食品のブランドは製法とは無縁のものか /工事中
日経《「八丁味噌」巡る老舗の訴え却下 東京地裁》[掲載日 2022年6月28日 21:00] から下に引用する.
《農林水産省が地理的表示(GI)保護制度に登録した愛知県の豆みそ「八丁味噌」を巡り、老舗の「まるや八丁味噌」(同県岡崎市)が伝統的手法と生産方法が異なるとして国に登録取り消しを求めた訴訟の判決で、東京地裁は28日、訴えを却下した。
原告側は、加盟していない組合の製法に基づく豆みそがGI産品に登録され、将来的に八丁味噌の名称で販売できなくなると主張。中島基至裁判長は「GI産品との混同を防ぐようにすれば、八丁味噌の表示ができる」とし不利益は限定的とした。》
食品産業に従事する者や技術者,研究者および食品に関心ある国民にとって,愛知県岡崎の特産品である八丁味噌に関して,戦国時代から現在に至る本家本元の製造者と,昭和末期に類似品の製造を始めた新参サードパーティ製造者との間で,長らく係争が行われてきたことはよく知られている.上に引用した新聞記事は,その最新の状況である.新聞社によって東京地裁の判決趣旨が異なるので記事読者は本件の理解が困難であるが,八丁味噌を巡る係争全体についてはウェブ上に解説がいくつかあるので,それを参照されたい.
愛知県岡崎の名産「八丁味噌」は,戦国時代,岡崎城より西へ八町 (約八百メートル) 離れた八丁村で創業した二軒の味噌蔵,大田弥治右衛門家の「まるや八丁味噌」と早川久右衛門家の「カクキュー」が始まりである.
しかし,昭和五十六年 (1981年) に「カクキュー」の前身企業が起こした商標絡みの裁判で,東京高裁が下した判決が,現在の「八丁味噌」の名称を巡る混乱を引き起こした.これについてWikipedia【八丁味噌】から一部を下に引用する.
《東京高裁は「『八丁味噌』とは、愛知県岡崎市を主産地とし、大豆を原料とする豆味噌の一種であり、『八丁味噌』なる文字は、該商品を指称する普通名称であると認められる」ことを根拠として、カクキュー一社による商標出願を斥けた。ただしこれはあくまで「合資会社八丁味噌」という8文字の言葉に対してであり、「八丁味噌」という言葉に対する拒絶を意味するものではないとした。
このように、「八丁味噌」という言葉は普通名称であることが認定されているが、同判決は、当時の名古屋地方におけるNTT職業別電話帳(タウンページ)、および岡崎地方におけるNTT50音別電話帳(ハローページ)にて「八丁味噌」の名称又は名称を冠したものはこの2社のみが記載されていること、および八丁味噌は愛知県岡崎市において江戸期より太田家及び早川家を製造元として作られてきた同地方の特産品であり、現在も合資会社八丁味噌(カクキュー)と株式会社まるや八丁味噌(当時は合名会社太田商店)の2社のみで醸造されていることを認めた。》
東京高裁判決は,《八丁味噌は愛知県岡崎市において江戸期より太田家及び早川家を製造元として作られてきた同地方の特産品であり、現在も合資会社八丁味噌(カクキュー)と株式会社まるや八丁味噌(当時は合名会社太田商店)の2社のみで醸造されている》ことを認めたにもかかわらず,「八丁味噌」は普通名詞であるとした.これは明らかな矛盾だ.健全な日本語感覚であれば,「八丁味噌」は製造者が老舗の二社に限られ,製造所所在地も限定されている以上,固有名詞だからである.
司法の判断が正しいとは限らぬ.上記の東京高裁判決は「八丁味噌」は単なるブランドであり,製造に特別な醸造技術は必要としないのだと言っている.まるや八丁味噌およびカクキューでなくても,八丁味噌なんか誰でもどこでも同じものを作れる言っている.だから八丁味噌という言葉は普通名詞であり,それを老舗二社の製品に限定してはならないというわけだ.
