続・晴耕雨読

本や映画などについて.

2017年5月23日 (火)

最近の小生絶賛本

 ハッピーリタイア悠々自適,残りの人生は読書してすごしましょうと,仕事を辞めたあと思った.
 ひとによっては一生涯現役で働くだろうし,趣味のことに打ち込むにせよ何にせよ余生というものは千差万別であろうが,私は本を読むのが大好きなので飽きもせず読書の毎日である.
 そこでどんな本を読むかだが,一般向け自然科学書から歴史書まで,もう手あたり次第だ.
 しかし手あたり次第とはいえ道案内は必要で,一昔以上前から毎号読んでいる週刊文春の書評欄「文春図書館」は大いに参考にしている.
 書評欄以外に,連載コラムの筆者諸氏が紹介してくれる書籍もあり,本川達雄著『ウニはすごい バッタもすごい デザインの生物学』は福岡伸一先生の御推薦だ.

 一般向け自然科学書といっても,私の場合は数学や物理学ではなく,生物学とか人類学などがツボのようで,おおそうだったのか!と目から鱗の落ちることが多くて楽しい.
『ウニはすごい バッタもすごい デザインの生物学』は第一章から鱗落ちっぱなしだ.例えば昆虫の飛翔には二種類あるという話.
 一つは筋肉 (直接飛翔筋) で翅を動かすという型で,これはトンボ,バッタ,チョウなどの例を思い浮かべるとわかりやすいのだが,もう一つのパターンは,筋肉 (非同期飛翔筋) が胸部をその共振周波数で振動させる型だという.
 ハチなどはものすごい速さで翅を動かしているが,それは筋肉自体の伸縮振動とは無関係だというのである.これ,知ってましたか,諸兄は?
 いや子供の頃から,あのハチの飛び方は不思議には思っていたのだ.それがこんなに明解に説明されると,ははーっとありがたく平伏してしまいますなあ.
 この本,著者がこれまでに書いたベストセラーと同様に,科学好きな老人にお勧めしたい.

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2017年5月11日 (木)

英国軍の恋人 (補遺)

[補遺1]
 昨日の記事《英国軍の恋人 》に,次のように書いた.

この映画の音楽はハーバート・ストサートが担当したと Wikipedia にあるが,Vera Lynn の "The White Cliffs Of Dover" とは同名異曲であるらしい.混同しているブログが散見されるが,それはおそらく誤りであろう.

 こう書いた後でウェブ上の情報をさらに調べたら,やはり Vera Lynn の "The White Cliffs Of Dover" と,同名の映画の主題曲は別の作品だった.
 Vera Lynn の歌の方は,作曲が Walter Kent (英語版【Walter Kent】) と作詞 Nat Burton (英語版 Wikipedia に項目なし) で,1941年の作品である.Vera Lynn がこれを録音したのは1942年であった.
 映画音楽の方は Herbert Stothart による1944年の作品で,この人は英語版 Wikipedia【Herbert Stothart】に《He won an Oscar for his musical score for the 1939 film The Wizard of Oz.》とある.私はこれは知らなかった.
 ちなみにジュディ・ガーランドが歌った劇中歌「虹の彼方に」は作詞エドガー・イップ・ハーバーグ (Yip Harburg),作曲ハロルド・アーレン (Harold Arlen) である.

[補遺2]
 Vera Lynn のベスト盤 "The White Cliffs Of Dover - Vera Lynn" の中では,CDのタイトル曲の他に "It's A Sin To Tell A Lie" も,とてもいい.
 そこで YouTube で "It's A Sin To Tell A Lie" を検索してみた.
 検索語を変えると結果が少し違ってくるので,この歌をカバーしている昔の歌手を網羅できているかどうかはわからないが,まあこんなところではなかろうか.
 誰がいいかというと,ここは Patti Page と Vera Lynn で決まりだと私は思う.異論は認めない.

Patti Page
Vera Lynn
Billie Holiday
Pat Boone
Tony Bennett
Elvis Presley
Bobby Vinton
John Denver

 昔の歌手ではない (私より若い) が,こういう人のも番外編として.
阿川泰子

 Jo Stafford の歌はないかと探したのだが,YouTube どころか彼女の全四枚組CDにも入っていない.この歌を嫌いだったのだろうか.不思議な感じがする.

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2017年5月10日 (水)

英国軍の恋人

 先日の記事《髑髏島の巨神 (補遺) 》で,第二次世界大戦中,イギリス軍の恋人と呼ばれた Vera Lynn について書いた.
 彼女の全盛期は何十年も前のことで,CDの音源は,SP盤はもちろんLPでも録音の古いものが多く,そのため私が昔買ったCDは音質に難があった.
 それで,Vera Lynn について書いたのを機会に,現在入手できるベスト盤を買ってみた.新しいものなら,周波数帯域とダイナミックレンジの狭さは当然ながら元の音源そのままであるが,ノイズの除去処理は技術的に進歩しているのではないかと期待したのである.

 アマゾンで購入したのは "The White Cliffs Of Dover - Vera Lynn" だ.ジャケットの写真は,ドーバー海峡の白い崖だ.
 これには彼女の持ち歌の他にスタンダード曲が入っている.収録曲の一覧を下に示す.YouTube にある曲はリンクを張った.

1. Goodnight Children Everywhere
2. I Paid For The Lie That I Told You
3. Over The Rainbow
4. Now It Can Be Told
5. We'll Meet Again
6. My Own
7. The White Cliffs Of Dover
8. When Mother Nature Sings Her Lullaby
9. Wish Me Luck As You Wave Me Goodbye
10. Who's Taking You Home Tonight
11. I Hear A Dream
12. I Won't Tell A Soul
13. I'll Walk Beside You
14. It's A Sin To Tell A Lie
15. Little Sir Echo
16. A Garden In Granada
17. A Nightingale Sang In Berkeley Square
18. Love Makes The World Go Round
19. Mexicali Rose
20. Over The Rainbow

 SP盤のノイズがブチブチと聞こえる曲もあるが,前から持っていたCDよりも概ね良好である.
 CDタイトル曲の "The White Cliffs Of Dover" (*註) と,"It's A Sin To Tell A Lie" がとてもいい.深夜に聴くと,しみじみと我が胸の底のどこかに沁みていくようだ.

