嘘つきライター鈴木まさ美 /工事中
ftn-fashion trend news-《<困った姑>風邪を引いた孫のため、ネギと大根を持参!→ 野菜嫌いの孫に"ありがた迷惑"な言動を──!?》[掲載日 2024年3月5日] から下に引用する.
《私はその日、姑の家に行く約束をしていました。しかし、子供が熱を出したので行けなくなったと姑に連絡したところ、姑がものすごく心配をして「今から行くわ!」と言い出したのです。心配してくれるのはありがたいのですが、もし感染症だったら姑にうつす可能性もあるから来ない方がいいと、やんわりと伝えました。
しかし、孫が大好きな姑は話を聞いてくれません。「何言ってるの?! 孫ちゃんが可愛そうでしょ!」と、今にも突撃してきそうな勢いでした。病院へ行きますと伝えるも、「待っていなさい! 今行くから」といって、電話を切られてしまいました。
しばらくするとやってきた姑。手にはなんとネギと大根が。姑は家に上がるなりキッチンへ直行。ネギを焼き始めました。「昔はこれで治ったのよ」と言いながら、「大根おろし器ある?」と聞かれ、手渡すと、「大根おろしの汁がいいのよ」大根をおろし始めました。
まさに「おばあちゃんの知恵袋」。ポカンとしている私に「息子もこれで風邪を治してきたから、大丈夫よ」と、自信満々の笑顔でした。
私の息子は大の野菜嫌い。姑も知っていたはずですが、孫が風邪と聞いて慌てたのか、頭から抜けていたようです。私が止めようとするのも聞かず、息子に無理やり大根おろしの汁を飲ませたのです。姑の手には、焼いたばかりのネギもあります。
香ばしいネギの香りと大根おろしの汁のまずくて苦い味に、息子はすぐに吐き出してしまいました。変えたばかりの新しいパジャマもシーツも吐しゃ物で台無しになってしまったのです。
私は「病院へ行きますので! 今日は帰ってください!」と強めに言うと「すぐ病院って。ちょっと贅沢じゃないの?」と言われて絶句。その場は何とか帰ってもらいましたが、「また明日も来られたらどうしよう」と困ってしまいました。
その夜、帰宅した夫に相談することにしました。すると夫はすぐに姑に電話をして「治ったら行くから、今は来ないで」とはっきり伝えてくれたのでした。
まとめ
姑は昔、風邪には「ネギをクビに巻く」「大根おろしの汁を飲む」といった民間療法で治していたのかもしれません。その効能は分かりませんが、今は病院で処方された薬を飲む選択もありますし、何より野菜嫌いの子に無理やり試そうとするのは、違うのではないでしょうか。孫が心配なのはわかりますが、嫁が止めるのも聞かず、孫にトラウマを植え付けるような言動は、やっぱりダメですよね。
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。tnライター:鈴木まさ美》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
私は,先の戦争が終わってすぐに生まれたいわゆる団塊の世代の最後尾に属し,現在七十四歳の高齢者である.
その団塊世代が小学生,中学生だった昭和三十年代,一般庶民の医療に大きな功績があったのが富山の配置薬 (置き薬とも) である.
富山の配置薬は反魂丹に始まる.Wikipedia【反魂丹】から下に引用する.
《室町時代、堺の商人・万代掃部助(もず かもんのすけ)が中国人から処方を学び、家内で代々伝えてきた。万代家(後に読みを「もず」から「まんだい」に変更)は3代目の時に岡山藩に移り住み、医業を生業とし、8代目の頃には岡山藩主・池田忠雄のお抱え医となるに至った。
越中富山藩主・前田正甫が腹痛を起こした際、万代の反魂丹が効いたことから、正甫は1683年(天和3年)に万代家11代目・万代常閑(まんだい じょうかん)を富山に呼び寄せ、処方のレクチャーを受けた。それ以降、正甫は独自に調合させた「反魂丹」を印籠に入れて常時携帯した。
1690年(元禄3年)、江戸城内において、三春藩主・秋田輝季が激しい腹痛を訴えたため、その場に居合わせた前田正甫が携帯していた反魂丹を服用させたところ、すぐに腹痛は治まった。これを見ていた諸大名がこの薬効に驚き、自分たちの藩内での販売を頼んだ。正甫は薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を製造させ、諸国に行商させた。この松井屋による行商が、富山の売薬に代表される医薬品の配置販売業のもととなった。》
富山の配置薬は反魂丹に続いて各地の漢方医が工夫した漢方薬や伝統薬を取り込んで発展した.
その後は西洋医学に基づく医薬品も取り込んで庶民の医療の一翼を担った.Wikipedia【富山の売薬】から下に引用する.
《20世紀に入ると売薬に関する制度や法律が次々と整備された。1914年には売薬の調整・販売が出来るものの資格・責任を定めた「売薬法」が施行され、1943年に品質向上確保のため医薬品製造は全て許可制とする薬事法となった。さらに太平洋戦争後の1960年には薬事法が改正され、医薬品配置販売業が法文化された。昭和20年代後半から昭和30年代にかけてが配置薬(置き薬)産業の最盛期で、6割の家庭が利用するほど普及し、他県(滋賀県、奈良県、岡山県、佐賀県など)の企業も参入した。その後は国民皆保険や、現代では医薬品はドラッグストアなどでも手軽に購入できるようになったこともあって利用しない家庭が増えた。富山県が集計している配置薬の従事者は1961年の1万1685人から2019年は597人に減り、医療用医薬品の製造へシフトする企業も増えた。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
《昭和20年代後半から昭和30年代にかけてが配置薬(置き薬)産業の最盛期で、6割の家庭が利用するほど普及し》た時代こそ,団塊の世代の幼少期だったわけだ.
戦後の配置薬全盛時代を過ごした私たちの世代は,医薬品 (富山の配置薬) と迷信との違いを生活の中で学んだ.
その当時,配置薬の薬箱の中身はほとんど西洋医学の医薬品だったからである.
その頃,一般家庭では配置薬の箱 (売薬行商人が家庭に設置して管理した) を救急箱として用いていた.漢方薬は即効性に欠けるものがほとんどであるから,救急箱の中身は西洋医学の医薬品になるのが当然であった.
私が子供時代,我が家の救急箱の中身の例を挙げる.
風邪薬:
鎮痛剤:
下痢止め:
外傷薬(軟膏):
殺菌剤(消毒薬):
湿布材:
痒み止め軟膏
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