牧野富太郎 /工事中
なかなかできのよい駄洒落が雑誌に載っていた.
現代ビジネス《「ゴキブリ」という名前は「単純な間違い」から生まれた…その意外すぎるルーツ ご存知でしたか?》[掲載日 2023年3月26日] から下に引用する.
現代ビジネスのこの雑誌記事は,ゴキブリという名称の由来について解説している.
《……
ずっとくだって江戸時代になると、当時の百科事典『和漢三才図会』(1713年、寺島良安著)に「油虫」と「五器嚙」という名が登場する。アブラムシは、油ぎったように見える体に由来する。ゴキカブリのゴキは「御器」ともいい、食べ物を盛る器のこと。カブリは「齧る」という意味で、器に盛られた物ばかりか、その器までをも齧る様子からその名がついたといわれている。
このゴキカブリこそが「ゴキブリ」の由来である。ではなぜ「カ」がなくなってしまったのか?
1884年に出版された生物学の辞典『生物学語彙』(岩川友太郎編)は、生物の名前を英語で示し、その隣に和名を入れる体裁で書かれている。この本のゴキカブリの項目で、「蜚蠊」(中国で使用されていたゴキブリの名称)と漢字で書いた際、振り仮名から「カ」の字が脱落してしまい、この後に出版された生物の教科書でもこの表記が踏襲され、いつの間にか一般に定着していったのだ。
その後、日本語で書かれた最初の昆虫学の専門書である『日本昆虫学』(1898年、松村松年著)でも「ゴキブリ」が使われ、この名前は学界にもしっかりと根を下ろしてしまった。植物学者の牧野富太郎はある雑誌で「ゴキブリでは意味をなさぬ」と痛烈に野次ったという。
本の中で偶然起こった誤記(ゴキ)から「ゴキブリ」が生まれたのである。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
駄洒落とは,上の引用中の文字を着色した部分である.
以下,このことについて解説する.
ゴキブリは,江戸時代の百科事典『和漢三才図会』では「五器嚙」または「御器嚙」と呼ばれていた.この場合の「齧」は「かじり」ではなく「かぶり」と読む.
「齧」の現代の訓読みは「かじる」であって,和語「かぶりつく」を「齧り付く」と書くのは,用例は多いが,当て字としていい.
次に「五器」「御器」とは何か.
精選版日本国語大辞典には「五器」「御器」を《食物を盛るためのふたつきの器。特に、わん。木製、陶製、金属製などがある。… 特に、修行僧や乞食が食物を乞うために持っている椀(わん)をいう》としている.これは「器」に接頭辞「御」つけた「御器」が初めの形と思われるが,やがて中世に「五器」と書く例が現れた.「五」に意味はないだろう.めんどくさい「御」の代用と思われる.
さらに高麗茶碗の一種でフタのない陶器の食器「呉器」との混同も見られるようになった.
意味内容の変化として,修行僧などが持っている器を「御器」と呼ぶようになったのは近世以降である.
余談だが,碁石を入れる蓋付きの器は,朝鮮半島で使用されてきた蓋付きの金属製飯碗 (現代の朝鮮食器例) が原型とされ,これを碁笥 (現代の木製碁笥の例) という.これを「ごけ」と読むのは「ごき」との類似でおもしろいが,これはまあ独自研究だ.
まだこの関連のうん蓄はあるのだが,それはさておき,昔の人は,食い物の器にうじゃうじゃと群がるゴキブリに「ゴキカブリ」という名称を与えた.漢字仮名交じりに書けば「御器かぶり」で,仮名書きなら「ゴキカブリ」である.
それがどうして「ゴキブリ」に変化したのか.
その事情についてはかつて通説があった.
平凡社世界大百科事典第二版には次の記述がある.(出典)
《【ゴキブリ】…現在の名は,明治時代の昆虫学者松村松年が《日本昆虫学》(1898) でゴキカブリをゴキブリと誤記したことに端を発しているという。漢名は蜚蠊 (ひれん)。…》
松村松年は日本近代昆虫学を創始した学者.Wikipedia 【松村松年】には,
《日本の近代昆虫学を築いた人物であると評され、日本に生息する昆虫の命名法 (和名) を創案した。学名に「Matsumura」とつく昆虫も数多い。1898年 (明治31年) 初版の『日本昆虫学』、1904年 (明治37年) から始まる『日本千虫図解』シリーズは兄の松村竹夫の昆虫図とともに評価を得た。1926年 (大正15年) に創刊した昆虫学雑誌『Insecta Matsumurana』は2016年現在においても刊行されている。》
と書かれている.
