続・晴耕雨読

本や映画などについて.

2020年5月30日 (土)

続・せいやのエブロン

 三ヶ月近く前の記事《「せいやのエプロン」》[掲載日 2020年3月8日] に《料理が全くできない霜降り明星・せいやが,料理の先生について学ぶという冠特番「せいやのエプロン」(テレビ朝日,3月7日放送) が面白かった 》と書いた.
 面白い企画だったし,料理の先生 (藤田貴子さん) と霜降り・せいやの取り合わせが抜群によかったので,レギュラー番組にならんかなーと思っていたら,テレビ朝日《マツコ&有吉 かりそめ天国》[放送日 2020年5月29日] の中で単発の続篇が放送された.
 今回の料理は「南禅寺蒸し」(茶碗蒸しの一種) で,料理初心者にはかなりハードルが高いもの.藤田先生は,せいやに「わかりやすく教える」なんて気はないから,そこが爆笑ものだ.いやー,ぜひ続けて欲しいよ,この企画.


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2020年5月21日 (木)

テレビの名作をもう一度

 コロナ禍のおかげで,テレビ各局の番組が軒並みに総集編みたいなことになっている.
 普段は芸人たちの刹那的なお笑いを見て「わはは」と笑っていたが,既視感のある再編集ビデオを何週間も見てくると,さすがに嫌になってくる.
 それなのに各局とも,かつて名作との評判をとったドラマやノンフィクションものを再放送しようとしない.なぜだろう.権利関係の問題があるのだろうか.
 しかしNHKの古い作品はアーカイブにあるはずで,これは再放送に何の不都合もないはず.事実,小出しにして放送しているのだから,もっと大々的にやって欲しい.
 日本テレビの『ノンフィクション劇場』あたりは,旧作を放映すれば私のような老人たちの絶賛を浴びると思う.ああ,あの「老人と鷹」をもう一度観てみたいものだ.
 ドラマならもちろん東芝日曜劇場の名作を再放送してもらいたい.とりわけ「女と味噌汁」「僕の妹に」「うちのホンカン」は高齢者たちが高視聴率を保証するだろう.東芝がウンと言わないのだろうか.

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2020年4月27日 (月)

疫病にて人の死に行く

 NHK教育《日曜美術館「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」》[放送日 2020年4月19日] は良質のコンテンツだった.
「疫病をこえて」はまず国宝法隆寺金堂釈迦三尊像から語り始めた.
 
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(法隆寺金堂釈迦三尊像;パブリックドメイン,Wikimedia Commons File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG)
 
 国宝法隆寺金堂釈迦三尊像は,聖徳太子 (番組の中では厩戸皇子ではなく聖徳太子と呼んだ;下記の[*註1]を参照のこと) 逝去の翌年に止利仏師が造ったとされる.蓮弁形光背の裏面には造像の由来についての銘文が記されている.Wikipedia【法隆寺釈迦三尊像】からその銘文の大意を下に引用する.
 
西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である。
 
 このように聖徳太子本人,母と妻の三人が倒れた病は,諸説はあるが,天然痘 [*註2] だとするのが定説である.すなわち日本仏像美術の源流である法隆寺釈迦三尊像は,ウイルスの流行による災厄から生まれたのである.
 天然痘は,わが国には六世紀に中国・朝鮮半島からもたらされた.初めて天然痘に感染した人々は激甚な被害を受ける.人口の半分を失う可能性があるのだ.人はそれくらい大きい被害の代償として集団免疫 [*註3][*註4]を獲得するのだが,その効果は長持ちしない.人は,飢饉や大災害がないとしてもやがて寿命が尽きて死に,人口が未罹患の世代に交代すると集団免疫は失われる.こうして天然痘は繰り返し繰り返し人類を襲い続けた.世界史的にはローマ帝国で数百万人が死んだ.北米には部族が全滅した先住民があった.中南米ではアステカとインカの二大帝国が滅んだ.極東の小国日本が天然痘ウイルスに滅ぼされなかったのは,六世紀半ばのエピデミック [*註5] に,ある程度の人口が生き残ったからである.
 
[*註1] Wikipedia【聖徳太子】から一部引用.何年か前のテレビ番組で「現在の中学・高校の教科書には聖徳太子という名称はなく,厩戸皇子と書かれている」と放送されたのを観た覚えがあるが,今はさらに,厩戸皇子という人名もなくなったようだ.(下の記述を参照のこと)
歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
[*註2] Wikipedia【天然痘】から一部引用.
日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。
[*註3] Wikipedia【集団免疫】
[*註4] NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版《感染症の「集団免疫」対策 なぜ英国は撤回したのか?》[掲載日 2020年4月12日]
[*註5] epidemic エピデミック (流行) は,特定のコミュニティ内で特定の一時期に感染症が広がること.(Wikipedia【パンデミック】)
 
 八世紀頃になると,中国から追儺 (ついな) の行事が宮中に伝わり,新年 (立春) の前日である大晦日に行われて年中行事化した.
 その当時は,疫病を目にに見えない鬼に見立てて,陰陽師らが鬼に供物を捧げ祭文を読み上げたあと,鬼を門外に追い払うという形であったが,
やがて九世紀になると鬼の扮装をした者を追い払うという仕方になり,鬼が可視化されるように変化した.
 平安時代 (十一世紀頃) には,宮中以外でも公家や陰陽師などが追儺の行事をする者が増え,各地の寺社でも節分の行事として行われるようになった. 
 