20170510a

(*註) 私が生まれる前の1944年,欧州では1月にソビエト軍が,ドイツ軍によるレニングラードの包囲網を突破し,4月にはクリミア半島およびウクライナ地方のドイツ軍を撃退した.
 この年,ソ連はポーランドのレジスタンスに蜂起を呼びかけた.これに応じてポーランドのレジスタンスはナチス・ドイツ占領下のポーランドの首都ワルシャワで武装蜂起した.ワルシャワ蜂起である.
 物資豊富なドイツ軍に比較すると,徒手空拳のような戦力でドイツ軍に戦いを挑んだポーランドのレジスタンスは苦戦した.その戦況報告を受けたヒトラーはレジスタンス軍の弾圧とワルシャワの破壊を命じた.
 ワルシャワの攻撃を命じられたドイツ軍部隊は,戦闘よりも略奪,市民への暴行と虐殺に励んだ.
 この蜂起した人々の苦境を知りながらソ連赤軍は,レジスタンス軍の背後を流れるヴィスワ川対岸にまで進軍しておきながら,レジスタンス軍への支援をせずに静観した.その結果,ポーランド・レジスタンスは敗北したが,レジスタンスに蜂起を呼びかけておきながら彼らを敗北に追いやったソ連は大戦後,ワルシャワに進軍して生き残ったレジスタンス幹部を逮捕した.こうしてポーランドに自由主義政権が生まれる芽はソ連によって完全に摘み取られたのであった.
 ワルシャワ蜂起の悲劇の後,スロバキア,ルーマニア,ブルガリアなどで蜂起が起きる中,連合軍は6月6日,アメリカ陸軍のアイゼンハワー将軍指揮下に北フランスノルマンディー地方にアメリカ軍,イギリス軍,カナダ軍,自由フランス軍など約十七万五千人の将兵と六千余の艦艇,一万二千機の航空機を動員したノルマンディー上陸作戦を開始,激戦の末に上陸を成功させた.
 このような第二次大戦末期の1944年,米国で『ドーヴァーの白い崖』(原題:The White Cliffs of Dover) が公開された.(映画情報はここ)
 この映画の音楽はハーバート・ストサートが担当したと Wikipedia にあるが,Vera Lynn の "The White Cliffs Of Dover" とは同名異曲であるらしい.混同しているブログが散見されるが,それはおそらく誤りであろう.
 映画 "The White Cliffs Of Dover" は輸入盤DVDが入手できるが,普通のリージョンフリーソフトで再生できるかどうか不明なので,購入して音楽を確認するのは躊躇している.
 いずれにせよ Vera Lynn の "The White Cliffs Of Dover" は,やがて来る平和への希望を美しい旋律に込めた歌である.

20170510b
(Wikipedia【ドーバーの白い崖】から引用;引用元に記載の条件下でブログに引用が可能な画像である)

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2017年5月 6日 (土)

ダメミステリー『純喫茶「一服堂」の四季』

『美女と野獣』を観に行く途中で本屋に立ち寄り,移動中や映画館ロビーでの時間つぶし用に東川篤哉『純喫茶「一服堂」の四季』を買った.
 若い頃はどんな本でも手あたり次第に読んだものだが,この歳になると死ぬまでの残された時間が惜しいから,本を買って読むにあたっては,できるだけハズレは引きたくない.その点,東川篤哉は『純喫茶「一服堂」の四季』の著者紹介文を読むと『謎解きはディナーのあとで』で本屋大賞を受賞した作家だとあるから,大丈夫と思ったのだ.
 が,大外れだった.
 というか,作家として大丈夫か,この人.

 ミステリーの感想文ではネタバレを書いてはいけないというのがお約束だが,『純喫茶「一服堂」の四季』はあまりにもダメダメな連作作品集 (四話から成る) なので,遠慮しないことにする.
 で,この連作はトリックに全くリアリティがない.実際にやってみろと作者に言いたい.
 例えば第二話「もっとも猟奇的な夏」では,磔にした死体を田んぼに立てて案山子にみせかけるというトリックが使われるのだが,作者は実際の案山子を見たことがないと思われるのだ.

20170506a
(Wikipedia【かかし】から引用;パブリックドメイン画像である)

 つまり人間の死体を磔にするための十字架は,かなりの強度が必要だから,角材とか板の木材を使うとなると,その「案山子」の外観が,華奢な作りの本当の案山子 (一例は上の画像) とは似ても似つかないものになってしまうのだ.
 木材ではなく鉄とかアルミ合金のパイプなら細い支柱にすることができるが,その死体を磔にした十字架は,死体自体が重量物だから,柔らかい田んぼの土に穴を掘り,支柱を立てて根元に土を埋める方法では,立てても倒れてしまう.
 倒れないようにするには支柱を上から叩いて,地面に深く突き刺せばよいが,これには建設機械が必要になる.ダメなトリックについてこれ以上,ダメな理由を詳しく解説しないが,殺人犯はそんなことができる状況にないのである.
 こういうトリックを思いついたら,ホームセンターで材料を買ってきて,人間を縛りつけてその「案山子」とやらを作って,田んぼに立てて確認すればいいと思うのだが,思い付きだけで書かれたのでは,金を払う読者はいい迷惑だ.

 また最終話「バラバラ死体と密室の冬」では,犯行が密室状態の一軒家で行われたと見せかけて,実は殺人犯は汲み取り式トイレの金隠しの穴から出入りしたというトリックが使われている.
 これも上と同様で,作者は汲み取り式トイレの金隠しの実物を見たことがないと思われる.そんなことは小学生でも無理だ.というか,子供が跨いでも誤って落ちないような横幅にしてあるのだよ,あの穴は.見たことがないなら,実物を探して調べろ.

