続・晴耕雨読

本や映画などについて.

2018年6月23日 (土)

軍国主義アニメ

 小学生の私が初めてみたアニメ映画は,日本公開が昭和三十一年 (1956年) のディズニー映画『わんわん物語』だった.たぶん父親自身が観たかったので私を連れて映画館に行ったのだと思うが,すごいものを観たという感激を私は今でも覚えている.
 その次は東映の『白蛇伝』で,これは学校側が視聴覚教育の一つとして,校庭に大きな柱を二本立て,これに布を張り渡したスクリーンを作って生徒にみせた.抒情的な優れた作品であり,私はこれが日本製アニメの出発点だったと思う.

 昨日から,櫻本富雄『ぼくは皇国少年だった』(インパクト出版会,1999年) を再読している.
 この櫻本氏の著書は,戦前・戦中に戦争協力者だったにもかかわらず,戦後はその過去を隠蔽し,あたかも戦争中に反戦姿勢を貫いたかのような嘘をつき続けた人々のことが書かれている.文化人の戦争責任を問うた評論集である.
 この書籍に評論「アニメ・桃太郎・海の神兵」が収められている.初稿は昭和五十九年 (1984年) で,これは戦中に製作された軍国主義宣伝アニメ『桃太郎 海の神兵』に対する批判である.
 私が冒頭に『白蛇伝』が日本製アニメのスタートだと書いたのは,私は『桃太郎 海の神兵』(と姉妹編『桃太郎の海鷲』) をクリエイターの作品であるとは認めないからだ.これは少国民を戦争に動員するために海軍省と大本営海軍報道部が作ったプロパガンダ映画だからである.
 私は知らなかったのだが,Wikipedia【桃太郎 海の神兵】に次の記載がある.

2016年、第69回カンヌ国際映画祭のクラシック部門に出品され、7月23日よりデジタル修復版がユーロスペースなどで上映。

『桃太郎 海の神兵』をカンヌ国際映画祭に出品するのは,ナチスのプロパガンダ映画をカンヌ国際映画祭に出品するのと大差ないと思うが,映画祭に出した時の評判はどうだったのだろう.調べているが資料が見つからない.

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2018年6月20日 (水)

『母子草』ノート (9)

【この連載のバックナンバーは,左サイドバーにある[ カテゴリー ]中の『続・晴耕雨読』にあります】
 
* 前回の記事《『母子草』ノート (8)
 
 磯田道史氏著の一般向け新書や文庫などを読んでいると,平明な文章だから私たち読者はどんどん読み進んでしまうのだが,実際には氏の著作は史料の深い検討の上に書かれているのだろう.
 私は理系の人間で,歴史学は全くの門外漢だから,前回の記事で紹介した論文『古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立』(大川原竜一著) を読んで,歴史学の研究レベルの仕事はこのように進めるものなのだなと感じ入った.
 中でも,おおそうなのか,と思ったのは,この論文の初めのほうに書かれている次のことである.
 
かつて桜井徳太郎氏は、(中略) 「一つの縁起が成立し伝承されて行く過程には、かならず変化の歴史が伴って」おり、「縁起伝説の歴史的変化を跡づける作業が重要な意味をもってくる」と述べている。また達日出典氏は「縁起は、その寺院の内部事情の変化や寺院をとりまく外的条件変化に伴い、常に書き換えられるものであることを前提に置き、広く寺院史の中に、縁起の形態 (内容構成) を系統的にするべき」と指摘している。
 歴史学の分野においては、虚飾・潤色彩られる縁起の物語的要素を史実と混淆することなく実証的に考察を加えて、縁起それ自体の史料的価値を分析しなければならないのは当然である。けれどもその一方で縁起を制作した寺社の意図のみならず、それらを要望した時代的背景や信仰の担い手・受容層が存在したことは事実であり、地域的固有性、信仰上の差異や担い手などによって多種多様な内容構成をもつ寺社縁起も、寺社の歴史的環境やその発展、また縁起制作当時の宗教的・思想的背景に位置付けることで、その時代性を考える「史料」として対象化することができる。
》 (文中の下線はブログ筆者による)
 
 論文著者の大川原氏は,上に引用した立場で竹生嶋縁起を批判的に考察している.(前回の記事に私は,日本大百科全書ニッポニカに書かれている竹生嶋縁起の解説に関して《この解説は記述が不完全で,竹生嶋縁起が二つ存在することは指摘しているが,そのあとの記述は,その二つの文献の内容をごちゃ混ぜにしている》と書いたが,大川原氏は《竹生島縁起群》としている.二つよりも多いらしい)
 
 その考察の中から,私が知りたいこと (竹生島信仰の歴史) を抜き出すと,以下の通りである.
 
[1]竹生島信仰の始まり
 護国寺本『諸寺縁起集』所収の竹生嶋縁起 (以下,承平縁起と呼ぶ) は,承平元年 (931年) に書き起こされ,天暦元年 (947年) と永祚元年 (989年) に追記がなされた.
 この縁起には,島名の由緒が書かれており,大川原論文によれば次のようである.
 
