おむすびの思い出
NHK朝ドラ《おむすび》が文春砲の標的となっている.
主演の橋本環奈さんの事務所は業界ではマイナーであるという.
事務所社長が彼女を守るために孤軍奮闘しているが,文藝春秋社 (週刊文春,同オンライン) と光文社 (SmartFLASH) のコンビに,東スポなどの有象無象ジャーナルが寄ってたかって攻めたら持ち応えられぬかも知れない.
それはともかく,朝ドラ《おむすび》よりも先に,NHK Eテレで2021年9月14日から《おむすびニッポン》が放送されている.
この番組は郷土色豊かな各地の「ご当地おむすび」を取り上げ,地元の人々に取材したおむすびのエピソードも取り上げている.
この《おむすびニッポン》という企画がなぜ登場したかというと,「おむすびブーム」がその理由だと思われる.
このブームについて,現代ビジネス《全国に「おにぎり専門店」が増加…「令和おにぎりブーム」を加速させた「米の“嗜好品”化」の背景》[掲載日 2023年10月15日] から下に引用する.
《全国各地でおにぎり専門店が増加し、2010年代半ば頃からじわじわと始まっていたおにぎりブームが加速している。コロナ禍でテイクアウト需要が高まったことも、加速するきっかけになった。
総務省の家計調査によれば、1世帯当たりの「おにぎり・その他」の年間消費支出額は2014年から増加傾向にあり、2021年は「調理パン」より多く買われている。いったいなぜ、古くから親しまれてきたおにぎりが、今になって流行しているのだろうか?
きっかけの一つは、2010年代半ばに家庭料理の世界で、斬新なおにぎりが流行したこと。その一つは、ぐるなび総研が選ぶ「今年の一皿」で2015年に選ばれた「おにぎらず」。その後、SNSが発信源となり、ゴロゴロと具材を混ぜ込んだ「ごちそうおにぎり」が流行した。》
若い人たちはとにかく「○○が流行している」とうわさ (含むSNS) に聞くと思考停止に陥り,女性同士あるいはカップルで流行発信源の店に列を作る.カラッポの頭では流行の他に考えることがないのだから無理もない.
「おにぎりブーム」の発端はたぶん東京のおにぎり専門の外食店「ぼんご」だったと思う.
この店の比較的高価格のおにぎり (註) を,テレビの各局が何度も取り上げ,学生やら無職の有象無象などが店の前に列を作ったのである.
(註) リクルートの調査によると,勤労者の昼食代の平均はおよそ五百円であるが,「ぼんご」でボリュームゾーンのお握り (三百五十円/個) を二つと味噌汁を食べると税別でほぼ千円である.ランチに千円を使える会社員層は経済的に余裕がある人達だといっていい.
いくら「おにぎりブーム」だといっても,毎日の昼食に「ぼんご」クラスの店に通えるわけがなく,そこで中食のお握り屋 (特にJRの駅ビルやエキナカ) が爆発的に増えた.
こうして,店舗は少ないが「おにぎりブーム」を牽引した外食のおにぎり専門店に加えて,比較的廉価なおにぎり専門中食店が増え,これに従来からのお馴染みコンビニおにぎり,スーパーのおにぎりというラインナップが出来上がった.
しかし忘れてはいけないのが,家庭で作る (自分で作る) おにぎりだ.
これこそが,《おむすびニッポン》が取り上げて紹介している郷土色豊かな各地の「ご当地おむすび」だ.
おにぎり専門中食店のおにぎり,コンビニのおにぎり,スーパーのおにぎりが実は,おにぎりの型に飯を詰め込んで作る「おにぎり風型押し飯」なのに対して,本来の「おむすび」すなわち「手で結ぶおにぎり」は日本の食文化の一つなのである.
ついでに言うと,「ぼんご」のような専門店の高価格なおにぎりには食文化が背景にない.とても美味しそうだが,あれは外食料理の一つであり,これからも私たちの生活文化とはならないだろう.
「生活文化としてのおにぎり」については,私には二つ思い出がある.
一つは,関西圏では定番の「おぼろ昆布のおにぎり」である.
