続・晴耕雨読

本や映画などについて.

2019年5月20日 (月)

薔薇ノ花

 私たちの国は,四季折々に咲く花に恵まれた.花が咲くのは日常普段のことだから,何が咲いて何が散ったか,気もつかぬうちに四季は過ぎていく.
 
 北原白秋の大正三年の詩集『白金之独楽』(金尾文淵堂) に「薔薇二曲」がある.
 青空文庫には入っていないようだが,国立国会図書館デジタルコレクションに収載され,原著は保護期間満了であるとして公開されている.同詩集の五十四ページと次ページにある「薔薇二曲」を下に引用する.原詩はもちろん縦書きである.

一 薔薇ノ木ニ
  薔薇ノ花サク。
  ナニゴトノ不思議ナケレド。
 
二 薔薇ノ花。
  ナニゴトノ不思議ナケレド。
  照リ極マレバ木ヨリコボルル。
  光リコボルル。
20190520b  
(国立国会図書館デジタルコレクションから引用) 

 字面だけなら,薔薇の木に薔薇の花が咲くのは当たり前なのだけれど,「ナニゴトノ不思議ナケレド」は,薔薇の花を見た白秋の感動を表現している.何の不思議はないけれど私の心は打ち震えた,と言っているのだ.
 それに,この部分は「薔薇ノ木ニ」がなくても成立する.「薔薇ノ花サク。」だけで白秋の感動は読み手に伝わる.それは,季節巡りて,咲くべき時に花が咲く自然の営みに心驚く詩人の感性である.
 そのことは,第二連に繋がる.時が来れば花は咲き,そして時過ぎれば花は散るのだと詩人は歌ったのである.
 
 さて徒然にネットを彷徨していたら,《国語の先生のブログ 》と題したブログがあった.ブログタイトルのキャプションに,

Lan-Lan教育研究所を開設いたしました。
教育の新しい形をめざして、情報、意見を発信してまいります。
また、プロ国語教師として、国語教育についても語りたいと思います
 
とある.
「プロ国語教師」とは何か.この文脈からすると「アマチュア国語教師」と対語を成すと思われるが,それでは両者の違いは何か.広く通用しているわけではない言葉を何の説明もなく用いる「国語教師」が仮にいるとして,それは本当に教師に値する人物なのだろうか.
 ま,それはさておいて,そのブログ記事から下に一部を引用する.
 
北原白秋の作品にこんな詩があります。
 
 一 薔薇ノ木ニ薔薇ノ花咲ク
   ナニゴトノ不思議ナケレド
 
 二 薔薇ノ花ナニゴトノ不思議ナケレド
   照リ極マレド木ヨリコボルル
   光リコボルル
 
         北原白秋 「薔薇二曲」『白金ノ独楽』
 
国語の先生のブログ 》の筆者は,間違いなく白秋の「薔薇二曲」を読んでいない.
 なぜなら,この人 (女性) は,原詩にはある句点を,引用文中では書き落としている.
 次に,原詩の改行位置を勝手に改竄している.常識として,元の詩の改行位置を変えてはいけない.
 果ては「照リ極マレ」を《照リ極マレ》にしてしまった.これでは意味が違ってしまう.
 余りの酷さに呆れて,記事の続きを読んだら,

私が理事を務める「社団法人日本Webライティング協会」授与の資格。お勧めです。
 
と書いてある.なーんだ.「教師」を自称するからには学校の先生かと思ったら,「国語」を金儲けのタネにしている人だった.
 その程度の人じゃあ,白秋の詩をズタズタにしても平気なのは当たり前で,なるほどね,と腑に落ちた.
 
 続いて白秋の「薔薇二曲」の改竄について調べてみたら,《きらびやかでもないけれど 》というブログも《照リ極マレ》としていることがわかった.きっと《国語の先生のブログ 》は,《きらびやかでもないけれど 》からコピペしたのだろう.そういう人物がやっている団体「社団法人日本Webライティング協会の授与する資格は,持っているのが恥ずかしい資格に違いない.

| | コメント (0)

2019年5月17日 (金)

