で繰り返し,逆に「カレーは海軍が発祥」は根拠がないと否定している.嘘吐きである上に裏切者だという呆れた男である.この男の『海軍カレー伝説』は,またまた「肉ジャガは海軍が発祥」というデマを拡散するだろう.困ったことである.
 
(連載終了)

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2019年1月26日 (土)

記念艦三笠でカレーを (軍港クルーズ編)

 記念艦三笠での「海軍カレー」昼食を済ませたあとは,横須賀軍港クルーズだ.船の発着場は「汐入ターミナル」というようだが, そこまではみんなで歩いて行く.途中に通称「どぶ板通り」商店街があるので,そこを観光したり,気に入ったものがあればショッピングしましょうとの意図である.しかし想像していたほどにはミリタリな服の店はなくて,結局素通りした.
「どぶ板通り」からまた少し歩くと,汐入ターミナルがあった.(下の画像)

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 クルーズ船の発着場で列を作って待っていると,やがて出航時間となった.船が接岸しているミニ桟橋のところで,長身スレンダー美女がお出迎えしてくれた.コスパよし
 実はこの美女が軍港クルーズのナビゲーターなのであった.出航ののち,彼女はマイクを持っていささかも途切れることなく,港内の艦船についての解説を続けた.FM放送局のDJのようで,実に恰好よかった.軍オタ諸君,喜べ! このクルーズはおすすめだ! 生きている艦コレだ!

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イージスシステム搭載ミサイル護衛艦あしがら

 イージスシステム搭載艦がイージス艦だ.改めて調べてみたら,Wikipedia【イージス艦】に《イージス(Aegis)とは、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという、あらゆる邪悪を払う盾(胸当)アイギス(Aigis)のこと 》とある.軍オタ諸君,喜べ! イージスはアテナの盾かと思ったら 胸当のことみたいだぞ! 君らは払われちゃう邪悪のほうかも知れないけどな! 私も払われちゃうかもな!
 上の「あしがら」は舷側方向から撮影したものだが,前方から見るとイージス艦は特徴的な姿をしている.下の画像は米軍のイージス艦 (アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦) だが,赤い矢印の六角形のところにイージスシステムが搭載されているのだそうだ.
 
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(米国艦 DDG-65;パブリックドメイン画像)

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(左) 海洋観測船しょうなん;(右) 艦載兵器実験艦あすか
 
 海上自衛隊の艦船は船首に識別番号が書かれている.識別番号が三桁の艦は護衛艦であり,四桁の艦はそれ以外の特殊な機能を有する艦だそうだ.クルーズナビゲーターの美女は,完全に各艦の番号が頭に入っているようだった.
 自衛隊の艦はグレーに塗装されているが,横須賀軍港に入港する友好国艦船の中には,特有の色の艦があるという.たまたまその日に停泊していた外国艦について「あ,あの色のは○○○の艦ですね!」などと説明してくれた.
 私は,その種のムダ知識 (軍オタではない者にとっての) をたっぷり頭に入れ,着岸したクルーズ船から降りて帰路の人となった.

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記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 25)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 24)》の末尾を再掲する.
 
戦後,カレーライスが国民食となったのは,昭和十二年版『軍隊調理法』と,大陸の戦地から生還した陸軍兵士たちの手による.高齢者世代は,その過程を遠い目で思い出すのである.
 
 戦争中はカレー粉の製造に必要なスパイスは軍が独占していたが,戦後はこれが解放されて,市中にカレー粉が不自由なく出回るようになった.全国の家庭で同時多発的にカレーライスが食膳にのぼるようになった.だから,ある日突然に,カレーライスは横須賀が本家なんですと言われても,何言ってんのあんた,という感じであった.子供の頃,母親が作ってくれたカレーに「それって実は,お母さんの味ではなくて,横須賀の味なんですよね」とケチをつけられた気がして,おそらく今の高齢者たち全員から横須賀は嫌われたと思う.
 年金暮らしになった私は暇だから,「そこまで言うなら本家本場のカレーとやらを食ってやろうじゃないか!」と思って,クラブツーリズムの日帰りツアー「日本遺産認定記念 横須賀軍港クルーズと猿島 特別に記念艦三笠の中で海軍カレーの昼食」に参加したのであった.
 
 というわけで猿島観光から,記念艦三笠が固定されている横須賀新港へ戻ってきた私たちツアー一行は,ここで猿島を案内してくれた現地ガイドさんたちと別れた.
 
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 (↑) 船着き場から公園に入るとすぐに三笠が見える.(アクセス)
 
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 (↑) この階段から上甲板に上ると,すぐ中甲板へ降りる階段がある.中甲板の端に,きれいに復元された士官室があり,私たちはそこで昼食のカレーを食べることになった.
 
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 (↑) これがそのカレーライスだ.横須賀市内にあるセントラルホテルのティーラウンジ「ボンジュール」からの出前だという.これはツアーの企画で,三笠の中でレストランが通常営業しているわけではない.
「ボンジュール」では,グランドメニューではなく,要予約の団体専用カレーである.ホテルで食べる時はグリルした野菜を載せたライスと,カレーが別になっている.名称こそ「海軍カレー」だが,見ての通りの歴とした欧風カレーである.でも,牛乳とサラダを添えれば「海軍カレー」を名乗ってもいいのだ.w
 横須賀市内の他の店では,「海軍カレー」は千円少しの価格だから,「ボンジュール」のカレーライスは別格のいわゆるホテルのカレーだ.なるほどおいしい.ツアー参加者に地元の人がいて,これが目当てで参加したと言った.市内のカレー屋の「海軍カレー」は人気がないのだという.「あの値段で,あの程度の味のカレーならコスパ的にナシです.自分ちで作ったほうがよほどおいしいです」と言っていた.町おこし「海軍カレー」轟沈す.ww
(市内の店の「海軍カレー」がどんなものかという画像)
 
 食後,艦内を一通り観て回った.
 
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 (↑) 主砲の復元模型.その奥は艦橋.主砲模型は近くで見るとちょっとチャチ.昭和の特撮映画的な質感.
 
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 (↑) 上甲板にある日本海海戦の図.
 
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 (↑) 中甲板に展示されている三笠の艦首飾りと艦隊旗.いずれも本物.
 
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 (↑) 将官用の洗面台とトイレ,バスタブ.戦後,盗掘されたピラミッドの如く,家具調度品が盗まれて三笠は荒廃したが,復元に際しては海外からの寄贈を受けたという.
 
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 三笠を降りると,公園の端に売店があった.記念艦三笠観光の御土産が売られている.私はレトルトの「海軍カレー」を二つ買った.左側は横須賀市内の店「ウッドアイランド」の委託製造品.製造者は大阪市鶴見区にあるベル食品工業.店の献立を基にしてレトルトカレーなどを製造してくれる会社だ.右側は同じく横須賀市内の横須賀海軍カレー本舗のもので,同様にベル食品工業が製造している.
 ウッドアイランドのレトルトカレーを試食してみた.白飯は大塚食品の「マンナンごはん 百四十グラム」で,カレーは二百グラム.酸味を抑えた甘口のレトルトカレーで,レトルトカレーとしてはおいしい部類だが,なにしろハウスやエスビーなどの製品が二袋買える値段だから当然だし,じゃ二倍おいしいかというと,そういうことはない.リピートなしということで決定!
 横須賀海軍カレー本舗の……(中略)……じゃ二倍おいしいかというと (以下同文)

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2019年1月25日 (金)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 24)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 23) 》の末尾を再掲する.

