焼きネギ味噌 (補遺)「高円寺駅南口青春譜」
昨日の記事は,私が東京の高円寺の学生アパートに住んでいた昭和四十六年の思い出を書いたものだ.
その思い出は《高円寺駅南口青春譜》と題した一連の記事だったので,昨日の文章の続きを,油揚げとは関係ないが,ここに載せておく.
以下の文章にも末尾に註をつけた.
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2002年4月16日
高円寺駅南口青春賦・自炊立志篇
さて高円寺のアパートで暮らすようになった私は,自炊をしようと思い立った.
大学の講義は朝八時からだった (2021年6月30日の註;昭和四十三年の夏に学校は全学ストライキに突入し,翌年の安田講堂への機動隊導入によって大学はストライキが解除されたが,教養学部では半年間の講義議の遅れを取り戻すために朝早くから授業が行われた) ので,朝飯は駅の立ち食い蕎麦にすることが多かった.
お昼は学校の生協食堂が安いし,日替わりのランチなら飽きもこない.
問題は夕飯だった.
家庭教師のバイトがある日は,その家庭でちゃんとしたものを食べさせてもらえるが,そうでない日はできるだけ自炊しようと考えたのだ.
もともと小さい頃から私は母親の手伝いをよくする子だったので,食事の支度は苦にならない.多少の心得はあったのである.
そうなると料理道具を揃えねばならないが,鍋の大小二つ,包丁,まな板はアパートの近くのスーパーで購入した.
次は電気釜である.
今なら炊飯ジャーであるが,当時のものは電気釜という名のもっと原始的なやつで,白い塗装の外釜の中にアルミの内釜,ジュラルミンの蓋,保温機能はなしという東芝製品.
友達に聞いたところでは,秋葉原の電気街に行くと安く買えるらしかった.近所の下宿に住む例のN君は大阪の出身で,彼の指南によると,まずは徹底的に粘って言い値を値切らねばならない.
そして店員がこれ以上は値引きできませんと言ったら「何かオマケにつけてサービスしてくれ」と言うのが良いとアドバイスしてくれた.さすが大阪人は違うと感心しつつ,私は電車に乗って秋葉原に出かけた.
その頃の秋葉原電気街は現在と全く異なり,家電製品の街だった.何しろまだこの世にパソコンなんかの影も形もなく,オーディオは真空管が堂々とまだ現役を張っていた時代である.
店の名は忘れてしまったが,秋葉原駅の電気街口から中央通りに出て万世橋側に折れた所の,今のオノデンあたりの小さな店だったように思う.東芝の二合炊き電気釜が欲しかったのでその旨を店員に告げると「ある」とのことだった.当時の価格が幾らであったか全然覚えていないが,スーパーの店頭よりは安かったと思う.
元々秋葉原というところは一般の電器店より安いので,昔から価格交渉の効かないことが多いようであるが,当時の私にそんな知識はない.N君の事前指導を受けていた私は,もう少し安くして欲しいと頼み込んだ.
すると,いかにも貧乏学生という風体の私を見てその店の店員は哀れに思ったか,百円単位の端数を引いて,切りの良い値段にしてくれた.
調子に乗った私が「もう一声」と言うと,さすがに「勘弁してくださいよ,学生さん」と言われてしまった.
それじゃあ何かサービスにオマケしてくださいと頼んだところ,「わかりました.サービスしましょう」と言って店員がくれた物は,私の期待に反してチャチなプラスチックの御飯シャモジであった.
ここで引き下がってなるものかと「わざわざ電車賃を使って秋葉原に来たのだから,もう少しいい物をくれませんか」と申し述べると「そこまで言うなら,お客さんだけ特別ですからね」と彼は言い,布巾を一枚くれた.ご飯が炊けたら釜と蓋の間に布巾を拡げて挟む と蒸気が適度に逃げて美味しく蒸らせるという.そうですか.
数百円の値引きとシャモジと布巾一枚が十分な戦果なのかどうか分からなかったが,諦めて高円寺のアパートに戻った.
電気釜の次は米だが,米をどこで買ったのか思い出せない.昭和四十三年,青雲の志を抱いて上京した時は確か米穀通帳 (2021年6月30日の註;Wikipedia【米国配給通帳】) を持っていたような記憶があるが,しかしその翌年から米をどこでも買えるようになったはずだから,たぶん西友ストアあたりで買ってきたのだと思う.
調達した米の袋を眺めて,ともかくこれで生活費がピンチになっても飢えることはない,ヨシヨシと思った.生活費がピンチにならぬように計画的に生きようという知恵がなかったのは,いま考えても不思議である.私はアルバイトの金が手に入れば無闇に本を買い込み,貯金通帳はなく,その日暮らしでいつもピーピーしていた.(2021年6月30日の註;バイト代が入ると私は,日本化学会編『実験化学講座』(丸善,全三十二巻) を数冊ずつ買い集めた.この講座は化学系学生のバイブルにも等しい書籍だった)
自炊を始めてから気が付いたのは,食糧の保存がいかに難しいかということだった.
あの頃の一人暮らしの学生で,冷蔵庫を持っているなんてのは余程のお坊っちゃまだったろう.私の周囲にはただ一人しかいなかった.
