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2023年4月16日 (日)

製糸女工に関する,あるブログ記事の誤りについて

 コオロギの食材化で一躍全国に社名が知られた株式会社グリラスの企業サイトに次の文言がある.(《昔は55種も食べていた、日本の昆虫食の歴史》[掲載日 2022年1月17日])
 
昆虫食としての蚕は、糸を取ったあとの蚕です。蚕を食べる習慣は中国や韓国にもあり、漢方薬としても効能を発揮するといわれてきました。日本でも蚕は食用として人気があり、第2次大戦中には小学校でイナゴ採りが推奨され、製糸工場では糸を取った後の蚕のサナギを女子工員が食べてしまうほどでした
 
 かつて長野県や群馬県などで隆盛を誇った製糸産業の工場では,養蚕農家から買い取った繭を,まず高温で熱風乾燥処理 (乾燥工程あるいは乾繭工程と称する) して,中の蛹を殺した.
 こうして蛹を殺してしまえば,繭を製糸原料として貯蔵できることになる.
 しかしこの乾燥と貯蔵工程で蛹のタンパク質は変性し,おそらく含硫アミノ酸残基が過酸化して分解し,著しい悪臭の臭気物質を生成する.
 この悪臭は,初めて経験する人は嘔吐すること間違いなしで,これを口に入れるのは拷問に近い.
 養蚕地帯であった群馬県の前橋市の生まれ育ちである私はこの激しい悪臭を知っているので,《製糸工場では糸を取った後の蚕のサナギを女子工員が食べてしまうほどでした》はとても信じられない.
 私は現在,グリラス社が拡散しているこの流言の発信源を調査中である (ほぼ突き止めた) が,その調査過程で気づいたことがある.
 それは,かつて製糸工場で労働に就いた女性,つまりいわゆる女工 (古くは男工や工男という言葉もあったが,これらはほぼ死語となっている)  たちについて書かれたブログ等の記事を読むと,細井和喜蔵の『女工哀史』と山本茂実の『あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史』を混同している人がかなりいるということだ.
 一つ下に例を挙げる.
この実を見るといつも「あゝ野麦峠」を思い出します。それほど子供の頃に観た映画は強烈なインパクトが》[掲載日 2017年9月18日] である.このブログの筆者は,植物園に生えているセンダンを紹介したあと,次のように書いている.
 
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 上にスクリーン・ショットで引用した箇所には誤情報が下記の二つある.
(1) センダンの実の毒性に《人間の子供だと6~8個が致死量》だという情報
(2) 《「あゝ野麦峠」(原作名:女工哀史)》という嘘
 
 まず (1) から解説する.
 センダン (栴檀) は普通,センダン科センダン属に分類される落葉高木の一種を指す.日本では伊豆半島以西の本州,伊豆諸島,四国,九州,沖縄に分布する.
 ただし香木として有名な白檀も栴檀 (センダン) と呼ばれることがあり,「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は白檀のことであるが,これはセンダン科センダン属のセンダンとは別の植物である.
 このセンダン科センダン属の英名は chinaberry あるいは chinaberry tree であるが,和英辞書にはセンダンの英単語として china tree も載っているので紛らわしい.
 前者はおそらくインドから中国にかけてが原産地であるが,後者は南米の植物であるらしい.私は南米産の china tree の知識がないのでこれ以上の言及は避ける.
 ちなみに,第一次世界大戦中,日本海軍は英国から駆逐艦ミンストレルを貸与され,これを栴檀と呼んで雑役艦として使用した.艦隊ファンは既に承知の無駄知識である.
 さて本題.センダン科センダン属のセンダンの実は有毒であり,この実が落ちているところで犬を散歩させていると食べてしまうことがあるという.
 センダンの実を食べた犬は中毒症状を呈すると,いくつかの動物病院のサイトに書かれているが,上の引用中の《人間の子供だと6~8個が致死量》の根拠は疑わしい.なぜならセンダンの実にはサポニンが含まれており,苦みがあるために私たち人間は死ぬほどの量を食べることは無理だからである.(毒として用いる場合を除く;後述)
 サポニンはサポゲニン (ステロイド骨格あるいはトリテルペン骨格を有する数種の化合物の総称) に糖が結合した配糖体化合物の総称であり,一般に人間がサポニンを含有する植物を口に入れて咀嚼すると不快な渋み,苦み,「えぐ味」を感じるので,嚥下できない.
 例えば大豆は栄養豊富な食材であるが,サポニン (大豆サポニン) を含むために不快な味がするので,そのままでは可食ではない.そこで古くから日本人は大豆サポニンの不快味を低減する様々な加工方法,調理方法を考案してきた.これが今は世界中に広まっていることは周知のことである.
 しかしセンダンは,苦いサポニンを含むが,民間では生薬としても用いられ,果実は苦楝子 (くれんし) または川楝子 (せんれんし) と称される生薬で,煎じて整腸薬あるいは鎮痛剤として内服した.樹皮は苦楝皮 (くれんぴ) と称される生薬で,同じく煎じて駆虫剤として内服した.(ただし日本薬局方外生薬規格には記載がない)
 ところがセンダンには,果実にも樹皮にもサポニンの他にメリアトキシンという毒性の強い化合物が含まれていて,煎じ薬の用量を誤ると中毒症状を呈することが知られている.
 苦楝子や苦楝皮の危険性については,株式会社ウチダ和漢薬のサイトの《生薬の玉手箱 | クレンシ・クレンピ (苦楝子・苦楝皮)》に次の記載がある.
 
