続・晴耕雨読

本や映画などについて.

2022年5月 4日 (水)

エンドロール

 スポーツニッポン《鈴木亜美、映画のエンドロール問題で持論「見る必要ありますか?終わった瞬間に『帰ろ!』です」》[掲載日 2022年5月4日 22:55] におもしろいことが書いてあった.
 
歌手の鈴木亜美(40)が4日放送の日本テレビ「上田と女が吠える夜」(水曜後9・00)に出演し、映画のエンドロール問題で持論を展開した。
 「映画のエンドロールを最後まで見るべきか」というテーマになると、生来せっかちだという鈴木は「見る必要ありますか?終わった瞬間に『帰ろ!』ですよ」とバッサリ。
 MCの上田晋也が「でも、周りはさ『あそこのシーンはこういう意味かな』って考えたい人もいるじゃない」と返すも、鈴木は「ないですよ、そんなこと」と一歩も引かない。「その後に飲みに行ったりとかして、そこで話す」と続けると、さすがの上田も「俺が知ってるアミーゴ(鈴木)と違う…」と、タジタジの様子だった。
 
 昔の映画にはなかったことだが,最近の洋画では,エンドロールのあとにまたシーンがほんのすこし続くという手法があるのだ.
 エンドロールが始まってすぐに席を立つと,それを見逃してしまう.
 このやり方に気が付いてから,私はエンドロールを最後まで観るようになった.

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2022年3月22日 (火)

ミステリの誤訳は動画を観て確かめるといいかも

『ポケットにライ麦を〔新訳版〕』(早川書房,山本やよい訳,2020年8月25日発行) を読み始めたのだが,冒頭から誤訳があった.
 オープニングで富豪の投資信託会社社長レックス・フォーテスキューが毒殺される.
 捜査を担当するニール警部が,レックス・フォーテスキューの使用人への事情聴取を開始する.(以下《 》は引用を示す)
 まずレックスの家に電話をかけると執事が出る.警部が《フォーテスキュー氏の病状について話がしたい》と言うと,執事は《ミス・ダブを呼びましょう。この家の家政婦とでも言えばいいのでしょうか》と答える.
 この「家政婦」が誤訳なのだ.それも初歩的な情けない誤訳.
 この小説は英国上流階級の話なのだから,ハウスキーパーは「家政婦長」,メイドを「家政婦」として区別するのが正しい翻訳である.(『ポケットにライ麦を』には,女性使用人としてハウスキーパーの他に「メイド」も出てくるが,山本やよい訳はハウスキーパーを家政婦,メイドを「メイド」と訳している.支離滅裂だ.メイドは何だと思っているのだろう.事典を読めと言いたい)
 ちょうどいい具合に,YouTubeにテレビドラマの『ポケットにライ麦を』があるので紹介する.
ミス・マープル 第13話 ポケットにライ麦を》である.
 殺人が起きたあと,ニール警部が部下と共にフォーテスキューの邸宅を訪問すると,ミス・ダブことメアリ・ダブが二階から階段を下りてきて自己紹介する.
 動画の台詞は《わたくし,ハウスキーパーのメアリ・ダブと申します》だ.下の画像はYouTubeからのスクリーン・ショットである.
 
20220322b
 
 この動画の吹替は正解で,ハウスキーパーはハウスキーパーとすればよい.しかし日本語に言い換えるならば家政婦長 (この『ポケットにライ麦を』では,フォーテスキュー家の使用人のトップであり,執事よりもエライ) とせねばならない.これは基礎的常識.高校生の英語だ.
 上に紹介した動画では,メアリ・ダブはきちんとしたダーク・グリーンのスーツを着用した美女である.
 原作ではもっと明るい色のワンピースを着ていることになっているが,どちらにせよ,家政婦の仕事着ではない.
 翻訳小説が「家政婦」なんて訳すもんだから,誤解する読者が出る.例えばあるブログには,こんな感想が書かれている.
 
メアリー・ダブは、黒髪・黒服にメイドエプロンの姿を想像していたのですが、家政婦みたいな上級使用人はエプロンはしないんでしたっけ?家政婦といえば黒服に鍵束のイメージですが、原作にメアリー・ダブは白いカラーにカフスという描写があったので、勝手に頭に白いひらひらとエプロンまで付け足して想像していたわ。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 無理もない.普通の日本人は「家政婦」にお手伝いさんのイメージを持っているからである.そのイメージを英国風にすれば,これはもうどうしたってエプロン姿のメイドさんだ.おいしくなーれ,おいしくなーれ,萌え萌えキュンである.ヾ(--;)
 ところが家政婦長ともなると,現代の日本社会の貨幣価値では,年収千五百万円ほどになる.(Wikipedia【ハウスキーパー】の記載から計算した)
 家計の実務を取り仕切るのもハウスキーパーの仕事で,そのために経理ができないといけないらしいので,日本の会社なら肩書は執行役員経理部長といったところ.
 実際,ニール警部はメアリ・ダブの知性と能力に驚いたという描写が,山本やよい訳の翻訳文に出てくる.
 不思議なのは,そのようにメアリ・ダブを描写しておきながら,山本やよいはメアリを「家政婦」であると誤訳していることだ.
 山本やよいは,やたらと翻訳書を 下手な鉄砲も数打ゃ 出版しているが,大丈夫かなあ.この人は私と同世代なんだが……
 
 ちなみに,原作中のメアリを山本やよいは《着ているワンピースのベージュグレイという柔らかな色合い、白い襟とカフス、きれいにウェーブした髪、モナ・リザようなかすかな微笑、どこか現実離れした雰囲気があり、三十歳にもならないこの若い女……》と訳している.
 白い襟とカフスの付いたベージュグレイのワンピースは,洋画に出てくる上品な家庭のお嬢様のものだと一読して私は思ったのだが,諸兄はいかがか.秋葉の道端でビラまいてるメイドさんを想像した人はあっちに行きなさい.しっしっ.
 