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(融通念仏縁起絵巻)
 
 上の画像は融通念仏縁起絵巻の一場面である.十四世紀に原本が描かれたこの絵巻は,平安時代後期の天台宗の僧で融通念仏宗の開祖である良忍の事績と念仏の功徳を説いた説話を描いている.番組で紹介された画像は清涼寺本といい,室町時代の制作で重要文化財.
 ここでは,
とある屋敷に人々が集まって念仏を唱えている.右半分は屋敷と人々.左側を拡大したのが下の画像だ.いずれも《日曜美術館「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」》の画面を撮影したもの.

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(部分拡大図)
 
 上の拡大図で,屋敷に押し掛けているのは鬼だ.妖怪や物の怪ではない.この鬼たちは疫病,おそらく天然痘である.
 門のところで鬼たちに応接しているのは,この屋敷の主人か家来か不明だが,念仏を唱えに集まった人々の名が記された巻紙を渡している.
 すると鬼の一匹が,名簿にある名に印を書き入れる.この印は,現代の言葉でいうと「抗体ができた」という意味で,もう疫病には罹患しないということになる.これが念仏の功徳である.仏の御加護があるから,人々は密集・密接しているが感染リスクはないのだ.
《日曜美術館》の解説によれば,疫病を鬼の姿に仮託したのは,目に見えぬものへの恐怖からだという.
 確かに,災厄にもいろいろあるが,地震や台風などの災害は一過性だし,特定地域の人口の半分が失われる事態は考えにくい.旱魃や冷夏で飢饉が起きて,たくさんの人々が餓死するにしても,空腹という体感があるから死ぬ理由がわかりやすいかと思われる.
 ところが疫病は違う.目には何も見えないのに,人々が高熱を発して倒れ,全身に膿疱が生じて死ぬ.そして病人死人の周囲に伝染流行し,次々に人々が死んでいく.一家が皆死ぬ.一村が全滅する.恐怖にかられて山に逃げて隠れるも,やがて発症して死ぬ.あるいは飢えて死ぬ.
 まるでこの世の地獄なのに,目には見えぬ.死ぬ理由がわからぬ.これほどの理不尽があろうか.
 そこで絵師たちはその恐怖を鬼の姿に描いた.それは疫病死というものを理解するのに少し役に立ったかも知れない.
 
 しかし,新型コロナウイルス感染症流行の只中にいる私たちには,赤い鬼や青い鬼には恐怖が感じられない.
 そこで昨今のテレビの,新型コロナウイルスを取り上げる情報番組,報道番組において,必ず登場するのは鬼ではなく電顕写真だ.
 
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(アメリカ疾病予防管理センターが作成した新型コロナウイルスの外観図;パブリックドメイン,Wikimedia File:SARS-CoV-2 without background.png)
 
 上の図はCGだが,テレビ番組で毎日目にするので今や誰でも知っているのは透過型電子顕微鏡で撮影された画像だ.これは東京都健康安全研究センターのサイトに数葉の電顕写真が掲載されている.このうち,特に《細胞表面から出芽する新型コロナウイルス粒子を走査型電子顕微鏡にて撮影。(出芽の様子を見やすくするためにウイルス粒子をコンピューター上で青く着色しています)》はおぞましい.現代の悪鬼だ.
 パチンコ屋で呆けたように玉を打ち続けている愚か者たちはもう手の施しようがないから捨て置くとして,単に頭が悪いだけの故に,幼い子を連れて気晴らしに商店街を散歩したり,あるいは公園に集まっている若い人たちには,この電顕写真を見せてあげたい.あなたの体はこのようにして蝕まれるのだよと.彼らはウイルスを我が事として実感できていないのだ.だから,何とかして疫病の恐怖をわからせてあげたい.でも自分が感染するまではわからないだろうが.
 
 七世紀,法隆寺に釈迦三尊像を祀った人々は,天然痘で人が死ぬことを悪鬼の仕業ではなく,神罰あるいは仏罰と理解したようだ.
 それは自らの業であるから,静かに受容するしかなかったであろう.
 
 聖武天皇の御代に伊吉宅麻呂という者がいた.天平八年四月に遣新羅使の随行員として大使・阿倍継麻呂らと出航するが,現在の周防灘で嵐に遭い,漂流の末に豊前国下毛郡に漂着した.その後,宅麻呂は壱岐島まで渡るがここで疫病にかかり卒去した.
 宅麻呂への,作者不詳の挽歌が万葉集第15巻の歌番号3688番に採られている.
 
天皇の遠の朝廷と 韓国に渡る我が背は 家人の斎ひ待たねか 正身かも過ちしけむ 秋去らば帰りまさむと たらちねの母に申して 時も過ぎ月も経ぬれば 今日か来む明日かも来むと 家人は待ち恋ふらむに 遠の国いまだも着かず 大和をも遠く離りて 岩が根の 荒き島根に宿りする君

 秋になれば帰ってきますと母に告げて旅立ったけれど,月日が経っても新羅の国に到着せず,また故郷の大和にも帰らず,君はかの島に眠ったままなのか,と作者は悼む.
 この歌で「家人の斎ひ待たねか 正身かも過ちしけむ」は,疫病を鬼として捉えていない天平の世の時代性を表している.「家人」は「いえびと」と読む.後世の用例とは異なり,妻だけでなく一家の人たちと解する.「家の人たちの祈りが足りなかったのであろうか,あるいは本人に落ち度でもあったのか」ほどの意だろう.疫病死の原因を人の側に求めて受容するのである.死がまことに身近で,抗い難い
時代における諦念と言っていい.それだけに一層,「今日か来む 明日かも来むと 家人は待ち恋ふらむ」が切ない.
 