次はさらに重要なことだが,『写真で見る 海軍糧食史』に掲載されている《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》はかなり信憑性が低いと考えられるのだ.
 
『写真で見る 海軍糧食史』のp.85~p.91には,海軍の記念日 (年五回) において特別な祝賀献立が将兵に供されたことが詳しく述べられている.写真も数葉が掲載されている.この写真を見ると,陸上部隊でも艦船においても,式典と共に祝賀会が催されたことがわかる.この祝賀会の献立例 (昼食) を同書p.89の表《海軍記念日前後の軍艦用兵食献立 昭和5年 》から,海軍記念日当日の祝賀献立部分を下に引用する.ただし表罫線は用いず,見やすい形に整理した.

[ 区分 5月27日 昼食 ]
料理              食材
--------------------------------------------------------
飯                白米
 
盛合せ ボイルドハム   燻製肉・(鶏卵)・(蒲鉾)・(明礬少々)・甘藷
      卵の巻焼
      二色蒲鉾
      金糸澱粉
ココア羹            (ココア)・(寒天)・(三本行)
小皿ぬた          生鰮・葱・白赤味噌・(辛子)
うしお             生鯛・晒葱
菓子折            三十銭位のもの
漬物              奈良漬
--------------------------------------------------------
 

 少し註釈をすると,上表中の ( ) の用法は意味不明である.「金糸澱粉」の正体が不明だが,祝い膳であることから推察するに,澱粉は田麩のミスタイプで正しくは「金糸田麩」,つまり金糸玉子の上に桜田麩(さくらでんぶ) をトッピングしたものかも知れない.次の「三本行」もわからない.ネット上の質問サイトには,「三本行」は三本コーヒーではないかという説があるが,三本コーヒー株式会社の創業は昭和三十二年であるから,これは嘘である.また海軍の食糧リストで,コーヒーは珈琲と書かれている.

 さて,上記の祝賀会昼食献立で,主菜が祝い膳的な内容であること,汁物が豪華に鯛の潮汁であること,デザートが付いていることの他に,特記すべきは,いつもの主食は麦飯であるが,祝賀会の献立ではハレの食事に相応しい銀シャリであることと,菓子折が付いたことである.菓子折は,羊羹や饅頭だったようである.
 
 これに対して,《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》から海軍記念日の昼食を引用すると下の通りである.
 
[ 区分 5月27日 昼食 ]
料理              食材
--------------------------------------------------------
混飯              白米・割麦・椎茸・干瓢・生牛肉・甘藷・白隠元・三本行
亀甲煮キントン澄汁     豆腐・葉付玉葱・削節・味の素
漬物              奈良漬
--------------------------------------------------------
 
 これを見ると,麦飯の混ぜご飯と豆腐の味噌汁という一汁一菜である.デザートも菓子折もない.すなわちこれが帝国海軍連合艦隊主力戦艦長門の,海軍記念日祝賀会の食事であるわけがない.
 推察するに,著者の藤田氏は,トンデモないインチキ資料 (後世の創作物か?) を掴まされて,それを基に《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》を書いたのではないか.
 こうしてみると,戦艦長門の昭和3年5月24日の昼食がカレーだったという話は,とたんに嘘くさくなってくる.献立を再掲しよう.
 
日時      区分 料理  食材
 5月24日木曜日 昼食 カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉
 
 前回の記事に登場してもらったブロガーは,戦艦長門のカレーを作ろうとして大失敗をしたわけだが,ここに書かれた食材がそもそもカレーらしくない.小麦粉とラードが使われていないのが大いに疑いを深める.ニンジンはなくても構わないが,大根とサツマイモはいかがなものか.もしかするとこれは,件のブロガーも《「カレーという名のカレー味の煮物だったかもしれない」と悩んだんですが 》と書いているように,まさにカレー風味の具だくさん汁だったのではないかと思われる.(煮物だとすると,汁物がなくなって恰好がつかないから)
 以上,《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》は,
事実でないと結論される.
 ある料理が軍の調理教本に掲載されているということと,それが実際の兵食として給食されていたかどうかは別の話であり,実際がどうであったかは確かな資料で実証されねばならない.
 実はこの表こそは,横須賀鎮守府と「海軍カレー」を結びつけるたった一つのデータであった.それが信用できないのであるから,嘘を広めて横須賀市民と国民を騙し,「海軍カレー」を宣伝してきた横須賀市当局の罪は重い.
 
 私の母親は,夫が陸軍復員兵だった奥さんにカレーの作り方を教えてもらった.ある日の夕食,私の家族は母が拵えたカレーの鍋を卓袱台の上に置いて,各自が皿に麦飯を盛り,スプーンでカレーライスを食べた.思い出は最上の調味料と言うが,あれはうまかった.そして父は,長門じゃあこんなものは食べたことがなかった (*) と言った.(昭和十四年から十九年までのこと)
 戦後,カレーライスが国民食となったのは,昭和十二年版『軍隊調理法』と,大陸の戦地から生還した陸軍兵士たちの手による.高齢者世代は,その過程を遠い目で思い出すのである.

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2019年1月24日 (木)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 23)

 昨日の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 22) 》の末尾を再掲する.

さて,横道に逸れたが,横須賀鎮守府所属の艦隊や海兵団で,カレーライスが食べられていたかどうか,という話に戻る.
 
 日本海軍における食糧と食事に関するネット記事で,頻繁に登場する書籍がある.藤田昌雄『写真で見る 海軍糧食史』(光人社,2007年;私の蔵書は旧装版であるが現在は新装版が出ている) である.著者の藤田氏がどのような人物であるかはよく知られていない.昭和四十七年生まれの軍事史研究家と一部の著書に書かれているだけである.この本は労作であることはわかるのだが,著者はたぶん歴史書や専門書を書くためのきちんとした勉強をしていない (ただし本書の文章そのものは,著者が高等教育を受けていることを示唆している) と思われる.というのは,収録されている写真,図版や表等のデータに関して,僅かな例外を除いて出典が示されていないのである.それ故,もちろん,それらのデータの著作権関係がどうなっているかの言及は一切ない.従ってこれは趣味本の域を出ておらず,それどころか違法出版物である可能性があり,この書籍の文献資料的価値はゼロである.(ちなみに旧装版を出していた光人社は買収されて産經新聞社の子会社となり,現在の社名は潮書房光人新社という.軍事オタク御用達の出版社である.データに出典を示さない著者を許容しているのは,おそらく意図的なものだろう.三流出版社がやりそうなことである)
 だが世の中には「ミリメシ」(「ミリタリー」+「飯」) 愛好家という頭の悪い連中がいて,彼らは,この本に書かれていることがおもしろければ,その真偽なんかどうでもいいらしいのである.彼らの頭の中身を示す例を一つ下に挙げる.