 
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2022年3月17日 (木)

科捜研の樹々

 私は東大農学部の学生だった時に「樹木成分化学 I, II」という一年間にわたる講義を聴いた.木でも草でも,その植物に特徴的な化学成分があり,それらを網羅的に紹介するという内容で,とてもおもしろかったので,講義ノートは今でも押入れのどこかにしまってあるはずだ.
 で,「樹木成分化学」の各論でイチイの成分が取り上げられたことがある.
 イチイは「一位」あるいは「櫟」と書く常緑針葉樹.学名は Taxus cuspidata である.イチイ科イチイ属の植物またはイチイ属の植物の総称であり,別名はアララギという.
 正岡子規の根岸短歌会の流れをくむ『馬酔木』の廃刊後に,伊藤左千夫らが1909年に『アララギ』を創刊したことから,イチイよりもむしろアララギのほうが通りがよいかも知れない.
 アララギ (イチイ) は,北海道から本州中・北部の山地に自生し,また沖縄県以外では庭木として植えられることが多いので,珍しい樹木ではない.雌雄異株で,花はいずれも春に開き,秋に結実する.熟すると種子を赤い多肉が包んで果実状になる.この実は甘くて食べられる.
 木工材料としても用いられ,ヨーロッパでは古くから弓 (ロングボウ) の素材として有名だが,現代はスキーにも使われる.
 また最高級の鉛筆材であり,他に建築材,彫刻材としても使われる.「一位」という名の由来は,Wikipedia【イチイ】に《和名イチイは、神官が使う笏がイチイの材から作られたことから、別名シャクノキ (笏木) ともよばれ、仁徳天皇がこの樹に正一位を授けたので「イチイ」の名が出たとされている》と書かれている.
 以上がイチイの樹の基礎知識だが,「樹木成分化学」の講義はこれから先だ.
 果実は甘いので果実酒を作ったりするが,果実以外の葉や種子にはアルカロイドのタキシン (taxine) が含まれ,強い毒性がある.
 これについてWikipedia【タキシン】には次の記述がある.
 
タキシン (taxine) は、主にイチイ属の植物に含まれるテルペンアルカロイドの混合物である。外観は粒状の粉末で、CAS登録番号は [12607-93-1]。Taxine A (C35H47NO10、 [1361-49-5])、taxine B (C33H45NO8、[1361-51-9]) などが含まれる。『イチイ』の意であるラテン語『taxus』から名が取られた。1950年代から1960年代にかけて分離と構造決定の研究がなされた。
 
毒性
 心臓毒の一種であり、症状としては末梢神経性循環障害食欲廃絶、筋力低下、四肢の振戦、呼吸困難、心臓麻痺、心拍数減少、血圧低下、体温低下、痙攣、硬直など様々なものが挙げられる。症状が急速に進むため、死ぬ寸前まで気付かないことも稀では無く検死などで毒物検査を行って初めて異常な量の摂取が発覚することもある。
 タキシンはカルシウムチャネルおよびナトリウムチャネルのアンタゴニストであり、心臓のイオンチャネルに対して選択性を示す。
 タキシン中の主要な成分はタキシンBであり、タキシンBはその他の成分よりも高い毒性を示すため、タキシンの毒性の大部分はタキシンBによるものであると考えられている。
 アガサ・クリスティのポケットにライ麦をでは、タキシンを用いた殺人事件が登場する。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 さて昔々,五十年も前に講義で聴いたイチイの話を持ち出したのは,先日《科捜研の女 15 第七話「どっきり殺人レシピ」》の再放送を観たからである.
 イチイの種子 (ヒトなら数粒) を噛み砕いて飲み込んでしまうなどの経口摂取をしてから,毒性が発現するまで数時間のラグがあり,Wikipedia【タキシン】に書かれているように,症状が現れると急速に死に至る.
《科捜研の女 15 第七話》(あらすじ) は,このタキシンの性質を巧みに取り入れたシナリオと俳優の演技で,私は大いに感心した.
 この第七話で殺人に用いられたイチイの種子は,京都郊外に自生しているイチイの樹の実から容易に手に入るところがストーリーのキモである.
 このように,《科捜研の女》には,京都府下に自生する樹々,草花がよく登場する.
 今日 (3/17) 放送された《科捜研の女 19 第三十一話「ピンク色の鑑定」》(あらすじ) は,架空の樹木であるミヤコヒガンという桜の葉を草木染に用いるというストーリーだった.草木染の媒染剤に関する知識も得られて,なかなか勉強になった.
 いま放送中のNHKの朝ドラ《カムカムエヴリバディ》のシナリオが,辻褄の合わぬこと甚だしいデタラメなのに比較して,《科捜研の女》のシナリオはよく練られている.これはもう作家の脳みそのでき具合としか言いようがなく,《科捜研の女》の長年にわたる高視聴率もむべなるかな,である.
 しかるに週刊文春が昨年の十月七日発売号で,テレビ朝日の関係者から内部リークがあったとして,《科捜研の女》は今シーズンで打ち切りだと報道した.(文春の記事) 
 女性週刊誌がすぐ後追いの提灯記事を載せたが,他誌は全く無視した.文春のデッチアゲなのか事実なのか,ほんとのところはどうなんだ.もう三月も後半だぞ,文春.件のリークは,テレビ朝日の連発不祥事&社長追放劇と何か関係あるのか.たぶんあるんだろうなー.
 
 ところで,「どっきり殺人レシピ」はよくできたシナリオだったが,これはWikipedia【タキシン】に書かれているアガサ・クリスティの『ポケットにライ麦を』に想を得たものかも知れない.そこでアマゾンを探したら状態のよい古書 (新訳版,早川書房クリスティー文庫) が出ていたので先日注文した.
 そして今日届いたのは帯付きで,読んだ気配なしの良品だった.元の持ち主は読まずに売ったようだが,どういう了見だ.w
『ポケットにライ麦を』(*註) は安定のミス・マープルのシリーズである.安定の,といいつつ,私はなぜか未読.今から寝床で読むことにする.
 
(*註)
 原題は“A Pocket Full of Rye”だ.「ポケット一杯 (分の量) のライ麦」ではなく「ポケットにライ麦を」と訳した最初の翻訳者の意図はなにか.本作の邦題が謎含みだが,もしこれが伏線ならおもしろい.
 
