雁風呂の屏風絵と古歌
昨日,Eテレの《日本の話芸》で,桂文珍の「雁風呂」を聴いた.
番組宣伝サイトから下に引用する.
《桂文珍 落語「雁風呂」
初回放送日:2024年10月20日
桂文珍さんの落語「雁風呂」(がんぶろ)をお送りします(令和6年9月5日(木)NHK大阪ホールで収録)【あらすじ】水戸黄門が旅の道中、訪れた掛川宿の飯屋で「松」に「雁」の絵が描いてある屏風(びょうぶ)を見つけた。土佐将監光信の作とは分かったが、松には鶴を描くものでは…と不思議に思っていると、そこへやってきた二人連れの商人が「これは光信の『雁風呂』だ」と話している。黄門様が商人に絵解きを依頼すると…。》
「雁風呂」という噺は,元々は上方の講釈ネタであった.
それを落語に仕立てたのが誰かはわからないが,文珍の自演解説によると,近年では米朝が演った噺だとのことである.
この噺には大阪の商人と水戸黄門が登場するので,大阪弁と関東の言葉を両方ともできると好都合である.
それで,大阪生まれで東京生活もしたことから東西の落語に精通した二代目桂三木助の持ちネタになった.
三木助と同じく大阪生まれで江戸落語の大名人と謳われた六代目三遊亭圓生は,三木助から「雁風呂」を教えられたと圓生本人が語っている.
文珍の「雁風呂」を聴いているうちに思い出したのだが,私は中学生の頃だったかに圓生の「雁風呂」をラジオで聴いた記憶がある.
しかしそれ以来ずっとこの噺を聴いたことがないので,内容を半分を忘れてしまっている.
文珍オリジナルのくすぐりを入れた「雁風呂」はおもしろかったが,三木助/圓生の元の噺がどんなだったか気になったのでウェブを検索したら,圓生の噺がYouTubeにアップされていた.
比較してみると,古典落語としての完成度は圓生に軍配をあげるが,サゲのわすりやすさとくすぐりの秀逸さでは文珍だと思う.
さらには圓生の噺には,渡りの途中で雁と燕がすれ違うというくだりがあるところを見ると,元々は熟語「燕雁代飛」あるいは「雁去燕来」,「燕の便り雁の文」などの解説をも中に入れていたのではないかと思われる.
しかし,これらの雁と燕のことを噺に入れ込むとかなり教養の高い高級なお話になってしまうので,それは省いたのではないかと想像される.
さて,元々「雁風呂」は津軽地方の伝説であるとWikipedia【雁風呂】に書かれている.
その箇所を下に引用する.
《青森県には「雁風呂」「雁供養」という伝説が伝わるとされていた。
月の夜、雁は木の枝を口に咥えて北国から渡ってきて、飛び疲れると波間に枝を浮かべ、その上に停まって羽根を休める。そうやって津軽の浜までたどり着くと、要らなくなった枝を浜辺に落とす。日本で冬を過ごした雁は早春の頃、浜の枝を拾って北国に戻って行く。雁が去ったあとの浜辺には、生きて帰れなかった雁の数だけ枝が残っている。浜の人たちは、その枝を集めて風呂を焚き、不運な雁たちの供養をしたという。
木片を落とす場所は、函館の一つ松付近という説と津軽の海岸という説が見受けられる。該当する地方に雁風呂の風習がいつ頃からあったのか、そもそもそういった風習が存在したのかという疑問の声もある。2012年、青森県立図書館の調査により、上記の伝説は1974年のテレビCMで広まったものであり、青森県内で伝承されたものではないと判明した。また、伝説の基となった物語は四時堂其諺『滑稽雑談』(1713年(正徳3年)成立)巻16に収められているが、日本ではなく他国の島での話として収められた物語と判明した。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
《2012年、青森県立図書館の調査により》と上にあるが,Wikipedia【雁風呂】に記載されているこの資料は,残念ながら現在はリンク切れになっている.
しかし《上記の伝説は1974年のテレビCM》は判明している.YouTube《1974年CM サントリー サントリーウイスキー角瓶 雁風呂 山口瞳 ACCグランプリ》である.