倭根子天皇 (孝霊天皇) の時代のこととして、気吹雄命・坂田姫命・浅井姫命の三神が天降り、近江国坂田郡 (承平縁起本文では「坂田評」) の東方に下座した気吹雄命と、同じく浅井郡の北辺に下座した浅井姫命が勢力を競い争った伝承である。のちに浅井姫命が北辺を去って海中に下った音が「都布々々」といったことから島の名 (「都布夫嶋」) として名付けられ、さらに年月を経て竹篠が生え出たことから「竹生島」の漢字が当てられたという、いわゆる地名起源伝承になっている。
 
 欠史八代と呼ばれ,実在したとしてもかなり創作性が強いとされる孝霊天皇は,在位期間を機械的に西暦で表現すると五世紀前半の天皇であることになる.浅井姫命が沈んだ島であるから当然竹生島には浅井姫命が祀られたに違いないが,しかしその社である都久夫須麻神社 (竹生島神社) の名が初めて記された史料は,遥か後代の延喜元年 (901年) に成立した『日本三代実録』の,元慶三年 (879年) の記事であると大川原論文はいう.
 ここで特筆すべきは,承平元年 (931年) に成立した竹生嶋縁起 (承平縁起) には,浅井姫命は登場するが,奈良東大寺大仏造立の実質上の責任者として著名な行基は,天平十年 (738年) に竹生島を訪れ,小さな仏堂 (これが竹生島の宝厳寺の開創とされる) を建てて四天王を祀ったとだけ記されていることである.
 しかるにこれが後世になって大きく変容し,伝説化した行基が竹生島に弁才天や十一面観音を祀ったことに書き換えられてしまうのである.(竹生島と行基の関係については後述する)
 ちなみに承平縁起は,竹生島に千手観音を祀ったのは,天平勝宝五年 (753年),近江国浅井郡大領の浅井直馬養 (あざいのあたいうまかい) という人物であるとしている.
 上記のことをまとめれば,竹生島信仰は,現代では弁財天が本尊であるが,初期には弁才天ではなく,土着神の浅井姫命と千手観音の信仰から始まったのである.
 
 ちなみに,宝厳寺観音堂の千手観音は秘仏であるが,その他に聖観音像も祀られている.私は竹生島に行ったことがないので見ていないが.
 この拙文は,中島千恵子氏が採話し再話した近江の民話「母子草」は,近江の被支配階層庶民の信仰に関わるものではないかという私の仮説に基づいて進めているのであるが,「竹生嶋の弁才天信仰」の勉強と並行して進めている「湖北の観音信仰」に関して集めた資料『特別展 湖北の観音 ―― 信仰文化の底流をさぐる』(長浜市長浜城歴史博物館他編,サンライズ出版,2012年) に,列品解説として次の記述がある.(p.150)
 
木造聖観音立像 一躯 平安時代 (後期)
      像高 六七・五
      竹生島宝厳寺蔵 (長浜市早崎町)
  琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺に伝わる聖観音像。竹生島は弁才天信仰で広く知られるが、平安時代後期に制定された「西国三十三所観音霊場」の札所としても、早くから信仰を集めた島である。本像は、左手に蓮華を執り、右手をかざす通形の聖観音の像容を示す。左右対称的な表現、静かで穏やかな相好、量感を抑えた体躯、浅い衣文表現など、平安時代後期、十二世紀中頃の作風を示す。

 
 仏像彫刻の様式は,非常に詳しく研究されており,専門家が《十二世紀中頃の作風を示す》と鑑定したのであれば,間違いなくそうであろう.現代にまで伝えられたその聖観音が,制作されたのは十二世紀だとしても,竹生島に安置されたのはいつなのか,一言書いて欲しかったと思うのは私だけではあるまいと思う.
(続く)

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2018年6月16日 (土)

嘘は罪

 先程から,パティ・ペイジの「嘘は罪」を聴きながら,晩飯の支度を始めた.
 支度といっても,昼過ぎに藤沢の銀行に行ったついでにダイヤモンドビル地下の鶏惣菜屋「浜鶏」に寄って,網焼きチキンを一つと鶏腿の唐揚げを二百グラム買ったので,これを買い物袋から取り出し,大容量 (600ml) のステンレス断熱タンブラーに,近所のファミマで買った氷を目一杯入れ,酒を注ぎ,書斎 (笑) のパソコンの前に陣取るだけのことである.

 パティ・ペイジはいいなあ.進駐軍とか米軍極東放送とか,昭和三十年代のにおいがする.
 パソコンの iTunes をリピートモードにして,飽きもせず,繰り返し繰り返し「嘘は罪」を聴く.(YouTube はここ)

 パティ・ペイジは訛っていると私は思う.彼女はオクラホマの生まれ育ちだから,南部訛りかというと,そもそも私は南部訛りの米語がどんなものか知らないので,何とも言い難い.
 ただ,無理やり片仮名で書くと,他の歌手たちが“イッツ ア スィン トゥ テル (tell) ア ライ”と歌っているのに対して,パティ・ペイジは“イッツ ア スェン ツー ツェル ア ライ”と日本人の耳には聞こえるのだ.
 “ダイ (die) ”は同様に“(ダイ+ザイ)”と聞こえる.

 私は一度だけ,アメリカ南西部に行ったことがある.その時に,ホテルマンの南部訛りが全く聞き取れなくて往生した.それに比べればパティ・ペイジは訛っていないというべきかも.

 それはそれとして,「嘘は罪」を聴くときに相応しい酒はなんだろう.
 この歌の作詞作曲者であるビリー・メイヒュー (Billy Mayhew) は一発屋で,その人物像は全く知られていない.都会人なのか,カントリーの人なのか,誰も知らない.しかし一発屋にしては,あまりにもいい曲すぎる.誰か著名な作曲家が覆面で作ったのだろうか.

 名前が“Billy”だから男 (女性名のビリーはスペルが Billie) だろうが,歌詞は女心を歌っているとしか思えない.
 南部の大き目の酒場のフロアで踊る二人.男が「愛してるよ」と囁く.女は「愛してる,は本気で言わなけりゃ.嘘は罪よ」と言う.あたしを騙したら,死ぬからね,と.

