食品の話題

定年まで食品会社の技術者として生きてきました.食品科学や食品の法律,食品事件など.

2018年10月16日 (火)

渡世人の飯椀 (補遺2)

 江戸時代の博徒というと,多くの年寄りは昔のテレビ時代劇『木枯紋次郎』を思い出すのではなかろうか.
 この紋次郎の飯の食い方は,当時の視聴者に大きなインパクトを与えたようで,今でも「紋次郎食い」で検索すると,色々なウェブページがヒットする.動画の例から,その一シーンを,モニター画面のハードコピーをして下に掲載する.
 
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 ところが,この場面は時代考証的には大嘘なのである.時代考証家の山田順子さんや杉浦日向子さんらが江戸時代に描かれた絵を調べたところによると,当時の飯屋や居酒屋には,テーブルとイス (大抵は酒樽である) はなかったという.客は縁台 (床几ともいう) に腰かけるか,履物を脱いで小上がり (畳または板敷) で飲食をしたのである.(「江戸庶民風俗図絵」などを検索されたい)
 しかし別の放送回で紋次郎は,街道筋にある茶屋兼の飯屋では縁台に腰かけて飯を食っている.このことから推測するに,江戸や宿場などにあった飯屋や居酒屋は現代の飲食店に似ているだろうという思い込みが,放送作家や演出家など番組制作サイドにあったのだろう.
 これはかつての人気テレビ時代劇『鬼平犯科帳』も同じである.この動画を見ると,御丁寧に,テーブル席だけでなくカウンター席まである.w
 映画でもテレビでも時代劇というものは,鎌倉時代や江戸時代を舞台にしてはいるが,それは表層的なことであり,実は描かれているのは現代人なのだという解釈は正しいと私は思う.従って演出が時代考証的に正しいのが好ましいとは思うが,あまりそれに拘ると,時代劇そのものが成立しなくなるおそれがあり,それでは本末転倒かも知れないと思う.そもそも鬼平こと長谷川宣以が居酒屋で酒を飲むわけがないからである.w
 
 以上,既述のように,江戸時代の博徒の生活に関する史料は多くないと思われ,それ故,時代劇に出てくる親分の生活や賭場の様子は時代考証的には,あまり信用しないほうがよいだろうと,付け加えておく.

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2018年10月15日 (月)

渡世人の飯椀 (補遺1)

 昨日の記事の末尾を再掲する.
 
このように我が国の食文化史上,一膳飯が嫌われたという事実はない.
 しかるに武田親分は《一杯は仏様だと嫌うから作法に外れ》るという.これは武田親分の地元である群馬のローカルルールだというわけでもない.実は,いつの頃からか,一膳飯と枕飯の混同が発生したのである.

 
 人は誰でも,若い時には葬儀の際のあれこれを知らずとも,歳を重ねるに従い何度も親戚知人の葬儀に出席すると,仏教各宗派によって葬儀の仕来りが少しずつ異なることを知るようになる.
 特に浄土真宗と他の宗派との違いが大きい.
 その違いの一つに,死者あるいは棺の枕元に置く枕飯あるいは枕団子がある.枕飯や枕団子は,死者がこの世に残した未練を慰め,送り出すためのものだが,浄土真宗では,死者はただちに成仏することになっているので,これを行わないという.
 しかしこんなことは仏式で葬儀を行う際の形式的な仕来りであって,大した意味はなく,葬式仏教の僧や葬儀屋がああだこうだと言っているに過ぎない.試みに「一膳飯」をネット検索してみると,葬式関連のコンテンツばかりである.民俗学的な議論は全くみつからない.
 当たり前だが,十七世紀の京都で一膳飯屋が生まれてから現在に至るまで,一膳飯は単に「盛り切りにした一膳の飯」の意であり,それ以上のことではない.しかるに,この一膳飯に箸を立てると枕飯になるのだが,枕飯が一膳盛り切りであることから逆方向に,枕飯を一膳飯と呼ぶ誤用が発生したものと考えられる.ネットを検索調査したところでは,この誤用の伝播者は葬祭業者だろうと思われる.例えば,この匿名サイト.下に少し引用する.   

茶碗に山盛りにご飯を盛って、真ん中に箸を立てる「一膳飯」 (当ブログ筆者の註;正しくは「枕飯」) は、誰でも目にしたことがあるのではないでしょうか。
もともと一膳飯は、二膳や三膳はない、一善
(当ブログ筆者の註;正しくは膳) 限りということで、旅立って二度と戻らない相手との別れの膳で出されていた古くから (当ブログ筆者の註;何世紀から?) の習わしです。これは嫁入り (当ブログ筆者の註;正しくは一膳飯ではなく「高盛り飯」という.もちろん枕飯とは別物であり,箸を立てたりはしない) や独立の際にも行われていた作法でした。
このように、一膳飯は最後の食事という意味合いがある
(当ブログ筆者の註;出典は?) ことから、「死者のこの世での最期の食事」としてお葬式の作法に使われるようになりました。

 上記引用の説に従えば,江戸時代の一膳飯屋では,客に《死者のこの世での最期の食事 》を提供していたことになる.常連客もいただろうに何を言っておるのか.阿呆もいい加減にするがよい.

