続・晴耕雨読

本や映画などについて.

2017年4月19日 (水)

髑髏島の巨神 (三)

 インドシナの地に米国がゴ・ディン・ジエムを大統領として傀儡政権を樹立したのが1955年,南ベトナム解放民族戦線の結成が1960年,これに対抗したケネディ政権が南ベトナム派遣軍事顧問団を大幅に増強して戦争が泥沼化していく様相を見せ始めたのが1961年.
 トンキン湾事件 (1964年8月) のあと,ケネディ政権を引き継いだジョンソン大統領は,北ベトナムとの戦闘に関する無制限の指揮を執る権限につき議会の承認を得た.そしてジョンソン大統領は陸軍を戦争に投入するなど大規模な介入を開始し,結果,アメリカは泥沼のベトナム戦争に突入していった.
 このような経過で,宣戦布告なしに,いつ始まったのかあいまいな戦争が始まった.

 しかし南ベトナム解放民族戦線の結成を起点に取れば十三年後の1973年 (昭和四十八年) 1月23日,北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官は,和平協定案を仮調印した.
 同27日,南ベトナムのチャン・バン・ラム外相,アメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官,北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相,南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の四者間でパリ協定が調印された.

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パリ和平協定への調印を行うアメリカのロジャーズ国務長官
(Wikipedia【ベトナム戦争】から引用;パブリックドメイン画像である)


 同29日,ニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した.
 戦争が最も激しかった時に五十四万人に達したアメリカ軍は,終結宣言の時点で二万四千人になっていたが,宣言後に軍の撤退を開始し,二ヶ月で撤退を完了した.
 しかし軍事顧問団は引き続き南ベトナムに駐留したままであり,ベトナム戦争の完全な終結には,まだ1975年4月30日のサイゴン陥落まで待たねばならなかった.陥落の前日29日から30日まで,南ベトナムのラジオから季節外れの「ホワイト・クリスマス」が流れる中 (ブログ筆者註;《私のクリスマスソング 》),在留アメリカ人1373名と南ベトナム人その他の5595名が撤退する作戦が完了した旨の報道を,学生時代に東京におけるベトナム反戦運動を目にした私は感無量で聞いたことを思い出す.

 さて『キングコング:髑髏島の巨神』は,映画中で明示されていないが,ニクソン大統領の戦争終結宣言の日から始まる物語である.
 特務研究機関モナークの一員であるウィリアム・ランダは,前年に打ち上げられた地球観測衛星ランドサット1号 (ランドサット計画初号機) が太平洋上に発見した未知の島・髑髏島の資源開発のための地質調査を行いたいとしてウィリス上院議員を説得し,協力を得ることに成功した.
 しかし実は資源開発調査とは真っ赤な嘘であった.ランダは髑髏島の地底は空洞になっていて,そこに太古からの生物が棲息しているとの仮説を立てており,それを証明する調査をしたかったのであった.これは十九世紀以来の疑似科学「地球空洞説」を疑わせるチープな設定だが,疑似科学がどうのこうのと目くじらを立てたのではそもそも怪獣映画は成立しないので,これは問題ない.『キングコング:髑髏島の巨神』に限らずすべてのファンタジーは,私のような頭の中が子供の大人向けなのである.おい.
 さて,ランダはウィリス上院議員を騙して,軍の協力を取り付けた.南ベトナムから撤退中の戦闘ヘリ部隊に,ランダらの調査団一行を髑髏島へ輸送してもらい,さらに偽りの「調査」に協力をしてもらうのである.

 その戦闘ヘリ部隊に指名されたのが,プレストン・パッカード大佐の部隊であった.
 パッカード大佐は調査団輸送任務の前に,彼の個室で物思いに耽る.
 私は前回の記事の最後に《ではパッカード大佐は本当にバカなのか.私は違うと思う.バカなのは脚本を書いたやつなのである》と書いた.
 物思いに耽るパッカード大佐の姿に観客が期待する人間像は様々であろうが,例えば次のような設定はどうだ.

 長きにわたったベトナム戦争の体験が,パッカード大佐を戦闘マシーンに変えた.敵を殺すことが自分の存在価値と化したのである.
 そんなパッカードは本国への帰還を前にして自己喪失感を抱く.戦場こそが俺の居場所だ.帰国して,本国で死んだように生きるのは嫌だと.
 こうした思いのパッカードは,髑髏島でヘリ部隊が壊滅したとき,至福の高揚感を覚える.俺は,神の如き巨大なコングと戦って,この島で死ぬ.死に花を咲かせる.散華.それが自分の生き方なのだと決意する.
 例えばであるが,パッカードを上記のように性格設定し,丁寧に心理描写をすれば,今作『キングコング:髑髏島の巨神』と全く別の作品になったであろう.

 あるいは大佐にまで昇った優秀な軍人としてパッカードを描いてもいい.コングと自分の部隊の戦力差を正確に判断し,緻密な作戦計画を立て,母艦の米軍本隊の救援の元に,最後にコングに勝てぬまでも,調査団と残存部隊全員を母艦へ生還させるとしてもよい.それも一つの物語となるだろう.