 現代の私たちは多くの場合,何の咎もない人が感染症で命を落とすことを受容しない.
 だが受容しようと説く少数の者は,人命と経済はバランスをとらねばいけないと言う.
 彼らは,感染症で死ぬ命と,不況で自殺する命は等価である [*註1] [*註2] と言う.感染症による死者を減らしても,日本経済が破綻して自殺する人が増えたら意味はないのだから,つまりは両者の死亡者合計で考えればいいのだと主張する.
 そんなことがあるものか.
 不況下の自殺は,防ぐことができる.人が経済的理由で自殺するのは,政治が彼らを救わないからだ.
 しかしワクチンも治療薬も存在しないステージの感染症死は,致死率という確率に従って生じる.防ぐことができない.
 死というものは数ではない.一人ひとりの人生と死は,一人ひとり異なる.そのことに目をふさぎ,死んだ人間の頭数でしか人の世を見ることのできない人間には,大和田獏さんが妻の遺骨を胸に抱いて振り絞った「悔しくて悲しいです」を,我が事として胸の底にしまうことは遂にできないであろう.
 
[*註1] サンスポ《三浦瑠麗氏、政府に苦言「コロナで死ぬ命と経済で死ぬ命は等価」「経済が死んだら終わり」》[掲載日 2020年3月15日 14:54] から一部を下に引用.
私達がどんなにうまく自粛したり、休校措置に対する対応を頑張っても経済が死んだら終わり。それは経済vs命ではなく、命vs命。コロナで死ぬ命と、経済で死ぬ命は等価なんです。
 
[*註2] 文藝春秋digital《「新型コロナウイルス」で事態を悪化させるメディアと野党|三浦瑠麗》[掲載日 2020年3月9日 16:30] から一部のスクリーンショットを下に引用.
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 ミュージシャンやアスリートやノーベル賞受賞者や,無名の市民たちが,危機感を持ってこの難局を乗り越えようとメッセージを発しているときに,三浦瑠麗は「危機感の感度を下げて日常生活に復帰しよう」と説く.安倍晋三ですら,そんなことは言わない.言っているのは三浦瑠麗と堀江貴文の二人である.
 
[補遺]
 飛騨地方には「さるぼぼ」というお守りが伝えられている.これは伝統的には赤い色の布で作るが,赤は天然痘除けの色であるという.
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2020年4月 8日 (水)

「励ます人」への補遺

 昨日の記事《励ます人》に,日本では絶対にありえないアイドルグループ w “The D-Day Darlings ”による“We'll meet again ”の歌唱がすばらしいと書いた.彼女らの容姿が,もう英国女性としか言いようのない雰囲気なので,「あんまりブリティッシュなので,動画を観てたらコーラが紅茶になっちゃったよ」というコメントがYouTubeに書かれている.
 そこで,活動歴は長いが一昨年になってコンテストで脚光を浴びた彼女たちの歌をもう少し紹介する.
 
White Cliffs of Dover
 改めて書くまでもない Vera Lynn の代表曲へのリスペクト.

Dam Busters
 戦記映画の名作『暁の出撃』 (1955年,イギリス) の主題歌.
 
I'll Remember You
 第二次大戦中のミュージカル映画の挿入歌.彼女らの同名のCDに収録されている.
 
Rule Britannia / Land of Hope and Glory
 Britanniaは英国を擬人化した女神.“Rule Britannia ”は古い (1740年) 英国愛国歌.
 “Land of Hope and Glory ”も愛国歌の一つで,準国歌ともいうべき歌.

Pack Up Your Troubles / It's a Long Way to Tipperary
 “Pack Up Your Troubles ”は第一次世界大戦時に作られた行進曲.
 “It's a Long Way to Tipperary ”も第一次大戦時から愛唱されている英陸軍軍歌.

Comin' in on a Wing and a Prayer
 第二次世界大戦中の米国流行歌.ソ連邦でもロシア語に翻訳して歌われた.

Run Rabbit Run
 第二次世界大戦中の英国流行歌.
 
Keep the Home Fires Burning
 第一次世界大戦時の英国愛国歌.


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2020年3月17日 (火)

わたしには秘密にしておいて

 このブログで何度も,終戦後に日本に入ってきた欧米の歌や映画のことを書いてきた.
 映画という文化は,シナリオを映像にするという作業においては昔も今も変わらないのだけれど,特に洋画ではこの七十年間に映像化技術の革命つまりCGが多用されるようになり,ジャンルによっては (例えばファンタジーやSFなど) 昔の作品はいかにも古色蒼然としてしまった.
 ところが音楽は,録音と再生の技術は高度に発展したけれど,そのために昔の音楽が古びるということがなかった.
 私が若い頃はLPレコードをターンテーブルに載せて針を静かに落とし,お気に入りのスピーカーから聞こえてくる音に聴き入ったものだが,いまやCDの時代も既に終わり,音楽は配信されてくるものになった.
 しかしそれでも私は,深夜に,古めかしい道具を使って1950年代の音楽を聴くのが好きだ.
 