苦楝皮には毒性があり、めまい、頭痛、睡気、むかつき、腹痛などを引き起こします。重い中毒の場合には、呼吸中枢の麻痺、内臓出血、中毒性肝炎、精神異常、視力障害などがあらわれることがあります。また、苦楝子にはより強い毒性があるとされ、これらの服用には慎重な注意が必要です。

 ウェブ上の資料によっては「センダンの実は,ヒトの中毒例は多い」と出典不明の記述がなされているが,しかし厚生労働省の公式サイトにある《過去10年間の有毒植物による食中毒発生状況 (平成25年~令和4年)》には一件も発生例は認められていない.これは幸いにも,センダンのサポニンが非常に不快な味であるために,メリアトキシン中毒を発症するほど多量に,センダン果実を摂取できないからだろう.昔から「良薬は口に苦し」というので我慢して煎じ薬を服用するが,これが薬でなければ飲むやつはいない.
 実は私は小学生の頃,センダンの樹皮 (苦楝皮) 煎じ薬を飲まされたことがある.なぜ飲まされたか記憶がないが,それはもう酷い臭いと不快味で,それ以後私は,生薬の煎じ薬は見るのも嫌になった.
 犬の飼い主はよく知っていることであるが,犬は多少の大きさの木の実などは咀嚼せずに飲み込んでしまう.歯が咀嚼に適していないからである.そのため中毒事故を起こすのであろう.
 しかし人間は犬と違って,固体を摂食するときは丸のみせずに咀嚼してから嚥下するので,サポニンを含有する果実等は,異常を感知して吐き出す.結果論でいえば,人間は咀嚼と,サポニンを不快と感じる味覚によって,毒の摂取を回避しているわけだ.
 さて上に引用したスクリーン・ショットに書かれている《犬だと5~6個、人間の子供だと6~8個が致死量と言われています》との記述について検索して調べてみると,《竹内どうぶつ病院》というサイトに書かれている《「犬のセンダン中毒」》[掲載日 2018年11月3日] をコピーしたものであることがわかる.
 竹内院長の《「犬のセンダン中毒」》は突っ込みどころ満載で,おもしろいので少し紹介する.
 まず冒頭に次の記述がある.
 