天は二物を与えり

 昨日放送されたTBS系列全国ネット/MBSの特番『プレバト!! 3時間SP』はよかった.この番組は長く視聴しているが,録画を二度も再生して観たのは,今回が初めてである.
 何がよかったか.いつもの夏井先生による芸能タレントたちの俳句の才能査定は,前にも書いたがこれは大喜利みたいなもので,一種のお笑い番組である.生け花と料理の盛り付けも,エンタメ路線だ.しかし水彩画 (査定は野村重存先生担当),消しゴムはんこ(田口奈津子先生担当) は,素人芸の域を超える腕前を,芸能人の皆さんが披露してくれるので,私はもうテレビ画面を観て感嘆しているのみである.
 そこへもってきて今回は,楽器演奏の才能を査定するというのだから,おもしろくなかろうはずがない.他の企画と異なって,楽器演奏の才能査定は,若い人の言葉でいう「ガチ」である.出場者の受けるプレッシャーはかなりのものだったろうと想像に難くない.
 最初に登場した小倉優子さんはフルートでG.ビゼー『アルルの女』,元AKB48の松井咲子さんはピアノでピアノ協奏曲第五番『皇帝』,女優の黒坂真美さんはバイオリンでジュール・マスネ『タイスの瞑想曲』,立川志らくはハーモニカでレモ・ジャゾット『アルビーノのアダージョ』を演奏した.オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団,指揮は三ツ橋敬子さんである.
 最初の演奏は小倉優子さん.このきゃしゃな人が,演奏の前半は不出来だったが後半は持ち直して,見事「才能あり」の評価を獲得した.続く松井咲子さんには驚いた.音楽大学卒とはいえ,アイドルとして多忙な日々を過ごしてきた人が,三ツ橋さんの評価もオケの皆さんの評価も高く,テレビのこちら側として,このお二人には,天は二物を与えたり,と驚くしかない.
 残念だったのは,黒坂真美さん.素人目にも間違いなく緊張に負けていらっしゃって,著しく音程が不安定だった.査定は「才能なし」だったが,これは御気の毒だった.
 残る立川志らくは,そもそもクラシックの演奏は無理だったようで,まるで演奏になっていなかった.初めてだったのではなかろうか.
 今回の楽器演奏の才能査定は,芸人だとかそこら辺の人間を集めて来ればいい俳句の才能査定とは違うから,半年に一度の特番が制作できればいい方だろう.しかし,もう一度この企画を観てみたいものだ.オケの指揮はもちろんキュートな美女,三ツ橋敬子さんに決まりである.
 

| | コメント (0)

2019年5月16日 (木)

自然科学書はやはり最近の書籍がよろしいかと…

 別稿のザゼンソウに関する記事はまだ未完だが,動物でも植物でも細胞が熱を産生するのはミトコンドリアの機能だ.私はもう来年には齢七十であり,ミトコンドリアがどうのこうのという基礎的な科学の勉強から遠ざかって久しい.ザゼンソウの記事を書きながら思ったのだが,忘れてしまったことが多いから,また少し勉強し直してみようという殊勝な考えを持つに至った.
 ミトコンドリアについて書かれているネット上の資料をいくつか読んだら,参考図書として『ミトコンドリアが進化を決めた』(みすず書房) を挙げている大学の現役研究者がいた.定価4,104円 (本体価格3,800円) という少々お高い本である.それで古書を買うことにしてAmazonを検索すると,配送料込で3,296円で評価「中古品 - 非常に良い」の出品が見つかった.早速注文して,それが昨日届いた.
 梱包を解き,本を手に取って「オヤ?」と私は思った.「中古品 - 非常に良い」というより,これは読んだ形跡がないのである.みすず書房宛の読者カードはもちろん,書店の注文伝票までが挟まれているではないか.
 
20190516a
 
 不思議に思いつつ読み始めたら,まだ本論に入る前の「序 ミトコンドリア ― 世界を操る陰の支配者」の,一ページ目の終わりから,次のような記述があった.
 