 私が貯め込んでいる音源は,ほとんどが女性歌手のものだ.戦争が終わった極東の島国に生まれ育った少年たちは,イギリスやアメリカ,フランス,イタリアの歌姫たちに恋をしたのだった.
 私たち七十過ぎの世代が死に絶えたら,彼女たちが歌ったラブ・ソングも時の流れの彼方に消えていくのだろうと思うと,静かに切ない.
 その懐かしのラブ・ソングにもいろいろある.片想い,失恋,恋人の死…… ハッピーな歌はあまり思い出せない.それにそんな歌は聴きたくないし.
 片想いの歌なら,“Keep it a secret”を老人は忘れがたい.
 
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 オリジナルはジョー・スタッフォード (1952年録音) だが,その後にカバーした歌手によって,歌詞にわずかな異同がある.
 この歌のシーンは,お節介な女友達が「ねえねえ,彼がまた新しいコと一緒にいたわよ」とか「元カノとヨリがもどったのかしら,二人して飲んでたわ」とか言ってくるというのだ.ここで“if”は婉曲な言い方.遠回しに,彼女の無神経さを非難している.
 rendezvousは,ドアを開けて入ると,飲み物と軽食を出す小さなカウンターがあって,壁にはダーツの的がある.ジューク・ボックスが隅に置かれていて,フロアにはジルバかなにかを踊れる狭いスペースがある.そんな街の片隅にある店のことだろう.いかにも古い映画に出てきそうだ.
 “Painting the town”は口語.文章ではあまり使わないかも知れないが,辞書にはある.
 “Pay no attention and just let be”は,余計なお世話に少し腹を立てている描写だ.そして“But keep it a secret from me”の悲しい恋心.
 第二次大戦後に歌われた,もっともリリカルな片想いの恋の歌がこれだ.

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2020年2月13日 (木)

チコと鮫

 逃がした魚は大きい,という話とは少し違うが,見逃した映画はいつまでも忘れられない.
 私の場合の例の一つは『大砂塵』だ.昭和29年 (1954年) 公開だから,もちろん1950年生まれの私はリアルタイムでは観ていない.
 Wikipedia【大砂塵】から引用すると次のようだ.
 
『大砂塵』(だいさじん、原題・英語: Johnny Guitar) は、1954年 (昭和29年) 製作のアメリカの西部劇。原作はロイ・チャンスラーの小説、製作会社は西部劇を専門にしていたリパブリック・ピクチャーズである。
原題のジョニー・ギターとは放浪する主人公 (スターリング・ヘイドン) の名前だが、彼を巡る二人の女性が実質的な主人公であり、女性同士の決闘が公開当時話題となった。また、ペギー・リーが歌った主題歌『ジャニー・ギター』も世界的なヒット曲となっている。
 
 映画の役柄の場合は《ジョニー・ギター 》で,主題歌は《ジャニー・ギター 》と書き分けているところが,この記述の工夫だろう.
 私が中学生の頃,ケン田島さんという人がいた.TBSラジオの電話リクエスト番組のDJで,この種の音楽番組司会者の草分けの一人だった.この人は英国生まれのバイリンガルで,しかも声が落ち着いた低音であり,中学生の私にはとてもきれいな英語の発音だと思われた.
 ある夜の放送でケン田島さんはJohnnyの二通りの発音をしてみせた.そしてペギー・リーの歌のことを言う場合は片仮名で書くと「ジャニー」の方がそれらしく聞こえますと言った.ついでに当時の人気歌手Joanie Sommersの名を発音して,「女性の名の場合はJohnnyと同じ発音をしてはいけません」とも言ったのを記憶している.他局の日本人DJたちはJohnnyもJoanieも一緒くたにしていた時代であったが.
 それはともかく,一昨年,長らく絶版になっていた『大砂塵』のディスクが発売され,私はようやくこの映画を観ることができたのだった.今の高齢者で『ジャニー・ギター』を聴いてよく知っている人でも,『大砂塵』は未見の人が多いのではなかろうか.水を差すようだが,『大砂塵』は大した作品ではなかったと付け加えておきたい.
 
 さて,未見の作品がもう一つある.いや,あった.それが『チコと鮫』だ.これも一昨年の発売だが,私はついぞ気が付かなかった.つい数日前にディスクがあることを知って,Amazonに注文した.
 これは絶版になっていたのではなく,そもそも今回が初めてのディスク化らしい.注文したものが昨日配達されたので,早速鑑賞してみる.
 ところで『チコと鮫』は主題曲も超有名だ.サウンド・トラックはこれ.ところがこの曲はConnie Francisがカバーした“ My Happiness ” に似ていることでも有名なのだ.(YouTubeはこれWikipediaはこれ;サウンド・トラックよりも《不朽の名作 ~ チコと鮫 ~ 》のほうがわかりやすい)
 でも誰もこのことを突っ込まない.誰もこのことで映画『チコと鮫』を傷つけたくないんだろうと思う.
 さらには,伊藤アイコという昔々のマイナー歌手の「チコと鮫」という歌 (1963年リリース) があって,これはオリジナルが誰なんだか全く不明なカバーなのだが,しかし彼女の歌は不思議なことに高齢者の一部に根強い支持があるようなのだ.そして私も彼女の歌唱に郷愁みたいなものを持っている.そこで彼女がどうなったのか調べてみたら,《伊藤アイコさんについて》を発見した.いやあ,こういう記事を上げてくれるかたには,ただもう感謝するしかない.