この「誰でもどこでも同じものが作れる」という思想は国中に蔓延している.例えば,最も酷い例は讃岐うどんだ.讃岐うどんは普通名詞であるから,全国どこで製造しても,讃岐うどんを名乗れると公正取引委員会が言明している.(Wikipedia【讃岐うどん】)
行政的に讃岐うどんの製品規格 (と製法) が定められていればそれでもよかろうが,生麺で名産,特産,本場,名物等を表示する場合は基準 (公正競争規約) があるが,それ以外の場合にはそんなものはない.そのため全国各地で勝手に讃岐うどんが製造されている.
一番有名な「香川県とは無縁の讃岐うどん」は丸亀製麺である.
ITmedia《丸亀製麺は“讃岐うどん”の看板を下ろしたほうがいい、これだけの理由》[掲載日 2022年2月22日 11:43] から下に引用する.
《あまりにも有名な話なのでご存じの方も多いだろうが、丸亀製麺を運営するトリドールホールディングスは兵庫県が発祥で、創業時は焼き鳥屋である。「讃岐うどん」の本場である香川県と縁もゆかりもないし、屋号である丸亀市には店鋪はもちろん、製麺所を経営したこともない。》
兵庫県の焼鳥屋だった店 (今の丸亀製麺) が讃岐うどんの店を始めたら大当たりして,ついには消費者は丸亀製麺こそが讃岐うどんの代表選手だと認知するに至った.
香川県と県民にしてみれば,憎き丸亀製麺に切歯扼腕だが,相手が公正取引委員会では勝ち目はゼロだ.
これと似たことを農水省がやった.
上に述べたように,東京高裁が「八丁味噌」は普通名詞であると決めたために,老舗二社が大切にしてきた伝統的製造法は価値を失った.
誰でも「うちの豆味噌は八丁味噌です」と言えば,それが通るようになったのである.愛知県内の味噌製造者の中に,それまで本家本元の老舗八丁味噌に遠慮して,八丁味噌を名乗らなかった愛知県内業者が「うちの豆味噌は八丁味噌です」と言うようになった.
既に述べたカクキューとまるや八丁味噌は,「八丁味噌」の名の由来として「岡崎城から西に八町のところの村で創業致しました」と顧客に語ることができるが,それができない.
例えばイチビキ (名古屋市) には「無添加八丁味噌」という商品があるが,製品名「八丁味噌」の意味の説明はない.もし説明しようとすれば東京高裁判決を製品名の根拠とするしかないが,いくらなんでもそれはみっともない.恥ずかしい.
さらには同社には「愛知県産大豆100%の豆みそ」があるのだが,共に豆味噌であるのに両者の違いを説明できないのである.
同社の公式サイトからコピーすると,「愛知県産大豆100%の豆みそ」の商品説明は《愛知県産大豆「フクユタカ」と天日塩を使用し、昔ながらの木桶で、じっくり熟成させました。添加物を使用せず、みそ本来の風味が味わえます》であるが,「無添加八丁味噌」は《地理的表示保護制度(GI)規格を満たした、無添加の八丁味噌です。豆みその特徴である旨みやコクを活かして、おみそ汁や煮物、料理の隠し味にも使えます》と書かれている.
これを素直に比較解釈すると,「無添加八丁味噌」は原料に愛知県産の指定がない.国産大豆使用ですらないかも知れない.また「愛知県産大豆100%の豆みそ」は天日塩を使用しているが,「無添加八丁味噌」は使用する塩の指定がない.さらに,「愛知県産大豆100%の豆みそ」は木桶で熟成させているが,「無添加八丁味噌」は木桶で熟成とは書かれていない.ということはおそらくタンク熟成だ.
こうしてみると,消費者に対して商品名に込めるメッセージがなく,原料も製法もなんら訴求ポイントがない.
それでもイチビキは「無添加八丁味噌」を製造している.たぶん何の工夫努力をしなくても「八丁味噌」と名付ければ売れるからだろう.
このように,「八丁味噌」は普通名詞だと断じた東京高裁判決がもたらしてものは,岡崎という土地に生まれた食文化の衰退だった.
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