 このように,この作家はミステリーの書き手として致命的な頭の構造をしている.東野圭吾の作品でも読んで少しは勉強しろと言いたい.
 さらに言うと,ミステリー作家の資質云々以前に,社会人としてダメだ.
 次の引用箇所は,やはり最終話「バラバラ死体と密室の冬」から.
 新米刑事,黛清志の運転するパトカーの助手席に,女性刑事,夕月茜が同乗している場面である.新米刑事の運転が,かなりあぶなっかしいという設定だ.

呆気に取られる私の隣で、黛刑事は相変わらず軽々しいハンドル捌きを続けている。やはり穴があれば飛び越えるつもりなのかも知れない。
 ふと恐怖に駆られた私は、慎重を期してシートベルトを装着した。
》 (講談社文庫版,p.252)

 呆気にとられるのは読者である.
 警察官がパトカーの助手席に乗っている際に,それまでシートベルトを装着していなかったのだが《ふと恐怖に駆られた私は、慎重を期してシートベルトを装着した》というのである.
 助手席で《慎重を期してシートベルトを装着》する馬鹿野郎がどこにいるか.慎重もへったくれもない.助手席のシートベルトは必ず装着するものなのである.ましてや警察官だ.助手席でのシートベルト装着義務違反を取り締まる側ではないか.
 たぶん東川篤哉は普段,助手席でシートベルトをしていない.それどころか,助手席でのシートベルト装着義務自体を知らないのである.だからこんなことを書いて平気なのだ.講談社は,社会人として失格な男の小説を世に出してはいけない.私はこんな本を買って,金 (本体価格 \660) をドブに捨ててしまったのが悔しい.

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2017年5月 5日 (金)

ベルは黄色のドレスを脱ぎ捨てて

『美女と野獣』,よかったですねー.エマ・ワトソン,よかったですねー.もう「これがデイズニーだよ!」というスクリーンでありました.
 辻堂の 109シネマズはシネコンだから,広いロビーには同時上映される何本もの作品の観客が混じっている.昨日の主な観客層は,黄金週間を楽しむためにやってきた子供連れのお母さん,若いカップル,十代から二十代の女性二人連れだったろうか.

『美女と野獣』上映館に入ると,若い女性たちで満席のようだったが,中には私と同年代と思しき爺さんと年輩の御婦人がちらりほらり.
 きっと彼らは私と同様に,幼年時代にデイズニーアニメの洗礼を受け,少年時代は日本テレビで隔週放送だった『ディズニーランド』(Wikipedia【ディズニーランド(テレビ番組)】;プロレス中継と交互に放送された) に夢中になった人たちでありましょう.
 私たちはやがて社会に出て,家庭を持って子育てをした.昭和五十八年 (1983年) の春,東京ディズニーランドが開園し,それから平成に至る長いあいだ,夢と魔法の国は団塊世代の家族であふれたのだった.

20170505a
エレクトリカル・パレードのベル (1990年撮影)

 いわゆるディズニー・プリンセスは,当時はまだ多くなかったし,東京ディズニーランドのパレードでメインキャラを張ったのは,元祖プリンセスにして特別扱いの白雪姫,シンデレラ,そしてベルだった.オーロラ姫は記憶にないしパレードの写真にも写っていない.今はパレードにいるのだろうか.
 別に資料を持っているわけではないが,若い女性に人気ナンバーワンのディズニー・プリンセスは,ベルだと思われる.
 白雪姫は,ボケーっと待っているうちに幸せになりましたというお姫様であるし,服がダサダサである.あの服を着て結婚披露宴をしたいと思う女性は我が国に一人もいないと私は断言する.コスプレには最適だが.
 シンデレラはどうかというと,へこたれずにイジメに耐えていたら魔女が幸せにしてくれたという受け身の人生.脚本は橋田壽賀子でお願いします.
 これらと比較すると,明らかにベルは能動的に王子樣を愛するのであり,これが女性たちの共感を呼んでいるのではなかろうかと爺さんは愚考するのである.

 さて昨日の記事《ベルの黄色いドレス 》に

一説によると,ヨーロッパでは「花嫁は青いものを身に着けると幸せになれる」という.シンデレラのドレスが青いのは,これを踏まえているらしい.
 とすると,ベルのドレスが黄色い理由が知りたい.調べてみたが,今のところ不明だ.

と書いたが,『美女と野獣』を観て一つ思ったことがある.
 物語の後半,悪漢ガストンがベルの父を精神病院送りにしようとした寸前,野獣に開放されて呪われた城から戻ったベルはガストンに抗議するが,ガストンに精神病院行の馬車に閉じ込められてしまう.
 ベル父娘を村に置き去りにしてガストンと煽動された村人たちは城を襲撃に向かうが,ベルと父は馬車の錠前を開けて逃げ出す (ここはアニメ版と少し異なっている).
 そしてベルは愛馬に乗って城へと疾駆するのであるが,その時に城での舞踏会で着ていた黄色のドレスを脱ぎ捨て,カメラはそのドレスに焦点をあてた.
 このシーンは,やはり黄色のドレスには意味があることを示唆しているだろう.(このシーンがアニメ版でどのような演出だったかは未確認)

 そうこうして物語はハッピーエンドを迎え,ラストシーンの舞踏会で,ベルは花柄の白いドレスで踊る.これはベルの次のドレスが純白であるだろうことを想像させる回収されない伏線だろう.
 こうしてみると黄色いドレスは,ベルの愛が成就するために脱ぎ捨てられねばならないものだったと考えられる.
 ところがディズニー映画の公式サイト (日本) で『美女と野獣』のコンテンツには次のように書かれている.

