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2025年8月 6日 (水)

太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり

 私が若い頃,自民党の派閥領袖たちには少なからぬ改憲論者がいたが,しかし彼らは日本国憲法の制定が「自主的」でなかった (GHQの占領政策によって作られたという意味) という点を問題にしていて,必ずしも戦前回帰を目指していたわけではなかった.
 その風向きが変わったのは安倍晋三内閣の長期政権の時代であった.
 安倍晋三は,日本国憲法が掲げた平和主義を嫌い,交戦権の復活を目指した.
 しかし国民世論は安倍に味方せず,安倍は途半ばで逝った.
 
 毎年行われる広島と長崎の平和式典は,我が国国民の平和主義の拠り所である.
 だから日本国憲法を激しく嫌う安倍晋三は,八月の平和式典に出席しても,心のこもらぬ十年一日の如き定型文を来賓挨拶として読み上げた.
 安倍の後継首相となった菅義偉は,安倍の式典挨拶も踏襲して,広島と長崎とで同じ挨拶文の使い回しをした.
 それに飽き足らず菅は,2021年の長崎市平和祈念式典に遅刻するという無礼を働いた.
 ただの遅刻ではない.
 菅は式典が始まる直前にトイレに行き,前立腺肥大のためか,牛のヨダレの如くキレの悪い小便をし続け,式典開始時刻が過ぎてようやく,菅を除く参列者全員が着席している中で,ああスッキリしたといわんばかりの顔で平然と戻ってきたのである.
 それだけではない.菅は挨拶原稿を途中で読み飛ばし,しかしそれに気づかなかった.(式典の後,読み飛ばしをしたのは,原稿のページがくっついていたためであると強弁したが,たとえ官僚が用意した原稿であっても,予め下読みしておけば読み飛ばしに気づいたはずだ)
 余りにも厚顔な菅義偉の式典侮辱行為をテレビ中継で目撃し,私はテレビ画面を凝視しつつ怒りに震えた.
 さらに,式典に遅刻したことをメディアに批判されると,秘書のスケジュール管理が下手だったためであると言い訳した.
 しかし問題は秘書のスケジュール管理ではなく,自分の尿意をちゃんとコントロールできない菅の膀胱である.
 
 次の岸田文雄首相の挨拶も官僚が用意した作文であった.
 それに比較すると,今日の石破首相の挨拶は優れていた.おそらく首相自ら推敲した原稿である.
 それはまず,首相が「核戦争のない世界」に加えて「核兵器のない世界」を目指すと述べたことでわかる.
 歴代首相は「核戦争のない世界」を目指すとはしてきたが,石破首相はこれを一歩進めて「核兵器のない世界」という目標を掲げたのである.
 このことは石破首相自身が原稿を推敲したことの証左である.官僚は挨拶文の作成を指示されてもこんなことはしないし,できない.
 もう一つは,挨拶文の末尾に引用した短歌である.
 朝日新聞《【石破首相あいさつ全文】核なき世界への主導、戦争被爆国の使命》[掲載日 2025年8月6日: から下に引用する.
 
「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。

 式典のテレビ中継を視聴していた国民はこの短歌引用にハッとしたに違いない.
 私たちは長年,安倍晋三の紋切り型挨拶ばかり聞いてきたからである.
 石破首相は,戦後八十年の区切りの今年に談話を発出する意欲を示しているが,党内反石破勢力がこれに抵抗している.
 彼らの抵抗のため,終戦記念日に談話を発出することは見送らざるを得なかった.
 関西テレビ《石破総理“戦後80年談話” 橋下氏「“安倍談話”国内向け責任抜けている 軍幹部など責任“出すべき”」》[掲載日 2025年8月6日] から下に引用する.
 
【橋下徹氏】「僕は出すんだったら出すべきだと思います。多くの保守家と言われる政治家はもう出すなと言ってるんです。安倍さんの『70年談話』で終わったと。
 戦争についてのいろんな評価があるけれども、日本の、特にアジアの国に対しての責任は『安倍談話』で終わっただろうというのが多くの保守政治家が言うことなんですが、僕は”国内向けの責任”っていうものが抜けてると思っているんですよ」
「特に軍の幹部、これはひどいことをやってるメンバーがたくさんいるんです。現場の兵士は命かけて必死に戦ってましたよ。軍幹部、それから政治家の幹部がひどいことをやってるのにそのまま生き延びて、何の責任も問われずに生き延びているわけなんですね。
 それが当時のメディアの風潮、それから国民も、僕は軍幹部だとか政治責任とか、それから天皇陛下の責任ということもよく語られるけども、当時のメディアとか国民の感情というものもどうだったのか。ここね、一切曖昧になって(戦後)80年来ている。
 僕は対外的な責任論は『安倍談話』で終わったとしても、国内に向けての責任について、もし石破さんが(談話を)出すんだったら出してほしい。石破さんそれっぽいこと言ってるから」