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2022年3月14日 (月)

マンガ作者と読者の交流

 先週掲載した記事《焼夷弾の思い出》[掲載日 2022年3月7日] に次のように書いた.
 
「大吉じいちゃん」はねこまきさんの父上がモデルとのこと.作品に描かれた戦時中のことは,父上から伝えられた知識に基づいていたのであった.これで大いに納得がいった.
 
 ところが『ねことじいちゃん』を順次読み進んでいったら,第五巻の巻末に,逝去なさった工藤孝夫というかたへの謝辞が掲載されていた.
 作者のねこまきさんは工藤さんのブログの読者で,工藤さんが体験した戦争のことや若い時の暮しに想を得て,第三巻以降の作品中に取り入れてきたのだという.作者と工藤さんに直接の交流があったかどうかは書かれていない.
 もちろん焼夷弾消火訓練のことは,ねこまきさんの父上からの聞き伝えもあるだろうが,他にも作品の時代考証にブログなどの情報を用いたらしい.
 マンガは,普通は作者が一人で創作するものだろうが,こういう描き方もあるようだと私は初めて知った.
 それはこのブログで何度か取り上げた『夜回り猫』も同様で,その作者の深谷かほるさんは,交流のある読者の実体験を作品に採り入れていると明記している.
 アマゾンの『夜廻り猫』レビューを読むと,深谷さんの創作方法を批判する人がいるが,私はよいと思う.むしろ作品に深みが出るように思うのである.

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2022年3月 9日 (水)

ペットと暮らす /工事中

 生物の進化に関する学説とか,動物行動学とか,生き物について科学的な考察を行う上では,対象生物の擬人化を厳しく排除しなければいけない.
 かつて東京都知事だった男が,新型コロナウイルスのオミクロン株が感染拡大を続けていることに関して,こんな阿呆なこと(↓)を述べている.(ABEMA TIMES《「オミクロン株は普通の風邪」舛添氏が持論 「これが(変異の)最後で、あとは無くなるかもしれない」とも》[掲載日 2022年1月9日 14:23])
 
過剰に反応する必要はないと思っている。ウイルスも生き残りたい。たくさんにとりついて、たくさん死んだら生き残れないので、死なせないようにということで肺炎にさせないようになっている。上手く行くと、これが(変異の)最後で、あとは無くなるかもしれないと期待している》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 いくら文系とはいえ,よくまあこんな自然科学の知識レベルで東大を卒業できたものだ.できのよい高校生に嘲笑されるだろう.
 あまり優秀でない理系の大学教員 (実際にいるのだ) あたりが一般向けの本を書くと,二つの誤謬に陥る.二つの誤謬とは,(1) やたらに生物を擬人化する, (2) 「○○できるように進化した」という言い方で,予め予定された方向に生物が変化したかのように説明する,の二つである.
 後者の誤謬は例えば「ヒトの手は,道具を握りやすいように,親指と他の四本の指が離れている」の類で,進化の自然選択説を否定するものだ.この種の嘘は「~ように」という言葉が使われるのですぐわかる.
 新型コロナウイルスのオミクロン株のことでいえば,舛添の《死なせないように》《肺炎にさせないように》がその定型句的嘘だ.
 この箇所だけでも舛添の知的レベルがわかろうというものだが,それでは済まないところがこの元知事の悲しい脳みそである.
 無知ダメ押しの《ウイルスも生き残りたい》が,悲しい脳みその証左である.
「生き残り“たい”」の“たい”は意思あるいは希望を意味する表現であるが,ウイルスはそんな意思も希望も有していないのである.
 意思や希望どころか,なーんにも考えていないのである.脳がないから.w
 あるウイルス感染症が大流行しようが,収束しようが終息しようが,あるいは天然痘のように根絶しようが,それらは自然科学のプロセスであって,《生き残りたい》などという文学的現象ではないのである.
 そこんところをきちんと踏まえていないと,舛添のように中学生以下の知的レベルに堕ちてしまう.
 余談だが,都知事という 肩書だけは立派だが知的レベルが余りにも低い人間は,都民の血税 公金を自分の趣味に流用したのがバレて失職したり,親の介護をしなかったのに恰も介護をしたかのような嘘をついて本を書き,金を儲けたりする.こういう人間の言うことに耳を貸さぬようにしたいものである.
 
 さて,自然科学の目で生物を観察するときに擬人化は御法度だが,しかし愛玩動物,とりわけイヌとネコとなると話は別だ.むしろ,擬人化すること (例えばペットを家族と見做すこと) こそがペットと暮らす生活の肝である.
 イヌは,一万五千年以上前にオオカミから分化したとWikipedia【イヌ】に記述されている.遺伝的にはイヌはオオカミの亜種らしい.
 最近の雑誌記事 nature asia《考古学:ヒトが食べ残しの肉をオオカミに与えたことがイヌの家畜化の初期段階に寄与したかもしれない;Archaeology: Sharing leftover meat may have contributed to early dog domestication 》[掲載日 2021年1月8日] に次のように書かれている.
 
Lahtinenたちは、ヒトが余り物の赤身肉をオオカミに与えていた可能性があり、それによって獲物を巡る争いが減ったと考えている。
 今回の論文によれば、ヒトは、植物性の食物が少なくなる冬に、動物性の食餌に頼っていたかもしれないが、タンパク質だけの食餌に適応していなかった可能性が非常に高く、油脂分が少なくタンパク質の多い肉よりも油脂分の多い肉を好んでいた可能性がある。オオカミはタンパク質だけの食餌で何か月も生き延びることができるので、ヒトは、飼っていたオオカミに余った赤身肉を与えていた可能性があり、それによって過酷な冬期においてもヒトとオオカミの交わりが可能だったと考えられる。余った肉を餌としてオオカミに与えることで、捕獲したオオカミと共同生活をしやすくなった可能性があり、オオカミを狩猟に同行させ、狩猟の護衛にすることで、家畜化過程がさらに促進され、最終的にはイヌの完全家畜化につながった可能性がある。
 