動植物の分類学という学問は,古い知見の上に新しい知見を載せて構築される学問分野ではなく,特に日進月歩でもないのに,先人の業績が後世には役に立たなくなるという悲哀がある.
これに対比すると,数学や物理学や化学は,スクラップ&ビルドではない.根底から覆るということがない.例えば私たちが高校生の時に覚えた元素番号は今でも変わらない.私ら高齢者は,2003年に冥王星が惑星の地位を剥奪されて小惑星に格落ちした時にショックを受けたが,しかし冥王星はちゃんと今も存在しているからそれほど悲しくはない.
で,問題のゴキブリだが,現代の昆虫分類では Wikipedia【ゴキブリ】にある記述は次の通りである.
《ゴキブリ目はカマキリ目と近縁で、合わせて網翅類 (Dictyoptera) を成し、網翅目として扱われることもある。網翅目とする場合、ゴキブリ目はゴキブリ亜目となる。
古くは現在のバッタ目、ナナフシ目、ゴキブリ目、カマキリ目を1目とし、網翅目または直翅目と呼ぶこともあった。しかし実際は、バッタ目とナナフシ目、ゴキブリ目とカマキリ目はそれぞれ近縁だが、両グループは近縁ではなく、このような分類は現在ではなされない。》
松村松年による分類は《このような分類は現在ではなされない》と書かれている.いかな大学者の業績でも,古くなれば打ち捨てられてしまうのだ.祇園精舍の鐘の声である.
それはともかく,「ゴキカブリ」が「ゴキブリ」になってしまったのは松村松年のせいであるというのが以前の説だ.平凡社世界大百科事典の記述を再掲する.
《【ゴキブリ】…現在の名は,明治時代の昆虫学者松村松年が《日本昆虫学》(1898) でゴキカブリをゴキブリと誤記したことに端を発しているという。漢名は蜚蠊 (ひれん)。…》
これが本当かどうかを『日本昆虫学』(国会図書館蔵デジタルコレクション,裳華房刊初版) に直接あたってみる.
松村はゴキブリを直翅目の第二科として「蜚蠊科」(ゴキブリカ) を立てている.科名表記に漢語の「蜚蠊」を用いているが,読みは説明中に「ゴキブリ」と「アブラムシ」と二つの和語のルビを振っているからそう読めということだろう.赤枠で囲ったその箇所を下に拡大して示す.
しかし分類上の同一科名に,二つの読みがあるのはおかしい.もし「蜚蠊科=ヒレンカ」が正しい科名ならば「蜚蠊」に「ゴキブリ」「アブラムシ」とルビを振るべきではない.ここら辺のいい加減さは,今となっては著者に確かめようもないが,明治時代の学問レベルはこんなもんだったのかも知れない.
さて,Wikipedia【ゴキブリは】はこの松村責任説に異論を唱えている.長いが下に当該箇所を引用する.
《名称
ゴキブリは最初からそう呼ばれていたわけではない。平安時代の本草和名には「阿久多牟之 (あくたむし)」や「都乃牟之 (つのむし)」の古名が見え、伊呂波字類抄には「アキムシ」という名前も見える。いずれも現在のヤマトゴキブリを指すと考えられている。
江戸時代に入ると「油虫 (あぶらむし)」と呼ばれる様になり、百科事典の和漢三才図会には御器嚙 (ごきかぶり) と共にその名前が記されている。油虫という名前は油ぎったような外見から、御器噛という名前は蓋付きの椀 (御器) をかじる虫であることから由来し、他にも地域によってゴキクライムシやゴゼムシ、アマメなどと呼ばれていた。御器をかぶることから御器被りとも解される。
そして明治時代になってゴキブリという名前が現れる。この名称はゴキカブリから訛ったものだとも説明されるが、昆虫学者の小西正泰によると、「ゴキブリ」という名称は、1884年 (明治17年) に出版された日本の生物学辞典『生物学語彙』(岩川友太郎) に脱字があり、「ゴキカブリ」の「カ」の字が抜け落ちたまま拡散・定着したことに由来する。なぜ欠落したのかは定かではないが、同書は漢字1文字あたり2文字までしか読みを振れない活字を使っていたので、これにより中央の文字が抜け落ちたのかもしれない。
俳句では「油虫 (アブラムシ)」は夏の季語であるなど広く親しまれていた名称だが、生物学上では矢野宗幹は1906年 (明治39年)、アリマキとの混同を避けるためにゴキブリを総称とするよう提唱した。標準和名としての使用は松村松年が1898年 (明治31年) にPeriplaneta americanaにこの名を与えたのを皮切りとする。1903年 (明治36年) に名和靖がヤマトゴキブリを指してゴキブリとし、1904年 (明治37年) に出版された松村松年の日本千虫図鑑第1巻でもゴキブリ名義でヤマトゴキブリが図説されている。しかし矢野は1906年、本草綱目啓蒙の記述からゴキブリはゴキブリ属の種の総称だと解すべきとして、特定の1種の和名とすることはできないと論じた。
漢字表記には漢名の「蜚蠊」という文字が当てられ、沖縄県・琉球方言でゴキブリを指す「ヒーレー」「フィーレー」という語は漢名の音読み「ひれん」に由来する。…》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
小西正泰によれば,岩川友太郎『生物学語彙』が間違いの始まりだという.