《… ミトコンドリア遺伝子は母系の姓ののような役目を果たし、そのおかげで、征服王ウィリアムや、ノアや、ムハンマド (マホメット) まで父系の出自をたどろうとするように、母系の祖先をたどれるわけである。最近ではこうした考えの一部に異論も出ているが、おおかたこの見解は有効となっている。もちろん、これを利用すると、われわれの祖先がわかるばかりか、どれがわれわれの祖先でないのかも明らかになる。ミトコンドリア遺伝子を分析した結果によれば、ネアンデルタール人は現代のホモ・サピエンスと交雑しておらず、ヨーロッパの縁 (ルビは「へり」) で絶滅に追い込まれてしまったのである。
 
 ここまで読んで私はガックリとうな垂れた.なぜなら,今からもう十年近くも前 (2010年) に,ネアンデルタール人と現生人類は交雑していたらしいとのことが,DNA分析の結果で認められたからである.(Wikipedia【ネアンデルタール人】)
『ミトコンドリアが進化を決めた』の奥付をみると,2007年に第一刷が出版されていた.そのたった三年後に,著者が書いた《ミトコンドリア遺伝子を分析した結果によれば、ネアンデルタール人は現代のホモ・サピエンスと交雑しておらず、ヨーロッパの縁で絶滅に追い込まれてしまったのである 》はひっくり返ってしまったのだ.これからこの書物で説かれるだろうミトコンドリア遺伝子の分析の信憑性に,疑問が生じたわけである.
 こうなると,『ミトコンドリアが進化を決めた』は内容が古いから,「これは正しい」「これは「誤り」と,書かれていることの正誤を一つ一つ判断しながら読まなければいけないことになる.しかし,それは最新の論文誌に目を通している現役の研究者でなければ無理な相談である.つまり私のような門外漢は,最新の出版物を買って読むべきだったのである.
 ところで,私が購入した『ミトコンドリアが進化を決めた』は読まれた形跡がないと上に書いたが,もしかすると,この本を古本屋に売った人も「序」のネアンデルタール人の交雑の箇所を読んでガックリし,それ以上は読まずに売り払った可能性が高い.w
 さて私はどうするか.読者カードと注文伝票を挟み込んで再度売るか,あるいは書かれていることを他の資料にあたりつつ慎重に読んでみるか,いま思案中である.

| | コメント (0)

2019年5月14日 (火)

本件、隠蔽せよ (三) /工事中

「東京建電」が犯した企業犯罪をかい摘んで説明する.

| | コメント (0)

2019年5月10日 (金)

本件、隠蔽せよ (二)

『七つの会議』について所見を書く.この小説は謎解きミステリーではないし,結末にいささか問題があるのを指摘しなければいけないから,ストーリーのネタバレのようなこともどんどん書いていく.
 今から十年以上も昔のことだが,食品業界の不祥事が連日のように報道された時代があった.悪質な産地偽装ならばともかく,小さな会社の表示の誤りまでもが偽装だと指摘されて新聞に叩かれた.その新聞やテレビは,余程の事件性のあるもの以外は報道しなくなった.Wikipedia【企業による犯罪事件の一覧】から,この十年間の企業犯罪をピックアップしてみよう.
 
《2018年 KYB - 免震装置データ改竄
 2018年 スルガ銀行 - 不正融資
 2018年 SUBARU - データ書き換え
 2018年 はれのひ - 粉飾、詐欺
 2017年 神戸製鋼所 - 品質検査データ改竄
 2017年 てるみくらぶ - 粉飾、詐欺
 2017年 リニア中央新幹線建設工事 - ゼネコン4社談合
 2015年 旭化成建材 - 杭打ち工事のデータ改ざん
      (三井住友建設施工、三井不動産販売)
 2016年 スズキ - 燃費詐称
 2016年 三菱自動車 - カタログ燃費の詐称及び不正計測発覚後の
           再測定における燃費詐称
 2015年 東芝 - 長期に及ぶ不適切会計
 2015年 東洋ゴム - 免震パネル、防振ゴムなど試験データ偽装
 2015年 タカタ (企業) - エアバッグ不具合
 2013年 みずほ銀行暴力団融資事件 - 反社会勢力取引
 2013年 カネボウ化粧品・ロドデノールによる白斑症状 - 製品瑕疵
 2011年 オリンパス事件 - 粉飾決算
 2011年 大王製紙事件 - 不正による巨額損失
 2009年 JR東日本 - 信濃川発電所で10年に渡り違法な取水、虚偽報告
 2009年 三菱自動車 - 内部告発が行われるまでリコールを放置》
 