 やはりここはバーボンかな.
 でもバーボンはいま切らしている.
 あるのは泡盛「久米島の久米仙」なので,島唄風に「嘘は罪」を歌うとどうなるか考えてみた.成底ゆう子さんはジャズは歌わないのだろうか.

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2018年6月14日 (木)

猫マンガ

 エッセイやコミックで,犬の日常を扱った作品はあまり多くはないが,猫はもう猫エッセイ,猫マンガというジャンルが確立しているように思われる.
 で,なんのはずみか Amazon が猫マンガをぐいぐい押してくるので,その中から中古格安品を三冊を買ってみた.すべて新品同様だった.
 
* 桜井海『おじさまと猫』 Amazon で☆4.5
 これがシリーズの一作目.いい作品になる予感がする.
 
* 鴻池剛『鴻池剛と猫のぽんた ニャアアアン!』 Amazon で☆5
 爆笑実録猫マンガ.早速,続編の「2」を注文済み.
 
* たぁぽん『植えこみに刺さっていた子猫を飼うことにした。』 Amazon で☆5
 Amazon の評価は高すぎだと思う.私なら☆3で,もう買わない.

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2018年6月13日 (水)

我が身さへこそ動がるれ

 遊びをせんとや生れけむ
 戯れせんとや生れけん
 遊ぶ子供の声きけば
 我が身さへこそ動がるれ
   (この歌謡は『梁塵秘抄』巻二 四句神歌・雑に収められている;四句神歌は,平安後期の雑芸 <ぞうげい> の一つで,神楽から世俗の流行歌謡に移行したものである;「動がるれ」は「ゆるがるれ」と読む <佐々木信綱の校訂による> )
 
 上の今様は『梁塵秘抄』の中で最もよく知られている歌である.どれ程知られているかというと,YouTube に初音ミクが歌っている動画があるくらいだ.若い人がやってしまいそうな誤字があるけれど.w
 
 山中恒『児童読物よ、よみがえれ』は本ブログの連載記事《母子草》で紹介した書籍だが,その最初の節「子ども観の歴史を越えて」の冒頭に,この「遊びをせんとや……」が引用され,続いて次のように書かれている.
 
これについて最近読んだ月刊幼児教育雑誌の中の一文が、やはりこの歌を冒頭に引いて、
 
  遊び戯れながら育ってゆく子らによせる限りない愛と期待、無常の世を生きる親の、子の将来に対する不安と希望、その微妙なゆれ動きが「我が身さへこそ動がるれ」という、結びの言葉に集約されています。/子どもたちの心や体が、無心の遊びの中でより美しくたくましく育って行くことを願う、いつの世にも変わらぬ親心といえましょう。
 
と、かなり調子よく、まさに後者の所論
[ブログ筆者註;子どもは純真であり,親が子を思う心は深いものだとする説] を代表するように親心を讃えていた。ところが、ここに歌われている「我が身」とは、「遊び戯れ」ている子どもたちとは何の関係もない、遊女なのである。つまり「遊び戯れるためにこそ生まれてきたものであろうか」という子ども観が、その子どもの声で罪障に汚れはてて済度し難いとされる遊女の心までおさえ難くさせるというのである。「声」に象徴される童心世界への思い入れ、もしくは憧憬が浄化作用をもたらすという、かなり宗教的な色合いを含むもので、この歌の構成をなす主体と客体の対比のうちには、罪障に汚れたものと純真無垢なものというパターンがあり、子どもは純真無垢なものとしている。これとても、果たして純真無垢なものかどうか……。意地悪な観方をすれば、「遊び戯れる」内容はわかっていない。ことによると、餓鬼どもはひきがえるをたたき殺して遊んでいたかも知れないのである。逆に言えば、子ども期から離脱してからの時の流れの無常感へのモチーフとしての「声」への思い入れである。ということになれば「いつの世にも変わらぬ親心といえましょう」というのは見当違いだし、ちょっと困惑せざるを得ない。
 
 上の引用部分に示した山中恒の「子ども観の歴史を越えて」が書かれたのは昭和五十一年 (1976年) である.
 その当時の大学受験生にとって入試国語の神様の一人は,日本学士院賞受賞者にして,受験参考書界におけるロングセラーの名著『古文研究法』(洛陽社<初版,再版,改訂版>;ちくま学芸文庫,2015年) の著者,小西甚一先生 (当時の東京教育大学教授,のちに筑波大学副学長;旺文社大学受験ラジオ講座の講師) であった.小西先生は梁塵秘抄の研究が有名であり,先生が私たちに示した「遊びをせんとや生れけむ」の歌の解釈は「罪深き生活を送っている遊女が,身をゆるがす悔恨をうたったものである」であった.(『梁塵秘抄考』 <昭和十六年>;うろ覚えでなく正確に引用しようと思って古書の『梁塵秘抄考』を検索したら,とても高価だった.横浜市立図書館に所蔵されているようなので,近々借りて読もうと思う)
 
 すなわち山中恒が「子ども観の歴史を越えて」に書いた「遊びをせんとや生れけむ」の解釈は,小西甚一『梁塵秘抄考』を踏まえたものである.昭和四十年代に大学受験をした団塊世代の老人諸兄も,この歌は,遊女の身をよじるような (←「我が身さへこそ動がるれ」) 悔恨の歌であるとの解釈に異論はなかろうと思う.
 
