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2024年10月16日 (水)

青春の蹉跌

 先日放送されたNHK《先人たちの底力 知恵泉》は《人生はやりなおせる!ツッパリ貴族 藤原隆家》[初回放送日:2024年10月8日] と題して,藤原隆家を取り上げた.
 番宣サイトから下に引用する.
 
目に余る粗暴な振る舞いから「さがな者」と呼ばれた藤原隆家。1年間の配流先での暮らしを経て京に帰還してからは与えられた仕事をこなして人々の信頼を得る。さらに赴任先の九州では大陸から襲来した武装船団に対し土地の荒くれ者を率いて奮戦。その裏にはあるメンターの存在があった。人生はいつだってやり直せる!
 
 NHKは,紫式部をモデルにした大河ドラマを盛り上げるべく,他の番組でもやたらに平安時代をテーマに企画している.
人生はやりなおせる!ツッパリ貴族 藤原隆家》もその一つ.
 藤原隆家は「長徳の変」の立役者である.Wikipedia【長徳の変】から下に引用する.
 
経緯
 道隆の嫡男である藤原伊周は、故太政大臣藤原為光の娘三の君に通っていた。長徳2年(996年)頃、花山法皇が三の君と同じ屋敷に住む四の君に通いだした(三の君と四の君は、かつて花山法皇が天皇在位中に寵愛した女御藤原忯子の妹にあたる)。ところが、伊周はそれを自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は長徳2年1月16日(996年2月7日)、『大鏡』によると、従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた。更に『三条西家重書古文書』が引く『野略抄』(『小右記』の逸文)では、花山法皇の従者の童子二人を殺害しその首を持ち去ったと記されている。
 花山法皇は、出家の身での女通いが露見する体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていた。しかしこの事件の噂が広がり、これを政敵の藤原道長に利用される形となり、先ず隆家が4月に出雲権守に左遷された。伊周は勅命によるもの以外は禁止されている呪術である大元帥法を密かに行ったとして、大宰権帥に左遷された。どちらも実質的な配流である。その他中関白家に連なる面々が連座して処断され、また姉弟であった一条天皇皇后定子の落飾の遠因ともなった。
 翌年から数年後には許され都に戻されているが、これ以降伊周ら中関白家が道長に政治的に勝つことは無かった。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 長徳の変のきっかけとなったのは,上の記述にあるように,隆家が花山法王の牛車に向かって弓を引き《法皇の衣の袖を弓で射抜いた》事件だが,これを番組では「花山法王奉射事件」と述べた.[資料:浜口俊裕《花山法皇奉射事件》『東洋研究』第94号 (平成2年2月28日発行)]
 学術分野ではこの事件をそう呼ぶようだが,花山法王襲撃事件とか花山院闘乱事件などと呼ぶこともある.
 上の引用文中では明確でないが,番組放送では隆家自身が弓を射たようなイメージの描写がなされていたが,従者が射たとする学術資料がある.
 隆家は貴族でありながら武闘派であったらしく,後に九州に女真族が襲来した「刀伊の入寇」(Wikipedia【刀伊の入寇】) では太宰権帥として戦闘の最前線で奮闘したという.この武闘派イメージをNHK《先人たちの底力 知恵泉》では歪曲して映像化したものであろう.
 傍若無人の振る舞いが多かった隆家が出雲に配流されたことを,番組《人生はやりなおせる!ツッパリ貴族 藤原隆家》では,下の画像にあるように,「青春の蹉跌」と表現した.
 さて本稿の話題は隆家のことではなく,この「青春の蹉跌」という言葉である.
 
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『青春の蹉跌』は,Wikipedia【青春の蹉跌】に次のように書かれている.
 
『青春の蹉跌』(せいしゅんのさてつ)は、石川達三の中編小説。またそれを原作とし神代辰巳が監督した日本映画である。
 概要
 1968年4月から9月まで『毎日新聞』に連載され、同年に新潮社から単行本化されると、ベストセラーとなった。のち新潮文庫版が刊行され、「新潮文庫の100冊」にも入って長く読み継がれた。「蹉跌」というのは「つまずく」ということから「物事がうまく進まず、 しくじること。挫折」を意味する。
 セオドア・ドライサーの『アメリカの悲劇(英語版)』に似ていると言われるが、1966年に佐賀県の天山で起きた事件をモデルとしたとされる。
 70年安保終焉の虚無感、青春の情熱、孤独、焦燥を描いている》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 私が大学に入って上京したのは昭和四十三年 (1968年) だった.
 学生寮に入ったので,自分個人で新聞を契約購読はしなかった.
 だから『青春の蹉跌』の毎日新聞連載時には,たぶん喫茶店とかで読んでいたのだろう.
 そのため連載途中の読み落としがあったので,連載終了と同時に新潮社から単行本が出た時に買って通読した.
 上に引用したWikipedia【青春の蹉跌】には《1968年4月から9月まで『毎日新聞』に連載され》とあるが,アマゾンに出品されている単行本 (古書出品) の商品ページの書誌事項には
 
