私が昔書いたこと

閉館した個人サイトの『雑事雑感』『続・雑事雑感』に書いたことを再録.

2016年7月21日 (木)

差し水

 昨日放送のテレビ東京『ソレダメ! ~あなたの常識は非常識!?~』を観た.
 この番組は,この種の雑学情報番組の中では程度が低いのだが,レギュラー出演者 (オードリーの二人,小籔千豊) のコメントが面白いのでよく観ている.

 さて昨日の「新常識」(?) に「素麺の差し水」の話が出た.
 素麺を茹でるときに差し水はしないのが良いという内容である.
 それを聞いた司会の高橋真麻さんらが「えーっ 差し水しないのー?」と驚いていたが,素麺を茹でるときに差し水するなんて一体いつの時代の話なんだよと,逆に私は驚いてしまった.

 年寄りには,といっても多少の料理の心得がある者には,の場合であるが,素麺に差し水はしないのが常識である.「新常識」でも何でもない.
 高橋真麻さんは御結婚の予定がおありになるようだが,大丈夫か.

 調理に用いる加熱機器が,古くはかまどに鍋を置いて薪で炊いた時代,あるいはぐんと下って七輪に炭とか練炭を熾した時代,あるいは戦後の一時期に使われた石油コンロであった時代,昭和の後半まで使用されていたガスコンロ (ガス量の調節を,器具とガス管との接続部分に取り付けられているやや堅めのコックを左右に開閉して行う超レトロなものや,卓上ガスコンロのようにダイヤルを回転させて行うレトロなもの) の時代には,火加減の調節が瞬時に適切にできなかった.
 煮物をコトコト煮くなんてときは,これらの熱源でよろしいのであるが,素麺を茹でるのは短い時間であるから,とても間に合わない.
 それで重宝した大昔からの生活の知恵が差し水だった.
 具体的には,沸いた湯に素麺を投入し,一旦は沸騰が止むが,すぐに再沸騰する.ここで鍋の湯が吹きこぼれそうになったら,少量の水を,沸騰が止まない程度に加える.
 加える水の量は,鍋の大きさ (湯の量) と相談で,入れ過ぎてはいけない.
 慣れていれば,一度か,あるいは多くて二度の差し水で,素麺が茹で上がる.
 ここで大切なことは,鍋に多量の水を投入して,沸騰を完全に止めてしまってはいけないことである.
 差し水を別名「びっくり水」と呼ぶが,これは,沸騰が一瞬止まってすぐにまた沸くのを人がびっくり驚いた様子にたとえたものであり,言い得て妙である.
 なぜなら水を投入してから十秒も二十秒も再沸騰しないのは,「びっくり」ではなく「沈静」だからである.www

 ともあれ,現代の家庭用調理熱源として最も一般的なガステーブルは,火力の調節を,調節レバーを左右に動かして行う.(一例をあげる)
 これであると,大変微妙かつ安定した火加減が瞬時に可能である.このガス器具が普及して,素麺の差し水は意味を失ったのであった.
 このような普及型ガステーブルでの火力調節には,小手先の器用さとか特別なことは何もいらない.普通に生活するのに必要な頭があればよい.
 自分ちのガステーブルと鍋やフライパンで,麺類を茹でるとき,煮物を拵えるとき,卵を焼くとき,それぞれどのようにレバーを動かして火力調節するかは実に簡単至極であり,そして誰でもできることだ.差し水なんかせずに素麺は茹でられるのである.(ただし野外での調理は除く.キャンプ場で素麺を食いたいやつがいればの話だが)

 番組では,三輪そうめん山本 (奈良県桜井市箸中) の山本太治社長が画面に登場して,差し水せずに茹でたほうがおいしく茹でられると断言して,こういう愚かな人の書いた《【素麺の茹で方】差し水のあるなしで味が変わるのかを検証してみた》に引導を渡してくれたのはよかった.

 で,ここまでが長い前フリ.
 三輪そうめん山本の社長の顔を見て,私は自分が昔書いた記事を思い出した.
 以下に再掲載する.

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2002年7月30日
三輪素麺

  この7月にいわゆるJAS法が改正された.骨子を抜粋すると,次のようなことである.  

農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律
の一部を改正する法律について
                      平成14年6月 農林水産省
Ⅰ 趣旨
 農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律(以下
 「JAS法」という)については、最近の食品の偽装表示の
 多発を踏まえ、消費者への情報提供及び実効性確保の観点か
 ら、公表の弾力化及び罰則の強化の措置を講じることとする。
Ⅱ 概要
1 公表の弾力化
 消費者への迅速な情報提供を図る観点から、必要なときに公
 表することを可能とするようにする。(現行の「指示に従わ
 ない」場合の公表の規定を削除)
 ※現在のJAS法では、指示以前の時点では、相手方の同意
 がない限り公表できない。
2 罰則の強化
 指示を遵守すべき旨の命令に違反した場合の罰則を、次の
 とおり大幅に強化する。
  ①懲役なし→1年
  ②罰金個人50万円→100万円
     法人50万円→1億円

 この全文は農水省のサイトで閲覧できる.一連の食品表示の偽装事件によって失われた消費者の信頼を取り戻すべくとられた措置である.内閣府が今年の5~6月,全国の国民生活モニター2300人に実施し,29日に発表した意識調査(回答率97.8%)の結果によると,偽装事件の頻発で「食品に対する購買行動が変わった」と回答した消費者が76.8%に達している.

 『談話室』でも少し触れたが,読売新聞《Yomiuri Online 7/24 19:19》が『三輪そうめん』の偽装表示事件を伝えた.
 農水省は24日,デパートやスーパーなどで三輪素麺の販売を全国展開している奈良県桜井市の製麺業3社に対し,長崎県などで製造された素麺を『三輪そうめん』と表示する販売を20年以上にわたり常態化させてきたとして改善を指示し,同時に業者名を公表した.
 公表されたのは大手の「池利」「三輪そうめん山本」「森井食品」の3社であるが,この他にも表示を偽っていた業者があり,読売の続報によると全部で14社が昨年,奈良県三輪素麺工業協同組合(117業者)から自主脱退したり,除名処分を受けたりしたという.上の骨子にある「消費者への迅速な情報提供を図る観点から、必要なときに公表することを可能とするようにする」というのは,公表しない限り事態が改善されないと判断される相手の時には公表するということである.実際には,悪質な3社以外の業者名は公表されていないが,これは上記の改正JAS(日本農林規格)法の初適用であり,これまでとは違うぞという農水省の意気が感じられた事件である.

 ところが,である.驚天動地の事態が起きている.奈良県農政課は残る製麺業者の調査を始めたが,他の中小業者に同様の違反が見つかっても「改善が第1の目的。それが達成できれば、改正JAS法の適用や業者名の公表は必要ない。県には行政の裁量権がある」《Yomiuri Online 7/29 14:56 》として公表しないことを決めたのである.農水省品質課は奈良県に足並みをそろえるよう求めたが,県は拒否したという.県の農林部長である増井勲・奈良県副知事は「家内工業のような零細な業者もおり、改正JAS法をすぐに適用すると影響が大きい。適用前の啓発が大切ではないか」《Yomiuri Online 7/29 14:56》と説明した.
 高飛車に「適用前の啓発が大切ではないか」とは聞いてあきれる.啓発してこなかったからこそこうなったのではないのか.恥も外聞もなく奈良県が農水省に抵抗する理由は何か.偽装表示は他の業者も常態として行っていると告白したも同然である.これでデパート等の進物売場から三輪素麺は姿を消すことになるだろう.奈良県は業界保護のつもりだろうが,県内の伝統ある素麺製造業を結果的につぶすことになる.農水省もここで引いては困る.断固として他の業者についての調査結果を公表し,もし中小業者で偽装表示に手を染めていない社があるなら,県に楯突いて潔白宣言をするがよい.
 悪質業者を市場から退場させ,自社のシェアを拡大する千載一遇の大チャンスだ.会社の規模が小さくて生産量が少ないなら,希少という付加価値がつく.私が経営者ならそうする.
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 上の文で私は《これでデパート等の進物売場から三輪素麺は姿を消すことになるだろう》と書いたが,これは消費者の正義感を買い被っていたのであった.
 なんのことはない,三輪そうめん山本他の三輪素麺大手は,この産地偽装事件発覚後もずっと中元商品定番の地位を確保したままであったのだ.
 まあ,消費者なんてほんとは品質の良し悪しとか産地偽装なんかどうでもいいのである.贈答品として欲しいのは「三輪」というブランド産地名なのだ.中身が長崎島原産の素麺を「島原」と正直に産地表示されたら,困るのは消費者なのだ.
 しかしそうであっても,そうであるならばせめて私は,悪徳業者三輪そうめん山本の素麺は今後一切購入すまいと決めた.
 しかしそうはいっても,親しいかたから夏の季節に頂戴したものを正義感で捨ててしまうのは人として如何なものかと思い,来るものは拒まずおいしく頂いております.こらこら.

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2016年5月24日 (火)

沖縄の旅 戦争(2)

20160522e

 十三年前の平成十五年,十二月に沖縄旅行をして,帰ってから旅の記録を個人サイト《江分利万作の生活と意見》に掲載した.(その個人サイトは更新を停止した.この同名ブログはその後身である)

 今の若い諸君には想像もできないだろうけれど,十年以上も前は,情報源としてのネットはまだまだ発展途上だった.
 Wikipedia にしてからが「日本の Wikipedia は芸能人情報ばかりだ」などと言われていて,専門的なことは信頼性が低く,欲しい情報を手に入れるには,検索サイトを駆使し,山ほどあるゴミ情報の中から,ある事柄の当事者とか専門家が建てた個人サイトを探し当てる必要があった.
 あの頃,ひめゆり平和祈念資料館の公式サイトはとても内容貧弱で,旅行記を書くのには全然役に立たなかった.
 それが私の沖縄旅行の翌年に館内の展示を大幅に模様替えし,それに合わせてガイドブックを改版し,さらには公式サイトが驚くほどきれいに整備された.隔世の感がある.

 私が十三年前に書いた沖縄旅行記は,書くのに少し努力した思い出があるので,そのうちの沖縄戦に関わる部分を,下の破線 (-----) 間に,読みやすいようにフォントの色を変えて,このブログに転載する.(旅行記全体も,そう遠くない時期にこのブログに収載する予定である)
 再掲載にあたって,旅行記原文中で,「ひめゆり学徒隊」とすべきところを「姫百合学徒隊」と書いていた誤りを訂正した.
 自決した大田司令官の有名な電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ」は,旅行記原文ではあちこちの書籍やウェブ資料にある断片的な記述を寄せ集めて再構成したものであったが,現在は Wikipedia【大田実】にほぼ確からしい全文が掲載されているので,それに差し替えた.
 同様に,牛島満の南京攻略時の有名な命令と,自決前に発して多数の犠牲者を生んだ最後の命令も,現在アクセスできる他のサイトへのリンクを張った.
 また「平和の礎」と「沖縄県平和祈念資料館」へのリンクも,切れていたのを更新した.
 旅行記の終わりに平成十五年時点の「戦没者刻名者数」を記述してあるが,これは「平和の礎」のサイトに毎年更新された数が記載されているので,そのままとした.

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 さあいよいよ今度の旅行も大詰めである.
 私が沖縄を訪れてみたいと思ったのは,まだ一度も来たことがないということもあったが,それよりも三年目を迎えたこのサイトのことがあったからである.
 私はこのサイトを私の自分史にしたいと思っている.今現在のことも書くが,過去の様々なことも記してきた.その昔の事々の中でも,懐かしさを覚えるのは,私が大学生だった頃の思い出である.
 この旅行記の上の方にも書いたが,私の学生時代は沖縄の祖国復帰運動が最高潮に達した時代にあたっている.沖縄返還運動の集会にも行ったし,沖縄の歴史に関する勉強会にも出た.しかし自分が見たこともない遠い土地とそこに暮らす人々に対する理解は,やはり難しかったと言わざるを得ない.
 あれから三十余年.埋もれかかった記憶を掘り起こし,このサイトに少し記しておきたいと私は思ったのだった.

 [ 沖縄南部戦跡へ ]

  沖縄の歴史は,差別の歴史である.かつて十六世紀まで独立王国であった琉球は,慶長十四年(1609年),薩摩藩主島津家久の軍によって征服された.薩摩藩は征服後も琉球の王国体制を温存しつつ,王国の人事権を掌握し,かつ過酷な徴税もした.
 その一方で琉球と中国との密接な関係は維持され,その結果琉球は,従属国として江戸幕府の体制の一部でありながら,対外的には独立国であるという二面性を持つこととなった.すなわち琉球は体制内の異国であった.

 十八世紀半ばの幕末維新期,艦隊を率いて琉球に来航したペリー提督は,武力を背景に開国・通商を迫り,琉球はやむなくアメリカとの間に琉米修好条約 (1854年) を締結した.