 だが『梁塵秘抄考』以後,色々な解釈がこの歌に行われた.
 今,ネット上のブログを探すと,現在容易に入手できる植木朝子氏の著作から現代語訳を引いて,純真無垢な童心を歌ったものだとする明るい解釈ばかりになっている.遊女の哀しい心境とは無関係だというのである.
 老人としては,なんだか納得し難い.
 初音ミクの歌唱を聴くと,明るいポップスのような気がするが,しかし例えばもし森田童子が歌ったとしたら,「遊びをせんとや生れけむ」は悔恨の調べであったに違いない.
 梁塵秘抄は歌詞しか残っていない.だが,歌は歌詞だけではわからない.
 童心を歌うポップスなのか,悔恨なのか.こればかりは,時間旅行して遊女の歌いぶりを聴いてみるしかないのだろう.
 
 森田童子の訃報を聞いて,これを書いた.

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2018年6月11日 (月)

母子草 (十四)

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* 前回の記事《母子草 (十三)
 
 前回の記事に以下のように書いた.
 
では,上笙一郎が指摘する《近代=現代の児童文学の観方、その基礎となる世界観や人生観に関しては、古くてどうにもならない》について,検討してみよう.
 藤澤教授が《天皇の孫の初節供にあたり鯉幟の建て方を宮内庁から尋ねられたことを、この上ない名誉として、さもさも嬉しそうに話された》ことは,私は《古くてどうにもならない》とは思わない.自分が長年にわたり研究してきた分野の学識に関し,その第一人者として宮内庁に評価されれば誰だって嬉しく名誉に思うだろうからだ.
 私が思うに,藤澤教授の「古さ」はそんなところにあるのではない.それについては,作品に即して検討してみよう.以下に藤澤衞彦作品の童話「母子草」全文を掲載する.

 
 文学の世界で恥知らずを三人挙げよと言われたら,まず第一位は島崎藤村で確定である.藤村くらいになると,恥知らずを通り越してヒトデナシあるいはケダモノの域に達している.(参照;このブログの過去記事《偽善者あるいは犯罪者 》)
 
 第二位は,童話作家の小川未明である.未明は戦前,島崎藤村と同タイプのヒトデナシにしてアナーキストでもあった大杉栄と親交を結び,アナーキストとして文学活動をスタートした.ロクデナシがヒトデナシに共感したのである.
 そして大政翼賛会が発足するや,未明はそれまでの主義思想をかなぐり捨てて,戦争協力組織「日本少国民文化協会」を設立し,戦争協力の旗を先頭に立って振った.
 ここまではよくある転向の話である.未明の場合は軍部への協力ぶりが度を越していただけのことだ.当時は,わずかな人たちを除いて,国民の誰もが多かれ少なかれ戦争に協力したのである.あの村岡花子だって,「日本少国民文化協会」創立委員の一人だったのだ.だがしかし,未明の真骨頂は戦後である.戦時中の自分を,全くなかったことのようにして,己は反戦姿勢を貫いた人間であるとして振舞ったのである.そして,未明は戦後に設立された日本児童文学者協会の初代会長の席に着いたのである.
 それでも,小川未明の戦争責任について追求した人がいなかったわけではない.代表的な論考は山中恒の『戦時児童文学論』(大月書店,2010年) であるが,ネット上にも山中恒『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社,1978年) の一節《児童文学は、いま……》や,増井真琴《小川未明と日本少国民文化協会:日中・「大東亜」戦争下の歩み》,同《小川未明の再転向 ――敗戦以後―― 》が公開されている.
 
 恥知らずの第三位は,『橋のない川』を書いた住井すゑだ.
 Wikipedia【橋のない川】に次の記述がある.
 
「『橋のない川』によって、人間の平等と尊厳を考えようとした若者は、とてつもない数にのぼるはずだ」(灰谷健次郎) と賞賛されることもあるが、「侵略戦争を扇動した西光万吉を美化した作品なのに、その問題点がまったく指摘されずにきた」(金静美)との批判の声もある。
 
 私も《『橋のない川』によって、人間の平等と尊厳を考えようとした若者》の一人であったから,雑誌『Ronza』(朝日新聞社,1995年8月号) の記事「戦後50年 文筆者、出版・新聞の戦争責任」(単行本としては櫻本富雄『ぼくは皇国少年だった―古本から歴史の偽造を読む』に収められている) で住井すゑの正体が白日の下に曝された時は,本当に呆然とした.
 『破戒』の島崎藤村も『橋のない川』の住井すゑも,「人間の平等と尊厳」を食いものにした人間のクズであった.
 