そこでさらに検索を進めると,リンク切れになっている青森県図書館の資料「県立図書館だより 平成24年2月 青森県立図書館報 第12」はすぐ見つかった.その中の《こんなレファレンスがありました (第12回)》は,実は「雁風呂」伝説は津軽どころか青森県内に言い伝えられてきた事実はないとの調査結果を記している.
図書館職員は文献検索のプロだ.それが「雁風呂」は青森県の伝説ではないと断定するのだからそれが正しいだろう.
その上でこの図書館員は仮説を述べているので,それを下に引用する.
《では、津軽の伝説・民話とされているのはどうしてなのでしょう。
『津軽の伝説1』(北方新社)で、著者の坂本吉加さんは、CMを見て、はじめて「外ケ浜」を舞台としたこの伝説があることを知った。 調査をしたが、青森県内では伝承されていない。唯一書かれているのは、『青森の伝説』の森山泰太郎さんの一文であるとしており、その中で森山さんは、「~外が浜のどの村で、いつごろから伝えられたものか明らかでなく、しょせんは都びとの文芸的空想から生まれた話であろう。」と書いています。
はたして本当に、陸奥から遠く離れた京の都でこの伝説は生まれたのでしょうか。
『津軽の伝説1』で坂本さんは、調査の結果として「雁風呂」の記述がある古文書を二作品挙げて解説しています。それによると「雁風呂」の話を初めて記録したのは京の豪商「万屋」という商家の主であり、随筆家の「百井塘雨」が書いた『笈埃随筆』だろうか、としています。作品の成立年(いつ書かれたものか)は不明とされていますが、百井塘雨の没年は寛政6(1794)年となっています。この随筆では「南部津軽口」「奥南部」と記述があり津軽を連想させますが、断定はできません。
もう一つは、南方熊楠が「常世国について」という論考で取り上げ、「~俗に外ヶ浜の雁風呂湯と言う、と見ゆ。」と記述している『採薬使記』の「雁風呂」が、津軽の地名を確認できた最初の史料であるとしています。『採薬使記』の成立は宝暦8(1758)年で、江戸の人、阿部照任、松井重康の撰です。
都びとや江戸の人が書き記したにしても「南部津軽口」「奥南部」、「外ヶ浜」とある以上「~しょせんは都びとの文芸的空想から生まれた話~」と片付けてしまうのは釈然としません。
そこで、「雁風呂・雁供養」が江戸期には俳句の季語として使われていることから、様々な事物を取り上げた書物によって、広く庶民に知られていたのではないかと調査したところ、『滑稽雑談』四時堂其諺著 の巻之十六の二四が「雁風呂 落雁木」の項目となっており、以下のような記述がありました。
「或説伝、越國の海嶋にて、鴈の社渡る時、鴈の街たる牧木を落とす所侍る、海島の社
是を拾ひて、風呂をたくの薪とす、故に是を鴈風呂と伝よしいへり。」
この書の成立は正徳3(1713)年で、作者の四時堂其諺は京都安養寺正阿弥の住僧です。
「南部津軽口」「奥南部」、「外ヶ浜」どころか「越國の海嶋」とありますので、他国の海に浮かぶ島の話として伝わっているということになります。
以上のことから、「雁風呂、雁供養」は津軽・外が浜に独自に伝わる話ではなく、遠いみちのくの地に思いを寄せた都びとが文芸的な脚色をし、その話が後世に伝えられたものと考えて良いようです。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
上に引用した《こんなレファレンスがありました (第12回)》中にある《『滑稽雑談』四時堂其諺著》は俳句歳時記である.
また《越國》は「こしのくに」と読み,古代,本州の日本海沿岸域の敦賀湾から津軽半島までを包括する広域地名だった.
律令期以降は越前・加賀・能登・越中・越後・出羽の六ヶ国を指した.一般には若狭と佐渡は含まないが,ブリタニカ国際大百科事典のみ佐渡を含むとしている.
では《越國の海嶋》はどこなのだろう.正徳三年 (江戸時代中期) に書かれた歳時記なのだから例えば「能登の海嶋」(現在の能登島)とか書けばよかりそうなものだが,何ゆえにわざわざ古代の地名を用いて《越國の海嶋》などと勿体ぶった言いかたをしたのか.
