ねこまき作『ねことじいちゃん (3)』の第八話「おとなりのたみちゃん」に,大吉爺さんと厳爺さんの戦時中の思い出が描かれている.
戦争末期のある日,みんなが住んでいる島で消火訓練があった.大吉爺さんらはまだほんの少年だ.
今は消火訓練というと職域訓練が主だが,戦時中は地域で行うのが普通だった.訓練の世話は隣組がやる.
大吉爺さんたち子供は大人の邪魔にならぬように静かにしている.
大吉爺さんの母親は自分ちの座敷に立って,手には長箒を持ち,訓練係の人がやって来るのを待ち構える.(長箒とはWikipedia【箒】に《箒の柄が長いもの。主に立ったまま床などを掃けるような長さのもの》と説明がある.大人の身長ほどの長さで,両手で持つ.竹の棒の先は平筆状になっている)
そこへ訓練係がやってきて「消火訓練開始,焼夷弾落下」と大きく発声して,引き戸の外から中にタワシを投げ入れる.タワシは,焼夷弾の破片の代わりだ.
箒を構えていた母親は,機敏に戸口に駆け寄り,箒でタワシを掃き出す.
それからバケツを手に取って,タワシに水をかける真似をする.これが流れるような動作でできれば訓練は成功だ.
その夜,仕事から帰ってきた父親に家族は,消火訓練があったと報告した.
母「消火訓練だったんだわ.焼夷弾が落ちたらな,ほーきで掃き出して水をかけるんだがね」
父「ほーきでか? バカバカしい.そんなもんで消えるか」
母「ちょっ,ちょっとそんなこと言って,人に聞かれたらどーするの」
母「大吉っ,あんたも言ったらダメだで」
大吉「はいっ」
母「あんたは返事だけはえーねえ」
以上が「おとなりのたみちゃん」の一部シーンである.
私は戦時中に焼夷弾消火の訓練があったという話は聞いたことがある.
けれど,それがどんな風に行われたのかまでは知らなかった.
「ねことじいちゃん」作者のねこまきさんは,マンガの絵で描いているところをみると,焼夷弾消火訓練について詳しい知識があるようだ.
このマンガの第一巻と第二巻にも戦時中の空気感のようなものが表現されているが,第三巻の消火訓練は確かな資料に基づいて描かれていると思われる.私にも終戦すぐに生まれた世代としてそれなりの知識はあるが,ねこまきさんは私より,もっと詳しい.現役の人気漫画家なのに不思議である.
ねこまきさんの年齢は不詳だが,年齢を推定できるような資料はないかと探したら,あった.Sippo《『ねことじいちゃん』作者・ねこまきさんの愛猫ライフ》[掲載日 2019年6月13日) に下のようにある.
《現在はマンガ家・イラストレーターとして活動している。様々なテイストを描きわけるというが、『ねことじいちゃん』のタッチはどのようにして生まれたのだろうか。「昔、母が描いてくれた丸みのある絵が印象に残っていて、仕事でそんな雰囲気の絵を描いてみたら喜ばれたんです。そこから確立していったという感じですね。母は数年前に他界したのですが、実は『ねことじいちゃん』の妻を亡くした大吉じいちゃんは、私の父を重ねて描いているところもあるんですよ」と明かしてくれた。取材や丁寧な歴史考証を元に紡がれているが、老若男女に愛されるあたたかな物語の根幹を支えているのは、両親を思い、時折その存在を感じながらペンを走らせるねこまきさんの家族愛なのかもしれない。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
「大吉じいちゃん」はねこまきさんの父上がモデルとのこと.作品に描かれた戦時中のことは,父上から伝えられた知識に基づいていたのであった.これで大いに納得がいった.
さて,日本の敗戦が近い頃,日本のあちこちで米軍機による空襲が激しくなった.
原爆の前に空襲で投下され続けたのは焼夷弾である.
焼夷弾は爆風による直接的殺傷よりも,建築物の密集している都市部の火災破壊を目的としていた.
だから大吉爺さんが住む愛知県の小さな島に焼夷弾が落とされるはずはなかったのであるが,一億国民の総力戦なのだから,焼夷弾消火訓練をしないわけにはいかなかったのだろう.