 ありそうな話だと思う.しかし上の説明だけでは,ヒトはなぜオオカミに赤身肉を与えたのかという疑問が生じる.オオカミの群れとヒトの群れはどのように接触を始めたかを説明する仮説が必要だ.両者は,初期には互いに警戒心を持って,距離をおいていたと考えるのが妥当だからである.
 しかしやがて,ヒトの集団が狩りをしながら移動していったあとには赤身肉が残されていることを知ったオオカミは,ヒトの群れからあまり離れずに生活するようになったのではないか.
 また,動物行動学の竹内久美子さんが書いていたのだが,海外の研究者が現在のオオカミを観察したところによると,生まれてくる仔オオカミの中に,ヒトに警戒感を持たない個体が,ある確率で存在するという.
 他方,ヒトの多くは,生まれたての小さいイヌやネコが近寄ってきて「肉をくださいワン」とか「おなかすいたニャ」などと言うと,無性に食べ物を与えたくなる.イヌやネコの飼い主ならみんな知っているが,彼らに食べ物を与えたいという衝動に抵抗するのは非常に難しいのだ.理由はわからない.私たちはそのようにプログラミングされているのだとしか言いようがない.
 つまり,ヒトとオオカミの共同生活は,ヒトのキャンプに幼い仔オオカミが入り込み,ヒトの後ろを付いて歩くことからはじまったのではないか. 
 この「ヒトに警戒心を持たない仔オオカミ」は,ヒトを擬オオカミ化して見ているように私には思われる.これは,現代のイヌが飼い主を自分と同じイヌだと見做しているという定説の原形だろう.
 すなわち,ヒトの群れに入ったオオカミの子孫であるイヌは,私たち飼い主を群れのリーダーとして認識している.つまり飼いイヌは飼い主を擬イヌ化している.
 一方の私たちは,イヌやネコを擬人化する.自分自身と妻や子は群れの一員 (妻が群れのリーダーであることが多い) なのであるが,この群れを「家族」と呼んでいる.
 ヒトの群れにおいては構成員に名前をつけるが,イヌにももれなく命名する.学術研究の対象である場合は,例えばAJ56などとナンバリングすればいいのだが,自分の家族をAJ56と呼ぶのは違和感があるから,通常はプリンちゃんとか
 先日,テレビ番組に出演した宝塚出身の超美人女優さんが「うちのコと二人で出かけるときは……」と言っていた.
 
 
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 『夜廻り猫 4』の第三百二十四話が,犬という生き物を痛切なまでに擬人化していて,犬の飼い主は胸を打たれる.

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2022年3月 7日 (月)

焼夷弾の思い出

 ねこまき作『ねことじいちゃん (3)』の第八話「おとなりのたみちゃん」に,大吉爺さんと厳爺さんの戦時中の思い出が描かれている.
 
 戦争末期のある日,みんなが住んでいる島で消火訓練があった.大吉爺さんらはまだほんの少年だ.
 今は消火訓練というと職域訓練が主だが,戦時中は地域で行うのが普通だった.訓練の世話は隣組がやる.
 大吉爺さんたち子供は大人の邪魔にならぬように静かにしている.
 大吉爺さんの母親は自分ちの座敷に立って,手には長箒を持ち,訓練係の人がやって来るのを待ち構える.(長箒とはWikipedia【箒】に《箒の柄が長いもの。主に立ったまま床などを掃けるような長さのもの》と説明がある.大人の身長ほどの長さで,両手で持つ.竹の棒の先は平筆状になっている)
 そこへ訓練係がやってきて「消火訓練開始,焼夷弾落下」と大きく発声して,引き戸の外から中にタワシを投げ入れる.タワシは,焼夷弾の破片の代わりだ.
 箒を構えていた母親は,機敏に戸口に駆け寄り,箒でタワシを掃き出す.
 それからバケツを手に取って,タワシに水をかける真似をする.これが流れるような動作でできれば訓練は成功だ.
 その夜,仕事から帰ってきた父親に家族は,消火訓練があったと報告した.
母「消火訓練だったんだわ.焼夷弾が落ちたらな,ほーきで掃き出して水をかけるんだがね」
父「ほーきでか? バカバカしい.そんなもんで消えるか」
母「ちょっ,ちょっとそんなこと言って,人に聞かれたらどーするの」
母「大吉っ,あんたも言ったらダメだで」
大吉「はいっ」
母「あんたは返事だけはえーねえ」
 
 以上が「おとなりのたみちゃん」の一部シーンである.
 私は戦時中に焼夷弾消火の訓練があったという話は聞いたことがある.
 けれど,それがどんな風に行われたのかまでは知らなかった.
「ねことじいちゃん」作者のねこまきさんは,マンガの絵で描いているところをみると,焼夷弾消火訓練について詳しい知識があるようだ.
 このマンガの第一巻と第二巻にも戦時中の空気感のようなものが表現されているが,第三巻の消火訓練は確かな資料に基づいて描かれていると思われる.私にも終戦すぐに生まれた世代としてそれなりの知識はあるが,ねこまきさんは私より,もっと詳しい.現役の人気漫画家なのに不思議である.
 ねこまきさんの年齢は不詳だが,年齢を推定できるような資料はないかと探したら,あった.Sippo《『ねことじいちゃん』作者・ねこまきさんの愛猫ライフ》[掲載日 2019年6月13日) に下のようにある.
 
現在はマンガ家・イラストレーターとして活動している。様々なテイストを描きわけるというが、『ねことじいちゃん』のタッチはどのようにして生まれたのだろうか。「昔、母が描いてくれた丸みのある絵が印象に残っていて、仕事でそんな雰囲気の絵を描いてみたら喜ばれたんです。そこから確立していったという感じですね。母は数年前に他界したのですが、実は『ねことじいちゃん』の妻を亡くした大吉じいちゃんは、私の父を重ねて描いているところもあるんですよ」と明かしてくれた。取材や丁寧な歴史考証を元に紡がれているが、老若男女に愛されるあたたかな物語の根幹を支えているのは、両親を思い、時折その存在を感じながらペンを走らせるねこまきさんの家族愛なのかもしれない。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
「大吉じいちゃん」はねこまきさんの父上がモデルとのこと.作品に描かれた戦時中のことは,父上から伝えられた知識に基づいていたのであった.これで大いに納得がいった.
 