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2020年2月 2日 (日)

進駐軍放送

 音楽の趣味は人それぞれで,クラシック音楽一辺倒の人もいれば,還暦過ぎなのにAKB48をカラオケで歌う人もいる (私の会社時代の後輩だ ^^;).
 自分はどうかというと,ジャズに疎い.いいなあ,と思って購入し,時々は聴いているジャズ方面のCDはホントに少ないのだが,その一枚にジュリー・ロンドンの古いベスト盤がある.Wikipedia【ジュリー・ロンドン】にあるように,彼女の歌手としてのスタートは遅く,ファーストアルバム“Julie Is Her Name”を録音したのは1955年だった.私が中学生の頃,深夜放送で彼女の歌を毎日のように耳にしたのは1960年代前半だったから,今にして思えばその時の彼女はまだ三十代だったのだが,声質のせいか既にして大御所感を漂わせていた.
 さてそのベスト盤に“Dream”が収録されている.YouTubeはこれ.いかにも深夜に聴くに相応しい.
 ではあるけれど,ベスト盤全三十曲の収録曲のうちでこれがベスト中のベストかというと,はたしてどうでしょうか,という感じ.
 
 そう思っていたある日のこと,視聴者の人気が高くなっていたNHKの『サラメシ』を初めて観た.この番組のエンディングは「あの人が愛した昼メシ」というコーナーで,Wikipedia【サラメシ】には次のように書かれている.
 
あの人が愛した昼メシ
放送されるときは必ず番組の最後に放送するコーナーで、すでに故人となった著名人の愛したメニューを、その人の料理への思いとともに紹介するほか、その人の人柄や逸話を店主や料理人が語る。BGMはザ・パイド・パイパース(英語版)の「Dream」。
コーナー冒頭は故人の遺影を前面に映したタイトルバックに、中井の「あの人も、昼を食べた。」のナレーションで始まる。最後に料理と遺影が並べられたテーブルを映し、中井が「…御馳走様でした。今日も、お相手は、中井貴一でした」で締めて番組は終了となる。
 
「あの人が愛した昼メシ」の内容自体はさして特筆すべきものではないのだが,《すでに故人となった著名人 》が「占領下の日本を知っている世代」であるところに趣向がある.そしてその人たちが象徴するところの,かつてこの国にあって,今は過ぎ去った時代の空気感
と,BGMの“Dream”が絶妙なフィーリングで一致するのだ.(例えば最近の放送では,朝丘雪路や加藤剛だった)
 BGMをコーラスしているザ・パイド・パイパーズはWikipedia【The Pied Pipers】によると,1930年代後半に結成した当時のメンバーは女性一人と男性八人の構成だった.その女性というのが,後に一世風靡したソロシンガーのジョー・スタッフォードだった.
 その後,メンバーはジョー・スタッフォードと男性三人の構成に変わったが,彼女がソロ歌手として独立すると,女性ボーカルはJune Huttonに交代した.男性メンバーの入れ代わりはWikipediaに譲るとして,この時期にパイド・パイパーズは多くのヒット曲を出した.その一つに1944年に録音した“Dream”がある.彼らのコーラスのテイストはYouTube《The Pied Pipers - Dream》などで試聴できる.
 
 “Dream”が大ヒットしてザ・パイド・パイパーズのゴールドディスクとなった1945年.7月に米軍は沖縄を占領し,米軍直轄放送局AFRS (the Armed Forces Radio Service) を開局した.この短波局は太平洋上の島々の日本軍に対して降伏を促す放送を行った.
 二ヶ月後,戦後占領期の開始と共に米軍は同年9月12日にNHK東京放送会館の一部を接収して進駐軍放送WVTRを開局した.この中波放送局はその後,鹿屋,熊本,大分,別府,佐世保,小倉,大阪,仙台,札幌,沖縄,ソウル,釜山,マニラにも開局し,米軍基地関係者とその家族向けの英語放送を行った.この進駐軍放送は講和条約が成立して日本占領が解除された1952年にFEN (Far East Network,極東放送網)と改名された.
 戦争が終わる前,S盤レコードで米国の音楽を知ることのできたのは,一握りの人々だけだった.しかし進駐軍放送とFENによって占領下の日本大衆がジャズの洗礼を受けた.美空ひばり「東京キッド」の三番歌詞に「いつもスイング ジャズの歌」とある通り,子供たちもジャズを聴いて育った.その子供たち,言い換えれば「占領下の日本を知っている世代」の故人を偲ぶに,“Dream”は最もふさわしい曲だろう.
 私がザ・パイド・パイパーズの“Dream”を聴いたのはもちろん進駐軍放送ではなくFENだったが,今でも彼らのコーラスとジュリー・ロンドンの歌唱を聴き比べると,両者に十年の時の隔たりを感じる.郷愁というテイストの点で,数多の歌手たちがカバーした“Dream”は,遂にオリジナルを超えることができなかったように思う.
 AmazonのCD購入者のレビューを読むと『サラメシ』は,若い音楽ファンが“Dream”を知るきっかけになっているようだ.これはNHKのお手柄だろう.