 さて葬祭業者以外で,この誤用を拡散させているブログがよく用いているのが,戦時歌謡の替歌「軍隊小唄」の一節「仏様でもあるまいに一膳飯とは情けなや」である.
 飯茶碗に飯を高く盛って箸を立てた枕飯は,死者の霊に供える枕飾りの一つであって,仏壇にお祀りされた仏様にお供えするものとは異なる.仏壇に供えるのは仏飯という.
 仏飯もおかわりはないところから,「軍隊小唄」は軍隊の一膳飯を仏飯に喩えたのだろう.すなわち「軍隊小唄」の歌詞にある一膳飯は,箸を立てた枕飯のことではない.これを誤解しているブロガーがいるので,特に書いておく.
 また,これはものの喩えであるから,常識的には仏飯を一膳飯と呼んではいけない.
 
 以上,昭和の博徒の親分は一膳飯と枕飯を混同していたが,それは親分が無知だったせいではなく,世間一般に一膳飯の誤用が広まっていたからであるということを付け加えておく.

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2018年10月14日 (日)

渡世人の飯椀 (二)

 昨日の記事の末尾を再掲する.
ところが,私が江戸時代の食文化史を勉強している過程で,『江戸やくざ研究』(雄山閣) という妙な古書を入手したのだが,そこには別のことが書かれていた.

『江戸やくざ研究』の著者は田村栄太郎という在野の左翼歴史家,風俗研究家である.Wikipedia【田村栄太郎】に書かれている田村氏の著書一覧を見ると,左翼でありながら裏社会にも通じているという一口では言い難い人物像が浮かぶ.
 それはともかくとして,『江戸やくざ研究』の中で著者は昭和十三年頃,群馬県高崎市の博徒である武田親分に,仁義のきり方から始まる詳細なインタビューをしている.その中から食事についての部分を引用する.

飯は丼ぐらいの茶碗に二杯、山盛りにして出すのですが、これは誰でも食いきれない。しかし少しでも残しては作法に外れるから、はじめの一杯の山盛りの飯の真中だけを食べて真中に穴をこしらえてそこへまた飯を足してもらい二杯分ということにします。山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。菜は有合せを出します。魚を出せば旅人は骨は白紙に包んで懐中に入れるのです。何を出さなければならないという作法はありません。それに旅人は待遇上の不平はいえないのです。草鞋銭をもらってすぐ使ったところを、子分にでも見つかれば取持ちが気に入らなかったかと殴られます。》 (当ブログ筆者の註;「取持ち」はインタビューの他の所にも出てくる言葉で,応接とか接待とでもいう程の意)

 とまあこのような次第であるが,この問答の中で武田親分は,博徒の仁義は上州と江戸で異なると述べている.上州は著しく博徒,無法者の多い土地柄であったから,江戸とは違う独自の流儀ができたのだろう.
 また著者の田村氏は,博徒の仁義作法は時代によって変わり,武田親分が述べたのは昭和のやり方だと書いている.ただし,これは武田親分の年齢が不明なので何とも言えない.明治・大正もさほど変わらなかったと考えることは可能だが,考察する材料がない.というか,こんな分野 (やくざの社会) に関する史料なんてものはないと思うが.
 で,武田親分の口述によると,戦前の昭和,上州における博徒の作法では,旅人の夕飯には飯のおかわりを盛ってくれる給仕役がつく.それはおそらく親分の御内儀 (仁義の言葉では「お姉さん」という) だろう.
 重要なのは,有合せでよいが「菜」を出すとしていることだ.これは,夕食を軽く済ませていた江戸時代と異なって,明治以降は夕食の重要性が増したことを意味している.
 Wikipedia【夕食】に,

日本
日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化の一つに属している。夕食は、一日で最も質・量ともに充実した食事になることが多い。また、夕食は一日の食事の中では最も時間的なゆとりがある食事である。

とあるが,言うまでもなく食事の在り方は時代によって変化してきた.そもそも夕食というのは,江戸時代に一日二食から一日三食に変化してからの話である.明治時代以降,家族が揃って夕食を摂るという食のスタイルが長く続いたが,昭和以降は「食の個食化」が進行し,家族がバラバラに夕食を食べるようになり,夕食は重視されなくなった.今では,一日三食は肥満の原因の一つだとして夕食を食べない人もいる.あるいは逆に少量ずつ一日に何度も食事する人もいる.そのような多様化が進んだ現在,《日本は、夕食を昼食と並んで重視する食文化》だとするのは余りにも大雑把すぎる.史料も根拠も示さないこの主張は「独自研究」(=口から出まかせ) というべきだろう.