 幕府が倒れ明治政府が発足するとただちに琉球の処遇 (廃藩置県) が問題となった.明治政府は王国体制を廃止して琉球藩とし,続いて沖縄県を設置しようとしたが,琉球はこれに抵抗した.また伝統的に琉球と深い関係にある中国 (清朝) も宗主権を主張して抗議したため,政府の対琉球政策は暗礁に乗り上げた.しかし明治十二年(1879年) 三月二十七日,政府は琉球処分官・松田道之を派遣し,松田は三百名の兵士と百六十余名の警官を率いて琉球藩を廃して沖縄県を設置すると国王に通告し,三月末で首里城を明渡すよう命じた.この強引な威圧の前に,琉球国王尚泰はやむなく王宮を明け渡し,ここに四百五十年に及ぶ琉球王国は滅亡した.

 こうして琉球は沖縄県として日本の一部となったが,属国としての沖縄観は長く残った.例えば,琉球処分の直後から明治政府は清国の国内の通商権と引換えに宮古・八重山を割譲するという秘密外交交渉を進めたが,それはこのような沖縄観によるものと考えられる.
 また沖縄県民が形式的に国政に代表を送ったのは,帝国議会が開設されて二十二年目の,ようやく1912年になってからであった.

 明治・大正期の沖縄はサトウキビ以外の換金作物を持たない貧しい農業県であった.県民は高い税金を払うためにサトウキビ作を拡大し,これが自給食糧であるサツマイモや米の栽培を衰退させた.
 この黒糖依存の農業生産構造は,第一次世界大戦後の不景気のために黒糖価格が暴落した時,県民の生活を悲惨の極みに陥れた.いわゆる「ソテツ地獄」である.
 こうして沖縄は経済的疲弊から立ち直ることなく第二次大戦の戦時体制に突入して行くが,この頃作成された沖縄連隊区司令部の報告書「沖縄防備対策」(1934年) には,沖縄社会の性格について以下のように書かれている.(平凡社世界大百科事典「沖縄」項から引用)

(1) 憂いの最大は県民の事大思想である。(2) 依頼心が強く他力本願である。(3) 一般に惰弱の気風がある。(4) 古来任惟の伝統がなく,団結,犠牲の美風に乏しい。(5) 武装の点でほとんど無力である。青年訓練所,在郷軍人においてすら銃器を有せず,有事の際の郷土防衛はきわめて困難。

 このような軍の対沖縄観には,体制内従属国・沖縄に対する偏見と差別意識が露骨に表れていると言える.戦争の激化に従い,沖縄県民に対する政府の差別は方言の使用をスパイ行為とみなす方言撲滅運動など,さらに理不尽なものとなっていった.

 日本軍は昭和十七年(1942年) 六月五日のミッドウェー海戦で四隻の主力空母を撃沈され,太平洋における制海権と制空権を失った.これ以後,ガダルカナル島を含むソロモン諸島周辺で陸海空の大消耗戦が展開され,遂に翌年二月七日,ガダルカナル島を放棄した.
 ソロモン諸島を奪還した連合国軍は大攻勢を開始し,補給線を断たれた南方諸島の日本軍守備隊は相次いで全滅していった.
 九月三十日,大本営は千島,小笠原,西部ニューギニア,インドネシアおよびビルマなどを含む地域を絶対国防圏と指定して死守せんとしたが,昭和十九年(1944)年六月十九~二十日のマリアナ沖海戦での敗北と七月八日のサイパン島陥落で構想は破綻した.
 アメリカ軍は同年十月二十日,フィリピン南部のレイテ島に上陸し,日本の連合艦隊は続くフィリピン沖海戦でほぼ壊滅した.そして艦船を失った日本軍は以後,神風特別攻撃隊をもって絶望的抗戦に打って出た.

 アメリカ軍は,この年十月十日,那覇市など島の人口密集地を空襲して,死者五百四十八人を出した.
 この空襲で,沖縄防衛に任ずる陸軍の第三十二軍直轄の病院であった沖縄陸軍病院は病棟と兵舎を焼かれ,半分近い衛生器材を失い,病院長・陸軍軍医中佐広池文吉は病院を南風原 (はえばる) 国民学校 (現,南風原小学校) へ移転した.

 三月二十三日,南風原国民学校で速成の看護教育を受けていた沖縄県立第一高等女学校および沖縄県女子師範学校の寮生全員と自宅通学生の二百二十二名が「ひめゆり学徒隊」として動員され,教師ら職員十八名も第三十二軍司令部から陸軍臨時嘱託として沖縄陸軍病院勤務を命ぜられ,これにより総勢二百四十余名が沖縄陸軍病院に配置された.
 南風原の病院に集められたひめゆり学徒隊は兵舎で寝起きし,本部指揮班・炊事班・看護班・作業班に編成され,当初は壕掘りと衛生材料の運搬に従事していたが,三月二十九日,兵舎で卒業式を終えたひめゆり学徒隊の女生徒達は三ヶ所の壕に分散して配置された.

 アメリカ軍は,昭和二十年(1945年) 三月十七日に硫黄島守備隊を全滅させると共に,太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥指揮下のバックナー中将が率いる第10軍は,三月下旬から,約千五百隻の艦船と延べ五十四万八千人の兵力で沖縄本島中南部や慶良間諸島に艦砲射撃を行った後,三月二十六日に慶良間諸島の座間味島に,翌二十七日に渡嘉敷島に上陸した.この攻撃で逃げ場を失った二島の村民は集団自決した.
 続いて四月一日には沖縄本島中部嘉手納海岸 (読谷,嘉手納,北谷) に上陸した.日本国内唯一の地上戦闘であった約四ヶ月にわたる沖縄戦の開始である.

 沖縄守備第三十二軍 (司令官牛島満中将) は,第二十四師団,第六十二師団,独立混成第四十四旅団の陸軍八万六千四百人,海軍約一万人,および現地徴集の防衛隊員,学徒隊員約二万人の合計約十二万人で構成されていたが,アメリカ軍戦力の約四分の一以下という圧倒的に劣勢な戦力しかなかった.
 当初,大本営は沖縄を巨大な空母に見立てた航空作戦を方針としていたが,牛島司令官の部下であり実際の戦略策定を指揮していた八原高級参謀は,海岸線でアメリカ軍を迎え撃つのではなく,無数の洞窟がある沖縄の地形を利用した持久戦を主張した.
 八原はアメリカ軍の近代的物量戦略の凄さを甘く見ていたのである.それは後に沖縄県知事となった大田昌秀の著作『これが沖縄戦だ』に記された次の八原の発言に伺うことができる.

敵は予想に反し、ほとんど我が軍の抵抗を受けることなく、このまま上陸を完了するだろう。あまりの易々たる上陸を、さては日本軍の防衛の虚を衝いたのではないかとばかり勘違いして小躍りして喜んでいるのではないか。否、薄気味悪さのあまり、日本軍は嘉手納を取り囲む高地帯に退き、隠れ、わざとアメリカ軍を引き入れ、罠にかける計画ではないかと疑い、おっかなびっくりの状態にあるかもしれぬ

 初め沖縄には北支から転戦した第九師団他の精鋭部隊がいて,八原の持久戦論はそれを根拠にしていた.ところが大本営はフィリピン・レイテ沖の海戦に台湾の部隊を投入し,更にその穴を埋めるために第九師団をを台湾に派遣した.その結果,主戦力を失った八原の作戦は最初から齟齬をきたしていた.

 上陸したアメリカ軍は沖縄本島を南北に分断し,そこから日本軍沖縄守備隊が待ち受ける首里戦線へと南下した.沖縄守備軍の司令官は牛島満中将,参謀総長は長勇中将であったが,この二人は多数の一般中国人を殺害し,略奪・強姦・放火を重ねたとされる南京攻略の指揮官でもあった.

****************************************************
 昭和十二年(1937年)七月七日,日中戦争開始の時に
最初に動員された第六師団第三六旅団は鹿児島四五連隊・
都城二三連隊で編成されていた.その旅団長が牛島満少将
だった.
 その年の十二月十一日夜から十二日の早朝にかけて,
牛島満率いる第二三連隊は南京城西南角直下に取り付き,
第四五連隊は南京城に迫っていた.そこで牛島が発した
有名な攻撃命令は以下の通りであった.
(
読谷村史,『戦時記録 上巻』,「序章 近代日本と戦争 日中戦争」から引用)

 《一、旅団は十二日一六時を期し、第二三連隊をもって南京
 城西南角を奪取せんとす。
 一、古来、勇武をもって誇る薩隅日三州健児の意気を示す
 は、まさにこの時にあり。各員、勇戦奮闘、先頭第一に、
 南京城頭に日章旗をひるがえすべし。
 チェスト行け。
  昭和十二年十二月十二日 一〇時
    旅団長 牛島満


  (註;「チェスト」は薩摩の言葉で,掛け声である)
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 八原らは米軍がある程度南進するまではさしたる反撃はせず,首里戦線に引き寄せてから和田孝助中将率いる砲兵隊の約四百門の重砲で一斉攻撃を開始して反撃に転じ,一挙にアメリカ軍主力部隊を殲滅しようと考えた.
 この日本軍の楽観的な作戦を遙かに上回るアメリカ軍の猛攻を受け,沖縄守備軍は,じりじりと戦力を消耗し,前線で激戦を戦った藤岡中将指揮下の第六十二師団の兵力は半減した.しかしなお,和田中将指揮する第五砲兵隊,後方に控える雨宮中将麾下の第二十四師団,独立混成第四十四旅団の残存部隊,そして大田少将率いる海軍部隊などの兵力は健在であった.

 南風原の陸軍病院には,アメリカ軍の本島上陸後,負傷兵が続々と送られてきた.南風原では手掘りの横穴壕が掘られ,壕には通路と二段ベッドがあった (どのようなものかは『ひめゆり平和祈念館』で再現展示されているのを見ることができる).壕の数や規模から想定すると二千名が収容でき,延べ一万名がここに送られたという.

 沖縄守備軍司令部では,八原高級参謀が最後まで持久戦をとるべきだと主張したのに対し,長参謀総長や若手参謀らは全軍を挙げて総攻撃に出るべしとして意見の対立が生じたが,最終的な幕僚会議における採決の結果,牛島満司令官は五月四日早朝を期して総反撃攻勢に転じることを決断した.

 五月四日午前四時五十分,首里の沖縄守備軍の総攻撃が開始された.
 九州本土の知覧や鹿屋から飛び立った神風特別攻隊機も海上のアメリカ艦船群を攻撃した.この時の日本軍砲兵隊の攻撃の凄まじさは米兵が初めて体験するほどのものだったというが,アメリカ軍はただちに応戦した.攻撃開始と共に防衛線から前に出た守備軍主力部隊は,アメリカ軍の重砲火を浴びて退路を断たれて立ち往生した.
 村上中佐指揮下の戦車第二十七連隊は,アメリカ軍の集中砲火のために進退極まり,大半の兵員が戦車と共に為すすべもなく戦死した.
 守備軍が誇った四百門の巨砲は,アメリカ軍艦載機の攻撃の前にその威力をほとんど発揮することなく破壊し尽くされた.こうして午前八時頃までに沖縄守備軍の攻撃はほぼ鎮圧された.

 五月五日の午後六時,牛島満中将は自室に八原高級参謀を呼んだ.総攻撃の失敗を認めて攻撃中止の決定を告げ,残存兵力と島民とをもって南部に兵を引き,最後の一人まで持久戦を戦い抜くよう指示したとされる.莫大な島民犠牲者を出すことになった作戦が始まったのである.

 アメリカ軍第十軍司令官バックナー中将は,沖縄守備軍の反撃が失敗に終わったのを見届け,全軍に五月十一日を期して総攻撃を開始せよと命令した.
 アメリカ軍の攻撃が開始されたこの日,神風特別攻撃隊百五十機が沖縄海域の米艦船団に体当たり攻撃を敢行し,米機動艦隊旗艦のバンカーヒルに大きな損壊を与えた.僚艦のエンタープライズに司令官旗が移されると,他の特攻機がそのエンタープライズも大破させた.
 しかしアメリカ軍上陸部隊は総攻撃開始後,じりじりと首里司令部に迫った.第六海兵師団主力部隊は多くの損害を出しながら,首里北側の沢岻,大名,石嶺の各高地守備陣を陥落させ,遂に司令部に直撃弾を浴びせ始め,首里の陥落は時間の問題となった.

 五月二十二日夜の首里司令部協議で,三つの案が検討された.守備軍司令部は喜屋武地区へと撤退する,知念半島に撤退する,首里陣地で最後まで徹底抗戦する,の三案である.
 第六十二師団の上野貞臣参謀長は部隊の大部分を首里戦線で失った上,移送困難な何千人もの重傷者がいるので最後まで首里で戦うべきだという意見を述べた.
 第二十四師団の木谷美雄参謀長は喜屋武方面への撤退案を述べた.
 独立混成第四十四旅団の京僧参謀は,喜屋武地区ではなく知念半島方面への撤退案を支持した.
 八原高級参謀は,かねて首里から南下して喜屋武岬方面への撤退を考えており,結局,牛島司令官は守備軍司令部を喜屋武地区に撤退させることを決断した.
 司令部には島田叡沖縄知事も加わっており,島田知事は,軍が首里で玉砕せず南に撤退して住民を道連れにするのは愚策であると憤ったとされる.