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2020年1月25日 (土)

長屋の台所

 高田郁『みをつくし料理帖 八朔の雪』を読んでいたら,裏長屋の台所の造作が,江戸と上方では異なると書いてあった.
 
 話のいきさつを前にも書いたように,昨年末に放送されたNHKの『みをつくし料理帖スペシャル』がおもしろそうだと思って録画したのはいいが,この録画を楽しむには,前提として,原作を一通り読むか,あるいは連続ドラマとして放送された当時の映像を視聴するのがよさそうなのである.
 そこで連作『みをつくし料理帖』第一作の『八朔の雪』を読み始めた次第.するとこんなことが書かれていた.
 
澪が不思議に思う光景の一つに、江戸のおかみさんたちの炊事姿がある。俎板を板張りや畳に置いて、座ったまま調理するのだ。流しを使う際も座ったまま。江戸中の台所を覗き見たわけではないけれど、澪の知る限り、食べ物を商う店は別として、家庭では座って料理を作ることが一般的なようだった。澪を手こずらせる江戸の流しの低さも、このためなのだ。
 流し台の作り自体は、江戸も上方も大差ない。四角い木箱に四本脚。隅の排水口から水が戸外に流れていく仕組みになっている。ただ、江戸では流し台の位置が、板張りと平行になるほど低かった。座っての調理に使い勝手が良いためだろう。
 土間に立って料理することに馴染んでいる澪にとって、座ったままでの調理姿は、やはりどうにも馴染めなかった。

 
 これを読んで,思わぬ盲点を突かれた気がした.ヒロインの澪は,今は亡き主人の未亡人である芳と二人で江戸の長屋住まいであるが,私は長屋の造作は江戸も上方も同じだとばかり思っていたのである.
 江戸の長屋の実寸大再現模型は,深川江戸資料館江戸東京博物館にある.このうち,深川江戸資料館に常設展示されている長屋の台所を写した写真が江戸散策 第6回 台所をのぞけば、その時代が見えてくる》に掲載されている.その写真のうち「写真2」の右半分に写っているのが長屋の「流し」であるが,板敷き (板張り,板の間ともいう) の居住スペースより少し高い位置にあるだけだ.長屋の場合に限るが,「へっつい」の横にある「流し」の下にはあまり空間がない.料理する際は,板敷きに正座し,「流し」の上で調理したのである.『八朔の雪』には《俎板を板張りや畳に置いて、座ったまま調理するのだ》とあるが,少し実際と違うようだ.《俎板を板張り》に置いて調理したのは,キッチンに広い板敷きがある武家の家のことだと思われる.町人の住む,居住スペースが著しく狭い長屋の部屋では,調理は「流し」の上で一切をやったのである.
 
 次に,録画してある『みをつくし料理帖 総集編』の冒頭を少し観てみよう.
 下の画像は澪と芳の二人が住んでいる長屋である.(テレビ画面を撮影してトリミングした)
 澪 (黒木瞳さん) の後ろの土間に流し (赤↓) があるが,丈の高い脚が付いている.これなら立って調理することができるから,原作とは異なっている.
 さらにいえば,この部屋には不必要に広い土間がある.おそらくこれは,撮影の都合を優先してセットを作ったためである.そのため,貧しい澪と芳が,こんなに広い間取りの長屋に住んでいるというリアリティに欠ける結果になった.
 しかし,深川江戸資料館などで長屋の実寸模型を観るとわかるが,実際の長屋の部屋は中が狭すぎて,部屋の中のシーンを撮ると,ものすごい圧迫感のあるアップになってしまう.だから澪と芳の部屋のセットを広くしてしまったのは,やむを得ないとはいえる.
 ただし,山田洋次監督作品『たそがれ清兵衛』には,狭い部屋の中で撮ったリアルなシーンがあったと記憶している.すなわち下の場面は,テレビドラマにおけるカメラワークの妥協であろう.
 
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 ところで原作『八朔の雪』では,上方では「流し」の前に立って調理すると書かれている.だとすると上のシーンは江戸の長屋ではなく,むしろ上方の庶民の住居の様子に近いと言える.過密都市であった江戸の町人は非常に狭い長屋に住んでいたわけだが,それほど住宅事情が劣悪でない上方では,ちゃんとした土間のある家に庶民は住んでいたのかも知れない.
 
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 上のシーンは,澪が流しの前に立って出汁を取っている場面である.原作の時代考証とは異なるが,違和感はない.これはこれでいいのではないだろうか.

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2020年1月18日 (土)

小川と娘

 ジョン・エヴァレット・ミレーは1852年,戯曲『ハムレット』の登場人物のオフィーリアが溺れて死ぬ様子を描いた.
 

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(『オフィーリア』,パブリックドメイン;Wikimedia File:John Everett Millais - Ophelia - Google Art Project.jpg)

 テレビ東京の新美の巨人たち 35歳で早世…奇跡の物語!三橋節子『花折峠』×奥貫薫》(1月11日放送) をたまたま観たら,夭逝した画家の三橋節子を取り上げていた.
 私は三橋節子についてほとんど知るところはなかったのだが,番組中で紹介された絵のいくつかは既視感があった.
 彼女の代表作の一つが『花折峠』である.この作品は,引用できる画像がないようなので,テレビ画面を撮影した画像を下に示す.
 
