続・晴耕雨読

本や映画などについて.

2020年3月17日 (火)

わたしには秘密にしておいて

 このブログで何度も,終戦後に日本に入ってきた欧米の歌や映画のことを書いてきた.
 映画という文化は,シナリオを映像にするという作業においては昔も今も変わらないのだけれど,特に洋画ではこの七十年間に映像化技術の革命つまりCGが多用されるようになり,ジャンルによっては (例えばファンタジーやSFなど) 昔の作品はいかにも古色蒼然としてしまった.
 ところが音楽は,録音と再生の技術は高度に発展したけれど,そのために昔の音楽が古びるということがなかった.
 私が若い頃はLPレコードをターンテーブルに載せて針を静かに落とし,お気に入りのスピーカーから聞こえてくる音に聴き入ったものだが,いまやCDの時代も既に終わり,音楽は配信されてくるものになった.
 しかしそれでも私は,深夜に,古めかしい道具を使って1950年代の音楽を聴くのが好きだ.
 
 私が貯め込んでいる音源は,ほとんどが女性歌手のものだ.戦争が終わった極東の島国に生まれ育った少年たちは,イギリスやアメリカ,フランス,イタリアの歌姫たちに恋をしたのだった.
 私たち七十過ぎの世代が死に絶えたら,彼女たちが歌ったラブ・ソングも時の流れの彼方に消えていくのだろうと思うと,静かに切ない.
 その懐かしのラブ・ソングにもいろいろある.片想い,失恋,恋人の死…… ハッピーな歌はあまり思い出せない.それにそんな歌は聴きたくないし.
 片想いの歌なら,“Keep it a secret”を老人は忘れがたい.
 
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 オリジナルはジョー・スタッフォード (1952年録音) だが,その後にカバーした歌手によって,歌詞にわずかな異同がある.
 この歌のシーンは,お節介な女友達が「ねえねえ,彼がまた新しいコと一緒にいたわよ」とか「元カノとヨリがもどったのかしら,二人して飲んでたわ」とか言ってくるというのだ.ここで“if”は婉曲な言い方.遠回しに,彼女の無神経さを非難している.
 rendezvousは,ドアを開けて入ると,飲み物と軽食を出す小さなカウンターがあって,壁にはダーツの的がある.ジューク・ボックスが隅に置かれていて,フロアにはジルバかなにかを踊れる狭いスペースがある.そんな街の片隅にある店のことだろう.いかにも古い映画に出てきそうだ.
 “Painting the town”は口語.文章ではあまり使わないかも知れないが,辞書にはある.
 “Pay no attention and just let be”は,余計なお世話に少し腹を立てている描写だ.そして“But keep it a secret from me”の悲しい恋心.
 第二次大戦後に歌われた,もっともリリカルな片想いの恋の歌がこれだ.

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2020年2月13日 (木)

チコと鮫

 逃がした魚は大きい,という話とは少し違うが,見逃した映画はいつまでも忘れられない.
 私の場合の例の一つは『大砂塵』だ.昭和29年 (1954年) 公開だから,もちろん1950年生まれの私はリアルタイムでは観ていない.
 Wikipedia【大砂塵】から引用すると次のようだ.
 
『大砂塵』(だいさじん、原題・英語: Johnny Guitar) は、1954年 (昭和29年) 製作のアメリカの西部劇。原作はロイ・チャンスラーの小説、製作会社は西部劇を専門にしていたリパブリック・ピクチャーズである。
原題のジョニー・ギターとは放浪する主人公 (スターリング・ヘイドン) の名前だが、彼を巡る二人の女性が実質的な主人公であり、女性同士の決闘が公開当時話題となった。また、ペギー・リーが歌った主題歌『ジャニー・ギター』も世界的なヒット曲となっている。
 
 映画の役柄の場合は《ジョニー・ギター 》で,主題歌は《ジャニー・ギター 》と書き分けているところが,この記述の工夫だろう.
 私が中学生の頃,ケン田島さんという人がいた.TBSラジオの電話リクエスト番組のDJで,この種の音楽番組司会者の草分けの一人だった.この人は英国生まれのバイリンガルで,しかも声が落ち着いた低音であり,中学生の私にはとてもきれいな英語の発音だと思われた.
 ある夜の放送でケン田島さんはJohnnyの二通りの発音をしてみせた.そしてペギー・リーの歌のことを言う場合は片仮名で書くと「ジャニー」の方がそれらしく聞こえますと言った.ついでに当時の人気歌手Joanie Sommersの名を発音して,「女性の名の場合はJohnnyと同じ発音をしてはいけません」とも言ったのを記憶している.他局の日本人DJたちはJohnnyもJoanieも一緒くたにしていた時代であったが.
 それはともかく,一昨年,長らく絶版になっていた『大砂塵』のディスクが発売され,私はようやくこの映画を観ることができたのだった.今の高齢者で『ジャニー・ギター』を聴いてよく知っている人でも,『大砂塵』は未見の人が多いのではなかろうか.水を差すようだが,『大砂塵』は大した作品ではなかったと付け加えておきたい.
 
 さて,未見の作品がもう一つある.いや,あった.それが『チコと鮫』だ.これも一昨年の発売だが,私はついぞ気が付かなかった.つい数日前にディスクがあることを知って,Amazonに注文した.
 これは絶版になっていたのではなく,そもそも今回が初めてのディスク化らしい.注文したものが昨日配達されたので,早速鑑賞してみる.
 ところで『チコと鮫』は主題曲も超有名だ.サウンド・トラックはこれ.ところがこの曲はConnie Francisがカバーした“ My Happiness ” に似ていることでも有名なのだ.(YouTubeはこれWikipediaはこれ;サウンド・トラックよりも《不朽の名作 ~ チコと鮫 ~ 》のほうがわかりやすい)
 でも誰もこのことを突っ込まない.誰もこのことで映画『チコと鮫』を傷つけたくないんだろうと思う.
 さらには,伊藤アイコという昔々のマイナー歌手の「チコと鮫」という歌 (1963年リリース) があって,これはオリジナルが誰なんだか全く不明なカバーなのだが,しかし彼女の歌は不思議なことに高齢者の一部に根強い支持があるようなのだ.そして私も彼女の歌唱に郷愁みたいなものを持っている.そこで彼女がどうなったのか調べてみたら,《伊藤アイコさんについて》を発見した.いやあ,こういう記事を上げてくれるかたには,ただもう感謝するしかない.

