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2022年5月 6日 (金)

鎌倉期の一途な妻は

 つい最近,かなり前に書いた《江戸期の妻たちの戦争》(2018年9月11) にアクセスが少しあった.
 おそらく大河ドラマを観て,北条政子が亀の前を襲撃させた事件 (後妻打ち;読みは「うは(わ)なりうち」) のことを知った人が検索し,この記事にアクセスしたのであろう.
 だが,私の記事《江戸期の妻たちの戦争》では政子のことは書かなかった.なぜかというと,平安・鎌倉時代の後妻打ちはシリアスというか,暴力的で洒落にならないのである.このことについて,Wikipedia【亀の前】には次の記述がある.
 
鎌倉時代に成立した『吾妻鏡』によると、亀の前は頼朝の伊豆国での流人暮らしの頃から仕えており、容貌すぐれて柔和な性格で気に入られ、頼朝は寿永元年(1182年)の春頃から密かに亀の前を鎌倉に呼び寄せて寵愛していた。
 頼朝の正室・北条政子が万寿(後の源頼家)を妊娠中の寿永元年(1182年)6月、日を追って寵愛が増した頼朝は亀の前を小坪(逗子市)の中原光家の宅に呼び寄せる。外聞を憚って居拠を遠くに構えたという。
 その後、頼朝は亀の前を飯島(逗子市)の伏見広綱の宅へ移して寵愛を続けた。8月12日に出産した後、この事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月10日、牧の方の兄・牧宗親に命じて広綱宅を破壊する後妻打ち(うわなりうち)を行い、大いに恥辱を与えた。亀の前は広綱に連れられ、命からがら鐙摺(葉山町)の大多和義久の宅へ逃れた。
 11月12日、怒った頼朝は遊興にことよせて鐙摺に出向き、牧宗親を呼び出して叱責した。宗親は顔を地にこすりつけて平伏したが、怒りの収まらない頼朝は自ら宗親の髻を切って辱め、宗親は泣いて逃亡した。これを知った政子の父・北条時政は義兄である宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆国へ立ち退いてしまう騒動に発展した。
 12月10日、亀の前は小坪の中原光家の宅へ移された。亀の前は政子の嫉妬をひどく恐れたが、頼朝の寵愛は深まった。16日、政子の怒りが収まらず、伏見広綱は遠江国へ流罪となった。
 この騒動の顛末がどうなったかは、『吾妻鏡』の寿永2年(1183年)が欠文のため追うことができない。亀の前のその後も不明である。
 
 つまり,亀の前を後妻打ちにせよと命じたのは政子ではあるが,亀の前がかくまわれていた伏見広綱の家に実際に押し入って破壊する暴力行為を働いたのは,武士である牧宗近なのである.
 屈強な男が,頼朝が寵愛した心優しい手弱女を実力で住処から蹴散らしたのである.まことに武士の風上におけぬ振る舞いである.
 しかも,頼朝の怒りをかった牧宗近は腹いせに髻を切られたくらいで済んだが,祐筆にすぎぬ伏見広綱は流罪にされて人生が詰んでしまったのである.政子は,夫である頼朝の祐筆を流罪にしてしまうという剛腕で,やることがもう無茶苦茶である.頼朝のメンツ丸つぶれ.
 こういう妻も夫もへったくれもない家庭内権力争いは,後味が悪いと言わざるを得ない.
 
 さて,政子が亀の前を後妻打ちにしたことについて,Wikipedia【後妻打ち】に次の記述がある.
 
その背景としては、単なる政子の嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は貴種である頼朝の正室としてはあまりに出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったためと考えられる。
 
 この記述は意味がわからぬ.
 政子の出自が低いために正室の地位が安定していないのであれば,むしろ逆に頼朝の愛を得ようとするのが普通だ.
 それなのに政子は,頼朝の神経を敢えて逆なでする行動にでるのだ.
 というのは,頼朝は貴種ではあるが地位が不安定であるため,政子に逆らえないのである.政子をないがしろにした頼朝に怒った時政が伊豆に立ち退いた時に,頼朝があわてふためいたことをみれば明らかだ.政子の正室としての地位は盤石だったのである.
 ではなぜ政子は,いくら自分よりも美人で気立てがよいとはいえ身分の低い愛人にすぎぬ亀の前に後妻打ちを行ったか.
 政子がやった後妻打ちについては,片山剛氏による論考がある.(「うはなり」「こなみ」の諸相 (1) ―平安時代を中心に―)
 それによると,
 
