私が昔書いたこと

閉館した個人サイトの『雑事雑感』『続・雑事雑感』に書いたことを再録.

2021年6月29日 (火)

焼きネギ味噌 (補遺)「高円寺駅南口青春譜」

 昨日の記事は,私が東京の高円寺の学生アパートに住んでいた昭和四十六年の思い出を書いたものだ.
 その思い出は《高円寺駅南口青春譜》と題した一連の記事だったので,昨日の文章の続きを,油揚げとは関係ないが,ここに載せておく.
 以下の文章にも末尾に註をつけた.
 
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2002年4月16日
高円寺駅南口青春賦・自炊立志篇
 
 さて高円寺のアパートで暮らすようになった私は,自炊をしようと思い立った.
 大学の講義は朝八時からだった (2021年6月30日の註;昭和四十三年の夏に学校は全学ストライキに突入し,翌年の安田講堂への機動隊導入によって大学はストライキが解除されたが,教養学部では半年間の講義議の遅れを取り戻すために朝早くから授業が行われた) ので,朝飯は駅の立ち食い蕎麦にすることが多かった.
 お昼は学校の生協食堂が安いし,日替わりのランチなら飽きもこない.
 問題は夕飯だった.
 家庭教師のバイトがある日は,その家庭でちゃんとしたものを食べさせてもらえるが,そうでない日はできるだけ自炊しようと考えたのだ.
 もともと小さい頃から私は母親の手伝いをよくする子だったので,食事の支度は苦にならない.多少の心得はあったのである.
 
 そうなると料理道具を揃えねばならないが,鍋の大小二つ,包丁,まな板はアパートの近くのスーパーで購入した.
 次は電気釜である.
 今なら炊飯ジャーであるが,当時のものは電気釜という名のもっと原始的なやつで,白い塗装の外釜の中にアルミの内釜,ジュラルミンの蓋,保温機能はなしという東芝製品.
 友達に聞いたところでは,秋葉原の電気街に行くと安く買えるらしかった.近所の下宿に住む例のN君は大阪の出身で,彼の指南によると,まずは徹底的に粘って言い値を値切らねばならない.
 そして店員がこれ以上は値引きできませんと言ったら「何かオマケにつけてサービスしてくれ」と言うのが良いとアドバイスしてくれた.さすが大阪人は違うと感心しつつ,私は電車に乗って秋葉原に出かけた.
 
 その頃の秋葉原電気街は現在と全く異なり,家電製品の街だった.何しろまだこの世にパソコンなんかの影も形もなく,オーディオは真空管が堂々とまだ現役を張っていた時代である.
 店の名は忘れてしまったが,秋葉原駅の電気街口から中央通りに出て万世橋側に折れた所の,今のオノデンあたりの小さな店だったように思う.東芝の二合炊き電気釜が欲しかったのでその旨を店員に告げると「ある」とのことだった.当時の価格が幾らであったか全然覚えていないが,スーパーの店頭よりは安かったと思う.
 元々秋葉原というところは一般の電器店より安いので,昔から価格交渉の効かないことが多いようであるが,当時の私にそんな知識はない.N君の事前指導を受けていた私は,もう少し安くして欲しいと頼み込んだ.
 すると,いかにも貧乏学生という風体の私を見てその店の店員は哀れに思ったか,百円単位の端数を引いて,切りの良い値段にしてくれた.
 調子に乗った私が「もう一声」と言うと,さすがに「勘弁してくださいよ,学生さん」と言われてしまった.
 それじゃあ何かサービスにオマケしてくださいと頼んだところ,「わかりました.サービスしましょう」と言って店員がくれた物は,私の期待に反してチャチなプラスチックの御飯シャモジであった.
 ここで引き下がってなるものかと「わざわざ電車賃を使って秋葉原に来たのだから,もう少しいい物をくれませんか」と申し述べると「そこまで言うなら,お客さんだけ特別ですからね」と彼は言い,布巾を一枚くれた.ご飯が炊けたら釜と蓋の間に布巾を拡げて挟む と蒸気が適度に逃げて美味しく蒸らせるという.そうですか.
 数百円の値引きとシャモジと布巾一枚が十分な戦果なのかどうか分からなかったが,諦めて高円寺のアパートに戻った.
 
 電気釜の次は米だが,米をどこで買ったのか思い出せない.昭和四十三年,青雲の志を抱いて上京した時は確か米穀通帳 (2021年6月30日の註;Wikipedia【米国配給通帳】) を持っていたような記憶があるが,しかしその翌年から米をどこでも買えるようになったはずだから,たぶん西友ストアあたりで買ってきたのだと思う.
 調達した米の袋を眺めて,ともかくこれで生活費がピンチになっても飢えることはない,ヨシヨシと思った.生活費がピンチにならぬように計画的に生きようという知恵がなかったのは,いま考えても不思議である.私はアルバイトの金が手に入れば無闇に本を買い込み,貯金通帳はなく,その日暮らしでいつもピーピーしていた.(2021年6月30日の註;バイト代が入ると私は,日本化学会編『実験化学講座』(丸善,全三十二巻) を数冊ずつ買い集めた.この講座は化学系学生のバイブルにも等しい書籍だった)
 
 自炊を始めてから気が付いたのは,食糧の保存がいかに難しいかということだった.
 あの頃の一人暮らしの学生で,冷蔵庫を持っているなんてのは余程のお坊っちゃまだったろう.私の周囲にはただ一人しかいなかった.
 余談だがそいつはN君と同じ賄い付き下宿にいた男で,自炊のための食料品を備蓄する必要がなかったから,彼の冷蔵庫には牛乳と,暑い夏場はパンツが入っていた.銭湯から戻った時などに,喫茶店で出してくれるオシボリのようにしてよく冷やしたパンツを着用すると,とっても快感であると言っていた.
 扇風機すら持っていない私には,それは王侯貴族の暮らしのように思えたものだ.いま単身赴任している私の部屋にもちろん冷蔵庫はある.しかしエアコンもあるので,その快楽を享受する機会がないのが残念である.
 
 さて昔も今も,長持ちする食材の代表格はタマネギ,ジャガイモとニンジンだろう.これで何を作ろうか.アウトドアならカレーであるが,インドアでもカレーが定番である.
 だがいつもいつもカレーでは能がない.この三者と豚肉を煮て,即席カレールーを加えればカレー,シチューの素を入れればシチュー,味噌を放り込めば豚汁,肉の代わりにコンニャクを用いて醤油味にすれば,けんちん汁モドキができる.タマネギ,ジャガイモおよびニンジンを煮た変幻自在のものを私は「日和見なべ」と名付けた.
 もうその頃の大学の学内には,かつての学生運動の熱気は跡形もなくなっていた.弥生町の農学部キャンパスには,学生自治会のタテカンもなくなった.
 志操軟弱にしてもはや街頭デモに行くこともなく勉強に自閉していた私に,「日和見なべ」は相応しい名の食い物であるなあと我ながら感心した.就職が決まって髪を切り「もう若くはないさと君に言い訳」しなければならない季節はもうすぐそこだった.(2021年6月30日の註;「もう若くはないさ……」は「『いちご白書』をもう一度」の歌詞;私は就職が決まって髪を切ったが,しかし「もう若くはないさ」と言い訳をしなければいけない相手はいなかった)
 
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2002年4月20日
高円寺駅南口青春賦・苦学奮闘篇
 
 学生にアルバイトはつきものである.何のために,という目的は違うだろうが,昔も今も学生はバイトする.

 私が初めてしたアルバイトは,荷物運びである.大学一年の時に住んでいたのは,法務省矯正局が所管する矯正施設 (刑務所や少年院など) 職員の子弟が入居できる学生寮で,色んな大学の学生達が住んでいた.名称は桐和学生寮といい,現在は移転してしまった旧中野刑務所の北側敷地にあった.最寄駅は西武新宿線沼袋駅であったが,学生たちは定期代節約のために当時の国鉄中野駅から通学していた.
 
 ある日,同じ階にいた中央大の二年生の人が「手を貸せ」と言った.三人必要なバイトの口があるので,あと二人集めたいのだという.
 翌朝,その先輩に連れて行かれたのは絨毯の問屋であった.まず問屋の倉庫から絨毯を運び出してトラックに載せ,これを都内のデパート数店に配送するのがその日の仕事だった.
 私は田舎から上京して西も東も分からない頃だったから,どこのデパートに行ったのか覚えていない.仕事は,ビルの裏口に回り,トラックの荷台から,太い丸太のように巻いた絨毯を降ろして,エレベーターに積み込むことだった.
 この絨毯というのが実に重かった.屈強とは言い難いが,体力ある若い学生二人がかりでようやく一本持てるという重量なのである.上の方にある階とトラックを何度も往復して運び揚げ,何枚かを拡げてフロアに展示するという単純肉体作業を,その日の夕方までやった.
 そして最後に「ごくろうさん」と言って問屋の人が二千円くれた.これが私の手にした初めてのバイト料だった.
 当時の物価がどうかというと,ラーメンが八十円,餃子ライスが百円,野菜炒めライスが百十円.食い物ばかりでナンだが,これが分かりやすい.つまり,多くみて一日三百円の食費がかかるとして,二千円は,一週間も飯が食える金だったのだ.もう足腰立たないくらいに疲れたが,その日はリーダー格だった早稲田の二年生と新宿西口の横丁で,天丼の大盛りという身分不相応な夕飯を食い,アルバイトの有り難みを知った.
 だが,こんな割のよい仕事はそうあるものではなかった.清掃系の作業 (2021年6月30日の註;高速道路の照明灯を拭くなど) などは一日働いても千円ちょっと程ではなかったか.感激したのは最初の絨毯運びだけだったので,それ以後のアルバイトでいくらもらったのか,あまり覚えていない.
 
 パチンコ屋のサクラというのもした.こんなのは,そう大っぴらに募集しているバイトではないだろう.これは同じ学生寮に住んでいた上智大生が雇われていたアルバイトだったのだが,落とした単位の試験があるので行けなくなった,代わりに君が行ってみないかと譲ってもらった仕事だった.
 バイト先は新宿の歌舞伎町にあったパチンコ屋だが,バイトは早朝開店前から店の前で待つ.列を作る客の先頭にいなければならないのだ.
 そしてガラスドアが開くやいなや,店からあらかじめ店から指定されたパチンコ台のところに走る.そこが「出る」台だからである.
 現在のデジタル化されたパチンコと違って当時のものは,台の釘の調整で「出る,出ない」が決まった.もちろんサクラ用の台は釘の調整が大甘にできている.
 誰が打っても出るようになっていて,深夜閉店時には足許に球入れの木箱がいくつか積み上がるという仕組みだった.ただ,これがツライのは, 一日中立ったままということだった.今と違って,台には椅子がないのだ.
 おまけに台を離れていいのはトイレだけである.食事の時間はない.従ってその日,私が口にできたのは,玉と交換した景品のパンとコーラだけだった.
 アルバイトでなければ夢のような大儲けという大量の玉を出したところで,もらえる金は,当時のバイト料の相場からすれば非常に高額だったが,気分的にはわずかなものに思え,これは虚しい仕事だった.
 
 静岡県まで遠征のバイトをしたこともあった.
 天竜川の河口付近に,小学校で使う日本地図とか世界地図などの教材を製造している工場があり,そこでは畳大のビニールのシートに,大きな謄写版のような装置で地図を印刷していた.友人の一人がそこの工場長の親類だとかで,そのツテで仲間数人が一週間泊まりがけのバイトに出かけたのだった.
 仕事自体は単調だが重労働ではなく,合宿気分で工場の宿直室のような部屋に寝泊まりし,一日の仕事が終われば麻雀に明け暮れるという,最高に気楽なバイトだった.
 最終日に給料をもらい,みんな揃って浜松市に行き,懐が暖かいので鰻屋に入った.全員が浜松イコール鰻という観念を持っていたのだ.
 私は,それまでに一度だけ鰻丼を食ったことがあった.上京した最初の日,ついてきた父親が別れ際に「入学祝いだ.一緒に夕飯を食おう」と言い,小さな食堂で鰻丼を注文してくれた.その時の丼の上の蒲焼は,花札くらいの大きさのものが二切れだった.それが何と今回は鰻重の肝吸い付きである.もっともその連中のうちの誰一人として,肝吸いがどういうものかは知らなかったのであるが.ともかく豪勢な飯を食って意気揚々と東京に引き上げたことを覚えている.
 
 例のN君から東海道新幹線の車内販売のアルバイトをやった話を聞いた.これも宿泊バイトで,朝一番の東京発に乗り込み,一日に何往復かする.一日の仕事が終わると,国鉄の施設かビュフェを営業する会社のものか知らないが,バイト学生用の施設で宿泊し,また翌日新幹線に乗り車内販売をするという仕事だと言っていた.
 そんなある日,彼が車内で弁当を販売していたら,グリーン車に小柳ルミ子が乗っていたそうだ.同行していた彼女のマネジャーがN君にサンドイッチを注文した.その時のビュフェは日本食堂だったらしいが,小柳ルミ子は「あたしは帝国ホテルのが好きなのにっ.日本食堂のじゃ嫌っ嫌っ」と言って駄々をこねまくったそうだ.
 N君は熱烈な小柳ルミ子ファンで,酒に酔うとアカペラで『瀬戸の花嫁』を歌うのが常であったが,それ以後二度と『瀬戸の花嫁』を歌うことはなかった.
 
 そんな具合に,大学生活の最初の二年間は臨時アルバイトが主で何とか生きていたが,次第に物価は上昇しつつあり,本代に事欠くようになって本気で常雇いの仕事を探さねばと思うようになった.
 持つべきものは友である.三年生の時に,私と同じ学部の友人が家庭教師のアルバイトを紹介してくれた.政治家,官僚,財界人,芸能人 (お笑いタレントではない) など,いわゆる上流階級の子弟専門に家庭教師を派遣する会社があり,その友人はそこの派遣家庭教師をしていた.家庭教師の学生は毎年卒業するとやめていくから,補充が必要になる.その補充の面接を受けられるよう,社長に紹介してくれたのだ.
 面接に合格した私が最初に派遣されたのは,当時の農林省の高級官僚の人の家だった.地下鉄茗荷谷駅から歩いてそう遠くない所にある高級高層マンションで,そこの中学生の女の子を受け持つことになった.夕方六時過ぎにそのマンションに行き,エレベーターで高い階まで上がる.玄関のチャイムを鳴らして中に入れてもらい,それからお勉強の前に東南の角部屋のLDKで夕ご飯を食べさせてもらう.東京の夜景が一望だった.光文社の社屋の看板が見えた.
 田舎の貧しい家に育った私は,東京にはこんな暮らしの人々がいるのだと驚き,自分もいつかはそうなれるのだろうかと憧れた.しかし結局ただの会社員で終わることになったのだが.
 その家庭教師派遣会社からは,半年くらいで別の家庭に行くように命ぜられた.高級官僚の家庭の次は田園調布にある大きな家だった.
 ここの家の子は頭は悪いし性格は悪いし,父親もまた同様で随分嫌な思いをした.田園調布の駅から超高級住宅街をその家に行く途中に公園があって,その中を通り抜ける時にチョロチョロとリスなんぞが目の前を走ったりするのも,わけもなく腹が立ったのを覚えている.
 このアルバイトを紹介してくれた友人の方はどうだったかというと,専ら芸能人の家庭を割り当てられていたようだ.
 両親が映画俳優で,後に男性アイドル歌手 (2021年6月30日の註;郷ひろみ) と結婚したが離婚して,そのことを少し前に本に書いた美しい女性 (二谷友里恵さん) がまだほんの小さい頃の家庭教師が彼だった.
 結婚して女優を引退した彼女の母親 (白川由美さん) は,私と同年代ならば知らぬ者のいない美人であったが,とても好感の持てる人だと言っていた.彼女自身も大変性格のよい子供であったようである.
 その子の次は,著名な歌舞伎俳優の妻でかつ女優,後に国会議員,そしてある政党の党首で大臣となった人 (扇千景) の家庭にも行ったと聞いた.その家では両親の姿を見たことはなかったとも言っていた.
 
 私が田園調布の家の次に派遣されたのは (この頃に私は高円寺に引っ越した) 下町の墨田区の家庭だった.詳しく訊いたのではないが,どうやら自民党の関係者のようだった.庶民的ではあるが大きな家で,その家の子供二人を教えたのだが,頭も性格もいい子達で,今もよい子達だったなあと覚えている.
 
 その少し前,帰省したら母親が家にいなかった.激しい咳がでるようになって,肺炎みたいだが,いま入院していると父が言った.
 入院すればお金が余計にかかるくらいの事は想像できたので,その頃は家から一万円を仕送りしてもらっていたのだが,バイトだけでやっていけるからもう送金しなくてもいい,と父に言った.実際,派遣とは別口の家庭教師のバイトがみつかりそうだったのだ.
 生徒は男の浪人生で,その家は中央線立川駅のほうにあった.私の友人が,その子の現役の時に面倒みていたのだが,立川まで往復するのに時間がかかって仕方ないので,誰か代わってくれるやつがいないかと探していた.高円寺から遠いことは遠いのだが,週に一回二時間で月に二万円もらえるという破格の条件だったので私が引き受けた.それまでやっていた分と合わせると月収三万円である.日本育英会の奨学金八千円と合計すると,これは当時の大卒初任給に迫る金額であった.
 前任者の友人にもらった地図を見ながらバイト先に行き,その浪人生の父親に会ってみたら,随分年寄りっぽい実直そうな農家の親父さんで,子供は末っ子らしかった.先生どうかよろしく頼みますと頭を下げられた私は,どうか大舟に乗ったつもりでご安心下さい,と大口を叩いた.簡単に安心したらしい親父さんは,自分ちの畑で穫れた落花生を出してもてなしてくれた.私が落花生の殻を割って食べようとすると,彼はこう言った.
 
「先生,落花生は殻ごと食うのがよいです」
「はあ?」
「どっかの大学のえらい先生が,うちの落花生を調べたら,ヒソという栄養素がたくさん入っとるちゅうとりました」
 
 そう言って殻付きの落花生を口に放り込み,バキバキとかみ砕いた.
 