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2020年2月 2日 (日)

進駐軍放送

 音楽の趣味は人それぞれで,クラシック音楽一辺倒の人もいれば,還暦過ぎなのにAKB48をカラオケで歌う人もいる (私の会社時代の後輩だ ^^;).
 自分はどうかというと,ジャズに疎い.いいなあ,と思って購入し,時々は聴いているジャズ方面のCDはホントに少ないのだが,その一枚にジュリー・ロンドンの古いベスト盤がある.Wikipedia【ジュリー・ロンドン】にあるように,彼女の歌手としてのスタートは遅く,ファーストアルバム“Julie Is Her Name”を録音したのは1955年だった.私が中学生の頃,深夜放送で彼女の歌を毎日のように耳にしたのは1960年代前半だったから,今にして思えばその時の彼女はまだ三十代だったのだが,声質のせいか既にして大御所感を漂わせていた.
 さてそのベスト盤に“Dream”が収録されている.YouTubeはこれ.いかにも深夜に聴くに相応しい.
 ではあるけれど,ベスト盤全三十曲の収録曲のうちでこれがベスト中のベストかというと,はたしてどうでしょうか,という感じ.
 
 そう思っていたある日のこと,視聴者の人気が高くなっていたNHKの『サラメシ』を初めて観た.この番組のエンディングは「あの人が愛した昼メシ」というコーナーで,Wikipedia【サラメシ】には次のように書かれている.
 
あの人が愛した昼メシ
放送されるときは必ず番組の最後に放送するコーナーで、すでに故人となった著名人の愛したメニューを、その人の料理への思いとともに紹介するほか、その人の人柄や逸話を店主や料理人が語る。BGMはザ・パイド・パイパース(英語版)の「Dream」。
コーナー冒頭は故人の遺影を前面に映したタイトルバックに、中井の「あの人も、昼を食べた。」のナレーションで始まる。最後に料理と遺影が並べられたテーブルを映し、中井が「…御馳走様でした。今日も、お相手は、中井貴一でした」で締めて番組は終了となる。
 
「あの人が愛した昼メシ」の内容自体はさして特筆すべきものではないのだが,《すでに故人となった著名人 》が「占領下の日本を知っている世代」であるところに趣向がある.そしてその人たちが象徴するところの,かつてこの国にあって,今は過ぎ去った時代の空気感
と,BGMの“Dream”が絶妙なフィーリングで一致するのだ.(例えば最近の放送では,朝丘雪路や加藤剛だった)
 BGMをコーラスしているザ・パイド・パイパーズはWikipedia【The Pied Pipers】によると,1930年代後半に結成した当時のメンバーは女性一人と男性八人の構成だった.その女性というのが,後に一世風靡したソロシンガーのジョー・スタッフォードだった.
 その後,メンバーはジョー・スタッフォードと男性三人の構成に変わったが,彼女がソロ歌手として独立すると,女性ボーカルはJune Huttonに交代した.男性メンバーの入れ代わりはWikipediaに譲るとして,この時期にパイド・パイパーズは多くのヒット曲を出した.その一つに1944年に録音した“Dream”がある.彼らのコーラスのテイストはYouTube《The Pied Pipers - Dream》などで試聴できる.
 
 “Dream”が大ヒットしてザ・パイド・パイパーズのゴールドディスクとなった1945年.7月に米軍は沖縄を占領し,米軍直轄放送局AFRS (the Armed Forces Radio Service) を開局した.この短波局は太平洋上の島々の日本軍に対して降伏を促す放送を行った.
 二ヶ月後,戦後占領期の開始と共に米軍は同年9月12日にNHK東京放送会館の一部を接収して進駐軍放送WVTRを開局した.この中波放送局はその後,鹿屋,熊本,大分,別府,佐世保,小倉,大阪,仙台,札幌,沖縄,ソウル,釜山,マニラにも開局し,米軍基地関係者とその家族向けの英語放送を行った.この進駐軍放送は講和条約が成立して日本占領が解除された1952年にFEN (Far East Network,極東放送網)と改名された.
 戦争が終わる前,S盤レコードで米国の音楽を知ることのできたのは,一握りの人々だけだった.しかし進駐軍放送とFENによって占領下の日本大衆がジャズの洗礼を受けた.美空ひばり「東京キッド」の三番歌詞に「いつもスイング ジャズの歌」とある通り,子供たちもジャズを聴いて育った.その子供たち,言い換えれば「占領下の日本を知っている世代」の故人を偲ぶに,“Dream”は最もふさわしい曲だろう.
 私がザ・パイド・パイパーズの“Dream”を聴いたのはもちろん進駐軍放送ではなくFENだったが,今でも彼らのコーラスとジュリー・ロンドンの歌唱を聴き比べると,両者に十年の時の隔たりを感じる.郷愁というテイストの点で,数多の歌手たちがカバーした“Dream”は,遂にオリジナルを超えることができなかったように思う.
 AmazonのCD購入者のレビューを読むと『サラメシ』は,若い音楽ファンが“Dream”を知るきっかけになっているようだ.これはNHKのお手柄だろう.

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2020年1月25日 (土)

長屋の台所

 高田郁『みをつくし料理帖 八朔の雪』を読んでいたら,裏長屋の台所の造作が,江戸と上方では異なると書いてあった.
 