 ところが本作におけるパッカード大佐は,軽火器とナパーム弾でコングに勝てる気になっている.
 私たち日本人は,ゴジラを頂点とする巨大怪獣の装甲の堅さを知っている.昭和二十九年のゴジラ初登場以来,陸自61式戦車の90mmライフル砲はゴジラの皮膚にかすり傷すらつけることができなかった.空自の戦闘機に搭載の空対地ミサイルも,陸自の地上発射型各種ミサイルもゴジラの敵ではなかった.
 最近ようやく『シン・ゴジラ』において,米軍爆撃機が放った大型貫通弾で初めてゴジラに傷を負わせることに成功するも,その直後に爆撃機隊はゴジラのレーザー光で全滅したのである.
 かつてその無敵無敗のゴジラを海に沈め,悠々と南海の彼方に泳ぎ去ったキングコングを相手にほとんど丸腰で立ち向かうパッカード大佐の姿を見て私たちは,前のめりの姿勢でスクリーンを凝視するのではなく,「あーあ,そんなんじゃ勝てねーよ」と呆れてシートに背を預けるしかないのである.
 案の定,パッカードはいとも簡単に死ぬ.愚かすぎて観客は全然同情できない.(笑)

 話を,スクリーンに描かれた南ベトナムの米軍基地 (たぶん現タンソンニャット国際空港の辺りだろう) に戻す.
 パッカード大佐役で名優サミュエル・L・ジャクソンが,撤退作戦でごった返す基地のシーンに登場した時,観客は何を思ったか.
 多くのサミュエル・ジャクソンのファンは,紫色のライト・セイバーを振るってクローン大戦を生き抜いたジェダイ最強の戦士,メイス・ウィンドゥとパッカード大佐とを重ね合わせるのではないだろうか.
 しかし凡庸な脚本家と映画監督は,パッカード大佐を道化師にしてしまった.この一点だけでも,『キングコング:髑髏島の巨神』は凡作怪獣映画と呼ばれて然るべきなのである.
(続く)

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2017年4月15日 (土)

髑髏島の巨神 (二)

 映画『キングコング:髑髏島の巨神』は,伏線らしい伏線がない非常に単純なストーリーである.ある一つのシーンが暗喩するものが何であるかについて考察したり,巧妙に隠されたオマージュを探し出したりする必要はない.観客はコングの戦闘アクションを手に汗握って観ていればいいだけである.つまり有体に言えば,凡庸な映画作品である.

 ではこれが,根底からダメな,箸にも棒にもかからぬ駄作かというとそうではなく,きちんとしたシナリオでちゃんとした監督が撮れば,よい作品になったかも知れないのである.て,全然だめじゃん.

 以下の文章に関して参考までに「あらすじ」は Wikipedia【キングコング:髑髏島の巨神】 を,映像については《映画『キングコング:髑髏島の巨神』予告編》を参照して頂きたい.

 『キングコング:髑髏島の巨神』には暗喩はないが,誰でもすぐわかるオマージュはいくつも出てくる.
 この映画のネタバレサイトが揃って指摘しているのが,『地獄の黙示録』へのオマージュだ.ただし,オマージュというのは,過去の別作品に対する映画監督の敬意を表すものであるから,ただ単に似たようなシーンがあったり,映像表現の模倣が行なわれているだけでは,オマージュとは言い難い.
 そのような本来の意味でのオマージュではないと私は思うが,まず《映画『キングコング:髑髏島の巨神』予告編 》に,米軍戦闘へり UH-1 の編隊飛行の映像,とりわけスタートしてから三十六秒後 (0:36/2:23) 近辺で,夕日を背にして編隊の行く手にコングが立ちふさがるシーンがある.
 次に尺が二分二十二秒の《地獄の黙示録特別完全版 日本版予告編 Apocalypse Now Redux Japan Trailer》の,スタート後一分二十六秒 (1:26/2:22),画面に原題 "Apocalypse Now Redux" が浮かび出るシーンを見て頂きたい.
 明白に前者は後者を意識したものであることがわかる.
 つまり『キングコング:髑髏島の巨神』は,『地獄の黙示録』と同じベトナム戦争の末期に時代を設定しているので,とりあえず『地獄の黙示録』を想起させるシーンを撮ってみましたということだろう.
 しかし,ただそれだけなのである.私たちが『キングコング:髑髏島の巨神』を観て困ってしまうのは,この作品に『地獄の黙示録』と似たような戦闘ヘリ編隊の飛行シーンがあるというだけで,それ以外に,共通の世界観とか,そういったものが欠片もないことである.

 『地獄の黙示録』はベトナム戦争の暴力の中で壊れた人間の精神を描いた作品ということに一応なっている.「一応なっている」というわけは,否定的な見解があるからだ.例えば村上春樹は次のように述べている.

