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2022年3月28日 (月)

出典探し

 昨日掲載した記事に,瓢水 (滝瓢水あるいは瀧瓢水.滝野瓢水とするのは誤りだとのこと) の句と伝えられる「手に取るなやはり野に置け蓮華草」を紹介した.(実はこの句は瓢水作ではない.これについては後述する)
 ところが,《いきなりサラリーマン!頑張ります(^^)v》というブログにも,二年近く前に書かれた記事に,この瓢水の句が引用されている.(下のスクリーン・ショット;今日3/28に作成)
 
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  このブロガーは,記事のタイトルを《手に取るな やはり野に置け蓮華草》としているのに,記事本文では《本来の意味を調べて見ると、コトバンクというサイトにこんな風に解説されていました》と書いた上で,《ものには、本来それにふさわしい場所というものがある。取らずともやはり野に置け蓮華草》としている.着色した文字の箇所が食い違っているわけだ.
 妙なことを書くひとだなあと不思議に思って,このひとが根拠としているコトバンクで「やはり野に置け蓮華草」を調べてみた.
 すると,「ことわざを知る辞典」に
 
蓮華草は野に咲いていてこそ美しいのだから、摘み取らないのがよい。草木も人も本来あるべき所でそのまま愛めでるのがよいというたとえ。
 [解説] 遊女を身うけしようとした友を戒めて、播磨(兵庫県)の瓢水という人が作ったといわれる俳句「手に取るなやはり野に置け蓮華草」の前半を略したもの。
 
とある.
 件のブロガーが書いている《ものには、本来それにふさわしい場所というものがある。取らずともやはり野に置け蓮華草》なんてことは一言も書かれていない.どういうことだ.w
 コトバンクには色々な出典が別々に掲載されていることがあるから,別の検索語で検索してみた.
 すると,《デジタル大辞泉「矢張り野に置け蓮華草」の解説》に,
 
《播磨の俳人瓢水の句「手に取るなやはり野におけ蓮華草」から》野原で咲いているからこそレンゲソウは美しいのであって、摘んで観賞するものではない。そのものにふさわしい環境に置くのがよいというたとえ。》とある.
 
 とある.また《デジタル版日本人名大辞典+Plus「滝瓢水」の解説》に,
 
滝瓢水 たき-ひょうすい
 1684-1762 江戸時代中期の俳人。
 貞享(じょうきょう)元年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)の人。松木淡々にまなび,小西来山,山口羅人の影響をうけた。富裕な船問屋であったが一代で没落,「続近世畸人伝」「続俳家奇人談」などがその奇行をつたえている。宝暦12年5月17日死去。79歳。通称は叶屋新之丞。別号に富春斎,一鷹舎,自得など。句集に「柱暦」「はりま拾遺」など。
【格言など】手に取るなやはり野におけ蓮花草(「続近世畸人伝」)
 
と書かれている.
 コトバンクに瓢水の句が掲載されているのは,以上の「やはり野に置け蓮華草」「矢張り野に置け蓮華草」「滝瓢水」の三項目の他に,精選版日本国語大辞典「蓮華草」とデジタル大辞泉「蓮華草」があるが,いずれも「手に取るな」である.
 とすると,件のブロガーが書いている《取らずともやはり野に置け蓮華草》の出典は何だということに興味が湧いた.《取らずとも》では日本語として意味不明ではあるが,コトバンクではない他の資料に書いてあるのかも知れない.
 そこで直接「取らずともやはり野に置け」で検索してみた.
 そして私は遂に見つけた.畑啓之というかたが書いた文章《「⼿に取るな やはり野に置け 蓮華草(瓢⽔)」の蓮華草とは何かを年初に考える》に《取らずとも》が出てくるのだ.当該文章のスクリーン・ショットを下に掲げる.
 
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 あったあった,ありました.どやっ.
 大辞林は現在,第四版である.私の推理では,第三版には《取らずともやはり野に置け蓮華草》が載っていたのであるが,第四版が出版された時にこの《取らずとも……》は削除されてしまった.と同時に,コトバンクからも消えてしまった可能性があるのだ.
 従ってブロガー《いきなりサラリーマン!》氏は,コトバンクで大辞林第三版の記述を読み,それを引用したと思われる.このひとは一体何を言ってるんだ,なんて疑ってまことに申し訳ない.
 あとは,大辞林の第三版と四版を比較してみればよい.横浜の大きな図書館に行けば書庫から第三版を出してきてくれるだろうが,めんどくさいし,コロナ感染流行地の横浜で電車移動して感染するのも嫌だ.そこで古書を注文した.改定前版とはいえ,たった千五百円で状態のよい大辞典が買えるのだから,損はない.
 
 さて《取らずとも》の出典の一つが大辞林第三版であることが判明したが,問題は大辞林第三版がそれをどこから引用したかである.そして第四版でなぜ削除したか,だ.
 この謎を解明すべく,私はさらに検索を続けた.
 すると!問題の核心に迫る論文を私は発見したのである.どやっどやっ.
 日本文学研究者で愛知大学非常勤講師 (当該論文執筆当時;現在は奈良女子大学大学院人間文化総合科学研究科博士研究員) である早川由美氏の論文《宝暦・明和期大坂の雑俳と俳諧―並井至席・岡本蘭古の俳諧活動を中心に―》が「連歌俳諧研究」誌 (2004巻 (2004年) 106号) に掲載されていたのである.
 本論文に,江戸期の俳人岡本蘭古が取り上げられている.蘭古は日本文学の研究者にしか知られていない人のようで,ウェブ上には早川論文以外に人物詳細資料はない.紀伊国屋書店刊『和歌・俳諧史人名事典』(2003年) にも記載がない.もちろん私は初めて蘭古の名を知った.
 早川論文中に,その蘭古について次の記述がある.
 