その「ご当地おにぎり」を初めて食べたのは昭和四十七年の五月だった.
なぜ日時までおぼえているかというと,友人のN君と四国旅行に出る時に彼の自宅 (大阪府吹田市) に立ち寄ったのだが,その時に彼の母上が翌日の弁当にと作ってくれたのが「おぼろ昆布のおにぎり」だったからである.
その時のことを二十年余も前に《高円寺駅南口青春賦》と題した記事にした.以下にその一部《さらば青春篇》を再掲する.
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2002年4月16日
高円寺駅南口青春賦・さらば青春篇
高円寺の私のアパートは古い木造で玄関に三和土があり,そこで靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋まで行くという造作だった.
そして私以外の全員が半同棲状態と思われ,玄関を入って上がったところの床には女物のスリッパがたくさんあった.他の部屋の前を通りかかる時に,楽しそうな女の笑い声が聞こえることもあった.
私自身はその頃,彼女などいなかったし,また欲しいとも思わず,たまには女子学生と映画やコンサートに出かける事はあったものの,休みの日はほとんど部屋で読書に明け暮れていた.だがそんな生活が淋しくないわけではなかった.
その年の夏休みは二,三日しか帰省しなかった.私は既に就職が内々定しており,その会社から研究所でアルバイトをしてみないかと言われていたので,家庭教師の方の休みをもらった期間はそちらのバイトをしたのである.
夏休みが終わって学校の講義や卒業実験が再開したある日,夜遅くアパートに戻ってくると,扉に電報が貼り付けてあった.それは田舎の父からで,母親が危篤だという知らせだった.
翌朝,財布だけ持って私は上野駅に急いだ.
郷里の駅で下車し,実家に着いてみると鍵がかかっていて,誰もいないようだった.
親しくしていた隣家を訪ねると,伝言が書かれている一枚の紙を渡してくれた.
父から聞いていなかったのだが,母はそれまで入院していた市立病院から,やはり市内にある大学病院に転院していたようで,そこにすぐ向かうようにと書かれていた.大学病院への道筋がよく分からないので,いったん駅に戻り,そこからタクシーに乗った.
大学病院の受付で母の病室のある棟を教えてもらい,病室に入ると父と姉がベッドの脇に立っていた.私も静かに二人の横に立った.
医師は何も語ろうとはせず時々脈をはかり,父も姉も私も,無言のまま長い時間が経過した.
夏に帰宅した折りに姉から,母の病状が思わしくないことは知らされていた.だがこんなに早く死期が迫るとは思ってもいなかった.
そんなことをぼんやりと考えながら,ふと気が付くと医師が看護婦に何か言い,注射の用意をさせていた.彼は,私が見たこともないくらい長い針を注射器に装着し,それを母の心臓の辺りに深々と,ゆっくりと刺し込んだ.それから心臓マッサージを始めた.随分と長時間,それを続けたように思えたのだが,実際はどれほどの時間だったのだろう.やがてマッサージを止め,医師は父に母の臨終と死亡時刻を告げた.
人の記憶というのは頼りにならないものだ.三十年以上も経つと細部は曖昧になってしまっているが,葬儀の日がとても暑かった事は今も覚えている.
秋が来た.ある日,近くのスーパーへ食料を買い出しに行くと,その外で男が何やら売っていた.男の前には箱が置いてあり,その中で人の親指ほどの小さなものがたくさんゴソゴソと動いていた.
男の後ろの壁に貼ってある紙片を読むと,それはハムスターというものらしかった.
たしか一匹二百円ではなかったか.茶色と,白茶ブチのがいて,私がブチのを一匹くれと言うと男はそいつをボール紙の箱に入れてくれた.ネズミみたいなもんだから囓られないようなものに入れて飼うようにと教えてくれた.
部屋に戻り,何か適当なものはないかと探したが,結局小さいポリバケツで飼うことにした.
そいつはヒマワリの種を好んだが,雑食で野菜等も食い,そしてみるみる大きくなった.よく分からないが,たぶん雌のようだった.
彼女はどうも夜行性のようで,私の相棒に格好の生き物だった.私の部屋にはほとんど家具らしいものがなかったから,ポリバケツから出し,そこら辺で遊ばせておいても,何処かに潜りこんで行方不明になることはなかった.