 南風原の陸軍病院では,五月二十三日から負傷者と弾薬の後送が開始され,二十五日,南部へ移動を開始して伊原地区の自然壕に移った.南部への撤退に際して,多くの重傷患者が置き去りにされた.

 五月二十四日,首里はアメリカ軍に占領された.後退した守備軍は二十七日夕刻から二十八日にかけて,強制動員した十三歳から六十余歳までの地元男性住民と女子学生看護隊を軍に同行させ,豪雨の降る中で本島南部への撤退を開始した.残存兵力は一説に四万という.
 守備軍首脳陣は小隊に分かれて南下し,第三小隊までは摩文仁方面へ直行し,牛島司令官と八原高級参謀ら五十人の第四小隊と長参謀総長や長野参謀らの第五小隊は津嘉山に移動してそこを一時的戦闘司令部にした後,三十日に摩文仁に撤退した.
 第六十二師団と戦車第二十七連隊も南下を始め,翌日,最前線に位置していた独立混成第四十四旅団司令部と第二十四師団司令部も戦闘司令部に合流するため撤退を開始した.
 五月三十一日,首里陥落.

 守備軍の撤退によって戦場の中に取り残された傷病兵達は,毒薬や手榴弾で自決していった.また迫り来る米軍によって蹂躙されるという恐怖感で恐慌に陥った老人や子供,婦女子ら島民の群れが軍のあとを追って南へ逃げた.
 既に戦闘能力をほとんど失った正規軍に,動員部隊,老人や子供,婦女子が混じり合って敗走する群れは,追撃するアメリカ軍の砲撃の犠牲となった.何千もの死体が雨でぬかるみとなった道に置き去りにされていたという.

 これに遡る五月二十六日,小禄半島にいた大田海軍司令官の部隊約一万人は砲台や機関銃座を爆破し南部へ撤退したが,それを知った守備軍首脳は大田海軍司令官を含む海軍部隊に対して小禄の海軍陣地へと復帰するよう命令した.そして小禄へ戻った海軍部隊はほとんど武器もないままアメリカ軍の攻撃にさらされた.
 六月五日,ようやく守備軍司令部は大田海軍司令官に南部への撤退を促したが,既にその時,海軍部隊は米軍海兵師団によって完全に包囲されており,脱出不可能と知った大田司令官は同日,司令部に電信を送り小禄地区にて最後まで戦うと通告した.
 玉砕を覚悟した大田司令官は翌日,海軍次官宛に沖縄県民の健闘を伝える訣別の電報を送った.(
Wikipedia【大田実】から全文を引用;電文中□は不明字)

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発 沖縄根拠地隊司令官
宛 海軍次官

左ノ電□□次官ニ御通報方取計ヲ得度

沖縄県民ノ実情ニ関シテハ県知事ヨリ報告セラルベキモ県ニハ既ニ通信力ナク三二軍司令部又通信ノ余力ナシト認メラルルニ付本職県知事ノ依頼ヲ受ケタルニ非ザレドモ現状ヲ看過スルニ忍ビズ之ニ代ツテ緊急御通知申上グ

沖縄島ニ敵攻略ヲ開始以来陸海軍方面防衛戦闘ニ専念シ県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ

然レドモ本職ノ知レル範囲ニ於テハ県民ハ青壮年ノ全部ヲ防衛召集ニ捧ゲ残ル老幼婦女子ノミガ相次グ砲爆撃ニ家屋ト家財ノ全部ヲ焼却セラレ僅ニ身ヲ以テ軍ノ作戦ニ差支ナキ場所ノ小防空壕ニ避難尚砲爆撃ノガレ□中風雨ニ曝サレツツ乏シキ生活ニ甘ンジアリタリ

而モ若キ婦人ハ卒先軍ニ身ヲ捧ゲ看護婦烹炊婦ハ元ヨリ砲弾運ビ挺身切込隊スラ申出ルモノアリ

所詮敵来リナバ老人子供ハ殺サルベク婦女子ハ後方ニ運ビ去ラレテ毒牙ニ供セラルベシトテ親子生別レ娘ヲ軍衛門ニ捨ツル親アリ

看護婦ニ至リテハ軍移動ニ際シ衛生兵既ニ出発シ身寄無キ重傷者ヲ助ケテ敢テ真面目ニシテ一時ノ感情ニ馳セラレタルモノトハ思ハレズ

更ニ軍ニ於テ作戦ノ大転換アルヤ夜ノ中ニ遥ニ遠隔地方ノ住居地区ヲ指定セラレ輸送力皆無ノ者黙々トシテ雨中ヲ移動スルアリ

是ヲ要スルニ陸海軍部隊沖縄ニ進駐以来終止一貫勤労奉仕物資節約ヲ強要セラレツツ(一部ハ兎角ノ悪評ナキニシモアラザルモ)只々日本人トシテノ御奉公ノ護ヲ胸ニ抱キツツ遂ニ□□□□与ヘ□コトナクシテ本戦闘ノ末期ト沖縄島ハ実情形□一木一草焦土ト化セン

糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ
沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

****************************************************

 アメリカ第六海兵師団は六月十一日午前七時三十分を期して戦車部隊を先頭に総攻撃を開始した.
 その晩,大田司令官は牛島守備軍司令官に宛てて「敵戦車群ハワガ司令部洞窟を攻撃中ナリ。海軍根拠地隊ハ今十一日二三三〇玉砕ス。従前ノ交誼ヲ謝シ貴軍ノ健闘ヲ祈ル」と打電し,翌日,大田少将以下の海軍部隊首脳は自決した.

 多くの民間人犠牲者を出しながら喜屋武岬から摩文仁岳一帯に逃げ込んだ守備軍を,海上を覆い尽くした艦船群からの砲撃が襲い,航空機による銃爆撃と陸上からアメリカ戦車部隊と地上軍が守備軍に迫った.

 アメリカ軍司令官バックナー中将は,沖縄出身の一世や二世兵士のうち沖縄弁の得意な者にハンドスピーカーを渡し,洞内や壕内に潜む人々に投降を呼びかけた.また大量の降伏勧告ビラを撒いた.
 六月十日以降,バックナー中将は三度にわたり牛島満中将宛に降伏勧告状を送ったが,牛島司令官はこれを無視した.

 六月十七日,第六十二師団が摩文仁北方で激戦を繰り広げたが,これが最後の組織的戦闘であった.同日,米軍は国吉~与座岳~真栄平~仲座の陣地線を突破.
 この日,現在『ひめゆり平和祈念資料館』の南にあった陸軍病院第一外科壕に米軍機の直撃弾が命中し,多数の看護婦や学徒が即死した.

 六月十八日の午後一時頃,戦況の視察と部隊を督励するために第二海兵師団第八連隊の前線監視所 (旧高嶺村真栄里) に出向いたバックナー中将は,守備軍側の狙撃兵の放った銃弾が胸に命中して戦死した.またこの日,沖縄県知事島田叡が,摩文仁の丘のどこかで倒れ,消息を絶った.

 同日,守備軍司令部は突然,一切の責任を放棄して,軍病院とひめゆり学徒隊に解散を命令した.それまで重傷者で阿鼻叫喚の有様の中,水汲み,傷病兵の排泄の世話,死体の処理などの過酷な任務を負わされていた少女達は戦場に孤立した.
 翌十九日,ひめゆり学徒隊の生き残りは第三外科壕 (現在「ひめゆりの塔」がある場所) に集合した.
 アメリカ軍は壕を攻撃する前に中の者に壕外に出てくるよう説得工作を試みたが,当時十四,五歳の少女達は捕虜になると米兵に暴行されて殺されるという守備軍の宣伝を信じて最後まで壕の奥に立てこもり続けた.
 アメリカ軍の最終的攻撃の直前に水汲みに壕外に出た三人と,攻撃後奇跡的に助かった二人の計五人を除く多数の女子生徒と教師ら非戦闘員四十六人がガス弾によって非業の死を遂げた.ここを生き延びた者は荒崎海岸に逃げたが多数が砲撃で死亡し,あるいは自決した.
 戦後の調査によれば,何らの法的根拠もなく動員されてから解散命令を受けるまでの九十日間のひめゆり学徒隊死者は二十一名であるが,全犠牲者百九十四名のうち,解散命令後の死者は百二十八名であった.
 生存者の証言によれば,第三外科壕の中で女学生達は白衣を制服に着替え,別れにそれぞれの校歌を歌いながら死を迎えたという.

 一方,摩文仁の断崖にある洞窟では,八原高級参謀が牛島司令官と長参謀総長の自決の段取りを進めていた.
 残存守備軍将兵を総動員して摩文仁岳山頂から麓にかけて展開しているアメリカ軍に一斉突撃を行い,その間に牛島司令官と長参謀総長に丘の上で自決してもらうという筋書きであったという.
 しかし摩文仁岳山頂の奪回は失敗し,牛島と長の二人は洞窟入口付近で相次いで自決した.自決の数日前に牛島司令官が発した最後の命令は,

全将兵の三ヶ月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは、同慶の至りなり。然れども、今や刀折れ矢尽き、軍の命旦夕に迫る。すでに部隊間の連絡途絶せんとし、軍司令官の指揮困難となれり。爾後各部隊は局地における生存者の上級者これを指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし》 (《沖縄戦を考える 》から引用)

であった.

 全島民三分の一に相当する十五万人を死なせた地獄のごとき作戦を立案主導してきた八原高級参謀みずからは「最後まで敢闘し悠久の大義に生」きることなく,牛島の自決を見届けると,壕を出て投降した.

 六月二十日  牛島司令官,陸軍大将に昇進
   二十二日 大本営,沖縄での組織的戦闘の終了発表
        米軍,第10軍本部で沖縄島占領式典
   二十三日 牛島司令官,長参謀長,摩文仁で自決
   二十六日 米軍,久米島上陸
 七月二日   米軍,沖縄作戦終結宣言
 八月六日   米軍,広島に原爆投下
   九日   米軍,長崎に原爆投下
   十五日  天皇,終戦詔書ラジオ放送
 九月二日   日本政府,米艦ミズリー号上で降伏文書に調印

 牛島司令官の自決後も多くの兵や住民が,あたかも牛島の最後の命令に呪縛されたように二,三ヶ月も死線をさ迷った後,九月七日,日本軍残存部隊は嘉手納の米第10軍司令部で降伏文書に調印し,沖縄戦は終結した.

(以上の部分を書きまとめるにあたっては,手元の資料の他,ウェブを「沖縄戦」や「ひめゆり」などのキーワードで検索してヒットする多数のサイトの記述を参照させて頂いた.ここで逐一URLを挙げないが,深く感謝申し上げる)

 おきなわワールドを出て私達は,そこからわずかな距離にある平和祈念公園へ向かった.公園のある一帯が摩文仁の丘である.

200312

 バスを降りて駐車場から歩いて行くと左手に平和祈念塔が望まれる.

200312_4

 さらに海に向かって行くと,案内図 (上の画像) の上方,扇形のように見える所に沖縄戦死者の名を刻んだ石碑がある.これが沖縄戦の終結五十周年を記念して建設された『平和の礎 (いしじ)』である.

200312_2

 この『平和の礎』については沖縄県庁のサイトのトップページから《平和》のリンク先にある《平和の礎 》をたどって詳細を知ることができる.
 その他に資料として次の二つのサイトを挙げる. 
  沖縄県営平和祈念公園 平和の礎
  沖縄県平和祈念資料館

200312_3

 『平和の礎』は,海岸へ向かう通路の左側に沖縄県県民,右側に他県出身者,そのさらに右に外国人の石碑が並んでいる.
 沖縄県は,『平和の礎』に刻銘される対象者は国籍を問わず沖縄戦で亡くなったすべての人々とするとしている.従って沖縄守備軍司令官・牛島満の名も,鹿児島県出身者のところにある.
 公園内にあるパネルに,この『平和の礎』に刻まれた沖縄戦死者の数が記載されていた.平成十五年六月二十三日現在で以下の通りである.
  日本
    沖縄県         148,446
    県外           75,457
  外国
    米国   14,008
    英国     82
    台湾     28
    朝鮮民主主義人民共和国    82
    大韓民国          326

  合計            238,429

 平和祈念公園の海に面した広場には円錐状の小さなモニュメントが置かれ,その先に私達を案内したガイドさんは,向こうに見える断崖を指さした.

Suiside_cliff200312

 その断崖は,希望を失った多くの島民が身を投げたところだという.その光景を目撃したアメリカ軍の兵士達は,崖を“Suicide Cliff”と呼んだ.
 私達一行は『平和の礎』でそれぞれに黙祷し,バスに戻った.

 次にバスは『ひめゆりの塔』へ向かった.
 『ひめゆりの塔』は漠然と思っていたのよりもずっと小さな石の碑であった.そして塔の横にはひめゆり学徒隊員の名を刻んだ納骨堂と,少女達が死を迎えた壕の入り口があった.