公開当時、70ミリ版で3回、35ミリ版で1回見たという村上春樹は、評論『同時代としてのアメリカ』の中で次のように述べている。「『地獄の黙示録』という映画はいわば巨大なプライヴェート・フィルムであるというのが僕の評価である。大がかりで、おそろしくこみいった映画ではあるが、よく眺めてみればそのレンジは極めて狭く、ソリッドである。極言するなら、この70ミリ超大作映画は、学生が何人か集まってシナリオを練り、素人の役者を使って低予算で作りあげた16ミリ映画と根本的には何ひとつ変りないように思えるのだ」》 (Wikipedia【地獄の黙示録】から引用)

 この村上春樹の見解に私は同意する.今は『地獄の黙示録』を米国映画史上で重要な作品とする人も多いだろうが,公開当時は,見終わったあと,「で,ベトナム戦争の,何を描きたかったんです?」との評価がほとんどだったと記憶している.ストーリーは「反戦」とは無関係であり,別にベトナム戦争を背景にする必然性はないかと思われたからである.

 『地獄の黙示録』には狂気の軍人,カーツ大佐が登場するが,『キングコング:髑髏島の巨神』でも,髑髏島調査団を島へ輸送する任務を受けたヘリ部隊の指揮を執るパッカード大佐という人物が重要な役割を担う.
 パッカード大佐は,ヘリ部隊がコングのために壊滅したあと,コングに復讐するとして生き残った兵士と民間人を,私たちからみると無意味な対コング復讐戦闘に巻き込もうとする.
 ここがどうにも観客には理解できない点だ.
 映画中でパッカード大佐は「部下を殺された復讐だ」と語るのだが,そういうのは下士官の発想ではないのか.大佐という階級は上級の士官であるからして,戦闘においては,兵員を無駄に損耗することなく,最終的に勝利を収めるよう行動するのが任務ではなかろうか.
 例えば髑髏島から基地への帰還を支援する部隊が到着するのを待ち,軍上層部に怪獣の存在を報告し,キングコング打倒作戦を進言するなどすれば軍人として正しいであろう.
 ところがパッカード大佐は自分勝手な行動で兵士と調査団一行を危機に陥れながら,怪獣たちに手傷を負わせることもできずにあっけなく死んでしまうのである.
 観客としては,なんだよバカじゃないかこいつ,こんなやつに感情移入はできないよと思わざるを得ない.このバカみたいなパッカード大佐に比べると,髑髏島調査団の案内役として雇われた元英国特殊空挺部隊隊員のコンラッドのほうが余程軍人らしい冷静さを保って行動しているのである.
 ではパッカード大佐は本当にバカなのか.私は違うと思う.バカなのは脚本を書いたやつなのである.
(続く)

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2017年4月13日 (木)

髑髏島の巨神 (一)

『キングコング:髑髏島の巨神』(ワーナー・ブラザース配給) を観てきた.

 キングコング映画といえば,私が東宝の怪獣映画『キングコング対ゴジラ』を観たのは中学一年生,昭和三十七年の夏だった.この作品はゴジラ映画の中で歴代最高の観客動員数を記録したことで知られる.

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(Wikipedia【キングコング対ゴジラ】から引用;パブリックドメイン画像である)

 当時,北関東の片田舎の前橋市あたりでは洋画上映館は確か一つしかなく,邦画館はいくつもあった (70mmフィルムの上映館もあった.どや!) が,もちろん大人の鑑賞に耐える邦画の名画を上映する映画館は,中学生なんかが入れば不良の烙印間違いなしであり,子供向け映画は東宝の怪獣映画くらいなもんだったのである.
 しかし実をいうと私は,怪獣映画を観に行くと親を騙して,洋画を観始めたのが中学一年生になってからだった.同じ中学で一学年先輩の糸井重里さんは早熟で,前衛的な洋画を観て書いたレビューを自分でガリ版印刷のパンフレットにして校内で配っていた記憶がある.栴檀は双葉より,である.
 そんなこんなで,昭和三十七年は私の映画鑑賞歴中で思い出が深い年だ.

 『キングコング対ゴジラ』を観たのは記憶しているが,米国メジャー映画会社RKOが配給した本家初代の『キングコング』(1933年) は,リバイバル上映館で父親に連れていかれて観たのだろうが,クライマックスのエンパイア・ステート・ビルの場面をうっすらと覚えているだけだ.

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(Wikipedia【キングコング(1933年の映画)】から引用;パブリックドメイン画像である)

 Wikipedia【キングコング (1933年の映画)】には次のように書かれている.

当時はターザン映画を始めとする「ジャングルを舞台とした秘境冒険映画」や「実写の猛獣映画」が盛んに作られており、本作でもその趣向が大いに取り入れられた。本作でのコングも兇暴な猛獣として描かれており、敵対するものは容赦なく葬る。アンの衣服を剥がしてその臭いをかぐシーンなど、まさに「美女と野獣」のイメージで描かれている