『美女と野獣』でベルが身に纏う印象的なイエローのドレス。このイエローには、”知性“や”自分らしさ“という意味が込められているとも言われています。

 これはちょっと違うんじゃないか.《”知性“や”自分らしさ“ 》を脱ぎ捨ててはいけない.
 そこで黄色という色の持つイメージについてウェブを検索してみると,英語の "yellow" には「臆病」という意味があるようだ.
 だとすると,野獣に対する愛を確信したベルが,黄色のドレスを敢然と脱ぎ捨てて愛馬に打ち跨り,勇敢にも城へと疾駆するという伏線が,クライマックスで,息絶えた野獣にベルが呼びかける "I" love you で見事に回収されたのだと観客は納得できる.ベルは「愛されるのを待つプリンセス」ではなく,「自ら愛するヒロイン」であることを明らかにしたのだ.王道の映画作法といっていいだろう.
 ここに至って観客は,ヒロインのベルを,女優エマ・ワトソンの生き方に投影することができる.エマ・ワトソンの起用は,長年にわたり女性差別の象徴であるとの烙印を押されてきたディズニー・プリンセスに関するディズニー映画からの回答であろう.

 来週まで銀座三越では,エマ・ワトソンが映画で着た黄色の豪華ドレスが展示されている.作品中の黄色のドレスの意味云々はさておいて,実に華やかだ.実写版『美女と野獣』は,オールド・ディズニー・ファンたちにお勧めである.

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2017年5月 4日 (木)

ベルの黄色いドレス

 辻堂は自宅最寄り駅である藤沢の隣駅であるし,映画を観たあとテラスモール湘南 (駅の北口に隣接しているショッピングモール) で買い物するのにも便利なので,映画館はテラスモール内にある 109シネマズに決めている.
 で,『美女と野獣』を観ようと思い,このところずっと深夜に日付が変わったらエグゼクティブシートの予約を試みていたのだが, 109シネマズのシート予約画面を開くと,いつも全席ソールドアウトなのであった.
 まあ五月連休の真っ只中であるし,人気が落ち着くまで仕方ないかなあ,と思っていたら,なんと本日のエグゼクティブシートが一つ空席になっていた.ラッキー.

 この『美女と野獣』,観客動員のオープニング成績はあの『アナ雪』を越えたのだそうである.
 大ヒットの要因は,エマ・ワトソンの起用に違いない.観客は,美しく成長したハーマイオニーを観にいくのである.
 日本のアニメだろうがディズニー映画だろうが,困難に勇敢に立ち向かっていく知的な美女 (美少女) というのは最強だ.ハーマイオニーもベルもエマ・ワトソンも,最強です.文句ありますか.ないですね.
 しかもアニメ版『美女と野獣』のヒロイン,ベルの容姿イメージに,エマ・ワトソンはかなり近い.その点で実写版『シンデレラ』のリリー・ジェームズはアニメ版『シンデレラ』のヒロイン,エラのイメージから遠く,はっきり言ってミスキャストだったのではなかろうか.
 映画批評家の前田有一氏が YOMIURI ONLINE に『美女と野獣』のヒットの理由として,《「安心感」感じさせるストーリー》と書いていた.(記事タイトル《「美女と野獣」定番中の定番でも大ヒットのワケ》2017/5/2 掲載)
 野獣はお城の主でお金持ちだし,優しい心の持ち主だ.容貌が問題なだけだというのである.大人の女性にとって容貌は大した問題じゃないと.
 そりゃそうだけどね.男は顔じゃないというけど,その代わりに必要なのがお金と優しい心って,すごくハードル高くないですか.(笑)

 一説によると,ヨーロッパでは「花嫁は青いものを身に着けると幸せになれる」という.シンデレラのドレスが青いのは,これを踏まえているらしい.
 とすると,ベルのドレスが黄色い理由が知りたい.調べてみたが,今のところ不明だ.

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ベルは黄色のドレスを脱ぎ捨てて

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2017年5月 3日 (水)

髑髏島の巨神 (補遺)

[補遺 1]
 前述したウェブコンテンツ《町山智浩『キングコング: 髑髏島の巨神』を語る》の中で,町山智浩氏が"We'll Meet Again"について次のように語ったと書かれている.

(町山智浩)いい曲なんですけど、これは非常に不吉な意味とかいろんな意味があって、非常に深い歌です。

 だが,オリジナルの"We'll Meet Again"には《非常に不吉な意味とかいろんな意味》はないと考える.この美しい歌詞の曲にそんな余計な意味を付与したスタンリー・キューブリックらは,この歌を冒涜したと言っていいのではないだろうか.

 戦時中の日本で多くの人々に歌われた歌謡曲があったように,連合国側の国で流行した歌があった.
 最も有名な歌は"Lili Marleen" (Wikipedia【リリー・マルレーン】) だろう.これは元々はドイツの流行歌だが,ドイツ出身のハリウッド女優,マレーネ・ディートリヒが連合軍兵士を慰問し,この歌を歌ったことで知られる.(歌詞日本語訳はWikipedia【リリー・マルレーン】参照)

 日本では"Lili Marleen"ほど有名ではないが,"We'll Meet Again"も一世を風靡した戦時歌謡の一曲であった.
 これを歌ったのは Dame Vera Lynn (Wikipedia【ヴェラ・リン】) で,1939年のリリースであった.歌詞が載っている英語版 Wikipedia【We'll Meet Again】を調べると

"We'll Meet Again" is a 1939 British song made famous by singer Vera Lynn with music and lyrics composed and written by Ross Parker and Hughie Charles.

とあり,作詞作曲者が存命のために著作権がまだ切れていない.そのため歌詞はここに掲載できないので,Wikipedia を読んで頂きたい.
 日本の軍歌や戦時歌謡の中には戦意高揚歌でないものもあったのだが,しかしそれらは軍によって禁じられた.一例が明治時代に作られた「戦友」である.Wikipedia【戦友】には次のように書かれている.