 私は橋下徹の意見に賛成だ.
 私は後期高齢者であるが,私たちの父親世代の旧日本兵たちが決して許さなかった軍人が数人いる.
 まず第一は,陸軍大学校卒業以後,全く実戦経験のないままに南方作戦の指揮を執り,特攻隊員を見送るときに「諸官だけを死なせはしない.最後の一機でこの富永も突入する.あとのことは心配なく,従容として神の座についていただきたい」と言って軍刀を振りかざした富永恭次中将である.
 富永はしかし「最後の一機で突入」どころか,戦況悪化に怯えて無断で台湾に逃げた.
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パブリックドメイン画像:Wikimedia Commons File:The Fourth Air Army Imperial Japanese Army.jpg;中央が富永恭次
 
 富永と似たような軍人に菅原道大中将がいる.菅原は「今回の挙に参した諸子の行動は崇高な軍人精神の発露であって,肉体に死して霊に行き,現在に死して未来に生き,個人に死して国家に生きるものである.我等もあとに継ぐであろう,安んじて征け」と特攻兵士を督戦しておきながら自分の特攻は回避し,戦後まで生き延びた.ただし菅原中将は,戦後に生き恥を晒しはしたが,富永ほど国民に蔑まれ憎まれはしなかった.詳しくは Wikipedia【菅原道大】を参照.
 
 次はインパール作戦 (Wikipedia【インパール作戦】) の牟田口廉也中将.牟田口は日本陸軍における最悪サイテーの指揮官として有名である.
 多くの部下を死なせておきながら,戦後は自分の指揮は正当であったと主張して国民の怒りを一身に浴びた.
 
 三人目は,沖縄戦における那覇からの敗走に多くの沖縄県民を巻き込んで死地に追いやった牛島満大将.
 沖縄戦における県民の犠牲の六割は那覇からの敗走によるものである.
 Wikipedia【牛島満】の現在の記述は全体的に牛島の人物像を過剰に美化しており,その中では下に引用する箇所がわずかに牛島批判を行っている.(Wikipedia【牛島満】における牛島の美化はいつのまにか進行した.戦後すぐの牛島評価を知っている私の世代からすると現在の記述には強い違和感を覚える)
 
特に自決前後の牛島の行動が批判されることが多い。まずは、戦闘の勝敗が明らかであった6月10日に、敵将バックナーから牛島に送られた降伏勧告(牛島が手にしたのは6月17日)を一笑に付して黙殺したことが挙げられる。これは日本軍の『戦陣訓』に象徴される伝統や、牛島の軍人としての自尊心、また、戦略持久という第32軍の作戦目的から鑑みると、到底受け入れられるものではなかったが、この降伏勧告の時点で既に第32軍の組織は崩壊していたため、6月19日以降、毎日の死者が4,000名を超えるようになるなど、結果的に犠牲が激増することとなった。また、自決前の牛島の命令の最後の一文が「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と降伏を否定するものだったことから、残存兵力の徹底抗戦に多くの沖縄住民が巻き込まれることとなり、戦後の沖縄県民の間には牛島に対し、今も厳しい見方がある。
 芸術家岡本太郎は、「とことんまで叩きつぶされていながら大日本帝国の軍人精神の虚勢に自らを縛り、自らのおかしたる惨憺たる無意味な破局を眺めながらついにさいごまでで虚栄のなかに反省もなく“帝国軍人らしく”自刃した。私は嫌悪に戦慄する。旧日本軍の救い難い愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱がここにコンデンス(凝縮)されている。」と、牛島を厳しく糾弾した。また、自らも鉄血勤皇隊として沖縄戦を経験した大田昌秀も、これを引用して牛島を非難している。
 
 もしもの話であるが,石破首相が戦後八十年談話を発出することがあれば (石破首相の意気込みは潰されるかも知れないと私は予想している),橋下徹が述べたように,現在も批判されるべき旧軍幹部について思うところを語って欲しいと思う.
 
(追記 8/9)
 裏ガネ問題のために表向きは解消したはずの旧安倍派が主導して,石破首相を葬るべく,自民党は臨時総裁選に向けて走り始めた.
 戦後八十年の石破談話発出を阻止し,また日米関税交渉に失敗した首相として石破の名を遺そうという彼らの結束と怨念に驚く.
 
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