 話のいきさつを前にも書いたように,昨年末に放送されたNHKの『みをつくし料理帖スペシャル』がおもしろそうだと思って録画したのはいいが,この録画を楽しむには,前提として,原作を一通り読むか,あるいは連続ドラマとして放送された当時の映像を視聴するのがよさそうなのである.
 そこで連作『みをつくし料理帖』第一作の『八朔の雪』を読み始めた次第.するとこんなことが書かれていた.
 
澪が不思議に思う光景の一つに、江戸のおかみさんたちの炊事姿がある。俎板を板張りや畳に置いて、座ったまま調理するのだ。流しを使う際も座ったまま。江戸中の台所を覗き見たわけではないけれど、澪の知る限り、食べ物を商う店は別として、家庭では座って料理を作ることが一般的なようだった。澪を手こずらせる江戸の流しの低さも、このためなのだ。
 流し台の作り自体は、江戸も上方も大差ない。四角い木箱に四本脚。隅の排水口から水が戸外に流れていく仕組みになっている。ただ、江戸では流し台の位置が、板張りと平行になるほど低かった。座っての調理に使い勝手が良いためだろう。
 土間に立って料理することに馴染んでいる澪にとって、座ったままでの調理姿は、やはりどうにも馴染めなかった。

 
 これを読んで,思わぬ盲点を突かれた気がした.ヒロインの澪は,今は亡き主人の未亡人である芳と二人で江戸の長屋住まいであるが,私は長屋の造作は江戸も上方も同じだとばかり思っていたのである.
 江戸の長屋の実寸大再現模型は,深川江戸資料館江戸東京博物館にある.このうち,深川江戸資料館に常設展示されている長屋の台所を写した写真が江戸散策 第6回 台所をのぞけば、その時代が見えてくる》に掲載されている.その写真のうち「写真2」の右半分に写っているのが長屋の「流し」であるが,板敷き (板張り,板の間ともいう) の居住スペースより少し高い位置にあるだけだ.長屋の場合に限るが,「へっつい」の横にある「流し」の下にはあまり空間がない.料理する際は,板敷きに正座し,「流し」の上で調理したのである.『八朔の雪』には《俎板を板張りや畳に置いて、座ったまま調理するのだ》とあるが,少し実際と違うようだ.《俎板を板張り》に置いて調理したのは,キッチンに広い板敷きがある武家の家のことだと思われる.町人の住む,居住スペースが著しく狭い長屋の部屋では,調理は「流し」の上で一切をやったのである.
 
 次に,録画してある『みをつくし料理帖 総集編』の冒頭を少し観てみよう.
 下の画像は澪と芳の二人が住んでいる長屋である.(テレビ画面を撮影してトリミングした)
 澪 (黒木瞳さん) の後ろの土間に流し (赤↓) があるが,丈の高い脚が付いている.これなら立って調理することができるから,原作とは異なっている.
 さらにいえば,この部屋には不必要に広い土間がある.おそらくこれは,撮影の都合を優先してセットを作ったためである.そのため,貧しい澪と芳が,こんなに広い間取りの長屋に住んでいるというリアリティに欠ける結果になった.
 しかし,深川江戸資料館などで長屋の実寸模型を観るとわかるが,実際の長屋の部屋は中が狭すぎて,部屋の中のシーンを撮ると,ものすごい圧迫感のあるアップになってしまう.だから澪と芳の部屋のセットを広くしてしまったのは,やむを得ないとはいえる.
 ただし,山田洋次監督作品『たそがれ清兵衛』には,狭い部屋の中で撮ったリアルなシーンがあったと記憶している.すなわち下の場面は,テレビドラマにおけるカメラワークの妥協であろう.
 
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 ところで原作『八朔の雪』では,上方では「流し」の前に立って調理すると書かれている.だとすると上のシーンは江戸の長屋ではなく,むしろ上方の庶民の住居の様子に近いと言える.過密都市であった江戸の町人は非常に狭い長屋に住んでいたわけだが,それほど住宅事情が劣悪でない上方では,ちゃんとした土間のある家に庶民は住んでいたのかも知れない.
 
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 上のシーンは,澪が流しの前に立って出汁を取っている場面である.原作の時代考証とは異なるが,違和感はない.これはこれでいいのではないだろうか.

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2020年1月18日 (土)

小川と娘

 ジョン・エヴァレット・ミレーは1852年,戯曲『ハムレット』の登場人物のオフィーリアが溺れて死ぬ様子を描いた.
 

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(『オフィーリア』,パブリックドメイン;Wikimedia File:John Everett Millais - Ophelia - Google Art Project.jpg)

 テレビ東京の新美の巨人たち 35歳で早世…奇跡の物語!三橋節子『花折峠』×奥貫薫》(1月11日放送) をたまたま観たら,夭逝した画家の三橋節子を取り上げていた.
 私は三橋節子についてほとんど知るところはなかったのだが,番組中で紹介された絵のいくつかは既視感があった.
 彼女の代表作の一つが『花折峠』である.この作品は,引用できる画像がないようなので,テレビ画面を撮影した画像を下に示す.
 
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『花折峠』は創作民話を材に取った作品だという.テレビ画面で『花折峠』を観たとき,私は瞬間的に『オフィーリア』を想起した.
 もちろん『オフィーリア』と『花折峠』ではモチーフが全く異なるのであるが,「あ」と思ったことは確かである.
『花折峠』は大津市立の「長等創作展示館・三橋節子美術館」が所蔵している.訪ねてみたいと思った.
 
 ちなみに,創作民話「花折峠」の作者は中野隆夫というかたである.

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2020年1月16日 (木)

鉄の道 (補遺)

 昨日の記事《鉄の道》の末尾を再掲する.
 