 本題に戻る.次に武田親分は,一宿一飯の飯を盛る器は,飯椀ではなく丼ほどの茶碗だという.となると,これは重いから旅人の携行品ではない.戦前の群馬の親分衆の家では,客人用の食器一揃いを箱膳にでも収めて用意していたのだろう.もはや日本の近代は,博徒が荷物の中に飯椀を入れて旅をした時代ではなかったのである.

 さてちなみに,武田親分の語った内容で興味を引かれたことが一つ↓ある.

山盛りの飯二杯が作法で、一杯は仏様だと嫌うから作法に外れます。

 つまりこの親分は,一膳飯と,死者の枕元に供える枕飯を混同しているのだ.
 江戸では,ファストフードではない一膳飯屋が生まれ,人口のかなりの割合を占めていた男性単身者たちの胃袋を支えた.《一杯は仏様だと嫌》われていたという事実はない.
 明治以降は,軍隊が一膳飯であった.死んだ私の父親が語ったところによれば,軍隊というところは,食事も排泄も就寝も起床も,行動すべて迅速であることを旨としたから,悠長な飯のおかわりなんぞが許されようはずがなかった.
 刑務所も一膳飯である.これは毎度の食事で摂取するエネルギーが,受刑者の年齢や作業強度に基づいて計算されるからで,受刑者本人の好きにはならないのである.肥満体であった堀江貴文が収監され,出所した時には普通の体型になっていたことを覚えている人は多いだろう.
 病院も一膳飯であるのは,病院食が栄養計算に基づいた食事だからである.
 現代は国民総健康志向の時代であるからして,糖尿病を恐れる中年以上の国民で,御飯のおかわりをする人はいないはずだ.おかわり自由のとんかつ屋で,白飯をおかわりしているのは若い人だけである.
 このように我が国の食文化史上,一膳飯が嫌われたという事実はない.
 しかるに武田親分は《一杯は仏様だと嫌うから作法に外れ》るという.これは武田親分の地元である群馬のローカルルールだというわけでもない.実は,いつの頃からか,一膳飯と枕飯の混同が発生したのである.
(続く)

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2018年10月13日 (土)

渡世人の飯椀 (一)

 今から五十年以上前の事である.
 後に東京都知事になった青島幸男が,ラジオで一人トークの雑学情報番組を持っていた.
 その放送で青島幸男が語った話だが,江戸時代の渡世人は,振分荷物に飯椀を入れて携行していたという.
 静岡市清水区に,山岡鉄舟ゆかりの「鉄舟寺」という寺があり,この寺には宝物殿といえるほどではないが,歴史関係の資料が展示されている.昭和五十年頃のかなり昔のことであるが,私が鉄舟寺を拝観した時には,展示されていた歴史資料の中に,渡世人が旅をする際に携行していた飯椀の実物があった.それが今も展示されているかどうかはわからないが.
 静岡市清水区は,静岡市に吸収合併される前は清水市といい,東海道一の親分であった清水次郎長の縄張りだったところだから,記憶は定かでないものの,その飯椀は幕末から明治にかけて実際に使われたものだったと思われる.
 なぜ鉄舟寺に渡世人の持ち物が展示されていたかは,山岡鉄舟と清水次郎長の親交によるものだろう.
 で,飯椀のことだが,渡世人が携行していた飯椀は,旅先の土地の親分に仁義を切って泊めてもらうときに使ったのである.
 これは上述の青島幸男の番組でのトークと,鉄舟寺にあった飯椀の展示品説明書とが一致していたので,信憑性が高い.
 街道を堂々と旅をしたのでは身に危険が及ぶ凶状持ちや,ほとんどボロボロな恰好をした乞食渡世人は別として,賭場を渡り歩く普通の渡世人は,日が暮れる前に土地の親分のところに顔を出して挨拶をしなければならない.これが「仁義をきる」ということである.
 先を急ぐときは仁義をきってすぐ立ち去るが,そうでなければ例の「一宿一飯」にあずかる.
 仁義の詳細は略すが,一通りの作法を済ませ,食事をもらう時間になると,御内儀さんが飯櫃を持ってくるので,御内儀さんに持参の飯椀を渡す.すると御内儀さんは飯椀に飯をてんこ盛りにしてくれる.もちろん漬物が付いてくる.
 さてここで問題は,何かおかずが出され,それで飯を食ったのか,ということである.

