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2026年7月16日 (木)

宵山の蟷螂山

 日テレ《ミヤネ屋》で,祇園祭宵山の中継をしていた.
 現地からのリポーターが,画面に映しだされた「蟷螂山」の説明で「これは蟷螂の斧といいまして,大きなものに立ち向かう勇気を表しています」と言った.
 一般常識では「蟷螂の斧」は「身の程知らず」を意味する.蟷螂はカマキリのこと.
 複数の出典があるが,淮南子の原文は以下のとおりである.
 
 斉荘公出猟 有一虫 挙足将搏其輪
 問其御曰 此何虫也
 対曰 此所謂螳螂者也
 其為虫也 知進而不知却 不量力而軽敵
 荘公曰 此為人而必為天下勇武矣 廻車而避之
 
 斉の荘公が猟に出かけたところ,虫が一匹いて前脚を振り上げ,公の馬車の車輪を斬ろうとした.
 公が「この虫は何という」と訊ねると従者は「これは蟷螂という虫であります」と答えた.
 続けて「こいつは前へ進むばかりで後ろに下がるということを知りませぬ.己が非力を省みずに敵を軽んじる虫であります」と述べた.
 すると荘公は「この虫が人間であったなら天下の勇者になったであろうに」と哀れみ,馬車を廻して踏みつぶさなかった.
 
 荘公は心優しいひとであったとみえる.
 ところが後世,「もしもこの虫が人間であったなら天下の勇者になったであろうに」が「この虫が人間であったなら天下の勇者になったであろう」と曲解され,蟷螂山の謂われが「大きなものに立ち向かう勇気を表している」と称賛されることになってしまった.
 例えば「蟷螂山」の公式サイトに以下の記述がある.(URLはここ)
 
「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事に由来をもち、その起源は、南北朝時代に蟷螂山町(当町)在住の公卿 四條隆資卿の戦いぶりが「蟷螂の斧」のようであったことから、渡来人で同じく当町在住の陳外郎大年宗奇が、永和2年(1376)に四條家の御所車に大蟷螂の模型を乗せて巡行したのが始まりといわれています。幕末の大火で焼失以降、長らく休み山となっていましたが、昭和56年(1981)に再興を果たしました。
 
 Wikipedia【四條隆資】からも引用する.
 
祇園祭の蟷螂山との関係
 毎年7月に開催される京都の祇園祭で、中京区西洞院通四条上ル蟷螂山町から出される蟷螂山の御所車の上に載るカマキリ(蟷螂)のモデルとなっている。これは、正平7年(1352年)に後村上天皇を守るために男山八幡で討ち死にを遂げた隆資の雄姿を、陳大年という大陸から京都に来ていた人物が中国の「蟷螂の斧」の故事になぞらえ、隆資の死後25年目の永和2年(1376年)に四条家の御所車に蟷螂の模型を載せて巡行させたことが起源と伝わっている。
 
 花田卓司は、脇屋義助を弁護したり、後村上天皇への拝謁を請うた楠木正行に涙を流したりする『太平記』の逸話に見られるように、隆資が武士の心情に寄り添える誠実な人物だと当時の京都の人々に認識されていたからこそ、隆資の奮戦と「健気な蟷螂」が重ね合わされたのではないか、と述べている。
 また石清水八幡宮の瑞籬(国宝)のカマキリは、現在の蟷螂山のカマキリと関係があるという説がある。
 平成30年(2018年)6月24日、石清水八幡宮にて隆資を弔う初の慰霊祭が、正平塚の清掃活動をしていた市民団体「22世紀八幡ルネッサンス運動」と祇園祭山鉾連合会の蟷螂山保存会、石清水八幡宮を交えた実行委員会の企画により営まれ、市民団体や保存会から参加した46人が隆資の功績を偲んだ。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 おそらく《陳大年という大陸から京都に来ていた人物》は「四條隆資がいかに奮戦したといえども所詮は蟷螂の斧」と僅かに軽侮の意を込めて「蟷螂山」を巡行したものと思われるが,しかし昔も今も私たちは良き敗者に優しい.(「所詮は蟷螂の斧」は今も使われる用例で,軽侮のニュアンスがある)
 京の人々は陳大年の趣向に反し,むしろ逆に,敵わぬまでも戦い続けて倒れた隆資の姿を《健気な蟷螂》にたとえて哀惜したのだった.
 これは,馬車に立ち向かったカマキリを踏みつぶさぬよう馬車を廻した荘公の心情に似る.花田卓司 (帝塚山大学准教授;日本中世史) の述べている通りである.
 祇園祭の「蟷螂山」の意味は,京都ローカルでは「身の程知らず」ではないのである.
 
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