スキタイの東端から製鉄の遺跡を辿ってユーラシア大陸を横断していくと,アルタイ地方に至る.
 スキタイは文字を持たなかったため,従来は謎に包まれていたが,現在は版図の精力的な発掘が行われており,かなり詳しいことがわかってきたらしい.同時代のギリシャの記録などから著しく野蛮な民族だと思われてきたが,非常に高度な金属文化を持っていたようだ.
 このスキタイからさらに東方へは二手に分かれて製鉄技術が伝播したという.

 
 この箇所は,誤解のないように,もう少し詳しく書く必要があった.以下の画像は,テレビ画面をカメラ撮影した画像をトリミングしたものである.
 まず,ヒッタイトが発展させた製鉄技術は,ヒッタイトが興亡したアナトリア地方 (下の画像の黄色い円形部分のあたりにある;現在のトルコ共和国のアジア部分) からコーカサス地方 (黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と,それを取り囲む低地からなる地域) を経て,スキタイの版図の西端に伝えられた.
 紀元前七世紀から前二世紀にかけて繁栄したスキタイの版図の西端から東方に,ほぼ同じ緯度の地帯に製鉄炉の遺跡が分布している.
 
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 製鉄炉が分布する地帯は,下の画像に示されているように,現在のカザフスタンからモンゴルにかけて,北の森林地帯と南の砂漠地帯の間に広がる草原地帯である.
 
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 この中央ユーラシアに紀元前四世紀に勃興したのが匈奴である.(下の画像)
 

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 匈奴が遺した製鉄炉を発掘調査している愛媛大学の笹田准教授は,匈奴の製鉄技術は西方 (スキタイ) から伝播したものだという.(下の画像)
 
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 冒頓単于が率いる匈奴の,鉄製の矢じりを付けた矢を騎射する騎馬軍団は,前漢皇帝・劉邦 (高祖) の軍を圧倒した.Wikipedia【冒頓単于】に次の記述がある.
 
紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせた。前漢皇帝・劉邦(高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。
その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。これにより、匈奴は前漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これには、成立したての漢王朝は対抗する力を持たず、劉邦が亡くなった後に「劉邦が死んだそうだが、私でよければ慰めてやろう」と冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も、中郎将の季布の諌めにより、婉曲にそれを断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかった。
冒頓単于は更に月氏を攻め、更に西方へ追い立てた後、前174年に没した。
その後も東アジア最大の国として君臨していたが、前漢王朝が安定し国が富むに至り、武帝はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青と霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、その約60年続いた隆盛も終わりを告げた。
ただそれまで部族単位での略奪と牧畜が産業だった遊牧民に、国家という概念と帝国型の社会システムを根付かせたことは大きく、後のモンゴル帝国へとつながることになる。
 
 筆者が受験勉強をしていた頃の高校世界史 (五十年前 ^^;) では,上の引用文のように,匈奴が前漢を圧倒したのは冒頓単于の卓抜した軍事的才能によるとしていたが,それだけだったろうか.上記引用文中の「白登山の戦い」だが,Wikipedia【白登山の戦い】には次のように書かれている.
 
楚王項羽を滅亡させて中国再統一を果たした皇帝劉邦は、匈奴へ備えるために韓王信を馬邑(現在の山西省朔州市朔城区)に派遣するが、匈奴の脅威を間近で見た韓王信は匈奴との和平を唱えた。これを裏切りとみられた韓王信は、匈奴に投降した。韓王信の軍隊を加えた匈奴は40万の大軍で太原へ攻め込んできた。
 
 引用文中の,韓王信が目の当たりにした匈奴の脅威とは,匈奴軍の局地戦戦闘力,武器の殺傷能力ではなかったか.
 番組の放送においては,その点を匈奴軍が開発した鉄製の矢じりを用いて説明した.(下の画像の )
 
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 下の画像の字幕説明は「この矢じりは一段目の刃で相手のよろいを貫き 二段目の刃で致命傷を負わせる目的で作られました」
 
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 下の画像は実験したところ.匈奴の鉄製矢じり (赤い) は,当時の鎧と同じ厚さの銅板 (青い) と羊の肉を易々と貫通した.
 
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 これに対して漢軍は,青銅製の小さい矢じりを用いていた.匈奴の矢じりに比較して,見るからに殺傷力が低いと考えられる.
 この当時の漢には強力な鉄製武器を製造する技術がなかった.しかも匈奴は,王宮に武器を製造する工場が併設される「鉄の軍事国家」であった.
 
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 鉄と青銅.武器性能の優劣のために漢は匈奴に屈した.しかし漢においてもやがて製鉄技術の革新が行われた.
 
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 中国における製鉄の始まりについては,永田和宏『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』(講談社ブルーバックス,2017年) によれば,次の短い記述だけである.
 
中国には製鉄法は紀元前600年頃に伝わり、銑鉄が作られ、鍬や鎌、鑿などが鋳造で作られ、紀元前512年には鉄の大釜が鋳込まれた。一方、鋼はルツボ法で作られた。溶鉱炉は春秋時代初期に出現した。しかし、これで作った鋳鉄は質が悪く、悪金と呼ばれ、農具に使われた。
 
『人はどのように鉄を作ってきたか …… 』はつい三年前の出版であるが,ヒッタイトからスキタイに伝わった製鉄技術は全く書かれていないし,匈奴と漢の抗争における鉄と青銅の武器の優劣にも触れていない.この書籍では漢にどこから製鉄法が伝えられたかもわからない.いかに「鉄の道」の考古学が最近の学問分野であり,最新の知見に満ちたものであるかが知れる.
 この事情はWikipediaでも同じで,Wikipedia【鉄器時代】でも,わずかに次のように書かれているに過ぎない.
 