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 竹内院長は《英名はChinaberry (キナベリー) と呼ばれています》と書いているが,どこの世界に chinaberry を「キナベリー」と発音する バカ やつがいるのだ.発音をカタカナで書けば「チャイナベリー」に決まっておろうが.w
 英語のできない中学生とか高校生は,辞書を引くのがめんどくさいので「キナベリー」などと素っ頓狂な発音をしてしまうのであるが,竹内院長は大学を出ているはずだから,ちゃんと辞書を引きなさい.辞書には発音は tʃáinɑbèri だと書いてあるはずだ.この語の発音はカタカナで書けば「チャイナベリー」だが,これを「キナべリー」と読むと思い込んでいるのなら,竹内院長はもう一度義務教育からやり直そう.
 もっとも最近は,ネイティブの発音を教えてくれるウェブサイトがいくつもあり,英単語を入力すると音声が出力されるので,竹内院長のように発音記号の読み方を知らない人でも,正しい発音が学べる.まことによい時代である.
 それはさておき,竹内院長は次のように書いている.
 
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 センダンの中毒についてウェブを検索すると《犬の場合では、実の数で5から6個、ヒトの子供の場合、6から8個の摂取で死に至ると報告されています》をコピーしたと思われるブログ等が多数ヒットする.《この実を見るといつも「あゝ野麦峠」を思い出します。それほど子供の頃に観た映画は強烈なインパクトが》[掲載日 2017年9月18日] はその一つであるが,どれもこれも竹内院長の書いた記事の数値を信じ込んで写したものと判断される.
 竹内院長のブログ記事以外の資料はないだろうか.
 検索すると,家畜がセンダン中毒を起こしたという事故報告 (学術論文ではない) は見出されるが,消化物の中にセンダンの核果が発見されたということからの推測で,確定診断がなされたわけではない.
 竹内院長が得た調査結果《人間の子供だと6~8個が致死量》は何を意味しているのか.
 人間の子供がセンダンの実を摂取して死んだ事例が本当に存在するのだろうか.
 子供のセンダン中毒に焦点を当てて検索を進めると,昭和初期に,日本の統治下にあった朝鮮で獣医をしていた井上國滋という人物が,獣医関係の雑誌に《ブタの「センダン」中毒の一例》と題した記事を執筆し,その中で《或成書で見ると葉根皮果肉は共に苦味を有し、其煎汁は驅蟲劑に應用せらるゝと云ひます、然るに俗間殊に朝鮮人の子供は食して居るのを時に見受けます、或人の話では露國人も食するとのことであります解眞僞は判りません、又化粧料に僕する地方もあるとのことです。之れも保證出來ません》と記している.(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 この記事によれば井上國滋氏は,子供が苦いセンダンの実を食べているのを時々見たことがあるが,中毒を起こして死んだとは書いていないのである.
 すなわちこれは,私が既に述べたように「人間はセンダンの実の果肉を誤食することはあっても,苦いので吐き出してしまうから中毒で死ぬことはない」ということを意味している.つまりヒトの致死量は不明であることを示している.
 では竹内院長は,どこから《ヒトの子供の場合、6から8個の摂取で死に至る》との情報を得たのか.
 出典を示さずに文章を書く人間は本当にタチが悪い.
 私がウェブを検索調査した限り《ヒトの子供の場合、6から8個の摂取で死に至る》と述べた学術論文は見いだせない.
 竹内院長が出典を示さないのは,情報源が学術論文ではないからだと考えられる.そこら辺の雑学本から引っ張り出した知識では,いくら何でも恥ずかしくて出典を示せないのだろう.
 さらに竹内院長は,お恥ずかしいことに《センダンの中毒物質は「リモノイドテトラテルペン構造」を持つ有害物質である「メリアトキシン(meliatoxin)」であるとされています。中毒量についてですが、豚、羊で体重あたり約 5 g/kgという報告があります。》と書いている.(1)
 これでは,ブタの体重を200kgとすると,メリアトキシンの中毒量は1kgだということになる.
 これは明らかに,竹内院長は「センダンの実の経口摂取致死量」と「メリアトキシンの致死量」を取り違えていることを示している.
 食塩でも,ヒトの経口摂取致死量は体重1㎏あたり0.5~1gだ.w
 さらに竹内院長は文末で《豚の報告では接種後約30時間で痙攣震え、頻脈、低体温症、昏睡等が引き起こされ死に至るとされており、その致死量は経口LD 50(半分の頭数が死に至る量)として、6.4ミリグラム/ kgが報告されています》と述べている.(2)
 これはメリアトキシンの毒性に関する学術論文“Yaoxue Tongbao. Bulletin of Pharmacology., 20 (247), 1985”の内容を,出典を示さずに示したものであるが,(1) の 5g/体重kg と,(2) のミリグラム/体重kg では数値が三桁も違う.これを見ても竹内院長は,有毒化合物のメリアトキシンと,有毒植物のセンダンをごちゃ混ぜにしていることがわかる.竹内院長は本当に獣医学部を卒業したのか疑わしい.w
 ちなみに,英語版Wikipedia【Melia azedarach】には《Fruits are poisonous or narcotic to humans if eaten in quantity.》と記述されている.(Melia azedarach はセンダンのこと)
 Wkipedia の英語版では「センダンの果実は大量に摂取すると昏睡状態になる」とだけ述べてあり,日本語版では毒性に関する記述はない.
 以上をまとめると,センダンの実を食べると《ヒトの子供の場合、6から8個の摂取で死に至る》は,竹内どうぶつ病院の竹内院長を発信源とする虚偽情報だと考えられる.
 