 上記の一覧の中で,カネボウ化粧品の件は品質事故であるが,他はすべて「不正の隠蔽」事案である.池井戸潤『七つの会議』は,企業はなぜ違法行為をするのか,誰が違法行為を指示するのか,そしてなぜ隠蔽をするのか,を描いた作品である.
 物語の舞台は,航空機からパイプ椅子に到るまで,広範な分野で事業を展開する大企業「ソニック」である.この社名からすぐにパナソニックが連想されるが,なぜ池井戸潤がこんなあからさまなことをしたのか.おそらく企業犯罪に関する取材の過程で,創作のアイデアをパナソニックから得たのであろう.それに対してパナソニックは何らの抗議もしていない.高校で習う英国の諺に“Every family has a skeleton in the cupboard.”というのがある.その筆法で言えば,どこの会社も不正を隠蔽している,だ.抗議して藪から蛇が出てはたまらぬからだろう.
 池井戸潤は,仮にモデル問題が生じても,対抗できるほどの材料を持っているのであろうが,映画とテレビドラマの制作サイドはそんなものは持っていないから,パナソニックから抗議されれば全く釈明できない.よってこの二つの映像化作品では,企業名を変更している.
 半沢直樹シリーズは,池井戸潤の銀行員時代の知識経験が土台になっているだろうが,製造業の会社内部で行われる不正は銀行側からは見えない.その会社は銀行に知られたら万事休すなので,絶対に知られぬように隠蔽するからである.(ま,銀行側の不正が企業からは見えないのと同じだ)
 従って,『七つの会議』は池井戸潤の周到な取材によって支えられていると見ていい.実際に,『七つの会議』に登場する会社員像,経営者像にはリアリティがある.
 話は横道に逸れるが,企業犯罪は,銀行よりも取引のある商社の方が知る機会があるだろう.一つ例を挙げる.
 昔,某社 (以下,A社) の一部門に,マーガリンを製造販売する部門があった.「あった」というのは,その会社はマーガリン製造部門を会社本体から分離して売却し,その売却先の企業も他社に吸収されたため,今はもうマイナーなブランド名が残っているだけである.
 A社は,昭和四十年代の初め,マーガリンの製造技術を海外から導入して,製造販売を開始した.マーガリンは,触媒を用いて植物油に水素を反応させ,油脂の不飽和度を下げることを行う.マーガリン製造技術の中心部分は,その触媒である.ところがA社が海外から導入した製造技術で用いられていた触媒 (水素添加触媒という;消耗品である) は,日本の食品衛生法では,食品の製造に使用が認められていなかったのである.その触媒は,触媒の活性を調節するのに使用する化合物 (触媒毒という) が少しずつ製品に漏れ出して,人体に対する安全性に疑念があったからである.
 そこでA社は,その触媒を使用していることを極秘事項として隠蔽することにし,製造したマーガリンを長年に亘って販売した.だが,その触媒は海外からの輸入品であったため,その触媒を輸入してA社に納入していた商社は,A社の違法行為を承知していた.マーガリン製造会社にその触媒を販売するということは,もちろんマーガリンの製造に使うに決まっているからである.
 今から十数年前のこと.A社はマーガリン事業をある企業 (以下,B社) に譲渡した.事業を買ったB社は,A社のマーガリンが食品衛生法違反の製品であることを,事業買収の事後に知った.B社は騙されたといっていいだろう.というのは,触媒を輸入していた商社が,メーカーの違法行為に加担したくないとして,マーガリン製造の事業主体が変わったのはいい機会だから,もうこれ以上,違法な触媒の使用をやめたらどうだとB社に申し入れたのである.商社は商売のためなら何でもするかのように見られていた時代も過去にあったが,実はそうでもないのである.メーカーの違法行為を諫めることもあったのだ.
 B社は本来,A社に騙されたのであるから,製造を断念し,損害賠償をA社に請求すべきであった.しかしB社はそうしなかった.食品製造において安全性が認められている触媒に変更することとし,製造技術が確立されるまでの間,違法を承知で製造と販売を続けたのであった.B社はその後,業界再編成の波の中で社の歴史を閉じたが,B社を欺いたA社は今も存続している.
『七つの会議』の舞台は二つの会社である.一つは先に述べた「ソニック」であるが,企業犯罪は,その子会社である「東京建電」で行われた.その犯罪について以下に説明する.

| | コメント (0)

2019年5月 7日 (火)

本件、隠蔽せよ (一)