「んだもんでそれ以来,わしは落花生を殻ごと食うようにしとります.バキバキ.先生も殻ごと,バキ,どうぞ,バキバキ」
 
 大変な事になったと思ったが,ここで機嫌を損ねてはいかんと思い,ナポレオンの死因のことが頭に浮かんだが,私もヒ素入り落花生をそのまま食べた.後にも先にも,これくらい不味いものはなかった.
 だが,本当に大変なのはその毒落花生ではなく,浪人生の子供の方だったのだ.
 その家庭は農家であるがアパートを何棟も持っており,その子はアパートの一室に住んで管理人みたいなことをやっているという.勉強を教えるのはそのアパートの部屋で頼みますということだった.
 理科系に進学したいという希望で,数学だけ教えて欲しいということであったが,初日に少し問題集をやらせてみて判明したのは,高校一年の数学もよく理解していないという事態だった.おまけに勉強して来年こそは合格したいという熱も意欲も感じられなかった.
 大舟に乗ったつもりで,と言い切ったことを私は激しく後悔したが,二万円は,捨てるには惜しい金だった.
 この家庭教師の話を私に紹介した友人に「なんだあれは」と詰め寄ると,「あ,言い忘れてたけど,あの子ぜんぜんやる気ないの」
と言った.言い忘れるなよ.
 ある日のこと,そのやる気のない生徒を相手に私は虚しい努力をしていた.
 
「だからあ,二次方程式の解の公式ってのは,2分の」
「先生,それよか,これ知ってる?」
 
 そいつは小さな茶筒を持ち出してきた.中には見たことのない植物の葉が一杯入っていた.
「なんだこれは」
「これはね,マリハナっていうらしいの」
 
 私はぶっ飛んだが,よく聞いてみると,そいつのいるアパートには,立川という土地柄なのか,アメリカ人がうようよ入居しているとかで,そのうちの一人が部屋代のかわりにくれたものだという.休憩と称して,そいつはマリファナを吸い始めた.多幸症というのか,マリファナの効果でへらへらと笑っているそいつの顔を眺めながら,これは入試の結果が出る前に逃げ出したほうがいいな,と思った.
 前任者もそれがいいと言ったので,結局十二月一杯でなんとか口実を作ってそのバイトは止めてしまった.
 
 その年の暮れ.派遣家庭教師先の墨田区の方の子供の勉強をみてあげたあとで,もう卒業なので私は今月でおしまいですと挨拶して帰ろうとすると,子供達の母親が私に「先生これをどうぞ」と言い,四角い綺麗な包みをくれた.餞別兼お歳暮のようだった.
 箱の中身は一体なんだろうと地下鉄の駅に行く途中でちょっと振ってみると,チャポンチャポンと液体の揺れる音がする.これはひょっとしたら,と思った.
 アパートに戻って包みをあけてみると果たしてそれはウイスキーだった.それも,発売されて間もないサントリーのリザーヴという酒だった.
 それまで角瓶を飲んだことはあったが,オールドなどはボトルの形がどんなのかぐらいしか知らない.
 しかしリザーヴは,その上をいく高級酒のはずだ.おそるおそる箱を開けてみると,中に黒い楕円形のシールが一枚入っており,これにボールペンで字を書くと,金色の跡ができると説明が書かれていた.つまりボトルにネームを入れなさいということなのだ.私はそのシールにサインをし,瓶に貼り付けた.
 どんな味がするのだろう.きっと信じられないくらいに美味い酒なんだろうな.開封なんかせずにずっととっておこうかな.そんな事を考えながら,ためつすがめつそのボトルを眺めているその時,部屋の扉を叩く音がした.開けてみると,雀牌の箱を抱えた友達が三人そこに立っていた.
 こうして私の部屋に降臨したリザーヴのボトルは,たったの一晩で空瓶になった.人生ってのは,そういうふうに出来ている.その翌朝しみじみとそう思った.
 
 翌年の正月,中野駅の近くのパチンコ屋の前で,立川の浪人男を見かけた.進学はあきらめたのだろうか,遊びまわっているような雰囲気だった.今は立川で農業でもしているかも知れないなと思う.
 
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2002年4月23日
高円寺駅南口青春賦・さらば青春篇
 
 高円寺の私のアパートは古い木造で玄関に三和土があり,そこで靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋まで行くという造作だった.
 そして私以外の全員が半同棲状態と思われ,玄関を入って上がったところの床には女物のスリッパがたくさんあった.他の部屋の前を通りかかる時に,楽しそうな女の笑い声が聞こえることもあった.
 私自身はその頃,彼女などいなかったし,また欲しいとも思わず,たまには女子学生と映画やコンサートに出かける事はあったものの,休みの日はほとんど部屋で読書に明け暮れていた.だがそんな生活が淋しくないわけではなかった.
 その年の夏休みは二,三日しか帰省しなかった.私は既に就職が内々定しており,その会社から研究所でアルバイトをしてみないかと言われていたので,家庭教師の方の休みをもらった期間はそちらのバイトをしたのである.
 
 夏休みが終わって学校の講義や卒業実験が再開したある日,夜遅くアパートに戻ってくると,扉に電報が貼り付けてあった.それは田舎の父からで,母親が危篤だという知らせだった.
 
 翌朝,財布だけ持って私は上野駅に急いだ.

 郷里の駅で下車し,実家に着いてみると鍵がかかっていて,誰もいないようだった.
 親しくしていた隣家を訪ねると,伝言が書かれている一枚の紙を渡してくれた.
 父から聞いていなかったのだが,母はそれまで入院していた市立病院から,やはり市内にある大学病院に転院していたようで,そこにすぐ向かうようにと書かれていた.大学病院への道筋がよく分からないので,いったん駅に戻り,そこからタクシーに乗った.
 大学病院の受付で母の病室のある棟を教えてもらい,病室に入ると父と姉がベッドの脇に立っていた.私も静かに二人の横に立った.
 医師は何も語ろうとはせず時々脈をはかり,父も姉も私も,無言のまま長い時間が経過した.
 夏に帰宅した折りに姉から,母の病状が思わしくないことは知らされていた.だがこんなに早く死期が迫るとは思ってもいなかった.
 そんなことをぼんやりと考えながら,ふと気が付くと医師が看護婦に何か言い,注射の用意をさせていた.彼は,私が見たこともないくらい長い針を注射器に装着し,それを母の心臓の辺りに深々と,ゆっくりと刺し込んだ.それから心臓マッサージを始めた.随分と長時間,それを続けたように思えたのだが,実際はどれほどの時間だったのだろう.やがてマッサージを止め,医師は父に母の臨終と死亡時刻を告げた.
 人の記憶というのは頼りにならないものだ.三十年以上も経つと細部は曖昧になってしまっているが,葬儀の日がとても暑かった事は今も覚えている.
 
 秋が来た.ある日,近くのスーパーへ食料を買い出しに行くと,その外で男が何やら売っていた.男の前には箱が置いてあり,その中で人の親指ほどの小さなものがたくさんゴソゴソと動いていた.
 男の後ろの壁に貼ってある紙片を読むと,それはハムスターというものらしかった.
 たしか一匹二百円ではなかったか.茶色と,白茶ブチのがいて,私がブチのを一匹くれと言うと男はそいつをボール紙の箱に入れてくれた.ネズミみたいなもんだから囓られないようなものに入れて飼うようにと教えてくれた.
 部屋に戻り,何か適当なものはないかと探したが,結局小さいポリバケツで飼うことにした.
 そいつはヒマワリの種を好んだが,雑食で野菜等も食い,そしてみるみる大きくなった.よく分からないが,たぶん雌のようだった.
 彼女はどうも夜行性のようで,私の相棒に格好の生き物だった.私の部屋にはほとんど家具らしいものがなかったから,ポリバケツから出し,そこら辺で遊ばせておいても,何処かに潜りこんで行方不明になることはなかった.
 そして私が布団に腹這いになって本を読んでいる時など,稲荷寿司ほどの大きさの彼女が視界の端で身繕いなどしていると妙に心和むようで,こうして私と彼女の同棲が始まった.
 
 ところでN君の下宿には,私と同じ大学のO君という人がいた.
 私とN君,O君は,中野の桐和寮で知り合った仲間だった.
 私とN君とO君の三人はよく連れだって酒をのんだ.部屋で飲み,居酒屋で飲み,少し金のある時には当時「コンパ」と呼ばれていたパブにも行った.
 私がハムスターと一緒に暮らし始めた頃だと思うが,その三人で高円寺南口商店街の通りから少し入ったところにあるスナックバーに行くようになった.そこのマスターは学生のバイトで,私達より年上だったが四年生のまま留年しており,同学年なので気が合ったからである.彼は廃校になることが決まっていた東京教育大の学生だった.
 その店には女の子が二人いて,そのうちの一人はマスターの恋人だった.昼間は吉祥寺のデパートに勤めているといっていた.
 私達三人がある夜そのスナックに行くと,彼女が「すごくいい曲があるの.聞いてみる?」と言った.そのレコードを聞いてみると,アップテンポのなかなかいいメロディだった.
 
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
‥‥‥‥
少女よ 泣くのはおやめ
風も木も川も土も みんなみんな 戯れの口笛をふく
 
「すごくいい歌だね.歌詞が詩のようだ」
 そう言うと,彼女は嬉しそうに微笑んだ.
「この歌はね,さらば青春.歌ってるのは小椋佳っていう人なの.作詞も作曲も.でもジャケットに自分の写真は載せないんだって.だからどんな顔なのかわかんない」
 
 私達はその晩,何度も何度も『さらば青春』を歌い,そして二番までしかない短い歌詞を暗記してしまった.
 
 そのスナックのある細い通りには,ビリヤード場もあった.私とN君,O君の三人は,それまで三人とも一度も玉撞きをしたことがなかったのだが,ある日おそるおそる,その撞球場に入ってみた.
 店の主人は,アパートの近くの飲み屋の老婦人よりも少し年下かと思われる上品な女性で,いつも和服を着ていた.
 私達が全くの初心者であると知ると,その女主人は四ツ玉の撞き方を丁寧に教えてくれた.数時間後には,私達はもの凄い下手くそであるが一応は撞けるようになり,そしてそれ以来,玉撞きにハマってしまった.三人一緒に,週に一度くらいは通ったように思う.
 誰か一人金がないと,あとの二人が「俺達が料金を払うから行こうぜ」と言って撞きに行ったから,かなりの熱中具合だった.
 母の死後,なんとなく気持ちに空洞ができたような私には,先生役の女主人が優しい人だったからということもあったように思う.
 
 しかしこんな具合に遊んでばかりいたわけではなく,私達は各自それぞれの勉強もちゃんとしてはいたのだ.年末には,文科系系学部のN君とO君は既に卒論を書き上げ,私は卒業実験がほぼ終わって,あとは論文にして提出すればよいところまできていた.

 私は家庭教師のアルバイトを十二月一杯でやめ,年の暮れはヒマ を持て余した.いよいよ押し詰まった三十日は徹夜で麻雀をして,そのあとN君等とボーリングをやりに行き,眠気で意識朦朧として皆やたらガーターばかり出し,全員酷い二桁スコアだったので大笑いをして,それから部屋に帰って眠った.
 大晦日の夜に起きると今度は三人で例によって玉を撞きに行った.撞球場の女主人が,今夜は特別に深夜まで撞いていてもいいと言ってくれたので,私達は明け方近く疲れるまで玉を撞き,そして壁際に置かれたソファで仮眠をとった.
 朝起きると,親切な女主人が汁粉を作ってご馳走してくれた.
 お汁粉で腹ごしらえしてから私達は初詣のハシゴに行くことにした.
 新宿の花園神社,神田明神,湯島天神,浅草寺をまわった.浅草で友人達と別れて,私は上野駅に行き高崎線に乗った.元旦の電車は空いていた.
 
 四年前の春,上京して大学に入るとすぐ全学ストライキになった.
 校舎にバリケードを築き,何日もその中で寝た.
 学生同士の対立があり,殴り合い,石を投げた.
 運よく怪我はしなかった.
 N君は新宿で機動隊に逮捕され,暫く留置場にいた.
 桐和寮時代の彼の友人たちは,N君の救援隊を作って差し入れに入った. 
 慌ただしく時間が過ぎて行き,色んなことがあった長い休暇のような日々の終わりは,もうすぐそこにきていた.
 
 正月休みが終わり,また高円寺に戻った私達はいつものスナックに行った.マスターが店を辞めると聞いたからだ.
「いつまでもこんな商売やってられないからね.卒論を提出して卒業することにした」
 卒業してどうするのか訊ねると,田舎に帰って教師の口を探すとマスターは言った.彼の恋人の娘は,一緒に付いていくと言った.
 私達は,いつもはサントリー白札しか飲まなかったのに,彼らの前途を祝して角瓶を一本出してもらい,『さらば青春』を歌い,明け方まで飲んだ.
 
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
僕は呼びかけはしない 傍らを行くものさえ
 
 ぼろ雑巾のように疲れ,よろよろと店のドアを開けて外にでると高円寺駅南口商店街の方角が薄明るくなっていた.昭和四十七年の一月の,寒い朝だった.
 
 やがて二月になるとN君もO君も帰省して,私もアパートを引き払う日が近づいてきた.
 ある朝,ポリバケツの中を覗いてみると,ハムスターが元気なくうずくまっていた.なんとなく震えているように見えた.手のひらに乗せてみると,両目は目ヤニでふさがり,明らかに病気だった.
 暖房は炬燵しかない寒い部屋だったから,風邪を引かせてしまったのだろう.
 彼女を炬燵布団の端に置いて暖め,ずっと見守っていたのだが,その日のうちに死んでしまった.冷たくなった彼女は,かちかちのただの塊になっていた.
 私は部屋を出て,アパートの建家と塀の隙間の狭いところに穴を掘って彼女を埋めた.そして部屋に戻って,引っ越しの支度に取りかかった.
 
 その年の五月の連休の時に,N君と再会した.彼は就職した会社が嫌になっていて,新宿の深夜喫茶でその話を聞いた.朝になり,新宿駅まで歩きながら,どちらからともなく旅に出ようという話になった.
 金の持ち合わせがあまりなかったので,安い「四国金比羅参り」の周遊券を買い,その足で大阪へ行った.
 大阪の彼の実家で夜まで寝させてもらった.彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた.それを持ってその夜,大阪から船に乗り,神戸沖を通過して明け方,高松に着いた.
 金比羅宮に着いて,だらだらとした石段を昇って行くと,途中に広場がある.そこで私達は握り飯を食い,ベンチに横になって,昼まで眠った.目がさめた時に,彼は会社を辞める決心をしていた.やっぱり,自分のしたい仕事に就きたいのだとN君は言った.
 そして私たちは参道を下り,N君は参道の下の公衆電話から,今日で辞めると会社に連絡した.
 
 そんな事があってから数年後,大阪に戻っていたN君から電話があった.それはO君の訃報だった.新潮社に就職し,週刊新潮の記者になったO君は, 睡眠不足ででもあったのか,取材の帰りに高速道路の分離帯に激突横転して即死したらしかった.
 N君の話を呆然と聞きながら,私は高円寺の南口で過ごした,あの頃の日々を思い浮かべた.呼びかけても遠く過ぎ去る者達のことを.
 
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[本文への追記と註]
★ 私が住んでいた高円寺の木造学生アパートは,のちに高橋由美子の『めぞん一刻』に描かれた一刻館によく似ていた.
 彼女の学生時代には,一刻館のような木造アパートが都内にまだ残っていたらしい.
 私のいたアパートは大家の名○○をとって「○○荘」という名称で,『めぞん一刻』と違って可憐な美女管理人はおらず,近所に住んでいる大家さんがトイレの掃除をしていた.
 トイレは水洗だったが,便器は和式で,水のタンクは天井に近いあたりの壁に設置されていた.そのタンクから下にさげられている細い鎖を手で引くと水が流れる仕組みだった.今では余程の年寄りでなければこんな構造の水洗トイレは見たことがないだろう.画像がないかとウェブを検索してみたが見つからなかった.
 
『いちご白書』をもう一度」はフォーク・グループのバンバンがリリースしたシングル盤で,荒井由実時代の松任谷由実作品である.
 松任谷由実自身は全く学生運動と無縁に青春時代を過ごした若者 (昭和二十九年生まれ) であり,当然のことながら学生運動に関する知識もなかっために,昭和中頃の東京における学生運動を「挫折」として歌詞に書いた.
 この曲を歌ったバンバンの ばんばひろふみ (ばんば は昭和二十五年二月生まれで,私は同年三月生まれである) もまた,学生運動の無風地帯であった京都の立命館大学の学生だったから,東京の学生運動のことはよく知らないだろう.
 当時の京都では,反戦平和運動や,現実の社会的問題意識に基づく学生運動はニッチな存在で,むしろいわゆる「関西フォーク」と当時呼ばれた音楽活動が京都の学生たちの「学生運動」だったと私には思われる.
 ばんばひろふみ は,その関西フォークの影響の直下にあったのである.従って,学生運動のリアルを知らない松任谷由実や ばんばひろふみ が,学生の長髪と就職と「挫折」を,わかりやすいマンガ的に結びつけて描いたのは致し方のないことだったと思う.自分が知らないことを描くのは難しいのだ.
 さて,いわゆる団塊世代が中高年になった頃,世はカラオケの全盛時代を迎えた.
 団塊中高年の男たちはカラオケボックスやらカラオケスナックやらで,マイクを握って思い入れたっぷりに「『いちご白書』をもう一度」を歌った.
 だが私の見るところ,酒を飲んで「『いちご白書』をもう一度」を歌う男というのは,集会にもデモにも無縁な学生たちだったろう.
 この歌の歌詞の「自分の掌返しを恋人に軽蔑された苦い思い出」が本当にあるのなら,カラオケで得意げに歌えるはずがないではないか.
「『いちご白書』をもう一度」は,松任谷由実が実体験なしの想像で作った歌だ.
 これを歌う男にとっての昭和四十三年の東京は,ファッショナブルで楽しい時期だったに違いない.
 