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『花折峠』は創作民話を材に取った作品だという.テレビ画面で『花折峠』を観たとき,私は瞬間的に『オフィーリア』を想起した.
 もちろん『オフィーリア』と『花折峠』ではモチーフが全く異なるのであるが,「あ」と思ったことは確かである.
『花折峠』は大津市立の「長等創作展示館・三橋節子美術館」が所蔵している.訪ねてみたいと思った.
 
 ちなみに,創作民話「花折峠」の作者は中野隆夫というかたである.

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2020年1月16日 (木)

鉄の道 (補遺)

 昨日の記事《鉄の道》の末尾を再掲する.
 
スキタイの東端から製鉄の遺跡を辿ってユーラシア大陸を横断していくと,アルタイ地方に至る.
 スキタイは文字を持たなかったため,従来は謎に包まれていたが,現在は版図の精力的な発掘が行われており,かなり詳しいことがわかってきたらしい.同時代のギリシャの記録などから著しく野蛮な民族だと思われてきたが,非常に高度な金属文化を持っていたようだ.
 このスキタイからさらに東方へは二手に分かれて製鉄技術が伝播したという.

 
 この箇所は,誤解のないように,もう少し詳しく書く必要があった.以下の画像は,テレビ画面をカメラ撮影した画像をトリミングしたものである.
 まず,ヒッタイトが発展させた製鉄技術は,ヒッタイトが興亡したアナトリア地方 (下の画像の黄色い円形部分のあたりにある;現在のトルコ共和国のアジア部分) からコーカサス地方 (黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と,それを取り囲む低地からなる地域) を経て,スキタイの版図の西端に伝えられた.
 紀元前七世紀から前二世紀にかけて繁栄したスキタイの版図の西端から東方に,ほぼ同じ緯度の地帯に製鉄炉の遺跡が分布している.
 
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 製鉄炉が分布する地帯は,下の画像に示されているように,現在のカザフスタンからモンゴルにかけて,北の森林地帯と南の砂漠地帯の間に広がる草原地帯である.
 
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 この中央ユーラシアに紀元前四世紀に勃興したのが匈奴である.(下の画像)
 

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 匈奴が遺した製鉄炉を発掘調査している愛媛大学の笹田准教授は,匈奴の製鉄技術は西方 (スキタイ) から伝播したものだという.(下の画像)
 
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 冒頓単于が率いる匈奴の,鉄製の矢じりを付けた矢を騎射する騎馬軍団は,前漢皇帝・劉邦 (高祖) の軍を圧倒した.Wikipedia【冒頓単于】に次の記述がある.
 
紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせた。前漢皇帝・劉邦(高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。
その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。これにより、匈奴は前漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これには、成立したての漢王朝は対抗する力を持たず、劉邦が亡くなった後に「劉邦が死んだそうだが、私でよければ慰めてやろう」と冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も、中郎将の季布の諌めにより、婉曲にそれを断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかった。
冒頓単于は更に月氏を攻め、更に西方へ追い立てた後、前174年に没した。
その後も東アジア最大の国として君臨していたが、前漢王朝が安定し国が富むに至り、武帝はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青と霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、その約60年続いた隆盛も終わりを告げた。
ただそれまで部族単位での略奪と牧畜が産業だった遊牧民に、国家という概念と帝国型の社会システムを根付かせたことは大きく、後のモンゴル帝国へとつながることになる。
 
 筆者が受験勉強をしていた頃の高校世界史 (五十年前 ^^;) では,上の引用文のように,匈奴が前漢を圧倒したのは冒頓単于の卓抜した軍事的才能によるとしていたが,それだけだったろうか.上記引用文中の「白登山の戦い」だが,Wikipedia【白登山の戦い】には次のように書かれている.
 
楚王項羽を滅亡させて中国再統一を果たした皇帝劉邦は、匈奴へ備えるために韓王信を馬邑(現在の山西省朔州市朔城区)に派遣するが、匈奴の脅威を間近で見た韓王信は匈奴との和平を唱えた。これを裏切りとみられた韓王信は、匈奴に投降した。韓王信の軍隊を加えた匈奴は40万の大軍で太原へ攻め込んできた。
 
 引用文中の,韓王信が目の当たりにした匈奴の脅威とは,匈奴軍の局地戦戦闘力,武器の殺傷能力ではなかったか.
 番組の放送においては,その点を匈奴軍が開発した鉄製の矢じりを用いて説明した.(下の画像の )
 
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 下の画像の字幕説明は「この矢じりは一段目の刃で相手のよろいを貫き 二段目の刃で致命傷を負わせる目的で作られました」
 
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 下の画像は実験したところ.匈奴の鉄製矢じり (赤い) は,当時の鎧と同じ厚さの銅板 (青い) と羊の肉を易々と貫通した.
 
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 これに対して漢軍は,青銅製の小さい矢じりを用いていた.匈奴の矢じりに比較して,見るからに殺傷力が低いと考えられる.
 この当時の漢には強力な鉄製武器を製造する技術がなかった.しかも匈奴は,王宮に武器を製造する工場が併設される「鉄の軍事国家」であった.
 
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 鉄と青銅.武器性能の優劣のために漢は匈奴に屈した.しかし漢においてもやがて製鉄技術の革新が行われた.
 
