ポン菓子の記憶
NHK《グレーテルのかまど としこさんのポン菓子》[初回放送日:2025年9月15日] を視聴して懐かしい思いがした.
番組サイトから下に引用する.
《懐かしいポン菓子!食糧不足が蔓延していた太平洋戦争末期の日本で、子どもたちにおなか一杯食べさせたい!と、国産のポン菓子製造機を初めて作った女性がいた。御年99歳、いまも元気にポン菓子作りに励む。食糧も物資も枯渇していた戦時中の日本で、大阪に住んでいたとしこさんは一念発起、鉄の町北九州へ。苦労を重ねて作り出したポン菓子機は、いま日本各地に。ヘンゼルはフライパンで作る、オリジナルポン菓子に挑戦!》
昭和三十年,私の家族は前橋刑務所 (群馬県前橋市) の公務員官舎で暮らしていた.私の父親が刑務官だったのである.
その官舎は,一棟が四軒の木造長屋で,一軒は六畳と三畳に台所が付いていた.内風呂はなかった.
その長屋が三棟,前橋刑務所の西側に隣接して石垣で囲まれた敷地に建てられていて,長屋敷地の東端には「手押しポンプ」式の井戸が設けられていた.官舎の女性たちはこの井戸で洗濯をした.(Wikipedia【手押しポンプ】参照)
私が五歳のとき,刑務所のすぐ近くの寺が幼稚園を経営し始めたので,私はできたばかりのその幼稚園に通った.
いま地図でその幼稚園の位置を調べると,当時とは違う場所にある.移転したのかも知れない.
二つ上の姉のときはまだ近くに幼稚園がなかったので,姉は六歳でいきなり小学校に入った.当時は,幼稚園がないくらいだから保育園もない,そういう時代であった.
戦時中,前橋市に近い榛名山の東麓に前橋陸軍予備士官学校があった.
敗戦後,士官学校の跡地に米軍が進駐して接収し,相馬ヶ原米軍演習地とした.
そのせいで前橋市内には米軍のジープを見かけることが多く,幼稚園と前橋刑務所のあいだの道にはたまに戦車が走って入りした.
幼稚園の入り口で園児が遊んでいると米兵のジープが道を通ることがあり,園児たちは大人に教えられたように「ハロー,ハロー」と手を振り声を上げた.
するとジープの米兵は子供たちにキャンディとかミカンを投げてくれたりした.
もう少し歳上の小学生なら「ギブミーチョコレート!」と言ってハーシーズ・トロピカル・バー (Hershey's Tropical Bar) をねだるところであるが,私たちは年端もいかぬ園児だから「ハロー,ハロー」だった.

ハーシーズ・トロピカル・バー;パブリック・ドメイン,Wikimedia Commons File:Hershey Tropical Bar SI.jpg
さて私が幼稚園から帰ってくると,長屋の井戸の近くに行商のポン菓子屋がたまにやってきた.
Wikipedia【ポン菓子】から下に引用する.
《大正から昭和中期頃までは、定番の菓子として子供に人気があった。行商の業者は地域を巡回して露店の形で販売したほか、専用の加工工場で作られたものはポリ袋に詰められて販売されていたが、湿気に弱いことと出来立てのほうが格段に香ばしさがよい事などの理由もあって、巡回の業者が販売するものが好まれた。
巡回業者が子供が集まる広場や、寺社で開かれる定期市などにポン菓子製造用の器具を持ってきて、目の前で作ってみせるということがよく行なわれていた。しかし、次第にその数を減らし現在ではポン菓子の製造を見ることは珍しいものになった。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
上に《ポン菓子製造用の器具》とあるが,大正・昭和戦前から昭和二十年の敗戦以前にかけて使われていたポン菓子機は中国製の輸入品であったという.
しかし戦後になって,大阪市で教員をしていた吉村利子さんが一念発起して退職し,鉄鋼場の多い福岡県の戸畑市 (現福岡県北九州市戸畑区) に移住し,昭和二十一年に国産のポン菓子製造機を開発した.
NHK《グレーテルのかまど としこさんのポン菓子》に《懐かしいポン菓子!食糧不足が蔓延していた太平洋戦争末期の日本で、子どもたちにおなか一杯食べさせたい!と、国産のポン菓子製造機を初めて作った女性がいた。御年99歳、いまも元気にポン菓子作りに励む》とあるのが吉村さんである.