そして私が布団に腹這いになって本を読んでいる時など,稲荷寿司ほどの大きさの彼女が視界の端で身繕いなどしていると妙に心和むようで,こうして私と彼女の同棲が始まった.
ところでN君の下宿には,私と同じ大学のO君という人がいた.
私とN君,O君は,中野の桐和寮で知り合った仲間だった.
私とN君とO君の三人はよく連れだって酒をのんだ.部屋で飲み,居酒屋で飲み,少し金のある時には当時「コンパ」と呼ばれていたパブにも行った.
私がハムスターと一緒に暮らし始めた頃だと思うが,その三人で高円寺南口商店街の通りから少し入ったところにあるスナックバーに行くようになった.そこのマスターは学生のバイトで,私達より年上だったが四年生のまま留年しており,同学年なので気が合ったからである.彼は廃校になることが決まっていた東京教育大の学生だった.
その店には女の子が二人いて,そのうちの一人はマスターの恋人だった.昼間は吉祥寺のデパートに勤めているといっていた.
私達三人がある夜そのスナックに行くと,彼女が「すごくいい曲があるの.聞いてみる?」と言った.そのレコードを聞いてみると,アップテンポのなかなかいいメロディだった.
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
‥‥‥‥
少女よ 泣くのはおやめ
風も木も川も土も みんなみんな 戯れの口笛をふく
「すごくいい歌だね.歌詞が詩のようだ」
そう言うと,彼女は嬉しそうに微笑んだ.
「この歌はね,さらば青春.歌ってるのは小椋佳っていう人なの.作詞も作曲も.でもジャケットに自分の写真は載せないんだって.だからどんな顔なのかわかんない」
私達はその晩,何度も何度も『さらば青春』を歌い,そして二番までしかない短い歌詞を暗記してしまった.
そのスナックのある細い通りには,ビリヤード場もあった.私とN君,O君の三人は,それまで三人とも一度も玉撞きをしたことがなかったのだが,ある日おそるおそる,その撞球場に入ってみた.
店の主人は,アパートの近くの飲み屋の老婦人よりも少し年下かと思われる上品な女性で,いつも和服を着ていた.
私達が全くの初心者であると知ると,その女主人は四ツ玉の撞き方を丁寧に教えてくれた.数時間後には,私達はもの凄い下手くそであるが一応は撞けるようになり,そしてそれ以来,玉撞きにハマってしまった.三人一緒に,週に一度くらいは通ったように思う.
誰か一人金がないと,あとの二人が「俺達が料金を払うから行こうぜ」と言って撞きに行ったから,かなりの熱中具合だった.
母の死後,なんとなく気持ちに空洞ができたような私には,先生役の女主人が優しい人だったからということもあったように思う.
しかしこんな具合に遊んでばかりいたわけではなく,私達は各自それぞれの勉強もちゃんとしてはいたのだ.年末には,文科系系学部のN君とO君は既に卒論を書き上げ,私は卒業実験がほぼ終わって,あとは論文にして提出すればよいところまできていた.
私は家庭教師のアルバイトを十二月一杯でやめ,年の暮れはヒマ を持て余した.いよいよ押し詰まった三十日は徹夜で麻雀をして,そのあとN君等とボーリングをやりに行き,眠気で意識朦朧として皆やたらガーターばかり出し,全員酷い二桁スコアだったので大笑いをして,それから部屋に帰って眠った.
大晦日の夜に起きると今度は三人で例によって玉を撞きに行った.撞球場の女主人が,今夜は特別に深夜まで撞いていてもいいと言ってくれたので,私達は明け方近く疲れるまで玉を撞き,そして壁際に置かれたソファで仮眠をとった.
朝起きると,親切な女主人が汁粉を作ってご馳走してくれた.
お汁粉で腹ごしらえしてから私達は初詣のハシゴに行くことにした.
新宿の花園神社,神田明神,湯島天神,浅草寺をまわった.浅草で友人達と別れて,私は上野駅に行き高崎線に乗った.元旦の電車は空いていた.