 登録情報
 出版社 ‏ : ‎ 新潮社 (1968/9/1)
 発売日 ‏ : ‎ 1968/9/1
 言語 ‏ : ‎ 日本語
 単行本 ‏ : ‎ 249ページ
 ISBN-10 ‏ : ‎ 4103013060
 
 と記載されている.
 しかし古書現物の奥付を見ると刊行日は1968年9月10日と書かれているから,アマゾンの登録情報は誤りである.
 また,毎日新聞の縮刷版は調べていないので,連載終了日が9月の何日だったかはよくわからない.というかWikipedia【青春の蹉跌】にある《9月まで》連載されたという説明が正しいかも不明である.(新聞縮刷版を調べる気力がないのは御容赦下され)
 
 また,Wikipedia【青春の蹉跌】の記述《70年安保終焉の虚無感、青春の情熱、孤独、焦燥を描いている》も間違いだ.
 なぜなら小説『青春の蹉跌』の新聞連載は,70年安保の二年前であり,東大闘争も日大闘争もまだ一般社会の知るところでなかった昭和四十三年 (1968年) だったからである.
 日大闘争が開始された「栄光の200メートルデモ」は1968年5月23日のことであり,東大で安田講堂が占拠され,これに対して警視庁機動隊が学内に入って学生を排除したのが同年6月17日であった.
 石川達三の小説『青春の蹉跌』の背景には,全く盛り上がらず静かに終わった70年安保ではなく,60年安保闘争の敗北があったのだ.
 しかし神代辰巳監督の映画『青春の蹉跌』(東宝,1974年公開) のシナリオは,時代背景を全共闘運動の高揚期を過ぎたあたりに設定している.(荒井由実が作詞作曲した「いちご白書をもう一度」のヒットも1975年)
 つまりWikipedia【青春の蹉跌】の記述《70年安保終焉の虚無感、青春の情熱、孤独、焦燥を描いている》は,石川達三の小説『青春の蹉跌』と,神代辰巳監督の映画『青春の蹉跌』とを混同しているのである.
 アマゾンといいWikipediaといい,よくまあみんな嘘ばっかり書いているなあ,と思う次第.
 
 それはさておき,石川達三が『青春の蹉跌』で描いた主人公は,ある種の欠陥人間である.
『青春の蹉跌』は,性格にも知的能力にもバランスを欠いた人間が破滅する物語である.
 ではNHK《先人たちの底力 知恵泉》が「藤原隆家の青春の蹉跌」だとした「花山法王奉射事件」において,バランスを欠いた人格故に破滅したのは誰か.
 それは法王を襲撃した隆家ではなく,僧の身でありながら色事しか頭の中にない花山法王と,同じく色好みで人格破綻者の藤原伊周であった.
 隆家が指揮した奉射事件は,実は花山と伊周の下司二人がいなければ起きなかったのである.
 それがためであろうが,隆家は奉射事件で破滅することなく,出雲配流からすぐに戻され,後に太宰府に赴任して救国の英雄となり,立派に再起している.
 従って,隆家が奉射事件の罰として出雲に配流されたことは彼の「青春の蹉跌」ではない.
 つまり《人生はやりなおせる!ツッパリ貴族 藤原隆家》の台本を書いた作家は,石川達三の『青春の蹉跌』を読んでいないか,あるいは読んでいるとしても石川達三の意図を読み誤っている.
 この放送作家は,かつての流行語である「青春の蹉跌」を言葉としてだけ知っていて,意味を知らなかったのである.
 
 ちなみに,石川達三は,小説に絶妙なタイトルをつける達人といわれた.
 Wikipedia【石川達三】に記された作品一覧を読めば納得である.
 だが小説のタイトルが流行語として独り歩きしてしまうこともあり,「青春の蹉跌」はその一例である.
 
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