中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、これはシュメールなどと同じくそれほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であった。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及した。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。例えば、秦は高度に精錬された青銅剣を使っている。
 
『人はどのように鉄を作ってきたか …… 』もWikipedia【鉄器時代】も,中国で製鉄が始まったのは紀元前600年頃であり,作られた鉄は武器を作れるような品質ではなく,農具に使われたとだけ述べている.
 ところがごく最近,愛媛大学の研究グループがその後の中国の製鉄技術の発展を明らかにしている.
 
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 愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長・村上恭通氏によれば,中国では高炉を用いて大量の鉄が生産できるようになった.(下の画像)
 
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 しかしこの鉄は脆いため,武器には使えなかった.(下の画像)
 
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 そこで発明されたのが炒鋼炉であった.炒鋼炉は,高炉で作った銑鉄を脱炭素して鋼にする炉である.
 
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 炒鋼炉は明代の技術書『天工開物』に描かれている古代の鋼精錬法であるが,村上恭通氏らは漢代に作られた炒鋼炉の跡を発掘した.こうして漢は鋼の武器を鍛えることができる技術を手に入れたことが判明したのである.
 
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 漢の武帝は即位するや匈奴に反撃を開始した.番組は,漢軍は鋼の大型武器「」を用いることで匈奴との戦闘において優位に立ったと説明した.
 
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 Wikipedia【匈奴】には次のように書かれている.
 
匈奴で軍臣単于(在位:前161年 - 前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年 - 前141年)が即位。互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。しかし、武帝(在位:前141年 - 前87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功した。
元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまった。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。
太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降した。これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。
その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。
 
 以上がNHKスペシャル《アイアンロード ~知られざる古代文明の道~》を解説した記事《鉄の道》への補遺である.
 
 しかし,視聴者は,ここで大きな疑問を持たざるを得ない.
 番組の放送では漢の武器「鋼鉄製の戟」が漢の勝利の要因であるかのように説明していたが,これは納得しがたい.
 戟には長短の種類があるが,いずれにせよ漢の時代よりも古くからある近接戦闘武器である.冒頓単于の匈奴軍が劉邦の漢軍を圧倒したのは,白登山の戦いが典型だが,騎馬民族たる匈奴の戦術が,騎射のヒット・アンド・アウェイだったからである.ヒット・アンド・アウェイで戦う限り,遠隔戦闘武器である弓は絶対に近接武器に負けない.負けるとすれば,白兵戦に持ち込まれたときである.
 
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 こう考えると,武帝の時代に漢が匈奴を撃退できた要因は,単に戟が青銅製から鋼製に変化したことではあり得ない.青銅製だろうが鋼鉄製だろうが,近接戦闘武器としての性能に大差があろうはずがない.だとすれば,匈奴の側に,戦闘力が低下する要因があったと考えるのが妥当だ.第一に考えやすいのは,消耗品である矢じりを大量に生産できなくなった可能性である.次に,良馬が戦闘で消耗減少し,あるいは馬の生産力が低下し,歩兵で戦うように戦術が変化したのかも知れない.
 そこでハタと思い起こされることがある.
 番組中,匈奴が製鉄に必要とした大量の炭はどこから調達されたかについて,全く説明がなかった.スキタイの製鉄は中央ユーラシア北部の森林地帯で炭が生産されたと説明された.
 それと同じであれば,匈奴はモンゴル北部の山岳地帯で炭を作ったのだろう.
 だがしかし,番組の中で視聴者が見たモンゴル北部山岳地帯は下の画像のようであった.
 
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 見渡す限り,草とわずかな灌木しか生えない荒涼たる岩山とハゲ山.騎馬民族の王国が栄えた時代の,製鉄に使われた森林はどこにいったのだろう.
 もしかすると,匈奴は鉄の武器のために森林資源を枯渇させてしまったのだろうか.
 その結果,彼らの鋼鉄生産量は大きく減少し,軍事力の低下と共に匈奴の王国は歴史の流れの中に消えたのかも知れない.
 ともあれ,「鉄の道」の全体像を明らかにするには,この地における製炭と消費の歴史を明らかにせねばならないように思われる.
(この稿おわり)

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2020年1月15日 (水)

鉄の道

 NHKスペシャル《アイアンロード ~知られざる古代文明の道~》がおもしろかった.
 遥かな古代,シルクロードの北側に,西アジアと極東を結ぶもう一つの「文明の道」があったという内容だ.
 私が高校生の頃に勉強した世界史では,鉄器文化 (Wikipedia【鉄器時代】) の発祥はヒッタイトだということになっていたと思う.
 
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(ヒッタイトの位置)
 
 文化というレベルの話としては,現在でもその認識でよいと思われるが,製鉄法そのものはヒッタイトが興る遥か以前から知られていたというのが現在の定説だろう.Wikipedia【鉄器時代】から下に引用する.
 
鉄の利用は鉄器時代の開幕よりもはるかに古く、紀元前3000年ごろにはすでにメソポタミアで鉄は知られていた。ただしもっとも初期には融点が高いために鉄鉱石から鉄を精錬することはできず、もっぱら隕鉄を鉄の材料としていた。その後、エジプトなどでも出土例がみられるが、精錬の難しさや隕鉄の希少性などから利用は多くなく、武器や農具としての利用は青銅を主としていた。
最初の鉄器文化は紀元前15世紀ごろにあらわれたヒッタイトとされている。ヒッタイトの存在したアナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されていたが、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼を開発し、鉄を主力とした最初の文化を作り上げた。ヒッタイトはその高度な製鉄技術を強力な武器にし、オリエントの強国としてエジプトなどと対峙する大国となった。その鉄の製法は国家機密として厳重に秘匿されており、周辺民族に伝わる事が無かった。しかし前1200年のカタストロフが起き、ヒッタイトが紀元前1190年頃に海の民の襲撃により滅亡するとその製鉄の秘密は周辺民族に知れ渡る事になり、エジプト・メソポタミア地方で鉄器時代が始まる事になる。》(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 引用文中の着色箇所「海の民の襲撃によってヒッタイトが滅亡した」というのは信憑性がないようだ.というのは,Wikipedia【ヒッタイト】には
 
紀元前1190年頃、通説では、民族分類が不明の地中海諸地域の諸種族混成集団と見られる「海の民」によって滅ぼされたとされているが、最近の研究で王国の末期に起こった3代におよぶ内紛が深刻な食糧難などを招き、国を維持するだけの力自体が既に失われていたことが明らかになった。
 
と書かれていて,これが最近の説であるらしい.
 ともあれヒッタイトによって高度に洗練された製鉄技術は,王国の滅亡後,スキタイ (紀元前七世紀~前二世紀) の東端の地方に伝えられた.
 