全14番の詞から成り立っており、舞台は日露戦争時の戦闘である。関西の児童たちの家庭から女学生の間で流行。やがて演歌師によって全国に普及した。歌詞中の「軍律厳しき中なれど」が実際に軍法違反で、「硝煙渦巻く中なれど」と改められたことがある。
昭和の初期、京都市東山区の良正院の寺門の前に、『肉弾』の作者桜井忠温大佐が「ここは御国を何百里・・・」との一節を記した石碑が建てられた。日華事変が起きた際に、哀愁に満ちた歌詞、郷愁をさそうメロディーなどから「この軍歌は厭戦的である」として人々が歌うことが禁じられ、陸軍も将兵がこの歌を歌う事を禁止した。また軍部に便乗した人々から「この石碑を取り払うべし」との意見が出て物議を醸した。これは沙汰止みとなり、石碑自体は健在である。
太平洋戦争中「戦友」は禁歌だったが、下士官・古参兵は「今回で戦友を歌うのをやめる、最後の別れに唱和を行う。」と度々行い、士官・上官によって黙認された場合もあり、兵隊ソングとして認知されていた。
戦後連合国軍最高司令官総司令部は一切の軍歌を禁止していたが、一兵卒の悲劇を歌うこの歌は国民から愛され続けた。

 歌詞を読めば明らかなように"We'll Meet Again"は戦意高揚歌ではないが,英軍兵士に愛唱された.「(戦争が終ったら) 晴れたある日にまた会いましょう」と歌うヴェラ・リンはイギリス軍の恋人と呼ばれたという.
 ところで《MAGICTRAIN Music Blog》というブログに《「また逢いましょう」ベラ・リン:Vera Lynn – We’ll Meet Again(1943) 》と題した記事がある.この記事には,

「We’ll Meet Again」(1943)は、イギリスの歌手・女優ベラ・リン(Vera Lynn:1917-)が主演した同名のミュージカル映画の主題歌です。

とあるが,これは誤りである.
 イギリスの戦時歌謡"We'll Meet Again"は1939年に発表されたものだが,1943年に同名のミュージカル映画が制作され,その主題歌となったのである.英語版 Wikipedia【We'll Meet Again】にも次のように記載されている.

The song gave its name to the 1943 musical film We'll Meet Again in which Dame Vera Lynn played the lead role (see 1943 in music).

 そして《「また逢いましょう」ベラ・リン:Vera Lynn – We’ll Meet Again(1943)》には次のコメントが付いている.

Musik より:
2016/02/25 8:12 PM
Vera Lynnはこの曲を1942年には歌っているはずです 確か英語のWikiにもそう書かれていました。1942年が舞台のイギリス映画でもVeraがこの曲を歌っていることになっていました。もし1943年が正しければ、その映画は時代考証が間違っているということになってしまいますよね。どうなのでしょうか?…ご情報を知りたいです。

 当該ブログの筆者もコメント投稿者も,いずれも間違っている.
 上に書いたように,Vera Lynn が"We'll Meet Again"を最初に録音したのは1939年で,その後の1943年に"We'll Meet Again"を主題歌にして同名のミュージカル映画が作られたという事情であった.英国のことはよく知らないが,日本では戦中から戦後にかけて,ヒット曲を元にした映画が後から作られたという例がたくさんある.
 このブログのコメント欄に私もコメントを付けてはみたが,休眠ブログであるとコメントが公開されないと思われるので,当ブログにも書いておく.

[補遺 2]
 《半可通日記》というブログに,《『キングコング: 髑髏島の巨神』2017/3/16(木) 午後 10:13 》と題した記事がある.この記事には,

あの謎の中国女は、ジン・ティエン "Tian Jing"「景甜」というらしい。
ジャングルの中でみんなが泥だらけで死闘しているのに、一人だけ真っ白い顔でノホホンと立っている。
中国で公開するので客寄せに現地人が必要だったのか、それとも最初から中国資本の映画なのか。

と書かれている.
 ご明察である.『キングコング: 髑髏島の巨神』の制作会社であるレジェンダリー・ピクチャーズは2016年1月に中国の大連万達グループに35億ドルで買収された中国系企業である.(日本のソフトバンクも出資している)
 前稿で,サン・リン (ジン・ティエン) について私は

女性ではもう一人,やはりモナーク所属ののサン・リンという女が出てくるのだが,これが最後まで生き残る割に存在感がゼロで,台詞もなくて,いてもいなくても一緒という体たらくなのである

と書いた.上に引用した《半可通日記》の筆者が書いているように,ストーリー展開に無関係な中国人女優が無意味に調査団に加わっているのは制作会社レジェンダリー・ピクチャーズの意向によるものだろう.作品自体が駄作であるが,その上さらに,作品の完成度よりも会社の意向を優先する辺りも,監督のジョーダン・ヴォート=ロバーツがどれだけボンクラであるかを示している.
 制作会社から「ジン・ティエンを出演させろ」と言われて承諾したのであれば,もっと魅力的なキャラ設定ができなければいけない.それが映画監督の力量というもんだろう.
 それができない無能監督を「オタク」だとホメている町山智浩氏も少しおかしいんじゃないだろうか.
 もしもこの三部作の第二作 (ゴジラ,ラドン,モスラ,キングギドラの怪獣総進撃トーナメントだと噂されている) で,制作会社レジェンダリー・ピクチャーズから「反日映画にしろ」と要求されたら,ボンクラ監督は従いそうな予感がする.その時こそ,町山智浩氏の映画批評家としての見識が問われるはずだ.

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2017年5月 2日 (火)

髑髏島の巨神 (五)

 前稿《髑髏島の巨神 (四) 》の末尾を再掲する.

『シン・ゴジラ』では,米国の圧力によって東京で核兵器が使われようとする.これを回避するために日本政府側は死力を尽くす.このことが『シン・ゴジラ』のメッセージの一つであり,リアルの日本人の胸を打つのであるが,『GODZILLA ゴジラ』においては米軍は無思慮に核兵器の使用を強行し,しかも失敗する.日本人からすれば,あほかお前ら,という愚かなシナリオである.
 同じ怪獣ゴジラを登場させておきながら,日米の映画人を比較すると核兵器に対する感覚がこれくらい異なるのだ.
 この,初代ゴジラに対する一切のリスペクトを払うことなく作られた恥ずべき超駄作『GODZILLA ゴジラ』と同じ世界観の上に作られた『キングコング:髑髏島の巨神』もまた駄作となるのは必然であったと言えよう.