 江戸庶民の日常食は,朝に白飯を炊いて,味噌汁と漬物がこれに付く.これが「一汁」である.漬物は飯とセットなので「菜」のうちには含まれない.
 昼飯は冷や飯と漬物に,煮物とか焼き魚などを付けて食べる.味噌汁は付けない.つまり「一菜」である.
 夜は屋台で天ぷらとか鮨,蕎麦 (江戸の後期) などのファストフードを小腹に入れる (杉浦日向子さんの考証によると,それらをたくさん食べるのは粋ではないとされていたようだ) か,あるいは長屋に帰ってから,漬物で冷や飯を茶漬けにして食う.「一汁」でも「一菜」でもない,この飯と漬物のセットを呼ぶ言葉はないが,敢えていうなら「一飯」,「一宿一飯」の「一飯」だ.
 某似非「食文化史研究家」や農水省の御用学者たちは「一汁三菜が日本の伝統食である」という大嘘を世間に広めたが,実は,我が国庶民の日常の食事は「一汁一菜」ならいいほうだったのだ.

 さて,中山道や三国街道,東海道などの街道筋で親分の家に草鞋を脱いだ渡世人に,江戸のやり方で食事が提供される場合は,大盛の雑穀一膳飯 (江戸の外では白飯は普及しなかった) と漬物が出されただろう.江戸の流儀の夕飯であるから,おかずも汁もない.江戸流ではなく,北関東など貧しい土地の貧乏な親分のところでは,雑穀の雑炊だけだったかも知れない.私は長いことそう理解していた.
 笹沢佐保の小説を原作にしたテレビ時代劇『木枯らし紋次郎』でも,確かそんなシーンがあったように思う.
 ところが,私が江戸時代の食文化史を勉強している過程で,『江戸やくざ研究』(雄山閣) という妙な古書を入手したのだが,そこには別のことが書かれていた.
(続く)

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2018年9月 8日 (土)

江戸,東京の味 (了)

 民放の雑学番組とは異なり,NHK『チコちゃんに叱られる!』では,クイズの回答に必ず一言,「諸説あります」という断りがなされる.当然だ.
 ところが今回の永山久夫監修の「関東の味付けが濃いのはなぜ?」では,「諸説あります」だけでなく,特別に《ご紹介したのは、監修してくださった専門家の見解です》という言い訳が付け加えられた.

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 想像するに,おそらく,NHK局内の時代考証担当職員あるいは局外の時代考証専門家と,永山久夫の主張が大きく乖離していたのではないか.
 特に今回の『チコちゃんに叱られる!』では,「江戸の生活排水による海域汚染で江戸前の魚がおいしく育った」という永山の主張は酷い.既に述べたように,これは事実無根であり反社会的である.
 この点は,NHKは《監修してくださった専門家の見解です》などとするだけで責任回避ができようはずがない.本来なら謝罪レベルの誤りである.これはNHKが流した誤情報の黒歴史としてここに記録しておきたい.
 
 さて,今回の『チコちゃんに叱られる!』だけでなく,これまでも農水省の走狗として「和食=一汁三菜は日本古来の伝統食」などの大嘘を宣伝してきた永山久夫であるが,江戸の味について,そのデタラメぶりを批判するだけでは片手落ちだ.常識的な見解を紹介しよう.
 かつて東京に住んだ食通作家たちが,東京のうまい食い物について書いた随筆は数多い.それらの作品や,江戸学とでもいうか,江戸の風俗に詳しかった故杉浦日向子の一連の著作に書かれているように,江戸,東京の味を一言で言えば「甘辛」であり,これに異を唱えるひとはまずいないだろう.

 今週の木曜日 (9/6) ,ちょうどいいタイミングで,テレビ東京『和風総本家』で築地市場の特集が放送された.築地の大衆的な飯屋にいけば,江戸から東京に受け継がれた甘辛の味付けがどんなものか,口にすることができるのだ.そこで番組の中から,人気店の幾品かを紹介しよう.

 甘辛い江戸・東京の味付けは,何といっても煮魚だろう.

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 濃口醤油,砂糖,酒,味醂で煮付けるおかずは,江戸時代中期の煮売り屋 (惣菜屋) に始まる伝統の味だ.杉浦日向子より少し遅れて世に出た宮部みゆきも時代考証が確かであるが,彼女の作品に煮売り屋はよく登場している.長屋に暮らす下層庶民の調理道具は七輪と鍋くらいしかなく,まな板や包丁を持たない彼らは,煮売り屋から飯のおかずを買って食事にしていたのだ.
 永山久夫は,江戸時代初期の工事に集められた土方たちが食べた味の濃いおかずである佃煮 (実は江戸初期には存在しなかった) と大根の塩漬けの二つと,江戸前鮨を「濃い味文化」である (事実は,江戸前鮨は「濃い味」ではないが) と述べたが,実は江戸時代中期以後の町人たちが好んだ甘辛い煮魚や煮豆,きんぴら牛蒡,ひじき煮等々,今もある多くの日常の惣菜こそが,江戸の濃い味の代表なのである.

