永谷園の麻婆春雨について /工事中
昔々,私がまだ就職したばかりの新聞記事だったと思うのだが,都会から東北地方の普通の家庭に嫁いだ女性の経験談が載っていた.
その女性は結婚前に東北地方では食事の味が濃いと聞いていたので,台所を預かる専業主婦として家族みんなの食事を任されたときに,味噌汁と煮物の味を濃くした.
すると義母に叱られたという.
義母が彼女を叱った理由は「おかずの味が濃いと,家族たちが白いごはんをたくさん食べてしまう」だった.
余計な食費を抑えるのが嫁の心得だとのことだった.
嫁が料理下手で,作った食事がおいしくなければ,みんなは食が進まず,結果的に家計は良くなるというわけである.
ツッコミどころはあるにしても,これは一理ある考え方だ.
今と違って,昔は粗食を良しとした時代だったのである.
もう手元にないが,戦前に出版された「新妻の心得」みたいな書名の古書を手に入れたことがある.
この「心得」は,諸兄が書名から想像するだろうあっち方面のことではなく,新婚の女性が心得ておくべき家事の知識についてであった.
私は日本の昔ながらの食文化に関心があったので,そんな書物を読んでみたのである.
その本には,勤めに出かける夫に持たせる弁当のレシピが載っていて,それがすごい.
山盛りにした丼飯くらいの大量の飯 (精米にして二合くらい) を弁当箱に詰め込み,その上に焼いたメザシと梅干と沢庵を載せた.
当時の人たちがなぜこんなに大量の米飯を食べたかというと,一般勤労者の労働強度が高かったために高熱量食を必要とし,また生きていくのに必要なたんぱく質を肉や魚ではなく米から摂取していたからである.
これについては宮沢賢治の「雨ニモマケズ」における「玄米四合」問題が有名だ.
Wikipedia【雨ニモマケズ】から下に引用する.
《玄米四合
現代日本人にとって、「玄米四合」は1日に消費する米の量としては多すぎると受け止められる。しかし、現代日本人が1食に茶碗1杯程度の白米飯に加えて肉や魚に野菜料理と多彩な「おかず」を食すのに対し、戦前までの日本の労働者はわずかな副食物で大量の米飯を摂取する食習慣であった。一例として、1873年の徴兵令では「白米六合」を食わせることになっていて(脚気の大量発生から改められた)、当時の日本陸軍の食事規定では一回の食事につき主食として3食とも麦飯2合、副食として朝食は汁物(味噌汁・澄まし汁など)と漬物、昼食および夕食は肉や魚を含んだ少量のおかず一品(献立例をあげると、「アジフライ一枚に塩ゆでキャベツ」)と漬物である。仕事の大半が肉体労働であり、交通機関が発展しておらず、建設機械類、洗濯機など家電機器が存在していなかった時代にはすべてを手作業に頼らざるを得ず、日常生活を送るだけでも多大なカロリーが消費される。戦前、北海道のニシン漁場ではヤン衆(出稼ぎ漁師)を雇うに当たり、一人当たり1日8合の計算で飯米を仕入れた。重労働の最たるものである樵や木挽職人は一日1升、石切り職人は一日に1升5合の米を消費したという。当時においては「玄米四合」は質素で小食だった。
(中略)
高村光太郎は岩手県在住時の1947年に雑誌『農民芸術』第1巻3号(同年4月刊行)に「玄米四合の問題」と題した文章を寄稿し、その中で「私の見るところでは宮沢賢治の食生活は確に彼の身を破り彼の命数を縮めた」(原文の歴史的仮名遣い・正字体は、現代仮名遣い・常用漢字体に修正。以下同じ)と記して、栄養過多とともに栄養過少も日本人の健康を害してきたという立場を論じる上でこのフレーズに言及した。高村は「粗食を賞讃(原文ママ)すべき美徳のようにさえ思う日本古来の一部の考方(原文ママ)は是非とも改めねばならぬ」として「宮沢賢治の国岩手県に来て、私は『玄米四合ト味噌ト少シノ野菜』生活に賛成せず」に牛乳飲用の習慣を広く普及させ、また肉食も奨励して「数世紀に亙って培われてきた日本の消極的健康を、どうかして世界水準の積極的健康に引上げたいからに外ならぬ」という意見を述べた。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
高村光太郎は戦争末期に宮沢賢治の実弟である宮沢清六の家に疎開していたが,終戦後の1945年10月に現在の花巻市の郊外に粗末な小屋を建てて移住し一人で自炊生活を過ごした.これは光太郎が戦争中に多くの戦争協力詩を作ったことに対する自責の念からであった.
