« 電子レンジを買い替えた | トップページ | 絶対に更生しない人間をどうすればいいのか »

2022年1月28日 (金)

フィリップス提督の退艦拒否は事実だと私は思っていた

 東洋経済ONLINE《保育園「遅刻に罰金科すと、さらに遅刻増えた」訳 社会規範の影響が予想しない結果を招くことも》[掲載日 2022年1月28日 17:00] に私の知らぬことが書かれていた.下に同記事の一部を引用する.
  
真珠湾攻撃直後の1941年12月10日、マレー沖海戦で日本海軍航空隊はイギリス東洋艦隊の主力戦艦であるプリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスを撃沈した。その際、東洋艦隊司令長官のトーマス・フィリップス提督は、脱出を促されたが「ノーサンキューと断り、艦橋で挙手の礼をしつつ、プリンス・オブ・ウェールズとともに海に沈んだ」とされた。
 提督のこの劇的な最期は翌年3月4日の『読売新聞』に大々的に報道され、日本国民そして何より海軍軍人に大きな感銘を与えた。
 大木毅氏によれば、実は、これは日本軍の捕虜になり、インタビューを受けたイギリス水兵によるまったくの創作だった。「ジョンブルは敗北に当たっても気高く振舞う」ことを吹聴したかったのだ。
 実際、イギリス側の記録では、救命胴衣を着用した提督の遺体が戦艦沈没後に目撃されており、最終段階で脱出を図ったが水死した、とみられている。このため、フィリップス提督にまつわる上記の逸話は日本では有名だが、イギリスではまったく知られていない、という。
 
 マレー沖海戦時に英国東洋艦隊司令長官であったトーマス・フィリップス提督の最期はよく知られている.
 Wikipedia【トーマス・フィリップス】に以下の記述がある.
 
プリンス・オブ・ウェールズは日本軍の潜水艦に捕捉され、サイゴン、ツドゥム(Thu Dau Mot)から発進した日本軍航空隊の数度に亘る攻撃により、1941年12月10日1450 (午後2時50分) に沈没した。レパルスはそれより40分ほど前の1403 (午後2時3分) に沈没した。フィリップスは参謀に退艦を促されたが、"No thank you."と言って拒み、プリンス・オブ・ウェールズ艦長、ジョン・リーチも同じく拒否した。参謀は泣きながら艦を後にしたという。
 
 これまで私は,フィリップス提督の退艦拒否エピソードは事実だと信じていたので,創作と言えば聞こえはいいが要するに捏造,嘘だったという東洋経済の記事を読んでかなり驚いた.
 改めてこのことについて調べてみると,確かにWikipedia【マレー沖海戦】には,Wikipedia【トーマス・フィリップス】には書かれていない以下の記述があり,フィリップスの退艦拒否は事実でないかも知れないと示唆している.
 
後日、日本軍の捕虜となったウェールズ生存者(ポンポン砲銃兵)の証言によれば、トーマス・フィリップス提督は幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った[212][213]。一方、英戦艦の艦腹から海に飛び込んだ姿も数人に目撃されており[214]、またヒラリー・ノーマン水雷中佐は救命胴衣をつけたフィリップの遺体が海面を漂うのを目撃している[215]。
 
 この記述箇所の出典 [212-215] は,豊田穣『マレー沖海戦』(集英社,1988年) である.
 東洋経済の記事では《大木毅氏によれば》となっているが,なぜか出典は示されていない.
 しかも大木毅の著書タイトルを調べても,マレー沖海戦を扱った戦記ノンフィクションと思われる作品名は見当たらない.つまり東洋経済の記事が,なぜこの分野で知名度の高い豊田穣ではなく,大木毅の説を取り上げたのかは不明なのだ.この東洋経済の記事は,ものを書くことの基本ができていないと言うべきである.
 従ってこの件については,大木毅よりも,戦記の分野では評価の高い豊田穣の著書にあたるべきだろう.そこで早速豊田穣『マレー沖海戦』の古書を注文した.どんなことが書かれているのか,早く知りたいものだ.

|

« 電子レンジを買い替えた | トップページ | 絶対に更生しない人間をどうすればいいのか »

新・雑事雑感」カテゴリの記事