 さて,日本の敗戦が近い頃,日本のあちこちで米軍機による空襲が激しくなった.
 原爆の前に空襲で投下され続けたのは焼夷弾である.
 焼夷弾は爆風による直接的殺傷よりも,建築物の密集している都市部の火災破壊を目的としていた.
 だから大吉爺さんが住む愛知県の小さな島に焼夷弾が落とされるはずはなかったのであるが,一億国民の総力戦なのだから,焼夷弾消火訓練をしないわけにはいかなかったのだろう.
 しかし島に残っている予備役の兵はたぶん焼夷弾なんか見たこともなかったに違いない.だから消火訓練では各家の戸口から,焼夷弾に見立てたタワシを投げ込んだのだ.
 焼夷弾の実際についてWikipedia【M69焼夷弾】から下に引用する.日本本土空襲で使用された焼夷弾にはいくつかのタイプがあるが,主にM69であった.
 
日本に対して用いられた焼夷弾は、M69子爆弾19発を前後2段に集束して38個とし、安定フィンを持ったE46「照準可能」クラスター弾に収めたものであり、これは投下後、高度約610m (2000フィートまたは700m) で開裂し子爆弾に散開する。M69子爆弾は散開後、頭部 (信管側の端) を下に向けて落下するために、尾部 (信管の反対側の端) から長さ約1m (3フィート)、幅約10cmのストリーマーと呼ばれる綿製 (麻製とも言われる) のリボンを展開する (ストリーマーは1本ではなく、4本あったとする資料もある)。親爆弾を開裂し、子爆弾を散開する際に使用される爆薬によって、ストリーマーにも火がつくので、「地上からは火の雨が降ってくるように見えた」と言われている。なお、親爆弾の開裂には爆薬を用いず、従ってストリーマーにも火がつくことはなく、風圧ではためくストリーマーに、地上の火災が反映して、「火の雨」に見えたのではないかと示唆する説もある。
 M69が、建物、地面または家屋の屋根を貫通して床などに衝突すると、時限信管が3から5秒間燃焼し、焼夷弾が横倒しになった後で、トリニトロトルエン (TNT) 爆薬が起爆され、その中に含まれるマグネシウム粒子によって焼夷剤に着火する。焼夷剤は信管の反対側の端から、最大で30m (100フィート) の高さまで、燃焼する多数の火の玉として噴出し、これらが周辺の物を即時に強力に炎上させる》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 上の解説を朝日新聞DIGITAL《75年前、首都はなぜ焼き尽くされた 東京大空襲を知る》[掲載日 2020年3月10日] はわかりやすい動画で説明している.
 この動画資料の他に,焼夷弾投下の実際の記録映像も見るのがよいが,ネット上にはあまり掲載されていない.(一例;《中日映画社「東京大空襲」》[掲載日 2018年5月17日])
 しかし静止画写真なら東京大空襲・戦災資料センターなど国公立の資料館に多数展示されている.
 
 焼夷弾は着弾すると一呼吸おいてから激しく発火する.次いで煮えたぎるような溶融油脂が周囲に噴出する.極めて危険であり,とてもではないが長箒で掃き出せるほど焼夷弾は軽くないし,炎は激しい.
 大吉爺さんの父親は《ほーきでか? バカバカしい.そんなもんで消えるか》と言ったが,その通りである.
 その通りだが,しかしそれでも後方の国民は,焼夷弾消火訓練を行い,竹槍を手に本土決戦に備えたのである.戦争は悲しい.私は《バカバカしい.そんなもんで消えるか》と思いつつ訓練の号令に従った親の世代を嗤う気にはなれない.
 
 昭和三十年代,復興の希望は国民の中に芽生えてきたが,それでも相変わらず日本全体は貧しかった.
 義務教育制度は確立したが,教育に充分な国家予算が立てられるわけではなく,学校の先生たちは子供たちのためにいろんな工夫をした.
 私が通った群馬県前橋市立南小学校では毎年,廃品回収を行って,校舎の補修費や足りない教材費に充てた.
 廃品回収の日に,各家庭は物置などを整理して,出てきた不要物品を校庭に運んできて並べた.
 その不要品の中で異様だったのは,燃え残った焼夷弾の筒であった.
 昭和二十年八月五日夜から六日未明にかけて前橋市はB29の空襲に襲われた.Wikipedia【前橋空襲】に《92機のB29により、723トンもの焼夷弾などが投下され、1万1518戸が全半焼し、535人が死亡し、600人以上が負傷した。被災面積は全市の22%、被災戸数は全市の55%、被災人口は全市の65%に及んだ》とある.
 昭和三十年になっても,その日の空襲の記憶が,焼夷弾の筐体として,あちこちの家庭に残っていたのであった.
 
 

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2022年3月 2日 (水)

風が吹き渡る風景

 去年まで,私は目的別に三台のPCを使い分けていたのだが,今は音楽用のPCと,文章書きとフォトレタッチ用のPCの二台だ.
 音楽用といっても,ちょっといいアンプを繋いで,文章書きなどの作業時にBGMをかけているだけである.
 つまりいつも,百曲くらいお気に入りを収めたライブラリばかり聴いている.
 そのうち,コレクションの全体像を忘れてしまったので,音楽ファイルのフォルダをざーっとおさらいしてみた.
 
 すると,さだまさし の初期のアルバム『風見鶏』がフォルダに入っているのを発見wした.
 懐かしいなあ,と聴いてみたら,なんだかとてもいい.
 特に「桃花源」を,暫くしみじみと聴き入った.そしてこの歌をBGMのライブラリに登録し,今日はこればかりをリピートして一日中聴いている.
 YouTubeには,古い録音と,CD『風見鶏』に収録されたリマスターver.,そして《さだまさしオフィシャルYouTubeチャンネル》の『さだ丼』に収録されているものがアップされている.
 私のライブラリのそれは,さだが若かったころの美声をそのままに映している《さだまさし - 桃花源》[登録 2021年7月6] と同じ録音だ.
 さて,「桃花源」の詞は,実った稲穂の上を風が吹き渡る日本の原風景を歌い上げているが,私は実は,この作品の曲想にアメリカ的なものを感じる.
 アメリカ的なものとは,風がさやさやと吹き渡る大草原の風景である.それは例えばペギー葉山の「峠の我が家」に歌われている牧場である.
 私が「桃花源」に魅かれるのは,小学校時代に地元の少年合唱団に属し,一番好きな歌が「峠の我が家」だった思い出に繋がるからかも知れない.