余談だがそいつはN君と同じ賄い付き下宿にいた男で,自炊のための食料品を備蓄する必要がなかったから,彼の冷蔵庫には牛乳と,暑い夏場はパンツが入っていた.銭湯から戻った時などに,喫茶店で出してくれるオシボリのようにしてよく冷やしたパンツを着用すると,とっても快感であると言っていた.
扇風機すら持っていない私には,それは王侯貴族の暮らしのように思えたものだ.いま単身赴任している私の部屋にもちろん冷蔵庫はある.しかしエアコンもあるので,その快楽を享受する機会がないのが残念である.
さて昔も今も,長持ちする食材の代表格はタマネギ,ジャガイモとニンジンだろう.これで何を作ろうか.アウトドアならカレーであるが,インドアでもカレーが定番である.
だがいつもいつもカレーでは能がない.この三者と豚肉を煮て,即席カレールーを加えればカレー,シチューの素を入れればシチュー,味噌を放り込めば豚汁,肉の代わりにコンニャクを用いて醤油味にすれば,けんちん汁モドキができる.タマネギ,ジャガイモおよびニンジンを煮た変幻自在のものを私は「日和見なべ」と名付けた.
もうその頃の大学の学内には,かつての学生運動の熱気は跡形もなくなっていた.弥生町の農学部キャンパスには,学生自治会のタテカンもなくなった.
志操軟弱にしてもはや街頭デモに行くこともなく勉強に自閉していた私に,「日和見なべ」は相応しい名の食い物であるなあと我ながら感心した.就職が決まって髪を切り「もう若くはないさと君に言い訳」しなければならない季節はもうすぐそこだった.(2021年6月30日の註;「もう若くはないさ……」は「『いちご白書』をもう一度」の歌詞;私は就職が決まって髪を切ったが,しかし「もう若くはないさ」と言い訳をしなければいけない相手はいなかった)
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2002年4月20日
高円寺駅南口青春賦・苦学奮闘篇
学生にアルバイトはつきものである.何のために,という目的は違うだろうが,昔も今も学生はバイトする.
私が初めてしたアルバイトは,荷物運びである.大学一年の時に住んでいたのは,法務省矯正局が所管する矯正施設 (刑務所や少年院など) 職員の子弟が入居できる学生寮で,色んな大学の学生達が住んでいた.名称は桐和学生寮といい,現在は移転してしまった旧中野刑務所の北側敷地にあった.最寄駅は西武新宿線沼袋駅であったが,学生たちは定期代節約のために当時の国鉄中野駅から通学していた.
ある日,同じ階にいた中央大の二年生の人が「手を貸せ」と言った.三人必要なバイトの口があるので,あと二人集めたいのだという.
翌朝,その先輩に連れて行かれたのは絨毯の問屋であった.まず問屋の倉庫から絨毯を運び出してトラックに載せ,これを都内のデパート数店に配送するのがその日の仕事だった.
私は田舎から上京して西も東も分からない頃だったから,どこのデパートに行ったのか覚えていない.仕事は,ビルの裏口に回り,トラックの荷台から,太い丸太のように巻いた絨毯を降ろして,エレベーターに積み込むことだった.
この絨毯というのが実に重かった.屈強とは言い難いが,体力ある若い学生二人がかりでようやく一本持てるという重量なのである.上の方にある階とトラックを何度も往復して運び揚げ,何枚かを拡げてフロアに展示するという単純肉体作業を,その日の夕方までやった.
そして最後に「ごくろうさん」と言って問屋の人が二千円くれた.これが私の手にした初めてのバイト料だった.
当時の物価がどうかというと,ラーメンが八十円,餃子ライスが百円,野菜炒めライスが百十円.食い物ばかりでナンだが,これが分かりやすい.つまり,多くみて一日三百円の食費がかかるとして,二千円は,一週間も飯が食える金だったのだ.もう足腰立たないくらいに疲れたが,その日はリーダー格だった早稲田の二年生と新宿西口の横丁で,天丼の大盛りという身分不相応な夕飯を食い,アルバイトの有り難みを知った.
だが,こんな割のよい仕事はそうあるものではなかった.清掃系の作業 (2021年6月30日の註;高速道路の照明灯を拭くなど) などは一日働いても千円ちょっと程ではなかったか.感激したのは最初の絨毯運びだけだったので,それ以後のアルバイトでいくらもらったのか,あまり覚えていない.
パチンコ屋のサクラというのもした.こんなのは,そう大っぴらに募集しているバイトではないだろう.これは同じ学生寮に住んでいた上智大生が雇われていたアルバイトだったのだが,落とした単位の試験があるので行けなくなった,代わりに君が行ってみないかと譲ってもらった仕事だった.
バイト先は新宿の歌舞伎町にあったパチンコ屋だが,バイトは早朝開店前から店の前で待つ.列を作る客の先頭にいなければならないのだ.
そしてガラスドアが開くやいなや,店からあらかじめ店から指定されたパチンコ台のところに走る.そこが「出る」台だからである.
現在のデジタル化されたパチンコと違って当時のものは,台の釘の調整で「出る,出ない」が決まった.もちろんサクラ用の台は釘の調整が大甘にできている.