 だが女性の《衣服を剥がしてその臭いをかぐ》のは野獣のイメージなのだろうか.
 諸兄も大いに納得することと思うが,女性の衣服の匂いをかぐという行為の底に,その女性に対する特別な感情が存在することがある.犬が飼い主の匂いをかぐのとは少し区別されねばならないのだ.
「女性の衣服の匂いをかぐ」のは文学的な象徴であり,たとえば小学生だった貴女が,ある日の放課後,教室に置き忘れたハンカチを取りに戻ったとしよう.
 廊下側の窓から教室の中を覘くと,クラスの女子の憧れの的で中島健人によく似た同級生の少年A君が,貴女のハンカチを鼻に当てて物思いに沈んでいるのが見えた.貴女は,A君がそのハンカチをずっと持っていて欲しいと思いつつ,くるりと踵を返して教室を後にするであろう.
 だがまた別の日,下校しようと校舎玄関の靴箱のところに行ったら,高須クリニック院長に似ていると言えなくもない少年B君が貴女の靴の臭いをかいでいたとする.
 その光景を目撃した貴女は,恐怖にかられて絶叫しながら,廊下の掃除道具ロッカーからモップを取り出し,B君を「死ねこの野獣っ」とばかりに殴りまくり蹴りまくるであろう.どっちが野獣だよ.(ちなみにこのように絶叫する女を映画ではスクリーミング・ヒロインという)
 ハンカチの匂いをかぐのも靴の臭いをかぐのも似たような行為であるが,一方は少年のほのかな恋情を意味し,もう一方は変態性欲と見做される.
 私はどちらかというと靴の臭いのほうが
 初代コングは果たしてただの野獣だったのか,ヒロインのアンをどう思ったのか,DVDを買って確かめてみようかと思ったが,よく考えるとくだらないのでやめた.

 ところでリメイク作品であるパラマウント配給『キングコング』は,Wikipedia【キングコング (1976年の映画)】に下のように記述されている.

アンを単なるスクリーミング・ヒロインに終わらせず(悲鳴の回数は3作中最も少ない)、コングの優しさに気付いて心を開く女性として描く試みは、東宝の『キングコングの逆襲』 (1967年) の先例はあるものの、本国アメリカではこの1976年版が最初であり、コングが高層ビルに登って以降のショットのいくつかが2005年版に引用されている。

 つまりコングと人間の女性との感情の交流は,東宝『キングコングの逆襲』にオリジナリティがあるという.
 私はパラマウント版『キングコング』も『キングコングの逆襲』も観ていないので,上に引用した記述を読んで「へえ~」と驚いた.

 さて『キングコング:髑髏島の巨神』だが,これはシリーズ三部作の第一部なんだとか.
 私が先日いつもの辻堂のテラスモールでこれを観たとき,上映の終りにクレジットタイトルが延々と続いている最中,何人もの観客が席を立って出ていった.
 ところがクレジットが終ったところからラストシーンが始まったのである.こういうことがあるから,そのあと急ぎの用事がないのであれば,シアター内照明が点灯するまでシートに腰かけているのがいい.
 で,ラストシーンでは,このシリーズにゴジラ,モスラ,キングギドラが続いて登場することが示唆される.(ちなみにこのラストシーンで本作品の監修者が町山智浩だと明かされる)
 つまりこのシリーズは『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』にキングコングが加わったようなものになるらしい.
 大変に豪華で結構なことであるが,今作『キングコング:髑髏島の巨神』を観た限りの感想では,次作以降もありきたりの怪獣映画になるのではなかろうか.
 そのことについて次回の稿で少し説明をする.
(続く)

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2017年3月 2日 (木)

栞子さんの引退

 一年前の二月,私は鎌倉の長谷寺に散歩に出かけた.
 長谷寺の境内にある茶店「海光庵」で,大きな窓の遠くにきらきら光る鎌倉の海を眺めながら,昼から独酌するのが好きなのである.(《長谷寺の花 》)
 私はその日,海光庵で腹を満たしたあと長谷寺から鎌倉文学館に寄ったのであるが,そうしたら思いがけず「『ビブリア古書堂の事件手帖』イラスト原画展」をやっていたので,そのことをこの日の記事に綴った.

『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズは,ライトノベルデビューは早かったものの,あまりぱっとしなかった三上延の出世作である.
 Wikipedia【ビブリア古書堂の事件手帖】から少し引用する.

社会的評価
2012年1月、発行部数がシリーズ累計103万部となり、メディアワークス文庫で初のミリオンセラー作品となった。
累計発行部数は2012年4月時点で200万部、第3巻が発売された同年6月時点で300万部を突破した。2012年の文庫部門総合ベストセラー第1位(トーハン調べ)で、2013年2月発売の4巻の初版発行部数が80万部であり、累計は600万部をこえた。
受賞や書評雑誌によるランキングとしては、第65回日本推理作家協会賞(2012年)短編部門に「足塚不二雄『UTOPIA 最後の世界大戦』(鶴書房)」(第2巻収録)がノミネート、2011年度本の雑誌が選ぶ文庫ベストテン第1位に選ばれた。
2012年には本屋大賞にノミネートされた。文庫本のノミネートは初。また、同じく書籍関係者である図書館員が「来館者に手に取ってもらいたい本」を選ぶ「TRCスタッフが選んだ本2012」(図書館流通センターによる企画)では、第1巻が文庫部門の1位となった。