戦艦長門のカレーをつくってみよう!
 
には《相変わらずの適当再現だけど、今回の参考文献は『写真で見る海軍糧食史』(藤田昌雄 著)です 》と書かれているので,『写真で見る 海軍糧食史』のベージを繰ってみると,p.113に《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例》と題した表が載っている.その表に「5月24日の昼食」について次のように書かれている.出典は示されていない.
 
日時      区分 料理  食材
 5月24日木曜日 昼食 カレー 生牛肉・馬鈴薯・大根・甘藷・玉葱・カレー粉
 
 これを読んだ件のブロガーは
 
作り方や分量どころか使用する調味料の種類すらわからない!
カレーの材料に小麦粉が含まれてないので「カレーという名のカレー味の煮物だったかもしれない」と悩んだんですが、海軍割烹術参考書(明治41年のだけど)に倣って小麦粉でとろみをつけたふつうのカレーを作りました。
作り方もこれに倣ったので、明治の海軍カレーと昭和の海軍カレーのキメラみたいなものになってますね。
まあ美味しかったからいいや。

 
 長門のカレーを作ると言っておきながら,『写真で見る 海軍糧食史』に書かれていない材料 (小麦粉,グレープシードオイル) を使い,しかも肉やジャガイモの使用量の記載はない.その上,長門が所属していた横須賀鎮守府とは関係ない『海軍割烹術参考書』を見ながら作っている.昭和3年の献立であれば,舞鶴海兵団の内部資料『海軍割烹術参考書』ではなく,海軍当局が編纂した正式教本である『海軍五等主厨厨業教科書』を参考にしなければならないはずだ.それくらいの知識もないのに戦艦長門のカレーなどと誇大なことを書くものでない.愚か者めが.w
 ちなみに『海軍五等主厨厨業教科書』は大正七年に海軍教育本部が編纂し,帝国海軍社出版部が出版した書籍である.現在は著作権保護期間満了のため,国会図書館デジタルコレクションが一般に公開している.なおアマゾンがこの本の「復刻版」と称するKindle版を公開しているが,これは 改竄  二次加工されたものであり原本の形をとどめていない.また商品紹介ページに「海軍省教育本部」とあるが,これは「海軍教育本部」の誤りである.書誌事項を間違ってどうするのだと言いたい.で,下に「ライスカレー」の箇所を国会図書館のサイトから画像で転載する.舞鶴海兵団の『海軍割烹術参考書』では「カレイライス」であったが,海軍の教本『海軍五等主厨厨業教科書』では「ライスカレー」となっている.

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(『海軍五等主厨厨業教科書』から抜粋した画像;著作権保護期間満了の書籍)
  
 実は同じブロガーが《戦艦長門のカレー(改) 》を書いている.前作の味がまずかったと見えて,今度は戦艦長門のカレーを再現せんとして,陸軍の『軍隊調理法』を見ながら作っておる.本人も《海軍めしを作るのに陸軍の本を参考にするのもアレですが、長門のカレーは分量の記載がないので。》と言い訳しているが,情けないことこの上ない.w
 情けない,とは言うものの,このブロガーには同情すべき点もある.
 まず第一に,現在,調理というものは,調理科学という学問分野があるように歴とした科学であるからして,再現性の概念が根底にある.調理の再現性を支えるのは計量であるが,調理における計量の重要性が軍隊で認識されるのは,言い換えれば日本海軍における給食調理が「体で覚えろ」式から科学となったのは,もう少し後の時代なのである.しかも,『写真で見る 海軍糧食史』に掲載されているのは単なる献立表であってレシピではない.従って件のブロガーが「戦艦長門のカレー」を再現するなんてことは,土台無理な話だったのである.
 ちなみに,日本海軍では,大正七年 (1918年) の『海軍五等主厨厨業教科書』に続いて昭和十三年 (1938年) に『海軍四等主計兵厨業教科書』,昭和十八年 (1943年) に『海軍主計兵調理技術教科書』が刊行されている.厨業の正式教本であるこの二冊は,残念ながら国会図書館に所蔵されていない.
 しかしこれとは別に,海軍の教科書ではないが,「海軍経理学校研究部」が昭和七年に『海軍研究調理献立集』を刊行し,艦船や海兵団に配付された.この『海軍研究調理献立集』に採用された料理の一部が『写真で見る 海軍糧食史』に引用されており,それを見ると,材料の量が記載されており,ほぼ実用レシピと言っていい.つまり昭和七年以前には,まともな調理教本が作成されるようになっていたと推察される.陸軍は昭和十二年にほぼ完成形の『軍隊調理法』を刊行していたから,海軍の『海軍四等主計兵厨業教科書』も同水準のものであった可能性が高い.
 次はさらに重要なことだが,『写真で見る 海軍糧食史』に掲載されている《戦艦長門週間兵食献立 昭和3年5月の例 》はかなり信憑性が低いと考えられるのだ.

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2019年1月23日 (水)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 22)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 21) 》の末尾を再掲する.

次回は,「横須賀海軍カレーの嘘」について記す.
 
 横須賀市当局と市内のカレー屋たちは,横須賀市の町おこしサイト《カレーの街 よこすか 》のコンテンツ《よこすか海軍カレーとは 》の中で《海軍とともに歩んできた街 “横須賀”。 横須賀はカレー発信の地なのです 》と宣伝しているが,現在,日本の食文化史研究家で,これを正しいと考えている人は一人もいないだろう.このコンテンツに書かれていることのうち,最も悪質な嘘,すなわち海軍軍医高木兼寛が海軍兵食にカレーライスを取り入れたと述べている箇所については,この連載の中で資料を用いて嘘であることを説明した.
 また同コンテンツの冒頭に,
 
明治41年に発行された「海軍割烹術参考書」には、当時日本海軍で調理されていた軍隊食のレシピが記されており、カレーライスの作り方についても記載があります。
…中略…
海軍割烹術参考書のレシピをもとに、現代に復元したカレーが「よこすか海軍カレー」なのです。
 
とあるが,《「海軍割烹術参考書」には、当時日本海軍で調理されていた軍隊食のレシピが記されており 》は真っ赤な嘘である.『海軍割烹術参考書』には帝国海軍当局は関与していない.この書籍は舞鶴海兵団で編纂された内部資料なのである.『海軍割烹術参考書』には佐世保海兵団の料理参考書を参照したことは書かれているが,横須賀海兵団には言及がない.また横須賀海兵団に同種の教本があったかどうかについては,これまでに書籍の現物が一冊も見つかっていないことからすると,おそらく横須賀海兵団では料理教本は作成されなかったと考えられる.
 しかし「横須賀海兵団にカレーライスはなかった」のでは,横須賀市と市内のカレー屋たちは,海上自衛隊横須賀地方隊の入れ知恵で 海軍カレーで町おこしを企んでいたのに大変困ることになる.そこで『海軍割烹術参考書』が舞鶴海兵団の教本であることを隠し,あたかも横須賀海兵団に関係があるかのように でっち上げ 宣伝することにしたのだろう.海軍当局が編纂した教本だということにすれば,横須賀市が町おこしに使用してもよいことになるからだ.
 ここで不思議なのは,本来は舞鶴市の町おこしのネタである「海軍割烹術参考書」を持っていかれた舞鶴市が,なぜ横須賀市に抗議しないのかである.ところが実は,舞鶴市は肉ジャガは舞鶴海兵団が発祥だとする虚偽に基づく町おこしをやっており,横須賀と舞鶴は同じ穴の貉なのである.嘘つき同士の助け合いみたいな形である.
 横須賀市の公式サイトのコンテンツ《カレーライス誕生秘話 》は,さすがに地方自治体の公式サイトであるから,同市の町おこしサイトよりは遠慮がちに嘘を書いている.高木兼寛や『海軍割烹術参考書』などを持ち出すと,市民から問い合わせがあった時に困るので,具体的なことは書かないようにしたと思われる.
 しかし,横須賀の町おこしに絶対必要な嘘はつかざるを得ない.それが次のセンテンスである.
 