 戦後長らく,実際に行われた調査結果に基づいて「『広島・長崎への原爆投下は正当である』と米国民は考えている」とされてきた.
 ただ,第二次大戦を体験した世代が世を去るに連れ,次第に変化が現れてきたらしい.
 それについては昨年 (5/25),ニューズウィーク日本版に興味深い記事が載った.
 その記事《原爆投下を正当化するのは、どんなアメリカ人なのか?》には,

原爆投下の正当性に関する日米両国民の世論については、アメリカの調査機関であるピュー・リサーチ・センターが2015年1~2月に日米で同時に行った意識調査が、これまでにもたびたび参照されてきた。ここでもう一度、そのデータを検証してみたい。
 日本人で原爆投下が「正当化される」と回答した人は14%と少数派なのに対して、アメリカ人では56%と半数を越えていた。もっとも、「正当化される」と回答したアメリカ人の割合は減ってきていると見られている。正当だったとするアメリカ人の割合は、1945年のギャラップ社調査で85%、デトロイト・フリー・プレス紙の91年の調査では63%だった。15年のピュー・リサーチ・センターの調査後に、さらにこの割合は低下しているのではないだろうか。

と書かれていた.
 ギャラップ社の調査 (1945年),デトロイト・フリー・プレス紙の調査 (1991年),ピュー・リサーチ・センターの調査 (2015年) の各調査は,同じ手法で行われたものではないから,一枚のグラフにプロットすることはできないのだが,「日本への原爆投下は正当であった」と考える米国民が減ってきていると推測してもいいだろう.
 しかしながら,それでもなお過半数の米国民は「日本への原爆投下は正当であった」としているのである.
 興味深いことに,このニューズウィーク日本版の記事には,ピュー・リサーチ・センター調査の全体結果だけでなく属性別の結果が記載されている.
 それによれば,共和党支持者の74%,民主党支持者の52%が「正当だ」と回答している.
 現代米国の暗黒面たる共和党,すなわち進化論を否定し,人命よりも銃で武装する自由を優先し,男女差別や人種差別並びにマイノリティ差別を是とし,「偉大なアメリカ」プロパガンダに熱狂するキリスト教原理主義者などを支持基盤とする共和党は如何ともしがたいが,リベラルな民主党支持者の過半数も,しかしながら同様に日本への原爆投下を支持していることを私たちは知らねばならない.米国のリベラルは,反核と同義ではないのだ.

 最近テレビをオンにして,一部チャンネルの情報番組を観ていると,北朝鮮の脅威を強調するあまり,トランプ大統領を正義の味方のように描いている点が気になる.
 だが,第二次大戦後,核兵器による世界支配戦略を最初に立てたのは米国であることを私たちは知っている.従って,金正恩もトランプも同じ穴のムジナなのである.
 トランプが日本海に空母カール・ビンソンを送り込んだのは,日本を防衛するためではない.トランプが大統領選挙の前に言明したように,米国は米国の利益のために行動する.従って万が一,朝鮮半島と日本列島が戦場化すれば,トランプはたとえ東京でも熱核兵器を撃ち込み,米国民は,共和党支持者はもとより民主党支持者の過半数も「戦争を終わらせるための正当な手段だ」としてそれを支持するだろう.太平洋戦争と同じように.
 北朝鮮問題に関してトランプ大統領も米軍トップも,すべての選択肢がテーブルの上にあると強調している.米国にとって核兵器の使用は,何としてでも回避すべきことではなく,可能な選択肢の一つに過ぎない.『GODZILLA ゴジラ』のストーリーと同じである.
 多くの米国民は,核兵器の使用に関して心に痛みを感じない.熱核兵器の開発目的を隠蔽する『GODZILLA ゴジラ』『キングコング: 髑髏島の巨神』と,唯一の被爆国としてメッセージを発する『シン・ゴジラ』を比較して,私たちは暗然とせざるを得ないのだ.

 私は『キングコング: 髑髏島の巨神』を観て,もう一つ暗然としたことがある.
 映画評論家で米国在住のジャーナリスト,町山智浩氏のことである.
 町山氏は何冊もの著書があり,それらの中で一貫して米共和党を強く非難している.氏は米国リベラル派の支持者である.
 ところがこの連載の第一回に書いたように,町山氏は『キングコング: 髑髏島の巨神』の監修者である.
 そのことと町山氏のリベラルな政治的立場の間に齟齬はないのか.
 たまたま《町山智浩『キングコング: 髑髏島の巨神』を語る 》というサイトを見つけたので読んでみたが,町山氏は『キングコング: 髑髏島の巨神』の政治的意味について全く触れようとしていない.これはもしかすると,民主党支持者の過半数が「日本への原爆投下は正当であった」としていることと符合しているのであろうか.だとすれば残念である.

 最後に,『キングコング: 髑髏島の巨神』のジョーダン・ヴォート=ロバーツ監督に好意的な町山智浩氏が,上記の《町山智浩『キングコング: 髑髏島の巨神』を語る》の中で,あの『博士の異常な愛情』と同じく『キングコング: 髑髏島の巨神』にも,第二次大戦中の流行歌 "We'll Meet Again" が映画音楽として使われていると発言していることに関して.
『博士の異常な愛情』は評価の難しい映画だと思う.この作品に対する批判的な意見を一つ紹介しておく.
 その批判的意見と同じく私も,スタンリー・キューブリックが『博士の異常な愛情』に"We'll Meet Again"を用いたやり方は,この歌の歴史的価値を損ねるものだと思う.そして『博士の異常な愛情』の瑕疵でもある.
(この連載終わり)

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2017年4月29日 (土)

髑髏島の巨神 (四)

 前稿《髑髏島の巨神 (三)》の末尾に《しかし凡庸な脚本家と映画監督は,パッカード大佐を道化師にしてしまった.この一点だけでも,『キングコング:髑髏島の巨神』は凡作怪獣映画と呼ばれて然るべきなのである》と書いた.