 私はビブリア古書堂シリーズの第一作が書店の店頭に並べられたときに,表紙を見ただけで買って,それ以来の読者である.直感で,これはおもしろそうだと思ったのである.
 この本が,それまでのライトノベル読者層を大きく離れて,私のように「おもしろそうだ」と多くの一般読者を引き付けたのは,表紙とカラー挿絵を描いた越島はぐのキャラクター造形力によるところが大きいと思われる.
『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズのファンが持っているヒロイン篠川栞子のイメージは,越島はぐがイラストに描いた栞子そのものであり,それ以外ではないことは,栞子ファンたちがネット上に書いた記事で明らかであった.
 越島はぐの描いた栞子イメージの訴求力があまりにも強かったせいで割を食ったのが,剛力彩芽さんだった.
 彼女はフジテレビ系列で連続テレビドラマ化された『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズのヒロインに抜擢されたのだが,彼女は言うまでもない超美貌ではあるけれど,しかし越島はぐの栞子イメージからかなり遠かったため,二次元美少女ヲタ層から強い反発を受けたのだった.
 結局このドラマは,キャスティングも脚本も原作から遠く離れたものであったために,原作ファンから非難を受けたただけに終わり視聴率的には惨敗したのであった.

 それじゃあ誰が栞子役だったらよかったのか.
 栞子が背中まで伸ばした黒髪 (ここが剛力彩芽さんに対するブーイングの主なものであった) であること,メガネが似合う控えめな美貌であることから,それは堀北真希さんしかないと言われた.誰が言ったかというと私だ.
 先月末に,『ビブリア古書堂の事件手帖 7 ~栞子さんと果てない舞台~』が刊行されて,シリーズは遂に完結した.
 そして昨日,堀北真希さんが芸能界引退を発表した.
 ビブリア古書堂シリーズは,作者がスピンオフ作品をこれからも書き続けると言明しているので,ファンはその点は喜んでいいが,しかしもはや堀北栞子を観ることはできなくなったわけで,これはまことに残念であるなあ.

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2017年2月11日 (土)

『下町の太陽』の時代

 先月書いた記事《汚い歌詞 》で,倍賞千恵子のヒット曲『下町の太陽』(昭和三十六年) の曲名だけ書いて,これを映画化した作品には触れなかった.
 映画の制作年は,昭和三十八年.山田洋次監督の二作目の作品である.
 私のようなアラウンド七十歳の爺さんたちには,いわゆるサユリストが多いのであるが,映画女優としてはヒット作に恵まれなかった吉永小百合よりも,『男はつらいよ』のさくら役がライフワークとなった倍賞千恵子の方に同時代の伴走者感があるのではなかろうか.

 映画『下町の太陽』は,今にして思えばいかにも山田洋次監督作品であり,当時の日活の青春歌謡映画とは一線を画する作品であった.
 ただし,今入手できる本作のDVDは,テレビのアスペクト比に合わせて画面の上下が大きくカットされてしまっているので,映画作品としての昭和感は損なわれてしまっている.
 ではあるけれど,私たちが『ALWAYS 三丁目の夕日』に感じる「記憶の改竄」はないのがとてもいい.倍賞千恵子ファンは必見.
(Wikipedia【ALWAYS 三丁目の夕日】はこの点について《山崎貴監督によると、当時の現実的情景の再現以上に、人々の記憶や心に存在しているイメージ的情景の再生を重視したようである》と婉曲に表現しているが,あからさまに言えばこれは意図的に「記憶の改竄」をしたものであり,この嘘臭い映画の「昭和」にはリアリティがないと批評家が指摘する通りである)

 さて本作の導入部で,ヒロイン寺島町子 (倍賞千恵子) の弟の健二とその仲間が鉄道模型の万引き事件を起こす.
 健二の身柄を引き受けに警察へ町子が行くと,少年たちの取り調べをしていた刑事が町子に言う.

刑事「お父さんの収入はどれくらい?」
町子「二万八千円か九千円です」
刑事「それであんたが働いて家計を助けてるんだね」
町子「はい」
刑事「それじゃさほど困るということはないね」

 町子の父親は五十歳くらいのようで,給料が三万円に満たない.
 町子はどうかと推測すると,映画制作年である昭和三十八年の国家公務員初任給が一万七千百円であるから,女工 (広辞苑《工場で働く女子労働者。女子工員。》) の町子は月給一万円程であろうか.
 家計収入は二人合計で約四万円で,これなら刑事の台詞「それじゃさほど困るということはないね」の通りであろう.
 実はこの映画の頃,私の父親 (刑務官) の給料は三万円ちょっとだったような記憶がある.我が家の五人家族で三万円ちょっとの収入というのは,かなり貧しい部類であり,そのため私と姉弟のうち,大学に進学したのは私だけであった.
 姉は高校の成績優秀であったが,家計を助けるために高卒で就職した.姉がもし大学に進学していたら,彼女には別の人生が開けていたはずで,映画『下町の太陽』を観ながら,少し苦いものが思い出に混じった.

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2017年2月 6日 (月)

いじめを肯定する文学

 風邪を引いて熱っぽいところへ持ってきて,腰を痛めてしまった.
 朝目が覚めてベツドから出ようとした途端に「うっ」と声がでた.私は夜中に一度も寝返りを打たず,寝入ったままの姿勢でいる (目撃者談) ので,こういう人間は腰を痛めやすいのだと聞く.そういう知識はあるのだが,寝起きの頭では知識なんか役に立たないのである.