こうして、日本海軍の「軍隊食」となったカレーライスは、故郷に帰った兵士が家庭に持ち込むことによって全国に広がっていきました。
 
 同じことが横須賀の町おこしサイトにも書かれている.
 
その後、カレーライスは兵役を終え故郷に戻った兵士たちにより全国に広まっていきました。
 
 彼らが主張するように本当に横須賀海兵団でカレーライスが食べられていたのか.そしてそれが全国に広まって,カレーライスが国民食と言われるまでになったのか.
 これについて,私の父親の話をする.
 私の父は新潟県中蒲原郡の生まれで,農家の三男坊であったので,口減らしのために海軍を志願した.
 昭和十四年に戦艦長門の乗員となり,昭和十九年に肺結核を発病したため長門を降り,故郷の新潟県長岡市にあった海軍病院で療養生活に入った.最終の階級は兵曹長であった.
 戦後は,海軍病院で看護婦をしていた私の母親と群馬県前橋市に移住し,最下級の公務員に就職して所帯を持った.昭和二十年代の中頃は,栄養失調寸前の貧しい生活であったと後に母は語った.
 しかし朝鮮戦争特需を契機として,昭和三十年代には経済成長が始まり,ようやく庶民は日々の飯を満足に食えるかどうかの不安から解放された.貧乏人でも,たまには豚肉を食べられるくらいには日本は復興したのであった.
 そんなある日のこと.近所に住んでいた父親の同僚で,北支戦線から復員してきた元陸軍兵士がいた.その人は奥さんに「辛味入り汁掛け飯」を作ってみせたという.戦地に送られる前に,内地の兵営で覚えたという話だった.
 その奥さんが,近所で親しくしている私の母親他の婦人連に「辛味入り汁掛け飯」すなわちカレーライスの作り方を教えて広めた.私の母は早速その陸軍式のカレーを作り,いつも煮物と漬物しかない家族の夕食に出した.父はそのカレーライスを食べながら,長門じゃあこんなものは食べたことがなかったと言った.
 
 戦艦長門は大正六年八月に広島県の呉海軍工廠にて起工,大正九年十一月に竣工した.長門型戦艦の一号艦であり,同型の姉妹艦は陸奥である.陸奥は佐世保鎮守府所属,長門は横須賀鎮守府所属となり,横須賀が東京の海軍省や軍令部と往来が容易なため,完成時は長門が連合艦隊旗艦に選ばれた.以後,長門と陸奥は交代で連合艦隊旗艦を務め,両艦は日本海軍の象徴として国民から親しまれた.
 太平洋戦争開戦時,長門は連合艦隊旗艦として姉妹艦の陸奥と共に第一戦隊を形成していた.南雲機動部隊が真珠湾攻撃を実施して成功をおさめるや,長門や陸奥など瀬戸内海在泊の戦艦六隻を中核とする主力部隊は,南雲機動部隊の退却支援を目的に出撃した.この時点では,のちに連合艦隊主力艦となる戦艦大和は,まだ試験航海途上にあった.
 これ以降の長門の戦歴は Wikipedia【長門 (戦艦)】の解説に譲るが,昭和十九年 (1944年) 十一月十六日,戦艦三隻 (大和,長門,金剛) と駆逐艦隊はボルネオ島北部のブルネイから日本への帰路に付き,敗戦までの期間,これが長門の最後の外洋航海となった.同年十一月二十五日,駆逐艦隊に護衛されて長門は横須賀港に到着し,損傷箇所の修理や整備を実施するも,燃料と物資の不足により,これ以後外洋に出撃することはなかった.大正時代に建造された旧式戦艦は既にその使命を終えていたのであった.私の父はこれで長門を降りて郷里に帰った.
 第一線を退いた長門は,昭和二十年 (1945年) 七月十八日の横須賀空襲で米空母四隻の搭載機による集中攻撃を受け,艦橋が破壊されて艦長以下ほとんどの艦橋要員が戦死した.その後の長門は中破したまま修復されることなく終戦を迎えた.ちなみに横須賀空襲の時,長門に隣接して係留されていた特務艦宗谷と病院船氷川丸は無傷であった.両船のその後については機会があればこのブログで触れてみたい.
 敗戦後の長門については Wikipedia【長門 (戦艦)】から引用する.
 
終戦後、1945年8月30日に、連合国軍の1国であるアメリカ軍に接収される。長門は空襲によって中破したまま修復されておらず、煙突とマストは撤去されていた。9月15日附で除籍。アメリカ海軍による詳細な調査の後武装解除され、1946年3月18日にクロスロード作戦(アメリカ軍の核実験)に標的艦として参加するためマーシャル諸島のビキニ環礁へ出発した。艦長はW・J・ホイップル大佐で、180名のアメリカ海軍兵が乗り込んだ。しかし破損のために使用できるボイラーの数が限られ長門は数ノットという低速しか出せず、途中、応急修理のためエニウェトク環礁に立ち寄っている。
1946年(昭和21年)7月1日の第一実験(ABLE、空中爆発/予定爆心地を大きくはずしてしまう)では戦艦ネバダが中心に配置され、長門は爆心予定地から400mのところに置かれた。爆弾は西方600mにずれてしまい、結果爆心地から約1.5 km(1,640ヤード)の位置となった。この時長門は殆ど無傷(爆心地方向の装甲表面が融解したのみで航行に問題なし)であった。長門と同時に実験標的にされた阿賀野型軽巡洋艦酒匂はほぼ真上が爆心地となったために大破炎上、翌日に沈没した。
7月25日の第二実験(BAKER、水中爆発)では爆心地から900-1000mの位置にあり、右舷側に約5度の傾斜を生じた。それでも長門は海上に浮かんでいた。しかし、4日後の7月29日の朝、実験関係者が長門のいた海面を見てみると、既に同艦の姿は海上にはなかった。7月28日深夜から29日未明にかけて、浸水の拡大によって沈没したものと見られる。ただ一説には、長門の浸水を食い止めるなど、保存などの為に緊急修理をする予定が立てられていたが、最終的には行われず沈没したという逸話も有る。

 
 この連載の第一回《記念艦三笠でカレーを (猿島編) 》で私は下のように書いた.
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 この「猿島公園専門ガイド協会」の現地ガイドさんだが,年齢は私とさして変わらないと思われた.帰りの船が出るまでのトイレ休憩の時に,ガイドさんは若い (大学生くらいの軍事オタクっぽい青年) たちに,昭和二十年 (1945年) 七月十八日の横須賀空襲のことを分厚い資料ファイルを開いて解説した.その資料の中に,その日横須賀軍港に停泊していた戦艦長門を遠くから撮影した写真があったので,私は「死んだ私の父親は長門に乗っていたんですよ」と言った.
 