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 中国における製鉄の始まりについては,永田和宏『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』(講談社ブルーバックス,2017年) によれば,次の短い記述だけである.
 
中国には製鉄法は紀元前600年頃に伝わり、銑鉄が作られ、鍬や鎌、鑿などが鋳造で作られ、紀元前512年には鉄の大釜が鋳込まれた。一方、鋼はルツボ法で作られた。溶鉱炉は春秋時代初期に出現した。しかし、これで作った鋳鉄は質が悪く、悪金と呼ばれ、農具に使われた。
 
『人はどのように鉄を作ってきたか …… 』はつい三年前の出版であるが,ヒッタイトからスキタイに伝わった製鉄技術は全く書かれていないし,匈奴と漢の抗争における鉄と青銅の武器の優劣にも触れていない.この書籍では漢にどこから製鉄法が伝えられたかもわからない.いかに「鉄の道」の考古学が最近の学問分野であり,最新の知見に満ちたものであるかが知れる.
 この事情はWikipediaでも同じで,Wikipedia【鉄器時代】でも,わずかに次のように書かれているに過ぎない.
 
中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、これはシュメールなどと同じくそれほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であった。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及した。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。例えば、秦は高度に精錬された青銅剣を使っている。
 
『人はどのように鉄を作ってきたか …… 』もWikipedia【鉄器時代】も,中国で製鉄が始まったのは紀元前600年頃であり,作られた鉄は武器を作れるような品質ではなく,農具に使われたとだけ述べている.
 ところがごく最近,愛媛大学の研究グループがその後の中国の製鉄技術の発展を明らかにしている.
 
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 愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長・村上恭通氏によれば,中国では高炉を用いて大量の鉄が生産できるようになった.(下の画像)
 
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 しかしこの鉄は脆いため,武器には使えなかった.(下の画像)
 
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 そこで発明されたのが炒鋼炉であった.炒鋼炉は,高炉で作った銑鉄を脱炭素して鋼にする炉である.
 
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 炒鋼炉は明代の技術書『天工開物』に描かれている古代の鋼精錬法であるが,村上恭通氏らは漢代に作られた炒鋼炉の跡を発掘した.こうして漢は鋼の武器を鍛えることができる技術を手に入れたことが判明したのである.
 
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 漢の武帝は即位するや匈奴に反撃を開始した.番組は,漢軍は鋼の大型武器「」を用いることで匈奴との戦闘において優位に立ったと説明した.
 
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 Wikipedia【匈奴】には次のように書かれている.
 
匈奴で軍臣単于(在位:前161年 - 前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年 - 前141年)が即位。互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。しかし、武帝(在位:前141年 - 前87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功した。
元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまった。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。
太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降した。これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。
その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。
 
 以上がNHKスペシャル《アイアンロード ~知られざる古代文明の道~》を解説した記事《鉄の道》への補遺である.
 
 しかし,視聴者は,ここで大きな疑問を持たざるを得ない.
 番組の放送では漢の武器「鋼鉄製の戟」が漢の勝利の要因であるかのように説明していたが,これは納得しがたい.
 戟には長短の種類があるが,いずれにせよ漢の時代よりも古くからある近接戦闘武器である.冒頓単于の匈奴軍が劉邦の漢軍を圧倒したのは,白登山の戦いが典型だが,騎馬民族たる匈奴の戦術が,騎射のヒット・アンド・アウェイだったからである.ヒット・アンド・アウェイで戦う限り,遠隔戦闘武器である弓は絶対に近接武器に負けない.負けるとすれば,白兵戦に持ち込まれたときである.
 
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 こう考えると,武帝の時代に漢が匈奴を撃退できた要因は,単に戟が青銅製から鋼製に変化したことではあり得ない.青銅製だろうが鋼鉄製だろうが,近接戦闘武器としての性能に大差があろうはずがない.だとすれば,匈奴の側に,戦闘力が低下する要因があったと考えるのが妥当だ.第一に考えやすいのは,消耗品である矢じりを大量に生産できなくなった可能性である.次に,良馬が戦闘で消耗減少し,あるいは馬の生産力が低下し,歩兵で戦うように戦術が変化したのかも知れない.
 そこでハタと思い起こされることがある.
 番組中,匈奴が製鉄に必要とした大量の炭はどこから調達されたかについて,全く説明がなかった.スキタイの製鉄は中央ユーラシア北部の森林地帯で炭が生産されたと説明された.
 それと同じであれば,匈奴はモンゴル北部の山岳地帯で炭を作ったのだろう.
 だがしかし,番組の中で視聴者が見たモンゴル北部山岳地帯は下の画像のようであった.
 
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 見渡す限り,草とわずかな灌木しか生えない荒涼たる岩山とハゲ山.騎馬民族の王国が栄えた時代の,製鉄に使われた森林はどこにいったのだろう.
 もしかすると,匈奴は鉄の武器のために森林資源を枯渇させてしまったのだろうか.
 その結果,彼らの鋼鉄生産量は大きく減少し,軍事力の低下と共に匈奴の王国は歴史の流れの中に消えたのかも知れない.
 ともあれ,「鉄の道」の全体像を明らかにするには,この地における製炭と消費の歴史を明らかにせねばならないように思われる.
(この稿おわり)

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