前歯工事中 /工事中
私は昭和四十七年に大学を卒業して,食用油を製造する会社に入った.その会社は次第に業績が低下し,創業一族の末裔にあたる経営者が会社を私物化して美食とゴルフ三昧に遊び呆けた結果,お先真っ暗な状況の中で大きな食品企業に吸収されて今はもう存続していない.「吸収されて」というより,吸収してもらった,というほうが社員の気持ちに近い.
それはともかく昭和四十七年,私は静岡県清水市 (現在は静岡市に吸収された.私の人生は吸収されるのが基調なのだ w) にある工場に配属された.
私の職場は研究室だが,製造現場に松村さんという中年の人がいた.気性のよい人で,みんなに「まっつぁん」と愛称で呼ばれていた.
そのまっつぁん,ある日安い居酒屋で大酒を喰らって,自転車に乗ってフラフラと帰宅する途中,ブロック塀に正面からぶつかり,顔の正面から地面に激突したために,上側の前歯を三本も失った.
翌日から,前歯三本を失くしたまっつぁんが困ったのは,工場の食堂で摂る昼飯だった.
前歯がないと,やわらかい定食のおかずのコロッケすら,噛んで口に入れることができないのである.
白いご飯も,前歯なしでは非常に食べにくい.
そこで食堂の配膳口でおばちゃんに相談したら「うどんは噛まなくても食べられるんじゃないですか」と言われた.
そりゃいい考えだ,というわけで,かけうどんを作ってもらい,丼を手にして私が腰かけていた席にやってきた.
前歯がないと発音が不明瞭になる.まっつぁんは私の前の席に陣取って,何やらモゴモゴ言いながら,うどんをすすった.
しかし,あまり知られていないことだと思うが,前歯がないと,麺をすすることができないのである.
もし諸兄が前歯を三本失うことがあったら,ぜひうどんを食べてみることをお勧めする.
まつつぁんは「うどんをすすっても,前歯の無いとこから外にずるずる出てきちゃうんだよなあ」と嘆いた.
あれから幾星霜.
つい先日,私はパンを噛んだとたんにパキっ,という音を聞いた.噛みとったものを吐き出してみたら,右上の側切歯だった.(《歯の名称》を参照のこと)
側切歯が縦に割れて,鏡に映すと,前から見て左半分が欠けたのである.
私の歯は虫歯を治療した歯だらけだが,欠けたのは人生で初めてのイベントである.五十年前の,まっつぁんの思い出が蘇った.
これはパンを噛んだために歯が欠けたというより,老化で歯が弱くなってヒビが入り,それが割れたのだろう.
俗に「歯,目,○○」と言う.しかし私の場合は老眼が最初で,次に○○がダメになり,とうとう歯が欠けたというわけである.
なんだか,しみじみと悲しい.
コロナ禍が日本社会を覆って以来,「受診控え」が増えたという.私は二ヶ月に一度,かかりつけ医に行くが,それ以外は病院に行きたくない.クリニックが年寄りの社交場だったなんて時代はもう来ないのだ.私のかかりつけクリニックでも,予約制だから待合室には一人か二人しか患者はいない.
とはいうものの,歯が欠けたら歯医者に行かざるを得ない.まっつぁんではないが,前歯が一本欠けただけで,まともに食事ができくなったのである.
致し方なく歯科クリニックに電話して,簡単に状況を説明して予約を取った.
コロナ禍の前に受診したことのある歯科だが,担当になった歯科医は若い女性だった.(前は男性だった)
私の欠けた歯を診察してから,治療方針を説明してくれた.
この側切歯は未だ根が残っていたので,まず根管治療を行い,その上に土台を作ってから全体に被せ物をする形の治療にするということである.
第一日目は歯根の神経を抜いて掃除をして薬を詰め,欠けた歯の部分にフタのようなものを作ってくれた.
これはたんなるフタだから,食べ物を噛まないようにしてくださいとのことだった.
しかし第二回目の治療の前日に,ニッスイの冷凍焼きおにぎりをオーブントースターで焼いて食べたとたんにフタが取れて,それと一緒に欠け残っていた部分の歯も取れてしまった.
つまり,家に喩えると,更地になったのである.
私は「焼きおにぎりではなくお粥にすればよかった」と心底がっかりし,翌日,歯の小さな残骸をラップに包んで歯科クリニックに行った.
事情を説明すると,「こういう歯は弱くなってますからねー,はーい,それではお口を開いてくださーい」と言いつつ,何事もなかったかのように歯根の治療を再開した.
歯科医の先生によると,根に縦にヒビが入ってしまうと全部抜かざるを得ないのであるが,そうでなければその根に「歯の土台」を接着し,その「土台」に,人工的に作った「歯」を被せる治療はできるのだという.(そういうイメージであって,実際にどうするかは知らない)
この欠けた歯は,もう抜いてしまうしかないのだ,つまり入歯 (毎日就寝前に外してコップに入れて洗浄し,次の朝にポリグリップでまたくっつける) とかインプラント (治療費が激しく高い) とか,そういう暗い方向のことしか思っていなかった私は,驚いた.
歯科の技術はすごい.
根も葉もない,と人はいうが,根があれば歯はできるのである.
説明を聞いた私は嬉しさのあまり「はーい,お口を開いてくださーい」と言われて思いっきり口を開いたので顎が外れた.嘘です.
で,現段階は,本格治療工事に入る前に,欠けた側切歯のところにフタではなく「仮歯」を入れたところである.(《仮歯とは》)
仮の歯だから,敢えて硬いものを噛んではいけないが,普通に食事するのはできるという.鏡で見ると,ちゃんと歯があるように見える.よかった.
テレビCМで入歯安定剤
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