四年前の春,上京して大学に入るとすぐ全学ストライキになった.
校舎にバリケードを築き,何日もその中で寝た.
学生同士の対立があり,殴り合い,石を投げた.
運よく怪我はしなかった.
N君は新宿で機動隊に逮捕され,暫く留置場にいた.
桐和寮時代の彼の友人たちは,N君の救援隊を作って差し入れに入った.
慌ただしく時間が過ぎて行き,色んなことがあった長い休暇のような日々の終わりは,もうすぐそこにきていた.
正月休みが終わり,また高円寺に戻った私達はいつものスナックに行った.マスターが店を辞めると聞いたからだ.
「いつまでもこんな商売やってられないからね.卒論を提出して卒業することにした」
卒業してどうするのか訊ねると,田舎に帰って教師の口を探すとマスターは言った.彼の恋人の娘は,一緒に付いていくと言った.
私達は,いつもはサントリー白札しか飲まなかったのに,彼らの前途を祝して角瓶を一本出してもらい,『さらば青春』を歌い,明け方まで飲んだ.
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
僕は呼びかけはしない 傍らを行くものさえ
ぼろ雑巾のように疲れ,よろよろと店のドアを開けて外にでると高円寺駅南口商店街の方角が薄明るくなっていた.昭和四十七年の一月の,寒い朝だった.
やがて二月になるとN君もO君も帰省して,私もアパートを引き払う日が近づいてきた.
ある朝,ポリバケツの中を覗いてみると,ハムスターが元気なくうずくまっていた.なんとなく震えているように見えた.手のひらに乗せてみると,両目は目ヤニでふさがり,明らかに病気だった.
暖房は炬燵しかない寒い部屋だったから,風邪を引かせてしまったのだろう.
彼女を炬燵布団の端に置いて暖め,ずっと見守っていたのだが,その日のうちに死んでしまった.冷たくなった彼女は,かちかちのただの塊になっていた.
私は部屋を出て,アパートの建家と塀の隙間の狭いところに穴を掘って彼女を埋めた.そして部屋に戻って,引っ越しの支度に取りかかった.
その年の五月の連休の時に,N君と再会した.彼は就職した会社が嫌になっていて,新宿の深夜喫茶でその話を聞いた.朝になり,新宿駅まで歩きながら,どちらからともなく旅に出ようという話になった.
金の持ち合わせがあまりなかったので,安い「四国金比羅参り」の周遊券を買い,その足で大阪へ行った.
大阪の彼の実家で夜まで寝させてもらった.彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた.それを持ってその夜,大阪から船に乗り,神戸沖を通過して明け方,高松に着いた.
金比羅宮に着いて,だらだらとした石段を昇って行くと,途中に広場がある.そこで私達は握り飯を食い,ベンチに横になって,昼まで眠った.目がさめた時に,彼は会社を辞める決心をしていた.やっぱり,自分のしたい仕事に就きたいのだとN君は言った.
そして私たちは参道を下り,N君は参道の下の公衆電話から,今日で辞めると会社に連絡した.
そんな事があってから数年後,大阪に戻っていたN君から電話があった.それはO君の訃報だった.新潮社に就職し,週刊新潮の記者になったO君は, 睡眠不足ででもあったのか,取材の帰りに高速道路の分離帯に激突横転して即死したらしかった.
N君の話を呆然と聞きながら,私は高円寺の南口で過ごした,あの頃の日々を思い浮かべた.呼びかけても遠く過ぎ去る者達のことを.
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上の文中に《彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた》とあるその握り飯が「おぼろ昆布のおにぎり」だったのである.
良質の昆布は北海道で採れるが,昆布の食文化は関西圏とりわけ大阪が中心であった.
群馬県生まれで,東京で学生生活を過ごした私は,おぼろ昆布を巻いたおにぎりをその時初めて食べて,これはおいしいと思った.
おぼろ昆布は巻き寿司にも使われ,これもおいしいものだが,東京近辺の持ち帰り寿司店や回転鮨ではほとんど見かけないのが残念だ.
さておにぎりにまつわる思い出の二つ目は,私がまだ若い会社員だった頃のこと.