 先に述べたように天ぷらは屋台のファストフードに始まって次第に洗練されていったが,この天ぷらを丼飯に載せ,甘辛いタレをかけ回せば,一気に江戸大衆の味になるのが面白い.
 
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 親子丼や玉子丼も,天丼と同じ甘辛.
 
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 これ↑は鮪のカマを醤油だれに漬けてから焼いたもの.
 江戸から明治,大正,昭和と,時代は変わっても日常のおかずは,すべて醤油と砂糖で味付けるのが東京の伝統なのである.↓
 
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カツ煮↑

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 さて,何でも醤油と砂糖で茶色く甘辛く煮たり焼いたりするのが東京の味だが,私のように東京の外の関東の人間は,いまだに東京風の甘辛い味に慣れない.
 生粋の江戸っ子はどんどん減って,東京の人口のほとんどは地方出身者であるという.それなのに,大衆食堂に限って言えば,いまだに江戸風,東京風の味が廃れないのは,考えてみればなかなか面白い現象である.家庭ではみんな健康のために減塩と低糖質につとめて,薄味の食事をしていると思うが.
(了)

[参考図書]
有薗正一郎『近世庶民の日常食』(海青社)
杉浦日向子『杉浦日向子の江戸塾』(PHP文庫)
杉浦日向子 『杉浦日向子の江戸塾 笑いと遊びの巻』(PHP文庫)
杉浦日向子 『杉浦日向子の江戸塾 特別編』(PHP研究所)
山田順子『江戸グルメ誕生』(講談社)
山本博文『学校では習わない江戸時代』(新潮文庫)
菅野俊輔監修『別冊宝島 江戸城 天下普請の謎』(宝島社)
 
(本記事中のテレビ画面は,録画データの加工ではなく,テレビ画面を撮影してトリミングしたものである.またこの連載は,私のブログでは日常茶飯事だが,アップしたあと数日のあいだ,何度か加筆推敲する)

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2018年9月 7日 (金)

江戸,東京の味 (八)

 昨日の記事の続き.
 永山久夫によれば,十八世紀の江戸では,庶民が白米を炊いた飯を食べるようになり,同時に刺身が流行したという.そして《刺身をおいしく食べるために濃い口しょうゆが誕生》したと主張した.

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 だが,濃口醤油の製法がいつ頃考案されたかについては定説がないのが実際のところである.Wikipedia でも,醤油関連の諸項目において,まちまちな説を挙げている.ただし,キッコーマンは濃口醤油の起源について明記していないが,公式サイトのコンテンツ《しょうゆのすべて》に次のようにある.
 
1697年(元禄10年)刊行の『本朝食鑑』には「等量の大豆と大麦で麹をつくる」とありますが、1712年(正徳2年)の『和漢三才圖會』では「大麦麹と小麦麹の2種があり、市販されているのはみな小麦を原料にしている」と記されています。それまでの大麦にかえて小麦を使うことで、より江戸の人々の嗜好に合った、今日の濃口しょうゆに近いものとなりました。
 
 またヒゲタ醤油
 
1697年(元禄10年)第五代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の濃口醤油の醸造法を確立させた
 
としている.これから推測すると,濃口醤油の起源は,銚子で1700年頃ではないかと思われる.しかし大豆と小麦を原料とする現在の濃口醤油の前段階に,大豆と大麦が使われた醤油があり,これを濃口醤油のプロトタイプとすれば,濃口醤油の起源はさらに四十年ほど遡ることになる.
 いずれにせよ濃口醤油は,江戸に刺身が広まるよりも前にあった.
 また永山久夫は刺身をおいしく食べるために濃い口しょうゆが誕生》したと主張するが,当然ながら濃口醤油は万能調味料であり,特に刺身のために開発されたものではない.
 
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 永山は,濃口醤油は刺身のために考案されたとし,さらに上の画像に書かれているように「魚と白米と濃い口しょうゆの組み合わせは江戸前ずしを生み出した」とした.
 それはとりあえずよしとして,ここまで延々と江戸の味付けはなぜ濃いのかという話をしてきたにもかかわらず,ここで唐突に森田美由紀アナのナレーション (もちろん永山久夫の主張を読み上げているのである) は
 
《…組み合わせは,江戸前ずしを生み出しました.こうして関西の薄味文化にたいする関東の濃い味文化が定着したのです
 
と語った.論理的には「こうして江戸の濃い味文化が定着したのです」となるはずだが,何の説明もなく「江戸の味」を「関東の味」にすり替えてしまったのだ.あっと驚く展開だ.まさかこんなデタラメがなされるとは,全国の視聴者の誰一人として思ってもみなかったのではないか.