この本は国会図書館デジタルコレクションで公開されているのだが,非常に読みにくい.
そこで,岩川友太郎責任説が書かれている小西正泰の著書『虫の博物誌』の古書を探したら,安い値段で流通している.この本に何か情報が書かれているかも知れないので早速注文した.
注文した『虫の博物誌』が届く前に,上に引用した Wikipedia の《なぜ欠落したのかは定かではないが、同書は漢字1文字あたり2文字までしか読みを振れない活字を使っていたので、これにより中央の文字が抜け落ちたのかもしれない》を検証する.
Wikipedia はこの箇所の出典として朝日新聞デジタル《誤記から生まれた?嫌われもの「G」》[掲載日 2012年6月26日] を引用している.
この朝日の記事は,1927年5月26日付東京朝日朝刊の記事画像を引用し,そこではゴキブリを「ゴキカブリ」と呼んでいることを示している.
そしてこの記事よりものちには「ゴキカブリ」という名称はみられなくなったと書いている.その理由についての記述は以下の通り.
《目を引くのは、「ゴキカブリ」という見慣れないことば。ゴキブリのことを意味していることはわかりましたが、最初は余計な「カ」が入っているのだと思いました。ところが調べてみると、実はゴキカブリの方が正しかったようです。
日本国語大辞典ではゴキブリを「御器嚙(ごきかぶり)」が変化した語としています。「御器」は果物などを盛る食器の丁寧語で、「嚙」はかぶりつくでかじるという意味です。器にまでもかぶりつく、その貪欲(どんよく)さをよく示す言葉です。
では、いつ、どのような理由で「カ」の文字がなくなってしまったのでしょうか。
昆虫学者の小西正泰さんの著書「虫の博物誌」では、その意外な理由が示されています。明治時代に、本の中で偶然起こった誤記から生まれたというのです。
1884(明治17)年に出版された生物学の辞典「生物学語彙(ごい)」(岩川友太郎著)。この専門書は、生物の名前を英語で示し、その後ろに和名を入れる体裁で書かれています。この本のゴキカブリの項目で、「蜚蠊」と漢字で書いた際、振り仮名から「カ」の字が脱落してしまい、この後に出版された理科の教科書でもこの表記が踏襲され、いつの間にか一般に定着していった、というのが小西さんの説です。
残念ながら、どうして「カ」だけが欠落してしまったのかの理由まではわかりませんでした。生物学語彙の他の項目を読むと、漢字1文字につき2文字ずつまでしか読みが振れない活字を使っていたようです。うっかり真ん中だけが欠落してしまったのかもしれません。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
この署名記事を書いた朝日の記者は市原俊介という人物である.ここに市原記者が書いている《生物学語彙の他の項目を読むと、漢字1文字につき2文字ずつまでしか読みが振れない活字を使っていたようです。うっかり真ん中だけが欠落してしまったのかもしれません》は,全くの推測であって根拠はない.しかるに Wikipedia【ゴキブリ】は,市原記者の推測をそのまま書き写して平気な顔をしている.Wikipedia にはこの種の恥知らずな記述が多々あるので,利用者は気を付ける必要がある.
それでは岩川友太郎著『生物学語彙』を国会図書館デジタルコレクションから下に引用する.
“Cockroach”の訳語として「蜚蠊」が示されている箇所である.
「蜚蠊」に「ゴキブリ」とルビが降られている.
これを市原記者は《生物学語彙の他の項目を読むと、漢字1文字につき2文字ずつまでしか読みが振れない活字を使っていたようです》と書いているが,バカか,こいつは.そんな活字がどこの世界にあるか.
ルビの文字数が,字の大きさ (ポイント) と関係があるかのように思い込んでいるが,マヌケか,こいつは.
この男は新聞記者のくせに,印刷の基本,ルビの組みかたを知らないのである.
昔の活版印刷でも現在のデジタライズされた印刷でも同じだが,原稿本文の文字 (「親文字」という) を記載する「行」とルビの文字を記載する「行」は独立している.