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虹の橋を渡る準備

 私の犬が死んだ夢を見た.
 彼女は白内障が進行して,左目は完全に白濁して見えなくなっている.右目もほとんど見えていないはず.
 最近は耳もよく聞こえないようで,食事の際に大きな声で「おすわり」させている.そうしないと皿に出したフードをドンドン勝手に食べてしまう.
 そして食事後は一日中,ホットカーペットの上でうたたねしている.
 私も老いたが,君も老いたなあ.
 
 夢から覚めて,アマゾンでペットの仏壇を検索した.
 仏壇といっても彼女は無宗教なので,小さな骨壺を入れておく箱のようなものだ.
 安価なものなら一万円以下からあり,上は二万円ほどで,それほど高くはない.
 火葬してもらうのには,ダンボール製の棺も必要だ.これは事前に用意しておかねばならない.
 火葬費用は意外に安くて一万円ほど.けれど火葬に立ち会うとすると追加費用がかかる.まあ当然だ.
 
 彼女が虹の橋を渡るのはいつのことだろう.
 随分と長いこと一緒に暮らしてきたが,私が看取ってあげられることは確実で,本当にこれはよかった.
 しかしその後のペットロスに耐える日々のことを想像すると,涙がとまらない.まだ元気なのに,私のペットロスはもう始まっている.
 
 彼女がいなくなったあと,この老人に保護犬や保護猫を譲渡してくれる団体は一つもない.高齢者には保護犬は譲渡されない.
 若くて経済力があって狭くはない住宅に住み,かつ一人暮らしではない者にしか保護犬や保護猫は譲渡されないのである.
 知人から聞いた話では,収入に始まり貯蓄額のことや親類のことまでチェックされたという.保護犬を譲渡される人たちは,いわばエリートなのだ.
 そういう条件に合格できないが,しかしペットを必要としている人 (例えば高齢者は,高齢者というだけで不合格だ) には,たとえ飼い主を必要としている犬や猫であっても譲渡されないという現実を,『夜回り猫』の深谷かほるさんは作品中で少し批判している.
 私も同感だ.(ただし,こんな風に,大きくなった野良猫を手なずけて家に引き込むという非動物愛護的手段はあるヾ(--;) )
 
 上の文章を書いたあと,カマタミワさんのブログで《数日前すごく元気がなかった時のこと》[掲載日 2022年3月1日] を読んだ.そしてまた少し泣いた.

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2022年2月22日 (火)

戦時の犬や哀れ

 とても評判のよい猫マンガのようなので,ねこまき作『ねことじいちゃん (1)』(初版リリースは2015年) を読んでみた.
 作者のねこまきさんは,経歴を明らかにしていないが,作中人物の言葉が三河弁と思われる (ex.帰ろまいか) ことからすると,愛知県東部の出身ではないかと想像される.
『ねことじいちゃん』のメイン・キャラクター「じいちゃん」である大吉さんは元小学校教員で,この物語が始まった時点で既に七十五歳の戦中派である.
 大吉じいさんの少年時代 (昭和二十五年),子供のおやつはタコ (蛸) だったという思い出が語られる (第6話「夏の思い出」).
 テレビ朝日《ナニコレ珍百景》で紹介されたのを見たことがあるが,愛知県の三河湾に浮かぶ日間賀島はタコで有名な島だという.
 それがあってか,『ねことじいちゃん』の舞台を,wikipedia【ねことじいちゃん】は《作品の舞台は愛知県の篠島・佐久島・日間賀島をモデルにしている》としている.
 Wikipediaで作品舞台のモデルの一つであるとされている篠島のことは,第7話「犬ぎらいの神様」で語られる.
 厳さんは,大吉さんの隣家に住んでいて,大吉さんの幼馴染だ.
 大吉さんと厳さんが暮らしている島には神社があるのだが,この神様は犬が嫌いだと言い伝えられきた.
 昭和二十年,戦況の厳しさが増し,島から出征した若者の戦死が伝えられるようになる.
 すると島人達は,若者の戦死は島の神様の怒りのためではないかと考えた.島の中で犬を飼う者がいるので,それが犬ぎらいの神様の怒りを呼んだのだと.
 おかげで厳さんは飼っていた子犬を大人たちに取り上げられた.厳さんの犬は島の外のどこかに連れていかれた.その子犬がどうなったかはわからない.
 それ以来,源さんは今に至るまでの数十年,頑なに犬ぎらいの神様のお祭りに近寄ろうとしない.
 第7話はそういうお話だが,実は篠島にある八王子社が犬ぎらいの神様なのだ.八王子社の祭神は犬ぎらいだという言い伝えを記載したウェブページは多数あるが,篠島にある大舟という旅館の公式サイトの記載から下に引用する.
 
