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2021年6月27日 (日)

焼きネギ味噌 (二) 「啄木亭篇」

(昨日の記事《焼ネギ味噌 (一)》の続き)
 その昔,Windows98がリリースされて,個人がウェブサイトに日記や会議室などのコンテンツを載せることが容易になった.
 私も早速,ココログに『江分利万作の生活と意見』と題した個人サイトを作った.
 そしてそこにほぼ毎日,エッセイのような文章を掲載し続けた.
 これがこのブログ《江分利万作の生活と意見》の前身である.
 日本の私的インターネット利用の黎明期はWindows98の普及と共に始まり,それまでパソコン通信のネットワークに参加していた多くのネットユーザーたちはこぞって個人サイトに移行したのだが,その当時に建てられた無数の個人サイトのほとんどは姿を消した.ブログに再移行したのである.
 そして今は既に高齢化したネットユーザーたちのブログも,次第に風化した.私のブラウザに「お気に入り」登録したブログで,今も存在しているのは数えるほどしかない.
 私は個人サイトに書き貯めた文章をブログに移行しなかった.駄文が多かったからであるが,一応すべてのエッセイをテキストファイルで保存はしてある.
 その中から時折,二十年近く前の思い出として,ここに古い文章を再掲載している.それが「私が昔書いたこと」というカテゴリーである.
 昨日の記事に,焼ネギ味噌を取り上げたのだが,十九年前にもネギ味噌の思い出を書いていた.
 それを再掲載する.
 文中の「啄木篇」に,居酒屋の油揚げ料理「啄木コロッケ」が登場する.この料理のレシピについて書かれたウェブ上の記事には少し混乱があるので,末尾に注釈をつけた.
 
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2002年4月9日
さくら貝ひとつ
 
 私は大学の四年生の時,東京の高円寺に住んでいた.JR高円寺駅の南口を降りるとすぐ狭い商店街があり,その通りを南に下って行き,店が途切れて住宅が多くなった辺りである.今は随分と様子が変わってしまったが,そこにちょうど『めぞん一刻』に出てくるようなおんぼろ木造アパートが建っていて,私はその一室に暮らしていた.
 
 アパートから駅に通じる通りに出ると,赤い提灯を軒にかけた小さな飲み屋が数軒あった.その一つは,当時もう六十歳は越したと思われる女主人が一人でやっていた.店の名は忘れた.
 店はカウンターだけで,五人が腰をかければ一杯になるというほどの広さだった.やはり高円寺の南口に住んでいた私大に通う友人と連れだってよくその店に行き,老婦人と話をしたものだ.
 
 彼女はたぶん旧制女学校出の,上品な物腰の人で,訊ねると色々昔の話を聞かせてくれた.生まれは神奈川県の鎌倉あたりのようなことを言っていた.
 ある晩,お客が友人と私の二人だけの時,私達にふろふき大根の作り方を実演しながら (時々,自炊の貧乏学生のために,簡単な飯のおかずの作り方を教えてくれたのだ),昔の鎌倉近辺の思い出を話してくれた.
 彼女は戦争で家族をすべて失い,戦後は焼け野原となった新宿に出て,一人でバラックの飲食店を始めたという.それからずっと水商売一筋だが,女一人で生きて行くのは,やはり辛いことが多かったと言った.そういう時には店を休み,生まれ育った鎌倉の浜辺を歩くのが慰めだった.砂浜にはさくら貝が一杯あって,まるで桜の花びらが散ったようだった.
 両手にこぼれるほど薄桃色の貝殻を集め,帰る時にはそのさくら貝を波打ち際に置き,それが波が引くのに合わせてまた海に戻って行くのを,ずっと眺めていたものだとも言った.
「あなたたちは,さくら貝の歌を知ってる?」
「聞いたことはあるけど,歌えない」
「じゃあ歌ってあげる」
 戦前の鎌倉由比ヶ浜の近くに住んでいた鈴木義光という青年が,十八歳で亡くなった恋人を「わが恋のごとく悲しやさくら貝 片ひらのみのさみしくありて」と短歌に詠んだ.
 この短歌をもとに,彼の友人であった逗子町役場職員の土屋花情という人が歌詞を作り,鈴木青年自身が作曲したのが『さくら貝の歌』である.『あざみの歌』などで知られる作曲家八洲秀章は,鈴木義光その人.
 
 戦後を一人で生きてきた老婦人は,細い声で歌った.
 美わしきさくら貝ひとつ 去りゆける君に捧げん.
 それから『さくら貝の歌』は私の愛唱歌となった.もう三十年前の思い出である.
 