 余談だが,昭和四十三年の秋,京都大学の学生自治会が「十月の国際反戦デーに東京から日大全共闘が京大へ攻めてくる」という荒唐無稽なデマを流し,自治会執行部が一般学生を集めてキャンパスをバリケード封鎖した.
 当時の学生運動を代表する日大全共闘の何たるかを全く承知しない京大生たちの社会性欠如に,私たち東京の学生は驚き呆れた.
 しかも,どういう理由で,どのようにして「日大全共闘が京都に攻めて」くるのか,京大の学生たちは考えもしなかったのだ.新幹線でやって来るのか,あるいはデモ隊列を組んで東海道を進撃してくるのか.昭和の「おかげ参り」か.w
 その奇想天外な「京大防衛戦」を武勇伝として語る京大卒業生を一人私は知っている.
 その男は,酒の席で皆が昔話に興じると時々,大昔の「京大防衛戦」でバリケードを作った話をした.テレビで報道される「バリケード封鎖」をしてみたかったのだと思われる.
 私が「それで,反戦デーの日に日大全共闘とはどのように戦ったんだい?」と訊くと,彼は「いやあ,結局,日大全共闘はこなかったよ」と答えた.
 くるはずがないよ.w 
 ちなみにその男は出世して,取締役専務執行役員で会社員人生を終えた.
 さらにちなみに,その頃の京大生で出世頭になったのは,昭和二十三年生まれの出口治明である.
 出口治明は,半藤一利との対談『世界史としての日本史』(小学館新書, 2016) 中で高慢にも,自分以外の団塊世代の人間は無教養であると嘲笑している.
 これに,昭和天皇に対して己を「臣一利」と称し,昭和天皇のやる事なす事を肯定して恥じなかった半藤一利は,出口に同意して互いを褒め合っている.
 だが出口治明が週刊文春誌上で書き殴った「日本史」を読むと,卑弥呼が関西弁でしゃべっていたりする.
「週刊誌の読者なんぞこんな程度のインチキを日本史だといって読ませときゃいいんだ」と言わぬばかりの出口治明の「教養」が,聞いて呆れる.いかにも「日大全共闘が攻めてくる」というデマに踊らされて逆バリケードを張った京大生の「教養」ではある.w
 
★「さらば青春篇」本文に登場するO君が亡くなってからもう半世紀近い時が流れた.
 彼の名前をウェブ上で検索しても,一件もヒットしない.
 誰もO君のことを覚えていないのだろうか.誰もO君との思い出を書いてはいないのか.
 もしそうなら,かつて彼と学生時代を共に過ごした誰かが,O君の名をサーチしたときのために,私が彼の名をここに記しておこうと思う.彼の名は王子博夫という.
 昭和四十三年の冬,彼はノンセクトだったが,東大文学部共闘会議のバリケードの内側にいた.
 そういう学生が,岩波書店とか文藝春秋社などのガチガチに体制的な出版社に入社するのは困難だったろう.
 昭和四十七年,王子君は新潮社に就職して週刊新潮の記者となり,その後は地方都市の風俗ルポを書き続ける過酷な仕事の中で,おそらく過労のために,高速道で自動車事故を起こして世を去った.
 在学時には,N君や私を相手に文学論を熱く語る青年であった王子君としては,風俗や犯罪やスキャンダルを取り上げることが多かった週刊新潮の仕事は彼の志とは遠いものだったように思うが,しかしそれはもう遠い日のことになった.
 私の学生時代のもう一人の友人であったN君については,私には彼がまだ存命であって欲しいとの思いがあって,ここに名を記すことはしない.しかし誰かがサーチした時にヒットすることを期待して少しだけ書いておく.
 N君は昭和四十三年に日大文学部に入学し,四十七年に卒業した.当時の日大は,経営者が腐敗の極みにあり,日大の学生運動は,腐敗に対する学生たちの抗議行動に端を発したものであった.Wikipedia【全学共闘会議】に次のようにある.
発端
 1968年5月、日本大学で東京国税局の家宅捜索により、22億円の使途不明金が発覚した。当時日大では時の理事長・古田重二良の方針により学生自治会が認められていなかったが、この使途不明金問題をきっかけに、大学当局に対する学生の不満が爆発し、5月23日に神田三崎町の経済学部前で、日大初めてのデモとなる「二百メートル・デモ」が行われた。
 N君は,ほんの数分間の「二百メートル・デモ」に加わった誠実な学生の一人であった.その日の夜,桐和寮の一室で,王子君や私に,二百メートル・デモの意義を熱く語るN君のことが忘れられない.
 
★私は小学生低学年の頃,カナリアを飼ったことがある.正確には父親が知人に一つがいをもらい受け,その世話をさせられたのである.
 このつがいは,何度も抱卵してヒナを孵したが,途中でヒナを巣から蹴落として死なせてしまう.そしてその度に私はカナリアのヒナの墓をつくることになった.このカナリアがどうなったのかよく覚えていない.本来の飼い主である父親が,他家に引き取ってもらったような気がする.
 高円寺のアパートで暮らしていたときに飼ったメスのハムスターは,私が初めて飼ったペットだったが,一年も生きさせることができなかった.
 私は正しい飼い方を知らなかったのである.
 それと,彼女が死んでから気がついたのであるが,私はそのハムスターに名前をつけていなかった.
 その迂闊さが忘れられない.もっと長生きさせるように飼えばよかったと,今も後悔している.
 

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2021年6月27日 (日)

焼きネギ味噌 (二) 「啄木亭篇」

(昨日の記事《焼ネギ味噌 (一)》の続き)
 その昔,Windows98がリリースされて,個人がウェブサイトに日記や会議室などのコンテンツを載せることが容易になった.
 私も早速,ココログに『江分利万作の生活と意見』と題した個人サイトを作った.
 そしてそこにほぼ毎日,エッセイのような文章を掲載し続けた.
 これがこのブログ《江分利万作の生活と意見》の前身である.
 日本の私的インターネット利用の黎明期はWindows98の普及と共に始まり,それまでパソコン通信のネットワークに参加していた多くのネットユーザーたちはこぞって個人サイトに移行したのだが,その当時に建てられた無数の個人サイトのほとんどは姿を消した.ブログに再移行したのである.
 そして今は既に高齢化したネットユーザーたちのブログも,次第に風化した.私のブラウザに「お気に入り」登録したブログで,今も存在しているのは数えるほどしかない.
 私は個人サイトに書き貯めた文章をブログに移行しなかった.駄文が多かったからであるが,一応すべてのエッセイをテキストファイルで保存はしてある.
 その中から時折,二十年近く前の思い出として,ここに古い文章を再掲載している.それが「私が昔書いたこと」というカテゴリーである.
 昨日の記事に,焼ネギ味噌を取り上げたのだが,十九年前にもネギ味噌の思い出を書いていた.
 それを再掲載する.
 文中の「啄木篇」に,居酒屋の油揚げ料理「啄木コロッケ」が登場する.この料理のレシピについて書かれたウェブ上の記事には少し混乱があるので,末尾に注釈をつけた.
 
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2002年4月9日
さくら貝ひとつ
 
 私は大学の四年生の時,東京の高円寺に住んでいた.JR高円寺駅の南口を降りるとすぐ狭い商店街があり,その通りを南に下って行き,店が途切れて住宅が多くなった辺りである.今は随分と様子が変わってしまったが,そこにちょうど『めぞん一刻』に出てくるようなおんぼろ木造アパートが建っていて,私はその一室に暮らしていた.
 
 アパートから駅に通じる通りに出ると,赤い提灯を軒にかけた小さな飲み屋が数軒あった.その一つは,当時もう六十歳は越したと思われる女主人が一人でやっていた.店の名は忘れた.
 店はカウンターだけで,五人が腰をかければ一杯になるというほどの広さだった.やはり高円寺の南口に住んでいた私大に通う友人と連れだってよくその店に行き,老婦人と話をしたものだ.
 
 彼女はたぶん旧制女学校出の,上品な物腰の人で,訊ねると色々昔の話を聞かせてくれた.生まれは神奈川県の鎌倉あたりのようなことを言っていた.
 ある晩,お客が友人と私の二人だけの時,私達にふろふき大根の作り方を実演しながら (時々,自炊の貧乏学生のために,簡単な飯のおかずの作り方を教えてくれたのだ),昔の鎌倉近辺の思い出を話してくれた.
 彼女は戦争で家族をすべて失い,戦後は焼け野原となった新宿に出て,一人でバラックの飲食店を始めたという.それからずっと水商売一筋だが,女一人で生きて行くのは,やはり辛いことが多かったと言った.そういう時には店を休み,生まれ育った鎌倉の浜辺を歩くのが慰めだった.砂浜にはさくら貝が一杯あって,まるで桜の花びらが散ったようだった.
 両手にこぼれるほど薄桃色の貝殻を集め,帰る時にはそのさくら貝を波打ち際に置き,それが波が引くのに合わせてまた海に戻って行くのを,ずっと眺めていたものだとも言った.
「あなたたちは,さくら貝の歌を知ってる?」
「聞いたことはあるけど,歌えない」
「じゃあ歌ってあげる」
 戦前の鎌倉由比ヶ浜の近くに住んでいた鈴木義光という青年が,十八歳で亡くなった恋人を「わが恋のごとく悲しやさくら貝 片ひらのみのさみしくありて」と短歌に詠んだ.
 この短歌をもとに,彼の友人であった逗子町役場職員の土屋花情という人が歌詞を作り,鈴木青年自身が作曲したのが『さくら貝の歌』である.『あざみの歌』などで知られる作曲家八洲秀章は,鈴木義光その人.
 
 戦後を一人で生きてきた老婦人は,細い声で歌った.
 美わしきさくら貝ひとつ 去りゆける君に捧げん.
 それから『さくら貝の歌』は私の愛唱歌となった.もう三十年前の思い出である.
 
 今日,神奈川県鎌倉市小町一丁目の市中央公民館で,さくら貝をテーマにしたシンポジウムとコンサートが開かれる.かつて鎌倉市から葉山町にかけての海岸でよく見られ,今はほとんど姿を消したさくら貝の現状を取り上げ,葉山町立葉山しおさい博物館長の池田等さんが「相模湾・海の生き物の現状」と題して基調講演を行い,水質悪化など環境問題を考える.
 第二部のコンサートは「さくら貝の歌」など海や浜辺にちなんだ曲が中心の構成となっている.
 午後2時開会.参加費 1000円.申し込みと問い合わせは主催のモース研究会(0466-26-3028)へ.
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2002年4月14日
高円寺駅南口青春賦・銭湯篇
 
 先日の『さくら貝ひとつ』に,私が大学生四年生で東京・高円寺駅の南に住んでいた頃の話を書いているうちに,昔のことを色々と思い出してしまった.
 高円寺に引っ越す前の一年間,私は西武新宿線の野方駅の近くに住んでいた.今も神州一味噌の宮坂醸造の工場がある辺りである.
 そこは学生専門の賄い付き下宿だったが,主人である婆さんの作る食事があまりにも劣悪 (極超短周期サイクルメニューである上に,しばしば飯に婆さんの白髪が入っていたりした) だったので,住み始めてすぐに嫌気がさした.
 銭湯は割と近くにあったのだが,夕方の,お湯がきれいで空いている時間帯に行ったりすると,時たまオカマと出くわした.私が湯に浸かっていると,ガラス戸を開けてオカマ氏が入って来る.片手に持ったタオルで股間を隠しているのはよいとして,もう片方の手で胸を隠している.ないものを隠してどうする,と思った.
 彼はざっと湯をかぶると,恥じらいの表情を浮かべつつ浴槽に入ってくる.浴槽は,どこの銭湯もそうであるように二つあり,一つは普通の温度でもう一つは熱い湯だったが,彼はいつも私がいる方の浴槽に入ってきた.私がいる位置から少し離れたところに内股で入り,湯に浸かってしばらくすると,ニジリニジリと私の方に静かに近寄ってくる.こんなことが何度もあって,どうにもその銭湯に行くのが鬱陶しくなった.
 そんなこんなで,一年間その下宿にいたが,意を決して引っ越しすることにした.
 野方の下宿は三畳間で部屋代は月に三千円だったのだが,三畳間というのはやはり窮屈だった.次に移った高円寺のアパートは六畳間で大きな押入があり,南側には畳一枚ほどの板の間がついていた.
 ちょうどその頃,週一回で月額二万円という当時としてはベラボーに割の良い家庭教師の仕事にありついたので,思い切って広い部屋を探したのだった.生活費は,その前からしていた別口の家庭教師の謝礼が月に一万円,育英会の奨学金が八千円あったのでなんとかやって行けそうだった.
 引っ越しは三月の末だった.車を持っていた友人に頼んで,野方から高円寺まで荷物を運んでもらった.ほとんど家具らしいものは有していなかったので,片道一回で済んだ.
 小さな本棚を壁際に立て,部屋の真ん中に電気ゴタツを置いて,それにコタツ板を載せて机代わりにする.そして押入に布団を入れ,それでおしまいという重度のシンプルライフであったが,狭苦しい三畳間から一気に広い部屋になったので嬉しかった.
 
 引っ越したその日,夕方になったので私は風呂に行くことにした.
 駅の南口商店街が途切れる辺りに銭湯があり,アパートから歩いて数分という好条件の距離であった.
 石ケン箱を入れたポリ洗面器を持ち,銭湯の入り口のガラス戸を開けると左右に下足入れがあった.木製の札を蓋の穴に差し入れて蓋を開閉する仕組みの昔ながらのやつである.そこにサンダルを仕舞い,左側の引き戸を開けた.
 そのとたん「きゃあっ」という悲鳴があがった.
 脱衣場にいた銭湯の従業員と思しき婆さんが私の方にどかどか駆け寄ってきて「こっちは女湯っ,女湯っ」と言い,私を引き戸の外に押し出した.
 婆さんに押し出されてから磨りガラスの引き戸をよく眺めると,確かにそこには「女湯」と書いてあった.野方の下宿の近くの銭湯は左側が男湯だったので,つい習慣で左側に入ってしまったのだが,この銭湯は逆だったのである.
 特殊な目的を意図して女湯に侵入したわけではなく,それに私は近視であったので,その時に脱衣場にいた御婦人達の裸体をしかと見はしなかった.無念である.違う.しかし,おそらく私の顔は,痴漢として御婦人達に目撃されただろう.これは無念である.
 それ以来,アパートのすぐ近くに銭湯がありながら,私はそれと反対方向の随分と遠いところにある別の銭湯に通うことになった.あの時の目撃者に銭湯の玄関で出くわして,白い眼で見られることを恐れたからである.
 こうして私の高円寺駅南口での新しい生活は,情けない思い出と共に始まったのだった.
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2002年4月15日
高円寺駅南口青春賦・啄木篇
 
 昭和四十六年の春,高円寺のアパートに引っ越しをしたその日に私は銭湯の女湯に突入してしまったのだが,それから暫くしたある日のこと,近所の下宿に住んでいる私大文学部のN君の部屋へ遊びに行った.
 N君と私は,大学一,二年生の時に,東京・中野区にあった同じ学生寮 (法務省所管の学生寮で「桐和寮」といった;現在は移転した旧中野刑務所の北側に隣接していた) アパートに住んでいたので知り合った友人である.そのアパートを出てから一年後に二人とも高円寺駅の南に引っ越してきたのだった.
 N君が引っ越してきたのは普通の下宿屋の四畳半の部屋であった.
 二階にあるその部屋でお茶を飲みながら彼は,卒業論文は石川啄木にしたと言った.啄木にはずっと前から傾倒していたようで,啄木の人生と作品を熱く語ってくれた.その話をしているうちに,実はこの高円寺駅南口界隈に,町名としては高円寺南三丁目といったが,『啄木亭』という居酒屋を見つけたと彼は言った.啄木を取り上げて論文を書くからには,『啄木亭』なる何やらいわくありそうな店には是非とも行かねばならぬように思う,ということだった.
 そこで私達はその日,『啄木亭』に出かけた.その店はどちらかというと彼の下宿よりも私のアパートに近いところにあった.私達はまだようやく暗くなったばかりの客のいないカウンターに陣取り,日本酒を注文した.
 当時の学生が飲む酒は,たいてい日本酒であった.自分の部屋で酒盛りするのなら,一本五百円だったサントリーの安ウイスキーが定番だが,店で飲むなら日本酒が安くあがった.

 熱燗を飲みながら私達が店のおばさんに店名の謂われを訊ねると,店の主人が岩手県の出身だということらしく,石川啄木との関係はそれ以上でも以下でもなかった.
 酒のお代わりを頼んでから,何か食おうかということで品書きを見ると『啄木コロッケ』というのがあった.それは一体何であるかと店のおばさんに訊くと,袋にした油揚げの中に,刻んだ葱などを詰めて焼いたものだという.コロッケではないのにコロッケと呼ぶのは何故か,石川啄木に関わりのある食い物なのかと更に訊ねると,特に意味はないという答えが返ってきた.ただの思いつきの命名のようだった.
 石川啄木論の足しになるかと思ってやってきたN君と私にとって,結局『啄木亭』は石川啄木とは全然無関係であるという,まことにがっかりなことになったが,まあ当然といえば当然ではあった.
 とはいえ,想像するのは勝手である.石川啄木が好んだ食い物ということにしようと私達は決めた.時代は明治の終わり,貧窮の底にあった啄木にとって洋食のコロッケは高嶺の花だったに違いない.
 そこで啄木は油揚げに葱を刻んで詰めて焼き,これをコロッケと称して食ったのだということにした.そんな馬鹿話をでっち上げては笑い,何本か酒を飲んでから私達は別れて帰った.
 
 今でも「啄木」と「コロッケ」でサイト検索してみると Google のキャッシュが幾つかヒットするが,『啄木コロッケ』が出てくるのはすべて居酒屋『啄木亭』の関連記事である.そのうちの一件の《*****》(2021/6/27の註;リンク切れ) では,鈴木さんという人が『啄木亭』の定番メニューであると断って画像入りでレシピを紹介している.その『啄木コロッケ』の作り方を要約すると次のようである.
 
[材料]
 油揚げ           4枚
 ミョウガ        2~3個
 ネギ            1本
 胡麻          中さじ1
 削りがつお         適宜
 ぽん酢           適宜
 
 ミョウガを千切りにする (と鈴木さんのウェブページには書いてあるが,要するに普通にスライスすれば良い).
 ネギ (とだけ書いてあるが,葉ネギではなく根深ネギ) はみじん切り.
 これに胡麻とかつお節を合わせポン酢少々で和える.これを,油揚げを2つに切り,袋に開いたものの中に詰める.袋の口を爪楊枝で閉じて,焼き網に並べて表面に少し焦げ目がつく程度に焼く.
 