八王子社の由来
 篠島では新年3日の夜に八王子社の神オジンジキサマが神明神社に渡るとされており、部屋の明かりを消し物音も立てずに島の人々はみんな家にこもるのが風習になっていた。
 ある年に、そのお渡りの最中に犬が吠えた。
 神事は無事終わったものの、それ以来海が荒れてしまい漁業ができなくなってしまった。
 海を沈めて欲しいと八王子社へ祈願へ行くと狛犬が台座から転げ落ちた。拾って置き直したのだが、翌日行くとまた落ちている。
 それが続いたので、八王子の神様は犬が嫌いで怒って海を荒らしていると考えられた。そして島から犬を追い出すことが決まった。
 狛犬も医徳院へ移すと、ようやく海は静まって漁業ができるようになったという。
 
 八王子社の神は男神で,神明神社の祭神は女神である.つまり篠島の神事は,年に一度,男神が女神のところへ一夜の「まぐわい」を行いに訪問するという形の祭りである.まぐわいは豊穣を意味し,神事が滞りなく行われればその年の田畑は豊作となり,海は大漁となる.この形の祭りは各地に残っているが,最も有名なのは諏訪湖の御神渡りである.
 篠島の正月祭礼は「大名行列」といい,篠島町づくり会が運営するサイト《正月祭礼・大名行列》に詳しく紹介されている.また,論文 [折戸耐次「篠島の旧正月行事と祭礼」(南知多町郷土研究会発行『みなみ』通巻6号,p5-10,1968年)] があるらしいが,原著論文はウェブにはないようだ.
 で,篠島のオジンジキサマは,まぐわいの最中に犬に吠えられたので,犬が嫌いになったというのであるが,まあそりゃそうだろう.そんなことをされたら私だって犬嫌いになる.ヾ(--;)
 で,犬を忌避するその言い伝えが発生したことについて民俗学的研究があるのか調べてみたが見つからなかった.もしかすると「犬神」あるいは「犬憑き」と呼ばれることと関係があるのかもという気がするが,そう思う確たる根拠があるわけではない.
 この八王子社の「篠島では犬を飼ってはいけない」との言い伝えは,先の戦争の頃には廃れていたらしい.上に述べたように終戦の直前に厳さんは子犬を取り上げられたと第7話に描かれているからだ.しかし「犬を飼ってはいけない」という島の掟は,島の若者の戦死を機に復活してしまったのである.
 作者のねこまきさんは,実際に篠島に住んでいた老人の戦争体験を,作中の厳さんに投影して描いているように私には思われる.
 だが,飼育していた動物との別れを体験したのは,篠島の人々だけではなかった.
 
 日本の軍部と昭和天皇は,工業資源の枯渇と食糧危機を回避するために中国大陸に侵出し,さらに太平洋に戦線を拡大したのであるが,それは国民に一層の窮乏をもたらした.
 軍部は科学的な戦争遂行能力に欠けており,兵站は自給自足と現地調達とした.開戦直前の御前会議において天皇の「食糧は大丈夫か」との下問があり,これに対して農林大臣の不在のまま鈴木企画院総裁が誤りのある資料を基に「食糧も大丈夫也」と答えたと記録にある.(海野洋著『食糧も大丈夫也―開戦・終戦の決断と食糧』)/(講演録;「開戦・終戦の決断と食糧」について)
 しかし後方から前線に送り出す兵の軍装はいくらなんでも現地調達は不可能であるので,皮革と金属を民間に供出させた.
 金属は昭和十六年に金属類回収令 (昭和十八年八月十二日改正勅令第667号) が公布され,寺からは梵鐘,自治体や学校からは軍人像と偉人像,庶民家庭からは鍋釜が召し上げられた.ただし公共空間に置かれた軍人像撤去は,GHQの占領下でも行われた.撤去された銅像はおよそ千体だったとされる.
 余談だが,戦後,日本の街の中にやたらと女性裸体像が置かれるようになった契機は,東京・三宅坂にあった陸軍出身の首相寺内正毅元帥の騎馬像が供出されて残った台座に,東京藝術大学彫刻学科教授・菊池一雄の手になる「平和の群像」(電通創立五十周年記念事業碑,昭和二十六年;Wikimedia Commons File:037 広告記念像と最高裁判所) が設置されたことであるという.かつて軍人の像が置かれた台座は上部が除かれて低くなり,花が彫刻された.新装の台座に置かれた女性像たちは,敗戦から再起する「愛情」「理知」「意欲」を表し,平和の象徴と捉えられた.
 ここに,女性の裸体像に平和という意味が付与されたのである.
 だが「平和の群像」の建立後,全国に乱立した女性裸体像によって「平和の群像」の意図は忘れられた.
 どこの地方都市に行っても,公共空間には必ず裸婦像があることを私たちは知っている.この現象の意味するところを彫刻家・小田原のどか氏が《彫刻を見よ──公共空間の女性裸体像をめぐって》[artscape誌,掲載日 2018年4月15日号] で次のように述べている.
 
ただし《平和の群像》以後、街頭に乱立した裸体彫刻群にそのようなコンセプトが継承され、裸体が衆目にさらされることの意味づけが個別になされたかといえば、そのようなことはなかったと思われる。そればかりか、公共空間における女性裸体像のはじまりは忘れられ、街頭に裸体を置くという形式のみが踏襲されて現在に至っている。
 
 しかし現在,公共空間に女性裸体像を置こうと考える自治体はもうないのではないか.その代わりに宇都宮の駅前には餃子像が建てられた.亀有駅周辺には多数の両さん像がある.鳥取県境港市には妖怪像が乱立している.これらの他にも,町おこし銅像はあちこちにあるだろう.電通は軍人像の台座の上に女性の裸体像を置いて《裸体が衆目にさらされることの意味付け》を行ったが,宇都宮の餃子像は何を意味しているのか.小田原のどか氏の論考を基に考察してみるのもおもしろいだろう.《彫刻を見よ……》は,私には戦後史の勉強になった.
 余談が長すぎた.金属の供出と同時に,軍装品生産のために国民は生き物を供出させられた.
「戦争×犬×供出」「戦争×馬×供出」でウェブを検索すると,たくさんの資料がヒットする.その中の《戦争にペットまで動員されたってホント?》(国立公文書館アジア歴史資料センター公式サイト) から下に引用する.
 