誰が打っても出るようになっていて,深夜閉店時には足許に球入れの木箱がいくつか積み上がるという仕組みだった.ただ,これがツライのは, 一日中立ったままということだった.今と違って,台には椅子がないのだ.
おまけに台を離れていいのはトイレだけである.食事の時間はない.従ってその日,私が口にできたのは,玉と交換した景品のパンとコーラだけだった.
アルバイトでなければ夢のような大儲けという大量の玉を出したところで,もらえる金は,当時のバイト料の相場からすれば非常に高額だったが,気分的にはわずかなものに思え,これは虚しい仕事だった.
静岡県まで遠征のバイトをしたこともあった.
天竜川の河口付近に,小学校で使う日本地図とか世界地図などの教材を製造している工場があり,そこでは畳大のビニールのシートに,大きな謄写版のような装置で地図を印刷していた.友人の一人がそこの工場長の親類だとかで,そのツテで仲間数人が一週間泊まりがけのバイトに出かけたのだった.
仕事自体は単調だが重労働ではなく,合宿気分で工場の宿直室のような部屋に寝泊まりし,一日の仕事が終われば麻雀に明け暮れるという,最高に気楽なバイトだった.
最終日に給料をもらい,みんな揃って浜松市に行き,懐が暖かいので鰻屋に入った.全員が浜松イコール鰻という観念を持っていたのだ.
私は,それまでに一度だけ鰻丼を食ったことがあった.上京した最初の日,ついてきた父親が別れ際に「入学祝いだ.一緒に夕飯を食おう」と言い,小さな食堂で鰻丼を注文してくれた.その時の丼の上の蒲焼は,花札くらいの大きさのものが二切れだった.それが何と今回は鰻重の肝吸い付きである.もっともその連中のうちの誰一人として,肝吸いがどういうものかは知らなかったのであるが.ともかく豪勢な飯を食って意気揚々と東京に引き上げたことを覚えている.
例のN君から東海道新幹線の車内販売のアルバイトをやった話を聞いた.これも宿泊バイトで,朝一番の東京発に乗り込み,一日に何往復かする.一日の仕事が終わると,国鉄の施設かビュフェを営業する会社のものか知らないが,バイト学生用の施設で宿泊し,また翌日新幹線に乗り車内販売をするという仕事だと言っていた.
そんなある日,彼が車内で弁当を販売していたら,グリーン車に小柳ルミ子が乗っていたそうだ.同行していた彼女のマネジャーがN君にサンドイッチを注文した.その時のビュフェは日本食堂だったらしいが,小柳ルミ子は「あたしは帝国ホテルのが好きなのにっ.日本食堂のじゃ嫌っ嫌っ」と言って駄々をこねまくったそうだ.
N君は熱烈な小柳ルミ子ファンで,酒に酔うとアカペラで『瀬戸の花嫁』を歌うのが常であったが,それ以後二度と『瀬戸の花嫁』を歌うことはなかった.
そんな具合に,大学生活の最初の二年間は臨時アルバイトが主で何とか生きていたが,次第に物価は上昇しつつあり,本代に事欠くようになって本気で常雇いの仕事を探さねばと思うようになった.
持つべきものは友である.三年生の時に,私と同じ学部の友人が家庭教師のアルバイトを紹介してくれた.政治家,官僚,財界人,芸能人 (お笑いタレントではない) など,いわゆる上流階級の子弟専門に家庭教師を派遣する会社があり,その友人はそこの派遣家庭教師をしていた.家庭教師の学生は毎年卒業するとやめていくから,補充が必要になる.その補充の面接を受けられるよう,社長に紹介してくれたのだ.
面接に合格した私が最初に派遣されたのは,当時の農林省の高級官僚の人の家だった.地下鉄茗荷谷駅から歩いてそう遠くない所にある高級高層マンションで,そこの中学生の女の子を受け持つことになった.夕方六時過ぎにそのマンションに行き,エレベーターで高い階まで上がる.玄関のチャイムを鳴らして中に入れてもらい,それからお勉強の前に東南の角部屋のLDKで夕ご飯を食べさせてもらう.東京の夜景が一望だった.光文社の社屋の看板が見えた.
田舎の貧しい家に育った私は,東京にはこんな暮らしの人々がいるのだと驚き,自分もいつかはそうなれるのだろうかと憧れた.しかし結局ただの会社員で終わることになったのだが.
その家庭教師派遣会社からは,半年くらいで別の家庭に行くように命ぜられた.高級官僚の家庭の次は田園調布にある大きな家だった.
ここの家の子は頭は悪いし性格は悪いし,父親もまた同様で随分嫌な思いをした.田園調布の駅から超高級住宅街をその家に行く途中に公園があって,その中を通り抜ける時にチョロチョロとリスなんぞが目の前を走ったりするのも,わけもなく腹が立ったのを覚えている.
このアルバイトを紹介してくれた友人の方はどうだったかというと,専ら芸能人の家庭を割り当てられていたようだ.
両親が映画俳優で,後に男性アイドル歌手 (2021年6月30日の註;郷ひろみ) と結婚したが離婚して,そのことを少し前に本に書いた美しい女性 (二谷友里恵さん) がまだほんの小さい頃の家庭教師が彼だった.