 池井戸潤『七つの会議』を読了した.私は,池井戸潤の作品を読んだのは初めてだ.その理由は,いくつもの作品がテレビドラマ化されて圧倒的な人気を博したからである.私は元々が,娯楽番組の三時間スペシャルは平気で観るくせに,一時間の連続テレビドラマを何週間も観続ける気力に欠ける男なので,例の『半沢直樹』や『下町ロケット』『陸王』などが気にはなっていたが結局は録画すらしなかった.(『陸王』は第一回放送を試しに観たのだが,第二回以降を続けては観なかった.キャストがあまり魅力的でなかったからである)
 それがどうして『七つの会議』を買って読んだかというと,この小説が野村萬斎主演で映画化され,今年の初めにて劇場公開されたのだが,そのCМをテレビで見たからである.
 その映画宣伝広告にはある種の作品が持つ訴求力があったので,原作を購入した.そしてそのあとで知ったのだが,既に六年前にNHKで東山紀之主演の同名のテレビドラマ『七つの会議』が全四回にわたって放送されていたのである.(2013年7月13日 - 8月3日)
 このTVドラマはDVDが発売されているが,映画の方はまだのようだ.TVドラマにせよ映画にせよ,単に映像化しただけで原作を忠実になぞるのでは制作する意味があまりない.いい例が松本清張の『砂の器』である.小説『砂の器』は,ハンセン病に関する偏見と患者に対する差別問題を取り上げた社会性を高く評価されるが,映画『砂の器』(脚本;橋本忍,山田洋次:監督;野村芳太郎:1974年) は,原作の社会性を映画音楽 (主人公を現代音楽ではなくクラシックの作曲家に設定を変えたことが特筆される) と,父と子の放浪を描く映像美によって,さらに高い境地に昇華させた.むしろ原作よりも芸術性が高いと評価してよい.このように原作を凌駕する感動を鑑賞者に与えるのでなければ,制作する意味がないのである.野村芳太郎監督作品『砂の器』以降,何度もTVドラマ化されたが,どれも映画化作品はおろか,原作以下の水準に終わった.原作小説の映像化というのは難しいものである.
 その意味では,東山紀之主演のNHKドラマも,野村萬斎主演映画も,ただの直感であるが,期待できるものがある.そして,映像化作品を観るために必要な前提として,池井戸潤『七つの会議』を読んだのである.
 前置きが長くなった.原作の『七つの会議』の書評を始めよう.

| | コメント (0)

2019年4月15日 (月)

余計なお世話だ

 昨日の記事にニウエ語の辞書を独力で編纂して自費出版をなさった遠藤澄さんを紹介した『日立 世界ふしぎ発見』を観て,世の中にはすごい人がいるものだと感心したと書いた.遠藤さんの御歳は米寿くらいであろうか.かなりの御高齢である.
 
 それはさておき,我が国が高齢社会を迎えた時,抜け目のない連中は「高齢者マーケットは大きい」と判断し,一つこれで本でも書いて稼いでやろうと思ったようだ.
 その結果,定年後の男性を対象にした駄本が書店の棚に並ぶこととなった.
 そのバカ本の著者の一人に保坂隆という,私たちよりもずっと若いらしい精神科医 (聖路加国際病院) がいる.この男が,やたらと似たような駄本を数十冊も書きまくって,自分より年上の高齢者層の人々に説教を垂れている.アホらしいからこいつの著書の数を数えてはいないが,こんなに本ばかり書いているようでは,専門分野の勉強なんぞしているはずがない.この男の頭の中は印税のことしかないに違いなく,聖路加病院も堕ちたものである.
 で,この医者に噛みついたのが,先日の記事にも書いた勢古浩爾氏である.勢古氏によると,保坂隆はかなり頭が粗末らしく,あれこれ書き殴っているうちに,甲著書と乙著書とで,言うことが食い違ってしまっているらしい.
 ま,そこ等辺の指摘は勢古氏におまかせするとして,許せぬのは,保坂隆が,東京オリンピックにかこつけて,《スワヒリ語やアラビア語の勉強を始めるのも一つの考え方でしょう 》と間抜けなことを書いていることだ.(『精神科医が教える定年から元気に「老後の暮らし方」』PHP文庫;下線はこのブログの筆者が付した)
 私たちは保坂のごとき若造から,自分の生き方を「教え」てもらう気はさらさらない.保坂が傲慢にも誰かに「教え」たいなら,自分より若い人たちを相手にせい.
 それはともかく,保坂は,言語というものをどう考えているのか.私たち高齢者がスワヒリ語を学ぶということに現実性と意義ががあるのか,少しは考えてみろと言いたい.
 もちろん保坂は,こんなことを言うからにはスワヒリ語を読み書きできるのだろうが,私は嫌だ.保坂は,スワヒリ語を何か珍しい言語ででもあるかのように書いているが,そんなことは全くない.スワヒリ語はメジャーな言語である.
 ここで冒頭に紹介した遠藤澄さんのことに戻る.遠藤さんにとってのニウエ語は,遠藤さんの人生にとってとても大切な言語であったという.だから,遠藤さんはニウエ語の習得に十年の歳月をかけた.
 そのように,私たちが残り少ない人生のうちの十年をかける意義が,スワヒリ語を勉強することにあるのか.あろうはずがない.保坂の口から出まかせには,もはや怒りを通り越して,情けないと言うしかない.