 このようにパッカード大佐の描き方という点において『キングコング:髑髏島の巨神』は凡作であると私は断ずるが,文章作法とか小説作法という言葉に倣っていえば映画作法としても納得し難いことがある.
 一つは特務研究機関モナークに所属するウィリアム・ランダ (ジョン・グッドマン) の描き方だ.
 作品の導入部における登場の仕方からして,観客は,この男が物語に重要な役割を演じると思うに違いないが,ランダは調査団を髑髏島に連れて行っただけで,あとは何もしないで死んでしまうのだ.おいおい,と言うしかない.
 女性カメラマンのメイソン・ウィーバー (ブリー・ラーソン) は,ただもうカメラのシャッターを切っているだけで,ストーリーの進行を左右する働きはしない.「キングコングとヒロイン」という「コング映画のお約束」のためにだけいるのである.
 女性ではもう一人,やはりモナーク所属ののサン・リンという女が出てくるのだが,これが最後まで生き残る割に存在感がゼロで,台詞もなくて,いてもいなくても一緒という体たらくなのである.むしろいないほうが (その分,ウィーバーが目立つから) いいとほとんどの観客は思うはずだ.

 あとの登場人物も大同小異で,髑髏島の案内人として雇われたジェームズ・コンラッド (トム・ヒドルストン) が,位置付けからして脇役なのに,これが地味に生き残ってしまう.
 その一方で,死んだパッカード大佐もランダも間抜けな退場の仕方で,全くヒロイックでない.
 要するにこの映画には,キャラの立った主役がいないのである.だから観客は,見終わって狐につままれたような欲求不満にならざるを得ない.
 最近のファンタジー作品では『ローグ・ワン』と『シン・ゴジラ』が傑作であると高く評価されているが,それらと比較するとえらい違いだ.
 とはいうものの,もしかすると無名の映画監督ジョーダン・ヴォート=ロバーツは単なる怪獣オタクであって,映画で人間を描くことなど眼中になかったのかも知れない.キングコングとヘリ部隊のアクションを撮影するだけに関心があったのではなかろうか.

 納得し難いことの二つ目.
Wikipedia【キングコング: 髑髏島の巨神】に次のようにある.

レジェンダリー・ピクチャーズ製作の怪獣映画を同一世界観のクロスオーバー作品として扱うモンスターバースシリーズとしては第2作目の映画である。

撮影前に脚本は複数の脚本家たちの関与を受けた。キングコングとゴジラの連続した世界観が求められたため、『GODZILLA ゴジラ』のマックス・ボレンスタインが初稿を書き、次いでジョン・ゲイティンズが第2稿執筆のため雇われた。

 つまり『キングコング:髑髏島の巨神』と『GODZILLA ゴジラ』は同一の世界の物語だというのである.
 では『GODZILLA ゴジラ』がどんな作品だったかというと,Wikipedia【GODZILLA ゴジラ】にこう書かれている.

ガーディアン誌は「日本のゴジラに込められていた反核の風刺が、この映画では滑稽なほど弱まっている腹立たしいリブートだ」と批判している。

 このように酷評されたのは,『GODZILLA ゴジラ』では「第二次大戦後に米国が太平洋で行った核実験は,実はゴジラを倒すために行われたのであった」という設定になっていたからである.これをガーディアン誌は《日本のゴジラに込められていた反核の風刺が、この映画では滑稽なほど弱まっている》と批判したのである.
 ゴジラを倒すために核兵器を使用したというが,米国が一体何発の核兵器を太平洋で爆発させたか知ってるのか.ゴジラが何千匹も出てきたというのかお前ら.
『シン・ゴジラ』では,米国の圧力によって東京で核兵器が使われようとする.これを回避するために日本政府側は死力を尽くす.このことが『シン・ゴジラ』のメッセージの一つであり,リアルの日本人の胸を打つのであるが,『GODZILLA ゴジラ』においては米軍は無思慮に核兵器の使用を強行し,しかも失敗する.日本人からすれば,あほかお前ら,という愚かなシナリオである.
 同じ怪獣ゴジラを登場させておきながら,日米の映画人を比較すると核兵器に対する感覚がこれくらい異なるのだ.
 この,初代ゴジラに対する一切のリスペクトを払うことなく作られた恥ずべき超駄作『GODZILLA ゴジラ』と同じ世界観の上に作られた『キングコング:髑髏島の巨神』もまた駄作となるのは必然であったと言えよう.
(《髑髏島の巨神 (五)》続く)

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2017年4月19日 (水)

髑髏島の巨神 (三)

 前稿《髑髏島の巨神 (二) 》の続き.
 
 インドシナの地に米国がゴ・ディン・ジエムを大統領として傀儡政権を樹立したのが1955年,南ベトナム解放民族戦線の結成が1960年,これに対抗したケネディ政権が南ベトナム派遣軍事顧問団を大幅に増強して戦争が泥沼化していく様相を見せ始めたのが1961年.
 トンキン湾事件 (1964年8月) のあと,ケネディ政権を引き継いだジョンソン大統領は,北ベトナムとの戦闘に関する無制限の指揮を執る権限につき議会の承認を得た.そしてジョンソン大統領は陸軍を戦争に投入するなど大規模な介入を開始し,結果,アメリカは泥沼のベトナム戦争に突入していった.
 このような経過で,宣戦布告なしに,いつ始まったのかあいまいな戦争が始まった.

 しかし南ベトナム解放民族戦線の結成を起点に取れば十三年後の1973年 (昭和四十八年) 1月23日,北ベトナムのレ・ドゥク・ト特別顧問とヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官は,和平協定案を仮調印した.
 同27日,南ベトナムのチャン・バン・ラム外相,アメリカのウィリアム・P・ロジャーズ国務長官,北ベトナムのグエン・ズイ・チン外相,南ベトナム共和国臨時革命政府のグエン・チ・ビン外相の四者間でパリ協定が調印された.