20181103nagato
戦艦長門 (パブリックドメイン画像)
 
 すると彼は手帳を取り出し,もう少し話を聞かせてください,と言った.何か個人的に思い入れがあるのかも知れないと思った私は,父親の軍歴について簡単に話した.
 それから私たちは,横須賀空襲で沈没を免れた長門の敗戦後の運命について語り合った.

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 この一節の結びの一行《それから私たちは,横須賀空襲で沈没を免れた長門の敗戦後の運命について語り合った》とは,ビキニ環礁において原爆標的艦として沈められた
ことであった.(ようやくここで伏線を回収することができた w)
 さて,横道に逸れたが,横須賀鎮守府所属の艦隊や海兵団で,カレーライスが食べられていたかどうか,という話に戻る.

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2019年1月22日 (火)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 21)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 20) 》の末尾を再掲する.
 
ところで,上に述べたような西洋料理系のカレーとは全く違うカレーが明治の末に普及した.それは野菜と少しの肉を煮込んだカレーで,今の家庭料理のカレーに繋がるものだった.
 
 この引用文中の野菜とは,ジャガイモタマネギニンジンのことである.
 ニンジンは日本への渡来は古いが,生産量が増加したのは栽培しやすく風味にクセのない西洋系ニンジンが伝わった江戸時代末期である.産地は,気候的に北海道が最大である.
 タマネギは,明治十年代に北海道で栽培が始まった.明治二十年代には,料理本にタマネギを使った料理が掲載され始めた.全国で栽培できるが,これも北海道が生産量最大で,全国生産量の五割以上を占めている.
 ジャガイモはそもそも北海道開拓の主要作物であった.明治三十年には生産量が二十万トンを超え,同四十年には五十万トンを超えた.大正初めに七十万トン超え,同五年に百万トン超え,同八年には百八十万トンにも達した.
 これで保存のきく野菜であるジャガイモ,タマネギ,ニンジンを北海道から全国に食糧供給できる態勢が整い,家庭料理のカレーライスが生まれる基礎ができたのである.
 このような食糧情勢を背景にして,それまで上流階級の食べ物であった肉料理としてのカレーライスから,野菜を主たる材料とし,軍隊の下級の兵も口にし得るカレーライスが派生した.そのことを示す明治時代末の史料が三つ存在する.『海軍割烹術参考書』『陸軍料理法』『洋食の調理』である.
 ここで注意が必要なのは,軍隊では下級の兵といえども食事は一般庶民よりもはるかに恵まれていたということである.これらの史料にある料理の作り方が掲載されていたからといって,それは庶民的な料理であることとは別なのである.また掲載されている料理が実際に作られ食べられていたかというと,それはまた別に検証を必要とする.
 さて上記の史料のうち二つは Wikipedia【カレーライス】の《年譜 》に記述がある.
 
1908年(明治41年)、大日本帝国海軍が配布した『海軍割烹術参考書』に、「カレイライス」のレシピが載る。海軍カレーの起こり。
1910年(明治43年)、大日本帝国陸軍が配布した『軍隊料理法』に、「カレー、ライス」のレシピが載る。
 
 先ずは海軍から.上の引用中に《大日本帝国海軍が配布した 》とあるのは嘘である.この本を編纂発行したのは舞鶴海兵団であり,帝国海軍当局ではない.つまりローカルな出版物であった.この虚偽情報は,横須賀市当局と市中のカレー屋たちが町おこしのために流布したものであり,Wikipedia【カレーライス】は,その真偽を確かめもせずに書かれている.
 現在この『海軍割烹術参考書』あるいはその復刻版と称する書籍が二つ存在する.両方共,現代語に直してあるため,原文の形をとどめていない.従ってそれらを復刻版と呼ぶのは嘘である.ただしそれを承知の上で掲載内容の概要を知るには,「復刻版」は役に立つ.
『海軍割烹術参考書』は印刷された冊数が少なかったらしく,現物は海上自衛隊第4術科学校 (舞鶴市) が保存しているもののみで,公共図書館には所蔵されていない.そのため『海軍割烹術参考書』の原文は現在,参照することができない.原文であると称するサイトが現在も複数存在するが,勝手な句読点の挿入や誤記,脱落などで文語文の正書法から外れた状態になっている.そこで,ここでは原本を保管している当事者である海上自衛隊第4術科学校の公式サイトに掲載されているレシピを基に,僅かな修正を施したレシピを掲げる.
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『海軍割烹術参考書に記載されたレシピ

 三二 カレイライス
材料 牛肉 (鶏肉) 人参 玉葱 馬鈴薯 「カレイ粉」 麥粉 米
初メ米ヲ洗ヒ置キ牛肉 (鶏肉) 玉葱人参馬鈴薯ヲ四角ニ恰モ賽ノ目ノ如ク細ク切リ別ニ「フライパン」ニ「ヘット」ヲ布キ麥粉ヲ入レ狐色位ニ煎リ「カレイ粉」ヲ入レ「スープ」ニテ薄トロヽノ如ク溶シ之レニ前ニ切リ置キシ肉野菜ヲ少シク煎リテ入レ (馬鈴薯ハ人参玉葱ノ殆ト煮エタルトキ入ル可シ) 弱火ニ掛ケ煮込ミ置キ先ノ米ヲ「スープ」ニテ炊キ之レヲ皿ニ盛リ前ノ煮込ミシモノニ鹽ニテ味ヲ付ケ飯ニ掛ケテ供卓ス此時漬物類即チ「チャツネ」ヲ付ケテ出スモノトス
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 これを見てわかることは,材料の量が指示されていないことである.調理の時の要点が書かれているに過ぎないので,正しい意味でのレシピではない.そのため,このレシピを実行することは不可能なのである.
 しかし横須賀市当局と市内のカレー屋たちは強引にも,このレシピを「再現した」と称して,統一ブランド「横須賀海軍カレー」を でっち上げた 売り出した.その結果,各店の「横須賀海軍カレー」は外観からしてそれぞれ異なるものになってしまった.各店に共通しているのは,カレーライスにコップ一杯の牛乳とサラダが添えられることだけである.彼らはこの牛乳と生野菜こそが「横須賀海軍カレーの特徴である」と主張しているが,それならば,「『海軍割烹術参考書』のレシピを再現したのが横須賀海軍カレーである」という謳い文句はどこに行ったのか,ということになる.
 しかも元々がそのレシピは舞鶴海兵団で作成されたローカルなものである.横須賀海兵団の兵食にカレーライスがあったという史料は見つかっていないのだ.むしろ横須賀海兵団にはカレーライスはなかった可能性が濃厚で,これについては後述する.
 次は陸軍のカレーライスについて.
 Wikipedia【カレーライス】にある記述《1910年(明治43年)、大日本帝国陸軍が配布した『軍隊料理法』に、「カレー、ライス」のレシピが載る 》は正しい.『軍隊料理法』は,軍令「陸普3134号」 (明治四十三年発令) によって制定された帝国陸軍の公式レシピ集である.この本は近衛師団を筆頭とする各師団の隷下部隊のみならず,軍学校,陸軍病院,陸軍衛戍監獄,外地に駐留する台湾軍・韓国駐箚軍・関東軍・樺太守備隊に到る全陸軍組織と部隊に配賦された.舞鶴海兵団のローカル出版に過ぎない『海軍割烹術参考書』とは異なる重要な史料なのである.この本は国会図書館デジタルコレクションで直接閲覧することができる.そこからカレーライスの項目を抜粋すると以下の通りである.
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『軍隊料理法』に記載されたレシピ
 
