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2023年6月 3日 (土)

妖怪ずぶぬれ爺

 昨日の夕刻,関東地方を襲った激しい風と雨の中,歯医者に行った.一週間前に予約していたのでやむを得ない.
 
 歯科医院は完全予約制がほとんどではないか.
 私のかかりつけの内科とか整形外科のクリニックなどでは,診察や検査に要する時間は短いし,それでも午後遅くになると「押し」気味になるから,都合が悪くなったらその日の午前中にでもキャンセルの電話をしておけば,わかりました,と言ってもらえる.(私のかかりつけクリニックの場合だが)
 ところが歯科の場合は事情が異なるのだという.
 歯科の治療時間は,短くて三十分,長ければ一時間はかかる.
 一人の患者にそれだけの時間を確保してある.
 それなのに当日になってキャンセルされると非常に困るのだと聞いた.歯科医師の手が空いてしまうのである.
 普通の歯科医院では,ドタキャンを何度もされると経営的に影響がでるとも聞いている.
 ありがたいことに歯科医院のサイトには「キャンセルしたから行きにくくなる,ということはありません」と書いてあるが,それに野放図に甘えるのは憚られる.
 そういうわけで,私は悪天候の中を歯医者にでかけたのであった.
 
 で,私が治療を終えて待合室に戻ると,私よりも後から来た患者の男が先に治療を終えて,治療費の支払いをしていた.家族と思われる中年女が付き添いでいたが二人ともマスクをしていなかった.病院に来る時はマスクをするのがエチケットなんだが.
 おそらく私と同年配のそいつは,上着といわずズボンといわず,全身ずぶ濡れであった.地肌が見えそうな灰色の頭髪は濡れそぼっていた.
 しかも裸足で医院のスリッパを履き,グチョグチョと音を立てて歩いた.
 そういう輩が治療椅子に座っていたと知って,その非常識に私は驚いた.間違いなく椅子もズブ濡れになったはず.
 私が歯科医や看護師だったらお引き取り願うところだが,そうもいかないのだろうか.
 さらに驚いたのは,そいつが履いていたと思われる靴下が,待合室の床 (カーペット貼り) に並べてあったことだ.カーペットに水を吸い取らせようとしたらしい.
 付き添いの女は夏らしいワンピースを着ていたが,あまり濡れていなかったのでちょっと不思議な感じがした.爺は濡れるがままにして自分だけ傘をさして歩いたのだろうか.
 さて私より一足早く会計を終えたそやつは,床に干してあった靴下をポケットに突っ込むと,靴を脱ぐスペースでぐしょぬれの革靴を履こうとしたのだが,革靴は濡れているから,素肌の抵抗が大きすぎて足が入らない.
 靴ベラを使って強引に足を入れようとしたが入らない.
 そこで遂に靴のヒモをほどいて履くことにした.
 その異様な光景を私は我慢強く眺めていた.靴を履くためのスペースは狭くて,そのずぶぬれ爺が占拠していたからである.
 付き添いの女は入口のガラスドアの外に出てずぶぬれ爺を待っていた.
 数分後,悪戦苦闘していたずぶぬれ爺は,私が待っていることに気が付いたようで,自分の足を靴に押し込むのに使った靴ベラを私に向かって突き出し「先に使っていいよ」と言った.
 私は手を左右に振って,いらない,とジェスチャーした.そんな他人が素足を触れた靴ベラなんか誰が使うか!
 (余談だが,現役会社員だった頃の私は,自分用の携帯靴ベラを仕事かばんに入れて持っていた.夕食時などに靴を脱ぐことがあるからだ.現在はスニーカーばかり履いているので靴ベラは要らない)
 するとずぶぬれ爺は,ヒモをほどいた靴に片方の足を入れたまま私のほうににじり寄り「いいから遠慮せんと」と言った.
 私は半歩下がり,「いらない」と言った.
 すると爺はさらに私に近寄ってきて「ほれ」と私の手に靴ベラを押し付けた.
 大脳前頭葉が萎縮して感情をコントロールしにくくなっている私は思わず「しつこい!」と声を出した.
 ずぶぬれ爺はちょっと驚いた様子で,「せっかくこっちが親切にゴニョゴニョ」と言いつつ,ヒモをほどいた靴を履き,ヒモを引きずりながら傘立てに手を伸ばし,私の傘  (少しお高めのビニール傘) を手に持った.
 私の頭の中でピシッと音がして,私は「それは私の傘だっ!」と言った.
 爺は「あ違った」とか言いながら,骨の折れた黒い傘を手に持つと,入り口のドアを押して出て行った.
 
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ウクライナに自由と光あれ
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(国旗画像は著作権者来夢来人さんの御好意により
ウクライナ国旗のフリー素材から拝借した)


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