200312_5

 ガイドさんは「ここはひめゆり部隊の鎮魂の場所ですから,大きな声での説明は致しません」と言って,静かに昭和二十年六月の悲劇について語った.そして『ひめゆりの塔』という小さな鎮魂碑をここに置いたのは,一人の学徒隊員の父親であることを私は初めて知った.

『ひめゆりの塔』の周りで黙祷を捧げる人々の真摯な様子に,塔そのものにレンズを向けるのは不謹慎のように思われ,塔の後ろにある少女らの名が刻まれた石碑を,遠くから望むだけにとどめた.

 ここで黙祷した後,それから一行は『ひめゆりの塔』の脇を通ってその奥にある『ひめゆり平和記念資料館』を見学した.

200312b

 資料館の展示室に掲げられたパネルの文章と遺品の数々は,沖縄守備軍によって戦場に棄てられたに等しい学徒隊犠牲者の鎮魂と,軍の無責任に対する怒りを,圧倒的な迫力で見学者に訴えかけているようだった.

 この『ひめゆり平和記念資料館』のサイト (下記の URL) はあるが,残念ながら資料館に収蔵された展示物の詳細を知ることはできない.学徒隊の悲劇を知るにはこの資料館に来て欲しいということであれば,それも見識であるかと思う.
 五つの展示室について資料館のサイトにある紹介を抜粋要約すれば以下の通りである.

第一展示室/沖縄戦前夜
「沖縄への皇民化政策」「皇民化教育と師範学校」そして敗退を重ねる十五年戦争の状況下に,学校が急速に軍事化され,職員や生徒達が戦場へ動員されていくまでの様子を描いている.また「捨て石」とされた沖縄戦の意味を太平洋戦争の経過の中で解説する.

第二展示室/南風原陸軍病院
 南風原陸軍病院壕内部の状況が展示され,南風原の地形模型,米軍上陸後首里陥落までの戦況地図,写真,現物資料が展示され,沖縄戦の中の姫百合学徒隊の献身を描いている.

第三展示室/南部撤退
 南部撤退の状況を南風原陸軍病院とその分室の撤退図とジオラマで展示している.

第四展示室/鎮魂
 広い壁三面に二百余名の犠牲者の遺影とそれぞれの犠牲状況を記載したパネルが並んでいる.展示室中央には生き残りの生徒たちの証言の本二十九冊が展示されている.また『ひめゆりの塔』の前にある第三外科壕が実物大に複製されている.

第五展示室/回想
 この部屋は見学者がこれまでの展示を回想し,感想文を寄せるために設けられている.

特別展示室/ひめゆりの青春
 ここには当時の学園生活の資料が展示されている.

 

 『ひめゆり平和記念資料館』からツアー解散の那覇空港へ戻る途中で,ガイドさんがひめゆり学徒隊員達の校歌を歌ってくれた.彼女が歌い終わると,自然に車内に拍手が湧いた.
 この三日間,彼女は沖縄の基地問題や環境破壊のことについて,そして沖縄戦の悲劇について私の知らなかったことを幾つも教えてくれた.目取真さんという,いかにも沖縄っ子らしい名のそのガイドさんに深く感謝して,この旅行記を終える.

【補遺】
 昨年暮れ,この一文を書いている時のノートとして『雑事雑感』に三つの記事を掲載した.
2003年12月23日 沖縄旅行ノート(1)

2003年12月23日 沖縄旅行ノート(2)

2003年12月29日 沖縄旅行ノート(3)

 また関連記事として1月5日に次のことを書いた.

2004年1月5日 毅然ということ

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2016年5月23日 (月)

沖縄の旅 戦争(1)

20160522a

 自称リベラルの評論家宮崎哲弥が週刊文春にコラムを連載して久しい.
 この評論家は,評論家の常として自分の立ち位置を少しずつ調整変更しながら現在に至るが,戦争というものに対する見解は大きくは変えていない.
 その宮崎哲弥が週刊文春のゴールデンウイーク特大号 (5/5,12号) に掲載された《時々砲弾 連載204》の中で,彼の戦争観を再論している.

 宮崎の戦争観の基礎は「正戦論」である.
 正戦論とは,戦争には「正しい戦争」と「正しくない戦争」があるとする論理であるが,論者により意味するところに幅がある.
 宮崎の正戦論がどのようなものであるかについて,私は十三年前の春に短い記事を自分の個人サイトに載せた.その記事の十日前にイラク戦争が勃発し,戦闘開始直後に陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんなど五名の捕虜がイラクに捕らえられたのであるが,私の記事は,イラク戦争開始と同時に書かれた宮崎哲弥のコラムに異議を唱えたものである.下の破線 (-----) 間に,フォントの色を変えて転載する.
(原文は,このブログと同名の,既に更新を停止した個人サイト《江分利万作の生活と意見》のコンテンツ《雑事雑感》に掲載したものだが,近く@ニフティの個人サイトサービスが終了となるため,ココログの同じ日付に移植してある.またこの連載で既に書いたように,この年に私は初めて沖縄を訪れた)

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2003年3月31日
あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに

 先週発売の週刊文春4月3日号『宮崎哲弥の新世紀教養講座』のサブタイトルは「イラク戦争を読み破る〈1〉倫理的に正しい戦争の条件」である.ここで宮崎氏は 加藤尚武『戦争倫理学』(ちくま新書)を引用して次のように書いている.《》に直接引用する.

戦争観には三つの種類がある。
(A) 正しい戦争と不正な戦争が分別可能とする正戦論。
(B) 国家主権の発動たる戦争に正も不正もないとする無差別戦争観。
(C) すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義。
 加藤は「9.11」以降、世界は(B)の無差別戦争主義に流されつつあると嘆く。国連憲章違反の疑いが濃厚な、新決議なしのイラク戦争はその現実的帰結といえよう。
 この状況に歯止めを掛けるのは、(C) の絶対平和主義ではない。それは理念としては正しいが現実的妥当性がない。(A)の正戦論こそが戦争抑止の決め手として期待できる。そうである以上、倫理的に正しい戦争はあり得る、といわねばならない。
 正戦の条件は大雑把にいって二点。(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か、それに準じるものであること、(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること、である。


 三つの戦争観を挙げて正しい戦争の条件を示した部分は『戦争倫理学』に拠っているのだが,文脈から判断すると宮崎哲弥氏はこれに同意している.
 どうもおかしい.ヘンである.例えば,明白な自衛戦争であり,かつ相手の戦闘員に限定した攻撃であれば,どんな残虐な殺し方をしてもいいのか(殺すことはすべて残虐であるという立場に私は立つ者であるが,それはさておき,宮崎氏の議論の流れに沿ってそう書く).生物兵器や化学兵器を使用しても構わないのか (技術的には可能だろう).それを正しいと認めるのか.
 加藤尚武,宮崎哲弥の両氏の議論がヘンなのは,やむを得ず必要悪として許されることに「正」の字をあてていることである.絶対平和主義に現実的妥当性があるかどうかは見解の相違があるだろうから,仮に絶対平和主義は現実的でないとしよう.それでもそれは「倫理的な殺し合い」を認める根拠にはならないと私は思う.必要不必要ということと,倫理的であるか否かは別次元のことである.


 イラク側が捕虜米兵の映像を公開した.許されざることである.捕らえられた五人の兵士の一人に黒人女性の陸軍炊事兵ショシャーナ・ジョンソンさんがいる.放送されたテレビ映像で,ショシャーナさんは負傷しており,年齢を答えるのがようやくなほどに怯えていた.読売新聞《Yomiuri Online 3/27 01:10》によると,ショシャーナさんは二歳の娘を育てるシングルマザーで,家族のために料理を作ることと娘の世話が何よりの楽しみだったという.叔母のマーガレット・ヘンダーソンさんは「あの娘はご飯を作りにいったはずだったのに」と語っている.
 イラク戦争はアメリカによる侵略戦争である.国内政治的に極悪非道のフセイン政権であるが,彼らは今,自衛戦争を戦っている.
 非戦闘員を殺戮しているのはむしろアメリカ軍の方である.しかし,ならばイラクの戦いは正義か.
 想像したくないが,ショシャーナさんは処刑されるかも知れない.ご飯を作りにいっただけの女性が殺されるかも知れない.それが戦争の非倫理性なのだ.

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(〈上記の文章に関する註〉 ニューヨーク通信によれば,ショシャーナさんは生還してこの年の N.Y. 市の大晦日イベントにゲストとして招かれたとある)

 宮崎哲弥の言う正戦の条件は次の二点である.
(1) 急迫不正の侵略行為に対する自衛戦争か,それに準じるものであること
(2) 非戦闘員の殺傷を避けるか、最小限度に留めること

 上の二条件が満たされていれば,宮崎はその戦争「正しい戦争」と呼ぶ.
 その観点で先の戦争 (アジア・太平洋戦争) を見てみよう.
 まず条件 (1) は,極めて恣意的な判定が可能な条件であるといえる.
 なぜなら,敗戦まで日本政府は大東亜戦争を自衛戦争でありアジア解放戦争であるとしていたが,敗戦後は村山談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって 平成7年8月15日」と小泉談話「内閣総理大臣談話 平成十七年八月十五日」により,先の戦争は侵略戦争であったとする政府公式見解を明確にした.
 しかし昨年,終戦の日前日に安倍晋三は「安倍内閣総理大臣談話」を発表し,その文中で,先の戦争は侵略戦争であったとする従前の政府見解を覆し,同時に外務省のサイトから村山談話と小泉談話の痕跡を消し去った.
 つまり,ある戦争が自衛戦争であるか侵略戦争であるかなどということは,どうにでもなる空論なのである.

 次に条件 (2) はどうか.
 広島と長崎への原爆投下は非戦闘員を無差別殺戮したものであるが,原爆投下を正当化する論者は,戦後ずっと,あれは日本本土全体が焦土と化すのを避けるためであったとしてきた.これは,原爆投下は非戦闘員の殺傷を最小限度に留めるためのものであったとする正戦論に他ならない.
 視点をミクロに,先の戦争の局地戦としての沖縄戦,その最終段階における,ひめゆり学徒隊の伊原第三外科壕の悲劇を見てみよう.
 生徒らや引率教師らが潜む壕に,米兵は投降を呼びかける.

この壕に住民はいないか。兵隊はいないか。いたら出て来い。出ないと爆破するぞ。いいか》 (ガイドブック『ひめゆり平和祈念資料館』p.102 から引用)

 恐怖におののく少女たちは出て行かない.そしてガス弾が打ち込まれる.
 宮崎哲弥の正戦論によれば,殺傷を最小限度に留めるために非戦闘員への投降が呼びかけられているから,これは「正しい戦争」の行い方に則っている.その結果,

壕にいた96名 (うち教師5名・生徒46名) のうち、87名が死亡した。さらに壕の生存者8名のうち教師1名(玉代勢秀文)と生徒2名(仲田ヨシ、又吉キヨ)は壕脱出後に銃撃され死亡したとみられる。》 (Wikipedia【ひめゆりの塔】から引用)

 だがしかし私は,私以外の多くの戦中戦後世代の人々と同じく,伊原第三外科壕における殺戮を「正しい」とは認めない.「非戦闘員の殺傷を避けるか最小限度に留めること」などという屁理屈はどうでもよい.認めるなと私の良心が命ずるのだ.

 したり顔に正戦論を説く自称リベラルの宮崎哲弥は,その正戦論に基づいて沖縄戦を,ひめゆり学徒隊の悲劇を,評論してみせるがよい.もし恥を知らぬのであれば,生き残ったひめゆり学徒に向かって「倫理的に正しい殺戮はあり得る」と語るがいい.

 かつてフセインの戦いを倫理的に正しい戦争であると言った宮崎哲弥のごとき鈍摩した感性の持ち主に,私たちがならぬためには,宮崎がどう言おうと,《すべての戦争が不正であるとする絶対平和主義》に立たねばならない.それが,亡くなったひめゆり学徒の遺言であり,生き残った学徒たちが戦後を生きた志であると信ずる.

20160520c
『ひめゆり平和祈念資料館』 (ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック)
『生き残ったひめゆり学徒たち ― 収容所から帰郷へ ―』(ひめゆり平和祈念資料館編)

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2015年3月23日 (月)

服飾の先生の食事不作法

 週刊文春には,大和ハウス工業の樋口武男会長が著名人と対談するという企画の広告記事が連載されていて,三月二十六日号は料理研究家の土井善晴さんが対談相手であった.
 その記事の中で土井さんは次のように語っている.

グローバル化や何やいうても、やはり日本人はきちんとした日本語を話すこと、食にしてもお箸を正しく、お茶碗を持って食べることとか、あたりまえのことは伝えていかなあかんと思っています。

 土井善晴さんは,家庭料理研究家として著名であった土井勝先生の次男であるが,土井勝先生は,子息の土井善晴さんが語っているまさにその通りに,たいへんに丁寧で上品な日本語を話す人であった.

 さてその土井勝先生の薫陶を受けた土井善晴さんは,TBS系列津のテレビ番組『プレバト!!』にレギュラー出演している.
 この番組は,芸能人が生け花や料理の腕前,あるいは俳句の才能を競うという企画でなかなか楽しい.
 私は岡江久美子さんのファンなので,彼女が出演する回は,テレビ画面に釘付けだ.

