刺身買うのも他生の縁
袖振り合うも他生の縁 (註) という.しかし物騒なこのご時世においては,赤の他人とは口も利かずに済ませたい.
要らぬトラブルに巻き込まれるリスクを避けたいからである.
(註) 初出の実例が精選版日本国語大辞典に載っている.
《「誠に袖ふり合ふもたしゃうのえんとやらいへば、諸国を経廻(へめぐ)る旅の憂さおも晴らし」(出典:歌舞伎・名歌徳三舛玉垣(1801)四立)》
「袖触れ合うも他生 (多生) の縁」「袖振れ合うも他生 (多生) の縁」「袖擦り合うも他生 (多生) の縁」などの誤用がある.
先日,藤沢駅北口にあるスーパー「サミット」に食料品を買いに行った.
刺身を買おうと思って刺身売り場に行ったら,キャップをかぶって作業服を着た中年男性が両手を大きく広げて冷蔵ショーケースの縁をつかみ,刺身のパックを凝視して微動もせずにいた.
小さなショーケースなので,その男が両手を広げて刺身を眺めていると,他の客は近寄れず,刺身を買うことができないのであった.
その男がレジかごを持っていないことにちょっと違和感を持ちつつ,仕方なく私はその男の後ろに並んで待つことにした.
数分経ったがまだ男は動かない.
そのうち数人の女性客が冷蔵ショーケースの周りに滞留し始めた.
その客たちは刺身を買いたいのだが,男がショーケース前に陣取って動かないのでどうしようもないのであった.
やがて女性客たちの視線が私に集まってきた (ような気がした).
ここで冒頭の前振りに戻るが「物騒なこのご時世においては,赤の他人とは口も利かずに済ませたい」と思う私であるが,視線の圧力に負け,男に声をかけた.
「えーと,そろそろいいでしょうか」
トラブル勃発覚悟の行動であった.
しかし男は,すぐ後ろから声掛けした私を振り返って見ることもせず,何事もなかったかのように刺身のショーケースからふらりと立ち去った.
その男は何をしたかったのか.
男と私にどういう他生の縁があるのかよくわからんが,とにかく事が荒立たずにすんでよかった.
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