台所衛生の戦後 /工事中
私がまだ幼児の頃,日本が敗戦の痛手から立ち上がろうとしていた昭和三十一年の夏,昭和三十一年七月十七日に経済企画庁から「昭和31年度 年次経済報告」が発行された.「年次経済報告」とは,いわゆる「経済白書」のことである.昭和二十九年度から平成十二年度まで発行され,翌平成十三年度からは「経済財政白書」となった.(資料;内閣府《経済財政白書/経済白書》)
「昭和31年度 年次経済報告」が我が国の戦後史において特に有名であるのは,その結語に書かれた一つの文言による.そこで下に一部を引用する.
《戦後日本経済の回復の速やかさには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。
しかし敗戦によって落ち込んだ谷が深かったという事実そのものが、その谷からはい上がるスピードを速やからしめたという事情も忘れることはできない。経済の浮揚力には事欠かなかった。経済政策としては、ただ浮き揚がる過程で国際収支の悪化やインフレの壁に突き当たるのを避けることに努めれば良かった。消費者は常にもっと多く物を買おうと心掛け、企業者は常にもっと多くを投資しようと待ち構えていた。いまや経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々に比べれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期に比べれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや「戦後」ではない。我々はいまや異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。そして近代化の進歩も速やかにしてかつ安定的な経済の成長によって初めて可能となるのである。(以下省略)》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
ちなみに,上に引用した「昭和31年度 年次経済報告」中の文言《もはや「戦後」ではない》については,原典を参照しないコピペが行われた結果,いつの間にか意味内容に歪曲が発生している.このことに関しては拙稿《経済白書の都市伝説》があるので,詳しくはそれを参照して頂きたい.
さて,上記の経済白書が発行された昭和三十一年七月の翌八月,日本戦後史に記憶されるべきもう一つの事件があった.我が国で世界最初の食器野菜専用洗剤「粉末ライポンF」が発売されたのである.
昭和二十五年 (1950年) 六月二十五日,ソ連のスターリンに頼み込んで韓国侵略の同意を取り付けた金日成が,スターリンに援助供与されたソ連製戦車を押し立てて,事実上の国境線と化していた三十八度線を奇襲南下して韓国に侵略戦争を仕掛けた.しかしスターリンが期待したほどには強くなかった北朝鮮は,当初は快進撃を続けて釜山付近まで油断していた国連軍を追い詰めたが,そこからマッカーサー将軍率いる米軍に反撃されて押し戻され (仁川上陸作戦),敗北必至の情勢となった.
そこで金日成はスターリンに泣きを入れてソ連の参戦を要請したが,体よく断られた.第二次大戦において,ヒトラーと共に欧州侵略戦争を指揮したスターリンにしてみれば,金日成なんぞは一介の弱卒に過ぎず,役に立たない奴は捨てて顧みないのが非情この上ないスターリン主義の真髄である.
ただし,金日成はどうでもいいが,朝鮮半島を米国が制圧するのは気に入らないので,スターリンは金日成に「中国に助けを頼め」と言った.
窮地の金日成はなりふり構わず毛沢東に助けを請うた.中華人民共和国建国直後のため毛沢東と林彪は,米国との戦争に反対であったが,スターリンは毛沢東らに参戦せよと圧力をかけ,百戦錬磨の彭徳懐が彼らを「人民解放戦争が延びたと思えばよい」と説得した.
帝国主義者スターリンの意向に逆らうことは如何に毛沢東とて不可能であった.そこで正式には参戦していない形をとるために金日成が仕掛けた侵略戦争には義勇軍を派遣することにし,司令官には彭徳懐が就いた.
彭徳懐が戦争指揮を始めてみると,実戦経験のないくせに金日成がエラソーにやたらと作戦に口を挟んできた.
Wikipedia【彭徳懐】によれば,彭徳懐は無能な金日成を一喝して《この戦争は私とマッカーサーのものだ。貴下の口出しする余地はない。私が人民解放軍、八路軍副司令官の時、貴下は抗日東北連軍の師長にすぎなかったではないのか》と述べたという.
金日成と彭徳懐が対立していると聞いたスターリンは,当然のことながら小物に過ぎない金日成を排除し,以後,中国共産党における最もスターリニスト的な政治家である毛沢東が暗躍して,革命の立役者である彭徳懐を打倒するまで,金日成は脇に追いやられることになった.
こういうドタバタ劇はあったが,彭徳懐とマッカーサーの戦いは泥沼化し膠着状態に至った.
幼稚な「革命」を夢見た金日成の小児病的暴走から三年後,三月にスターリンが死去したために毛沢東は戦火を収める気になり,七月に休戦協定が締結されるまでに,米軍三万三千人,中国軍は少なくとも十一万六千人が戦死した.韓国と北朝鮮では合わせて六十六万人の兵士と二百万人の民間人が命を落とした.(参考資料;NスペPlus《朝鮮戦争 不信と恐怖はなぜ生まれたのか?》[初回放送日 2019年3月1日])
実は朝鮮戦争の泥沼化こそが戦後日本の復興を牽引した.朝鮮特需である.その額は昭和二十五年 (1950年) から同二十七年 (1952年) までの3年間に特需として十億ドル,1955年までの間接特需として三十六億ドルと言われる.
この朝鮮戦争が日本の針路を決めた.占領当初にGHQ内部で力を持っていた民生局はリベラルな思想を持つ中道左派の人々が主導権を持っていた.
彼らが日本国憲法のGHQ草案を作った人々であった.
民生局は戦後日本の進むべき姿について,平和主義的農業国の姿を想定していた.ところが,朝鮮戦争の勃発によって民生局は力を失った.朝鮮戦争後の冷戦において日本を反共産主義の砦とし,米国の同盟国として経済的に自立した工業国とすることが米国の政策となったからである.