 上のことがあってから暫くした後日,N君と『さくら貝ひとつ』に登場した飲み屋に行き,主人である老婦人に『啄木コロッケ』のことを話したところ,ポン酢を使うのは『啄木亭』の工夫かも知れないが,その種のものは昔からある油揚げ料理であるとのことだった.そしてポン酢ではなく味噌を使うやり方を教えてくれた.
 材料は一緒で,葱の白いところとミョウガを細かく刻む.これと削り節,白胡麻を合わせ,少量の味噌と水を加えて練る.好みだが味噌は甘めのものが良いと思う.手許になければミョウガと胡麻は省略して構わない.つまりただの葱味噌である.これを袋に開いた油揚げの内側に薄く塗って焼く.

 ポン酢で作ると素朴ではあるがそれなりに酒肴の一品という感じである.対するに葱味噌式のものはいかにも垢抜けない「ビンボーおかず」である.しかし飯のおかずとしては『さくら貝』の老婦人に教えてもらったものの方が美味いと思う.今でも時々自分で作るが,これを食うと高円寺で暮らした頃のことが思い出される.
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2002年4月16日
高円寺駅南口青春賦・自炊立志篇
 
 さて高円寺のアパートで暮らすようになった私は,自炊をしようと思い立った.
 大学の講義は朝八時からだったので,朝飯は駅の立ち食い蕎麦にすることが多かった.お昼は学校の生協食堂が安いし,日替わりのランチなら飽きもこない.問題は夕飯だった.家庭教師のバイトがある日は,その家庭でちゃんとしたものを食べさせてもらえるが,そうでない日はできるだけ自炊しようと考えた.もともと小さい頃から私は母親の手伝いをよくする子だったので,食事の支度は苦にならない.多少の心得はあったのである.

 料理道具を揃えねばならないが,鍋の大小二つ,包丁,まな板はアパートの近くのスーパーで購入した.次に電気釜である.今なら炊飯ジャーであるが,当時のものは電気釜という名のもっと原始的なやつで,白い塗装の外釜の中にアルミの内釜,ジュラルミンの蓋,保温機能はなしというタイプのものであった.友達に聞いたところでは,秋葉原の電気街に行くと安く買えるらしかった.例のN君は大阪の出身で,彼の指南によると,まずは徹底的に粘って言い値を値切らねばならない.そして店員がこれ以上は値引きできませんと言ったら,何か物をオマケにつけてサービスしてくれと言うと良いとアドバイスしてくれた.さすが大阪人は違うと感心しつつ,私は電車に乗って秋葉原に出かけた.
 
 その頃の秋葉原電気街は現在と全く異なり,家電製品の街だった.何しろまだこの世にパソコンなんかの影も形もなく,オーディオは真空管が堂々とまだ現役を張っていた時代である.
 店の名は忘れてしまったが,秋葉原駅の電気街口から中央通りに出て万世橋側に折れた所の,今のオノデンの隣あたりの小さな店だったように思う.東芝の二合炊き電気釜が欲しかったのでその旨を店員に告げると「ある」とのことだった.当時の価格が幾らであったか全然覚えていないが,スーパーの店頭よりは安かったと思う.元々秋葉原というところは一般の電器店より安いので,昔から価格交渉の効かないことが多いようであるが,当時の私にそんな知識はない.N君の事前指導を受けていた私は,もう少し安くして欲しいと頼み込んだ.
 すると,いかにも貧乏学生という風体の私を見てその店の店員は哀れに思ったか,百円単位の端数を引いて,切りの良い値段にしてくれた.調子に乗った私が「もう一声」と言うと,さすがに「勘弁してくださいよ,学生さん」と言われてしまった.
 それじゃあ何かサービスにオマケしてくださいと頼んだところ,「わかりました.サービスしましょう」と言って店員がくれた物は,私の期待に反してチャチなプラスチックの御飯シャモジであった.
 ここで引き下がってなるものかと「わざわざ電車賃を使って秋葉原に来たのだから,もう少しいい物をくれませんか」と申し述べると「そこまで言うなら,お客さんだけ特別ですからね」と彼は言い,布巾を一枚くれた.ご飯が炊けたら釜と蓋の間に布巾を拡げて挟む と蒸気が適度に逃げて美味しく蒸らせるという.そうですか.はあ.
 数百円の値引きとシャモジと布巾一枚が十分な戦果なのかどうか分からなかったが,諦めて高円寺のアパートに戻った.
 こうして電気釜を買ったが,米をどこで買ったのか思い出せない.昭和四十三年,青雲の志を抱いて上京した時は確か米穀通帳を持っていたような記憶があるが,しかしその翌年から米をどこでも買えるようになったはずだから,たぶん西友ストアあたりで買ってきたのだと思う.調達した米の袋を眺めて,ともかくこれで生活費がピンチになっても飢えることはない,ヨシヨシと思った.生活費がピンチにならぬように計画的に生きようという知恵がなかったのは,いま考えても不思議である.アルバイトの金が手に入れば無闇に本を買い込み,貯金通帳はなく,その日暮らしでいつもピーピーしていた.
 自炊を始めてから気が付いたのは,食糧の保存がいかに難しいかということだった.あの頃の一人暮らしの学生で,冷蔵庫を持っているなんてのは余程のお坊っちゃまだったろう.私の周囲にはただ一人しかいなかった.
 余談だがそいつはN君と同じ下宿 (賄い付き) にいた男で,自炊のための食料品を備蓄する必要がなかったから,彼の冷蔵庫には牛乳と,暑い夏場はパンツが入っていた.銭湯から戻った時などに,喫茶店で出してくれるオシボリのようにしてよく冷やしたパンツを着用すると,とっても快感であると言っていた.扇風機すら持っていない私には,それは王侯貴族の暮らしのように思えたものだ.いま単身赴任している私の部屋にもちろん冷蔵庫はある.しかしエアコンもあるので,その快楽を享受する機会がないのが残念である.
 
 さて昔も今も,長持ちする食材の代表格はタマネギ,ジャガイモとニンジンだろう.これで何を作ろうか.アウトドアならカレーであるが,インドアでもカレーが定番である.
 だがいつもいつもカレーでは能がない.この野菜三種と豚肉を煮て,即席カレールーを加えればカレー,シチューの素を入れればシチュー,味噌を放り込めば豚汁,肉の代わりにコンニャクを用いて醤油味にすれば,けんちん汁モドキができる.タマネギ,ジャガイモおよびニンジンを煮た変幻自在のものを私は「日和見なべ」と名付けた.
 もうその頃の大学の学内には,かつての学生運動の熱気は跡形もなくなっていた.志操軟弱にして,もはや街頭デモに行くこともなく勉強に自閉していた私に,「日和見なべ」は相応しい名の食い物であるなあと我ながら感心した.就職が決まって髪を切り「もう若くはないさと君に言い訳」しなければならない季節はもうすぐそこだった.
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[註]
 上記「高円寺南口青春譜・啄木篇」には,高円寺の「啄木亭」について少し記してある.この記事を書いたのはもう十九年前のことであるし,私の思い出自体は五十年前のことだ.
「啄木亭」についてあらためて調べてみたら,五年前のネット掲示板投稿に「啄木亭」は閉店したと書かれている.
 私が「啄木亭」に通ったのは昭和四十六年の三月から翌年の三月頃までであるが,当時の「啄木コロッケ」は上の本文に書いたように,ミョウガと長ネギをポン酢で和えたものを油揚げに詰めて焼いた小料理 (酒肴) だった.つまり「啄木亭」のオリジナル小料理であった.
 他の人が書いたものを読んでみても,ブログ《草日誌》の《啄木亭のこと》[掲載日 2014年5月4日] にも《啄木コロッケ (お揚げの中に刻みネギとか茗荷とかを入れて焼いたもの)》とある.
 ところが時代がそれから十数年経った後になると「啄木コロッケ」は,袋に開いた油揚げの中にネギ味噌を塗って焼いたものになってしまったようだ.
《岡田純良帝國小倉日記》というブログの《懐かしい小料理屋たち(番外其乃弐)――高円寺「啄木亭」》[掲載日 2012年5月9日] に《小さな日本家屋。地べたの石にそのまま柱を立てたような昔の普請だったから、冬場はシンシンと冷気が地面から上がって寒かった記憶がある。佃煮と「啄木コロッケ」があった。ミソと青ネギを和えたものを油揚げに包んで焼いたもの。焦げ目が付いていて、香ばしい》と書かれている.
 油揚げにネギ味噌を入れて焼くのはどこにでもある居酒屋惣菜であり,特に「啄木コロッケ」と名付けるほどの凝った食べ物ではないし,その上,石川啄木とは何の関係もないというおまけ付きだ.
 想像するに,元々の「啄木コロッケ」はミョウガが材料だったが,これでは通年のメニューにはならないので,作るのをやめて「啄木コロッケ」という呼び名だけ残したのだろう.
 元の「啄木コロッケ」自体も石川啄木とは全く無関係の創作小料理だったのだが,昭和の終わりころに何の変哲もない油揚げ惣菜にレシピを変えてしまったので,石川啄木とはさらに遠いものになってしまったという事情である.
 また,上記《啄木亭のこと》や,他のいくつかのブログには,「啄木亭」の主人は「啄木研究家」と紹介されている.
 私とN君が「啄木亭」に通ったころは,その御主人は啄木の代表歌もそらで言えないのであったが,きっとその後,研鑚勉強なさったのであろう.

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2019年8月15日 (木)

真・眠れる森の美女

 先日,映画館で『天気の子』を観たのだが,本編上映が始まる前の予告編は今秋公開の『マレフィセント2』と『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』だった.そういえば日本でも大ヒットした『マレフィセント』を私は観ていなかったので,中古のブルーレイを買って鑑賞してみた.
 
 ディズニー・プリンセスたちの中で,やや存在感に欠けるのがオーロラ姫,『眠れる森の美女』のヒロインだ.この長編アニメは公開当時はあまりヒットしなかった.Wikipedia【眠れる森の美女】には次のように書かれている.
 
6年の歳月と600万ドルの費用をかけ、300人のアニメーター、セル画数100万枚。これはディズニー映画史上最も贅沢で豪華な長編アニメ映画である。だが興行収入は530万ドルにとどまった。ウォルト・ディズニーが、本作に注力出来なかった事が作品の質に悪影響を及ぼしたのではないかと指摘する論者もいる。しかし1970年、1979年、1986年の再公開で人気が高まり、ディズニーの大切な財産となった。
 
『マレフィセント』は,アニメ『眠れる森の美女』の実写版リメイクである.アニメでリメイクした場合は,様々な点でオリジナルとリメイクが競合することになるが,アニメと実写版なら共存できる.
 アニメ『眠れる森の美女』(1959年) は,白雪姫 (1937年),シンデレラ (1950年),ふしぎの国のアリス (1951年) に続くディズニー・プリンセスものの第四作で,ストーリーがいかにも古臭い.また,女性の受動的な描き方は,女性差別だと言われても仕方ないところがある.しかし最近のディズニー作品は,かつて女性差別のシンボルだと批判されてきたアニメのディズニー・プリンセスたちを,実写版化することで現代社会に up to date しようとしているかに見える.このディズニー映画の動きは最初に,アニメの実写化作品ではない『魔法にかけられて』で,ディズニー映画自身の過去の作品をパロディ化 (セルフ・パロディ) することで始まった.その路線上で,ベルもエラも,誰かが幸せにしてくれるのを待つだけのヒロインから脱却したのである.
『魔法にかけられて』以後,それまでの古臭いディズニー映画を,ディズニー映画作品が自ら嘲笑するときのキーワードが“true love's kiss”だ.(『魔法にかけられて』の主題歌“True Love's Kiss”の歌詞はここ)
 
 歌詞中の someone who was meant for you すなわち「あなたのために生まれてきた人」は,「赤い糸で結ばれている人」「運命の人」のこと.ロマンティックではあるが,ただの一目惚れを true love だと言い張っているのである.
 元祖 true love kiss はディズニーの『白雪姫』(YouTube 前半後半) だが,アニメ冒頭で,ボロを着て井戸の水汲みをしている白雪姫に王子様は一目惚れする.容姿の可愛らしい娘であれば,性格なんかはどうでもいいという王子様の頭の中身がまる見えだ.
 ちなみにグリム童話の『白雪姫』はもっと酷くて,Wikipedia【白雪姫】には《そこに王子が通りかかり、白雪姫を一目見るなり、死体でもいいからと白雪姫をもらい受ける 》なんて書かれている.そのため「本当はこわい」ブームの時に,王子様は本当は変態だとまで言われた.
 それはいくら何でも,と思われるが,一目惚れは一時の気の迷いであることが多い.そのため,おとぎ話の結びの決まり文句は“They lived happily ever after. ”であるが,これは“They lived happily ever after although they got married. ”の省略形であると言われる.誰が言っているかというと私だ.
 
『マレフィセント』は,この『白雪姫』型の true love's kiss を否定したものだが,『魔法にかけられて』のようなパロディではなく,いたって真面目なシナリオである.しかしさすがにアニメ映画史に傑作として残る『白雪姫』を,またディズニー・プリンセスの二枚看板である『シンデレラ』と『美女と野獣』をパロるわけにはいかなかったのであろう.そこでディズニー・プリンセスの中では影の薄いオーロラ姫を語り手に設定し「真・眠れる森の美女」として実写化されたのが『マレフィセント』なのである.
 その意図は達せられたと評価されるが,しかしこの作品は true love's kiss を否定するあまり,オーロラ姫の父である国王は,権力欲のためには平気で恋人を裏切る最低男として描かれている.またオーロラ姫はオーロラ姫で,父である国王を墜落死に追い込んでも心に何らの葛藤も呵責も覚えずに笑顔で女王の座に就いている.というわけで『マレフィセント』は,元々はおとぎ話なのに,まことに幼児教育的に好ましくない映画となっている.w

 そんなわけで『マレフィセント』を鑑賞した感想は「まぁまぁ」なのであるが,一つ不満がある.それはオーロラ姫にかけられた呪いのことだ.
『マレフィセント』以前のこととして,そもそもグリム童話でもディズニーのアニメでも,『眠れる森の美女』のお話には不可解な謎がある.それは,オーロラ姫にかけられた呪いの「糸車の針」とは一体何か,ということなのである.
 これについては,私は以前にも記事《蚕のこと 》の中で指摘したことがある.下にそれを転載する.
 
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蚕のこと  (以下,原文の一部を転載)
…  
 話は横に逸れるが,糸車については面白いことがあって,『眠れる森の美女』で主人公の王女は「指を糸車で刺して死ぬ」という呪いをかけられて長い眠りにつくのであるが,実は糸車には指を刺すような部分がないのである.
 ちなみに Wikipedia 【眠れる森の美女】から物語を抜粋してみると次のようである.
 あるところに子どもを欲しがっている国王夫妻がいたが,ようやく女の子を授かったので祝宴に十二人の魔法使いが呼ばれた.魔法使いはそれぞれ魔法を用いた贈り物をするが,その途中で,祝宴に一人だけ呼ばれなかった十三人目の魔法使いが現れて「王女は紡錘が刺さって死ぬ」という呪いをかける.まだ魔法をかけていなかった十二目の魔法使いがこれを修正し,「王女は紡錘が刺さり百年間眠りにつく」という呪いに変えた.呪いを取り消さなかったのは修正する以外に方法がなかったためである。
 王女にかけられた呪いを心配した王は国中の糸車を燃やさせてしまう.ところが王女は十五歳の時に一人で城の中を歩いていて塔の上に上ってしまい,塔の一番上で老婆が紡いでいた紡錘で手を刺し,眠りに落ちてしまう.塔は呪いによって茨が繁茂して誰も入れなくなった.
 さて百年後に,近くの国の王子が噂を聞いて城を訪れる.ここから先は黄金のパターンで,王子がキスをして王女は目を覚まし,結婚して幸せな生活を送ったとさ.よかったよかった.
 
 というのが『眠れる森の美女』のお話であるが,問題は紡錘 (スピンドル) である.上に書いたように紡錘には別段尖った部分はないから,どうすれば指に刺さるかがわからないのである.
 ここら辺のことは Wikipedia【糸車】の「物語の中の糸車」節にあるので,興味ある向きはどうぞ.
 またこの節には,
《英語の「spinster」という語は優れた紡ぎ手を指す古語だが、後に結婚しない女性のことも指すようになった(糸紡ぎの仕事で結婚しなくとも自活できるとの意味)。》
とも書かれている.
 少年の私が民家で見かけた糸を紡ぐおばあさんは,たぶん戦前の少女の頃から絹糸を紡いできた熟練の spinster で,だから誤って紡錘を指に刺して眠ってしまうようなことはなく,白馬の王子様にキスされることもなかっただろう.しかしやがてその spinster は,もう一つの語義とは異なって嫁ぎ,そして子や孫に恵まれ,老いたその日もゆっくりと糸車を回しながら糸を紡いでいたのだろう.私の記憶の中の糸車は,そういう光景の中にある.
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 上の文章は何しろ六年も前に書いたものなので,文中のWikipediaの記述も現在のものとは異なっている.そこでWikipediaから以下に直接引用する.ただし2019年8月17日時点で掲載されている記述内容である.
 