| | コメント (0)

2019年4月 1日 (月)

ほっといてくれ

 私が会社員だった時の同期入社で,定年まで残ったのが私の他に三人いる.
 一人は定年後,ちょっと広めの農地を借りて野菜などを作っている.道の駅に出品しているそうだ.
 一人は,元々が資産家である.働く必要がないので,定年後は取っつき易い趣味を探したらしいが,数年で飽きてしまったらしく,今はもうやっていないようだ.というより,彼の「趣味」は,その道を究めたいという趣旨ではなく,それを通じて人間関係を作るということらしい.
 もう一人は取締役まで出世したので,これまた資産を蓄えた.蕎麦打ちをやったり釣りをしたりしていたと聞くが,趣味としてモノにはならなかったようである.
 さて,最初の一人はどうか知らないが,あとの二人は,会えば株式投資で資産運用することしか話さない.○○社はいくら上がっていくら儲かった,なんて話を延々と話している.それが彼らの今の趣味らしい.
 
 書店に行くと,高齢者が残された人生をどう生きるかについて,ふざけた説教を垂れている本がたくさんある.やれ残間里江子『それでいいのか蕎麦打ち男』 (新潮社) とか,内館牧子『終わった人』(講談社) などなど.
 もう充分に働いたから,あとはなーんにもしないでノンビリしたいという「終わった人」である私たちの希望を,成功者である彼女らは許してくれないのである.
 彼女らは団塊世代の女性である.内館牧子は昭和二十三年 (1948年) 生まれで,残間里江子は昭和二十五年 (1950年) の三月生まれで,私と同年同月生まれだ.ちなみに,吉永小百合様は昭和二十年三月の御誕生であります.
 内館と残間は,その拙い筆で同世代の男たちを嘲る.よっぽど男社会の中で悔しい思いをしたのだろう.その悔しさを,同世代の男たちがリタイアしたあとになって晴らしているのだろう.その気持ちはとてもよく理解できるのだが,戯画化され,嘲られた同世代の普通の男たちが,彼女らの高慢をどう思ったかは,たぶん理解できないだろう.理解できるなら,あんなことは書かない.
 彼女らの,同世代の男たちに対する嘲笑の理由は,彼女たちが若くして虚業で身を立てたことである.
 私たち団塊の世代の男たちは,ほとんどが実業社会で生きてきた.工場で汗水たらして働き,あるいは営業の外回りをして靴底をすり減らして日々を過ごしてきた.サービス業もしかり.いい時ばかりではなく,顧客の前で平身低頭もしてきた.家のローンとか,子供の教育費とか,余命を減らすような思いをしてきた.そして,だから,悔しさを堪えている男を笑うことはしなかった.自分自身が情けない思いを肚の底に沈めて生きてきたからである.内館や残間は,そのような同世代の男たちの実像を知らない.知っていたら,あんな戯画化はしない.
 
 何を根拠に彼女らは傲慢に男たちを嘲るのだろう.かねてよりそう思っていたら,私たち一般庶民の男たちの異議申し立てを代弁してくれる人がいた.勢古浩爾『定年バカ』(SB新書)だ.
 この本は,内館や残間だけでなく,高齢者に生き方指南をする若造たちも滅多切りにしてくれる.痛快この上ない.
 借りた農地で野菜を作って何が悪い.昼酒を飲みながら株の上がり下がりに一喜一憂して何が悪い.私みたいに日記ブログしかやることのない男で何が悪い.ほっといてくれ.
『定年バカ』は,「終わった人」たちへの応援歌だ.

| | コメント (0)