これは気象予報士がテレビで「明日の都内の降水確率は……」と「明日の江戸八百八町の降水確率は……」と述べるようなものである.
まことにたわけた坊主だ.
また,佐渡は佐渡であって越後ではないが,四時堂其諺が無知丸出しで「越後の海嶋」とでもしてくれれば後世の読者は「佐渡は越後ではないが,四時堂其諺は佐渡は越後の島だと思い違いをしているのだな」と推測ができる.
それを《越國の海嶋》としたのは,要するに四時堂其諺は雁の渡りについて知識がなかったからだとしか思われない.
たぶん京都の寺に引きこもったままの書斎派坊主が,伝聞にすぎぬことを曖昧に書いて,知ったかぶりを読者に悟られぬように拡散wしたのだろう.
人間による雁越冬地の環境破壊だとか,気候の温暖化などがあって,雁の渡りルートに変化が見られると専門家が報告しているが,江戸時代には雁の渡りルートはそれほど変化しなかったと思われる.
これは私の推測だが,歳時記《滑稽雑談》に「雁風呂」が掲載されたのを契機に,北陸からみちのくに至る各地の俳人によって,「雁風呂」を季語とするたくさんの句が作られただろう.
そしてそれらの句作を通じて,雁 (マガン,カリガネ,ヒシクイなどのマガン類),黒雁 (コクガン) などの渡りの様子が明らかにされたのだろう.
当時の俳人たちは雁や黒雁の繁殖地 (シベリアやカムチャッカ半島) がどこかは知る由もなかったに違いないが,雁類はいずれの地か北方を飛び立ち,現在の地名の青森県や秋田県を経て最大の越冬地である現宮城県の湖沼に飛来することが,江戸期の俳人たちの句作によって人々に知られるところとなった.
その一部は日本海沿岸を下って同様に現新潟県,石川県,福井県,鳥取県,島根県にまで南下した.また茨城県の霞ヶ浦にも飛来した.
そして黒雁の飛来地の北限が現在の函館市周辺であることも俳人たちに知られるに至り,俳句の世界の中で「雁風呂」伝説が成立したのだろうと私は考える.
従って「雁風呂」伝説の本来の形は,
[参考資料:ガン類渡来地目録第1版 (1994),日本におけるガン類渡来地の現状]
青森県図書館による調査によれば「雁風呂」は民間の伝承伝説ではない.しかし《遠いみちのくの地に思いを寄せた都びとが文芸的な脚色をし、その話が後世に伝えられた》のでもないだろう.
「雁風呂」伝説は,雁の渡りを見たこともない京都の寺の坊主が空想逞しく拵えた話ではなく,多くの俳人たちの自然観察と写生句によって成立したに違いないと私は考える.
ところで,落語「雁風呂」には,「雁風呂」を題材にした土佐光信作の屏風絵と,紀貫之の和歌「秋は来て春帰り行く雁の羽交やすめぬ函館の松」がでてくる.(この和歌では雁は「かりがね」と読む)
この二つは実在するのか.
光信の屏風絵については,私の他にも調べたひとがいるが,ウェブ上には画像が発見されていない.
また貫之の古歌もウェブ上には見当たらない.検索してヒットするのは落語「雁風呂」のことばかりである.それにこの和歌は,単に散文を五七五七七の形に仕立てただけで興趣に乏しく,実在が疑わしい.
落語の「雁風呂」は大阪の講釈師が演じた (拵えた) 話が元になっていると圓生が述べているが,講釈本 (水戸黄門記雁風呂由来) に登場する画家は光信ではなく,貫之作とされる和歌も講釈本の版により異なり,さらには落語のそれとも異なって色々だ.
しかも和歌に「函館の松」とあるが,函館は江戸時代には箱館といい,箱館という地名は室町時代にできたとされる.
すなわち現在の箱館あたりは,平安時代には名もない未開の地だったわけで,それなのに「函館の松」が紀貫之の歌に出てくるはずがない.
従って光信の屏風絵も貫之の和歌も,上方の講釈師や噺家の創作だろうと思われる.

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