* Wikipedia【眠れる森の美女】の,呪いに関する箇所
祝宴に招待された12人の魔法使い達は、それぞれ「徳」「美」「富」など魔法を用いた贈り物を王女に授けるが、11人目の魔法使いが贈り物を終えた直後、突如として13人目の魔法使いが現れ、1人だけ祝宴に招待されなかった報復として、「王女は15歳になると、紡ぎ車の錘が指に刺さって死ぬ」という呪いをかけて立ち去る。王と王妃をはじめ城の人々が大騒ぎする中、まだ贈り物をしていなかった12人目の魔法使いが「この呪いを取り消すことはできないが、呪いの力を弱めることはできる」と言い、「王女様は死ぬのではなく、100年間眠り続けた後に目を覚ます」と告げた。
王女の運命を心配した王は、国民に命じて国中の紡ぎ車を焼き捨ててしまう。王女は順調に育っていくが、15歳になった時、一人で城の中を歩いていて、城の塔の最上階で一人の老婆が紡ぎ車を使い糸を紡いでいるのを見て興味を示し、紡ぎ車に近寄った途端に錘が手の指に刺さり、王女は深い眠りに落ちる(この老婆の正体は13人目の魔法使いであったとも言われる)。
 
* Wikipedia【眠れる森の美女 (1959年の映画)】の,呪いに関する箇所 
「16歳の誕生日の日没までに糸車で指を刺して死ぬ」という呪いをかけてしまう。
 
* Wikipedia【糸車】の,呪いに関する箇所
『眠れる森の美女』では、主人公の王女は「指を糸車で刺して死ぬ」という呪いをかけられ、死んだような眠りに陥る。この物語は多くの童話集に採録され、バレエや映画に脚色されているが、糸車には指を刺して死ぬほどの部分がないことから「指を糸車で刺して死ぬ」とはどういうことか、糸車の専門家の間で議論となってきた。ヨーロッパの非常に古いタイプの糸車はフライヤーやボビンにあたる部分がなく、「グレート・ホイール」同様に紡錘の部分で糸が紡がれていたため、繰り返しの使用で磨り減った紡錘は鋭くなる。このため、紡錘部分に指が刺さる危険があるのではという意見もある。また、糸巻き棒の先で刺したのではないかという推測もされる。
 
 Wikipedia【糸車】には,糸車の構造が図解されている (下図) のであるが,これは残念ながらグリム童話『眠れる森の美女』の時代よりも後の,十六世紀以降に考案された道具のようだ.
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(Wikipedia【糸車】から引用;パブリックドメイン)
 
 古い型の糸車では,フライヤー(f) とボビン(m) がなく,その代わりに紡錘 (下図で,紡ぐ人の左手よりも下に描かれている道具;パブリックドメイン) が,上図のフライヤーとボビンと同じ位置に,同じ軸方向で取り付けられている.紡錘には,普通の使用状態では,指を刺すような尖った部分はない.上端はかぎ針になっていて,下端は独楽の足状である.
Bousui
(Wikipedia【紡錘】から引用;パブリックドメイン)
 
 さて『マレフィセント』では,オーロラ姫の指を刺した糸車は,どのように描かれているか.(下に掲載した画像はBDを再生したテレビ画面をカメラで撮影した)
 
20190816b
 
 (上の画像) 国王が国中の糸車を集めて破壊したスクラップの中から,呪いによって糸車のパーツが寄せ集められて魔法の糸車が召喚され,オーロラ姫を引き寄せる.国王は,集めた糸車を壊すだけでなく焼却してしまえば,呪いの糸車は召喚されなかったように思われるが…
 
20190817b
 
(上の画像) は謎の部品.は,を支えるための単なる横棒のように見える.本来ならばここに回転する紡錘が取り付けられているはずだ.
 
20190816c
 
 謎の部品の端には鋭く長い金属針が取り付けられている.私が調べた限り,謎の部品のような部品を有する糸車はこの世に存在しない.つまりこれは,オーロラ姫の指を刺すためにだけ作られた物体である.
 すなわち,魔女の呪いが「フライパンの針に指を刺して」であったなら,柄に部品が取り付けられたフライパンが召喚されて,オーロラ姫の指に刺さったであろう.
 こうして『マレフィセント』の制作陣は,従来から謎とされてきた「糸車の針」が一体何なのかという問題は無視して,「指を刺すための針を何の理由もなく取り付けた糸車」を強引に登場させることで,この難しいシーンを乗り切ったのである.
 しかし映画ファンとしては,やはり「オーロラ姫の指を刺した糸車の針」の謎に挑戦し,糸車を見たことのある者が納得できる解答を示して欲しかった.それが残念だ.

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2019年5月24日 (金)

早春の思い出

 会社員時代の友人と会って昼飲みをし,色んな昔話をした.「そんなこと,あったっけ?」という話題もあったが,二人ともよく覚えていた話もある.そのうちの一つはずっと以前,今は閉館して久しい個人サイト『江分利万作の生活と意見』の「雑事雑感」に記事 (2002年2月1日付) を書いた.三十年近く昔の話だが,別稿で早春のザゼンソウの話を書いている最中でもあり,懐かしい文章なので再掲する.
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 取り立ててどうということもない出来事なのに,いつまでも覚えている事ってあるものだ.

 もう随分と前の冬のこと.僕は同僚と二人で出張し,上越新幹線を新潟で乗り換え,午後も遅くになった頃,日本海に面した雪国のとある駅で下車した.
 その時の出張の目的は,この駅からタクシーで30分ほどのところにある顧客の工場で,うちの会社の製品を使用した新製品の試作を指導する事だった.仕事は翌日の朝からの予定であったが,真冬のことで不測の交通事情が発生しないとも限らないから前泊することにし,その日の夜はフリーなのだった.
 その駅のある町は一応○○市という名であるが○○郡○○町でもおかしくはない,というかその方が相応しいような田舎町だった.
 出張先の工場の人から,その町を真冬に訪れる人間は滅多にいないから特に宿泊の予約をしなくても大丈夫と聞いていたが,駅を出てその駅周辺でたった一軒の旅館に電話で問い合わせてみると,はたしてその通りだった.
 僕達は部屋に案内されてとりあえず荷物を置き,相談の結果,外へ酒を飲みに行くことにした.なにしろ新潟で,米処で,日本海の魚で地酒なのだというわけだった.
 お茶を運んできてくれたおばさんに夕食は要らない旨を告げて外に出てみるともう薄暗くなっていた.

 その年は暖冬で,駅の周辺にはそれほど雪が積もってはおらず,普通の靴でも歩くのに不自由はなかった.年が明けてから少しずつ陽の落ちるのが遅くなってはいたが,それでも雪国という先入観のせいか,何となくまだ冬の底にあるような日の暮れかただった.

 駅前をぶらついてみると,蕎麦屋の他には焼き鳥屋らしき赤提灯が一軒あるだけのようであったので,僕達はその焼き鳥屋の引き戸を開けた.客は僕達だけだった.
 椅子に腰をかけ,壁に貼ってある品書きを眺めて見ると,焼き鳥と肉ジャガと,つまりはそういう感じの普通の飲み屋であった.店のおやじに酒は何があるのか訊ねると伏見の酒の名が返ってきた.
 地酒は置いていないとのことであったが,地元の酒を有り難がるのは旅行者だけかも知れないなあと思った.

 僕達はレバやらタン塩やらを食ってから早々にその店を出ることにし,おやじに近所にスナックみたいな店はあるかと聞いてみると一軒だけあるという.その店の名と場所を聞き,ごちそうさん,と礼を言って外にでた.
 教えてもらった方向に少し歩いていくと,突然家並みが途切れて町はずれになってしまった.あれれ,と思ったが,よく見るともう少し先の雪だらけの田んぼの中にポツンと看板らしき灯りがある.
 あれだあれだ,と僕達は雪をキシキシと踏んで歩いていった.
 店の扉を開けて中に入ると,その店は五人掛けのカウンターだけの作りで窓はなく,壁際で石油ファンヒーターが盛大に燃えていて暑いくらいだった.
 女性一人でやっている店のようだったが,歳の頃は四十くらいと思われるママと思しきその女性が,何だかびっくりしたような顔で僕達を見て,いらっしゃいませと言った.彼女は,袖がシースルーでグリーンのワンピースを着ていた.冬でも強力暖房だからそれで良いという方針のように思われた.
 型どおりとりあえずビールを頼み,おしぼりで手を拭いているとその女性が「……(お客さん達は東京の人であるか?)」と言った.
 二人とも東京都民ではないが,口を揃えてそうだそうだと答えた.
(この「……」は土地の言葉なのであるが,正確に書けないのでカッコ内にいわゆる共通語にしたものを書く)
 他に客もいないので黙って飲むわけにもいかず,色々と会話をしてみたところ,彼女の名前はユミという名らしかった.僕が彼女に,若いのに一人でお店をやってるなんて大変ですねと言うと,三十二歳だからもう若くはない,と推定年齢四十歳のユミさんは言った.
 三人の会話がうち解けてきた頃,僕達が店に入ってきた時に驚いたような顔をしたわけを聞いてみた.

ユミ「……(お客さん達はいわゆるサラリーマンであるか)」
我々「そうです」
ユミ「……(この店の客でサラリーマンは初めてである)」
我々「はあ?」
ユミ「……(この町にサラリーマンはいないのだ)」

 何だかすごいところに来てしまったようであったが,瓶ビールを二本あけて,次は水割りに変えることにした.ボトルキープの値段を訊ねると格安なので国産ウイスキーを一本出してもらった.
 彼女と話をしていてナルホドと思ったのは,ここらの土地の人達の気持ちとしては上越の山のある方向が「前」で,日本海は背中側なのだという事だった.ユミさんはこの土地の生まれ育ちで,東京には数えるほどしか行ったことがないという.東京は雪がなくっていい所だろうね,とも言った.
 僕達はボトルを半分以上あけて,カラオケで『北国の春』なんかを歌い,それからお勘定をしてもらった.とうとう最後まで次の客は来なかった.ユミさんはカウンターの外に出て,扉を開けて僕達を見送りながら言った.春はまだ先の話だけど,春になったらまた来てね,ボトルはとっておくから.

 二月はまだ冬だけれど,早春の気配がしないでもない.あれから何度も何度も二月が来て,またもうすぐに春がやってくるけれど,あの時のボトルがまだユミさんのお店のボトル棚の隅においてあるような気がする.
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 上の記事を書いたのは2002年だが,同僚と新潟の寂れた町へ出張したのはそれよりまた十年ほど前だった.
 これを読み直して思うのは,もうこの頃から私は,こんな文体で書いていたのだなあということだ.そしてあと十年くらいは,こんな文体で記事を書けたらいいなあと思う.(了)

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2019年4月23日 (火)

ザゼンソウ (三)

 地球温暖化の影響は高山地帯にも及ぶものかどうか私は知らないが,今から五十年前,日本で年間平均気温が最も低いのは尾瀬だと資料 (既述の「山と渓谷社」の尾瀬ガイトブック) に書かれていた.最低気温でいえば北海道が最も寒いのだろうが,尾瀬は夏の平均気温が低いせいで年間平均気温が低いらしい.(月別気温の資料)
 そんな尾瀬の早春は五月下旬である.早春は,まだ冬ではあるが春の気配が感じられる時季だとすると,尾瀬は関東平野北部よりも三ヶ月は春の訪れが遅い.
 尾瀬を訪れるのに,人間の都合では五月初旬のゴールデン・ウイークがハイ・シーズンだが,残念ながら,というか尾瀬の自然にとって幸運なことに,この時期は,スニーカーならまだしも,足首を出したタウンユースの革靴を履いた女性が入るには雪が深すぎる.だが,ほとんど入山者を見かけない五月初旬こそ,尾瀬が最も神秘的な姿を見せるときだと私は思う.雪解けが本格的に始まる前,湿原が顔を見せるが,あちこちに残雪がある.そんな環境で,もうミズバショウは開花する.握りこぶし程の小さく可憐な姿である.
 だが,暫くすると雪解け水が湿原を水浸しにする.そうすると,湿原は平ではないから,くぼんだところに咲いたミズバショウは,水の底に沈んでしまう.陽光の下,キラキラ光る水面のその下に目を凝らすと,この世のものとは思われぬ花が咲いている.巧まざる天然の水中花である.下は,2002年5月3日に私の個人サイトに掲載した,水底のミズバショウの花を描いたものである.
 
Oze_mizubashou1
 
 この拙い絵と共に掲載した文章を下に再掲する.
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(前略) その日は尾瀬沼周辺を歩き回って過ごしたのだが,僕達の他にはほとんど人影はなかった.当時の尾瀬入山者は年間数万人だったと思うが,今はどのくらいなのだろう.おそらくその十倍はあるかも知れない.
 そんな,いっそさみしいくらいの天地の彼方に燧ヶ岳が見えた.燧ヶ岳は 2,356メートルの山だけれど,沼尻までいくと,その頂がすぐそこのように見えた.
 尾瀬沼の周辺にめぐらされた木道の外側は水浸しの湿原である.季節が少し早いからミズバショウの花はまだ握り拳ほどの大きさで,それが見渡す限り咲いていた.信じられないほど美しい光景だった.
 湿原のところどころが,小川というか浅い水路のようになっていて,雪解けの水が流れている.僕達は,その小川の水底にも花が咲いているのを見た.いったん顔をのぞかせたミズバショウが,水かさが増したので水の底に沈んだのだろう.陳腐な言い方だが,さわれば切れるような冷たい水が陽光にきらきらと輝いて,その流れの底に咲く可憐な白い花.わけもなく感動するということはあるもので,僕達は声もなく飽かずそれを見ていた.
 それからあと昭和四十年から四十二年にかけて,高校生時代にも僕達は何度も尾瀬に出かけた.「夏がくれば思い出す遥かな尾瀬」というくらいで,ニッコウキスゲの黄色い群落に埋めつくされた夏の尾瀬も忘れがたいけれど,人の心を撃つような美しさということでは,やはり早春のミズバショウの季節だろうと思う.
 長蔵小屋の三代目である平野長靖さんには,僕達はその時は会えなかったのだが,その後,新聞で尾瀬に関する記事を拾うと,長靖さんの名を時々みつけた.尾瀬の自然保護運動に活躍しておられるようだった.
 尾瀬はその後,どんどん道が造られ,山に行くというより観光に行くという風になっていったようだった.昭和四十六年七月,私が大学四年生の時だが,環境庁が発足して大石武一氏が初代の長官になった.その月,長靖さんが大石長官に尾瀬の道路建設中止を直訴し,ただちに大石長官が尾瀬を視察したという新聞の記事を見た.
 環境庁は発足したばかりだったから理想主義の意気高く,それから尾瀬は保護の方向に大きく舵を切り,十一月には自然公園審議会が尾瀬の車道計画の廃止を決定した.そしてその年の暮れ十二月一日,三十六歳の長靖さんは吹雪の三平峠で倒れ,再び還らなかった.
 水は透明だから,眼には見えない.ただそのきらめきによって,それと知られるだけだ.冒頭の画像は水の底のミズバショウを表現したかったのだが巧くいかない.水はどう描いたらよいのだろう.
 そもそもミズバショウに見えないですか.すみません.
【追記】
 上の文章を書いたのは四月の中旬であったが,書いた動機はそれに先立つ2月6日の一部新聞が報じた事件が基になっている.これについては『2002年5月18日 長蔵小屋のこと』で触れた.(5/18)
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2002年5月18日

長蔵小屋のこと
 私が『雑事雑感』五月の表紙ページに,尾瀬の長蔵小屋と三代目主人であった故平野長靖氏のことを書いたのは,毎日新聞2002年2月6日の報道がきっかけだった.
 
《Mainichi Interactive 2/6 15:01 要旨》

 日光国立公園・尾瀬の,尾瀬沼東岸に建つ山小屋「長蔵小屋」(福島県桧枝岐村,平野太郎社長)が,老朽化した別館を1999年に建て替えた際,旧建物の建築廃材の一部を公園外に搬出せず現地に埋めていたことが6日分かった.
 環境省北関東地区自然保護事務所は自然公園法に基づき,薪等に使う木材以外の建築廃材は同国立公園の区域外へ搬出し処分することを条件に,同年6月に建て替え申請を許可した.
 しかし同小屋では,別館の旧建物を解体した後の同年9月下旬,旧建物があった場所に穴を掘って廃材を埋めたという.
 同事務所が昨年の11月3日に行った調査で,断熱材に使ったとみられる発泡スチロールや配水管,配線のコードなど60キロ用米袋で28袋分が回収された.
 昨年5月から社長を務めている平野太郎氏(33歳)は「従業員の現場責任者が個人的判断でやってしまった.このぐらいいいだろうという甘さがあった」と話している.
 同小屋は尾瀬で最も伝統のある山小屋.尾瀬を開山した故平野長蔵氏が1890年に尾瀬沼北部に小屋を建設(1914年に現在地に移転)して以来,4代続く.2代目・長英氏,3代目・長靖氏(いずれも故人)と,歴代主人が尾瀬ケ原のダム化や縦貫道路建設反対運動など尾瀬の自然保護に関わってきた.太郎社長は長靖氏の長男.
 
 その後,福島県警はこの5月14日から16日まで,長蔵小屋とその周辺を廃棄物処理法違反の疑いで現場検証したが,その結果が16日の毎日,朝日新聞等で報道された.
 
《Mainichi Interactive 5/16 19:58 ,Asahi Com 5/16 21:41 の要旨》
 福島県警の発表によると埋められた廃棄物の量は,別館の解体時に出た建築廃材が約7トン,プレスした空き缶の塊や空き瓶を粉砕したガラス片など小屋の営業に伴う廃棄物が約3トンの計約10トンに上る.空き缶やガラス粉は,別館の建て替え時に取り壊したくみ取り式便所の便槽跡から発見された.県警は,この便所が使用されなくなった十数年前からごみ捨て場として使っていた可能性があるとみている.同県警は16日までに廃棄物処理法違反容疑で長蔵小屋本館等4ヶ所を家宅捜索し,宿直日誌などを押収した.産業廃棄物処理法違反の疑いで関係者を書類送検する方針だ.
 平野社長はこれまで,別館建て替え時の廃材が従業員の判断で埋められたと説明していたが,それ以外のごみも発見されたことから,長蔵小屋が長期にわたり組織的に不法投棄を行っていた疑いも出てきた.
 環境省は「一般論だが,組織ぐるみのごみ投棄といった悪質性が明らかになれば営業認可取り消しもありうる」(国立公園課) としている.
 
 そもそも昨年11月に環境省が調査に入ったのは,入山者の告発があったからだという.その入山者がどんなに悲しい思いで告発したか,想像に難くない.現在,長蔵小屋のウェブ・ページには,新聞報道に関する平野太郎社長の「お詫び」が掲載されているが,そこでは建築廃材の事だけで,営業に伴うごみの件は触れられていない.また同ページには「長蔵小屋の歴史」という文章が載せられている.書いているのは平野紀子さん.太郎社長の母上であり,私の文中に故長靖氏の伴侶として書かれている女性である.その文章の末尾は「さわやかな笑顔の登山者と一緒に山小屋はこれからも歩みつづけます。自然保護の原点、尾瀬と共に‥‥‥」と結ばれている.そう書いた人がなぜこんなことを.
 最悪の場合,尾瀬のシンボルともいうべき長蔵小屋はその歴史を閉じることになるかも知れないが,願わくば,原点に戻って再出発できるような措置がとられれば良いがと切に思う.
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 平野長蔵,長英,長靖の三代にわたる尾瀬の自然保護活動は,長靖さんの遺志を踏みにじった愚かな妻と不肖の児によって名声を失った.そしてこの不祥事が明らかになって以来,私は尾瀬に足を踏み入れていない.長蔵小屋を堕落させたのは,私たち尾瀬入山者に他ならないからである.そして世論には「尾瀬の自然破壊の先頭に立つ山小屋」との批判が台頭したのであった.
 ミズバショウの水中花のことから,少し先を急ぎ過ぎた.ともあれ,私は中学以来の何年間にわたり,尾瀬の植物に親しんだ.実際に目で観ることのできたのは,尾瀬の植物の数パーセントに過ぎないだろうが,残念だったのは,遂に開花したザゼンソウの姿を見なかったことである.
[ザゼンソウ (四) に続く]

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2019年1月17日 (木)

エゾナキウサギ裁判

 ココログには,閲覧された記事名をリアルタイムに表示する機能があり,先程それを見たら,五年余前に書いた《滅ぶ 》が閲覧されていた.この記事は,私が書いた文章の中でも忘れがたいものの一つなので,嬉しかった.
 古い記事なので,今後,検索にひっかかるチャンスを増やすために,この記事を再掲する.
 