 
其九 カレー、ライス (カレー汁掛飯)
鍋ニ少量ノヘット又ハラードヲ入レ其中ニ出來ル丈細カニ刻ミタル玉葱トカレー粉トヲ適宜ニ入レテ好ク炙キ
(註;読みは「ヤキ」,意味は現代語なら「炒め」か) 之ニ米利堅粉ト采ノ目形ニ切リタル肉トヲ混セ湯ヲ注キ (註;原文にはルビあり;読みは「ツギ」) 鹽ヲ加ヘ又僅カノ酢ヲ入レ一時間程煮ルナリ之ヲ飯ニ注ケテ用ヰルナリ飯ハ可成硬目ニ炊クヲ可トス
 (注意) カレーノ中ニ金物ヲ長ク漬ケ置ク時ハ毒アリ又此料理ハ毎日用ヰルハ宜シカラス一週間ニ一、ニ度ヲ適度トス

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 ところがこの『軍隊料理法』も材料の量が指定されておらず,実際には実行できない画餅のレシピ集であった.従って明治の末期の陸軍で,兵食としてカレーライスの兵士に提供されていたかは大いに疑問である.
 しかし陸軍当局は『軍隊料理法』の実用化研究を続け,昭和三年の軍令「陸普第3548号」で『軍隊調理法』を制定し,「陸普第3759号」(昭和六年) の改訂を経て「陸普第3678号」(昭和十二年) により大部の実用料理教科書を完成した.
 帝国海軍では,兵食調理を調理専門に育成された少数の兵が行っていたのに対し,陸軍は当番兵制であったから,多くの陸軍兵士が内地での教育訓練の際に『軍隊調理法』によってカレーライスの作り方を覚えた.その兵士たちのほとんどは大陸の土となったが,生き延びた者たちは復員し,彼らが戦後,一般家庭にカレーライスが普及する原動力となったと,カレー料理研究家たちが揃って指摘しているが,その通りであろう.復員船の多くが『海軍割烹術参考書』ゆかりの舞鶴港に戻ってきたことは,偶然ながら日本食文化史の一エピソードとしてよいだろう.
 現在,横須賀市当局と市内のカレー屋たちは「横須賀海兵団のカレーが国民食カレーライスのルーツである」などと町おこしの宣伝をしているが,そんな嘘を信じているのは勉強嫌いのブロガーたちだけである.
 さて軍令は機密事項であったから『軍隊調理法』の内容は,民間人の知るところではなかった.しかし,ジャガイモ,タマネギ,ニンジンを材料とする野菜料理であるカレーライスの作り方を記した料理本が現存する.Wikipedia【カレーライス】には記載がないが,亀井まき子『洋食の調理』(博文館,明治四十四年) である.この本は材料の量的目安を記載しており,実用レシピ集である.陸軍のカレーライスのレシピ完成が,遅れること昭和であったことに鑑みれば,新資料が現れなければ,この『洋食の調理』が我が国の家庭料理カレーライスについて書かれたレシピの初出である.これも国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる. 
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亀井まき子『洋食の調理』に掲載されたレシピ
 
「ビーフカレーライス」
牛肉 (並肉) バタ カレー粉 スープ (鶏肉) 馬鈴薯 人参 塩 玉葱 メリケン粉 牛乳
牛肉 (並肉) を二分位の賽の目にきりましてバタをフライ鍋に入れ火にかけとかしましたら此牛肉を入れてよくいため狐色になりましたらカレー粉を入れスープ (鶏肉) でのばしましてスチウ鍋にうつし馬鈴薯と人参を二分位の賽の目にきりまして水に少しはなしまして笊にあけ水気をきっておいたのを入れ塩と玉葱の皮をむきまして薄く輪切にしたのを入れまして文火
(註;読みは「トロ火」) にかけ一時間も煮込みましたらメリケン粉を水でとかしたのを入れて三十分間も亦煮ましたら牛乳を少々いれて鍋をおろすので御座います此の分量は牛肉が百匁ならば之をいためますバタが食匙一杯カレー粉が珈琲匙に一杯人参と馬鈴薯は一所にして二合位玉葱は中位の大きさのを一個メリケン粉食匙に一杯半位を水にとかして入れるのです又スープは二合牛乳は食匙に三杯位でよかろうと存じます
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 余談ながら,文語文の正書法も時代と共に変遷があり,明治の頃は句読点が用いられていなかった.それだけでも読みにくいのに,著者亀井まき子の,切れ目のない文体が相俟ってセンテンス二つのわけがわからないレシピではある.なーにが「御座います」であるか.w
 ちなみに,『洋食の調理』など明治末年における料理本は,上流階級婦女子の啓蒙書であったという.(小菅桂子『カレーライスの誕生』による
)
 従って彼女らが実際にそれらの料理本で調理したということはなかろうが,お雇い料理人たちが調理したものと思われ,ジャガイモ,タマネギ,ニンジンの入ったカレーライスが軍以外の民間でも食べられ始めたことを示す資料である.
 次回は,「横須賀海軍カレーの嘘」について記す.

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記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 20)

 このあとの話の展開に,私の父親の軍歴を確認する必要があり,そのため更新が滞ったが,ここで前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 19) 》の末尾を再掲する.
 
つまり凮月堂がカレーライスを売り始めたのは明治十年どころか,その九年後,鹿鳴館開設よりも三年もあとのことだとしている.吉田よし子『カレーなる物語』は出典も参考図書も全く挙げていないので,この説がどこから出てきたものかは不明であり,さすがにこのデタラメは,井上宏生の著書では採用されていない.
 さて凮月堂のカレーライスには後日談がある.

 
 Wikipedia【凮月堂】に,以下の記述がある.
 
米津松造は銀座並木通りに西洋料理を出す店として「米津分店南鍋町凮月堂」を出店し、次男の恒次郎を店主としたが
 
 しかし,これはいくら何でも話を端折りすぎである.
 小菅桂子『カレーライスの誕生』(講談社学術文庫,2013年) は良書であるが,残念ながら米津松造に関する記述に誤りがある.それを東京凮月堂の《沿革 》と突き合わせて訂正すると,以下のようである.
 米津松造は銀座に西洋料理店を出す前に,次男の恒次郎を米国と欧州に,語学と洋菓子の修行に出した.恒次郎が十六歳の時で,帰国は明治二十四年 (1981年),恒次郎二十三歳の時であったという.恒次郎が銀座の店をまかせられたのは修行が明けてからに違いない.
 帰国の二年後の明治二十六年 (1893年),『婦女雑誌』(第三巻第十号) に恒次郎は「即席ライスカレイ」と題した記事を寄せている.