吉村さんが開発したのが,国産ポン菓子機第一号だというのが定説になっている.(FBS NEWS《【戦後80年】「おなかいっぱい食べさせたい」国産ポン菓子機を開発した女性は99歳に いま子どもたちに伝えたいこと》[掲載日 2025年3月30日] 参照;その他に朝日新聞や読売新聞等多数のメディアが吉村利子さんのポン菓子機の開発立志伝を載せている)
しかし腑に落ちないことがある.
吉村さんが開発したタイプのポン菓子機は現在も吉村さんの店で稼働しているのだが,この機械は耐圧容器を加熱するのにプロパンガスを使用し,容器を回転させるのに交流モーターを使う電動式なので,かなりの重量がある.
吉村式ポン菓子機 (《グレーテルのかまど》の画面を撮影した画像)
私の記憶では,戦後に各地を巡回してポン菓子を行商していた業者は,ポン菓子機をリヤカーに乗っけて自転車で引き,町のあちこちの空き地とか原っぱなどにやってきた.
というのは,ポン菓子製造は解圧するときにバーンという爆発音がするため,近所迷惑にならぬよう,行商は開放的なところで行わねばいけないからだ.
しかし,そのような行商ポン菓子屋が商売する場所では,当然ながらモーターを回すための100ボルト交流電源がないし,また熱源のボンベ入りプロパンガスが普及したのは,1961年にゼネラル瓦斯がLPガスの輸入を開始した以降である.
ということは,昭和三十年頃,各地を巡回してポン菓子を行商していた業者のポン菓子機は吉村式ではなかったはずである.
吉村式ポン菓子機で行商するには,ポン菓子機本体の他にプロパンガスボンベとモーターのための発電機が必要で,これを運ぶためには軽トラックが要る.これでは子供相手の小銭商いの域を超えてしまう.
私がうっすらと覚えている行商のポン菓子屋の機械は,耐圧容器を調理用石油コンロ (今でもアウトドア用がある) で加熱し,これを手回しで回転させる仕組みだった.
読売新聞の記事《子どもたちへの愛情から生まれた「ポン菓子機」…食糧難の戦時下、旧家の「お嬢さん」は男装して北九州へ》[掲載日 2025年8月14日] によると,吉村式ポン菓子機の製造販売が軌道に乗ったのは1970年代のようだ.
このことからしても,戦後間もない頃に吉村式ポン菓子機を使う行商業者がいたと考えるのはかなり無理がある.
記事には《戦後の食糧難に見舞われる中で、「吉村式ポン菓子機」は「子どもたちがおいしいと喜んでくれる」と全国から注文が相次いだ》と書かれているが,これは私たち戦後すぐに生まれた世代の者からすると,事実とは思われない.
なぜなら戦後の食糧難の時期に,米は大変な貴重品だったからである.
例えば私の父と母は,食糧管理法で配給される食糧では飢えてしまうので,農村に買い出しに行き,給料をサトイモの茎,カボチャの蔓,フスマ団子に交換して食いつないだ.
米は高価で,少ししか買えなかった.そのため雑炊ばかりすすっていた私の母は栄養失調で失明寸前となったと,のちに子供の私に語った.
有名な話だが,東京区裁判所の山口良忠判事が闇米を口にするのを潔しとせずに飢えて倒れ,後に死亡したのは昭和二十二年のことである.
読売の記事には,続いて《配給の米を持って行くと、すすで顔を真っ黒にしたおじさんがポン菓子を作ってくれる光景は、日本のあちこちで見られた。手軽に店を始められ、復員兵の仕事にもなっていた。子どもたちの笑顔が何よりもうれしく、「ポン菓子とともに生きていこう」と心に決めた。》とあるが,ここまでくるとこれは完全にウソである.
家族が生きていく命綱である配給米を,ポン菓子にしてしまう子供がいるはずがない.
戦後の食糧難のとき一般国民は,米を粥よりも薄い雑炊にしてすするか,大根飯にカサ増しして食ったのである.