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 毎日新聞(10月14日)によれば,北海道新得町の佐幌岳の国有林でスキー場の新コース造成が進められている.
 林野庁は2012年5月,開発業者に国有林の使用を認め,道も同6月に道自然環境等保全条例に基づき開発を許可し,昨年10月に着工した.
 問題は,このスキー場開発により準絶滅危惧種のエゾナキウサギの生息地が破壊されるおそれがあることである.
 エゾナキウサギは氷河期前に地続きだったユーラシア大陸から渡り,氷河期後に道内の山岳地帯に生き残ったとされ「生きた化石」といわれる.昨年,環境省のレッドリストで準絶滅危惧種とされた.
 十勝自然保護協会,自然保護団体「ナキウサギふぁんくらぶ」などが開発許可の無効を求めて提訴するという.
 小川洋子さんの『いつも彼らはどこかに』に,ハーモニカを吹くような仕草をするハモニカ兎という名の,乱獲されて絶滅した架空の小動物がでてくる.乱獲された理由は,この兎の胃の中に二つ小石が入っていて,それが人間の薬になると言われていたからだった.(本当はその小石に薬効はなかったのだが)
《最後の一羽が死んだ時、どんなふうだったのだろう。カレンダーをめくりながら時折男は考えた。賢い動物だからきっと、この世界で自分がたった一人取り残されたことを悟っていたに違いない。それでもわずかな望みを持ち、野山を駆けるのだ。茂みの奥に気配を感じれば振り向き、雪に残る足跡を見つければ匂いをかぐ。けれど望みは叶えられない。そこにいるのはいつでも種類の違う兎で、ハモニカ兎に気づくと皆逃げてゆく。彼の周りは再び静けさに覆われる。
・・・
 ある日、その時がやって来る。ハンターは目の前にいるのが最後の一羽だと気づきもしないまま、たった二つの小石のために彼を撃ち殺す。銃声に消し去られたハーモニカの音はもう二度と戻ってこない。》
 この世に生きるものすべて,いずれは種の絶滅を免れない.ではあるけれど,エゾナキウサギのような生き物が,氷河期をも生き延びてきた種が,ヒトがこの星の上で生存するためには無意味としか思えぬスキー場やゴルフ場のために滅ぶこと,それを生存競争と呼べるのか.
 いかなる動物にも,種として存続するのに必要な最低限度の個体数がある.いったんそれ以下になったら,それからどうしようと,どう懸命に保護しようと滅ぶしかない.
 林野庁も開発業者も道庁も,いずれそのゲレンデで遊ぶであろうスキーヤーも,ハモニカ兎の最後の一羽を撃ち殺すハンターが自分であることを,なぜ想像しないのか.
 小川洋子さんは読売新聞紙上のインタビューでこう語っている.
《最後の1匹の究極の孤独を、考えてしまうんです。純真さ、警戒心のなさといった、自らの美点によって死に追いやられた存在を、書き留めておきたかった》

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十勝自然保護協会,自然保護団体「ナキウサギふぁんくらぶ」などが開発許可の無効を求めて提訴するという.
 
と書いたその提訴の経過はどうであったか,二つの新聞記事を示す.
 
2017.5.22 14:55 保護団体の原告適格認めず 希少ウサギ巡る訴え却下 》 (産經新聞だが,いずれはリンク切れになると思われる)
 
自然保護団体、二審も敗訴 北海道・希少ウサギめぐる訴訟》 (京都新聞;記事本文は1/16にリンク切れになったので現在は読めない)
 
 つまり一審も二審も原告に門前払いを食わせたのであった.そしてメディアは,全国紙は二審に興味を示さなかった.
 我が国の司法は,サステナブルな国土の維持に鈍感すぎる.もしも将来,エゾナキウサギが絶滅危惧種に指定されても,この訴訟を門前払いにした裁判官たちは,そんなこと屁とも思わないのであろう.

* 愛らしいエゾナキウサギの姿

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2017年7月 7日 (金)

ホー・チミン シティ

 このブログを始める前は《江分利万作の生活と意見》という同名の個人サイトを運営していた.
 そのうちの日記部分が《雑事雑感》とその続篇《続・雑事雑感》で,書評は《晴耕雨読》といった.
 これは現在の《新・雑事雑感》 《続・晴耕雨読》というカテゴリーに継承されている.(@ニフティのサービスが終了したために消滅した《雑事雑感》と《続・雑事雑感》は原稿を保存してあるので,そのうちにこのブログに再掲載しようと思っている)

 で,当時の《雑事雑感》は,その月の記事の冒頭に画像一葉と《今月のお言葉》と題した短いエッセイを載せるスタイルをとっていた.
 その《2004年8月 今月のお言葉》は,こんな記事だった.

Saigon1992

会社で今の仕事に就いてから一年半が過ぎた.もしかしたらワン・ポイントかも知れないという気がしたので,少し荷物を前の職場に残していたのだが,どうやらこれが最後の転勤のように思えてきた.
 それで,とうとう本やら資料やらを前の職場の人に頼んで自宅に宅急便で送ってもらった.荷物を開けると,写真を雑多に突っ込んでいたアルバムがあった.
 そのアルバムをぱらぱらとめくると古い写真がたくさん出て来た.
冒頭の画像は,十二年前のヴェトナムの街中である.仕事でホー・チミン市に行った時に泊まったホテルの窓から,夜が明ける直前に撮影したものだ.

 連続的に変わっていく毎日の出来事は直ぐに忘れてしまうけれど,旅行など非日常的な事は,飲酒喫煙で加速するような気がする脳細胞の死滅によく抵抗して,一枚の写真で思い出がくっきりと立ち上がってくる.写真というものの価値は一口にいえないと思うが,私達ごく普通の人間にとって写真は,懐かしい思い出と共にある.

 この当時のパソコンはまだウィンドウズ以前であった.周辺機器としてスキャナがショップ店頭に登場するのは数年後である.
 だから印画紙のままになっているのだが,これをデジタル・データ化するのが良いかどうか.そのまま褪色させるのも,写真の一つのあり方のようにも思われる.

 印画紙のままだった若い頃の旅の写真は,結局,画像データにした.そんなことをしなくても,その画像の一つ一つは,私の頭の中にある旅の記憶のコピーに過ぎないから,大した意味はないのだけれど.

 さて上の画像は,旧サイゴン市1区の中心部 Ton Duc Thang 通りに近い Sai Gon 川に係留されていた船舶から撮った写真である.
 この船は,今の横浜の氷川丸みたいに海底に固定されているのではなく,ちゃんと川に浮いていて,船の中は,客船の船室の雰囲気を活かしたホテルとして営業していた.このホテルは当時のホー・チミン市では数少ない最高級ホテルで,The Sai Gon Floating Hotel といった.
 元々はシンガポールで1988年に建造され,オーストラリアに移動して,やはりホテルとして経営していたのだそうだ.
 船舶とはいうものの,長距離の航海能力は不足していて,オーストラリアへは牽引されて行ったと聞いた.
 それが,日本の会社に買われてオーストラリアからベトナムに運ばれ,五つ星ホテルになったというわけ.
 私がこのホテルに宿泊した時のベトナム旅行をアテンドしてくれたのは三井物産で,物産が宿泊をこのホテルにしたのは,経営が日本資本だったからかも知れない.

 しかしその後,ベトナムの経済成長と共に他の新しいホテルが人気となったために,このホテルは業績が落ちた.そして1997年に韓国 Hyundai グループに買われ,Hyundai は北朝鮮に持っていった.今も金剛山観光地区近くの長箭港に係留されているという.

 テレビでベトナムやホー・チミン市の映像が流れると,私は今でもこの豪華ホテルのことを思い出す.一昨日のテレビ番組でダナンの映像を観て,忘れ難いことのあった昔の旅行を思い出したので書いてみた.

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2016年7月21日 (木)

差し水

 昨日放送のテレビ東京『ソレダメ! ~あなたの常識は非常識!?~』を観た.
 この番組は,この種の雑学情報番組の中では程度が低いのだが,レギュラー出演者 (オードリーの二人,小籔千豊) のコメントが面白いのでよく観ている.

 さて昨日の「新常識」(?) に「素麺の差し水」の話が出た.
 素麺を茹でるときに差し水はしないのが良いという内容である.
 それを聞いた司会の高橋真麻さんらが「えーっ 差し水しないのー?」と驚いていたが,素麺を茹でるときに差し水するなんて一体いつの時代の話なんだよと,逆に私は驚いてしまった.

 年寄りには,といっても多少の料理の心得がある者には,の場合であるが,素麺に差し水はしないのが常識である.「新常識」でも何でもない.
 高橋真麻さんは御結婚の予定がおありになるようだが,大丈夫か.

 調理に用いる加熱機器が,古くはかまどに鍋を置いて薪で炊いた時代,あるいはぐんと下って七輪に炭とか練炭を熾した時代,あるいは戦後の一時期に使われた石油コンロであった時代,昭和の後半まで使用されていたガスコンロ (ガス量の調節を,器具とガス管との接続部分に取り付けられているやや堅めのコックを左右に開閉して行う超レトロなものや,卓上ガスコンロのようにダイヤルを回転させて行うレトロなもの) の時代には,火加減の調節が瞬時に適切にできなかった.
 煮物をコトコト煮くなんてときは,これらの熱源でよろしいのであるが,素麺を茹でるのは短い時間であるから,とても間に合わない.
 それで重宝した大昔からの生活の知恵が差し水だった.
 具体的には,沸いた湯に素麺を投入し,一旦は沸騰が止むが,すぐに再沸騰する.ここで鍋の湯が吹きこぼれそうになったら,少量の水を,沸騰が止まない程度に加える.
 加える水の量は,鍋の大きさ (湯の量) と相談で,入れ過ぎてはいけない.
 慣れていれば,一度か,あるいは多くて二度の差し水で,素麺が茹で上がる.
 ここで大切なことは,鍋に多量の水を投入して,沸騰を完全に止めてしまってはいけないことである.
 差し水を別名「びっくり水」と呼ぶが,これは,沸騰が一瞬止まってすぐにまた沸くのを人がびっくり驚いた様子にたとえたものであり,言い得て妙である.
 なぜなら水を投入してから十秒も二十秒も再沸騰しないのは,「びっくり」ではなく「沈静」だからである.www

 ともあれ,現代の家庭用調理熱源として最も一般的なガステーブルは,火力の調節を,調節レバーを左右に動かして行う.(一例をあげる)
 これであると,大変微妙かつ安定した火加減が瞬時に可能である.このガス器具が普及して,素麺の差し水は意味を失ったのであった.
 このような普及型ガステーブルでの火力調節には,小手先の器用さとか特別なことは何もいらない.普通に生活するのに必要な頭があればよい.
 自分ちのガステーブルと鍋やフライパンで,麺類を茹でるとき,煮物を拵えるとき,卵を焼くとき,それぞれどのようにレバーを動かして火力調節するかは実に簡単至極であり,そして誰でもできることだ.差し水なんかせずに素麺は茹でられるのである.(ただし野外での調理は除く.キャンプ場で素麺を食いたいやつがいればの話だが)

 番組では,三輪そうめん山本 (奈良県桜井市箸中) の山本太治社長が画面に登場して,差し水せずに茹でたほうがおいしく茹でられると断言して,こういう愚かな人の書いた《【素麺の茹で方】差し水のあるなしで味が変わるのかを検証してみた》に引導を渡してくれたのはよかった.

 で,ここまでが長い前フリ.
 三輪そうめん山本の社長の顔を見て,私は自分が昔書いた記事を思い出した.
 以下に再掲載する.

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2002年7月30日
三輪素麺

  この7月にいわゆるJAS法が改正された.骨子を抜粋すると,次のようなことである.  

農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律
の一部を改正する法律について
                      平成14年6月 農林水産省
Ⅰ 趣旨
 農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(以下
 「JAS法」という)については、最近の食品の偽装表示の
 多発を踏まえ、消費者への情報提供及び実効性確保の観点か
 ら、公表の弾力化及び罰則の強化の措置を講じることとする。
Ⅱ 概要
1 公表の弾力化
 消費者への迅速な情報提供を図る観点から、必要なときに公
 表することを可能とするようにする。(現行の「指示に従わ
 ない」場合の公表の規定を削除)
 ※現在のJAS法では、指示以前の時点では、相手方の同意
 がない限り公表できない。
2 罰則の強化
 指示を遵守すべき旨の命令に違反した場合の罰則を、次の
 とおり大幅に強化する。
  ①懲役なし→1年
  ②罰金個人50万円→100万円
     法人50万円→1億円

 この全文は農水省のサイトで閲覧できる.一連の食品表示の偽装事件によって失われた消費者の信頼を取り戻すべくとられた措置である.内閣府が今年の5~6月,全国の国民生活モニター2300人に実施し,29日に発表した意識調査(回答率97.8%)の結果によると,偽装事件の頻発で「食品に対する購買行動が変わった」と回答した消費者が76.8%に達している.

 『談話室』でも少し触れたが,読売新聞《Yomiuri Online 7/24 19:19》が『三輪そうめん』の偽装表示事件を伝えた.
 農水省は24日,デパートやスーパーなどで三輪素麺の販売を全国展開している奈良県桜井市の製麺業3社に対し,長崎県などで製造された素麺を『三輪そうめん』と表示する販売を20年以上にわたり常態化させてきたとして改善を指示し,同時に業者名を公表した.
 公表されたのは大手の「池利」「三輪そうめん山本」「森井食品」の3社であるが,この他にも表示を偽っていた業者があり,読売の続報によると全部で14社が昨年,奈良県三輪素麺工業協同組合(117業者)から自主脱退したり,除名処分を受けたりしたという.上の骨子にある「消費者への迅速な情報提供を図る観点から、必要なときに公表することを可能とするようにする」というのは,公表しない限り事態が改善されないと判断される相手の時には公表するということである.実際には,悪質な3社以外の業者名は公表されていないが,これは上記の改正JAS(日本農林規格)法の初適用であり,これまでとは違うぞという農水省の意気が感じられた事件である.

 ところが,である.驚天動地の事態が起きている.奈良県農政課は残る製麺業者の調査を始めたが,他の中小業者に同様の違反が見つかっても「改善が第1の目的。それが達成できれば、改正JAS法の適用や業者名の公表は必要ない。県には行政の裁量権がある」《Yomiuri Online 7/29 14:56 》として公表しないことを決めたのである.農水省品質課は奈良県に足並みをそろえるよう求めたが,県は拒否したという.県の農林部長である増井勲・奈良県副知事は「家内工業のような零細な業者もおり、改正JAS法をすぐに適用すると影響が大きい。適用前の啓発が大切ではないか」《Yomiuri Online 7/29 14:56》と説明した.
 高飛車に「適用前の啓発が大切ではないか」とは聞いてあきれる.啓発してこなかったからこそこうなったのではないのか.恥も外聞もなく奈良県が農水省に抵抗する理由は何か.偽装表示は他の業者も常態として行っていると告白したも同然である.これでデパート等の進物売場から三輪素麺は姿を消すことになるだろう.奈良県は業界保護のつもりだろうが,県内の伝統ある素麺製造業を結果的につぶすことになる.農水省もここで引いては困る.断固として他の業者についての調査結果を公表し,もし中小業者で偽装表示に手を染めていない社があるなら,県に楯突いて潔白宣言をするがよい.
 悪質業者を市場から退場させ,自社のシェアを拡大する千載一遇の大チャンスだ.会社の規模が小さくて生産量が少ないなら,希少という付加価値がつく.私が経営者ならそうする.
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 上の文で私は《これでデパート等の進物売場から三輪素麺は姿を消すことになるだろう》と書いたが,これは消費者の正義感を買い被っていたのであった.
 なんのことはない,三輪そうめん山本他の三輪素麺大手は,この産地偽装事件発覚後もずっと中元商品定番の地位を確保したままであったのだ.
 まあ,消費者なんてほんとは品質の良し悪しとか産地偽装なんかどうでもいいのである.贈答品として欲しいのは「三輪」というブランド産地名なのだ.中身が長崎島原産の素麺を「島原」と正直に産地表示されたら,困るのは消費者なのだ.
 しかしそうであっても,そうであるならばせめて私は,悪徳業者三輪そうめん山本の素麺は今後一切購入すまいと決めた.
 しかしそうはいっても,親しいかたから夏の季節に頂戴したものを正義感で捨ててしまうのは人として如何なものかと思い,来るものは拒まずおいしく頂いております.こらこら.

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2016年5月24日 (火)

沖縄の旅 戦争(2)

20160522e

 十三年前の平成十五年,十二月に沖縄旅行をして,帰ってから旅の記録を個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した.(その個人サイトは更新を停止した.この同名ブログはその後身である)

 今の若い諸君には想像もできないだろうけれど,十年以上も前は,情報源としてのネットはまだまだ発展途上だった.
 Wikipedia にしてからが「日本の Wikipedia は芸能人情報ばかりだ」などと言われていて,専門的なことは信頼性が低く,欲しい情報を手に入れるには,検索サイトを駆使し,山ほどあるゴミ情報の中から,ある事柄の当事者とか専門家が建てた個人サイトを探し当てる必要があった.
 あの頃,ひめゆり平和祈念資料館の公式サイトはとても内容貧弱で,旅行記を書くのには全然役に立たなかった.
 それが私の沖縄旅行の翌年に館内の展示を大幅に模様替えし,それに合わせてガイドブックを改版し,さらには公式サイトが驚くほどきれいに整備された.隔世の感がある.