しかし島に残っている予備役の兵はたぶん焼夷弾なんか見たこともなかったに違いない.だから消火訓練では各家の戸口から,焼夷弾に見立てたタワシを投げ込んだのだ.
焼夷弾の実際についてWikipedia【M69焼夷弾】から下に引用する.日本本土空襲で使用された焼夷弾にはいくつかのタイプがあるが,主にM69であった.
《日本に対して用いられた焼夷弾は、M69子爆弾19発を前後2段に集束して38個とし、安定フィンを持ったE46「照準可能」クラスター弾に収めたものであり、これは投下後、高度約610m (2000フィートまたは700m) で開裂し子爆弾に散開する。M69子爆弾は散開後、頭部 (信管側の端) を下に向けて落下するために、尾部 (信管の反対側の端) から長さ約1m (3フィート)、幅約10cmのストリーマーと呼ばれる綿製 (麻製とも言われる) のリボンを展開する (ストリーマーは1本ではなく、4本あったとする資料もある)。親爆弾を開裂し、子爆弾を散開する際に使用される爆薬によって、ストリーマーにも火がつくので、「地上からは火の雨が降ってくるように見えた」と言われている。なお、親爆弾の開裂には爆薬を用いず、従ってストリーマーにも火がつくことはなく、風圧ではためくストリーマーに、地上の火災が反映して、「火の雨」に見えたのではないかと示唆する説もある。
M69が、建物、地面または家屋の屋根を貫通して床などに衝突すると、時限信管が3から5秒間燃焼し、焼夷弾が横倒しになった後で、トリニトロトルエン (TNT) 爆薬が起爆され、その中に含まれるマグネシウム粒子によって焼夷剤に着火する。焼夷剤は信管の反対側の端から、最大で30m (100フィート) の高さまで、燃焼する多数の火の玉として噴出し、これらが周辺の物を即時に強力に炎上させる》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
上の解説を朝日新聞DIGITAL《75年前、首都はなぜ焼き尽くされた 東京大空襲を知る》[掲載日 2020年3月10日] はわかりやすい動画で説明している.
この動画資料の他に,焼夷弾投下の実際の記録映像も見るのがよいが,ネット上にはあまり掲載されていない.(一例;《中日映画社「東京大空襲」》[掲載日 2018年5月17日])
しかし静止画写真なら東京大空襲・戦災資料センターなど国公立の資料館に多数展示されている.
焼夷弾は着弾すると一呼吸おいてから激しく発火する.次いで煮えたぎるような溶融油脂が周囲に噴出する.極めて危険であり,とてもではないが長箒で掃き出せるほど焼夷弾は軽くないし,炎は激しい.
大吉爺さんの父親は《ほーきでか? バカバカしい.そんなもんで消えるか》と言ったが,その通りである.
その通りだが,しかしそれでも後方の国民は,焼夷弾消火訓練を行い,竹槍を手に本土決戦に備えたのである.戦争は悲しい.私は《バカバカしい.そんなもんで消えるか》と思いつつ訓練の号令に従った親の世代を嗤う気にはなれない.
昭和三十年代,復興の希望は国民の中に芽生えてきたが,それでも相変わらず日本全体は貧しかった.
義務教育制度は確立したが,教育に充分な国家予算が立てられるわけではなく,学校の先生たちは子供たちのためにいろんな工夫をした.
私が通った群馬県前橋市立南小学校では毎年,廃品回収を行って,校舎の補修費や足りない教材費に充てた.
廃品回収の日に,各家庭は物置などを整理して,出てきた不要物品を校庭に運んできて並べた.
その不要品の中で異様だったのは,燃え残った焼夷弾の筒であった.
昭和二十年八月五日夜から六日未明にかけて前橋市はB29の空襲に襲われた.Wikipedia【前橋空襲】に《92機のB29により、723トンもの焼夷弾などが投下され、1万1518戸が全半焼し、535人が死亡し、600人以上が負傷した。被災面積は全市の22%、被災戸数は全市の55%、被災人口は全市の65%に及んだ》とある.
昭和三十年になっても,その日の空襲の記憶が,焼夷弾の筐体として,あちこちの家庭に残っていたのであった.
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ウクライナに自由と光あれ
(国旗画像は著作権者来夢来人さんの御好意により
ウクライナ国旗のフリー素材から拝借した)
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