結婚して女優を引退した彼女の母親 (白川由美さん) は,私と同年代ならば知らぬ者のいない美人であったが,とても好感の持てる人だと言っていた.彼女自身も大変性格のよい子供であったようである.
その子の次は,著名な歌舞伎俳優の妻でかつ女優,後に国会議員,そしてある政党の党首で大臣となった人 (扇千景) の家庭にも行ったと聞いた.その家では両親の姿を見たことはなかったとも言っていた.
私が田園調布の家の次に派遣されたのは (この頃に私は高円寺に引っ越した) 下町の墨田区の家庭だった.詳しく訊いたのではないが,どうやら自民党の関係者のようだった.庶民的ではあるが大きな家で,その家の子供二人を教えたのだが,頭も性格もいい子達で,今もよい子達だったなあと覚えている.
その少し前,帰省したら母親が家にいなかった.激しい咳がでるようになって,肺炎みたいだが,いま入院していると父が言った.
入院すればお金が余計にかかるくらいの事は想像できたので,その頃は家から一万円を仕送りしてもらっていたのだが,バイトだけでやっていけるからもう送金しなくてもいい,と父に言った.実際,派遣とは別口の家庭教師のバイトがみつかりそうだったのだ.
生徒は男の浪人生で,その家は中央線立川駅のほうにあった.私の友人が,その子の現役の時に面倒みていたのだが,立川まで往復するのに時間がかかって仕方ないので,誰か代わってくれるやつがいないかと探していた.高円寺から遠いことは遠いのだが,週に一回二時間で月に二万円もらえるという破格の条件だったので私が引き受けた.それまでやっていた分と合わせると月収三万円である.日本育英会の奨学金八千円と合計すると,これは当時の大卒初任給に迫る金額であった.
前任者の友人にもらった地図を見ながらバイト先に行き,その浪人生の父親に会ってみたら,随分年寄りっぽい実直そうな農家の親父さんで,子供は末っ子らしかった.先生どうかよろしく頼みますと頭を下げられた私は,どうか大舟に乗ったつもりでご安心下さい,と大口を叩いた.簡単に安心したらしい親父さんは,自分ちの畑で穫れた落花生を出してもてなしてくれた.私が落花生の殻を割って食べようとすると,彼はこう言った.
「先生,落花生は殻ごと食うのがよいです」
「はあ?」
「どっかの大学のえらい先生が,うちの落花生を調べたら,ヒソという栄養素がたくさん入っとるちゅうとりました」
そう言って殻付きの落花生を口に放り込み,バキバキとかみ砕いた.
「んだもんでそれ以来,わしは落花生を殻ごと食うようにしとります.バキバキ.先生も殻ごと,バキ,どうぞ,バキバキ」
大変な事になったと思ったが,ここで機嫌を損ねてはいかんと思い,ナポレオンの死因のことが頭に浮かんだが,私もヒ素入り落花生をそのまま食べた.後にも先にも,これくらい不味いものはなかった.
だが,本当に大変なのはその毒落花生ではなく,浪人生の子供の方だったのだ.
その家庭は農家であるがアパートを何棟も持っており,その子はアパートの一室に住んで管理人みたいなことをやっているという.勉強を教えるのはそのアパートの部屋で頼みますということだった.
理科系に進学したいという希望で,数学だけ教えて欲しいということであったが,初日に少し問題集をやらせてみて判明したのは,高校一年の数学もよく理解していないという事態だった.おまけに勉強して来年こそは合格したいという熱も意欲も感じられなかった.
大舟に乗ったつもりで,と言い切ったことを私は激しく後悔したが,二万円は,捨てるには惜しい金だった.
この家庭教師の話を私に紹介した友人に「なんだあれは」と詰め寄ると,「あ,言い忘れてたけど,あの子ぜんぜんやる気ないの」
と言った.言い忘れるなよ.
ある日のこと,そのやる気のない生徒を相手に私は虚しい努力をしていた.
「だからあ,二次方程式の解の公式ってのは,2分の」
「先生,それよか,これ知ってる?」
そいつは小さな茶筒を持ち出してきた.中には見たことのない植物の葉が一杯入っていた.
「なんだこれは」
「これはね,マリハナっていうらしいの」
私はぶっ飛んだが,よく聞いてみると,そいつのいるアパートには,立川という土地柄なのか,アメリカ人がうようよ入居しているとかで,そのうちの一人が部屋代のかわりにくれたものだという.休憩と称して,そいつはマリファナを吸い始めた.多幸症というのか,マリファナの効果でへらへらと笑っているそいつの顔を眺めながら,これは入試の結果が出る前に逃げ出したほうがいいな,と思った.
前任者もそれがいいと言ったので,結局十二月一杯でなんとか口実を作ってそのバイトは止めてしまった.
その年の暮れ.派遣家庭教師先の墨田区の方の子供の勉強をみてあげたあとで,もう卒業なので私は今月でおしまいですと挨拶して帰ろうとすると,子供達の母親が私に「先生これをどうぞ」と言い,四角い綺麗な包みをくれた.餞別兼お歳暮のようだった.
箱の中身は一体なんだろうと地下鉄の駅に行く途中でちょっと振ってみると,チャポンチャポンと液体の揺れる音がする.これはひょっとしたら,と思った.