 以上の三人と比較して,「戦争と文学」「文学者の戦争責任」の観点からして藤澤衞彦教授はどうであったか.
 出版物,ネット上の記事を探しても,戦時中の藤澤教授に関しては何も資料が出てこないのである.おそらく藤澤教授は,小川未明のように声高に戦争協力はせず,黙々と研究生活の日々を過ごしていたのではなかろうか.
 だが,藤澤教授の「母子草」には,小川未明の影響が見て取れる.ここで山中恒の「児童文学は、いま……」から一部を引用する.
さて、一般的な概念からすれば、<児童文学>といえば、グリムやアンデルセン、日本でいえば、小川未明、浜田広介あるいは坪田譲治、新美南吉、宮沢賢治といった作家たちの作品のことで、それは「世俗的なものと隔絶された美しい郷愁のファンタスティックな山野に花咲く童心のロマンの世界である」という思い込みがあって、そうした世間一般の思い込みの庇護のもとに、あるいはその善意にまぎれて、なにやらやってきたのが、この国の<児童文学>とよばれるものなのである。
<児童文学>に対する、この一般的な思い込みはかなり強固なもので、ついでに<児童文学者>とよばれる人たちに対しても、<童心の求道者>といったふうな聖職者イメージがついてまわる。これは<児童文学>をふくめて、児童文化というものが教育文化に従属していると目されている証拠でもある。だから、日本の児童文学状況がそんなものではないということを語ると、人によっては目を剥いてそれはお前の被害妄想だとなじる。彼のイメージの中で<児童文学>の世界はそのようなものではないし、そのようなものであってはならないのである。彼のイメージの中の<児童文学>は、汚れなき童心をはぐくむという崇高な理念のもとに創作されるものであり、その創作者は汚れなき童心の共鳴者であって<児童文学>界で徒党を組んでゲバルなどというのは、とんでもないことなのである。
 確かに戦前の日本の児童文学の多くの作品は「童心主義のロマン」とよばれるにふさわしいものであったと思う。しかし、<童心>なるものに<主義>がつくほど科学的な思想体系など持ち合わせていなかった。童心への憧れは、むしろ極めて雰囲気的なもので、そのようなものとしてしか現象しなかった。
 小川未明を例にとるなら、彼はおとなの文壇への捲き返しに失敗し、世上「童話宣言」とよばれる『今後を童話作家に』(一九二六年・東京日日)というエッセイを書き、ひたすら<児童文学>の創作だけに専念するようになった時期は、昭和恐慌期であり、暗い世相のかげで天皇の統率する股肱は中国大陸へむけて軍靴をそろえていた。それこそ、どちらを見てもろくなことはなかった。そうした中で未明はひたすら<調和した美を求めて童心の世界へ>と埋没していった。しかし未明のいう童心の世界は、おとなの労賃の三分の一から六分の一の安い労賃でこき使われていた幼少年労働者である子どもの心の世界ではなく、未明がおとなの世界を見てみにくいと思う心に対置される美しいと想定された子どもの心であったのである。つまり未明自身の内なる世界にしか存在しない<童心>だったのである。

 
 リンク先も含めると文章が長くなりすぎた.次回は,上の引用と藤澤教授の児童観を考察してみる.
(続く)

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2018年6月10日 (日)

『母子草』ノート (8)

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* 前回の記事《『母子草』ノート (7)
 
 古書店にも色々あって,私がこれまで利用した本屋の一つは,注文すると翌日すぐ在庫確認して送金先を連絡してきた.それでその日に送金したら即刻入金確認して本を発送したとのメールがきた.
 ところが今回,「藤沢衛彦文庫」の目録が掲載されている『武蔵野』を注文した「M書房通販部」という東京八王子にある本屋は,注文の五日後に送金先を連絡してきた.待ちかねていたので即日送金したのだが,四日後に発送したとのメールがきた.そしてそれから三日経つのに,八王子からの荷物がまだ届かない.どうなってるんだこの本屋は,と怒りのメールを出しかけたが,途中でやめた.もしかするとM書房は老夫婦二人でやっている零細な古本屋で,通販部というのは推定年齢七十五歳の奥さんのことで,かすむ目をこらしながら一本指入力でメールを打っているのかも知れないから.
 と,ここまで書いたら『武蔵野』が郵送されてきた.
 その巻頭に「藤沢衛彦文庫の目録刊行事業と先生の略歴及び著作について」が掲載されていて,そこに次のようにある.
 
先生が六十余年間にわたって文献資料は、約二万数千冊ともいわれていますが、その一部の和書類に限り先生の御遺徳を忍ぶべく没後二十五年ぶりに日の目を見たことになります。
 
 「藤沢衛彦文庫」の目録は,全部で二万数千点と推定される文献資料のうちの一部,和書類の目録 (約四千冊) であるという.
 これが「江戸東京たてもの館」の展示棟にて展示されていると書いてある.
 目録の中身を検討してみると,特に分野を限定しているわけではなく,伝承説話の資料が数多く含まれている.日本近代文学館に遺族から寄贈された「藤沢衛彦文庫」(こちらも約四千冊) と性格が異なるもののようではなさそうだ.
 合計の和書八千冊か.その中から藤澤教授が童話「母子草」創作の参考にした近江の伝承に関する資料を見つけるのは,私の残りの人生では時間が足りないだろう.しかも目的の資料は四千冊の和書中ではなく,残りの一万数千点の資料中にあるのかも知れない.ここは潔く断念して,別の方向から考察を進めることにする.
 
 さて近江に伝わる「母子草の物語」について調査を始め,中島千恵子氏の再話による民話「母子草」を読んだ時に感じたのは,この民話は近江の被支配階級庶民の信仰に関わるものではないか,ということである.
 貧しい農家の娘が富裕な家に年季奉公に出るという民話「母子草」の設定からすると,この話は江戸時代中期 (Wikipedia【女中】を参照) 以降に発生したものと考えられる.では江戸時代,近江における庶民の信仰はどのようなものだったか.
 まずは Wikipedia【宝厳寺】から勉強してみる.宝厳寺は琵琶湖の竹生島にある寺院である.
 