 テレビの情報番組で例えば「腰痛治療最前線」なんてタイトルの番組を観ると,原因不明の腰痛というのがある (そもそも腰痛の大半は原因不明なんだとテレビは言う) ようだが,私の腰も明らかな病変はないと,一年以上前に治療に通った整形外科医は言った.
 それで「牽引」とか「デンキ」とかいう怪しげな治療を受けたが良くならず,毎日が激痛というわけでもないので,今はほったらかしにしている.

 それはそれとして,風邪と腰痛では横になって読書するしかない.
 今,枕頭に積み上げてある本は以下の通り.

差し入れの週刊文春(2/9号)
『最古の文字なのか?』(ジェネビーブ v. ペッツィンガー,文藝春秋)
『人類進化の謎を解き明かす』(ロビン・ダンバー,インターシフト)
『科学vsキリスト教 世界史の転換』(岡崎勝世,講談社現代新書)
『がん消滅の罠 完全寛解の謎』(岩木一麻,宝島社)
『邪馬台国は熊本にあった!』(伊藤雅文,扶桑社新書)

『最古の文字なのか?』は,半分程読んだところまでで意味不明な箇所が二ヶ所あった.これは著者に責任があるのか,あるいは翻訳の間違いなのかはわからない.

『人類進化の謎を解き明かす』は,『最古の文字なのか?』の著者が参考書として挙げている書籍.まだ読み始めていないが,有名な本らしい.

 トランプ大統領を選んだ米国は今後暫くの間,平等よりも差別を,平和よりも戦争を,理性よりも反知性を掲げていくわけだが,その根底にあるキリスト教世界観について勉強してみようと『科学vsキリスト教 世界史の転換』購入した.
 実はこの本の前に,佐藤優と中村うさぎ共著『聖書を語る』と『聖書を読む』(いずれも文春文庫) を読了済み.キリスト教擁護の思想的立場に立つ評論家佐藤優 (カルヴァン派) に対する,反キリスト教の中村うさぎ (かつてバプテスト派の教徒であったという) の発言がおもしろい.キリスト教が世界史的に何をやってきたのかを佐藤優が全く語らないことに私は驚いた.

『がん消滅の罠 完全寛解の謎』は第15回『このミステリーがすごい!』大賞の受賞作.頗る評判がよいが,まだ読み始めたばかり.

『邪馬台国は熊本にあった!』は,買ったから読むけど,どうでもいいやという投げやりな態度で読んでいる.毎日の朝,起きるとベッドの下に落ちている.

 差し入れしてもらった週刊文春(2/9号) の『文春図書館 今週の必読』は,住野よる著『よるのばけもの』(双葉社) である.
 評者は彩瀬まるという作家.
 評言から一部引用しよう.

いじめをテーマとする多くの作品では、よくいじめの被害者が際立ったキャラクターとして描かれる。いじめを受けてもおかしくないであろう存在として、読者を納得させるなんらかの特性が付与されるのだ。本作においても、いじめを受けている矢野はおそらく吃音症で、唐突に人を傷つけ、いつもにんまりと不気味に笑っている。安達を含めた他のクラスメイトは彼女を理解の出来ない異物として遠巻きにしている。

 今時,まともな常識ある社会人は純文学なんぞ読むことはなかろうが,読書する人々に見捨てられて久しい純文学業界が,今やこれ程まで酷いことになっていたのかと,私は驚いた.

 私は『よるのばけもの』を読んでいないから,彩瀬まるの評言が大嘘ではないという前提で書くが,《いじめをテーマとする多くの作品では、よくいじめの被害者が際立ったキャラクターとして描かれる。いじめを受けてもおかしくないであろう存在として、読者を納得させるなんらかの特性が付与されるのだ》は本当か.

 今の純文学では,いじめの被害者が《いじめを受けてもおかしくないであろう存在》として描かれるというのは本当か.
 それはまるで,「いじめられるのは,いじめられる側に問題があるのです」と放言して憚らぬ小中学校教員たちの言い分そのままではないか.

 原発事故で福島から避難している生徒を,「奴隷」「菌」「福島さん」と呼んでいじめをやっていた生徒と教員は,いじめられた生徒を《いじめを受けてもおかしくないであろう存在》としていたわけであるが,いじめられる生徒を《唐突に人を傷つけ、いつもにんまりと不気味に笑っている》として描く『よるのばけもの』を高く評価している評者彩瀬まるは,要するに原発事故被災者には,いじめられるべき《なんらかの特性が付与》されているのだと言っているのである.

 原発事故被災者であることが,いじめられても仕方ない《読者を納得させるなんらかの特性》であるなどとは,まともな人間の言うことではない.
 繰り返すが,今時,まともな常識ある社会人は純文学なんぞ読む必要はない.かつての純文学は私たちが生きている現実と切り結ぶものであったから,青年たちは懐が寂しくても腹が減っても,生きる糧のごとくにして純文学を読んだものだが,今時の作家である住野よるも彩瀬まるも,世の中で起きていることに興味関心はないのであろう.いじめられる生徒像として《おそらく吃音症で、唐突に人を傷つけ、いつもにんまりと不気味に笑っている》としか設定できない連中に用はない.
 ちなみに住野よるの短編作品名を Wikipedia から以下に引用列記する.

