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2021年7月 4日 (日)

「臭い飯」についての大嘘 /工事中

 日刊SPA!《刑務所の食事が“臭い飯”と呼ばれるワケ。本当に臭いのか》[掲載日 2021年7月1日 8:54] に嘘が書かれている.
 
《◆刑務所のご飯が臭いのは、古い米しか手に入らなかったから
 刑務所の食事を指す「臭い飯」という有名な言葉がある。そして「臭い飯を食う」というフレーズは、そのまま「刑務所に入る」ことを意味している。
 そもそもは受刑者の房が備え付けトイレであり、食べる際に近い距離にあるため、「臭い飯」と呼ばれるようになったと考えられている。また、戦後間もない頃は予算の関係で古い米しか手に入らなかったので、「臭い飯」になってしまったという説もある。
 
 上の記述は嘘であるが,何を根拠にしているのだろう.
そもそもは受刑者の房が備え付けトイレであり、食べる際に近い距離にあるため、「臭い飯」と呼ばれるようになった》は,狭い上に通気性の悪い構造である独居房のことしか頭にない.受刑者の大半は雑居房に収容され,雑居房の受刑者は,食事の際は「御膳部」と呼ばれた廊下の片側の場所で,横一列になって床に正座して食事を摂った.(後述する堺利彦が記したところによれば,特別待遇の受刑者が収容される雑居房では,廊下ではなく房内で食事をするようになっていた)
 便所のすぐ横で食事をする構造の独居房に収監されるのは受刑者の一部であったから,受刑者の多くは便臭のするところで食事していたわけではない.つまりこの引用部分《そもそもは……》は想像で書かれている.
 次の《戦後間もない頃は予算の関係で古い米しか手に入らなかったので、「臭い飯」になってしまった》は,Wikipedia【麦飯】に《俗に刑務所の食事を「臭い飯」と呼ぶが、これはかつては刑務所の食事が低予算の関係から非常に質が悪く、また終戦後など食料事情の悪い時代には南京米の、本当に臭気のする飯が服役者に出されていたことによる[9]》とあるのを根拠にしているのだろう.《終戦後の食料事情の悪い時代》を《戦後間もない頃》に言い換えているに過ぎない.
 Wikipediaの利用者には周知のことであるが,専門家が執筆した事典項目もあるが,ド素人が孫引きを寄せ集めて想像で書いた項目もある.
 Wikipedia【麦飯】の解説の《俗に刑務所の食事を……》がまさにそれで,一目見て大嘘のコンコンチキであることがバレバレである.
 なぜなら,この記述には [9] という資料が引用されているのだが,[9]は次のように書かれている.
9.堺利彦の記録によると、三食の予算が一銭二厘といい、南京米の飯は最初とても喉を通らなかったという
 すなわち,《俗に刑務所の食事を……》を書いた人間は,《堺利彦の記録》が《終戦後など食料事情の悪い時代》の記録だと述べているわけで,これは この馬鹿 この箇所の筆者が,堺利彦という著名な人物を全く知らず,《堺利彦の記録》を読んでもいないことを示している.呆れてものも言えぬ.堺利彦が収監されたのは《終戦後》ではなく明治時代なのである.
 Wikipediaにはこのような記載が多数紛れ込んでいるので,利用に際しては,記載されていることを鵜呑みにしないことが必要である.
 
 さて「臭い飯」を語る時の基本文献が二つある.
 一つは堺利彦著『楽天囚人』である.これがまさに《堺利彦の記録》なのである.
 この本が最初に出版されたのは明治四十四年であることはわかっているが,おそらく書籍現物は残っておらず,出版社は不明である.
 次に,丙午出版社が大正十年に再刊し,さらに昭和二十三年に売文社が再々刊した.
 ちなみに丙午出版社は東洋大学第十二代学長であった高嶋米峰が明治三十四年 (1901年) に興した出版社であり,売文社は刑期を終えて出獄した堺利彦自身が,大杉栄,荒畑寒村らと設立した団体である.
 単行本の他に,『楽天囚人』を収めた全集として『日本プロレタリア文学大系 (序)』(三一書房,昭和三十年 [1955年]) と『堺利彦全集 第三巻』(法律文化社,昭和四十五年 [1970年] がある.
 紙媒体の出版物以外に,丙午出版社版が国立国会図書館デジタルコレクションに収蔵されているので,原著にあたるのは容易である.
 売文社版は著作権の確認が済んでいないとして国会図書館はインターネット公開をしていないが,閲覧は国会図書館で可能である.
 この『楽天囚人』に,「獄中生活」という短い文章があり,これが「臭い飯」に関する根拠文献として第一のものである.
 堺利彦は明治四十一年 (1908年) の赤旗事件により二年の重禁固刑を受けて収監されたが,「獄中生活」はその際の収監体験記である.
 また三一書房の『日本プロレタリア文学大系 (序)』を底本とするテキストが青空文庫に入っているので,ここでは青空文庫版「獄中生活」から一部を下に引用する.
 まず堺は東京監獄に送られた.東京監獄はのちの市ヶ谷刑務所である.堺利彦や大杉栄などが収監された明治時代は未決囚を収容し,裁判所へ送致することを目的としていた.この目的から,東京監獄の房は雑居房であった.(大杉栄が獄中記に書き残している)
 