竹生島では平安時代から近世まで神仏習合の信仰が行われていた。延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として都久夫須麻神社の名があり、祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。浅井姫命は、浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神ともいわれるが、平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と同一視されるようになったようである。近世には宝厳寺は観音と弁才天の霊場として栄える一方で、都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化し、寺と神社の区別はなくなっていた。
宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。行基は出身地の河内国(大阪府南部)を中心に多くの寺を建て、架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には、行基の来島は天平10年(738年)で、小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して安置したとある。

 
 上に引用した Wikipedia【宝厳寺】には《承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』 》と書いてあるが,琵琶湖に浮かぶ島は現在は竹生島と書くのが普通だが,論文等にはきちんと『竹生嶋縁起』と書かれていることが多いようだ.ミスタージャイアンツ長嶋茂雄を長島と書いては間違いであるのと同じである.
 それで私も,引用文以外の文章中では,島は竹生島と書くが,文献名は『竹生嶋縁起』と書くことにする.
 さて,Wikipedia には《承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には》とだけ簡単に触れているが,実は『竹生嶋縁起』は一つではない.
 ここで『竹生嶋縁起』を調べてみる.Wikipedia には【竹生島縁起】という項目自体がないが,しかしネット上には,二十五年ほど昔,小学館が出版した古い大部の百科事典である『日本大百科全書ニッポニカ』がデジタル化されて公開されている.(余談だが『日本大百科全書ニッポニカ』のCD版は確か Windows98版 が最後のアップデートだったと思うが,私は捨ててしまった;今なら Windows の互換モードで動作可能かも知れない.もったいないことをした)
 閑話休題.
日本大百科全書ニッポニカの解説

竹生島縁起
ちくぶじまえんぎ
 
滋賀県長浜市の都久夫須麻神社 (つくぶすまじんじゃ)・宝厳寺 (ほうごんじ) の縁起。智福嶋縁起とも表記する。護国寺本『諸寺縁起集』に、931年 (承平1) 成立と伝える縁起を収録するのが早い時期のもの。『群書類従』本には、1414年 (応永21) に普文が比叡山にて旧記を集めて撰したとの奥書があり、勧進帳の前文として著されたらしい。琵琶湖上への竹生島の出現とその出所に関するいくつかの口伝、島名・周辺地名の由来や仏教的注釈、738年 (天平10) の行基による四天王像安置から989年 (永祚1) の平惟仲の法華三昧田の施入に至る尊像堂舎の造立や神階授与・寄進などの年代記、十五童子が垂迹 (すいじゃく) した神社などが記される。北近江での気吹雄命 (いぶきおのみこと) と地主神浅井姫の争い、海竜が大鯰に変じて大蛇を退治した話、信仰の中心となる弁才天の霊験譚、中世の祭礼図にも描かれる六蓮華会の由来など、短編ながら多彩な内容を含んでいる。[藤原重雄]
『西田長男著「竹生嶋縁起」 (『群書解題 第6巻』所収・1986・続群書類従完成会) 』

 
 この解説は記述が不完全で,竹生嶋縁起が二つ存在することは指摘しているが,そのあとの記述は,その二つの文献の内容をごちゃ混ぜにしている.(理由は後述)
 どうもネット上の百科事典では隔靴掻痒である.そこでもう少し真っ当な文献資料はないかと国会図書館サーチで探したら,
 
大川原竜一著『古代竹生島の歴史的環境と「竹生島縁起」の成立』
   文学研究論集 / 明治大学大学院文学研究科編,JAIRO所蔵
 
が見つかった.
 JAIRO というのは日本国内の学術情報 (学術雑誌論文,学位論文,研究紀要,研究報告書等) を横断的に検索できる検索サイトで,ここに収められている文献はネットで手に入る.
 そこですぐDLして読んでみたら,これがわかりやすくて大正解の論文であった.
(続く)

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孤独と寝たきり (補遺)

 私は,下重暁子『極上の孤独』は読んでいないし,買う気もないのだが,五木寛之『孤独のすすめ』は読んだ.
 五木寛之という作家に,大学生の頃から私は好感を持ってきた.穏やかな人格の人だと思っている.
 その五木寛之にして,『孤独のすすめ』では都会の独居老人や,崩壊した限界集落で暮らす老人たちのことは視界に入っていない.せいぜいが施設に入居できる資産あるいは収入がある階層の高齢者たちを対象に「孤独でも大丈夫」と言っているに過ぎない.
 
Photo  
上図は「平成28年版高齢社会白書」から引用した.
 
日経新聞記事《東京の高齢者世帯、44%が一人暮らし 20年後
 
 上に独居老人人口の将来推計 (内閣府発表の公的資料) と,日経新聞の記事を資料として掲げた.
 以前からNHKは孤独な老人たちの「セルフネグレクト」や孤独死などの問題を報道してきている.(《クローズアップ現代 高齢社会》 など)  
 
 しかし先日放送された『ガッテン』 (昨日の記事《孤独と寝たきり》参照) では,「孤独が寝たきり危険度を上げる」と言うだけで,寝たきりにならない対策として「スポーツ」をするとか「友達と食事に行っておしゃべりする」などを示して,ある種の無責任に陥っている.
 なぜなら,スポーツにも会食にもお金が必要なのである.都市の底辺で,数万円の年金しか収入がないために閉じこもっている孤独な老人にどうせよというのか.崩壊した限界集落でどんなスポーツをせよというのか.
 
 下重暁子『極上の孤独』には「孤独は成熟した人間だけが到達できる境地」「集団の中でほんとうの自分でいることは難しい」「孤独を味わえるのは選ばれし人」「孤独を知らない人に品はない」などと書かれているらしいが,彼女には高齢社会の現実が全く見えていないのだと思われる.