その明和年間に蘭古は遊里の評判や茶屋女の評判を書いたり、近松半二の助作者として浄瑠璃の脚本を書き、遊郭や演劇界とも近い関係にあった。『当世廓中掃除』(盧橘庵・文化四〈一八〇七〉年刊)の中に、

遊女を千金を積んで請出そふなどゝはいやはや大体の無分別、大坂の麦鱗が句に
摘まずともやはり野におけ砕米花 (ルビ;げんげばな)
とは誠に佳句なり。其里に置いてこそ全盛なり

という一文がある。これは、『浪花色八卦』の著者である外山翁 (麦鱗) にふさわしい句であろう。しかし、それが『続俳家奇人談』(天保三〈一八三二〉) では瓢水居士のこととして、平生したしき人の、難波の遊女を根引きせんと云るをいさめて、

手にとるなやはり野におけ蓮華草

として収録されている。『廓中掃除』の著者盧橘庵は下物・月居・馬宥たちと料理屋の席で評判記の執筆をしたということが『伝奇作書拾遺』に書かれている。盧橘庵が蘭古を見知っていた可能性は高い。また『虚実柳巷方言』にも遊女を根引きすることの愚かさを述べた文章の後に『廓中掃除』と同形で引用されており、この形が古い伝承と考えられよう。伝承の過程で瓢水と同一視されていくような素地が蘭古にあったと考えてよいのではないか。》(当ブログ筆者が上の引用文中に下線を引いた箇所は,引用文中においてさらに早川氏が文献から引用している箇所である)
 
 引用文中の《大坂の麦鱗》は岡本蘭古の別号である.
 早川氏の議論をまとめると,『当世廓中掃除』(盧橘庵,1807年) において「摘まずともやはり野におけ砕米花」は無名の俳人岡本蘭古の佳句だとされているのに,二十五年後の『続俳家奇人談』(竹内玄玄一,1832年,岩波文庫『俳家奇人談・続俳家奇人談』) では,名のある奇人滝瓢水の作と誤り伝えられ,しかも句自体も「手にとるなやはり野におけ蓮華草」と変えられてしまった,というのである.
 早川氏の説は江戸期の文献に基づいていて,いかにもありそうなことだと,説得力がある.
 ネットミュージアム兵庫文学館の常設展示「兵庫ゆかりの作家」でも,《よく知られている「手にとるなやはり野におけ蓮花草」は後年の伝説による句で、実の作ではない》と書かれており,門外漢の私ではあるが,どうやら「手にとるな……」は偽作であることが定説になっているようだとわかる.
 また,「摘まずとも」が「手にとるな」へと変化していった後,次に両者が混同されて《取らずとも》になったと推論することは容易だ.
 すなわち《取らずとも》は伝聞誤用であるから確たる用例の文献がないに違いない.これが大辞林の第三版と第四版の異同に反映されたと私は考える.あとは大辞林の第三版と第四版にあたって確かめる作業が残っているが,およそこの件の概要は明らかになったと思われる.
 
 それにしても,いったん世間に広まってしまった“「手にとるな……」は瓢水の詠んだ句である”という誤りは,今でもウェブ上に広範に流布している.というより,現在でもこの誤りはネット住民の手でますます広く拡散しているのだろう.せめてもの救いは,Wikipedia【滝野瓢水】がこれを誤りであるとする説を注釈欄で小さく紹介している (下記《》に引用) ことだ.そんなヘッピリ腰では,焼け石に水だと思うが.
注釈 最も人口に膾炙した作品であるが、姫路獨協大学教授の富田(渡邉)志津子によると「後年の伝説による句で、実の作ではない」とのことである。》
 
 さて,実は困ったことに,蘭古の真作「摘まずともやはり野におけ砕米花」には,「手にとるな……」の他にもう一つ変化形があるのだ.
 その変化形を記しているウェブコンテンツを一つ紹介する.JBpress《やはり野に置けれんげ草、菅直人 民主党をダメにしたもの (その3)》[掲載日 2012年7月31日] である.筆者は筆坂秀世で,冒頭に次の記述がある.
 
俳人、滝野瓢水(たきの・ひょうすい)の句に「手にとらで矢張野に置け蓮華草」というのがある。蓮華(れんげ)の花は野の中で咲いているからこそ美しい眺めなのであって、摘んで家に持ち帰っても萎(しお)れてしまうだけだ。やはりそのものに合った環境に置くことが大事だという意味である。
 
 筆坂秀世は日本共産党中央委員会常任幹部会の元委員である.セクハラ問題で同党を離党し,転向してからは右派メディアにしばしば寄稿している.
 筆坂がカラオケボクスで女性の腰に手を回したなんて話の真偽に興味はないが,脇が甘いことは確かだ.
俳人、滝野瓢水(たきの・ひょうすい)の句に「手にとらで矢張野に置け蓮華草」というのがある》と書いた時点ですぐ「本当か?根拠はあるのか?」と自問自答すれば,「瓢水はそんな句を詠んでいない」という定説にたどり着くのは容易だが,筆坂はそういうことはしない.思い付きで文章を書いてしまう.
 その思い付きが《手にとらで矢張野に置け蓮華草》である.
 調べてみたが,これが,どこかに書かれてあったのを筆坂が思い出したのか,それとも完全に筆坂の妄想なのかがはっきりしない.
 ま,そのような脳みその有様だから,なんだかわけがわからぬうちに,チークダンスを踊った罪で党幹部をクビになったのである.w
 筆坂の独自研究のことなんか捨て置けばいいようなものだが,一応ここに書いておく.

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