 私が十三年前に書いた沖縄旅行記は,書くのに少し努力した思い出があるので,そのうちの沖縄戦に関わる部分を,下の破線 (-----) 間に,読みやすいようにフォントの色を変えて,このブログに転載する.(旅行記全体も,そう遠くない時期にこのブログに収載する予定である)
 再掲載にあたって,旅行記原文中で,「ひめゆり学徒隊」とすべきところを「姫百合学徒隊」と書いていた誤りを訂正した.
 自決した大田司令官の有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」は,旅行記原文ではあちこちの書籍やウェブ資料にある断片的な記述を寄せ集めて再構成したものであったが,現在は Wikipedia【大田実】にほぼ確からしい全文が掲載されているので,それに差し替えた.
 同様に,牛島満の南京攻略時の有名な命令と,自決前に発して多数の犠牲者を生んだ最後の命令も,現在アクセスできる他のサイトへのリンクを張った.
 また「平和の礎」と「沖縄県平和祈念資料館」へのリンクも,切れていたのを更新した.
 旅行記の終わりに平成十五年時点の「戦没者刻名者数」を記述してあるが,これは「平和の礎」のサイトに毎年更新された数が記載されているので,そのままとした.

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 さあいよいよ今度の旅行も大詰めである.
 私が沖縄を訪れてみたいと思ったのは,まだ一度も来たことがないということもあったが,それよりも三年目を迎えたこのサイトのことがあったからである.
 私はこのサイトを私の自分史にしたいと思っている.今現在のことも書くが,過去の様々なことも記してきた.その昔の事々の中でも,懐かしさを覚えるのは,私が大学生だった頃の思い出である.
 この旅行記の上の方にも書いたが,私の学生時代は沖縄の祖国復帰運動が最高潮に達した時代にあたっている.沖縄返還運動の集会にも行ったし,沖縄の歴史に関する勉強会にも出た.しかし自分が見たこともない遠い土地とそこに暮らす人々に対する理解は,やはり難しかったと言わざるを得ない.
 あれから三十余年.埋もれかかった記憶を掘り起こし,このサイトに少し記しておきたいと私は思ったのだった.

 [ 沖縄南部戦跡へ ]

  沖縄の歴史は,差別の歴史である.かつて十六世紀まで独立王国であった琉球は,慶長十四年(1609年),薩摩藩主島津家久の軍によって征服された.薩摩藩は征服後も琉球の王国体制を温存しつつ,王国の人事権を掌握し,かつ過酷な徴税もした.
 その一方で琉球と中国との密接な関係は維持され,その結果琉球は,従属国として江戸幕府の体制の一部でありながら,対外的には独立国であるという二面性を持つこととなった.すなわち琉球は体制内の異国であった.

 十八世紀半ばの幕末維新期,艦隊を率いて琉球に来航したペリー提督は,武力を背景に開国・通商を迫り,琉球はやむなくアメリカとの間に琉米修好条約 (1854年) を締結した.

 幕府が倒れ明治政府が発足するとただちに琉球の処遇 (廃藩置県) が問題となった.明治政府は王国体制を廃止して琉球藩とし,続いて沖縄県を設置しようとしたが,琉球はこれに抵抗した.また伝統的に琉球と深い関係にある中国 (清朝) も宗主権を主張して抗議したため,政府の対琉球政策は暗礁に乗り上げた.しかし明治十二年(1879年) 三月二十七日,政府は琉球処分官・松田道之を派遣し,松田は三百名の兵士と百六十余名の警官を率いて琉球藩を廃して沖縄県を設置すると国王に通告し,三月末で首里城を明渡すよう命じた.この強引な威圧の前に,琉球国王尚泰はやむなく王宮を明け渡し,ここに四百五十年に及ぶ琉球王国は滅亡した.

 こうして琉球は沖縄県として日本の一部となったが,属国としての沖縄観は長く残った.例えば,琉球処分の直後から明治政府は清国の国内の通商権と引換えに宮古・八重山を割譲するという秘密外交交渉を進めたが,それはこのような沖縄観によるものと考えられる.
 また沖縄県民が形式的に国政に代表を送ったのは,帝国議会が開設されて二十二年目の,ようやく1912年になってからであった.

 明治・大正期の沖縄はサトウキビ以外の換金作物を持たない貧しい農業県であった.県民は高い税金を払うためにサトウキビ作を拡大し,これが自給食糧であるサツマイモや米の栽培を衰退させた.
 この黒糖依存の農業生産構造は,第一次世界大戦後の不景気のために黒糖価格が暴落した時,県民の生活を悲惨の極みに陥れた.いわゆる「ソテツ地獄」である.
 こうして沖縄は経済的疲弊から立ち直ることなく第二次大戦の戦時体制に突入して行くが,この頃作成された沖縄連隊区司令部の報告書「沖縄防備対策」(1934年) には,沖縄社会の性格について以下のように書かれている.(平凡社世界大百科事典「沖縄」項から引用)

(1) 憂いの最大は県民の事大思想である。(2) 依頼心が強く他力本願である。(3) 一般に惰弱の気風がある。(4) 古来任惟の伝統がなく,団結,犠牲の美風に乏しい。(5) 武装の点でほとんど無力である。青年訓練所,在郷軍人においてすら銃器を有せず,有事の際の郷土防衛はきわめて困難。

 このような軍の対沖縄観には,体制内従属国・沖縄に対する偏見と差別意識が露骨に表れていると言える.戦争の激化に従い,沖縄県民に対する政府の差別は方言の使用をスパイ行為とみなす方言撲滅運動など,さらに理不尽なものとなっていった.

 日本軍は昭和十七年(1942年) 六月五日のミッドウェー海戦で四隻の主力空母を撃沈され,太平洋における制海権と制空権を失った.これ以後,ガダルカナル島を含むソロモン諸島周辺で陸海空の大消耗戦が展開され,遂に翌年二月七日,ガダルカナル島を放棄した.
 ソロモン諸島を奪還した連合国軍は大攻勢を開始し,補給線を断たれた南方諸島の日本軍守備隊は相次いで全滅していった.
 九月三十日,大本営は千島,小笠原,西部ニューギニア,インドネシアおよびビルマなどを含む地域を絶対国防圏と指定して死守せんとしたが,昭和十九年(1944)年六月十九~二十日のマリアナ沖海戦での敗北と七月八日のサイパン島陥落で構想は破綻した.
 アメリカ軍は同年十月二十日,フィリピン南部のレイテ島に上陸し,日本の連合艦隊は続くフィリピン沖海戦でほぼ壊滅した.そして艦船を失った日本軍は以後,神風特別攻撃隊をもって絶望的抗戦に打って出た.

 アメリカ軍は,この年十月十日,那覇市など島の人口密集地を空襲して,死者五百四十八人を出した.
 この空襲で,沖縄防衛に任ずる陸軍の第三十二軍直轄の病院であった沖縄陸軍病院は病棟と兵舎を焼かれ,半分近い衛生器材を失い,病院長・陸軍軍医中佐広池文吉は病院を南風原 (はえばる) 国民学校 (現,南風原小学校) へ移転した.

 三月二十三日,南風原国民学校で速成の看護教育を受けていた沖縄県立第一高等女学校および沖縄県女子師範学校の寮生全員と自宅通学生の二百二十二名が「ひめゆり学徒隊」として動員され,教師ら職員十八名も第三十二軍司令部から陸軍臨時嘱託として沖縄陸軍病院勤務を命ぜられ,これにより総勢二百四十余名が沖縄陸軍病院に配置された.
 南風原の病院に集められたひめゆり学徒隊は兵舎で寝起きし,本部指揮班・炊事班・看護班・作業班に編成され,当初は壕掘りと衛生材料の運搬に従事していたが,三月二十九日,兵舎で卒業式を終えたひめゆり学徒隊の女生徒達は三ヶ所の壕に分散して配置された.

 アメリカ軍は,昭和二十年(1945年) 三月十七日に硫黄島守備隊を全滅させると共に,太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥指揮下のバックナー中将が率いる第10軍は,三月下旬から,約千五百隻の艦船と延べ五十四万八千人の兵力で沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行った後,三月二十六日に慶良間諸島の座間味島に,翌二十七日に渡嘉敷島に上陸した.この攻撃で逃げ場を失った二島の村民は集団自決した.
 続いて四月一日には沖縄本島中部嘉手納海岸 (読谷,嘉手納,北谷) に上陸した.日本国内唯一の地上戦闘であった約四ヶ月にわたる沖縄戦の開始である.

 沖縄守備第三十二軍 (司令官牛島満中将) は,第二十四師団,第六十二師団,独立混成第四十四旅団の陸軍八万六千四百人,海軍約一万人,および現地徴集の防衛隊員,学徒隊員約二万人の合計約十二万人で構成されていたが,アメリカ軍戦力の約四分の一以下という圧倒的に劣勢な戦力しかなかった.
 当初,大本営は沖縄を巨大な空母に見立てた航空作戦を方針としていたが,牛島司令官の部下であり実際の戦略策定を指揮していた八原高級参謀は,海岸線でアメリカ軍を迎え撃つのではなく,無数の洞窟がある沖縄の地形を利用した持久戦を主張した.
 八原はアメリカ軍の近代的物量戦略の凄さを甘く見ていたのである.それは後に沖縄県知事となった大田昌秀の著作『これが沖縄戦だ』に記された次の八原の発言に伺うことができる.

敵は予想に反し、ほとんど我が軍の抵抗を受けることなく、このまま上陸を完了するだろう。あまりの易々たる上陸を、さては日本軍の防衛の虚を衝いたのではないかとばかり勘違いして小躍りして喜んでいるのではないか。否、薄気味悪さのあまり、日本軍は嘉手納を取り囲む高地帯に退き、隠れ、わざとアメリカ軍を引き入れ、罠にかける計画ではないかと疑い、おっかなびっくりの状態にあるかもしれぬ

 初め沖縄には北支から転戦した第九師団他の精鋭部隊がいて,八原の持久戦論はそれを根拠にしていた.ところが大本営はフィリピン・レイテ沖の海戦に台湾の部隊を投入し,更にその穴を埋めるために第九師団をを台湾に派遣した.その結果,主戦力を失った八原の作戦は最初から齟齬をきたしていた.

 上陸したアメリカ軍は沖縄本島を南北に分断し,そこから日本軍沖縄守備隊が待ち受ける首里戦線へと南下した.沖縄守備軍の司令官は牛島満中将,参謀総長は長勇中将であったが,この二人は多数の一般中国人を殺害し,略奪・強姦・放火を重ねたとされる南京攻略の指揮官でもあった.

****************************************************
 昭和十二年(1937年)七月七日,日中戦争開始の時に
最初に動員された第六師団第三六旅団は鹿児島四五連隊・
都城二三連隊で編成されていた.その旅団長が牛島満少将
だった.
 その年の十二月十一日夜から十二日の早朝にかけて,
牛島満率いる第二三連隊は南京城西南角直下に取り付き,
第四五連隊は南京城に迫っていた.そこで牛島が発した
有名な攻撃命令は以下の通りであった.
(
読谷村史,『戦時記録 上巻』,「序章 近代日本と戦争 日中戦争」から引用)

 《一、旅団は十二日一六時を期し、第二三連隊をもって南京
 城西南角を奪取せんとす。
 一、古来、勇武をもって誇る薩隅日三州健児の意気を示す
 は、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、先頭第一に、
 南京城頭に日章旗をひるがえすべし。
 チェスト行け。
  昭和十二年十二月十二日 一〇時
    旅団長 牛島満


  (註;「チェスト」は薩摩の言葉で,掛け声である)
****************************************************

 八原らは米軍がある程度南進するまではさしたる反撃はせず,首里戦線に引き寄せてから和田孝助中将率いる砲兵隊の約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ,一挙にアメリカ軍主力部隊を殲滅しようと考えた.
 この日本軍の楽観的な作戦を遙かに上回るアメリカ軍の猛攻を受け,沖縄守備軍は,じりじりと戦力を消耗し,前線で激戦を戦った藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力は半減した.しかしなお,和田中将指揮する第五砲兵隊,後方に控える雨宮中将麾下の第二十四師団,独立混成第四十四旅団の残存部隊,そして大田少将率いる海軍部隊などの兵力は健在であった.

 南風原の陸軍病院には,アメリカ軍の本島上陸後,負傷兵が続々と送られてきた.南風原では手掘りの横穴壕が掘られ,壕には通路と二段ベッドがあった (どのようなものかは『ひめゆり平和祈念館』で再現展示されているのを見ることができる).壕の数や規模から想定すると二千名が収容でき,延べ一万名がここに送られたという.

 沖縄守備軍司令部では,八原高級参謀が最後まで持久戦をとるべきだと主張したのに対し,長参謀総長や若手参謀らは全軍を挙げて総攻撃に出るべしとして意見の対立が生じたが,最終的な幕僚会議における採決の結果,牛島満司令官は五月四日早朝を期して総反撃攻勢に転じることを決断した.

 五月四日午前四時五十分,首里の沖縄守備軍の総攻撃が開始された.
 九州本土の知覧や鹿屋から飛び立った神風特別攻隊機も海上のアメリカ艦船群を攻撃した.この時の日本軍砲兵隊の攻撃の凄まじさは米兵が初めて体験するほどのものだったというが,アメリカ軍はただちに応戦した.攻撃開始と共に防衛線から前に出た守備軍主力部隊は,アメリカ軍の重砲火を浴びて退路を断たれて立ち往生した.
 村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊は,アメリカ軍の集中砲火のために進退極まり,大半の兵員が戦車と共に為すすべもなく戦死した.
 守備軍が誇った四百門の巨砲は,アメリカ軍艦載機の攻撃の前にその威力をほとんど発揮することなく破壊し尽くされた.こうして午前八時頃までに沖縄守備軍の攻撃はほぼ鎮圧された.

 五月五日の午後六時,牛島満中将は自室に八原高級参謀を呼んだ.総攻撃の失敗を認めて攻撃中止の決定を告げ,残存兵力と島民とをもって南部に兵を引き,最後の一人まで持久戦を戦い抜くよう指示したとされる.莫大な島民犠牲者を出すことになった作戦が始まったのである.

 アメリカ軍第十軍司令官バックナー中将は,沖縄守備軍の反撃が失敗に終わったのを見届け,全軍に五月十一日を期して総攻撃を開始せよと命令した.
 アメリカ軍の攻撃が開始されたこの日,神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団に体当たり攻撃を敢行し,米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与えた.僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると,他の特攻機がそのエンタープライズも大破させた.
 しかしアメリカ軍上陸部隊は総攻撃開始後,じりじりと首里司令部に迫った.第六海兵師団主力部隊は多くの損害を出しながら,首里北側の沢岻,大名,石嶺の各高地守備陣を陥落させ,遂に司令部に直撃弾を浴びせ始め,首里の陥落は時間の問題となった.

 五月二十二日夜の首里司令部協議で,三つの案が検討された.守備軍司令部は喜屋武地区へと撤退する,知念半島に撤退する,首里陣地で最後まで徹底抗戦する,の三案である.
 第六十二師団の上野貞臣参謀長は部隊の大部分を首里戦線で失った上,移送困難な何千人もの重傷者がいるので最後まで首里で戦うべきだという意見を述べた.
 第二十四師団の木谷美雄参謀長は喜屋武方面への撤退案を述べた.
 独立混成第四十四旅団の京僧参謀は,喜屋武地区ではなく知念半島方面への撤退案を支持した.
 八原高級参謀は,かねて首里から南下して喜屋武岬方面への撤退を考えており,結局,牛島司令官は守備軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを決断した.
 司令部には島田叡沖縄知事も加わっており,島田知事は,軍が首里で玉砕せず南に撤退して住民を道連れにするのは愚策であると憤ったとされる.

 南風原の陸軍病院では,五月二十三日から負傷者と弾薬の後送が開始され,二十五日,南部へ移動を開始して伊原地区の自然壕に移った.南部への撤退に際して,多くの重傷患者が置き去りにされた.

 五月二十四日,首里はアメリカ軍に占領された.後退した守備軍は二十七日夕刻から二十八日にかけて,強制動員した十三歳から六十余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を軍に同行させ,豪雨の降る中で本島南部への撤退を開始した.残存兵力は一説に四万という.
 守備軍首脳陣は小隊に分かれて南下し,第三小隊までは摩文仁方面へ直行し,牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らの第五小隊は津嘉山に移動してそこを一時的戦闘司令部にした後,三十日に摩文仁に撤退した.
 第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下を始め,翌日,最前線に位置していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も戦闘司令部に合流するため撤退を開始した.
 五月三十一日,首里陥落.

 守備軍の撤退によって戦場の中に取り残された傷病兵達は,毒薬や手榴弾で自決していった.また迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感で恐慌に陥った老人や子供,婦女子ら島民の群れが軍のあとを追って南へ逃げた.
 既に戦闘能力をほとんど失った正規軍に,動員部隊,老人や子供,婦女子が混じり合って敗走する群れは,追撃するアメリカ軍の砲撃の犠牲となった.何千もの死体が雨でぬかるみとなった道に置き去りにされていたという.

 これに遡る五月二十六日,小禄半島にいた大田海軍司令官の部隊約一万人は砲台や機関銃座を爆破し南部へ撤退したが,それを知った守備軍首脳は大田海軍司令官を含む海軍部隊に対して小禄の海軍陣地へと復帰するよう命令した.そして小禄へ戻った海軍部隊はほとんど武器もないままアメリカ軍の攻撃にさらされた.
 六月五日,ようやく守備軍司令部は大田海軍司令官に南部への撤退を促したが,既にその時,海軍部隊は米軍海兵師団によって完全に包囲されており,脱出不可能と知った大田司令官は同日,司令部に電信を送り小禄地区にて最後まで戦うと通告した.
 玉砕を覚悟した大田司令官は翌日,海軍次官宛に沖縄県民の健闘を伝える訣別の電報を送った.(
Wikipedia【大田実】から全文を引用;電文中□は不明字)

****************************************************
発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

****************************************************

 アメリカ第六海兵師団は六月十一日午前七時三十分を期して戦車部隊を先頭に総攻撃を開始した.
 その晩,大田司令官は牛島守備軍司令官に宛てて「敵戦車群ハワガ司令部洞窟を攻撃中ナリ。海軍根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス。従前ノ交誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と打電し,翌日,大田少将以下の海軍部隊首脳は自決した.

 多くの民間人犠牲者を出しながら喜屋武岬から摩文仁岳一帯に逃げ込んだ守備軍を,海上を覆い尽くした艦船群からの砲撃が襲い,航空機による銃爆撃と陸上からアメリカ戦車部隊と地上軍が守備軍に迫った.