アパートに戻って包みをあけてみると果たしてそれはウイスキーだった.それも,発売されて間もないサントリーのリザーヴという酒だった.
それまで角瓶を飲んだことはあったが,オールドなどはボトルの形がどんなのかぐらいしか知らない.
しかしリザーヴは,その上をいく高級酒のはずだ.おそるおそる箱を開けてみると,中に黒い楕円形のシールが一枚入っており,これにボールペンで字を書くと,金色の跡ができると説明が書かれていた.つまりボトルにネームを入れなさいということなのだ.私はそのシールにサインをし,瓶に貼り付けた.
どんな味がするのだろう.きっと信じられないくらいに美味い酒なんだろうな.開封なんかせずにずっととっておこうかな.そんな事を考えながら,ためつすがめつそのボトルを眺めているその時,部屋の扉を叩く音がした.開けてみると,雀牌の箱を抱えた友達が三人そこに立っていた.
こうして私の部屋に降臨したリザーヴのボトルは,たったの一晩で空瓶になった.人生ってのは,そういうふうに出来ている.その翌朝しみじみとそう思った.
翌年の正月,中野駅の近くのパチンコ屋の前で,立川の浪人男を見かけた.進学はあきらめたのだろうか,遊びまわっているような雰囲気だった.今は立川で農業でもしているかも知れないなと思う.
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2002年4月23日
高円寺駅南口青春賦・さらば青春篇
高円寺の私のアパートは古い木造で玄関に三和土があり,そこで靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋まで行くという造作だった.
そして私以外の全員が半同棲状態と思われ,玄関を入って上がったところの床には女物のスリッパがたくさんあった.他の部屋の前を通りかかる時に,楽しそうな女の笑い声が聞こえることもあった.
私自身はその頃,彼女などいなかったし,また欲しいとも思わず,たまには女子学生と映画やコンサートに出かける事はあったものの,休みの日はほとんど部屋で読書に明け暮れていた.だがそんな生活が淋しくないわけではなかった.
その年の夏休みは二,三日しか帰省しなかった.私は既に就職が内々定しており,その会社から研究所でアルバイトをしてみないかと言われていたので,家庭教師の方の休みをもらった期間はそちらのバイトをしたのである.
夏休みが終わって学校の講義や卒業実験が再開したある日,夜遅くアパートに戻ってくると,扉に電報が貼り付けてあった.それは田舎の父からで,母親が危篤だという知らせだった.
翌朝,財布だけ持って私は上野駅に急いだ.
郷里の駅で下車し,実家に着いてみると鍵がかかっていて,誰もいないようだった.
親しくしていた隣家を訪ねると,伝言が書かれている一枚の紙を渡してくれた.
父から聞いていなかったのだが,母はそれまで入院していた市立病院から,やはり市内にある大学病院に転院していたようで,そこにすぐ向かうようにと書かれていた.大学病院への道筋がよく分からないので,いったん駅に戻り,そこからタクシーに乗った.
大学病院の受付で母の病室のある棟を教えてもらい,病室に入ると父と姉がベッドの脇に立っていた.私も静かに二人の横に立った.
医師は何も語ろうとはせず時々脈をはかり,父も姉も私も,無言のまま長い時間が経過した.
夏に帰宅した折りに姉から,母の病状が思わしくないことは知らされていた.だがこんなに早く死期が迫るとは思ってもいなかった.
そんなことをぼんやりと考えながら,ふと気が付くと医師が看護婦に何か言い,注射の用意をさせていた.彼は,私が見たこともないくらい長い針を注射器に装着し,それを母の心臓の辺りに深々と,ゆっくりと刺し込んだ.それから心臓マッサージを始めた.随分と長時間,それを続けたように思えたのだが,実際はどれほどの時間だったのだろう.やがてマッサージを止め,医師は父に母の臨終と死亡時刻を告げた.
人の記憶というのは頼りにならないものだ.三十年以上も経つと細部は曖昧になってしまっているが,葬儀の日がとても暑かった事は今も覚えている.
秋が来た.ある日,近くのスーパーへ食料を買い出しに行くと,その外で男が何やら売っていた.男の前には箱が置いてあり,その中で人の親指ほどの小さなものがたくさんゴソゴソと動いていた.
男の後ろの壁に貼ってある紙片を読むと,それはハムスターというものらしかった.
たしか一匹二百円ではなかったか.茶色と,白茶ブチのがいて,私がブチのを一匹くれと言うと男はそいつをボール紙の箱に入れてくれた.ネズミみたいなもんだから囓られないようなものに入れて飼うようにと教えてくれた.
部屋に戻り,何か適当なものはないかと探したが,結局小さいポリバケツで飼うことにした.
そいつはヒマワリの種を好んだが,雑食で野菜等も食い,そしてみるみる大きくなった.よく分からないが,たぶん雌のようだった.
彼女はどうも夜行性のようで,私の相棒に格好の生き物だった.私の部屋にはほとんど家具らしいものがなかったから,ポリバケツから出し,そこら辺で遊ばせておいても,何処かに潜りこんで行方不明になることはなかった.