 次に「(2) 《「あゝ野麦峠」(原作名:女工哀史)》という嘘」について解説する.
 ブログ記事《この実を見るといつも「あゝ野麦峠」を思い出します。それほど子供の頃に観た映画は強烈なインパクトが》[掲載日 2017年9月18日] の筆者は,有名な映画『あゝ野麦峠』の原作が細井和喜蔵著「女工哀史」であると誤解している.
 いうまでもなく原作は山本茂実著「あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史」である.
 この誤解はネット上に広く拡散している.例を挙げると,《【食材メモ】カイコのさなぎ》[掲載日 2010年6月23日 12:40] に《長野の諏訪湖周辺には製糸工場が集中し、岐阜などから野麦峠を越えて働きにやってきた女工さんたちの過酷な労働については「女工哀史」に詳しい。彼女らは仕事の合間にたくさん出るさなぎをおやつ代わりに食べていたと聞く》と書いてある.おそらくこれが,細井和喜蔵著「女工哀史」と山本茂実著「あゝ野麦峠 ある製糸工女哀史」の混同の最初の例である.文字を着色強調した箇所《「女工哀史」に詳しい》は嘘である.念のため確認したが,細井和喜蔵著「女工哀史」にそのような記述はない.
この実を見るといつも「あゝ野麦峠」を思い出します。それほど子供の頃に観た映画は強烈なインパクトが》[掲載日 2017年9月18日] の筆者は《【食材メモ】カイコのさなぎ》[掲載日 2010年6月23日 12:40] を読んで,ろくに確かめもせずに転記してしまったのであろう.せめて Wikipedia くらいは調べてから書けばいいのにと思うが,ネット情報を鵜呑みにする傾向が若い人に多いことの一例である.
 
 ところで,《この実を見るといつも「あゝ野麦峠」を思い出します。それほど子供の頃に観た映画は強烈なインパクトが》[掲載日 2017年9月18日] の筆者は次のように書いている.
 
20230417c2
 
 この人は《そもそも製糸工場のあった長野県の山中に、亜熱帯域に自生するセンダンが存在していたのか、という疑問点もあります》と自分で書いておきながら,その疑問点を調べて解決することなく《でも私の頭の中では、センダンの実と、あの可哀想な少女が食べていた木の実が完全に合致していて、毎日ガーデンでセンダンを見るたびに、あゝ野麦峠を思い出しています》と勝手な想像を書いて,嘘情報の発信源になってしまっている.
 長野の山中にセンダンの木はない.東日本の山中に自生している,果実が有毒な植物といえばイチイである.
 イチイの実の果肉のような部分は可食であるが,中に入っている種子を飲み込んだり,噛みつぶして食べると,種子に含まれる毒性化合物タキシンの毒で死亡することがある.ちなみに短歌誌『アララギ』は,イチイの別名のアララギから採った誌名である.
 
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ウクライナに自由と光あれ
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(国旗画像は著作権者来夢来人さんの御好意により
ウクライナ国旗のフリー素材から拝借した)


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