全国的な皮革不足のなか、1944(昭和19)年に軍需省化学局長と厚生省衛生局長の連名による通牒が全国の地方長官(知事)へ出され、通達された「犬原皮増産確保並狂犬病根絶対策要綱」に基づいて、軍用犬・警察犬や登録されている猟犬、天然記念物の指定をうけた日本犬を除いた畜犬は、献納もしくは供出買上することになりました。[西田秀子2016]
 これにより地方自治体では畜犬(=飼い犬)を供出させる「献納運動」を展開し、東京都では回覧板で飼い犬の献納を勇ましく呼びかけました。
 この時期になると食糧不足に加え、空襲も激しくなっており、飼い犬が野良化すること、さらには狂犬病が流行ることを恐れた当局が、人びとに半ば強制的にペットを献納させ、次々に撲殺・薬殺していきました。
 一部は毛皮や食肉に加工されたようですが、多くは利用されること無く廃棄されたと言われています。
 回覧板に「決戦下犬は重要な軍需品として立派な御役に立ちます」と書かれておりましたが、実際は犬死だったと言わざるをえません。
 
 敗戦の年,『ねことじいちゃん』の厳さんはかわいがっていた子犬を取り上げられた.
 篠島の外でも,たくさんの犬たちが屠殺されて軍服に加工され,あるいは食肉となった.
『ねことじいちゃん』を読んで,私は悲しい昭和の戦争裏面史を改めて学んだ.このマンガの作者に感謝する.

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2022年2月13日 (日)

戦後のヒット曲“Pretend” の歌詞は

 昔,中学校二年生の秋に,盲腸炎で市内の外科医院に入院した.
 一日中何もすることがないし,傷口が開かぬようにベッドの上で仰臥したままで暇を持て余した私に,父親が小さいラジオを買ってくれた.葉書くらいの大きさのポケットラジオで,筐体に NIVICO と刻印されていた.
 父親の言うところでは,当時の一流音響メーカーであるビクターの最新ラジオだと言う話だった.
 ビクターなのにどうして NIVICO になるのか当時の私には知るよしもなかったが,ビクターとは日本ビクター (Victor Company of Japan, Limited) のことで,ブランド名称は JVC (Japan Victor Company) であった.JVC の輸出製品ブランドが NIVICO (Nippon Victor Company) だったのである.
 余談だが,昭和の中頃の日本は小型家電,特に半導体ラジオの輸出国だった.また市販されている真空管ラジオも真空管テレビもすべて国産だったはずである.それが今では,ラジオはソニーの一機種を除いてすべて海外製品の輸入になった.
 家庭用の中型ラジオといえばまだ真空管式だった昭和の中頃,入院を機に買ってもらった NIVICO のポケットラジオはその後,大学の卒業まで私の愛用品となった.
 
 さて入院中に私がラジオで聞いていたのは音楽番組だった.
 一週間だったか十日後だったかに退院したあとも,私は夜になるとラジオの音楽を聴いた.
 翌年に三年生となり,高校受験の勉強を始めたが,いつもクリスタル・イヤホン (圧電素子を用いるラジオ用イヤホン) でラジオを聴きながらだった.
 当時のラジオの音楽番組は,リスナーから電話や葉書で寄せられたリクエスト曲をDJがかける番組が主だったが,DJ自身が選曲する形の番組もあった.
 DJで人気があったのは高崎一郎 (「オールナイトニッポン」を立ち上げたことで知られる),ケン田島 (同時通訳者として知られた) のお二方で,いずれもバイリンガルでかつ音楽情報に精通していたから,放送を聴いていると勉強になることが多かった.
 お二人の番組は中高校生が中心的なリスナーだったから,曲のタイトルや歌詞の解釈なんかをよく解説してくれたものだ.
 
 さて英語の歌詞の話.
 高齢者にはお馴染みのポップス曲に“Pretend”がある.この歌は1952年のリリースだが,翌1953年にナット・キング・コールの録音が大ヒットした.その後多くの歌手がカバーして,スンダード曲となった.昭和三十年代当時のラジオ音楽番組では,こういう懐メロ洋楽をDJが割とよく選曲してくれたから,私のような世代の者でも,戦後すぐのヒット曲をよく知っているわけだ.
 さて“Pretend”は有名な曲だから,歌詞を和訳しようという試みがネット上にいくつもある.(英語の歌詞は,ここ)
 中にはあまり語学の得意でない人が頓珍漢な日本語をつづっていたりしておもしろい.
 その中でも《ジャズ歌詞の日本語訳 PRETEND》という個人サイトのコンテンツに載っている和訳 (下にスクリーン・ショットを引用する) は酷い.でも自分でヘンだと思わずに堂々としているところは偉い.
Pretend
 
【歌詞解説・和訳:Pretend】》(リンク切れになっている/2023年3月6日確認) を書いている片岡さんは,自分の“pretend”の解釈に疑問を持ちつつ結局,あと一歩なのにそのまま訳文を載せてしまっている.
 この二人の和訳が失敗している理由は“pretend”の意味を辞書通りに「ふりをする」と訳したことである.
 なぜなら,「ふりをする」にはネガティブなニュアンスがあるからだ.
 例えば「警察官のふりをする」「宅配便配達員のふりをする」「銀行員のふりをする」.これらは軽く犯罪の匂いがする.
 また例えば「四十二歳なのに,アラサーのふりをする」.店のお客をだましてはいけない.
 さらに例えば,「馬鹿のふりをする」なんてのもある.(「利口のふりをする」はない.すぐばれるからだ)
 必ずしも常に「ふりをする」が悪い意味の使い方をされるわけではないが,「ふりをする」目的が「他人の目を欺く」ためのことが多いことは確かだ.
 そこで,この歌の実際上のオリジナルであるナット・キング・コールの歌唱を聴いてみよう.(MP3Tube《ナット・キング・コール"プリテンド"》)
 どうだろうか.これはうまく行かない恋をして失意の友を,優しく励ます歌だ.だから,歌詞中に繰り返される“pretend”のすべてに機械的に「ふりをする」という言葉を充てるのは,どうにも違和感がある.もっとよい表現はないだろうか.
 実はある.
「人生って,考え方ひとつだよ.気分が落ち込んでいる時は,私は幸せなんだって思い込めばいいんだ.
 そうすればいい方に転がっていくもんさ」
 この歌の“pretend”はこんな風に,「悲しい時は楽しいことでも考えようじゃないか」とまあそんなことを言っているわけだ.
 そういうニュアンスで,こなれた言葉に和訳しているのが《Pretend / プリテンド [日本語訳付き] ブレンダ・リー》だ.
 昔々のDJ氏たちが“Pretend”という歌をそのように解説してくれたのを思い出す.

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