煎茶茶碗に一杯のバターと葱三、四本を細かに切りたるを深き鍋に入れ、強き火に懸け、葱の柔かになりたる時、煎茶茶碗に八分目程の粉を入れ、絶えず攪き廻しながら鳶色になるまで煎りつけて、煎茶茶碗に半杯のカレイ粉 (西洋食糧店にあり) を入れ、かくて鰹節の煮汁 (これは鰹節半本にご飯茶碗六杯の水にて前に拵へ置くべし) を少しづつ注ぎ入れながら攪き廻し、醬油を適宜に加へ十分間程弱き火に懸け、味噌漉しにて漉し、其汁へ湯煮したる車鰕或は鳥肉を入れ、炊きたての御飯へかけて食すべし
 
 このレシピを読むと,米津恒次郎の「即席ライスカレイ」は,バターに葱の香りを移してから小麦粉を加えて炒めてカレールーを作り,それを鰹出汁でのばしてから醤油で調味している.これは明らかに,今のいわゆる蕎麦屋のカレー (カレー南蛮やカレーうどん) の濫觴である.カレー南蛮は,今はもう閉店した東京早稲田の三朝庵がよく知られていたが,その他にも幾つもの店が「うちがカレー南蛮発祥の店」 を自称している.しかしカレー南蛮にしてもカレーうどんにしても,明治の末から大正にかけて同時多発的にあちこちの店で品書きに載ったものだろう.
 それらに対して米津恒次郎のライスカレイは,大衆食堂系統の食い物よりも二十年ほども早い時期に,鰹出汁がカレー風味と相性がよいということを文献資料の記述に残しているという点で食文化史的な価値がある.あとの店の「うちが最初」は,大した意味のない雑学知識に過ぎない.
 以上が,凮月堂のカレーライスに関する後日談である.
 
 さて小菅桂子『カレーライスの誕生』は,凮月堂の銀座店よりも早い時期に,草野丈吉という人物が長崎で開業した西洋料理店「自由亭」について記している.『カレーライスの誕生』は,自由亭は後に長崎から大阪に移って店を出したとし,同書にはそのカレーのレシピが記載されているが,出典は書かれていないので真偽は不明である.ただし,『カレーライスの誕生』によると,自由亭のカレーは,仮名垣魯文が明治五年に出版したレシピ集『西洋料理通』の流れの料理であるという.(『西洋料理通』は Wikipedia【ライスカレー】の《年譜 》に紹介されている.)
 料理現物ではなく本に書かれたレシピだった『西洋料理通』のカレーライスは,その後,西洋料理店やホテルのレストランにおいて,庶民の食生活とは無縁の高級料理として定着したと考えられる.特徴は,日本家庭料理のカレーライスとは全く異なり,牛肉・鶏肉や蝦等をカレーソースで食べるというコンセプトの料理である.
 ただ,ホテル業界は競争熾烈であるらしく,現存しているホテル (Wikipedia【クラシックホテル】参照) は少ない.しかし日光金谷ホテルの軽食レストラン「クラフトラウンジ」の「百年ライスカレー」(一人前二千百円~) は,明治以来の高級カレーライスを今に伝えるものと考えられる.横浜のホテルニューグランドでは軽食レストラン「ザ・カフェ」のカレー (一人前二千百六十円~) も戦前からの料理だという.
 
 ところで,上に述べたような西洋料理系のカレーとは全く違うカレーが明治の末に普及した.それは野菜と少しの肉を煮込んだカレーで,今の家庭料理のカレーに繋がるものだった.

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2019年1月 1日 (火)

師走詣

 新年最初の記事が,年末のことである.
 暮れも押し詰まった三十日,師走詣なるものを初めてしてみた.お詣りするのは,これまで長年にわたって初詣をしてきた長谷寺である.
 私の住処の最寄り駅は東海道線藤沢駅であるが,鎌倉に行くには駅の南口から出ているバスに乗るか,江ノ電で行くことになる.この二つの経路がとても便利なので,隣の大船駅から鎌倉へ行く人は横須賀線で北鎌倉を訪ねようとする人に限られる.
 大船駅から鎌倉へのバスはあるのだが,一時間に一本か二本という状態である.しかし昨日は,あえて大船から鎌倉に行くことにした.
 それは,大船で昼飯を食いたかったからである.
 藤沢駅の周辺には,北口にも南口にも商店街がない.「商店街」と名のついた通りはあるが店の数は少なく,日常の買い物は,薬局以外は「さいか屋」「小田急デパート」か,スーパーマーケットが頼りである.
 昭和四十年代の終わりまでは藤沢駅の北口に雑多な商店や飲食店が密集していたのだが,「再開発」の名のもとに音を立てて駆逐され,現在はバスセンターになってしまった.今では駅周辺には,ろくな飯屋がない.「再開発」後も残った何軒かのビストロも今は姿を消した.
 それに対して大船は,商店街が健在だ.飯屋もある.飲み屋もある.
 ある日,大船に住んでいる私の娘が,大船にはカレー屋さんが多いんだよと教えてくれた.それで食べログなどを調べてみたら,カレー屋もインド料理屋もあることがわかった.
 その中でも人気の店は,ビストロの“カレー・クラブ キュイエール”だという.店の公式サイトを見たところではフレンチっぽい料理屋さんだが,アラ・カルトでカレーがある.そのカレーがウリになっていて,店名にもカレーをつけているのだ.
 
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 ビストロなのになぜカレー?との疑問には,店のサイトに店主が答えを書いているので,それを御覧頂きたい.
 ともあれ,藤沢から電車で大船に来た私が店の入り口に到着したのは,開店前の十時五十分だったが,この時既に十人の先客が列に並んでいた.私が十一人目の客で,そして私の後ろに,たちまち五人の列ができた.知らなかったのだが,このキュイエールは行列のできる店だったのだ.
 やがて開店の五分前に従業員の若い娘さんがドアを開けて外に出てきて,メモ帳を片手に,並んでいる客たちに予約の有無を訊ねた.私を含めて十六人の客の中で,予約なしはたったの三人であった.そして「お一人様」は私だけで,あとは全部若いカップルだった.彼らはこの昼御飯が今年最後のデートで,次に会うのは翌々日元旦の初詣ですということか.うらやましいと思ったが,顔には出さず,爺さんは静かに列に並んだ.
 開店時間になって,従業員さんが予約客を二人ずつ店の中に招き入れたのだが,次は予約なしの二人連れという順番になったところで,カウンターに椅子を一つ残して満席になった.もちろん二人連れの一人だけを席に案内するわけにはいかないから,その二人を飛び越して私が入れることになった.ラッキー.
 私は予約なしの二人連れに「お先に失礼します」と一言申し述べて,店のドアを開けた.
 中はかなり狭いが,若い恋人たちの食事にふさわしいおしゃれな造りであった.爺さんの一人客では場違い感があるかも知れない.
 
