傷痍軍人 /工事中
昨日掲載した記事《ポン菓子の記憶》に《ポン煎餅の行商もポン菓子の行商も,昭和三十年代に姿を消した.七味唐辛子屋,べっこう飴屋,紙芝居屋も消えた.納豆の行商も,鍋の修理屋もいつしかこなくなった.行商の八百屋とか,かつぎ屋のおばあさんを見かけなくなったのも昭和三十年代のことであった》と書いた.
私たちの生活の中にあった様々な事柄が昭和三十年代に消えてしまったが,その一つに「傷痍軍人」がある.
単なる字義であれば「傷」も「痍」も「きず」であるから,「傷痍軍人」は「負傷兵 (軍人)」を意味するように思われるが.実は違う.
戦闘で負傷しても,その傷が身体障害として残らなかった人は「傷痍軍人」とは呼ばない.癒えれば再び戦地に送られたからである.
もはや前線で戦闘を行えぬ兵士たちを「傷痍軍人」と呼んだのである.
「傷痍軍人」という言葉が生まれる前は,銃や爆弾で手足を失ったり失明などした兵を「廃兵」と呼んだが,国のために戦った者に対して「廃」では余りにも酷い言い様なので,兵の士気低下を防ぐために満州事変以降は「傷痍軍人」という言葉が使われるようになった.
戦時中,陸軍病院や海軍病院に収容されていた傷痍軍人は,戦後は傷痍軍人療養所に収容されたというが,一説に傷痍軍人の数は三十二万人余というから,ほとんどは療養所外で生きることを余儀なくされたと思われる.
戦後,この傷痍軍人たちが自ら国に生活保護を求める運動があり,また彼らが強いられた過酷な生活を救おうとする人々がいたが,これをGHQが厳しく阻んだ.
徹底的な「日本の非軍事化」を進めるにあたり,戦闘員であった傷痍軍人を一般の身体障碍者より優遇してはならぬとしたのである.
さらにGHQは,それまでの「恩給法」を廃止した.(1945年)
このGHQによる占領政策と,社会保障の無差別平等原則により,膨大な数の傷痍軍人たちは生活に困窮した.
止む無く一部の傷痍軍人は,白衣を着て軍帽を被り,街頭に立って募金を求めた.中にはハモニカなどの楽器を演奏して通行人の注意を引こうとする者もいた.
前橋市の商店街での街頭募金を見た記憶もあるが、私の幼い頃の記憶と今も鮮明なのは,家々を訪問して回る傷痍軍人の姿である.
傷痍軍人が家庭を訪問して寄付を募ったのは、昭和二十年代の当時,家庭の父親はすなわち元日本兵であったからである.
私の父は海軍で戦艦長門の乗組員だったが,肺結核を患ったために内地に戻り,終戦は新潟の海軍病院で迎えた.
海軍病院は国立病院となり,硬い毛布一枚をもらって退院し,群馬県の前橋刑務所で看守の職を得た.尋常小学校卒の最下級公務員であった.
私の家族は前橋刑務所の官舎 (木造の長屋で,筑豊の炭鉱労働者住宅に似ていた) に住み,貧しい暮らしをしていたが,何度か傷痍軍人が官舎の長屋を一軒一軒訪問し,募金を乞うのを見た.
募金を乞う者も,乞われる者も,元日本兵である.募金を求められれば否応もない.
私の父は,傷痍軍人に幾ばくかの金銭を施した.
しかし次第に、傷痍軍人の街頭募金を好ましく思わない雰囲気が世間に漂うようになった.
戦争で身体に障碍を負わなかった人々は、日本の経済的復興を始まると暮らし向きは向上した.
芋やカボチャで食いつないでいた国民は,雑炊やスイトンよりも,麦飯ではあったが炊いた飯を食えるようになった.
だが傷痍軍人はいつも白衣に軍帽という敗戦直後のままであった.
世間からすると傷痍軍人は敗戦の亡霊,歩く敗戦と思われたのである.
年末ともなれば家族揃って商店街に出かけて,買い物をして,夕ご飯にみんなでラーメンを食べたりする人々にとって,傷痍軍人はできれば見たくないものとなった.
しかし行政としては,傷痍軍人のことは,国家の戦争責任として,見て見ぬふりはできなかった.
そこで政府は,傷痍軍人を含む身体障碍者福祉全般の改善に努力した.
と同時に,傷痍軍人の街頭募金を取り締まることにした.
この政府の動きに,傷痍軍人の中からも募金を自粛しようとの声が上がった.
| 固定リンク
「新・雑事雑感」カテゴリの記事
- 自宅のネットワーク環境が老化したのかも(2025.11.13)
- ある大変に身分の高い女性が「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」と言った(2025.11.12)
- パソコンの袖って何?(2025.11.11)
- 中華PCの広告で珍しいことがあった(2025.11.09)
- 邪悪な女 vs ケダモノ(2025.11.08)

最近のコメント