そして私が布団に腹這いになって本を読んでいる時など,稲荷寿司ほどの大きさの彼女が視界の端で身繕いなどしていると妙に心和むようで,こうして私と彼女の同棲が始まった.
ところでN君の下宿には,私と同じ大学のO君という人がいた.
私とN君,O君は,中野の桐和寮で知り合った仲間だった.
私とN君とO君の三人はよく連れだって酒をのんだ.部屋で飲み,居酒屋で飲み,少し金のある時には当時「コンパ」と呼ばれていたパブにも行った.
私がハムスターと一緒に暮らし始めた頃だと思うが,その三人で高円寺南口商店街の通りから少し入ったところにあるスナックバーに行くようになった.そこのマスターは学生のバイトで,私達より年上だったが四年生のまま留年しており,同学年なので気が合ったからである.彼は廃校になることが決まっていた東京教育大の学生だった.
その店には女の子が二人いて,そのうちの一人はマスターの恋人だった.昼間は吉祥寺のデパートに勤めているといっていた.
私達三人がある夜そのスナックに行くと,彼女が「すごくいい曲があるの.聞いてみる?」と言った.そのレコードを聞いてみると,アップテンポのなかなかいいメロディだった.
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
‥‥‥‥
少女よ 泣くのはおやめ
風も木も川も土も みんなみんな 戯れの口笛をふく
「すごくいい歌だね.歌詞が詩のようだ」
そう言うと,彼女は嬉しそうに微笑んだ.
「この歌はね,さらば青春.歌ってるのは小椋佳っていう人なの.作詞も作曲も.でもジャケットに自分の写真は載せないんだって.だからどんな顔なのかわかんない」
私達はその晩,何度も何度も『さらば青春』を歌い,そして二番までしかない短い歌詞を暗記してしまった.
そのスナックのある細い通りには,ビリヤード場もあった.私とN君,O君の三人は,それまで三人とも一度も玉撞きをしたことがなかったのだが,ある日おそるおそる,その撞球場に入ってみた.
店の主人は,アパートの近くの飲み屋の老婦人よりも少し年下かと思われる上品な女性で,いつも和服を着ていた.
私達が全くの初心者であると知ると,その女主人は四ツ玉の撞き方を丁寧に教えてくれた.数時間後には,私達はもの凄い下手くそであるが一応は撞けるようになり,そしてそれ以来,玉撞きにハマってしまった.三人一緒に,週に一度くらいは通ったように思う.
誰か一人金がないと,あとの二人が「俺達が料金を払うから行こうぜ」と言って撞きに行ったから,かなりの熱中具合だった.
母の死後,なんとなく気持ちに空洞ができたような私には,先生役の女主人が優しい人だったからということもあったように思う.
しかしこんな具合に遊んでばかりいたわけではなく,私達は各自それぞれの勉強もちゃんとしてはいたのだ.年末には,文科系系学部のN君とO君は既に卒論を書き上げ,私は卒業実験がほぼ終わって,あとは論文にして提出すればよいところまできていた.
私は家庭教師のアルバイトを十二月一杯でやめ,年の暮れはヒマ を持て余した.いよいよ押し詰まった三十日は徹夜で麻雀をして,そのあとN君等とボーリングをやりに行き,眠気で意識朦朧として皆やたらガーターばかり出し,全員酷い二桁スコアだったので大笑いをして,それから部屋に帰って眠った.
大晦日の夜に起きると今度は三人で例によって玉を撞きに行った.撞球場の女主人が,今夜は特別に深夜まで撞いていてもいいと言ってくれたので,私達は明け方近く疲れるまで玉を撞き,そして壁際に置かれたソファで仮眠をとった.
朝起きると,親切な女主人が汁粉を作ってご馳走してくれた.
お汁粉で腹ごしらえしてから私達は初詣のハシゴに行くことにした.
新宿の花園神社,神田明神,湯島天神,浅草寺をまわった.浅草で友人達と別れて,私は上野駅に行き高崎線に乗った.元旦の電車は空いていた.
四年前の春,上京して大学に入るとすぐ全学ストライキになった.
校舎にバリケードを築き,何日もその中で寝た.
学生同士の対立があり,殴り合い,石を投げた.
運よく怪我はしなかった.
N君は新宿で機動隊に逮捕され,暫く留置場にいた.
桐和寮時代の彼の友人たちは,N君の救援隊を作って差し入れに入った.
慌ただしく時間が過ぎて行き,色んなことがあった長い休暇のような日々の終わりは,もうすぐそこにきていた.
正月休みが終わり,また高円寺に戻った私達はいつものスナックに行った.マスターが店を辞めると聞いたからだ.
「いつまでもこんな商売やってられないからね.卒論を提出して卒業することにした」
卒業してどうするのか訊ねると,田舎に帰って教師の口を探すとマスターは言った.彼の恋人の娘は,一緒に付いていくと言った.
私達は,いつもはサントリー白札しか飲まなかったのに,彼らの前途を祝して角瓶を一本出してもらい,『さらば青春』を歌い,明け方まで飲んだ.
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
僕は呼びかけはしない 傍らを行くものさえ
ぼろ雑巾のように疲れ,よろよろと店のドアを開けて外にでると高円寺駅南口商店街の方角が薄明るくなっていた.昭和四十七年の一月の,寒い朝だった.