 アメリカ軍司令官バックナー中将は,沖縄出身の一世や二世兵士のうち沖縄弁の得意な者にハンドスピーカーを渡し,洞内や壕内に潜む人々に投降を呼びかけた.また大量の降伏勧告ビラを撒いた.
 六月十日以降,バックナー中将は三度にわたり牛島満中将宛に降伏勧告状を送ったが,牛島司令官はこれを無視した.

 六月十七日,第六十二師団が摩文仁北方で激戦を繰り広げたが,これが最後の組織的戦闘であった.同日,米軍は国吉~与座岳~真栄平~仲座の陣地線を突破.
 この日,現在『ひめゆり平和祈念資料館』の南にあった陸軍病院第一外科壕に米軍機の直撃弾が命中し,多数の看護婦や学徒が即死した.

 六月十八日の午後一時頃,戦況の視察と部隊を督励するために第二海兵師団第八連隊の前線監視所 (旧高嶺村真栄里) に出向いたバックナー中将は,守備軍側の狙撃兵の放った銃弾が胸に命中して戦死した.またこの日,沖縄県知事島田叡が,摩文仁の丘のどこかで倒れ,消息を絶った.

 同日,守備軍司令部は突然,一切の責任を放棄して,軍病院とひめゆり学徒隊に解散を命令した.それまで重傷者で阿鼻叫喚の有様の中,水汲み,傷病兵の排泄の世話,死体の処理などの過酷な任務を負わされていた少女達は戦場に孤立した.
 翌十九日,ひめゆり学徒隊の生き残りは第三外科壕 (現在「ひめゆりの塔」がある場所) に集合した.
 アメリカ軍は壕を攻撃する前に中の者に壕外に出てくるよう説得工作を試みたが,当時十四,五歳の少女達は捕虜になると米兵に暴行されて殺されるという守備軍の宣伝を信じて最後まで壕の奥に立てこもり続けた.
 アメリカ軍の最終的攻撃の直前に水汲みに壕外に出た三人と,攻撃後奇跡的に助かった二人の計五人を除く多数の女子生徒と教師ら非戦闘員四十六人がガス弾によって非業の死を遂げた.ここを生き延びた者は荒崎海岸に逃げたが多数が砲撃で死亡し,あるいは自決した.
 戦後の調査によれば,何らの法的根拠もなく動員されてから解散命令を受けるまでの九十日間のひめゆり学徒隊死者は二十一名であるが,全犠牲者百九十四名のうち,解散命令後の死者は百二十八名であった.
 生存者の証言によれば,第三外科壕の中で女学生達は白衣を制服に着替え,別れにそれぞれの校歌を歌いながら死を迎えたという.

 一方,摩文仁の断崖にある洞窟では,八原高級参謀が牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りを進めていた.
 残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて展開しているアメリカ軍に一斉突撃を行い,その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きであったという.
 しかし摩文仁岳山頂の奪回は失敗し,牛島と長の二人は洞窟入口付近で相次いで自決した.自決の数日前に牛島司令官が発した最後の命令は,

全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし》 (《沖縄戦を考える 》から引用)

であった.

 全島民三分の一に相当する十五万人を死なせた地獄のごとき作戦を立案主導してきた八原高級参謀みずからは「最後まで敢闘し悠久の大義に生」きることなく,牛島の自決を見届けると,壕を出て投降した.

 六月二十日  牛島司令官,陸軍大将に昇進
   二十二日 大本営,沖縄での組織的戦闘の終了発表
        米軍,第10軍本部で沖縄島占領式典
   二十三日 牛島司令官,長参謀長,摩文仁で自決
   二十六日 米軍,久米島上陸
 七月二日   米軍,沖縄作戦終結宣言
 八月六日   米軍,広島に原爆投下
   九日   米軍,長崎に原爆投下
   十五日  天皇,終戦詔書ラジオ放送
 九月二日   日本政府,米艦ミズリー号上で降伏文書に調印

 牛島司令官の自決後も多くの兵や住民が,あたかも牛島の最後の命令に呪縛されたように二,三ヶ月も死線をさ迷った後,九月七日,日本軍残存部隊は嘉手納の米第10軍司令部で降伏文書に調印し,沖縄戦は終結した.

(以上の部分を書きまとめるにあたっては,手元の資料の他,ウェブを「沖縄戦」や「ひめゆり」などのキーワードで検索してヒットする多数のサイトの記述を参照させて頂いた.ここで逐一URLを挙げないが,深く感謝申し上げる)

 おきなわワールドを出て私達は,そこからわずかな距離にある平和祈念公園へ向かった.公園のある一帯が摩文仁の丘である.

200312

 バスを降りて駐車場から歩いて行くと左手に平和祈念塔が望まれる.

200312_4

 さらに海に向かって行くと,案内図 (上の画像) の上方,扇形のように見える所に沖縄戦死者の名を刻んだ石碑がある.これが沖縄戦の終結五十周年を記念して建設された『平和の礎 (いしじ)』である.

200312_2

 この『平和の礎』については沖縄県庁のサイトのトップページから《平和》のリンク先にある《平和の礎 》をたどって詳細を知ることができる.
 その他に資料として次の二つのサイトを挙げる. 
  沖縄県営平和祈念公園 平和の礎
  沖縄県平和祈念資料館

200312_3

 『平和の礎』は,海岸へ向かう通路の左側に沖縄県県民,右側に他県出身者,そのさらに右に外国人の石碑が並んでいる.
 沖縄県は,『平和の礎』に刻銘される対象者は国籍を問わず沖縄戦で亡くなったすべての人々とするとしている.従って沖縄守備軍司令官・牛島満の名も,鹿児島県出身者のところにある.
 公園内にあるパネルに,この『平和の礎』に刻まれた沖縄戦死者の数が記載されていた.平成十五年六月二十三日現在で以下の通りである.
  日本
    沖縄県         148,446
    県外           75,457
  外国
    米国   14,008
    英国     82
    台湾     28
    朝鮮民主主義人民共和国    82
    大韓民国          326

  合計            238,429

 平和祈念公園の海に面した広場には円錐状の小さなモニュメントが置かれ,その先に私達を案内したガイドさんは,向こうに見える断崖を指さした.

Suiside_cliff200312

 その断崖は,希望を失った多くの島民が身を投げたところだという.その光景を目撃したアメリカ軍の兵士達は,崖を“Suicide Cliff”と呼んだ.
 私達一行は『平和の礎』でそれぞれに黙祷し,バスに戻った.

 次にバスは『ひめゆりの塔』へ向かった.
 『ひめゆりの塔』は漠然と思っていたのよりもずっと小さな石の碑であった.そして塔の横にはひめゆり学徒隊員の名を刻んだ納骨堂と,少女達が死を迎えた壕の入り口があった.

200312_5

 ガイドさんは「ここはひめゆり部隊の鎮魂の場所ですから,大きな声での説明は致しません」と言って,静かに昭和二十年六月の悲劇について語った.そして『ひめゆりの塔』という小さな鎮魂碑をここに置いたのは,一人の学徒隊員の父親であることを私は初めて知った.

『ひめゆりの塔』の周りで黙祷を捧げる人々の真摯な様子に,塔そのものにレンズを向けるのは不謹慎のように思われ,塔の後ろにある少女らの名が刻まれた石碑を,遠くから望むだけにとどめた.

 ここで黙祷した後,それから一行は『ひめゆりの塔』の脇を通ってその奥にある『ひめゆり平和記念資料館』を見学した.

200312b

 資料館の展示室に掲げられたパネルの文章と遺品の数々は,沖縄守備軍によって戦場に棄てられたに等しい学徒隊犠牲者の鎮魂と,軍の無責任に対する怒りを,圧倒的な迫力で見学者に訴えかけているようだった.

 この『ひめゆり平和記念資料館』のサイト (下記の URL) はあるが,残念ながら資料館に収蔵された展示物の詳細を知ることはできない.学徒隊の悲劇を知るにはこの資料館に来て欲しいということであれば,それも見識であるかと思う.
 五つの展示室について資料館のサイトにある紹介を抜粋要約すれば以下の通りである.

第一展示室/沖縄戦前夜
「沖縄への皇民化政策」「皇民化教育と師範学校」そして敗退を重ねる十五年戦争の状況下に,学校が急速に軍事化され,職員や生徒達が戦場へ動員されていくまでの様子を描いている.また「捨て石」とされた沖縄戦の意味を太平洋戦争の経過の中で解説する.

第二展示室/南風原陸軍病院
 南風原陸軍病院壕内部の状況が展示され,南風原の地形模型,米軍上陸後首里陥落までの戦況地図,写真,現物資料が展示され,沖縄戦の中の姫百合学徒隊の献身を描いている.

第三展示室/南部撤退
 南部撤退の状況を南風原陸軍病院とその分室の撤退図とジオラマで展示している.

第四展示室/鎮魂
 広い壁三面に二百余名の犠牲者の遺影とそれぞれの犠牲状況を記載したパネルが並んでいる.展示室中央には生き残りの生徒たちの証言の本二十九冊が展示されている.また『ひめゆりの塔』の前にある第三外科壕が実物大に複製されている.

第五展示室/回想
 この部屋は見学者がこれまでの展示を回想し,感想文を寄せるために設けられている.

特別展示室/ひめゆりの青春
 ここには当時の学園生活の資料が展示されている.

 

 『ひめゆり平和記念資料館』からツアー解散の那覇空港へ戻る途中で,ガイドさんがひめゆり学徒隊員達の校歌を歌ってくれた.彼女が歌い終わると,自然に車内に拍手が湧いた.
 この三日間,彼女は沖縄の基地問題や環境破壊のことについて,そして沖縄戦の悲劇について私の知らなかったことを幾つも教えてくれた.目取真さんという,いかにも沖縄っ子らしい名のそのガイドさんに深く感謝して,この旅行記を終える.

【補遺】
 昨年暮れ,この一文を書いている時のノートとして『雑事雑感』に三つの記事を掲載した.
2003年12月23日 沖縄旅行ノート(1)

2003年12月23日 沖縄旅行ノート(2)

2003年12月29日 沖縄旅行ノート(3)

 また関連記事として1月5日に次のことを書いた.

2004年1月5日 毅然ということ

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2016年5月23日 (月)

沖縄の旅 戦争(1)

20160522a

 自称リベラルの評論家宮崎哲弥が週刊文春にコラムを連載して久しい.
 この評論家は,評論家の常として自分の立ち位置を少しずつ調整変更しながら現在に至るが,戦争というものに対する見解は大きくは変えていない.
 その宮崎哲弥が週刊文春のゴールデンウイーク特大号 (5/5,12号) に掲載された《時々砲弾 連載204》の中で,彼の戦争観を再論している.

 宮崎の戦争観の基礎は「正戦論」である.
 正戦論とは,戦争には「正しい戦争」と「正しくない戦争」があるとする論理であるが,論者により意味するところに幅がある.
 宮崎の正戦論がどのようなものであるかについて,私は十三年前の春に短い記事を自分の個人サイトに載せた.その記事の十日前にイラク戦争が勃発し,戦闘開始直後に陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんなど五名の捕虜がイラクに捕らえられたのであるが,私の記事は,イラク戦争開始と同時に書かれた宮崎哲弥のコラムに異議を唱えたものである.下の破線 (-----) 間に,フォントの色を変えて転載する.
(原文は,このブログと同名の,既に更新を停止した個人サイト《江分利万作の生活と意見》のコンテンツ《雑事雑感》に掲載したものだが,近く@ニフティの個人サイトサービスが終了となるため,ココログの同じ日付に移植してある.またこの連載で既に書いたように,この年に私は初めて沖縄を訪れた)

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2003年3月31日
あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに

 先週発売の週刊文春4月3日号『宮崎哲弥の新世紀教養講座』のサブタイトルは「イラク戦争を読み破る〈1〉倫理的に正しい戦争の条件」である.ここで宮崎氏は 加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書)を引用して次のように書いている.《》に直接引用する.

戦争観には三つの種類がある。
(A) 正しい戦争と不正な戦争が分別可能とする正戦論。
(B) 国家主権の発動たる戦争に正も不正もないとする無差別戦争観。
(C) すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義。
 加藤は「9.11」以降、世界は(B)の無差別戦争主義に流されつつあると嘆く。国連憲章違反の疑いが濃厚な、新決議なしのイラク戦争はその現実的帰結といえよう。
 この状況に歯止めを掛けるのは、(C) の絶対平和主義ではない。それは理念としては正しいが現実的妥当性がない。(A)の正戦論こそが戦争抑止の決め手として期待できる。そうである以上、倫理的に正しい戦争はあり得る、といわねばならない。
 正戦の条件は大雑把にいって二点。(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か、それに準じるものであること、(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること、である。


 三つの戦争観を挙げて正しい戦争の条件を示した部分は『戦争倫理学』に拠っているのだが,文脈から判断すると宮崎哲弥氏はこれに同意している.
 どうもおかしい.ヘンである.例えば,明白な自衛戦争であり,かつ相手の戦闘員に限定した攻撃であれば,どんな残虐な殺し方をしてもいいのか(殺すことはすべて残虐であるという立場に私は立つ者であるが,それはさておき,宮崎氏の議論の流れに沿ってそう書く).生物兵器や化学兵器を使用しても構わないのか (技術的には可能だろう).それを正しいと認めるのか.
 加藤尚武,宮崎哲弥の両氏の議論がヘンなのは,やむを得ず必要悪として許されることに「正」の字をあてていることである.絶対平和主義に現実的妥当性があるかどうかは見解の相違があるだろうから,仮に絶対平和主義は現実的でないとしよう.それでもそれは「倫理的な殺し合い」を認める根拠にはならないと私は思う.必要不必要ということと,倫理的であるか否かは別次元のことである.


 イラク側が捕虜米兵の映像を公開した.許されざることである.捕らえられた五人の兵士の一人に黒人女性の陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんがいる.放送されたテレビ映像で,ショシャーナさんは負傷しており,年齢を答えるのがようやくなほどに怯えていた.読売新聞《Yomiuri Online 3/27 01:10》によると,ショシャーナさんは二歳の娘を育てるシングルマザーで,家族のために料理を作ることと娘の世話が何よりの楽しみだったという.叔母のマーガレット・ヘンダーソンさんは「あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに」と語っている.
 イラク戦争はアメリカによる侵略戦争である.国内政治的に極悪非道のフセイン政権であるが,彼らは今,自衛戦争を戦っている.
 非戦闘員を殺戮しているのはむしろアメリカ軍の方である.しかし,ならばイラクの戦いは正義か.
 想像したくないが,ショシャーナさんは処刑されるかも知れない.ご飯を作りにいっただけの女性が殺されるかも知れない.それが戦争の非倫理性なのだ.

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(〈上記の文章に関する註〉 ニューヨーク通信によれば,ショシャーナさんは生還してこの年の N.Y. 市の大晦日イベントにゲストとして招かれたとある)

 宮崎哲弥の言う正戦の条件は次の二点である.
(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か,それに準じるものであること
(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること

 上の二条件が満たされていれば,宮崎はその戦争「正しい戦争」と呼ぶ.
 その観点で先の戦争 (アジア・太平洋戦争) を見てみよう.
 まず条件 (1) は,極めて恣意的な判定が可能な条件であるといえる.
 なぜなら,敗戦まで日本政府は大東亜戦争を自衛戦争でありアジア解放戦争であるとしていたが,敗戦後は村山談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって 平成7年8月15日」と小泉談話「内閣総理大臣談話 平成十七年八月十五日」により,先の戦争は侵略戦争であったとする政府公式見解を明確にした.
 しかし昨年,終戦の日前日に安倍晋三は「安倍内閣総理大臣談話」を発表し,その文中で,先の戦争は侵略戦争であったとする従前の政府見解を覆し,同時に外務省のサイトから村山談話と小泉談話の痕跡を消し去った.
 つまり,ある戦争が自衛戦争であるか侵略戦争であるかなどということは,どうにでもなる空論なのである.

 次に条件 (2) はどうか.
 広島と長崎への原爆投下は非戦闘員を無差別殺戮したものであるが,原爆投下を正当化する論者は,戦後ずっと,あれは日本本土全体が焦土と化すのを避けるためであったとしてきた.これは,原爆投下は非戦闘員の殺傷を最小限度に留めるためのものであったとする正戦論に他ならない.
 視点をミクロに,先の戦争の局地戦としての沖縄戦,その最終段階における,ひめゆり学徒隊の伊原第三外科壕の悲劇を見てみよう.
 生徒らや引率教師らが潜む壕に,米兵は投降を呼びかける.

この壕に住民はいないか。兵隊はいないか。いたら出て来い。出ないと爆破するぞ。いいか》 (ガイドブック『ひめゆり平和祈念資料館』p.102 から引用)

 恐怖におののく少女たちは出て行かない.そしてガス弾が打ち込まれる.
 宮崎哲弥の正戦論によれば,殺傷を最小限度に留めるために非戦闘員への投降が呼びかけられているから,これは「正しい戦争」の行い方に則っている.その結果,

壕にいた96名 (うち教師5名・生徒46名) のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。》 (Wikipedia【ひめゆりの塔】から引用)

 だがしかし私は,私以外の多くの戦中戦後世代の人々と同じく,伊原第三外科壕における殺戮を「正しい」とは認めない.「非戦闘員の殺傷を避けるか最小限度に留めること」などという屁理屈はどうでもよい.認めるなと私の良心が命ずるのだ.

 したり顔に正戦論を説く自称リベラルの宮崎哲弥は,その正戦論に基づいて沖縄戦を,ひめゆり学徒隊の悲劇を,評論してみせるがよい.もし恥を知らぬのであれば,生き残ったひめゆり学徒に向かって「倫理的に正しい殺戮はあり得る」と語るがいい.

 かつてフセインの戦いを倫理的に正しい戦争であると言った宮崎哲弥のごとき鈍摩した感性の持ち主に,私たちがならぬためには,宮崎がどう言おうと,《すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義》に立たねばならない.それが,亡くなったひめゆり学徒の遺言であり,生き残った学徒たちが戦後を生きた志であると信ずる.

20160520c
『ひめゆり平和祈念資料館』 (ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック)
『生き残ったひめゆり学徒たち ― 収容所から帰郷へ ―』(ひめゆり平和祈念資料館編)

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