 江戸で生まれた食べ物の代表格は,登場順に,蕎麦,鰻,鮨,天ぷらである.どれも最初は屋台で立食いする下衆の食いものだったが,やがて鮨と天ぷらは洗練されていった.
 東京の蕎麦やうどんを「色は真っ黒で味は濃くて,これは人間の食い物じゃない」とまで激しく貶す大阪人でも,江戸前鮨を「味が濃くて,人間の食いものじゃない」とは言わない.そんなことを言われたら,江戸前鮨の職人は怒るに違いない.「大阪の鮨は薄味なんかいっ」と.
 また東京風の天ぷらは胡麻油の風味が特徴だが,その強い香りを嫌う関西人でも,「東京の天ぷらは味が濃い」とは言わない.

 要するに,「江戸前鮨は味が濃い」と主張する永山久夫は,(1) 東京 (江戸) と関東の区別ができていない,(2) 「味が濃い」の意味がわかっていない.
 自ら番組中で「濃い味が好きだ」と白状した永山↓は,
 
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きっと,酢〆の小鰭だろうが昆布〆の白身だろうが,握り鮨のシャリを醤油にどっぷり漬けて濃い醤油味にし,せっかくの職人の仕事を台無しにして食べているのだろう.w
 ちなみに江戸時代の握り鮨は,旨味のある赤酢 (粕酢) で酢飯を作り,ネタにも仕事がしてあるので,当時の人々は醤油をつけずに食べていたという説が有力である.
(続く)

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2018年9月 6日 (木)

激動のラーメン史

 昨日放送されたNHK『歴史秘話ヒストリア「波乱万丈!ラーメンと日本人 震災・革命・復興 激動のドラマ」』は,気合の入った番組であった.再現VTRの中で登場人物の服装に少し疑問がある他は,食文化の時代考証的に全く文句はない.
 本気ならこういう上質の番組を作れるのだから,『チコちゃんに叱られる!』の監修に永山久夫みたいなデタラメ男を使わないでくれと言いたい.
 今回の放送は,今週の土曜日に再放送される予定だから,未見の高齢者諸兄におかれては,ぜひとも視聴をお勧めする.

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江戸,東京の味 (七)

 十八世紀の江戸時代,米将軍と呼ばれた徳川吉宗の治世に,米の生産量が増加した.
 それを背景にして江戸の人々は,分搗き米ではなく白米を主食とするようになった.これについて永山久夫は次のような嘘うんちくを傾けた.
 
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 昨日の記事に書いたように,永山は,江戸時代後期の人口増加によって生活排水が江戸前の海に流れ込み,その海域汚染によって魚介が《栄養を蓄えおいしく育った》という反社会的な妄説を主張した.その結果,江戸では《刺身が大流行 》したというのだ.
 
 ところがこれは大嘘で,実は江戸が人口の少ない田舎だった頃から,三浦半島から房総半島に至る関東沿岸の海は大きな漁場であった.テレビや映画の時代考証を仕事にしている山田順子氏の『江戸グルメ誕生』(講談社,2010年) などの資料をまとめると,関東の漁業は次のようであったらしい.
 
 戦国時代の末期,春から秋にかけての漁期になると,関西,特に紀州の漁民が関東にはるばると出漁してきて,房総半島や三浦半島に納屋を立てて漁を行っていた.獲った魚や貝は干物にして,関西に持ち帰って販売していた.(出典;慶長見聞集)
 江戸開府後,家康は,かねてより家康に仕えていた摂津国西成郡佃村 (現在の大阪市淀川区佃町) の名主孫右衛門を呼び寄せて,江戸向島 (現在の佃島) に住まわせた.孫右衛門には,佃村と隣村大和田村の漁師三十余名が付き従ってきた.
 家康は孫右衛門に森という苗字と,漁業権などの特権を与え,徳川家の御膳魚を納める役を仰せつけた.森孫右衛門は納めた魚の余りを日本橋小田原河岸で販売したという.これが日本橋魚河岸の始まりであり,森孫右衛門ら一族がその始祖であるとされる.(出典;国立国会図書館デジタルコレクション『日本橋魚市場沿革紀要』,国会図書館で閲覧可能.高価であるが古書も入手可能)
 それまでは江戸前各所の漁師が,獲れた魚を浜で売っていたが,これでは広域に流通させることができない.魚河岸とは,それらの漁獲を問屋が一ヶ所に集め,これを配下の仲買に売り,仲買は小売りに売るという流通システムだったのである.
 このようにして江戸の住人による漁業は,森一族 (一説には摂津の海賊であるという) に始まったが,その漁獲量では,とてものことに獲れた魚が庶民の口にまで回ることはなかったろう.
 しかし,やがて江戸の人口が増えると,優れた漁業技術を持つ紀州の漁民が関東に移り住み,獲れた魚を江戸に流通させるようになった.江戸時代中期,房総半島の漁民の半数以上が紀州出身者であったという.(出典;『江戸グルメ誕生』)
 すなわち,江戸の町人が魚を食べられるようになったのは,永山が妄想するように「生活排水で江戸前の海が汚染されたために魚が《栄養を蓄えおいしく成長 》したから」(爆) ではなく,先進的漁業技術を持った関西の漁民が関東に移住したことと,魚河岸という流通システムの発達によるのである.
 