私の親しい先輩社員で,社長のパワハラを受けていた人がいた.社長は嶋雅二という男だった.
私の目から見ればその先輩はごく普通のひとだったのだが,ワンマン社長という人種は「気に入らない」という理由だけで社員をいじめることができるのであった.
その先輩社員が四十歳過ぎの頃だったか,人事課長が彼に「取引会社の○○から君にぜひ来て欲しいというヘッドハンティングがきている」と持ち掛けた.
しかし事実は,その取引先に「うちの社員を一人引き取ってくれないか」と人事部が要請したのであった.
先輩社員はヘッドハンティングされたと思い込んでその取引会社に転籍したが,転籍してから事実を先方の社長から聞いた.
そういう事情だから転籍先での居心地はわるかった.というか,冷遇された.
あとで先輩に偶々会った時に「俺は嶋に騙された」と彼は私にしみじみと述懐した.そして「君も嶋に憎まれているから気を付けたほうがいいよ」と語った.
それから暫くして,不遇の彼に悲しい不幸が起きた.息子さんが亡くなったのである.
私はその葬儀に出席したのだが,昔の事なので先輩の家が滋賀県のどこだったか,忘れてしまった.たしか琵琶湖の西であったと思う.
記憶しているのは,葬儀に訪れた客に握り飯が振舞われたことである.
喪主の身内の女性たちが炊き出しのように忙しく立ち働いて,四角の盆に握り飯を作って並べていく.具を入れず海苔も巻かない塩むすびだった.それを葬儀の客たちは頂くのである.
私は配られた握り飯を食べながら,喪主のお身内と思われる葬儀の手伝いをしていた女性に訊ねたら,握り飯を振舞うのは昔からの慣わしだとのことであった.
私が勤め先を退職して年金暮しになったとき,その葬儀の時の握り飯のことをフト思い出し,滋賀県における葬儀の際の食事に関する風習をウェブで検索してみた.
しかし何もヒットしなかった.おそらく非常に限られた地域の風習なのだろう.
先日,朝ドラ《おむすび》と《おむすびニッポン》のコラボ企画番組を視聴したら,朝ドラは広里貴子さんというかたが料理指導をしているとのことで,広里さんが実際におむすび作りを実演した.いかにも家庭で作られているコロンとしたおにぎりだった.
惣菜工場で製造されているコンビニおにぎりは,比較的大きな回転寿司の厨房で使用されている卓上型「すしロボット」(テレビ番組の映像でよく知られている) と同じ動作原理の「おにぎりロボット」で作られる.
このロボットは,食品業界人にはお馴染みの機械であるが食品産業器械の展示会に行けば一般の人でも見ることができる.
また小型の店舗用卓上型「おにぎりロボット」もあり,例えばこんなの.
さて,コンビニおにぎりなどのロボットで製造したおにぎりと,手で結んだおにぎりとでは,形状に大きな違いがある.
ロボットで製造したおにぎりは縁 (フチ) が角張っているが,手で結んだおにぎりは縁が丸みをおびているのだ.
ちなみに食品スーパーのバックヤードでは,通常は型押しでおにぎりを作るが,これだと縁に角ができるので,手作り感を演出するために一手間かけて手で結んで縁に丸みをつけることもある.
さて家庭で手で結んだおにぎりは,市販の中食のおにぎりよりもかなり厚みがある.
コンビニやスーパーの場合のおにぎりは,ロボットでも型押しでも,三角型でも円型でも表裏の平面側から圧力をかけるから,どうしても平べったくなる.
これに対して手で結んだおにぎりは,周縁側からも圧力を加えるから,平べったくなりにくい.だから立てても倒れない.
ちょっと厚みのあるコロンとして形で,これがいかにも手作りというおにぎりだ.
私が《高円寺駅南口青春賦・さらば青春篇》に書いた,友人N君の母上が作ってくれた「おぼろ昆布のおにぎり」も,滋賀の葬儀で振舞われた塩むすびも,今でも覚えているが,厚みがあって温かみの感じられるおにぎりだった.
私は,自分で作るおにぎりは厚みのある形にする.炊き立てのご飯で作るなら,これが一番おいしいと思う.
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