また吉村式ポン菓子機は米一升が一ロットである.貴重な米なのに,一ロットに必要な米が大量すぎる.そのため,吉村式ポン菓子機でポン菓子が作られたのは,食糧難を日本が脱したあとだと考えるのが妥当である.
さらには《すすで顔を真っ黒にしたおじさん》と吉村さんは言うが,なぜポン菓子を作るおじさんの顔は煤だらけなのだ.
耐圧容器を加熱する燃料は煤がでるものらしいが,それは低品質の石炭 (褐炭あるいは亜炭) しかない.
吉村式はプロパンガスを使う設計なのに,これはどういうことだ?
このように御年九十九歳になられた吉村利子さんの思い出話は矛盾だらけでツッコミどころ満載だ.
失礼ながら言えば,記憶の改変が起きている.
読売新聞の記事に書かれている資料によれば,吉村さんがポン菓子機の製造販売を始めたのは1960年代のことである.会社 (タチバナ菓子機) を設立したのは1970年頃である.
それがいつの間にか,彼女の記憶の中では戦後すぐのことになってしまっているのだ.
NHK《グレーテルのかまど としこさんのポン菓子》を視聴しているうちに,私は少し違和感を覚えた.
なんだか私の記憶と違うぞと.
そこでウェブを調べてみたら,読売新聞やら朝日新聞などのメディアが「戦後すぐに吉村利子さんが開発したポン菓子機が普及して,食糧難のなか,全国のあちこちでおなかをすかした子供たちに喜ばれた」という話が定説化していることを知った.
だが戦後すぐに生まれた世代の者として断言するが,これは事実と異なる.
ポン菓子の行商は,吉村式よりもっと小さい機械を使っていた.子供相手の商売には,吉村式は不適当だったのである.
それでは実際にはどんなポン菓子機が使われていたのか.
下の画像はWikipedia【ポン菓子】に掲載されている動画ページをスクリーンショットしたものだ.(引用不可なのでスクリーンショットで紹介する.興味あるかたは元の動画Puffed grain machine - 02.ogvを観て頂きたい)
この動画は中国海南島で撮影されたようで,米ではなくトウモロコシを膨化してポップコーンにしているシーンであるが,機械の規模としては吉村式より少量の穀物で済む.穀物張り込み量が少ない機種なら米一合くらいでポン菓子ができる.
熱源は炭で,耐圧容器を回転させるのにモーターは使わず,手回しだ.これくらいの機械ならリヤカーに積んで行商するに適している.
実はこの動画に登場するタイプのポン菓子機は,大小の規模のものがアマゾンで入手できる.(商品ページの例はここ)
吉村利子さんはこのポン菓子機を見て,吉村式に改良したとメディアに語っている.
さて,戦後間もない頃に子供たちが口にした駄菓子は,実はポン菓子よりも,ポン煎餅のほうだ.
Wikipedia【ポン菓子】には《膨化の製法による食品としては、他にも厚みのある丸い鉄の型に生米を入れ、型に蓋をして火であぶり数秒加圧し、蓋をはずして減圧することで煎餅状に膨らませる「ポン煎餅」というものもある》とだけ簡単に書かれている.
ポン煎餅はどんな道具で作るのかは,このブログに写真が掲載されているが,要するに手焼きでタイ焼きを焼く道具に似ている.
ポン煎餅の行商は,ポン菓子の行商より見かけることが多かった.
ポン煎餅の行商人がやって来ると,子供たちは子供用の茶碗に母親から少しの米をもらい,それをポン煎餅屋に焼いてもらう.
煎餅が焼けたら,一枚いくらで手数料を払う.駄菓子屋並みの小銭商売である.
ポン煎餅はフカフカしていて軽く,腹の足しには全然ならないが,戦後すぐの時期の子供たちは菓子というものに無縁だったから,子供たちはポン煎餅の行商がやって来るを楽しみにしていた.
しかしポン煎餅の行商もポン菓子の行商も,昭和三十年代に姿を消した.
七味唐辛子屋,べっこう飴屋,紙芝居屋も消えた.
納豆の行商も,鍋の修理屋もいつしかこなくなった.
行商の八百屋とか,かつぎ屋のおばあさんを見かけなくなったのも昭和三十年代のことであった.
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