やがて二月になるとN君もO君も帰省して,私もアパートを引き払う日が近づいてきた.
ある朝,ポリバケツの中を覗いてみると,ハムスターが元気なくうずくまっていた.なんとなく震えているように見えた.手のひらに乗せてみると,両目は目ヤニでふさがり,明らかに病気だった.
暖房は炬燵しかない寒い部屋だったから,風邪を引かせてしまったのだろう.
彼女を炬燵布団の端に置いて暖め,ずっと見守っていたのだが,その日のうちに死んでしまった.冷たくなった彼女は,かちかちのただの塊になっていた.
私は部屋を出て,アパートの建家と塀の隙間の狭いところに穴を掘って彼女を埋めた.そして部屋に戻って,引っ越しの支度に取りかかった.
その年の五月の連休の時に,N君と再会した.彼は就職した会社が嫌になっていて,新宿の深夜喫茶でその話を聞いた.朝になり,新宿駅まで歩きながら,どちらからともなく旅に出ようという話になった.
金の持ち合わせがあまりなかったので,安い「四国金比羅参り」の周遊券を買い,その足で大阪へ行った.
大阪の彼の実家で夜まで寝させてもらった.彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた.それを持ってその夜,大阪から船に乗り,神戸沖を通過して明け方,高松に着いた.
金比羅宮に着いて,だらだらとした石段を昇って行くと,途中に広場がある.そこで私達は握り飯を食い,ベンチに横になって,昼まで眠った.目がさめた時に,彼は会社を辞める決心をしていた.やっぱり,自分のしたい仕事に就きたいのだとN君は言った.
そして私たちは参道を下り,N君は参道の下の公衆電話から,今日で辞めると会社に連絡した.
そんな事があってから数年後,大阪に戻っていたN君から電話があった.それはO君の訃報だった.新潮社に就職し,週刊新潮の記者になったO君は, 睡眠不足ででもあったのか,取材の帰りに高速道路の分離帯に激突横転して即死したらしかった.
N君の話を呆然と聞きながら,私は高円寺の南口で過ごした,あの頃の日々を思い浮かべた.呼びかけても遠く過ぎ去る者達のことを.
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[本文への追記と註]
★ 私が住んでいた高円寺の木造学生アパートは,のちに高橋由美子の『めぞん一刻』に描かれた一刻館によく似ていた.
彼女の学生時代には,一刻館のような木造アパートが都内にまだ残っていたらしい.
私のいたアパートは大家の名○○をとって「○○荘」という名称で,『めぞん一刻』と違って可憐な美女管理人はおらず,近所に住んでいる大家さんがトイレの掃除をしていた.
トイレは水洗だったが,便器は和式で,水のタンクは天井に近いあたりの壁に設置されていた.そのタンクから下にさげられている細い鎖を手で引くと水が流れる仕組みだった.今では余程の年寄りでなければこんな構造の水洗トイレは見たことがないだろう.画像がないかとウェブを検索してみたが見つからなかった.
「『いちご白書』をもう一度」はフォーク・グループのバンバンがリリースしたシングル盤で,荒井由実時代の松任谷由実作品である.
松任谷由実自身は全く学生運動と無縁に青春時代を過ごした若者 (昭和二十九年生まれ) であり,当然のことながら学生運動に関する知識もなかっために,昭和中頃の東京における学生運動を「挫折」として歌詞に書いた.
この曲を歌ったバンバンの ばんばひろふみ (ばんば は昭和二十五年二月生まれで,私は同年三月生まれである) もまた,学生運動の無風地帯であった京都の立命館大学の学生だったから,東京の学生運動のことはよく知らないだろう.
当時の京都では,反戦平和運動や,現実の社会的問題意識に基づく学生運動はニッチな存在で,むしろいわゆる「関西フォーク」と当時呼ばれた音楽活動が京都の学生たちの「学生運動」だったと私には思われる.
ばんばひろふみ は,その関西フォークの影響の直下にあったのである.従って,学生運動のリアルを知らない松任谷由実や ばんばひろふみ が,学生の長髪と就職と「挫折」を,わかりやすいマンガ的に結びつけて描いたのは致し方のないことだったと思う.自分が知らないことを描くのは難しいのだ.
さて,いわゆる団塊世代が中高年になった頃,世はカラオケの全盛時代を迎えた.
団塊中高年の男たちはカラオケボックスやらカラオケスナックやらで,マイクを握って思い入れたっぷりに「『いちご白書』をもう一度」を歌った.
だが私の見るところ,酒を飲んで「『いちご白書』をもう一度」を歌う男というのは,集会にもデモにも無縁な学生たちだったろう.
この歌の歌詞の「自分の掌返しを恋人に軽蔑された苦い思い出」が本当にあるのなら,カラオケで得意げに歌えるはずがないではないか.
「『いちご白書』をもう一度」は,松任谷由実が実体験なしの想像で作った歌だ.
これを歌う男にとっての昭和四十三年の東京は,ファッショナブルで楽しい時期だったに違いない.
余談だが,昭和四十三年の秋,京都大学の学生自治会が「十月の国際反戦デーに東京から日大全共闘が京大へ攻めてくる」という荒唐無稽なデマを流し,自治会執行部が一般学生を集めてキャンパスをバリケード封鎖した.
