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2022年1月17日 (月)

60年代のジャズ喫茶 /工事中

 年甲斐もなく朝ドラにはまってしまった.
 ヒロインのるいにプロポーズしてうまくいったジョーこと大月錠一郎は,やおらコンテストに出て優勝する気になる.
 優勝してアメリカに行くんだと,るいに語る.アメリカに行ってジャズをやる夢ができたと.
 るいは,ジョーに「頑張ってください」と言う.
 るいは,それが「わたしをアメリカに連れて行って」という意味になるとは,まだ自覚していない.
 これが今日の放送だった.
 
 ところで,私が大学に入ったのは昭和四十三年だが,当時の学生たちは議論好きで,クラスメートとのディベートは政治と文学が中心だった.政治と文学はセットで,つまり「政治と文学」であって「政治」と「文学」ではなかった.というのは話が長くなるので別の機会に譲るが,ただそれは,学生たちには意外なことであったが,三島由紀夫が自決によって体現したものであったと書くにとどめる.
 それ以外のことになると,音楽はジャズで,映像芸術は映画が定番だった.
 クラシック音楽とか美術を語る学生はほとんどいなかったが,その理由ははっきりしている.
 政治も文学もジャズも映画も,昭和四十年代のビンボー学生に手が届くものだったからである.
 
『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』の導入シーンで,さくらは息子の満男にピアノを買いたいと思う.もちろん無理な話だ.
 けれども寅次郎は,満男のために玩具のピアノを買ってくる.寅次郎にとってピアノはおもちゃなのであった.
 寅次郎を傷つけぬよう,さくらと夫の博は寅次郎に礼を述べる.その場面が悲しい.(YouTube《車寅次郎らしさ 第11作 男はつらいよ 寅次郎忘れな草》) 
 寅次郎ほどではないけれど,戦後すぐに生まれた私たち世代の生まれ育ちの貧しさが,クラシック音楽と絵画芸術を敷居の高いものにしていたのである.(これは一般的な話だ.当時も出身階級階層に関わりなく,特別な才能で道を切り開いた人々がいたことはもちろんである)
 今のようにあちこちの駅などにストリート・ピアノが置かれ,そこから武道館ライブにまで上り詰めたシンデレラ・ガールが生まれるなんて,昭和四十年代には誰も想像すらしなかったのである.
 そんな私たちにとって,ジャズは素敵な音楽ジャンルだった.
 ピアノもバイオリンも弾けなくても楽譜が読めなくても構わない.指が短くてギターのFコードが押さえられない君 σ(^^) でも大丈夫.
 友達とジャズを語るのに必要なのは,わかったふりをする深刻そうな顔つきだけだ.
 
 朝ドラ《カムカムエヴリバディ》でジョーは,道頓堀のジャズバー Night and Day でトランペット吹きをやっている.
 この店は,ドラマ中ではジャズ喫茶と呼ばれているが,酒を出すから喫茶店ではない.ジャズ・バーだが,当時はジャズバーとかジャズ・ライブハウスという言葉がなくて,ジャズ喫茶と呼ばれていたのかも知れない.Night and Day は雰囲気がいかにもアメリカナイズされたライブハウスで,占領下の進駐軍ハウスのジャズ音楽を継承しているかのようだ.
 この店の客層は,ドラマ中でジョーを愛したベリーのような関西の富裕階層の子弟だ.
 しかし昭和の中頃,田舎から東京に出てきた貧しい青年たちは,ライブハウスで演奏されるジャズとは別のジャズを愛した.ジャズはレコード芸術だった.
 そのことが,BRUTUS《60年代を象徴するジャズ喫茶〈DIG&DUG〉》の冒頭の箇所に書かれている.少し引用する.
 
大卒の初任給が15,000円の1960年代初頭、3,000円する輸入盤LPはめちゃくちゃ高価だった。配信が常識のいまじゃ考えられないが、だからこそ当時の若者たちには「レコードを聴く場」が必要だったのだ。新宿に「ジャズの聖地」を作った男・中平穂積さんの証言。》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 高齢者は記憶にあるだろう.昔々,永島慎二という漫画家がいた.青春漫画の教祖と呼ばれた人である.
 創作時期によって作風が変化しているが,昭和四十二年から四十五年にかけて発表された『フーテン』に,新宿を舞台にした戦後世代の青春が描かれている.
 この作品に描かれた頃の東京の青年たちは,華やかなライブハウスでカクテルを飲みながら,ショーとしてのジャズを聴くこととは無縁だった.
 ドラマに出てくる道頓堀のライブハウス Night and Day のようなカテゴリの店は東京にもあって,有名なのは新宿ピット・イン.(ただしWikipediaは「ピット・イン」としているが店の公式サイトでは「ピットイン」である.もちろんWikipediaのほうが嘘)
 でも,『フーテンに描かれた』昭和四十年代の貧しい青年たちには,ライブハウスではなく《レコードを聴く場》があればよかった.新宿ピットインではなく,BRUTUSの記事にある DIG や DUG でジャズを聴いた.(この記事に載っているモノクロの写真は当時のジャズ喫茶の雰囲気をよく表現している)
 だから,ここはちょっと説明がむずかしいのだが,当時の青年たちにルイ・アームストロングは好まれなかった.
 ジャズに詳しい人に「それは違う」と言われるかも知れないが,ルイ・アームストロングは陰陽で言えば陽だった.明るい.明るすぎる.暗い青春の只中にいた私たちにはそう思われた.
《カムカムエヴリバディ》の大阪篇で描かれているジョーは,戦災孤児だった頃,進駐軍キャンプのジャズバーに潜り込んで“On the Sunny Side of the Street”を聴いた.そしていつの日にか日なたの道を歩く自分を夢見た.それ以来,ジョーにとって“On the Sunny Side of the Street”は特別な曲になった.
 昭和三十年代の日本は,漫画や映画の『三丁目の夕日』に描かれたように,懐かしい日本の黄金期だった.昨日より今日,今日より明日がよりよくなるという素朴な思いが日本中で共有されていた時代だった.
 それからわずか十年後,青年たちは未来に希望を持てなくなっていた.
 私が大学に入った頃,大学は学生たちに「教育工場」と呼ばれていた.私たちは教育工場から,社会の部品として出荷される使い捨ての製品なのだということがわかってしまった.
 
 “On the Sunny Side of the Street”は1930年のブロードウェイ・ミュージカルで使われた曲である.この年の前年に,あの「大恐慌」が始まった.

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