20170419a
パリ和平協定への調印を行うアメリカのロジャーズ国務長官
(Wikipedia【ベトナム戦争】から引用;パブリックドメイン画像である)


 同29日,ニクソン大統領は米国民に「ベトナム戦争の終結」を宣言した.
 戦争が最も激しかった時に五十四万人に達したアメリカ軍は,終結宣言の時点で二万四千人になっていたが,宣言後に軍の撤退を開始し,二ヶ月で撤退を完了した.
 しかし軍事顧問団は引き続き南ベトナムに駐留したままであり,ベトナム戦争の完全な終結には,まだ1975年4月30日のサイゴン陥落まで待たねばならなかった.陥落の前日29日から30日まで,南ベトナムのラジオから季節外れの「ホワイト・クリスマス」が流れる中 (ブログ筆者註;《私のクリスマスソング 》),在留アメリカ人1373名と南ベトナム人その他の5595名が撤退する作戦が完了した旨の報道を,学生時代に東京におけるベトナム反戦運動を目にした私は感無量で聞いたことを思い出す.

 さて『キングコング:髑髏島の巨神』は,映画中で明示されていないが,ニクソン大統領の戦争終結宣言の日から始まる物語である.
 特務研究機関モナークの一員であるウィリアム・ランダは,前年に打ち上げられた地球観測衛星ランドサット1号 (ランドサット計画初号機) が太平洋上に発見した未知の島・髑髏島の資源開発のための地質調査を行いたいとしてウィリス上院議員を説得し,協力を得ることに成功した.
 しかし実は資源開発調査とは真っ赤な嘘であった.ランダは髑髏島の地底は空洞になっていて,そこに太古からの生物が棲息しているとの仮説を立てており,それを証明する調査をしたかったのであった.これは十九世紀以来の疑似科学「地球空洞説」を疑わせるチープな設定だが,疑似科学がどうのこうのと目くじらを立てたのではそもそも怪獣映画は成立しないので,これは問題ない.『キングコング:髑髏島の巨神』に限らずすべてのファンタジーは,私のような頭の中が子供の大人向けなのである.おい.
 さて,ランダはウィリス上院議員を騙して,軍の協力を取り付けた.南ベトナムから撤退中の戦闘ヘリ部隊に,ランダらの調査団一行を髑髏島へ輸送してもらい,さらに偽りの「調査」に協力をしてもらうのである.

 その戦闘ヘリ部隊に指名されたのが,プレストン・パッカード大佐の部隊であった.
 パッカード大佐は調査団輸送任務の前に,彼の個室で物思いに耽る.
 私は前回の記事の最後に《ではパッカード大佐は本当にバカなのか.私は違うと思う.バカなのは脚本を書いたやつなのである》と書いた.
 物思いに耽るパッカード大佐の姿に観客が期待する人間像は様々であろうが,例えば次のような設定はどうだ.

 長きにわたったベトナム戦争の体験が,パッカード大佐を戦闘マシーンに変えた.敵を殺すことが自分の存在価値と化したのである.
 そんなパッカードは本国への帰還を前にして自己喪失感を抱く.戦場こそが俺の居場所だ.帰国して,本国で死んだように生きるのは嫌だと.
 こうした思いのパッカードは,髑髏島でヘリ部隊が壊滅したとき,至福の高揚感を覚える.俺は,神の如き巨大なコングと戦って,この島で死ぬ.死に花を咲かせる.散華.それが自分の生き方なのだと決意する.
 例えばであるが,パッカードを上記のように性格設定し,丁寧に心理描写をすれば,今作『キングコング:髑髏島の巨神』と全く別の作品になったであろう.

 あるいは大佐にまで昇った優秀な軍人としてパッカードを描いてもいい.コングと自分の部隊の戦力差を正確に判断し,緻密な作戦計画を立て,母艦の米軍本隊の救援の元に,最後にコングに勝てぬまでも,調査団と残存部隊全員を母艦へ生還させるとしてもよい.それも一つの物語となるだろう.

 ところが本作におけるパッカード大佐は,軽火器とナパーム弾でコングに勝てる気になっている.
 私たち日本人は,ゴジラを頂点とする巨大怪獣の装甲の堅さを知っている.昭和二十九年のゴジラ初登場以来,陸自61式戦車の90mmライフル砲はゴジラの皮膚にかすり傷すらつけることができなかった.空自の戦闘機に搭載の空対地ミサイルも,陸自の地上発射型各種ミサイルもゴジラの敵ではなかった.
 最近ようやく『シン・ゴジラ』において,米軍爆撃機が放った大型貫通弾で初めてゴジラに傷を負わせることに成功するも,その直後に爆撃機隊はゴジラのレーザー光で全滅したのである.
 かつてその無敵無敗のゴジラを海に沈め,悠々と南海の彼方に泳ぎ去ったキングコングを相手にほとんど丸腰で立ち向かうパッカード大佐の姿を見て私たちは,前のめりの姿勢でスクリーンを凝視するのではなく,「あーあ,そんなんじゃ勝てねーよ」と呆れてシートに背を預けるしかないのである.
 案の定,パッカードはいとも簡単に死ぬ.愚かすぎて観客は全然同情できない.(笑)

 話を,スクリーンに描かれた南ベトナムの米軍基地 (たぶん現タンソンニャット国際空港の辺りだろう) に戻す.
 パッカード大佐役で名優サミュエル・L・ジャクソンが,撤退作戦でごった返す基地のシーンに登場した時,観客は何を思ったか.
 多くのサミュエル・ジャクソンのファンは,紫色のライト・セイバーを振るってクローン大戦を生き抜いたジェダイ最強の戦士,メイス・ウィンドゥとパッカード大佐とを重ね合わせるのではないだろうか.
 しかし凡庸な脚本家と映画監督は,パッカード大佐を道化師にしてしまった.この一点だけでも,『キングコング:髑髏島の巨神』は凡作怪獣映画と呼ばれて然るべきなのである.
(《髑髏島の巨神 (四) 》へ続く)

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