 それはともかく,この番組で土井善晴さんは,女優さんたちの料理の盛り付けを採点評価しているのだが,料理ジャンルでは盛り付けの他に,蕎麦打ちの腕前とか出汁の採りかたの上手下手がある.
 採点者は,蕎麦打ちは東京にある「神田まつや」の店主・小高孝之さん,出汁の採りかたは京都の料理屋さんでミシュラン二つ星の「祇をん佐々木」の店主・佐々木浩さんである.

 ところがまことに残念なことに,テレビに映る佐々木浩さんの箸の持ちかたが大変に下手である.
 あるブログに佐々木さんの写真が掲載 (記事の中頃あたり) されているが,これを見るとわかるように,二本の箸が平行になってしまっている.一膳の箸の片方は親指の付け根と薬指とで固定し,もう片方は親指,人差し指,中指の爪先で保持して自由に動かせるようにするのが正しい箸の持ち方であるが,あろうことか佐々木さんの親指の爪先は人差し指の中ほどの位置にある.これでは箸先で小さなものをつまむことはできないのであり,その帰結として,料理の盛り付けは不得意なんだろうなということがわかる.
(2015年12月12日の追記;上のセンテンスのリンクが切れているが,同じ画像が他のサイトにあったので再掲する.最初にリンクを示したブログの画像はこのサイトからの無断掲載だったのかも知れない.)
 それでも佐々木浩さんの箸の持ちかたはまだ良いほうで,蕎麦屋の小高孝之さんの箸の持ちかたに至っては幼児以下,もうまるでデタラメである.これではせっかくの蕎麦を粋にたぐることは不可能である.テレビに出ないほうがよろしいというレベルだ.

 などとけなしてみたが,お二人とも料理や蕎麦打ちの才能は超一流なのであるからして,つまるところ,食べ物を作る才能と箸の持ちかたの上手下手は別のことであるということだ.すなわちこのお二人が食事作法について云々しない限りは全く支障はない.

 さて話は『プレバト』から離れる.
 昨日,服飾評論家の市田ひろみさんが,専門外のことなのに『市田ひろみ 恥をかかない和食の作法』(家の光協会) という本を出しているのを見つけた.
 市田さんについては,かなり前に私が書いたものがあるので,以下に再掲する.

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2006年3月14日
和装師


 先々週号の週刊文春を読んでいたら,途中に株式会社『点天』という会社のPRページがあった.カラー見開き2ページで,「ひとくち餃子」の宣伝をしている.うまそうである.
 それはいいのだが,このページに日本和装師会会長の市田ひろみさんが,そのスタッフお二人と餃子をおかずにご飯を食べている写真が掲載されていて,その三人の箸の持ち方が幼児のようなやり方なので驚いた.
 箸の持ち方は,正しくは親指,人差し指,中指の指先が接近しているのであるが,お三方は揃いも揃って親指の指先が人差し指の中程の位置にきている.箸には親指の関節が触れている格好で,従って親指は箸と直角となっている.こういう持ち方をする人の特徴として,人差し指と中指がすっとのびていないで,手のひら側に曲がっている.こういう持ち方の極端な形が「握り箸」である.

 株式会社点天は,このページの撮影が行われるまで,こともあろうに和装の権威である市田さんがまさか箸もきちんと持てない人だとは知らなかったのであろう.もしそうなら同情するが,次回のPRページにもそういう人が登場したら食品企業としての見識を問われると思うぞ.
 市田ひろみさんという方は,自分の箸の持ち方が握り箸だということに気づいていらっしゃらないのだろう.この歳くらいの人にも箸がちゃんと持てない人はいくらもいるが,普通はそれを自覚しているのであって,市田さんのように堂々とものを食っている様子の宣伝グラビア写真におさまったりはしないと思う.おまけに先生が先生なら弟子も弟子なので,私は腰から脱力した.
 彼女はかつてサントリー緑茶のテレビCMで評判になり,「日本の伝統美を守る女性」の一人として世間には認知されているはずであるが,それが握り箸.着付けの腕前はどうなのであろうか.
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 自分の握り箸を矯正できない人が偉そうに『市田ひろみ 恥をかかない和食の作法』を書くとは,悪い冗談としか思えない.市田さんには『プレバト』に出演してもらって,その握り箸を土井善晴さんのご覧に入れ,嘆いてもらいたいものだ.

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2014年10月18日 (土)

屋台のDNA (七)

 本題を離れて昨日の余談の続きを.

 昨日の(註*)で,かつて上野駅構内の連絡通路にあった蕎麦屋のことを書いたが,ちょうど十二年前にも,閉館した個人サイト『江分利万作の生活と意見』にこの蕎麦屋のことを少し書いたのを思い出した.下に再掲する.

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2002年10月13日
上野駅

 かつて,集団就職というものがあった.始まりは1954年,東京都等の斡旋で世田谷の桜新町商店会の求人に,地方から中卒者が集団で上京したことだという.これが最も盛んだったのは1964年で,全国各地から東京,大阪などの中小企業の工員,店員として78,407人が就職した.そしてこの人々を運んだ臨時便の集団就職専用列車は3000本もあった.
 私の中学生時代はこの集団就職の最盛期にあたっていて,私の中学三年のクラスではS君という人が東京に就職していった.たしか卒業式の前に上京することになっていて,休みの日の学校の校庭で,担任の先生がみんなに呼びかけてS君を送り出す会が行われたと覚えている.会にはお母さんも見えられて,S君は,がんばります,と挨拶した.それから同級生全員で国鉄の駅に見送りに行った.

 集団就職は東京だけのことではなかったのだが,これを象徴するものといえば,やはり上野駅に到着する列車だろう.今はもう廃止されて線路も撤去された旧18番線ホームである.この18番線ホームに,井沢八郎のヒット曲「あゝ上野駅」の歌碑が建てられることになったと読売新聞が伝えている.上野駅が開業 120周年の来年7月に除幕する.読売の記事で知ったのだが,井沢八郎ももう六十五歳なのだなあ.除幕式では歌碑の前で「あゝ上野駅」を歌うことになるだろう.

 「あゝ上野駅」もそうだが,青木光一や三橋三智也などの歌謡曲にも東北地方と上野駅を結ぶ夜行列車をイメージさせるものがあったように思う.私の生まれ育ちは北関東だから,高校生時代に模擬試験に出かける時とか東京に行く用事のある時には,夜行列車ではなく朝一番の電車に乗った.当時の上野駅は時代と共に増設されたホームが無秩序に分散していて,乗り換えや出口に向かうのに連絡通路の階段を昇ったり降りたりしなければならなかった.天井が低くてコンクリート打ちっぱなしのその連絡通路には蕎麦屋があった.
 この蕎麦屋は,雑誌などで上野駅の思い出が語られる際によく登場する店で,今でも覚えている人は多いだろう.それも,もうない.

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 Wikipedia【集団就職】は次のように書いている.
教育学的要因の進学率の問題では、昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた。高校進学相応の学力を有していても、家庭の事情や経済的な理由で進学を諦めることも多かった時代であった。また学力の問題だけでなく、当時は兄弟数や子供数が多い農家や貧困家庭が多かった。

 私が高校に進学したのは昭和四十年であるが,この年を境に急速に集団就職は行われなくなった.中卒就職者が激減したためである.
 従って上記の引用部《昭和30年代~昭和40年代(当時)では、中卒者の高校進学率は半数程度であり、「義務教育卒業ですぐ就職することが当たり前」の社会であって、「高校・大学は中流階層の通う上級学校」とみなされていた》には誤りがある.それは昭和三十年代のことである.
 例えば昭和四十年当時の群馬県前橋市の公立中学校,私の母校の例では,中卒就職者はクラスに一人いるかいないかといった数であった.日教組は「十五の春は泣かせない」(オリジナルは京都府知事だった蜷川虎三が掲げたもの) というスローガンをほぼ達成しつつあり,高校進学率はほぼ全入に近く,その三年後に高校から大学への進学率は,全体の30%程度であった.私の母校の県立高校では,大学進学率は70%を超えていたと記憶している.
 昭和三十年代に中卒就職者は「金の卵」と呼ばれた.それは求人倍率が三倍を超える状態を指していたのであるが,昭和四十年代には中卒就職者が激減したために,別の意味で「金の卵」と呼ばれるようになった.

 上に《日教組は「十五の春は泣かせない」(オリジナルは京都府知事だった蜷川虎三が掲げたもの) というスローガンをほぼ達成》と書いたが,しかしこれは日教組が勝ち取ったものではなかった.高校の事実上の義務教育化と大学教育のインフレ化は政府の方針であったのである.それは,産業界が教育水準の高い労働者を求めていたことによる.
 その結果,昭和四十一年から四十三年にかけて,地方から東京へ集団就職者ならぬ集団進学者が大量に流入した.その受け皿は日大を始めとする私学であった.

 この頃,日本社会党左派の影響下にあった日本社会主義青年同盟 (社青同) というマイナーな学生運動組織が大学を「教育工場」と位置づけていたが,まさにその通りであった.私たちはベルトコンベアに乗せられて簡単な加工をされ,産業界に歯車として送り出されていくのだが,その教育工場で最大なのが日大であり,こうした大学の教育工場化を背景に,今はもう忘れ去られたあの「日大闘争」が起きたのである.

 当時の報道映像だが,日大の学生デモの中に昭和四十三年に日大に入学したテリー伊藤の姿がある.
 テリー伊藤の生家は築地場外で商売をしていたが,そのすぐ隣に吉野家があった.テリー伊藤が高校生の頃の吉野家は個人商店にすぎなかったが,彼が日大に進学した昭和四十三年に吉野家は,牛丼屋の企業化を目指してチェーン展開を開始し,築地に続く二号店を新橋駅前に開店した.
 またこの頃,東京では国鉄の駅周辺に立食い蕎麦屋が激増した.東京における牛丼チェーンの進撃開始と立食い蕎麦屋の林立.これが教育工場から送り出された大量の薄給サラリーマンの胃袋を満たしていくことになったのである.あとから振り返ると実によくできているので感心する.
 こういうヨタ話をして,本題に戻る.

(続く)

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2014年8月28日 (木)

貧乏物語 (補遺)

 昨日の記事「貧乏物語」の末尾の註に,若くして亡くなったが新潮社の編集者であった王子博夫君のことを書いた.王子君のことを書いたきっかけは,一昨日,Wikipedia【松本清張】に彼の名前が書かれていることを発見したからである.
 王子君との交遊については,ブログ開始前に個人サイト『江分利万作の生活と意見』(右サイドバーにリンクあり) をやっていたとき何度も書いた.
 そのうちの一つを再掲載する.ただし,今見直して著作権的に適法かどうか明らかでないところは修正した.また以下の文中で「O君」とあるのが王子君のことである.

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2002年4月23日
高円寺駅南口青春賦・さらば青春編

 高円寺の私のアパートは古い木造で玄関に三和土があり,そこで靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋まで行くという造作だった.
 そして私以外の全員が半同棲状態と思われ,玄関を入って上がったところの床には女物のスリッパがたくさんあった.他の部屋の前を通りかかる時に,楽しそうな女の笑い声が聞こえることもあった.
 私自身はその頃彼女などいなかったし,また欲しいとも思わず,たまには女子学生と映画やコンサートに出かける事はあったものの,休みの日はほとんど部屋で読書に明け暮れていた.だがそんな生活が淋しくないわけではなかった.

 その年の夏休みは二,三日しか帰省しなかった.私は既に就職が内々定しており,その会社から研究所でアルバイトをしてみないかと言われていたので,家庭教師の方の休みをもらった期間はそちらのバイトをしたのである.
 夏休みが終わって学校の講義や卒業実験が再開したある日,夜遅くアパートに戻ってくると,扉に電報が貼り付けてあった.それは田舎の父からで,母親が危篤だという知らせだった.
 翌朝,財布だけ持って私は上野駅に急いだ.
 郷里の駅で下車し,実家に着いてみると鍵がかかっていて,誰もいないようだった.親しくしていた隣家を訪ねると,伝言の書いてある一枚の紙を渡してくれた.父から聞いていなかったのだが,母は市立病院からやはり市内にある大学病院に転院していたようで,そこにすぐ向かうようにと書かれていた.大学病院への道筋がよく分からないので,いったん駅に戻り,そこからタクシーに乗った.
 大学病院の受付で母の病室のある棟を教えてもらい,病室に入ると父と姉がベッドの脇に立っていた.私も静かに二人の横に立った.
医師は何も語ろうとはせず時々脈をはかり,父も姉も私も,無言のまま長い時間が経過した.
 夏に帰宅した折りに姉から,母の病状が思わしくないことは知らされていた.だがこんなに早く死期が迫るとは思ってもいなかった.
 そんなことをぼんやりと考えながら,ふと気が付くと医師が看護婦に何か言い,注射の用意をさせていた.彼は,私が見たこともないくらい長い針を注射器に装着し,それを母の心臓の辺りに深々と,ゆっくりと刺し込んだ.それから心臓マッサージを始めた.随分と長時間,それを続けたように思えたのだが,実際はどれほどの時間だったのだろう.やがてマッサージを止め,医師は父に母の臨終と死亡時刻を告げた.
 人の記憶というのは頼りにならないものだ.三十年以上も経つと細部は曖昧になってしまっているが,葬儀の日がとても暑かった事は今も覚えている.