20200115c
(スキタイの版図)
 
 スキタイの東端から製鉄の遺跡を辿ってユーラシア大陸を横断していくと,アルタイ地方に至る.
 スキタイは文字を持たなかったため,従来は謎に包まれていたが,現在は版図の精力的な発掘が行われており,かなり詳しいことがわかってきたらしい.同時代のギリシャの記録などから著しく野蛮な民族だと思われてきたが,非常に高度な金属文化を持っていたようだ.
 このスキタイからさらに東方へは二手に分かれて製鉄技術が伝播したという.番組放送では駆け足になってしまったが,中国大陸で鉄の農機具が開発普及し,その結果として農業の生産性が極めて高くなった.そこら辺のところをもっと詳しく知りたかったが,この放送は続編が『歴史秘話ヒストリア』で二月に放送されるらしい.これは是非とも見逃さぬようにしなければ,と思った.
[鉄の道 (補遺) に続く]

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2019年12月25日 (水)

エコバッグ

 番組名と放送日をメモしていない (たぶんテレビ東京『勝手に自慢していいですか』だろう) ので,雲をつかむような話なのだが,たまたまオンにしたテレビ画面に女性タレントたちが出演していて,成城石井のポテトサラダをほめまくっていた.彼女らの話によると,すぐ売り切れてしまうとか.
 そんなにおいしいポテトサラダならば是非とも食べてみたいと思い,一昨日の午後,藤沢駅北口の「さいか屋」地下の成城石井に立ち寄ってみた.
 もう売り切れているかと思いきや,そんな気配は微塵もなく,棚に積まれていた.
 拍子抜けしつつも一パックを買い求めて帰宅した.
 食べる前の外観観察だが,まずジャガイモ以外の具材が非常に貧弱である.ほとんどイモだと言っていい.
 そのジャガイモは,あらかた潰してあり,マッシュポテト状態であった.
 食べてみたら,食感はザラついていて,洋ガラシの風味もタマネギの味もなかった.
 要するに,ダイエーとかの食品売り場で販売されている安価なポテサラと同レベルだった.
 それじゃあ,あのテレビタレントの女性たちの絶賛はなんだったのか.
 不思議に思って「成城石井 ポテトサラダ」で検索してみた.
 すると,クックパッドに《食べ飽きない味・・ 成城石井のポテトサラダを目指して作りました。》という投稿があった.
「目指す」という表現がすごい.成城石井はポテサラ界の最高峰なんだろか.私のような爺にはわからないが,女性たちはこういうイモ感の強いポテサラが好きなんだなと思った.
 
 ついでに成城石井の人気商品という検索を行ったら,スコーンがおいしいという記事がいくつも見つかった.そこでスコーンを買ってきた.紅茶味のものだ.
 原材料はとてもナチュラル志向で「小麦粉,牛乳,バター,加熱練乳,卵,砂糖,紅茶,食塩,香料,ベーキングパウダー」と書かれていて,添加物は香料とベーキンクパウダーだけであった.
 さすがだっ成城石井!と絶賛しつつ三分の一ほどを口に入れたら,小さなスコーンの塊が瞬間的に口中の唾液を全部吸い取り,それでもなお飽き足らずに粉塵化し,私はゲホゲホとむせた.
 ネット情報を子細に検討したところ,皆がみんな成城石井のスコーンをおいしいと言っているわけではなかった.中には,味はイマイチだが《オーブンやトースターで焼くと、表面がサクサクで中身のパサパサ感はさほど気にならなくなりますよ!》と書いている人がいた.
 そこで残りをオーブントースターで焼いてみた.
 粉塵化はさらに度を増した.
 高齢者は誤嚥による肺炎が死につながる.このスコーンは若い人にだけおすすめだと思った.
 
 上のように書いてはみたが,成城石井をディスる意図は全くない.レトルトのグリーンタイカレー (PB) は同種の他社製品を圧倒しておいしいと思うし.成城石井オリジナルのエコバッグは私のお気に入りだ.ペラペラ感がなく,じじいがコレを手に提げて白菜とかを買い物していても落魄感が漂わない.
 これが紀ノ国屋のエコバッグだとそうはいかない.ヨーカドーやイオンでこれを使用するのは場違い感が甚だしくて,紀ノ国屋でお買い物するときの専用だと思われる.だけど私の場合は,鎌倉まで行かないと紀ノ国屋はないからめんどくさい.
 私の娘とエコバッグの話になったとき,上司の部長も紀ノ国屋のエコバッグを欲しがっているが二の足を踏んでいるらしいと言っていた.
 誰しも考えることはおなじなんだなあ.にんげんだもの.
Ninjin_damono

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2019年12月22日 (日)

スカイウォーカーの夜明け

 海外の映画界で活躍している日本人が何人もいる.
 ディズニーの実写版『シンデレラ』で,あの豪華なブルーのドレスを飾ったたくさんの蝶が,お若い宮本遥香さんの作品であることはよく知られている.宮本さんの他では,特殊メイクの辻一弘氏が超有名だ.Wikipedia【辻一弘】には《子供の頃に『スター・ウォーズ』を見て映画に興味を持った 》と書かれている.
 AERA dot.に《45歳で転職 「スター・ウォーズ」で活躍の日本人は元証券マン!》が掲載されている.(2019年12月21日 11:30)
 この記事に
 