二十一日の朝、糒 (ほしいい) のような挽割飯を二口三口食うたばかりでまた取調所に引出され、午前十時頃でもあったろうか、十五六人のものどもと一しょに二台の馬車に乗せられて、今度は巣鴨監獄へと送られた。
 
 糒 (古くは干し飯と書いた) は米を炊いたあと天日乾燥したもので,道明寺粉 (糯米で作る糒の一種) のようなものである.うるち米で作った糒は水や湯で戻して食うことができるので,携行食としての利用は平安時代にまでさかのぼる.
 堺はここでは《糒のような挽割飯》と書いているが,「獄中生活」の後半では《挽割麦》と書いていて,米を入れずに,挽割にした大麦だけを炊いた麦飯であったことがわかる.
 堺は東京監獄から巣鴨監獄に送られた.巣鴨監獄も基本的には雑居房から成る.「獄中生活」には《また、「礼!」という号令の下に一礼して立ちあがると、今度は右側の室の鉄の戸を開けて七八人ずつ入れられた》と書かれている.
 この日の食事については《予は僅に二箸三箸をつけたのみで、ほとんど何ものをも食い得なんだ》とあるだけで,食事内容は不明である.
 刑期中の食事全般については次のように記している.
 
食物はずいぶんひどい。飯は東京監獄と違って色が白い。東京監獄は挽割麥だが、こちらは南京米だ。このごろ麦の値が高くなって、南京米の方が安く上るのだそうな。何にせよ味の悪いことは無類で、最初はほとんど呑み下すことが出来なんだ。菜は朝が味噌汁といえば別に不足はないはずだが、その味噌汁たるや、あだかもそこらの溝のドブ泥をすくうて来たようなもので、そのまた木槽たるや、あだかも柄のぬけた古柄杓のようなもので、その縁には汁の実の昆布や菜の葉が引かかっているところなど、初めはずいぶん汚なく感じた。次の夕飯の菜は沢庵に胡麻塩、これはなかなかサッパリしてよい。時々は味噌菜もある。唐辛子など摺りこんで、これも案外うまくこしらえてある。昼が一番御馳走で毎日変っている。まず日曜が豆腐汁、それから油揚と菜、大根の切干、そら豆、うずら豆、馬肉、豚肉など大がい献立がきまっている。豚肉などといえば結構に聞ゆれど、実のところは菜か切干かの上に小さな肉の切が三つばかり乗っているまでのことだ。それでも豚だ豚だとみなが大喜びをする。昼の菜の中で予輩の一番閉口したのは、輪切大根と菜葉とのときで「ヤァ今日は輪大か」と嘆息するのが常であった。飲むものはヌルイ湯ばかり。
 聞くところによれば、この三度の菜の代が、今年の初めまでは平均一銭七厘であったが、戦争の開始以後は五厘を減じて一銭二厘となったとのこと。戦争はヒドイところにまで影響するものだ。
 
 今の私たちの食生活において,麦飯は,洗った白米に押し麦を好みの割合に混ぜて炊飯すればよく,至って簡単である.
 しかし押し麦が発明される以前は,そうではなかった.大麦は外皮が厚いため,きれいな精麦にすると,米に比較して歩留まりがかなり悪い.収量が五割程度にまで減ってしまう.さりとて歩留まりを重視すると,炊いても軟らかくするのが困難となる.
 この大麦の欠点を一気に解決したのが押し麦である.押し麦の製法は明治三十五年に発明されたが,当初は手作業で製造していたため,実用は難しかった.しかし大正二年に外皮を除去して圧延する機械が開発されると,大量生産が可能となり,普及した.
 ということは,堺利彦が収監されていた頃は,押し麦が普及していなかったのである.
 では明治時代に大麦はどのようにして食べられていたか.
 大麦の外皮を取り除いて精白しただけのもの (丸麦) は米に比べて煮えにくいので,予め丸麦を煮て,その湯を捨ててから米と混ぜて一緒に炊くとよい.この前もって煮た丸麦を「えまし麦」という.えまし麦にして食べる方法は江戸時代からあったが,二度も炊かねばならない大麦は米に比較して燃料効率が悪く,また江戸のような大都会では大麦は火災リスクを高めるので人々から敬遠された.これは江戸の人々が白飯を好んだ理由の一つだと言われている.
 えまし麦ではない他の食べ方として,大麦を臼で挽き割って粒を小さくすると,そのまま米と混ぜて炊くことができる.これを挽割麦という.堺利彦が東京監獄で

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