当時の学生運動を代表する日大全共闘の何たるかを全く承知しない京大生たちの社会性欠如に,私たち東京の学生は驚き呆れた.
しかも,どういう理由で,どのようにして「日大全共闘が京都に攻めて」くるのか,京大の学生たちは考えもしなかったのだ.新幹線でやって来るのか,あるいはデモ隊列を組んで東海道を進撃してくるのか.昭和の「おかげ参り」か.w
その奇想天外な「京大防衛戦」を武勇伝として語る京大卒業生を一人私は知っている.
その男は,酒の席で皆が昔話に興じると時々,大昔の「京大防衛戦」でバリケードを作った話をした.テレビで報道される「バリケード封鎖」をしてみたかったのだと思われる.
私が「それで,反戦デーの日に日大全共闘とはどのように戦ったんだい?」と訊くと,彼は「いやあ,結局,日大全共闘はこなかったよ」と答えた.
くるはずがないよ.w
ちなみにその男は出世して,取締役専務執行役員で会社員人生を終えた.
さらにちなみに,その頃の京大生で出世頭になったのは,昭和二十三年生まれの出口治明である.
出口治明は,半藤一利との対談『世界史としての日本史』(小学館新書, 2016) 中で高慢にも,自分以外の団塊世代の人間は無教養であると嘲笑している.
これに,昭和天皇に対して己を「臣一利」と称し,昭和天皇のやる事なす事を肯定して恥じなかった半藤一利は,出口に同意して互いを褒め合っている.
だが出口治明が週刊文春誌上で書き殴った「日本史」を読むと,卑弥呼が関西弁でしゃべっていたりする.
「週刊誌の読者なんぞこんな程度のインチキを日本史だといって読ませときゃいいんだ」と言わぬばかりの出口治明の「教養」が,聞いて呆れる.いかにも「日大全共闘が攻めてくる」というデマに踊らされて逆バリケードを張った京大生の「教養」ではある.w
★「さらば青春篇」本文に登場するO君が亡くなってからもう半世紀近い時が流れた.
彼の名前をウェブ上で検索しても,一件もヒットしない.
誰もO君のことを覚えていないのだろうか.誰もO君との思い出を書いてはいないのか.
もしそうなら,かつて彼と学生時代を共に過ごした誰かが,O君の名をサーチしたときのために,私が彼の名をここに記しておこうと思う.彼の名は王子博夫という.
昭和四十三年の冬,彼はノンセクトだったが,東大文学部共闘会議のバリケードの内側にいた.
そういう学生が,岩波書店とか文藝春秋社などのガチガチに体制的な出版社に入社するのは困難だったろう.
昭和四十七年,王子君は新潮社に就職して週刊新潮の記者となり,その後は地方都市の風俗ルポを書き続ける過酷な仕事の中で,おそらく過労のために,高速道で自動車事故を起こして世を去った.
在学時には,N君や私を相手に文学論を熱く語る青年であった王子君としては,風俗や犯罪やスキャンダルを取り上げることが多かった週刊新潮の仕事は彼の志とは遠いものだったように思うが,しかしそれはもう遠い日のことになった.
私の学生時代のもう一人の友人であったN君については,私には彼がまだ存命であって欲しいとの思いがあって,ここに名を記すことはしない.しかし誰かがサーチした時にヒットすることを期待して少しだけ書いておく.
N君は昭和四十三年に日大文学部に入学し,四十七年に卒業した.当時の日大は,経営者が腐敗の極みにあり,日大の学生運動は,腐敗に対する学生たちの抗議行動に端を発したものであった.Wikipedia【全学共闘会議】に次のようにある.
《発端
1968年5月、日本大学で東京国税局の家宅捜索により、22億円の使途不明金が発覚した。当時日大では時の理事長・古田重二良の方針により学生自治会が認められていなかったが、この使途不明金問題をきっかけに、大学当局に対する学生の不満が爆発し、5月23日に神田三崎町の経済学部前で、日大初めてのデモとなる「二百メートル・デモ」が行われた。》
N君は,ほんの数分間の「二百メートル・デモ」に加わった誠実な学生の一人であった.その日の夜,桐和寮の一室で,王子君や私に,二百メートル・デモの意義を熱く語るN君のことが忘れられない.
★私は小学生低学年の頃,カナリアを飼ったことがある.正確には父親が知人に一つがいをもらい受け,その世話をさせられたのである.
このつがいは,何度も抱卵してヒナを孵したが,途中でヒナを巣から蹴落として死なせてしまう.そしてその度に私はカナリアのヒナの墓をつくることになった.このカナリアがどうなったのかよく覚えていない.本来の飼い主である父親が,他家に引き取ってもらったような気がする.
高円寺のアパートで暮らしていたときに飼ったメスのハムスターは,私が初めて飼ったペットだったが,一年も生きさせることができなかった.
私は正しい飼い方を知らなかったのである.
それと,彼女が死んでから気がついたのであるが,私はそのハムスターに名前をつけていなかった.
その迂闊さが忘れられない.もっと長生きさせるように飼えばよかったと,今も後悔している.
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