「スター・ウォーズ」最後の3部作では、2次元のデザインをコンピューターを駆使して3次元に立体化する「モデラー」という仕事で、日本人が大活躍した。ミレニアム・ファルコンなどを担当した成田昌隆さんは、異色の経歴を持つ56歳だ。
 
とある.
 成田氏も高校生の時に『スターウォーズ』を観たことが,この道に進むきっかけになったのだそうだ.
 続三部作でミレニアム・ファルコンのモデリングを担当した人は四人だというから当然,エンド・クレジットには成田氏の名が載っているはずだが,続三部作の完結編『スカイウーカーの夜明け』では,字が小さすぎて見つけられなかった.
 
 その『スカイウォーカーの夜明け』を観たのは昨日だ.
 SFファンタジー映画史の金字塔である『スター・ウォーズ』の完結編とあって,辻堂のシネコン「109シネマズ」の中に入ると,通路にキャンペーン・ガール (最近の言い方を知らない ^^;) のお嬢さんたちがズラリと並んで,アンケートを配っていた.「好きなキャラクターは?」「この映画をみようと思ったのはなぜですか?」といった質問のもの.
 
 映画評論家などの関係者は試写を観てネット上に批評を書いているが,その一つに「『スカイウォーカーの夜明け』はファンにおもねったストーリーだ」というのがあった.
 私はそうは思わないなあ.続三部作の第一作『フォースの覚醒』,同第二作『最後のジェダイ』と,じわじわと引っ張ってきた完結編『スカイウォーカーの夜明け』のクライマックスは,思わず胸が熱くなるシーンもあり,完結編で初めて明かされる事実もあり,娯楽映画の作法としては絶賛されてもいいと思う.
 全九部作を合わせて「スカイウォーカー・サーガ」と呼ぶが,まさにこれは「遠い昔,遥か彼方の銀河系」を舞台に戦い続けたレイア姫=レイア・スカイウォーカーの物語であった.そのレイアの古い友人であるマズ・カナタがレイアに別れを告げる最後の台詞が胸にジンとくる.
 そしてラストシーンの数分間.完結編の制作が発表された時から『スカイウォーカーの夜明け』の「夜明け」って何?と言われてきた.「夜明け」つまりタイトルの"The
 Rise"という言葉自体が伏線だろうとは容易に想像されたが,その伏線が,ラストシーンの最後の最後にきっちりと回収された.見事である.あたかも制作開始時に既にラストシーンができあがっていて,それに向けて物語を収束させたかのような完成度だ.上映館内には小学生くらいのお子さんを連れたお父さんが何人もいたが,「"rise"っていう言葉の意味はね,…」とぜひ解説して欲しいと思った.
 
 今は劇場公開中だから,『スカイウォーカーの夜明け』の詳しい批評は避ける.劇場公開が終わったら,またこの記事の続きを書くことにしようかと思う.
 今後,スカイウォーカー・サーガに続く新しいサーガが予定されているようだが,年が明けると後期高齢者になる私がどこまでこの映画を観続けていけるか,心もとない.しかし『最後のジェダイ』のラストシーンに登場した少年 (『スカイウォーカーの夜明け』には出てこない) が,次のサーガに再び現れるような気がする.そこまではなんとか映画館に足を運びたいものである.

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2019年12月20日 (金)

アイギス

 神話伝説の世界を下敷きにしたファンタジー小説とかゲームをやっていると,名前が付けられた武器,特に剣が出て来る.例えば英国のアーサー王伝説には聖剣エクスカリバーがあり,『指輪物語』にはグラムドリングオルクリストスティングの三つが登場する.
 これに比較すると,伝説的な防具はあまりない.『指輪物語』にはミスリル製の帷子が出てくるが無銘だ.名のある防具で私が知っているのは,ギリシャ神話の「アイギス」ただ一つである.アイギスの物語は次のような話だ.
 
 ギリシャに長女ステンノー,次女エウリュアレー,末娘のメドゥーサという名の美しい三姉妹がいた.
 ある時,海神ポセイドンがメドゥーサに求愛し,メドゥーサがこれを受けたことが,アテナの怒りを買った.
 アテナはオリンポス十二神の一柱であり,また知恵と学芸と戦争の神であり,パルテノン神殿の女神にして主神ゼウスの娘である.
 アテナの怒りは,嫉妬したのだと,あるいはポセイドンとメドゥーサが事もあろうにアテナの神殿で愛を確かめる怪しからぬ行為に及んだからだともいわれる.そりゃ誰でも怒るわな.
 アテナはメドゥーサの顔を醜悪に変え,髪の毛を毒蛇にした.これに抗議した長女と次女もついでにメドゥーサと同様にした.ひどい.
 怪物に変えられてしまった三姉妹は,ゴルゴン (「恐ろしい女」という意味) と呼ばれ,山奥の洞窟に追われた.
 ところが,洞窟の傍らを通りかかった人間がメドゥーサと目を合わせると石化するようになったことから,怪物退治が行われることになった.
 ここに半神の英雄ペルセウスが登場する.ペルセウスがメドゥーサを退治した経緯をWikipedia【ヘルセウス】から引用する.
 