 すぐに例の女性従業員さんが満席の客の注文を順に訊いてまわったのだが,カレーを注文したのは,私のほかにもう一人がいただけで,あとの皆さんはワインをグラスやボトルで注文し,前菜はこれ,メインはあれ,と本格的に食事する構えなのであった.
 そういう内容で料理を注文すると,たぶん客単価はワイン込みで一人五千円くらいになるかも.私が二十代の頃は安月給の会社員だったから,とてもとてもそんな立派な昼御飯を摂ることはできなかった.若い人たちにも貧富は色々あるだろうが,その時にキュイエールにいた身なりの良いカップルたちは幸せそうで,私は実にしみじみとうらやましく思った.
 
 さて,暫くして私の前に届けられたビーフカレーは,カレーソースで煮込んだ牛肉とシメジのカレーに,あとから人参とグリルしたジャガイモを少し加えたものであった.そして皿に盛った御飯には,揚げたガーリックがトッピングされていた.その味はというと,ホテルのレストランのカレーとは異なって,スパイシーで素朴なカレーだった.お値段が千円で,これは高くもなく安くもなく,まあリーズナブルと言っていいだろう.
 食後のコーヒー四百円をさっさと飲み終えた私は勘定を済ませて店のドアを出た.店の外には三人も順番待ちをしていたからである.この店は,平日のランチはどうか知らないが,土曜日曜はランチでも,予約なしでは一時間待ち (客一組の食事時間が長いと思われる) を覚悟する必要がありそうだ.
 この店のカレーは,コストパフォーマンスはいいけれど,列に並んでまで食べてみる価値があるかというと,微妙なところだという気がする.待ち時間が長いのなら,私は他の店に行く.
 
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 さて店を出た私は,歩いてすぐの大船駅に戻り,バスで江の島に行き,そこから江ノ電 (ややこしいが現在の地名は「江の島」であり,固有名詞に使われる書き方は「江ノ島」である) で長谷駅まで行った.

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 江ノ電の車両の中では,大きなレンズを装着したニコンのカメラを首から下げた青年とそのお相手が中国語で会話していた.
 
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 境内に入ると,欧米人の姿がほとんどない.私の傍らを通り過ぎていく人々の言葉は中国語だった.
 
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 鎌倉の海を望む展望台でも周囲で聞こえる会話は中国語だった.
 
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 人込みの展望台を離れ,いつものように私は,境内で業者が委託運営している軽食を出す店「海光庵」に入った.ここで酒を飲むのが長年の習慣なのだ.
 
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 注文する品は,これまた習慣で冷酒二合と おでん.この店の おでん は,燗酒でもないのに,ぬるい人肌である.湯気の立っている おでん が出てきたことはない.たぶんポリ袋に一人前の おでん が入って,スーパーの食品売り場で販売されているものだ.それを注文を受けてから袋ごと鍋に入れ,湯に一くぐりさせてから出すのだろう.だから人肌である.値段は酒が一合七百円,おでん が六百五十円で,ぼったくりではないが,その寸止め価格である.だが長谷の観音様に免じて許す.海光庵を許すのも長年の習慣なのである.
 ほろ酔いで海光庵を出て,本堂の近くで御神籤を引いた.吉だった.心掛けがよければ結果もよいという卦である.ありがとう観音様.
 
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2018年12月18日 (火)

記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 19)

 前回の記事《記念艦三笠でカレーを (海軍カレー編 18) 》の末尾を再掲する.

さて《1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる 》に至って,ようやく風評伝説の類ではなく,当事者の証言が出てくる.東京凮月堂の公式サイトのコンテンツ《凮月堂の歴史 》に掲載されている《沿革 》である.

 ゴーフルでお馴染みの凮月堂は,創業家,暖簾分け店,それらに無関係の同名店などがあって,ややこしい. Wikipedia【風月堂】に書かれているように,江戸時代創業の菓子商の直系は「凮月堂総本店」であるが,この店は後継者がなくて途絶えた.しかし,嫡流ではないものの創業家に家系を遡ることができる傍系の「上野凮月堂」は今も健在である.
 この凮月堂総本店の番頭であった米津松造は明治五年 (1872年),暖簾分けによって両国で「凮月堂米津本店」を開いた.さらに明治十年 (1877年) には銀座に「米津分店南鍋町凮月堂」を出店した.この後,米津松造系の凮月堂には,経営破綻,経営譲渡,吸収合併などがあって,一般消費者には何が何だかわからないことになる.
 それはともかく,米津系凮月堂の現在の店名である「東京凮月堂」が公式サイトに掲げている《沿革 》には《1877年 (明治10年) フランス料理を開業、カレーライス、オムレツ、ビフテキ (*) 等を8銭均一で売る 》とある.確か,その事実を示す資料は東京凮月堂が持っていると報道された記憶がある.(* 当ブログ筆者註;ビフテキはステーキのフランス語料理名)
 ただし,この明治十年のレシピがどのようなものであったかは資料が見当たらない.米津分店南鍋町凮月堂がフランス料理店であったことからすると,この《カレーライス》は日本風のカレーライスではなく,カレー風味のピラフ“ Riz au Cari ”だった可能性があると言われても,否定できない.
 また Wikipedia【カレーライス】

1877年(明治10年)、東京の「米津凮月堂」が、初めて日本でライスカレーをメニューに載せる

と書いているが,東京凮月堂自身は《初めて日本で 》カレーライスをメニューに載せたとは主張していない.単に「カレーライスを売った」としているだけである.つまり他のホテルレストランや西洋料理店にもカレーライスがあった可能性は否定できない.
 では Wikipedia の《初めて日本で 》は,どこから出て来たのか.当事者が主張していないことを第三者が述べるのであれば,その《初めて日本で 》の根拠を示さねばならないはずだが,例によって Wikipedia は出典を示していない.おそらく《初めて日本で 》は根拠のない独自研究である.
 ちなみに,吉田よし子『カレーなる物語』(筑摩書房,1992年) は,いい加減な嘘が書かれており,それが井上宏生 (『カレーライス物語』『日本人はカレーライスがなぜ好きなのか』)によって真偽を確かめもせずに繰り返し孫引き (根拠が『カレーなる物語』であることを井上自身が明らかにしている) され,カレー関係誤情報の発信源となった本であるが,凮月堂の件は,『カレーなる物語』では次のように書かれている.

明治一六年に鹿鳴館が開設され、ヨーロッパ風の仮装舞踏会などが催されるようになると、日本の洋風化はさらに拍車がかかった。
 そして明治一九年 (一八八六) には凮月堂がライスカレーをカツレツやオムレツ、ビフテキなどと並べて八銭で食べさせはじめた。

 つまり凮月堂がカレーライスを売り始めたのは明治十年どころか,その九年後,鹿鳴館開設よりも三年もあとのことだとしている.吉田よし子『カレーなる物語』は出典も参考図書も全く挙げていないので,この説がどこから出てきたものかは不明であり,さすがにこのデタラメは,井上宏生の著書では採用されていない.

 さて凮月堂のカレーライスには後日談がある.

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