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2018年6月 9日 (土)

孤独と寝たきり

 昨日,テレビをオンにしてチャンネルを変えながら流し見をしていたら,下重暁子さんが登場していた.(フジテレビの『ノンストップ!』とかいうエンターテインメント帯番組)
 それを見ていて知ったのだが,下重暁子さんの著書がかなりの売れ行きなんだそうである.『家族という病』『家族という病 2』と最近刊の『極上の孤独』(いずれも幻冬舎新書) だ.
 へー,どんな本なんだろうと Amazon で『極上の孤独』を覗いてみたら,幻冬舎新書のベストセラー一位なのに,購入者レビューでは星一つが一番多いという最低のボロボロ状態になっていた.
 この本を読んだ人たちの感想をざっくりまとめると,「お前が言うな!」ということだ.w
 下重さんについては,大昔はアナウンサーだったことは知っているが,著書を読んでいないし,あまり知らない.
 それで簡単に調べてみたら,相当に恵まれた人生を過ごしてこられたようだ.いわゆるセレブで,現在も出版界で活躍しているのだから,全く「孤独」ではないのだが,その人が「孤独」を論じているところに,レビューで叩かれる理由があるみたいだ.
 『極上の孤独』は,たぶん五木寛之の『孤独のすすめ』がそこそこヒットしたので,二匹目の泥鰌を狙って書いたものだろう.
 そこで Amazon の《内容紹介》を読んだら,以下のことが書かれていた.

そもそも孤独でいるのは、まわりに自分を合わせるくらいなら一人でいるほうが何倍も愉しく充実しているからで、成熟した人間だけが到達できる境地でもある。「集団の中でほんとうの自分でいることは難しい」「孤独を味わえるのは選ばれし人」「孤独を知らない人に品はない」「素敵な人はみな孤独」等々、一人をこよなく愛する著者が、孤独の効用を語り尽くす。

 《孤独を味わえるのは選ばれし人》《孤独を知らない人に品はない》《素敵な人はみな孤独》は,『極上の孤独』からの引用だろうが,なんかこう傲岸不遜というか,叩かれる要素が満載だ.
 下重さんは自分のことを「選ばれし人」と思っているから《孤独を味わえるのは選ばれし人》なんて恥ずかしい言葉を書けるのだろう.
 《孤独を知らない人に品はない》も同じ.自分を上品だと勘違いしているから堂々とこんな下品なことを書くのだと思う.
 《素敵な人はみな孤独》はもっと酷くて,下重さんは,山口百恵さんや安室奈美恵さんを孤独だと書いているらしいが,レビューによると無根拠らしい.

 まあ,普通の人はこんな《内容紹介》を読んだら絶対に買わないと思う.ということは,この『極上の孤独』の内容紹介は,叩かれるのを承知の逆張りマーケティングなのだろうか.
 性格が悪い女性作家といえば,遠藤周作にそれとなく性格の悪さを書かれてしまった曽野綾子が筆頭で,その次は自分のゴージャスな生活を自慢たらしく書く林真理子だが,下重暁子もその仲間入り決定ですな.

 ところで,先日 (6/6) の NHK『ガッテン』で《筋肉&血管を強くする!世界が証明した“最強の寝たきり予防法”》と題した放送があった.私はこれを偶然観たのだが,おもしろい内容だった.番組のアブストラクトから一部を引用する.

世界的にインパクトを与えたのが、アメリカで発表された148研究(対象者およそ30万人)をメタ解析した研究結果です。長生きに影響を与える要因を調べたところ、肥満解消、運動、禁煙よりも「人とのつながり」が長生きへの影響力が高いことが分かったのです。日本の研究でも、「人とのつながり」が「運動」よりも寝たきりの危険度を下げることが明らかになってきています。

 孤独は寝たきりの危険度を上げる.この番組の内容はなかなか説得力があると私は思ったが,下重さんはどう思うだろうか.彼女は深くものを考えて本を書くような人ではないようだから,何も思わないだろうなあ.冒頭に書いたテレビ番組『ノンストップ!』で,彼女の著書から引用して番組側が作ったフリップがあったのだが,彼女は自分が書いたことを覚えていないようだった.自戒を込めていうのだが,思索に基づかずにテキトーに思い付きを本に書き殴ると,自分が書いた文章でも忘れてしまうのである.w

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2018年6月 3日 (日)

生け花の化学

 私が会社員だった頃,仕事で必要な専門書とかお気に入りの作家の新刊はどんどん買ったが,町の古本屋には入ったことがなかった.
 古書店という商売がどのようなものかを知ったのは,ベストセラーのミステリー,三上 延『ビブリア古書堂の事件手帖』に書かれていたことによるのが大きい.
 鎌倉の片隅にある古書店「ビブリア古書堂」は普通の古本屋で,読者が想像するに,商品は文学書である.

 で,「ビブリア古書堂」とは全く異なるタイプの古書店があることは,私も知識としては知っている.地方の旧家の蔵から出てきた古文書といった類のものを扱う書店だ.
 磯田道史先生の『日本史の内幕』(中公新書,2017年) を読むと,磯田先生がその種の古書店で貴重な史料を発見したという話がいくつか書かれている.
 同書の一節《秘伝書が伝える「生け花の化学」》(p.137) はその一つで,京都市内の古書店で見つけた和綴じ (!) の冊子の話である.そこから少し引用する.

