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2022年3月 1日 (火)

ホロドモール /工事中

 スポーツニッポン《カズレーザー ウクライナの18~60歳国外脱出禁止に「ホロドモールであったり虐殺を受けてきたので」》[掲載日 2022年2月28日 11:52] を読んで,大いにに感心した.
 
MCの谷原章介が「ウクライナ国民の男性すべて18歳から60歳、一緒に戦うということを宣言し、かつご自身もずっとキエフにとどまって情報をSNSで発信し続けています。この姿勢、いかがでしょうか?」とウクライナのゼレンスキー大統領について聞かれたカズレーザーは「橋下さんがおっしゃることも全くその通りだと思うんですが、ただ、われわれの感覚とウクライナというヨーロッパの国の感覚では、国、国土というものの捉え方が違うのではないかなと思いますね」と言い、「ウクライナという国はやはりソビエト時代、ホロドモールであったり虐殺、民族に多大なダメージを受けてきたので、どうしても守り切りたいという国民感情がわれわれとはもしかしたら違うんのかなと。そこはどうしても理解が薄くなってしまう及ばない部分があるのかも知れません」と言い、「ただゼレンスキー大統領が言い続けることで少しでも弱気な部分を見せてしまえば、もうウクライナ国民の士気が下がってしまうっていうのも事実なので、この姿勢を崩すわけにはいかないんじゃないかなと思います」と自身の考えを述べ、「今後、交渉の場についてどういった態度を取るかっていうのは注視しなきゃいけないと思いますね」と話した。
 
 さすがはクイズ番組で大活躍のカズレーザーである.ホロコーストは知っていても,ホロドモールについてまで知識のある人は少ないと思う.
 二十世紀に,どれほど「スターリンのソ連」が悪逆非道を行ったか.私が学生だった頃,思想家,政治家,文化人は「スターリン主義者」のレッテルを貼られたが最後,オワリだった.だから論戦をしている双方が「このスターリニストめ!」と罵り合う喜劇もあった.
 先の大戦の敗戦前に「鬼畜米英」という言葉があったが,スターリン主義者は,それ以上の非道鬼畜の別称なのであった.
 ホロドモールについてはウェブ上に多数の資料があるが,Wikipedia【ホロドモール】を挙げておく.
 
 ちなみに,この時の放送では,あの無知なデマゴーグ橋下徹がカズレーザーに反論した.
 橋下は,ゼレンスキー大統領が国民に祖国防衛を訴えたことを批判して《逃げたいという人の逃げる自由というものも守ってあげなきゃいけない》と述べた.
 ここが橋下のデマゴーグたる所以で,橋下の言に反して事実は,ゼレンスキー大統領は戦争から逃げる国民の自由を守っているのだ.
 実際,昨日の時点で,ポーランド,ハンガリー,ルーマニア,モルドバへ陸路で逃れたウクライナの人々は三十七万人を越えたとみられる.(国連難民高等弁務官事務所UNHCR調べでは五十万人)
 ゼレンスキー大統領は国民に総力戦を訴えると同時に,軍隊経験のある者は名乗り出てくれと述べた.徴兵はしない決意を述べたのである.そして隣国へ国民を逃がすことで不足する兵力には義勇兵を募集している.今は高名なアスリートたちも自らの意思で銃を持って戦場に立っている.私のような高齢者は,ウクライナ国民の戦いを伝える報道をテレビで観ては感動の涙を流す毎日である.
 橋下のデマ,事実の歪曲に従えば,ゼレンスキー大統領は国民が逃げる自由を認めていないことになるが,そんなことはないのである.
 むしろ,ゼレンスキー大統領がキエフに残って戦っている理由は,国民を戦場から逃がしたいからだと推察される.
 NHK《おはよう日本》(3/1放送) は,キエフからポーランドに避難してきた少年の声を報道した.(下の引用画像はその一シーンを写真撮影したもの)
 
20220301a
 
 少年は涙ながらに言った.
「パパをキエフに残してきた」
「(パパは) 僕たちの英雄を助けるんだ」
「僕たちの軍隊を…」
「(パパは) 僕たちの英雄を助けるんだ」
「パパは戦うのかも知れない…」
 少年のパパは妻と子を逃がし,自らはキエフで戦うことにした.
 この少年の涙に,鬼も泣け.

 橋下のデマに対してカズレーザーは控えめな反論にとどめたが,それは橋下なんぞがカズレーザーと論戦して勝てるわけがないからだろう.
 
 ついでに書くと,EUはウクライナからの避難民を受け入れる体制を整えると声明した.
 もちろんソ連のために民族の自立を奪われたポーランドとハンガリーの人々が,あの歴史的悲劇 (*註) を忘れるわけがなく.ウクライナからの避難民を温かく守るに違いない.
 
(*註)
[スターリンのソ連によるポーランド人虐殺]
 Wikipedia【カティンの森事件】から抜粋引用する.
カティンの森事件は、第二次世界大戦中にソビエト連邦のスモレンスク近郊の森で約22,000人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部 (NKVD) によって殺害された虐殺事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。
 NKVD長官ラヴレンチー・ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長であるヨシフ・スターリンと政治局の決定で実行された。
「カティン (カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名であり、事件現場はむしろグニェズドヴォの方が近く、直接の関係はなかったものの、覚えやすい名前であったため、ナチス・ドイツが名称に利用した。
ポーランド人捕虜問題
 1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、赤軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。
 ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したが、フランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。
 1940年9月17日の赤軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。
 1941年6月の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首班ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、彼は「確かに釈放された」と回答した。
捕虜の取扱い
 ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 1939年9月にソ連とナチス・ドイツは,予め独ソ不可侵条約を結んだ後に,ポーランドに宣戦布告なしに侵攻して解体消滅させた.これが第二次世界大戦の始まりであった.
 私が受けた昔の高校教育では,日独伊の三国に対して英米仏とソ連が戦ったようなことになっていた.しかし実は,スターリンのソ連は,ナチス・ドイツを手玉に取り,ドイツの陰に隠れてソ連領を拡張したのであった.
 まずスターリンはドイツとの秘密協定 (1939年) で,ソ連が併合した東部ポーランドをソ連領として認めさせた.
 次いで,ドイツが占領したポーランド西部をドイツの一部と併せて,ポーランド領を西方に拡大した.こうしてできた新ポーランドをソ連の支配下におくことに成功した.これは極めて大きいソ連勢力圏の大拡張であった.
 この一連のスターリンの悪魔的狡知による動きの中で,邪魔になったのは

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