 ところで当時は冷蔵技術がないから,魚は獲れて死んだときから傷み始める.これについて『江戸グルメ誕生』に次のようにある.
 
現代人は、魚といえばまず刺身を連想する人が多いようですが、江戸で刺身を食べられるのはごくわずかな人たちで、しかも、大変なご馳走でした。
刺身にするためには、魚の鮮度が重要ですが、江戸時代はたとえ江戸前で獲れたとしても、冷凍や冷蔵はもちろん、氷詰めもないので、夏場などは数時間で鮮度が落ち、足が速い魚は生食が危険な場合もあります。そこで、庶民はなるべく刺身を食べないようにしていました。
しかし江戸時代後期になると、江戸の各地にできた料理茶屋で、刺身を出すことを売りにする店が多くなり、そのために店内に生簀を作ったり、高い金額を払っても鮮度のいい魚を仕入れたりしました。それにともない料金も高くなるのですが、それでも食べたいという裕福な町人が増えたからです。
》 

 
 永山は《刺身が大流行》というが,それは富裕層のことであり,長屋に住む庶民にとって刺身は,身の程をわきまえぬ贅沢であった.
(続く)

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2018年9月 5日 (水)

江戸,東京の味 (六)

 昨日の記事に次のように書いた.

永山久夫は,塩分の多い佃煮や大根の塩漬けで大量の玄米を食べる食事スタイルを,土木工事を早く進めるために徳川家康が考案したのだと述べた.しかし実際にはその時代,玄米が主食として食べられていた事実はなかったし,現在の私たちが食べているような佃煮は,家康の時代にはまだ存在していなかったのである.

 史実を無視した上の大嘘に続いて,永山の思い付きホラ話はさらに続く.
 十九世紀初頭,江戸の人口は百万に達していたという.この人口増加により,江戸の海に流れ込む生活排水が増加し,その結果,江戸前の漁獲高が増加したと永山は言う.
 
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上の画像の一部を拡大↓(魚の骨を流すんじゃないっ 〈〉)
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 現代日本で,「生活排水の海域への流入が漁場を豊かにする」という反社会的な主張をしているのは,私の知る限り永山久夫ただ一人である.
 戦後,ある時期以前の日本には,生活排水にせよ工場廃水にせよ,浄化してから水域に放流しなければいけないという環境維持・保全の意識が希薄であった.
 私が子供の頃を思い出すと,郷里の田舎町では,生活排水は細い下水管や,側溝へ流されていた.それらの排水は「ドブ川」に通じていて,「ドブ川」は市内を流れる河川や,近くの池沼に流れ込んでいた.側溝や「ドブ川」は定常的な水の流れがあるわけではないから,淀んで腐敗臭を放っていた.
 状況は昭和四十年代の東京でも変わらず,私が大学生になって住んでいた地域を流れていた妙正寺川は,元々は湧水なのに,神田川と合流する辺りでは幅広のドブ川と化していた.神田川は言うまでもない.かつては上水路であっのに,昭和四十年代には都内で最も汚れた川の一つとなっていた.
 こうして多摩川から荒川に至るまで,魚も昆虫も,きれいな水を好む生き物たちは姿を消し,悪化した環境に住むフナなどが河川の一部に生き残っていた.
「死の川」とまで言われたこれらの河川から腐敗した水が流れ込んだ東京湾は,富栄養化して酸欠状態となり,湾内の漁業は大きなダメージを受けたのであった.
 こうなっては,国民も行政も生活排水による河川の汚染と環境破壊を直視せざるを得ず,昭和の後半あたりから改善の取り組みが始まった.今はまだ河川の環境回復の途半ばであるが,しかし私たちの生活排水による環境破壊に対する認識は大きく変わった.
 その変化に資するところ大きかったものが二つある.
 一つは,「森と川と海は一つの生態系である」とする思想とその実践者たちであった.(参考資料と書籍は多数.検索されたし)
 そしてもう一つは,循環型社会のモデルとして江戸時代を再発見する試みであった.(参考資料;書籍と文献多数あり)
 上に挙げた画像 (永山久夫の自筆か?) では,生活排水のゴミが江戸前に流れ込み,それによって《海の養分が増加》し,魚が《栄養を蓄えおいしく成長》したとしているが,それは事実か.根拠となる史料はあるのか.私はそのような文献資料を目にしたことがない.
 陸上で植物が繁茂し,枯れる.そして微生物がこれを分解する.長い長い時間をかけてこれが繰り返され,土地は豊かになる.川はその大地の有機物や微量栄養素を海に運ぶ.海に運ばれた栄養素によってプランクトンが繁殖し,これによって海の生き物が育てられる.この静かで安定した生態系において,人間の生活排水は擾乱因子である.
 仮に永山の説が正しいとすれば,水のきれいな海では魚は育たず,沿岸漁業は不可能という結論になる.かような事実に反する嘘を永山は平然と語る.その神経は,常人には理解しがたい.
 