都育ちの頼朝にとって権力ある者が複数の女性と関係を持つことはとりたてて咎められるべきことではないという認識だったのかもしれない。しかし、野村育代氏が言われるように「東国ではすでに一夫一妻が強く結び付いて家を構え、経営をともに行なう形が一般的になっていた」のであれば、時政父娘、特に政子にすれば頼朝の浮気は許しがたいことだったのだろう。この時期、源義仲は北陸にあって、翌年は倶梨伽羅峠の戦い、篠原の戦いなどを経て都に入り平家を都落ちに追い込む。つまりこれからがいよいよ源平の決戦なのである。頼朝は鎌倉にいたからこそこのようなことができたといえようか。
 政子の「うはなり打ち」の経緯をたどると、自らは手を下さず、責任は実行者に転嫁され、相手の生活を妨害し(家や調度を破壊する)、夫は他人事のように同じ事を繰り返すなど、時代も地域も異なりながら、蔵命婦のそれと似通った点が多く見受けられよう。
 
 平安時代に生きた女性で,後妻打ちで有名な蔵命婦 (蔵命婦は大中臣輔親の妻で,後妻打ちを二度もやった女性として有名) のことなどは,諸兄には詳しくは片山氏の原著を読んでいただくとして,つまりは政子の後妻打ちは単なる政子の嫉妬ではなく,女とみればすぐ手を出す風潮の京の都と,夫婦は一夫一婦の契りであるとする東国では,結婚観に違いがあったことが事件の根底にあることがわかる.頼朝と亀の前は,東国の夫婦のルールを破ったのである.政子の怒りは「わたしと契っておきながら,こそこそ隠れて他の女とあんなこととかこんなこととかをするなんてアアいやらしいわ許せないわ」という女の嫉妬ではなく,東国武士の名誉に関わることだったと理解すべきである.
 
 この政子の夫婦観あるいは男女観は,有名な静御前の舞の件でも明らかである.
 文治二年四月八日,静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた.そこで静は,
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
 と義経を慕う歌を唄い,頼朝を激怒させた.
 Wikipedia【静御前】によれば,政子は《「私が御前の立場であっても、あの様に謡うでしょう」と取り成して命を助けた》という.
 しかしこの場面は《取り成して命を助けた》のではなかろう.夫への一途な思慕こそが女というものなのであると,政子は,女とみればすぐあんなこととかこんなこととかする 頼朝の前で言い切ったのだ.私も静と同じだ,だからこそ夫の裏切りは許さぬ,と言ったのである.
 ま,頼朝といい義経といい,政子の一夫一婦の信念は理解の外であったろうが.
 
 中世のシリアスな後妻打ちに比較すると,その後に江戸期まで存在した後妻打ちは明るい.(拙稿《江戸期の妻たちの戦争》参照)
 下の画像 (ロサンゼルス郡立美術館蔵;パブリック・ドメイン画像) は歌川広重の「往古うはなり打の図」である.後妻打ちは徳川家光の頃には廃れていたので,広重は「往古」とした.
 この画像に描かれている女たちの得物 (えもの) をよく見るとおもしろい.
 右側三分の一に棍棒のようなものを持った女がいるが,これは山椒のスリコギで,凶器と呼べるものはこれだけである.これを振り回しているのがたぶん前妻だと私は思う.w
 あとは長箒,はたき,軒に暖簾を下げるための細い棒,十能,編み笠,菜箸,竹ささら (鍋を洗うタワシ),片手ざる (茹でたうどんを掬いあげるやつ),大小のしゃもじ,鍋敷き (空中を飛んでいる),火吹き竹,平ざる(楯代わりにしている),蒸籠,深い籠,箱,鍋蓋など.素手もいる.木刀は怪我をするので禁止されていたという.禁止って,誰がルールを決めたのか.w
 やる気充分なのは前妻だけだが,スリコギを振り回す目的は新妻を殴打することではなく,新妻が揃えた鍋釜を打ち壊すことである.w
 この浮世絵を観て思うのは,この頃の後妻打ちは娯楽イベント化していたのではなかろうか,ということだ.
 いついつ討ち入ると前妻が後妻に予め通告し,しかも双方が仲裁役を立てておき,騒動の頃合いをみて仲裁役が止めに入るという様式となっている.たぶん見物人も出ていたのではなかろうか.前妻と新妻はそれぞれに加勢する女を頼むわけだが,この後妻打ちがあると出てくるセミプロだったと思われる.
 まことに天下泰平.いつの世にも女たちが髪振り乱してつかみ合うのは見世物としておもしろい.女子プロレスなんかも
 
20180910a
 
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ウクライナに自由と光あれ
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(国旗画像は著作権者来夢来人さんの御好意により
ウクライナ国旗のフリー素材から拝借した)


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