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2025年8月 9日 (土)

テキストでは伝えきれぬものがある

 戦後八十年,被爆八十年,敗戦八十年,終戦八十年,国連創設八十年……様々な切り口で,オールド・メディアがこれを取り上げた.
 今年また巡り来たった沖縄戦の組織的戦闘終結の日から終戦記念日まで,NHKと民放は力の入った番組を制作したが,中でもフジテレビ《ザ!戦後80年の映像遺産SP 池上彰×加藤浩次の運命の転換点》[放送日時 2025年8月8日] は保存版と言っていい.
 映像資産の少ない民放でありながら,よくこれだけの番組を制作したものである.
 
 それから,広島テレビ《【戦後80年】沖縄戦の「白旗の少女」はいま…記憶をたどり写真をカラー化》[放送日 2025年7月9日] が,あの「白旗の少女」のカラー写真化に取り組んだことも記憶に残った.取材した広島テレビ庭田杏珠記者の慟哭に私も涙した.
「白旗の少女」こと比嘉富子さんの記録映像は昭和館 (東京都千代田区九段南) にある.(YouTube《昭和館 沖縄における日本の降伏 (2) 4:38/829》[掲載日 2022年5月9])
 
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パブリックドメイン画像「白旗の少女」:Wikimedia Commons File:The girl with the white flag, John Hendrickson.jpg
 
 涙といえば,《あさイチ》[放送日 2025年7月28日] の企画で俳優妻夫木聡が沖縄にロケし,宜野湾市の佐喜眞美術館を訪問して連作絵画「沖縄戦の図」を前に嗚咽するシーンが視聴者の感動を呼んだ.
 
 TBS NEWS DIG《沖縄戦を象徴する映像 7歳の「震える少女」…本人が語る平和への思い「初めて見るから怖いよ、青い目は…」》[掲載日 2025年5月30日] は,七歳の時に沖縄戦を体験した那覇市に住む浦崎末子さん (八十七歳) へのインタビューである.
 
「白旗の少女」「震える少女」と同じく敗戦の年に撮影された写真に「焼き場に立つ少年」がある.
 余りにも有名なこの写真は被爆直後に長崎を訪れたアメリカの写真家が撮影した.今年はNHKの朝のニュース (8/9) で背景に使われていた.
 
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パブリックドメイン画像「焼き場に立つ少年」:Wikimedia Commons File:Standing boy of Nagasaki 1945.jpg
 
 Wikipedia【焼き場に立つ少年】から下に引用する.
 
10歳くらいと思われる少年が、口を固く結びながらまっすぐに立っており、視線をまっすぐ前に向けている。少年は、目を閉じた幼児を背負っている。この幼児は少年の弟で、すでに息を引き取っており、少年は火葬の順番を待っているものとされる。
 被写体の少年の身元は、2023年現在も明らかになっていない。この写真が撮影された時期について、美術史研究家の吉岡栄二郎は、1945年 (昭和20年) 10月6日もしくは7日頃ではないか、と推定している
 
 この少年の身元については一つの推定意見とそれに反対する異議があり,それ故,現段階では不明とするのが妥当だろう.
 またポジは福島県会津若松市にある若松栄町教会にあり,毎年八月に公開されているという.
 当ブログ筆者は以前,野口英世が洗礼を受けたことで知られる若松栄町教会を訪問したことがあるが,ここに「焼き場に立つ少年」があることはその時には知らなかった.機会があれば夏に再訪したいものだ.
 
 先の戦争がどのように始まり,昭和二十年の八月に何がこの国に残ったか.
 オキナワ,ヒロシマ,ナガサキの様々な写真と記録映像をこの数ヶ月の間に私たちはオールド・メディアの努力によって再確認することができた.
 しかし,優れたオールド・メディアに触れようとしない情報弱者の人々は,戦後八十年,被爆八十年のこの年に,日本の核兵器保有と徴兵制復活を持論とする「さや」こと塩入清香議員を参議院に誕生させた.日本が核兵器を持つことを主張する国会議員の誕生は我が国の憲政史上初である.
 今年の長崎平和宣言で鈴木長崎市長は「長崎を最後の被爆地に」と訴えたが,残念ながら逆にいま,我が国の戦後平和運動は危機に瀕している.
 おそらく塩入清香は「沖縄戦の図」も「白旗の少女」も「震える少女」も「焼き場に立つ少年」もその目で正視したことがないに違いない.
 
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