 かつて武蔵野台地に住んだ人々の海産物採取は,寒冷化のために陸上の食糧資源が減少した縄文時代後期に遡る.この頃から,武蔵野とそこを流れる川と,その前に広がる海は,豊かな生態系と漁場を形成していた.江戸の人々は,その生態系を擾乱しないような生活をしていたというのが,「江戸=循環型社会」論である.
 東京都小平市環境部の公式サイトに《江戸の下水道》と出したコンテンツがあり,次のように書かれている.
 
江戸の下水道(どぶ)は、雨水排除を主眼に整備されていました。家庭からの雑排水は、現在と違って水を大切に使っていたので、「どぶ」に流される量はごく少量(たとえば、米のとぎ汁は拭き掃除に使い、さらに残ったものは植木に撒いた)であり、屎尿が下水に含まれることもなく、下水といってもそれほど汚れてはいなかったと思われます。
 
 永山久夫は,それらの見解に反対し,生活排水による海域汚染こそが江戸前の漁業を発展させたと主張するのなら,その根拠を示せ.またNHKは,公共放送としての責任がある.番組『チコちゃんに叱られる!』の内容に責任を持ち,主張の根拠を示さねばならぬ.
(続く)

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2018年9月 4日 (火)

江戸,東京の味 (五)

「徳川家康が行った土木工事に従事した労働者は一日に玄米一升を食べた」説をブチかましたあと,永山久夫は「それほど大量に玄米飯を食うためには,味の濃いおかずが必要であった」と述べた.いよいよ妄想に拍車がかかったのである.

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永山が言う「味の濃いおかず」とは何か. 

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 当時,江戸の農地で栽培されていた大根を塩漬けにしたものと佃煮であるという.

 だが,上の画像に示されている佃煮は,江戸時代の初期には,まだなかったのである.
 現在の東京都佃島あたりでとれた小魚は,塩で煮て (名称はそのまんま「塩煮」と呼ばれていた) 食べられており,醤油と砂糖で甘辛く煮詰めることによって保存性を高めた佃煮が考案されたのはもっと後,幕末の頃である.第一,関東で濃口醤油が製造されるようになったのは,寛永年間 (1640年頃) のことで,家康の死後,三十年近く経った時代のことである.しかも寛永の頃は,醤油はまだ貴重品であり,庶民は専ら塩,味噌,梅干し,酢,酒などを材料にして酢味噌や山椒味噌あるいは,煎酒 (いりざけ;酒に梅干しと削り節を加え,煮詰めて漉したもの) を拵えて調味料としていた.濃口醤油と砂糖で煮詰めた佃煮が登場したのは醤油の製造量が増えて安価になった江戸時代の後期である.それ以前の時代は,刺身も醤油ではなく煎酒をつけて食べられていたし,蕎麦のつけ汁も味噌味だった.
 
 永山久夫は,塩分の多い佃煮や大根の塩漬けで大量の玄米を食べる食事スタイルを,土木工事を早く進めるために徳川家康が考案したのだと述べた.しかし実際にはその時代,玄米が主食として食べられていた事実はなかったし,現在の私たちが食べているような佃煮は,家康の時代にはまだ存在していなかったのである.
 
 余談だが,江戸以外の地方で当時の主食であった五分搗き米や,江戸で食べられていた精白した米を,「玄米 (実は一分搗きの米であった) に換算して何合」ということは江戸時代からあった.土地の生産性を表す「石高」は玄米の体積で計算されていたし,武士の扶持米も玄米換算であった.ちなみに標準の扶持米は,成人男性の武士で一日に玄米換算で五合であった.体力勝負ではない武士が実際に食べる量はもっと少ないから,扶持米五合との差が換金されて,米以外の生活費に充当されたのである.
 また宮沢賢治の「一日ニ玄米四合ト」の四合もおそらく玄米換算での話である.ただしこの時は既に,籾から籾殻を外すのは,杵と臼とで行ったのではなく,機械式だったから,「アメニモマケズ」に書かれた玄米は現在の玄米と同じ品質だったと考えられる.そして搗精歩留を90%とすれば,宮沢賢治が口にしたのは日に三合五勺ほどであったろう.
 
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 逝去後は神君として崇められた徳川家康公を,恐れ多くもこの永山という男は,飯場で土方たちの飯の手配をする工事現場監督であるかのように言うのである.国家統治の頂点に立つ為政者が,天下国家の重大事を横に置いて,「佃煮は御飯が進むのう」などと暢気なことを言っていたはずがない.w 無礼者めが,世迷言もいい加減にするがよい.w

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