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2022年3月 9日 (水)

ペットと暮らす /工事中

 生物の進化に関する学説とか,動物行動学とか,生き物について科学的な考察を行う上では,対象生物の擬人化を厳しく排除しなければいけない.
 かつて東京都知事だった男が,新型コロナウイルスのオミクロン株が感染拡大を続けていることに関して,こんな阿呆なこと(↓)を述べている.(ABEMA TIMES《「オミクロン株は普通の風邪」舛添氏が持論 「これが(変異の)最後で、あとは無くなるかもしれない」とも》[掲載日 2022年1月9日 14:23])
 
過剰に反応する必要はないと思っている。ウイルスも生き残りたい。たくさんにとりついて、たくさん死んだら生き残れないので、死なせないようにということで肺炎にさせないようになっている。上手く行くと、これが(変異の)最後で、あとは無くなるかもしれないと期待している》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 いくら文系とはいえ,よくまあこんな自然科学の知識レベルで東大を卒業できたものだ.できのよい高校生に嘲笑されるだろう.
 あまり優秀でない理系の大学教員 (実際にいるのだ) あたりが一般向けの本を書くと,二つの誤謬に陥る.二つの誤謬とは,(1) やたらに生物を擬人化する, (2) 「○○できるように進化した」という言い方で,予め予定された方向に生物が変化したかのように説明する,の二つである.
 後者の誤謬は例えば「ヒトの手は,道具を握りやすいように,親指と他の四本の指が離れている」の類で,進化の自然選択説を否定するものだ.この種の嘘は「~ように」という言葉が使われるのですぐわかる.
 新型コロナウイルスのオミクロン株のことでいえば,舛添の《死なせないように》《肺炎にさせないように》がその定型句的嘘だ.
 この箇所だけでも舛添の知的レベルがわかろうというものだが,それでは済まないところがこの元知事の悲しい脳みそである.
 無知ダメ押しの《ウイルスも生き残りたい》が,悲しい脳みその証左である.
「生き残り“たい”」の“たい”は意思あるいは希望を意味する表現であるが,ウイルスはそんな意思も希望も有していないのである.
 意思や希望どころか,なーんにも考えていないのである.脳がないから.w
 あるウイルス感染症が大流行しようが,収束しようが終息しようが,あるいは天然痘のように根絶しようが,それらは自然科学のプロセスであって,《生き残りたい》などという文学的現象ではないのである.
 そこんところをきちんと踏まえていないと,舛添のように中学生以下の知的レベルに堕ちてしまう.
 余談だが,都知事という 肩書だけは立派だが知的レベルが余りにも低い人間は,都民の血税 公金を自分の趣味に流用したのがバレて失職したり,親の介護をしなかったのに恰も介護をしたかのような嘘をついて本を書き,金を儲けたりする.こういう人間の言うことに耳を貸さぬようにしたいものである.
 
 さて,自然科学の目で生物を観察するときに擬人化は御法度だが,しかし愛玩動物,とりわけイヌとネコとなると話は別だ.むしろ,擬人化すること (例えばペットを家族と見做すこと) こそがペットと暮らす生活の肝である.
 イヌは,一万五千年以上前にオオカミから分化したとWikipedia【イヌ】に記述されている.遺伝的にはイヌはオオカミの亜種らしい.
 最近の雑誌記事 nature asia《考古学:ヒトが食べ残しの肉をオオカミに与えたことがイヌの家畜化の初期段階に寄与したかもしれない;Archaeology: Sharing leftover meat may have contributed to early dog domestication 》[掲載日 2021年1月8日] に次のように書かれている.
 
Lahtinenたちは、ヒトが余り物の赤身肉をオオカミに与えていた可能性があり、それによって獲物を巡る争いが減ったと考えている。
 今回の論文によれば、ヒトは、植物性の食物が少なくなる冬に、動物性の食餌に頼っていたかもしれないが、タンパク質だけの食餌に適応していなかった可能性が非常に高く、油脂分が少なくタンパク質の多い肉よりも油脂分の多い肉を好んでいた可能性がある。オオカミはタンパク質だけの食餌で何か月も生き延びることができるので、ヒトは、飼っていたオオカミに余った赤身肉を与えていた可能性があり、それによって過酷な冬期においてもヒトとオオカミの交わりが可能だったと考えられる。余った肉を餌としてオオカミに与えることで、捕獲したオオカミと共同生活をしやすくなった可能性があり、オオカミを狩猟に同行させ、狩猟の護衛にすることで、家畜化過程がさらに促進され、最終的にはイヌの完全家畜化につながった可能性がある。
 
 ありそうな話だと思う.しかし上の説明だけでは,ヒトはなぜオオカミに赤身肉を与えたのかという疑問が生じる.オオカミの群れとヒトの群れはどのように接触を始めたかを説明する仮説が必要だ.両者は,初期には互いに警戒心を持って,距離をおいていたと考えるのが妥当だからである.
 しかしやがて,ヒトの集団が狩りをしながら移動していったあとには赤身肉が残されていることを知ったオオカミは,ヒトの群れからあまり離れずに生活するようになったのではないか.
 また,動物行動学の竹内久美子さんが書いていたのだが,海外の研究者が現在のオオカミを観察したところによると,生まれてくる仔オオカミの中に,ヒトに警戒感を持たない個体が,ある確率で存在するという.
 他方,ヒトの多くは,生まれたての小さいイヌやネコが近寄ってきて「肉をくださいワン」とか「おなかすいたニャ」などと言うと,無性に食べ物を与えたくなる.イヌやネコの飼い主ならみんな知っているが,彼らに食べ物を与えたいという衝動に抵抗するのは非常に難しいのだ.理由はわからない.私たちはそのようにプログラミングされているのだとしか言いようがない.
 つまり,ヒトとオオカミの共同生活は,ヒトのキャンプに幼い仔オオカミが入り込み,ヒトの後ろを付いて歩くことからはじまったのではないか. 
 この「ヒトに警戒心を持たない仔オオカミ」は,ヒトを擬オオカミ化して見ているように私には思われる.これは,現代のイヌが飼い主を自分と同じイヌだと見做しているという定説の原形だろう.
 すなわち,ヒトの群れに入ったオオカミの子孫であるイヌは,私たち飼い主を群れのリーダーとして認識している.つまり飼いイヌは飼い主を擬イヌ化している.
 一方の私たちは,イヌやネコを擬人化する.自分自身と妻や子は群れの一員 (妻が群れのリーダーであることが多い) なのであるが,この群れを「家族」と呼んでいる.
 ヒトの群れにおいては構成員に名前をつけるが,イヌにももれなく命名する.学術研究の対象である場合は,例えばAJ56などとナンバリングすればいいのだが,自分の家族をAJ56と呼ぶのは違和感があるから,通常はプリンちゃんとか
 先日,テレビ番組に出演した宝塚出身の超美人女優さんが「うちのコと二人で出かけるときは……」と言っていた.
 
 
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 『夜廻り猫 4』の第三百二十四話が,犬という生き物を痛切なまでに擬人化していて,犬の飼い主は胸を打たれる.

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