「か、く。し!ご?と」(『小説新潮』2015年9月号)
「か/く\し=ご*と」(『小説新潮』2015年12月号)
「か1く2し3ご4と」  (『小説新潮』2016年2月号)
「か♠く♢し♣ご♡と」  (『小説新潮』2016年4月号)
「か→く↓し←ご↑と」(『小説新潮』2016年6月号)

 これが文学の退廃でなくて何だろうか.

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2017年1月29日 (日)

王樓賀韋華傳 (補遺)

 伊藤雅文『邪馬台国は熊本にあった! ~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~』(扶桑社新書) の Kindle 版を読んでいるうちに,固有名詞の「読み」を一々調べて確認しながら読み進むのが億劫になり,他にも字体のことなど色々と不審なことが出てきたので,新書版を購入して比較してみた.
 すると,新書版は,固有名詞だけでなく,例えば雲散霧消に「うんさんむしょう」とルビを振るなど,高校生でも楽に読むことができるような親切編集がなされていることがわかった.

 この本は,新書版と Kindle 版とでは内容が異なる.買って通読するなら絶対に新書版だ.
 以前にも,ある書籍の Kindle 版を購入したら,内容理解に不可欠な図版が省略 (理由不明) されていて,物の役に立たなかったことがある.
 Kindle 版は,コミックに限っておいたほうが良さそうである.

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2017年1月28日 (土)

太古の暗号ミステリー

 一週間前の土曜日,TBSテレビ『世界ふしぎ発見!30周年スペシャル』を録画した.
 いや実に長寿の番組である.しかも内容がよい.
 その『30周年スペシャル』は,《未来を変える冒険者たち》と題して次の三テーマで放送されたのだが,その中でも私は《人類史を覆す太古の暗号に秘められたミステリー》に興味をそそられた.

フィヨルドの衝撃映像! バイオロギングで迫るザトウクジラの謎
折り紙顕微鏡で未来を変えろ! マダガスカルの小さな科学者たち
人類史を覆す太古の暗号に秘められたミステリー 》 

 番組中でも紹介されたのであるが,《人類史を覆す太古の暗号に秘められたミステリー》にはタネ本がある.『最古の文字なのか?』(ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー著,櫻井祐子訳;文藝春秋社刊) だ.
 その紹介によると,この本の著者は今年の夏,氷河期の洞窟の壁に描かれている記号に関する研究成果をまとめ,博士論文として世に問うという.
 ということは,彼女の研究の中心的な部分 (方法論と結論) は本書には書かれていないことになる.自然科学の場合,学術論文誌以外の書物に書いてしまったことは,学位論文には引用できないルールがある (=オリジナリティが要求される) からだ.

 私が考えるに本書は,彼女の博士論文の序文に相当するものだ.
 一年後か二年後,博士号を得た後に,きっと博士論文の本文に相当する内容が出版されるに違いない.それを楽しみに本書を読むとしよう.

[追記]
 翻訳者の櫻井祐子氏は1965年生まれで,フリーの翻訳家である.お若くはないのであるが,今の若い人に特徴的な文章のクセ (というか未熟な日本語) が見られるのは残念だ.一例として,訳文が推測の文型なのに末尾に疑問符をつけてしまっている.これは,文脈からして原文はおそらく疑問文であるので,それならそれで訳文もきちんと疑問文にしなければいけない.これはネット上に見られる若い人の文章に特徴的な誤りである.
 それから,訳者は,自分は人類学の門外漢であると訳者あとがきに書いている.これはいかにもまずい.自然科学書は小説ではないのだから,語学力があるから翻訳できるといったものではない.自然科学書の翻訳者には,その科学分野の基礎的な知識教養が必須である.読者は門外漢で一向に構わないが.(笑)
 この翻訳者のつたない文章 (*) が本書の価値を落としてしまっているかも知れない.その上しかも,専門知識の欠如による誤訳があるかも知れないことに,読者は注意して読む必要がある.

(*) 本書 p.20 に《これは私が見た最も美しい洞窟とはとてもいえない。》と直訳が書かれているが,まるで日本語になっていない.この訳文では,二番目に美しい洞窟であることを否定できていない.しかしこの洞窟は,絶対に二番目に美しい洞窟でもないのだ.
 きっと原文は " not + 最上級" であるに違いない.だとすると「この洞窟は私が今までに見た中でも,かなり酷い状態のものだ」が原文のニュアンスである.最悪に近いのである.その証拠に,著者と一緒に洞窟を調査した考古学者グスタボは《この洞窟はほんとに最悪でね》と言っている.(本書 p.16)
この洞窟はほんとに最悪でね》と p.16 に訳文を書いておきながら,p.20 で《これは私が見た最も美しい洞窟とはとてもいえない。》とは一体どういうことだ.本書の翻訳をした櫻井氏が,私が知っている最も優秀な翻訳家であるとはとてもいえない.(笑)
 高校の英文和訳の授業で " not + 最上級" を習うはずで,長文読解テストでは文脈に沿ったニュアンスで解答する必要がある.まるで中学生みたいな,日本語になっていない直訳では,高校ではよい点数をもらえない.(日本語になっていればいわゆる翻訳調でも全く構わない.櫻井氏が高校生の場合は,だが)

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2017年1月27日 (金)

王樓賀韋華傳

 伊藤雅文『邪馬台国は熊本にあった! ~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~』(扶桑社新書) を昨日から読んでいるのだが,本書 Kindle 版の位置 No.492 に唐突に《王樓賀韋華傳第二十》が一部引用されている.『王樓賀韋華傳』にルビは振られておらず,どのような書物であるのか何の説明もない.