 秋が来た.ある日,近くのスーパーへ食料を買い出しに行くと,その外で男が何やら売っていた.男の前には箱が置いてあり,その中で人の親指ほどの小さなものがたくさんゴソゴソと動いていた.
 男の後ろの壁に貼ってある紙片を読むと,それはハムスターというものらしかった.
 たしか一匹二百円ではなかったか.茶色と,白茶ブチのがいて,私がブチのを一匹くれと言うと男はそいつをボール紙の箱に入れてくれた.ネズミみたいなもんだから囓られないようなものに入れて飼うようにと教えてくれた.部屋に戻り,何か適当なものはないかと探したが,結局小さいポリバケツで飼うことにした.
 そいつはヒマワリの種を好んだが,雑食で野菜等も食い,そしてみるみる大きくなった.よく分からないが,たぶん雌のようだった.
 どうも夜行性のようで,私の相棒に格好の生き物だった.私の部屋にはほとんど家具らしいものがなかったから,ポリバケツから出し,そこら辺で遊ばせておいても,何処かに潜りこんで行方不明になることはなかった.そして私が布団に腹這いになって本を読んでいる時など,稲荷寿司ほどの大きさの彼女が視界の端で身繕いなどしていると妙に心和むようで,こうして私と彼女の同棲が始まった.

 ところでN君の下宿には,私と同じ大学のO君という人がいた.
 私とN君とO君の三人はよく連れだって酒をのんだ.部屋で飲み,居酒屋で飲み,少し金のある時には当時「コンパ」と呼ばれていたパブにも行った.
 私がハムスターと一緒に暮らし始めた頃だと思うが,その三人で高円寺南口商店街の通りから少し入ったところにあるスナックバーに行くようになった.そこのマスターは学生のバイトで,私達より年上だったが四年生のまま留年しており,同学年なので気が合ったからである.彼は廃校になることが決まっていた東京教育大の学生だった.
 その店には女の子が二人いて,そのうちの一人はマスターの恋人だった.昼間はデパートに勤めているといっていた.
 私達三人がある夜そのスナックに行くと,彼女が「すごくいい曲があるの.聞いてみる?」と言った.そのレコードを聞いてみると,アップテンポのなかなかいいメロディだった.

 「すごくいい歌だね.僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に.歌詞が詩のようだ」
そう言うと,彼女は嬉しそうに微笑んだ.
 「この歌はね,さらば青春.歌ってるのは小椋佳っていう人なの.作詞も作曲も.でもジャケットに自分の写真は載せないんだって.だからどんな顔なのかわかんない」

 私達はその晩,何度も何度も『さらば青春』を歌い,そして二番までしかない短い歌詞を暗記してしまった.

 そのスナックのある細い通りには,ビリヤード場もあった.私とN君,O君の三人は,それまで三人とも一度も玉撞きをしたことがなかったのだが,ある日おそるおそる,その撞球場に入ってみた.
 店の主人は,アパートの近くの飲み屋の老婦人よりも少し年下かと思われる上品な女性で,和服を着ていた.
 私達が全くの初心者であると知ると,その女主人は四ツ玉の撞き方を丁寧に教えてくれた.数時間後には,私達はもの凄い下手くそであるが一応撞けるようになり,そしてそれ以来,玉撞きにハマってしまった.三人一緒に,週に一度くらいは通ったように思う.誰か一人金がないと,あとの二人が「俺達が料金を払うから行こうぜ」と言って撞きに行ったから,かなりの熱中具合だった.母の死後,なんとなく気持ちに空洞ができたような私には,先生役の女主人が優しい人だったからということもあったように思う.

 しかしこんな具合に遊んでばかりいたわけではなく,私達は各自それぞれの勉強もちゃんとしてはいたのだ.年末には,文科系系学部のN君とO君は既に卒論を書き上げ,私は卒業実験がほぼ終わって,あとは論文にして提出すればよいところまできていた.
 私は家庭教師のアルバイトを十二月一杯でやめ,年の暮れはヒマを持て余した.いよいよ押し詰まった三十日は徹夜で麻雀をして,そのあとN君等とボーリングをやりに行き,眠気で意識朦朧として皆やたらガーターばかり出し,全員二桁スコアだったので大笑いをして,それから部屋に帰って眠った.
 大晦日の夜に起きると今度は三人で例によって玉を撞きに行った.
 女主人が,今夜は特別に深夜まで撞いていてもいいと言ってくれたので,私達は明け方近く疲れるまで玉を撞き,そしてそこらで仮眠をとった.朝起きると,親切な女主人が汁粉をご馳走してくれた.
 お汁粉で腹ごしらえしてから私達は初詣のハシゴに行くことにした.
 新宿の花園神社,神田明神,湯島天神,浅草寺をまわった.浅草で友人達と別れて,それから私は上野駅に行き高崎線に乗った.元旦の電車は空いていた.
 四年前の春,上京して大学に入るとすぐ全学ストライキになった.
 校舎にバリケードを築き,何日もその中で寝た.デモにも行った.
 色んなことがあった長い休暇のような日々の終わりはもうすぐそこにきていた.

 正月休みが終わり,また高円寺に戻った私達はいつものスナックに行った.マスターが店を止めると聞いたからだ.
 「いつまでもこんな商売やってられないからね.卒論を提出して卒業することにした」
 卒業してどうするのか訊ねると,田舎に帰って教師の口を探すとマスターは言った.彼の恋人の娘は,一緒に付いていくと言った.
 私達は彼らの前途を祝して角瓶を一本出してもらい,『さらば青春』を歌い,明け方まで飲んだ.

 ぼろ雑巾のように疲れ,よろよろと店のドアを開けて外にでると高円寺駅南口商店街の方角が薄明るくなっていた.昭和四十七年の一月の,寒い朝だった.

 やがて二月になるとN君もO君も帰省して,私もアパートを引き払う日が近づいてきた.
 ある朝,ポリバケツの中を覗いてみると,ハムスターが元気なくうずくまっていた.なんとなく震えているように見えた.手のひらに乗せてみると,両目は目ヤニでふさがり,明らかに病気だった.
 暖房は炬燵しかない寒い部屋だったから,風邪を引かせてしまったのだろうか.
 彼女を炬燵布団の端に置いて暖め,ずっと見守っていたのだが,その日のうちに死んでしまった.冷たくなった彼女は,かちかちのただの塊になっていた.
 私は部屋を出て,アパートの建家と塀の隙間の狭いところに穴を掘って彼女を埋めた.そして部屋に戻って,引っ越しの支度に取りかかった.

 その年の五月の連休の時に,N君と再会した.
 彼は就職した会社が嫌になっていて,新宿の深夜喫茶でその話を聞いた.朝になり,新宿駅まで歩きながら,どちらからともなく旅に出ようという話になった.
 金の持ち合わせがあまりなかったので,安い「四国金比羅参り」の周遊券を買い,その足で大阪へ行った.
 大阪の彼の実家で夜まで寝させてもらった.彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた.それを持ってその夜,大阪から船に乗り,神戸沖を通過して明け方,高松に着いた.
 金比羅宮に着いて,だらだらとした石段を昇って行くと,途中に広場がある.そこで私達は握り飯を食い,ベンチに横になって,昼まで眠った.目がさめた時に,彼は会社を辞める決心をしていた.
 やっぱり,自分のしたい出版関係の仕事に就きたいのだと言う.N君は参道の下の公衆電話から,今日で辞めると会社に連絡した.

 そんな事があってから何年も経ったあるとき,大阪に戻っていたN君から電話があった.それはO君の訃報だった.週刊誌の記者になったO君は,睡眠不足ででもあったのか,取材の帰りに高速道路の分離帯に激突横転して即死したらしかった.N君の話を呆然と聞きながら,私は高円寺の南口で過ごした,あの頃の日々を思い浮かべた.呼びかけても遠く過ぎ去る者達のことを.

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2014年1月24日 (金)

句読点について

 いま伊丹十三の『ヨーロッパ退屈日記』を読みかえしている.
 そのついでに Wikipedia【ヨーロッパ退屈日記】をみてみたら,《本書の表紙には、山口瞳による惹句が「この本を読んでニヤッと笑ったら,あなたは本格派で,しかもちょっと変なヒトです」と記載されているが、文中の本来読点であるべき部分がコンマになっており、山口の才気がうかがえる。なお、この惹句は新潮社に出版元が移った現在も引き継がれている》とある.

 この部分を書いた人は,あまり賢くない若い人である.
 なぜかというと,横書きの文章の読点に「、」でなく「,」を用いたのは山口瞳の才気でもなんでもなく,当時は普通のことだったからだ (当時はどころか,今でも公用文の一部は読点として「,」を使用して書かれている).
 山口瞳は大正十五年生まれで,『ヨーロッパ退屈日記』は昭和四十年(1965年) の出版だから,横書きの読点には「,」の方が自然なのである.(ちなみに山口瞳の「才気」というか独特の偏屈さは,横書き文章ではなく,縦書き文章の表記,特に数字の書き方に著しい.これは『江分利満氏の優雅な生活』を読むとよくわかるし,既に指摘されているところである)
 Wikipedia【ヨーロッパ退屈日記】の記述は,物事を知らずに書くとこうなってしまうという好例だが,そもそも《山口の才気がうかがえる》は筆者の個人的見解であって,百科事典の記述としては余計なことである.

 さて,もう八年前のことであるが,句読点に関するこの辺りのことについて,更新停止した私の個人サイトに書いた文章があるので,このブログに転載しておく.(ただし引用部分をイタリックにするなどの修正をした)
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2006年1月10日
好きずきではあるけれど

 先月のことで少し古い話だが,読売新聞《12/10付コラム『編集委員が読む』》に「公用文の読点 コンマとテン混在に困惑」と題した記事が掲載された(これはウェブ上にキャッシュがない).下に内容を要約する.

〈要旨〉 官房長官通達「公用文作成の要領」(1952年,昭和27年)に「句読点は横書きでは『,』および『。』を用いる」とある.戦後,公用文は横書きになり,句読点はピリオドとコンマとされた.しかし日本語にはピリオドの次を大文字にする習慣がなく,弱々しいピリオドでは文の終わりが不明瞭となる.そのためマルに変えられたという.

 『通訳・翻訳者リレーブログ』というブログに the apple of my eye(*) さんという人が,この読売新聞の記事を受けて「表記のこと」と題した感想を書いている.
 (*) 自己紹介によれば《日本・米国にて商社勤務後、英国滞在中に翻訳者としての活動を開始。現在は、在宅翻訳者として多忙な日々を送る傍ら、出版翻訳コンテスト選定業務も手がけている。子育てにも奮闘中!》だそうである.

 このブログから以下に直接引用する.
その記事によると、テンとコンマの使い分けの根拠が、1952年(昭和27年)に国語審議会がまとめた「公用文作成の要領」なのだそうだ。理由は明確にされていないが、どうやら欧文の影響があるのだという。戦後、公用文が横書きになったので、読点はコンマになったらしい。
スペルを表示したいなどの特定の意図があって原文表記を採用する場合以外、欧文文字を取り混ぜながら日本語を書きはしないので、句点・読点も、縦書きだろうと横書きだろうと、日本語のものでいいと私は思う。
友人同士の電子メールや個人のブログでなら構わないが、翻訳文やビジネス文書を書くときは、この辺りのことに少し気を配ることをお勧めする。そんな「点(テン)」で社会人としての良識を疑われるのもつまらないから。

 この人は《句点・読点も、縦書きだろうと横書きだろうと、日本語のものでいい》として「、」と「。」の使用を勧めている.《翻訳文やビジネス文書を書くときは、この辺りのことに少し気を配ることをお勧めする》と書いたあたりに,翻訳者つまり言葉のプロとしての啓蒙意識がちらりと覗いている.しかるに,自分でそう言っておきながらこの人は,自己紹介文で欧文記号「!」を使うという無茶苦茶をやっておられる.さらに言えば「日本語の句読点」なるものは実は存在していないのである.古くは句読点は日本語の表記に用いられていなかったし,今は「、」「。」「,」「.」などが混在無秩序に使われているのが現状なのだ.そもそも読売新聞の記事に書かれているように「、」「。」よりも「,」「.」の方が日本語公用文表記への導入は古かったというのはよく知られたことだ.だがその政府も公用文に「,」「。」を使えとしておきながら省庁によってバラバラである.新聞は「、」「。」派だが,理系の専門書には「,」「.」が多く用いられている.かように句読点やその他の記号の使い方は難しい.