ゴルゴーン退治
ペルセウスはセリーポス島で成長したが、やがて、ディクテュスの兄でセリーポス島の領主であるポリュデクテースがダナエーに恋慕するようになり、邪魔になるペルセウスを遠ざけるためにゴルゴーンの一人メドゥーサの首を取ってくるように命じた。
ペルセウスはアテーナーとヘルメースの助力を受け、アテーナーから青銅の盾を授かり、ゴルゴーンを殺すのに必要な道具を持っているニュムペーたちの居場所を聞くためにゴルゴーンの妹であるグライアイ三姉妹の元に行った。彼女たちは生まれつき醜い老女で、三人でたった一つの眼と一本の歯しか持っていなかった。彼女たちが居場所を教えてくれないために、この眼と歯を奪って脅すことで無理やり聞き出した。そしてニュムペーたちから翼のあるサンダル、キビシス(袋)、ハーデースの隠れ兜を借りた。さらにペルセウスはヘルメースからは金剛の鎌(ハルペー)を授かったとされる。
一説には、サンダル、兜、およびキビシスはゴルゴーンの居場所を聞くために立ち寄ったグライアイ三姉妹の所有物で、ゴルゴーンの居場所を聞いたついでに奪っていったという説もある。また、翼のあるサンダルはヘルメースから与えられたともいわれる。そして西の彼方のオーケアノスの流れの近くに住むゴルゴーン姉妹を発見し、アテーナーに手を引かれ、メドゥーサの顔を見ないようにして、盾に映し出されたメドゥーサの姿を見ながら、剣でメドゥーサの首を取ることに成功した。》(当ブログの筆者による註;引用文中の「アテーナー」はアテナに同じ)
 
 メドゥーサを見た人間が石になってしまうのは,アテナがメドゥーサをそのような怪物にしたからである.メドゥーサがそうなりたかったわけじゃない.ペルセウスに酷い目にあわされたグライアイ三姉妹は,何も悪いことはしていない.ただ醜いだけだ.ひどい.
 という感想は横に置いて,メドゥーサを退治したペルセウスはアテナにメドゥーサの首を献呈した.そしてアテナはメドゥーサの首を防具のアイギスに嵌め込んだ,というのがペルセウスのメドゥーサ退治の顛末だが,ここでアテナの防具「アイギス」とは何か,が問題となる.
 一説は盾であるとし,もう一説は胸当てであるとする.それぞれの例についてWikipedia【アイギス】に載っている画像を引用する.
 
Athena
(アイギスを手に闘うアテーナー;パブリックドメイン,File:Athena1.JPG from Wikimedia)
 
 上の絵は十八世紀に描かれたもの.アテナの盾の真ん中にメドゥーサの顔がある.
 
Athena_20191220022501
(アテーナーの立像;パブリックドメイン,File:Mattei Athena Louvre Ma530.jpg from Wikimedia)
 
 上の写真は紀元前一世紀ローマ時代の複製彫刻.アテナの右肩から斜め掛けになっている胸当て (山羊皮製) が,この彫刻ではアイギスなのだろう.そこに小さくしたメドゥーサの顔が装着されている.
 この彫刻からおよそ二千年後にクリムト (1862年7月14日 - 1918年2月6日) が描いたアテナ (『パラス・アテナ』1898年,油彩) では,アイギスは蛇皮製で胸部だけのケープのような形のスケール・アーマーであり,胸元に大きなメドゥーサの顔が彫られている.(ネット上にある『パラス・アテナ』を写真撮影した画像は,パブリックドメインかどうか不明なので
,ここには掲げない.ただし検索すればどんな絵かは知ることができる)
 
 さて盾か胸当てか,いずれにせよアイギスはメドゥーサの首が装着されたため,戦いの相手を石化する能力を獲得し,防御力は完璧となったという.
 以上,神話の防具アイギスについて書いてきたのは,読み終えたばかりの中野京子先生の『運命の絵 もう逃れられない』に,クリムトの『パラス・アテナ』の解説が載っているからである.その解説の終わりに次の一節がある.

 
二〇一七年六月、静岡県の伊豆半島沖で、アメリカのイージス艦がフィリピンのコンテナ船と衝突。脇腹を大きく損傷して死傷者も出し、無敵のはずのハイテク艦は脇が甘かったのかと世界中を驚かせた。
 本作とどんな関係が?
 無敵の防具アイギス (Aigis) の英語読みはイージス (Aegis)。ギリシャ神話から名前も意味も拝借しているのだ。
 イージス・システムはアメリカ海軍が防戦用に開発したもの。イージス艦はこのシステムを搭載したハイテク艦艇で、索敵、状況判断、意思決定、反撃といった一連の流れを迅速に行う。
 先述のごとくアテナの戦争は護国のためであり、嫌われ者の軍神マルスが戦の攻撃的側面や負の部分を受け持っているのとは違う。しかもアイギスは完璧……のはずだったが、妙に脇が甘いのは、ケープ式だからか、それとも艦にメドゥーサの首が搭載されていなかったせいか。
 
 今年の一月に私は横須賀軍港に出かけ,イージス艦を遠くから見学するクルーズに参加した.その記録《記念艦三笠でカレーを (軍港クルーズ編) 》を読み返したらこんなことを書いていた.
 
イージスシステム搭載艦がイージス艦だ.改めて調べてみたら,Wikipedia【イージス艦】に《イージス(Aegis)とは、ギリシャ神話の中で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという、あらゆる邪悪を払う盾(胸当)アイギス(Aigis)のこと 》とある.軍オタ諸君,喜べ! イージスはアテナの盾かと思ったら 胸当のことみたいだぞ! 君らは払われちゃう邪悪のほうかも知れないけどな! 私も払われちゃうかもな!
 
 上の記事を書いた時は胸当てを,ゲームによく登場する「女性の胸を防御するセクシーな防具」だと勘違いしていた.例えば実写映画のワンダー・ウーマンのコスチュームみたいなやつだが,よく調べずに書いたことを反省している.(恥)
 ちなみに,上に引用した絵『アイギスを手に闘うアテーナー』をよく観ると,アテナは現代のレオタードに酷似した防具を着ている.この絵が描かれた十八世紀にこんな衣服があったとは考えにくい.画家の想像力というのは大したものだ.

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