 そこで百科事典を調べると,『三国志』の巻四十六から巻六十五までが「呉書」であるが,その呉書中の,呉の武将である王蕃,樓玄,賀邵韋曜華覈の伝記 (すなわち王蕃伝・樓玄伝・賀邵伝・韋曜伝・華覈伝) を集成した列伝集のそのまた第二十というものであるらしいが,これは中国史において何と読むことになっているのか,皆目わからない.

 各武将を百科事典で調べてみたが,樓玄については,Wikipedia では【楼玄】の項目が立てられている.読みは「樓」「楼」いずれも「ロウ」でよいとして,中国史では旧字体「樓」と書くのが普通なのか,新字体「楼」でも構わないのかを知りたいところだが,Wikipedia に解説はない.
 また「王樓賀韋華傳」をテキトーに「オウロウガイカデン」と読んだら「いえ,慣用では○△□※#と読みます」なんて言われたりするおそれもある.
 学術論文ならいざ知らず,読者に買って読んで欲しい (著者が収入にしたい) 本を書くということは,読者ファースト (小池百合子風) でなければならない筈だが,著者伊藤雅文氏にそんな気は全くないようだ.
 もっと基本的なことであるが,地名人名を旧字体で表記するか,あるいは新字体で表記するかの基準がこの本には書かれていないし,実際に不統一である.この種の本で凡例を書くのは,最低限必要なことであると思うのだが.
 それに,著者は書名『王樓賀韋華傳第二十』をネットの検索サイトからコピペしたと馬鹿正直に書いている (位置 No.467) .
 インターネットには文字コードの問題があって,固有名詞であっても旧字体新字体が不統一にならざるを得ない場合があるのだが,『邪馬台国は熊本にあった!…』は紙に印刷した書籍であるから,その制限はないはず.従ってネットからのコピペであっても,書籍にする際に修正を行うべきである.
 それともこの字体不統一は Kindle 版だけに生じているのか.それならば「『邪馬台国は熊本にあった!…』初版に基づいて制作しましたが,一部の字体が異なります」と断り書きがあって然るべきだが,説明はない.難儀な本だ.

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2017年1月26日 (木)

邪馬台国論争最強の新説か!

 何が不毛だといって,不毛な論争の代表格は邪馬台国論争だろう.

 amazon で何かおもしろい本はないかと探していたら,伊藤雅文『邪馬台国は熊本にあった! ~「魏志倭人伝」後世改ざん説で見える邪馬台国~』(扶桑社新書) が目についた.
 これは去年の秋に出版された本で,帯に《古代史最大のミステリーへようこそ。1716年、新井白石の「古史通域問」に始まった邪馬台国論争300年目の新説登場!》とある.amazon の読者レビューで星4.5 という絶賛本だ.

 邪馬台国論争が楽しいのは,「魏志倭人伝」に書かれている帯方郡から邪馬台国への行程において,「魏志倭人伝」に記述されている方角と距離を「方角が間違っている」「距離が間違っている」と勝手に辻褄を合わせ,自分が「邪馬台国はここにあって欲しい」と思う土地まで,強引に邪馬台国比定地を引っ張ってくるのが可能であるところにある.
 その気になれば,邪馬台国の比定地は,皇居でも福島第一原発でも自由自在だ.
「邪馬台国は大戸島だった!」でも「卑弥呼はアンゴルモアの大王だった!」でもいいのだが,そうしないのは論者たちにわずかな羞恥心が残っているからに過ぎない.

 それでも今までの論者は「魏志倭人伝」を一応の根拠にしてこれを改竄することに努力を傾注してきたのであるが,この伊藤雅文氏は,そもそも現在私たちが知っている「魏志倭人伝」そのものが,既に改竄された偽書であるという説らしい.
 これは着眼点が新しい.すばらしい.この伊藤雅文説を敷衍すれば,「魏志倭人伝」は陳寿のフィクションであるとすることが可能で,「邪馬台国はなかった!」という本を書くことができることになる.すなわちこれまでの邪馬台国論争を木端微塵に粉砕できるのだ.
 そこで私は,邪馬台国論争におけるたった一つの根本資料「魏志倭人伝」を否定し,従来の論争に終止符を打つこのトンデモ本は読んでみる価値があると思い,Kindle 版を購入した.
 ところが,この本は,子供でも読める簡単な地名にはルビを振っておきながら,ルビが必要な地名には「敢えてルビを振らない」という方針だと書かれていた.
 もしかすると著者はすげーめんどくさい性格の人なのかも知れないが,ともかく私は自分で索引を作りながら読み始めた.この本,嘘がうまくできていたら書評を書くことにする.(笑)

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