 句読点使用の混在状況は,しかしビジネス文書に限っていえば,ほぼ「、」「。」になってきていると思われる.それには,今はもうなくなってしまったものも含めて日本語ワープロソフトのデフォルトが「、」「。」であったことの影響が強いだろうと言われている.私もこの雑文のような私的文章では「,」「.」を使うが,ビジネス文書では「、」「。」にして使い分けている.
 私がなぜ通常は「,」「.」を使うかというと,かつて論文をよく投稿した学術誌の投稿規定がそうなっていたからで,これが私には今も違和感がないからである.それに,引用文と私の地の文の境目を明確にできるという効果もあってそうしている.

 ちょっと横道に逸れる.読売の記事を下敷きにしているのではないかと勝手に想像するのだが,朝日新聞のコラム『天声人語』(1/7付)がやはり句読点のことを取り上げていた.《》に引用する.
句読点といえば、福島県猪苗代町の野口英世記念館で見た、母シカ自筆の手紙が忘れがたい。「おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけました」。どうか帰国して下されと英世に訴える書状だが、実物を見ると、マルの一つひとつが字ほどに大きい。しかも行の隅でなく中央に置かれている。
 幼い頃に覚えた文字を思い出してつづった手紙だという。テンも兼ねた大きなマルが、母親の一途な思いを伝える。句読点の結晶を見る思いがした。

Hayakukite_2 その手紙の一部が左の画像だ.「こころぼそくありまする」と書いたあとの「はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。いしよ(一生)のたのみて。ありまする。」の部分である.文中の「○」は「。」であるが,慣れぬ筆を持って書くのだもの,小さなマルは書けようもなかったろう.

 これが句読点の結晶かどうか知らぬが,手紙として人の胸を打つものであることは間違いない.私も最初に「はやくきてくたされ」のリフレインを読んだ時には目頭が熱くなった.細菌学者としての野口英世が忘れ去られることはあっても,その母シカの手紙は不滅だ.円谷幸吉の遺書と並ぶ手紙文の最高峰だと私は思う.円谷幸吉がランナーとして忘れ去られても,彼の遺書は語り継がれるだろう.福島県はもっとこの二人を誇りにしていいと思う.

 さて,私には句読点のことより,もっと気になることがある.改行後文頭の字下げだ.
 印刷された出版物では現在も厳格に「字下げ」が行われている.校正者が必ずそうする.ところがウェブ上ではむしろ「字下げ」はマイナーな表記になっている.不思議である.
 私達の世代も,今の子達も同じではないかと思うが,小学校で作文を指導される.その時に原稿用紙の使い方も習う.習ったはずだ.
 題は一行目に,二行目には名前を書く.
 三行目の一字下げたところから書き始める.
 改行したらそこも一字さげる.
 大石先生も無着先生も生徒達にこう教えた筈だ.それがどうしてこうなったのか.
 一つには,今は昔のパソコン通信の影響があると思う.字下げも通信コストに関わるのである.とにかく切りつめた書き方が奨励されていて,無駄に空白を入れようものなら厳しく非難されたものだった.いま中高年の人にはパソコン通信の洗礼を受けた人が多く,そういうことがあるのではないかと想像している.
 もう一つ.この十年ほどでウェブ上に個人サイトがあふれた結果,それまで印刷された出版物に文章を載せることに無縁だった人々が,自分の文章を書くようになったことがあると思う.特に若い人達だ.マルやテンの使用は実用上仕方ないけれど,改行後の字下げなんかしてもしなくても大して変わんないじゃん,と彼らが思っても不思議ではない.実際,字下げしていなくてもふつーに読めるのだから.
 上に引用したお若い翻訳業の the apple of my eye さんだが,もちろん改行字下げはしていない.ほんとに翻訳で活躍しているのかなあという気もするが,しかしプロなら《翻訳文やビジネス文書を書くときは、この辺りのことに少し気を配ることをお勧め》したいと思うぞ.

 さあ,私はこれからも字下げを続けていくつもりだが,世間はどうなっていくだろう.「,」「.」を使うのと同じように,絶滅危機下の動物化するような気がするのだが.
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 日本語横書き文章における句読点問題については,次の記事が非常に参考になる.句読点に関して思い付き程度のことを書いた他のブログなんぞ読む必要はない.ちなみに,「横書き文の句読点について」は,上に再掲した拙文の元記事にリンクを貼ってくださっている.

横書き文の句読点について

横書き句読点の謎

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2014年1月18日 (土)

恥ずかしながら生き永らえて 再掲

  フィリピン・ルバング島で,戦後も三十年のあいだ残置諜者としての任務を完遂した元陸軍少尉,小野田寛郎さんが一昨日十六日の午後,肺炎のため都内の病院で亡くなった.
 若い人は知るまいが,小野田元少尉の帰還 (昭和四十九年) の二年前には,横井庄一元伍長がグアム島から復員した.二人とも,帰国は二月の真冬であった.
 この二人のことについてもう十年以上前に,閉館した私の個人サイトに書いた文章がある.ブログに再掲載しておきたい.(ただし数字表記の不統一を修正した)
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2002年1月26日
恥ずかしながら生き永らえて

 将棋に先崎学という強い八段がいる.1970年生まれだから私よりも二十歳若い.この人がなかなか文章を能くし,今だと週刊文春に連載エッセイの頁を持っている.
 一昨日から昨日にかけて私は岐阜・愛知を一泊で回ったのだが,移動の折に週刊文春を買って,その先崎八段の『昭和は遠くなりにけり』というエッセイを読んだら,こんな事が書いてあった.
 ある日,彼は (たぶん立ち上がろうとした時に) 思わず「よっこいしょーいち」と口にしてしまった.日頃このテのおやじギャグを馬鹿にしていた彼は,内心 (しまった) と思って周囲にいた二十代前半の若者達の顔を見たのだが,どうも反応がおかしい.ここで八段は気が付いて驚いた.この連中はあの横井庄一さんを知らないのだと.

 今週月曜日の日経新聞の小さいコラムに,元日本兵横井庄一氏がグアム島で発見されたのが昭和四十七年(1972年)の一月二十四日であったことが出ていて,ああそうだったな,と私は思いだしていた.先崎八段の頭の片隅にも横井氏がジャングルから出てきたのが一月の事だったという記憶があって,それであの「よっこいしょーいち」になってしまったのだろう.
 もちろん彼は昭和四十五年生まれだから直接覚えているわけではなく常識として知っていたのだが,眼前にそれがもはや常識ではなくなった世代の人達を見て驚いたのだ.

 日本の敗戦後もグァム島のジャングルで二十七年間耐乏生活を続けていた横井庄一伍長が発見され,二月二日に帰国して羽田東急ホテルでの記者会見で発した第一声は「私,横井庄一,恥ずかしながら生き永らえて帰ってきました.艱難辛苦して耐えてきました」だった.
(2014/1/18再掲載時の註;Wikipedia【横井庄一】には帰国第一声は「恥ずかしいけれど帰ってきました」であったとあるが,報道を聴いた私の記憶にあるのは上に書いた通りである.「艱難辛苦して耐えてきました」を覚えている人も多いだろう)
「恥ずかしながら」は一時流行語のようになったのを思い出す.
 横井伍長は敗戦を知っていたが,日本兵として「生きて虜囚の辱めを受けず」と骨の随まで叩き込まれていた彼は,捕まったら殺されるかと思い怖くて出て来れなかった,と後に語った.

 その二年後の昭和四十九年(1974年)二月二十七日,新聞各紙朝刊の一面トップは冒険家の鈴木紀夫氏によって小野田寛郎元少尉がフイリピンのルバング島で発見されたという記事であった.小野田少尉は日本軍がルバング島を撤退した時に「残置諜者」として,島田伍長,小塚上等兵,赤津一等兵と共に島に残された.陸軍中野学校出身の諜報員であった小野田少尉は,任務解除の命令があるまで敵地に潜伏し情報収集活動すべしという使命を持っていた.
 旧日本陸軍将校たる小野田少尉はこの使命を貫徹し,二十九年間をジャングルで生きた.
 1949年,赤津一等兵が投降.1954年,残りの三人は地元の軍隊と武力衝突し,この時,島田伍長が戦死した.時は流れて,1972年に再び地元民と戦闘が起きて小塚上等兵が戦死,小野田少尉は一人となった.
 鈴木紀夫氏はルバング島のジャングルで1974年2月20日に偶然小野田少尉と遭遇し,彼に戦争が終わったことを語り日本に帰ろうと説得した.しかし小野田少尉は残置諜者として残れという命令が解除されない限り帰るわけにはいかないと言った.
 鈴木氏からの連絡で,小野田少尉の元上官・谷口義美少佐が急遽ルバング島に赴き,小野田少尉に面会して残置命令の解除を伝え,任務遂行の労をねぎらった.
 報道陣の前に現れた小野田少尉は,つぎを当て洗いざらした軍服を着用して腰に軍刀を吊っており,姿勢正しく挙手の礼をとった.
 翌日にはルバング島からマニラに行き,マラカニアン宮殿で当時のマルコス大統領に腰の指揮刀を渡し,小野田少尉の戦争は終わった.
 彼の帰国後,日本政府は慰労金として百万円を渡そうとしたが,小野田氏はこれを拒否した.そして天皇や首相との会見も断って,戦闘で亡くなった部下,島田伍長と小塚上等兵の墓参りに行った.

 横井庄一氏が復員した1972年7月,田中角栄が自民党総裁選で福田赳夫を破って田中内閣を成立させ,ここに怒濤のごとき『日本列島改造』が始まった.
 小野田氏が帰国した年,1974年7月の参院選は空前の「金権選挙」と指弾されたが,収賄宰相田中角栄の号令のもと,もはや我が国民が染まった拝金傾向を止めるものはなく,そのままバブル経済への道を突進して行った.
 しかし1989年末を頂点として株価の低落が始まり,地価は1991年以降,大都市圏から大きく下落に転じた.1985年に病に倒れるまで権勢を誇った『闇将軍』田中角栄は,バブル経済の崩壊を見届けるようにして1993年12月に死去した.

 1997年9月22日,横井庄一氏は急性心筋梗塞のため八十二歳で亡くなった.その死の直前,雑誌のインタビューに答えて「帰ってくるんじゃなかった.贅沢に慣れすぎた日本人,どこか間違っとりゃせんか」と嘆いたという.
 襤縷をまとって現れた横井氏も,政府の慰労金を拒絶して部下の墓参りに行った小野田氏も,この国の転換点において「それで本当にいいのか」と,過去から届けられた贈り物であったように思う.
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 横井元伍長の「艱難辛苦して耐えてきました」と,報道陣を前にした小野田元少尉の挙手の礼と.二人の帰還のときのことを思い出すと,私は鼻の奥につんと熱いものを感じるのである.

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2013年12月22日 (日)

「和食」とはなにか 番外編

 前の記事で述べた『和食ガイドブック』が「和食」の例としている新潟県三条市の給食献立例を以下に示す.

[月曜日]
・ごはん
・いかのかりんあげ
・なっとうあえ
・きのこけんちんじる
・のむヨーグルト
(小学校619kcal/中学校731kcal)

[火曜日]
・えだまめごはん
・さけチーズフライ
・くきわかめきんぴら
・かきたまじる
・牛乳
(小学校687kcal/中学校823kcal)

[水曜日]
・ごはん
・とりにくのぴりからやき
・いかときゅうりのあえもの
・しょうがみそスープ
・牛乳
(小学校639kcal/中学校752kcal)

[木曜日]
・ごはん
・さんまうめに
・たくあんあえ
・にくじゃがに
・牛乳
・なし
(小学校688kcal/中学校814kcal)

[金曜日]
・ごはん
・カレーふりかけ
・ほうれんそうオムレツ
・フレンチサラダ
・パンプキンスープ
・牛乳
(小学校708kcal/中学校833kcal)

 『和食ガイドブック』はこれを牽強付会に「和食」であると言い張っているが,和洋中華折衷の,なかなか美味しそうな献立である.一汁二菜に乳製品が付いて,ちょっと野菜が少ないような気もするが,栄養的にもまずまずであろう.

 昭和三十年代,私が小学生のときの給食は,コッペパンと脱脂粉乳を溶いたミルクと,おかずが一品だった.おかずは取り立てていうほどのものではなかったと思うが,その中で記憶にあるのは,鯨の大和煮とか竹輪の磯辺揚げ,塩味のシチューくらいのものだ.

 それでも戦後すぐの時代に比べれば大したもので,今はネット上から資料が消えてしまったが,神奈川県のある小学校で,ララ物資による最初の給食は,わずかな豚の脂身が浮いているスープだけであったという.この給食を食べた児童の感想文も掲載されていたのだが,私のスクラップブックの事故 (HDD のクラッシュ) で失われてしまったのが残念だ.ある児童は,その具なしのスープを家に持って帰り,妹に飲ませてあげたいと書いていて,私は涙なくして読めなかった.

 スープだけの給食から,パンとミルクとおかずの給食になるまではそう時間がかからなかった.当時の日本の児童達は,ララと,その後を引き継いだユニセフのおかげで,成長期の低栄養から幾分なりとも救われたのであった.

 しかし私よりも年下の世代の中に,海外からの援助物資であった給食のミルク (脱脂粉乳) を,米国の穀物戦略に基づく陰謀であるとか悪し様にけなす風潮が現れ,これには腹立たしい思いを禁じ得なかった.その思いから書いた記事を以下に再掲する.