上に《私は『玄米四合ト味噌ト少シノ野菜』生活に賛成せず》とあるが,ストイックに自分を責めた光太郎は実際には粗末な食事を摂っていたと私には思われる.
この独居自炊生活の低栄養のためか光太郎は肺結核を病み,東京のアトリエに戻ってからも苦しんで1956年に没した.
雑誌に投稿した文章にある《私は『玄米四合ト味噌ト少シノ野菜』生活に賛成せず》は,光太郎が望んで叶わなかった健康への願いを意味していたと思われる.
やがて戦後になって,東北地方の住民の健康と栄養に関する疫学研究が行われ始め,これらの各県において高血圧が多いことと食塩摂取量の関係が指摘された.[後に佐々木直亮らが著書『食塩と栄養』(第一出版,東京,1980) で木村勉らの先駆研究《秋田県農村の高血圧調査》(秋田医師会誌,4(2), 04-107,1952) を紹介しているが,残念ながらこの木村の論文はWEB上には見当たらず,当ブログ筆者も原報の複写を持っていない)
疫学研究によって東北地方特有の健康と栄養の状態 (特に内陸部農村) を明らかにされると,行政による改善が取り組み始められた.
当時の農林省と各県は,地域医療の改善と共に,農村の「生活改善運動」を推し進めて成果を上げたのである.(資料例;YouTube《日本の農業振興の変遷「5.栄養改善」》)
東北地方における生活改善運動とは別に,日本の経済成長が推進力となって全国的に都市部では食生活の洋風化が進んだ.
白菜漬けなどの塩蔵野菜をおかずにする米飯主体の炭水化物食が減り,肉,魚,乳製品などを副菜として主食に小麦加工品を取り入れた食事が普及し,これによって食塩摂取量が減少した.
時代が昭和から平成に代わり,テレビを中心とするマスメディアが健康と栄養の知識を視聴者に広く啓蒙した.
食品企業もこぞって基礎調味料の減塩に取り組み,さらには加工食品の減塩化も進んだ.
そのおかげで現在では,毎日の食塩摂取量を10グラム/日以下に抑えるのはかなり容易になっている.
元々が薄味を好む人であれば,厚生労働省が目標値としている7グラム/日,推奨値6グラム/日を達成することも困難ではない.
かつて東北地方で,食塩摂取量過多のために高血圧が蔓延していたことを思えば,良い時代になったものだと思う.
しかるに,である.
一部の加工食品は,いまだに昭和の「濃い味」のままのものがあるのだ.
つい先日,「永谷園の麻婆春雨」(辛口) を買い,自分で調理して食べた.
私は普通の家庭料理は自分で作るが,キッコーマンの「うちのごはん」シリーズ調味料も利用する.単味の基礎調味料を何種類も用意せずとも,肉や野菜に本格的な味付けの料理ができるからである.
実は「永谷園の麻婆春雨」を使うのは初めてだ.これは合わせ調味料ではなく,材料と調味料がセットになっている加工食品だからである.
で,作って食べてみて,そのあまりに濃い味に驚いた.
「辛口」が特に味が濃いのかと思って「中辛」も作って食べてみた.
辛みが少ないだけで,レシピの設計思想,つまり商品コンセプトは同じと思われた.
公式サイトに掲載されている麻婆春雨の商品コンセプトを下にスクリーンショットで引用する.

「白いごはんがもりもり食べられる」ということを目的として,この商品は開発されたのである.
春雨は炭水化物でできている.つまり永谷園の麻婆春雨は,濃い味付けにした炭水化物 (春雨) で炭水化物 (白いごはん) をもりもり食うというのが,この加工食品のコンセプトなのだ.
かつて宮沢賢治は《玄米四合ト味噌ト少シノ野菜》を食べた.
「少シノ野菜」つまり塩辛い塩蔵野菜で大量の飯をもりもりと食う食生活の中で賢治は肺浸潤 (おそらく肺結核初期症状だった) に侵され,治療もせずにビール酵母と竹を煮た汁を飲むだけで,三十七歳の短い一生を終えた.
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