「挿花養之伝」と表紙に書いてある。「嘉永六 (一八五三) 年八月吉日 佐久間鷺水」とも。巻末には「右、養 [やしない]の巻は、未生 [みしょう]家秘事の秘中にして、猥 [みだ]りに伝えず……未生流薬井斎泉鱗 [やくせいさいせんりん] (花押) 」と記されているから生け花・未生流系統の秘伝書である。これは面白いと思った。生け花を生ける「形」を示した華道の書物は多い。ところが、この秘伝書は「養」といって、生けた花を、長期に、みずみずしく保つ秘法を論じている。当然、植物ごとに、長持ちに効く薬品は違う。植物ごとに薬品の種類と調合を詳細に記している。
 そういえば、先日、未生流笹岡
[ささおか]の家元・笹岡隆甫 [りゅうほ]さんと近所で寿司をつまんだのを思い出した。笹岡さんは幼時に京都祇園祭の御稚児さんの大役を務めたことがあるそうで、私は興味津々で、その内幕を聞いた。これは、笹岡さんにとって大事な古文書かもしれない。買って帰ることにした。解読をはじめると、これが面白い。秘伝書のなかに紙が一枚挟んであり、そこにも秘伝が記されていた。江戸時代に、生け花が、植物の生理に基づいて「花を長持ちさせる科学性」を獲得していく様子がわかる。特に、江戸中期以降、水辺の植物を生ける技術が向上する。例えば、コウホネという水生植物は、山椒 [さんしょう]・茶・明礬 [みょうばん]を調合した薬液を「水鉄砲にて水上 [みずあげ]る」。蓮 [はす]も水鉄砲で「石灰」を湯で煮た水を注入する。「葭 [よし][あし]」などは「焼酎 [しょうちゅう]にて生 [いけ]る」とある。蝋燭 [ろうそく]で根元を焼き切る方法の詳細もある。水生植物に水鉄砲で水を注入したり、石灰でアルカリ性にしたり、「生け花の化学」が江戸期の日本には、あった。》 (ブログ筆者註;引用中,[ ]は原文にあるルビである.また一部の漢字は旧漢字をJISの字体に置き換えた)

 この文章を読むまで私は,華道の体系の中に,植物を長持ちさせる技術が含まれているとは想像もしていなかったのでとても驚いた.
 専門の歴史学の範囲を超えて能狂言を始めとする日本伝統芸能にも詳しい博学の磯田先生にして,未生流の秘伝書を手に入れるまで,このことを御存知なかったのだから,私ごときが知っているはずがないのであるが.w
 ここで興味があるのは,当然ながら磯田先生はこの古文書を解読後,未生流笹岡の家元に渡したと想像されるのだが,はたして笹岡氏はこの秘伝書を保有していただろうか,ということだ.
 そしてまた,未生流笹岡は大正時代に創流された新しい華道流派であるが,他のもっと古い華道各流派にもその種の秘伝が伝えられているのか否かに強い興味をそそられた.

 そこで,色々な検索語で,華道体系にある「生け花の化学」をウェブ上に探してみた.
 すると,未生流笹岡の祖は未生流の流れを汲んでいるのだが,その未生流の公式サイト に《未生流の伝書》として以下の記述があるのをみつけた.

伝書「草木養之巻」
流祖は、いたずらに草木の天寿を害すことを嫌い、草木の生命を永くもたらしめるよう各種薬法を考究しました。その名の通り、草木を養う法が書かれています。

 この公式サイトには,《現在、「未生」を名乗る流派は数多くありますが、未生流を初めて称えたのは当流流祖・未生斎一甫です》とあり,また流派の歴史も書かれているが,磯田先生が手に入れた古文書に見える「佐久間鷺水」「薬井斎泉鱗」の名は見えない.
 また古文書「挿花養之伝」は《未生家秘事の秘中にして、猥りに伝えず》として「秘伝」であることを強調しているが,現在の未生流の伝書「草木養之巻」は公式サイトに《未生流の伝書は、流祖・未生斎一甫が自身のいけばな理論と哲学、その技法を著述したもので、未生流を学ぶ者だけに授与されるものです》と書かれているから,家元が代々継承する「秘伝」書というわけではないようだ.

 池坊はどうなんだと,公式サイトを覗いてみたが通称『池坊専応口伝』の花伝書のことは記載されているが,他の伝書については書かれていない.京都の池坊会館にある資料館に行けば伝書の展示を見ることができそうなので,機会があったら行ってみたい.

 ところで,「生け花の化学」と聞いて昔の記憶を思い出した.
 昔,私が親しくして頂いていたA教授が,ある日偶然,球根の水栽培に爽健美茶が適していることを発見した.水耕容器に入れた水の中で微生物の繁殖が抑制されたのである.そのせいか球根の根の生長がよかったという.
 簡単な予備試験をしてみたところ,どうやら爽健美茶の原料の一つであるチコリーに有効成分があるらしいことがわかったとその教授は話してくれた.爽健美茶が発売されたばかりの頃のことである.しかしその後,このことをまとめた論文は目にしていない.
 昨日,上のことを思い出したので,なぜだろうかとウェブを検索してみた.
 すると,爽健美茶の発売は平成五年 (1993年) であるが,その二年前の平成三年 (1991年),ユーカリの成分研究で有名な西村弘行先生 (現北翔大学学長) が北海道東海大におられた時,日本化学会講演予稿集に講演要旨《チコリー中の抗菌性セスキテルペノイドについて 》を書いておられたのを見つけた.
 たぶんA教授は研究の途中で,抗菌性有効成分がセスキテルペノイドらしいと気が付いたのであろう.先行研究があったのでは,それ以上の追求は断念せざるを得ない.そんな事情だったのかも知れないなあと思った.

 チコリーはキク科である.「挿花養之伝」に日本産キク科植物を煎じた薬液を使うなんて書かれていたらおもしろいのだが,と空想してみた.私は古文書を読めないが.w

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