ちなみに民生局が日本を農業国にしようとしていたのは,日本が侵略戦争を開始した主要な動機が「ジャポニカ米の確保」だったということを正確に理解していたからである.
ちなみに私が義務教育を受けた頃は,太平洋戦争を開戦した動機は石油資源を確保するためだったと教えられた.しかし輸入工業資源を確保するという大義名分は,帝国主義日本に対する包囲網ができたあとの話である.日本の帝国主義化は,食糧問題に起因していたのである.
実は開戦前の日本は深刻な食糧危機に陥っていた.朝鮮と台湾,さらに満州国へと侵略の歩を進めたのは,主食としていたジャポニカ米を国外で栽培して国内消費に充てるためであった.この事実は,ようやく近年になって公益財団法人農林水産長期金融協会の海野洋氏が実証的に明らかにした.日本がなぜ侵略戦争に突き進んだか理解するには,海野氏の労作『食糧も大丈夫也―開戦・終戦の決断と食糧』が必読である.
この出版に際しては著者本人による講演が催されたので,講演録を紹介しておく.
「開戦・終戦の決断と食糧」について ―軍・外地を含めた大日本帝国として―
さて,〔雨ニモマケズ〕の一節にこうある.
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
これが敗戦までの日本人がのぞむ食生活であった.
少しの副食で大量の米飯を食う.これが「腹いっぱい食う」という日本人の「理想の食事」であった.
しかしその「理想」は,米作農業は非常に生産性が低いため,人口増加に生産量が追いつかず,結果的に海外からジャポニカ米を収奪するという方向に進まざるを得なくした.
その反省に立ち,農林,厚生,文部,その他各省の官僚たちは奇しくも方向性を同じくした.
日本人の「理想の食生活」をいったんリセットしようというのである.
文部省は,当時東北大学医学部教授であった近藤正二博士とGHQ民生局の相談の結果に従い,学童の体格向上のために米飯ではなくパン給食を採用した.これはその後,目論見通りの結果を得た.
江戸時代から昭和二十年の敗戦まで,日本の農業は肥料として下肥に大きく依存していた.
都市部で発生する人の大小便を郊外の農村に運び,これを直接畑に撒くか,あるいは堆肥に加工して土にすき込んだ.
このように人のし尿が都市と農村を循環すると,寄生虫の循環サイクルが成立してしまう.
実際,私が小学生時代には回虫症が猖獗を極めていて,栄養失調はもちろん,肺や循環器を侵されて死亡する者も珍しくはなかった.
そのため文部省と厚生省は,小学校で定期的に学童全員に駆虫剤 (カイニン酸製剤) を服用させて,回虫症の撲滅を図った.私も飲んだ (飲まされた) 記憶がある.
しかし駆虫剤では,農村から継続的に寄生虫卵が都市に移動してくるのを止めることができない.
根本対策は,寄生虫循環サイクルを断ち切ることだ.
まず農林省は,野菜栽培における下肥の利用を排除し,化学肥料の使用を推進した.化学工業を盛んにするには,朝鮮戦争の特需が寄与した.「清浄野菜」という言葉が生まれた.「清浄野菜」であること,すなわち下肥を使わないことにより寄生虫卵が付着していないことが,野菜の新たな付加価値になった.
また機械化と農薬の使用が農家に余剰労働力をもたらし,その労働力は都市部に流入して第二次産業の労働力を賄った.
厚生省はといえば,「公衆衛生」や「国民栄養」に取り組むことになった.
その一例に,上記の人体寄生虫害の撲滅があった.
まず現状の改善だが,回虫卵が付着した野菜等の作物から,各家庭で回虫卵を除去することが必要だった.
そこで「昭和31年度 年次経済報告」が公開された昭和三十一年 (1956年) の五月,ライオン油脂 (現ライオン) の社史 (「ライオン120年史」) によれば,厚生省環境衛生部 (当時) は同社に,寄生虫による健康被害対策として,食器や野菜・果物類の洗浄に使用できる洗剤の開発を依頼した.そして同年八月,日本食品衛生協会の推奨品第一号としてライポンFが発売された.Fは「フレーク」状を意味していたとの説が有力である.
遅れて翌々年の昭和三十三年 (1958年),花王石鹸から粉末タイプと液体タイプのワンダフルKが同時発売された.先発の粉末ライポンFは厚生省からライオン油脂に開発依頼があったと同社の社史に記載されているが,花王石鹸のワンダフルKには厚生省の要請に関する資料が見当たらない.ライポンFの発売から二年も遅れていることからすると,花王石鹸には厚生省の依頼がなかった (行政の依頼は業界団体を経由して行われるのが通例だから,これはちょっと考えにくいことではある) か,花王石鹸が要請を無視したかのいずれかであろう.
私は花王石鹸が依頼に応じなかったとみる.しかしこれは異とするにあたらない.自社は先発リスクを取らず,先発他社が成功すれば後からタダ乗りする会社は,現在でも普通にあるからである.
だが,
この製品について花王の社史に基づく情報が,産業技術史資料情報センターに《ワンダフルK》の詳しいデータが登録されている.(一方,先発品のライポンFには詳しい説明がない)
このデータによれば,ワンダフルKの説明に《戦後、食生活が大きく変化して食器の油汚れがひどくなり、また生野菜をとる習慣も広がったことに伴って、食器と野菜・果物洗い専用の洗剤が求められるようになった》とある.さらに《生野菜についている回虫卵や農薬を取り除くことができた》との記述がある.
食糧安全保障の考えからすると,
1956年 粉末ライポンF
1958年 粉末ワンダフルK
1958年 液体ワンダフルK
1959年 液体ライポンF
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