2019年2月23日 (土)

またまた砂の器

 ネットニュースに《東山紀之で「砂の器」 殺人事件追うベテラン刑事役 フジで現代版にアレンジ 》によると,またまた松本清張『砂の器』がテレビドラマ化されるのだそうだ.
 キャスティングは,今西栄太郎役に東山紀之,和賀英良役に中島健人,本浦千代吉に柄本明が起用されるる.
 各俳優は実年齢的には問題ないが,東山紀之は若見えする美貌のせいで役作りに苦労するのではなかろうか.
 ただ,今回のドラマ『砂の器』も,これまでの放送作品と同様に,時代背景を現代に設定するというから,戸籍の偽造,およびハンセン病の設定を変更せざるを得ない.とすると,ピンと張りつめた社会性と,人物の人間性が観る者の胸を打った1974年制作の映画版『砂の器』に遠く及ばないものになると思われる.
 映画版『砂の器』自体が清張の原作とは大幅に趣の異なるものであったわけだから,ここはひとつ小細工をせずに,原作の設定に立脚した正攻法のドラマにするという手もあったのではないか.今回のテレビドラマ化も失敗が見えているような気がする.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年1月19日 (土)

たんぽぽ娘 (補遺三)

たんぽぽ娘》の記事中に次のように書いた.[なお,この記事の補遺 (一) と (二) はカテゴリー『続・晴耕雨読』にあります)

短編「たんぽぽ娘」はSFだけれどミステリーのテイストがあり,ここに描かれている一種のトリックは,ライトノベルしか読まないような若い人には理解不能だと思われる.

 ライトノベル出身の作家には大変に優れた才能の持ち主がいて,例えば有川浩さんや三上延がそれだ.ライトノベルはおもしろいが,しかしライトノベルしか読まない読者の頭の中身はお話にならない.例えば《タイムトラベルの本棚 》と題したブログの《『たんぽぽ娘』ロバート・F・ヤング 伊藤典夫@訳 》という記事の筆者がその典型で,読解力ゼロだ.(更新停止しているブログであり,リンク切れの可能性が高いので,画像で引用する)


20190118c

 前に書いたように「たんぽぽ娘」はミステリー風味のSFであるが,この記事の筆者は中学生か高校生か,いずれにせよミステリーを全く読んだことがないようだ.
 ミステリーの基本ルールの一つに,「作者は読者が推理するのに必要なすべての情報を開示しなければならない」というのがある.言い換えれば,読者は作者が開示した情報だけで推理しなければならぬのである.
 ところが《タイムトラベルの本棚 》の筆者は,読んでもストーリーが理解できないので,自分が理解できるように伊藤典夫の翻訳文を歪曲して,勝手な妄想をしている.
 妻アンの若い時の髪の色は「たんぽぽ色」であった.この ばか者 記事の筆者はどんな英和辞典を持っているのか知らぬが,「たんぽぽ色」を勝手に「亜麻色」にしてしまった.これからわかることは,この記事の筆者は「亜麻色」がどんな色か知らないということである.
 余談だが,色の表現は難しくて,普通はかなりの幅がある.極端なのは「カーキ色」で,これは黄土色からくすんだ緑色まである.通販の服に「カーキ色」と書いてあったら要注意だ.品物が届いて開梱したら,想像と全く違う色だったんなんてことがある.で,亜麻色については的確な資料 (《亜麻色の髪とは、淡い栗色ではなかった 》) がある.
 閑話休題.翻訳者が「たんぽぽ色」と書いているのだから,自分も「たんぽぽ色」と書けばいいのである.まさか,たんぽぽの色を知らぬのではあるまいな.w

 次の妄想はこれ↓だ.
 
髪の色も顔も変わってしまったがアンはジュリーが顔を変えた姿だった。
時間警察に見つからないように顔を変え
1961年の1人だけの休暇の時にマークとジュリーの出会いが上手くいかずにタイムパラドックスが起きないか不安に思っていた。
 
 伊藤典夫の訳文のと゜こを探しても,整形手術のことは出てこない.w
 タイムパラドックスなんてことも出てこない.
 何となればこの小説は,長く連れ添った夫婦が互いの愛情を再発見する物語であり,タイムトラベルは,単なる舞台装置に過ぎないからである.まあ,中学生には難しい小説だろう.二十年経ったら,また読んでみなさい.w

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