比企谷由緒
昨日 (7/20) 放送されたNHK《歴史探偵》は,大河ドラマとのコラボ企画で《鎌倉バトルロイヤル》だった.
番組の前半は曽我兄弟の仇討に隠された北条時政の陰謀についてであったが,後半は北条と比企の争いに触れた.
ここで探偵役の森田アナが,比企一族ゆかりの比企谷 (ひきがやつ) にある妙本寺を訪れた.
森田アナは,鎌倉歴史文化交流館の学芸員である山本みなみさんに案内してもらった.下はその時の二人の会話である.
山本《(この辺りは) 今でも比企谷と呼ばれている場所です》
森田《地名になっているぐらいの武将なんですね,比企能員》
山本《あ,そうですね》
歴史探偵を名乗っているのだから,森田アナはもう少し詳しい歴史知識を語って欲しかった.(知っていれば,だが)
Wikipedia【比企氏】に,比企氏の出自について次のようにある.これについて諸説異論はない.
《比企氏は、藤原秀郷の末裔であり、本姓は藤原鎌足を祖とする藤原姓である。始祖である比企能貴は、武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)に住んでいたことから比企氏と称した。》
武士が勃興した時代,由緒正しい家柄の武士は,本来の姓の代わりに領地の名称を名乗ることが多かった.姓を用いると「平」「源」「藤原」ばかりでややこしいということもあったろう.
上の比企氏の出自にあるように,地名の比企は,元々は武蔵国の土地である.森田アナは誤解しているようだが,鎌倉時代の武士は地名に名を残すのではなく,普通は逆に地名を名乗ったのである.比企氏もその例に漏れない.同様に,梶原景時が有名な梶原氏は相模国鎌倉郡梶原に居を構えたので梶原と称した.大庭景親で知られる大場氏は相模国大庭御厨(今の藤沢市辺り) が領地であったから大庭氏を名乗った.
さて鎌倉の妙本寺周辺の地名は,比企一族の末裔が妙本寺を開山して以来,明治時代に至るまで,鎌倉郡大町村であった.
比企谷 (比企ヶ谷とも) が地名として行政の資料に現れるのは昭和になってからである.
吾妻鏡には「比企谷殿」「比企谷家」が見えるから,比企谷は所領の名称というよりは,比企能員その人,もしくは能員の館を指したものと思われる.それが昭和になってから能員の館跡地の辺りを比企谷と呼ぶようになったのだろう.
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ウクライナに自由と光あれ
(国旗画像は著作権者来夢来人さんの御好意により
ウクライナ国旗のフリー素材から拝借した)
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