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2001年12月22日
僕達の脱脂粉乳

 昨日の毎日新聞に「学校給食:大阪府の中学校で5年間にわたり基準下回る」という記事があった.文部科学省の基準では中学生の1食当たりの摂取基準は820kcalであるが,大阪府四条畷市の中学4校で今年の4月~12月にかけて平均摂取量が約750kcalだったという内容である.給食に対する国庫補助が減額されたことにより,財政が悪化したためだという.この市内の小学校でも基準(中学年で640kcal)を毎月,10~30kcal下回っているとのことである.
 文科省学校健康教育課は,基準と同等の給食を作るようにと指摘しているらしいが,むしろヘルシーかも,という声もあるらしい.

 750kcalの昼食がヘルシーなのか少し足りないのか難しいところだが,昔はどうだったのだろう.ちょっとWebを見てみたら容易に資料が見つかった.そのWebページによると1946年(昭和21年)の文部・厚生・農林次官通達「学校給食実施の普及奨励について」によれば(以下は,おそらく誤りと思われる個所を訂正してある)
 1.完全給食最低基準量  1人600kcal たんぱく質25g
 2.毎週授業日に5回給食を行うこと
という基準であったそうだ.熱量だけを見てみると,この基準量は何度か改定されており,小学校では以下のようである.
Kyushoku_cal

 前記記事の大阪府の小学校では,1954年当時の基準熱量よりも少し多いくらいであることがわかるが,まあ大した差ではないだろう.
「大した差ではない」というのは,給食の熱量が少しばかり少なくても家庭の食事で十分に補えると考えられるからだ.しかしその差が大きな意味を持っていた時代が,かつてこの国にあったのである.

 私くらいの年齢の,いわゆる団塊の世代の人間が集まると,昔の小学校の給食のことが話題になることがある.大抵は当時「ミルク」と呼んでいた脱脂粉乳の話になる.誰かが「あれはまずかった」と言うと「あれはアメリカの家畜の餌だったんだよね」と続く.我々は可哀想なことに牛豚の餌を食って育ったのだという意味である.
 だが本当にそうだったのだろうか.

 1945年の秋,国民経済は疲弊の極みに達し,都市部における食糧危機は深刻の度を増しつつあった.
 当時サンフランシスコに在住の日系アメリカ人,浅野七之助氏(1900~1998年)は祖国日本の窮状を知り,この年の11月に「日本難民救済有志集会」を開き,日本救済運動を開始した.
 翌1946年1月,浅野氏を中心とする「日本難民救済会」は,サンフランシスコ在住の日系人から募った浄財で救済物資を購入し日本に輸送しようとしたが,適当な窓口団体がなかった.そこで浅野氏は宗教団体に働きかけ,大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を公認団体とするよう陳情した.

 敗戦後,日本政府はGHQに対して緊急食糧援助を要請していたが,どれほどの量が不足しているのか推計する根拠がなかった.
 アメリカ陸軍省の報告によれば,日本の食糧不足量は3,000万tとされたが実態は不明であった.そのため政府はその基礎資料の作成を開始した.これは昭和22年の「暫定標準食品栄養価分析表」,次いで昭和25年に国民食糧及栄養対策審議会編「日本食品標準成分表」として公表されることになる.その前書きに

 『昭和20年以来我が国においては食品分析値を用いての計算による対外交渉が増加して来たのでその必要性から、さきに厚生省、農林省協定による暫定標準食品栄養価分析表を作製し目的に沿うてきたのであるが、分析表に採録された食品の数があまりにも少なく、色々不便であったので、速やかに更に多くの食品を追加す可しとする要望切なものがあった。一方連合国最高司令部からも同じような希望があり…』

という記述があるが,文中の「対外交渉」とはGHQに対する食糧輸入要請を意味している.
 この1月にはフィリピンから,3月にはアメリカから食糧輸入船が日本に到着し,またGHQは小麦や魚缶詰等を放出したが,主食の配給遅配はいよいよ著しくなった.
 5月に入りGHQは食糧3374万ポンド相当の払い下げを発表し,6月には京浜地区に米麦22,000tを放出した.

 この頃,浅野氏らによる祖国救援活動は,ようやく実を結びつつあった.これに大きく貢献したのが在日経験を持つクェーカー教徒,E.B.Rhoads女史(1896~1979年)であった.Rhoads女史は後年,再来日して皇族の英語教師を務められた方である.女史らの献身的な尽力により1946年9月,浅野氏の日本難民救済会は公認団体“ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief of Asia)”として発足し,クリスマスに間に合うように衣類や脱脂粉乳などのいわゆる「ララ物資」第1便450tが日本に向けて出航した.

 この月の2日には,弁当を持参できない生徒のために1日だけの給食が実施され,GHQ放出小麦粉によるコッペパンが全国の児童に配給された.また9日には生活保護法が公布されている.

 11月にはGHQが学校給食用に日本陸軍の貯蔵食肉5,000tを供給すると発表,同月30日にララ物資第1便が横浜港に到着した.翌月にはララから更に210,000tもの救援物資が我が国に寄贈され,これを基に1947年(昭和22年)1月,全国の都市部児童三百万人に対し学校給食が開始された.実に我が国の学校給食は,ララ物資による一椀の脱脂粉乳から始まったのである.先に述べた大阪府の小学校の事例とは異なり,わずかに数十kcalの熱量と動物性タンパク質が大きな意味を持っている,そういう時代であった.
 なぜ学校給食として脱脂粉乳が提供されたかについては,時期が手元の資料では明確でないのだが,GHQ民政局と文部省との間で相談がなされた結果であるという.
 「日本食品標準成分表」編纂のところで述べたように当時我が国には国民栄養に関する基礎資料が全くなかったため,GHQは当時東北大学医学部の教授であった近藤正二博士(近藤教授は,長寿者の多い地域と短命な地域を比較調査した栄養学研究で知られる)に助言を求めた.近藤教授はGHQからの問い合わせに対し,成長期の児童には動物性タンパク質が不可欠であり,小麦粉のパンよりも脱脂粉乳が適当だと回答したとされる.

 その後,1949年(昭和24年)10月にユニセフ(国際連合児童基金)から脱脂粉乳の寄贈を受けて「ユニセフ給食」が始められ,翌1950年には米国から無償提供された小麦粉でパンが給食に登場し,全国8大都市の小学校で完全給食が始められた.
 しかし1952年4月28日,サンフランシスコ講和条約の発効により日本は独立国となったため,給食用物資の財源であった米国政府の「ガリオア資金」が打ち切られた.学校給食は廃止の危機にさらされたが,国庫負担による給食存続運動が全国的に展開され,翌1953年には小麦粉の半額国庫補助が実現し,この年の4月に全国すべての小学校を対象に完全給食が実施された.
 そして昭和29年には学校給食を教育活動の一環として明確に位置づけた「学校給食法」が成立したのであるが,この年は前記「日本食品標準成分表」が改定された年でもあった.その「改訂日本食品標準成分表」の序文には
 『現段階において、わが国の食糧事情はきわめて重大であり(中略)、栄養学の見地に立って、すべての国民が健康を維持向上し十分な社会活動をなしうるに要する食糧の確保に基盤をおかなければならない。(中略)、このためには、食物に含まれる栄養素の質と量を明らかにする必要がある』
と記され,昭和29年に至っても戦後の食糧不足が完全に解消されていなかったことが窺われる.

 仔牛は生後しばらくの期間,成牛と同じ飼料を与えることができない.この時期に消化不良を起こすと,その後の成長が著しく阻害されるため,脱脂粉乳またはそれに類する組成の飼料で育てられる.
 アメリカという国は工業国家であるが,また世界最大の農業国家でもある.いま我々が「家畜の餌」と言う時,それは人の食料以下のあたかも残飯のごとき物であるが,当時のアメリカにとって脱脂粉乳は重要な農産物だったはずである.また極東の小さな島国へと太平洋を越えて輸送し,すべての児童に平等に配布できる物資は,小麦粉か脱脂粉乳であったろう.私達の父母の世代は子供達のために脱脂粉乳を要請し,その希望はかなえられた.そしてその資金は初めサンフランシスコの日系アメリカ人の人々による祖国救援活動によって,続いて世界中から集められた善意に基づくものであった.だから私は,あの脱脂粉乳は決して「家畜の餌」などではなかったと思うのだ.そのララ物資の浅野七之助氏は遂にアメリカに帰化することなく1998年,98歳で亡くなられたという.

【参考資料】
 日本食品標準成分表はこれまで暫定版から5度改定されている.
初期の版と現行五訂版に収載された食品数を以下に抜粋する.
暫定版でわずかに104品目であった収載食品数は五訂版で1,882に増加した.現在の我が国における国民食生活の豊かさを示すものである.
Seibunhyo
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 これまで述べてきたように,農水省がどう言い張ろうと,日本の伝統食は一汁一菜あるいは一汁無菜であった.一汁三菜とか栄養バランスのよい食事なんぞは,年に数回しかないハレの日の食事であった.
 また,かつての東日本内陸部の人々は食事からの食塩摂取量が多かった.少しの塩辛い漬物,梅干し,塩蔵魚で飯を食うのが一般的であった.
 このような日本独自の食生活の結果として高血圧になる人が多く,これが農村部に住む人々の短命の原因であった.

 これには,第二次大戦前後に陸軍関係者 (食養会) が提唱し,のちに疑似科学「マクロビオティック」となった「身土不二」思想の影響もある.
 戦後,農家の女性や高齢者の生き甲斐と所得を向上させる目的に生まれた生活改良普及員が農村部の伝統的食生活の改善に取り組んだのに対して,「身土不二」説信奉者は「三里四方のものを食え」をスローガンとして,「地元の食品を食べると身体に良く,他の地域の食品を食べると身体に悪い」「伝統食は完璧だから手を加える必要がない」「生活改良普及員が伝統食を破壊して洋食を指導した結果,若者が早死にしている」と非難した.(「」は Wikipedia【身土不二】から引用 [註*])

[註*] 2014年4月18日追記.Wikipedia【身土不二】は,このブログ記事を書いたあと,誰かが編集したようで,「」の記述が削除されている.編集履歴を残さずに書き直されてしまうのが Wikipedia の最大の欠陥である)

 日本の伝統食における塩分過剰摂取の解消に功あったのは生活改良普及員であるが,農村部でない地域では学校給食の寄与が大きいと考える.
 パンは漬物がなくても食える.初めは米国西海岸在住の日系人による祖国救援活動によって,次いでユニセフによる学校給食支援によって,これを知った私達戦後生まれは,抵抗なく食事の欧米化を受け入れることができた.そしてこれが,行きすぎた欧米化への変化の前に過渡的に生まれた,栄養的に優れた和洋折衷の「日本型食生活」の基礎となったのであった.

【関連記事】
三里四方に 2008年3月20日

「和食」とはなにか 2013年10月25日

「和食」とはなにか その二 2013年12月9日

「和食」とはなにか その三 2013年12月12日

永山久夫氏の主張  2013年2月5日

「和食」とはなにか 番外編の二 2014年4月30日

【参考図書】
小泉和子編『ちゃぶ台の昭和』 (河出書房新社)

アスペクト編集部・編『なつかしの給食』 (アスペクト)

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2013年12月17日 (火)

訪問ありがとう

 丸一日障害が発生していたココログのアクセス解析が,昨日ようやく復旧した.それで昨日の「リアルタイム足あと」を見てみたら,まだ私が定年前だった五年前に書いた「ハーバーライト」と題した記事を読んでくれたかたがいた.
 それはこんな文章である.

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2008年3月12日
ハーバーライト
 明け方のニッポン放送を聴いていたら,私とほぼ同年のリスナーからのリクエスト曲が流れた.
 そのリスナーは三十九年前に高校を出て上京し,何人かが一緒に六畳間で暮らす勤め先の寮に入ったそうだ.布団にくるまって深夜のラジオを聴いていると,いつも京浜急行のCMがあり,そのCMのバックに流れていたのが,プラターズの“ハーバーライト”だったという.懐かしい歌だ.
 住み処は雑魚寝の独身寮とか四畳半一間の安アパート.すぐそばを京浜急行が走っていればなおいい.夜中に部屋の隅で膝を抱えて,電車の音が聞こえて,ラジオからプラターズの“ハーバーライト”.
 この先,自分がどうなるのか不安だという点では十八の時も今も同じではあるのだけれど,定年後の生活資金が,というのと,自分はこれから何者になっていくのだろうかという不安では大違いだ.青春期の胸ふるえる不安を宝物のように思い出す人は多いだろうと思う.
 “ハーバーライト”を聴いて,朝からセンチメンタルになってしまった.
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 どういう検索の結果で訪問してくれたのかわからないけれど、私が自分でも忘れていたような記事を読んでもらって,少し嬉しかった.

 ちなみにプラターズは,メンバーチェンジやら分裂やらで,1990年代には同名のいくつかのコーラスグループが存在した.今入手できるCDは「本家プラターズ」のものだと思われるが,古いオールディーズ集などに収録されているものはボーカルが異なるものがある.

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