親文字とルビを意味的に対応させる場合 (モノルビという),普通は読みやすいように親文字ひとつに対してルビは二~三文字にする (ルビはそういう大きさのポイントにする;親文字ひとつに対してルビが三文字の場合は一つ前の親文字に,ルビ半文字分が「食い込む」ように組む) が,別にそういう絶対ルールがあるわけではない.
例えば,遠藤周作は随筆中の「閑話休題」に「それはさておき」とルビを振らせている.これは親文字の読みとルビが対応していない例である.極端なことを言えば「寿限無」に「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ」とルビを振っても構わない.これを熟語ルビあるいはグループルビという.
またご丁寧に市原は,《生物学語彙の他の項目を読むと》と書いているが,「蜚蠊」のすぐ近くに次の文字がある.
「石松」に「ヒカゲノカヅラ」とルビが振られているが,市原記者の説に従えば,これは「ヒカゲノ」としかルビを振ることができないことになる.
しかし事実はちゃんと「ヒカゲノカヅラ」とルビが振られている.つまり通常の印刷と同様に『生物学語彙』も,親文字の文字数とルビの文字数は無関係なのである.
従って《漢字1文字につき2文字ずつまでしか読みが振れない活字を使っていたようです》という市原記者の珍説は全くの口から出まかせ嘘八百の妄想であり,「蜚蠊」のルビが「ゴキブリ」となっているのは,活字の大きさがどうのこうのという話ではなく,単純に「カ」が,原稿執筆から印刷に至るどこかでミスがあって脱落したのである.
しかも《生物学語彙の他の項目を読むと》も嘘である.「蜚蠊」のすぐ近くにある「石松」が目に入らぬはずはなく,市原記者が他の項目を全然読まずに《生物学語彙の他の項目を読むと》と嘘をついているのが明らかだ.こういう嘘つき野郎が捏造記事を書くのである.
さて「カ」が脱落した原因はいくつか考えられる.
(1) 著者の岩川友太郎自身が「ゴキカブリ」についての知識がなく,他の本を読んで孫引きしようとしたが,間違って「ゴキカブリ」のことを「ゴキブリ」だと思い込み,原稿中の「蜚蠊」に「ゴキブリ」とルビを振った.岩川の専門は昆虫ではなかったからである.
(2) 岩川友太郎は原稿の「蜚蠊」にちゃんと「ゴキカブリ」とルビを振ったのだが,校正刷りに「ゴキブリ」となってしまっていたのを見落とした.昔の大学者先生は著者校正なんかしないのが普通だったと思われ「これを校正しておきなさい」と下請けに出した弟子の学生がいい加減なやつで,校正を手抜きして先生の顔に泥を塗ったというのは,ありそうな話だ.
そこで『生物学語彙』の奥付を開くと,次の通りに書いてある.
岩川友太郎について《編輯兼出版人 青森縣平民 岩川友太郎》となっている.
この「編輯兼出版人」が曲者で,実際には岩川は何もせず,代表者として名前だけ貸した可能性もある.
往々にして辞書にはこういうことがある.例えば国語辞書に「金○○京○編」と書いてあっても,金○○京○は辞書のブランド名称であったりする.金○○京○の没後も版を重ね,内容が別物になっているのに相変わらず「金○○京○編」としているのがその例だ.
「蜚蠊」のルビが「ゴキカブリ」ではなく「ゴキブリ」になってしまった理由が,(1) なのか (2) なのか,よくわからぬが,Wikipedia【岩川友太郎】には次の記述がある.
《エピソード
ゴキブリは江戸時代より「ゴキカブリ」(御器かぶり)とも呼ばれていたが、岩川も編纂に加わった『生物学語彙』(1884年刊行)では、ゴキカブリを意味する「蜚蠊」という漢語に一ヶ所誤って「ゴキブリ」というルビが振られてしまう。以後この和名が各種出版物にも転載されることにより、定着したという。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
この一節の《岩川も編纂に加わった》は,岩川は『生物学語彙』の出版にあたって単なる名義貸しをしたのではないとのニュアンスである.と同時に岩川の単独責任編集でもないと言っているわけだ.
この一節の出典は,北嶋廣敏『雑学帝王500』(中経出版,2013年) であると Wikipedia【岩川友太郎】に記載されている.
Wikipedia の記載を鵜呑みにするのは間違いの素なので,ウラを取ることにする.
というわけで古書の『雑学帝王500』を調べた.
この本の小項目「ゴキブリの本名はゴキカブリ
数日して届いた『虫の博物誌』を開くと,
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