 今日,神奈川県鎌倉市小町一丁目の市中央公民館で,さくら貝をテーマにしたシンポジウムとコンサートが開かれる.かつて鎌倉市から葉山町にかけての海岸でよく見られ,今はほとんど姿を消したさくら貝の現状を取り上げ,葉山町立葉山しおさい博物館長の池田等さんが「相模湾・海の生き物の現状」と題して基調講演を行い,水質悪化など環境問題を考える.
 第二部のコンサートは「さくら貝の歌」など海や浜辺にちなんだ曲が中心の構成となっている.
 午後2時開会.参加費 1000円.申し込みと問い合わせは主催のモース研究会(0466-26-3028)へ.
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2002年4月14日
高円寺駅南口青春賦・銭湯篇
 
 先日の『さくら貝ひとつ』に,私が大学生四年生で東京・高円寺駅の南に住んでいた頃の話を書いているうちに,昔のことを色々と思い出してしまった.
 高円寺に引っ越す前の一年間,私は西武新宿線の野方駅の近くに住んでいた.今も神州一味噌の宮坂醸造の工場がある辺りである.
 そこは学生専門の賄い付き下宿だったが,主人である婆さんの作る食事があまりにも劣悪 (極超短周期サイクルメニューである上に,しばしば飯に婆さんの白髪が入っていたりした) だったので,住み始めてすぐに嫌気がさした.
 銭湯は割と近くにあったのだが,夕方の,お湯がきれいで空いている時間帯に行ったりすると,時たまオカマと出くわした.私が湯に浸かっていると,ガラス戸を開けてオカマ氏が入って来る.片手に持ったタオルで股間を隠しているのはよいとして,もう片方の手で胸を隠している.ないものを隠してどうする,と思った.
 彼はざっと湯をかぶると,恥じらいの表情を浮かべつつ浴槽に入ってくる.浴槽は,どこの銭湯もそうであるように二つあり,一つは普通の温度でもう一つは熱い湯だったが,彼はいつも私がいる方の浴槽に入ってきた.私がいる位置から少し離れたところに内股で入り,湯に浸かってしばらくすると,ニジリニジリと私の方に静かに近寄ってくる.こんなことが何度もあって,どうにもその銭湯に行くのが鬱陶しくなった.
 そんなこんなで,一年間その下宿にいたが,意を決して引っ越しすることにした.
 野方の下宿は三畳間で部屋代は月に三千円だったのだが,三畳間というのはやはり窮屈だった.次に移った高円寺のアパートは六畳間で大きな押入があり,南側には畳一枚ほどの板の間がついていた.
 ちょうどその頃,週一回で月額二万円という当時としてはベラボーに割の良い家庭教師の仕事にありついたので,思い切って広い部屋を探したのだった.生活費は,その前からしていた別口の家庭教師の謝礼が月に一万円,育英会の奨学金が八千円あったのでなんとかやって行けそうだった.
 引っ越しは三月の末だった.車を持っていた友人に頼んで,野方から高円寺まで荷物を運んでもらった.ほとんど家具らしいものは有していなかったので,片道一回で済んだ.
 小さな本棚を壁際に立て,部屋の真ん中に電気ゴタツを置いて,それにコタツ板を載せて机代わりにする.そして押入に布団を入れ,それでおしまいという重度のシンプルライフであったが,狭苦しい三畳間から一気に広い部屋になったので嬉しかった.
 
 引っ越したその日,夕方になったので私は風呂に行くことにした.
 駅の南口商店街が途切れる辺りに銭湯があり,アパートから歩いて数分という好条件の距離であった.
 石ケン箱を入れたポリ洗面器を持ち,銭湯の入り口のガラス戸を開けると左右に下足入れがあった.木製の札を蓋の穴に差し入れて蓋を開閉する仕組みの昔ながらのやつである.そこにサンダルを仕舞い,左側の引き戸を開けた.
 そのとたん「きゃあっ」という悲鳴があがった.
 脱衣場にいた銭湯の従業員と思しき婆さんが私の方にどかどか駆け寄ってきて「こっちは女湯っ,女湯っ」と言い,私を引き戸の外に押し出した.
 婆さんに押し出されてから磨りガラスの引き戸をよく眺めると,確かにそこには「女湯」と書いてあった.野方の下宿の近くの銭湯は左側が男湯だったので,つい習慣で左側に入ってしまったのだが,この銭湯は逆だったのである.
 特殊な目的を意図して女湯に侵入したわけではなく,それに私は近視であったので,その時に脱衣場にいた御婦人達の裸体をしかと見はしなかった.無念である.違う.しかし,おそらく私の顔は,痴漢として御婦人達に目撃されただろう.これは無念である.
 それ以来,アパートのすぐ近くに銭湯がありながら,私はそれと反対方向の随分と遠いところにある別の銭湯に通うことになった.あの時の目撃者に銭湯の玄関で出くわして,白い眼で見られることを恐れたからである.
 こうして私の高円寺駅南口での新しい生活は,情けない思い出と共に始まったのだった.
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2002年4月15日
高円寺駅南口青春賦・啄木篇
 
 昭和四十六年の春,高円寺のアパートに引っ越しをしたその日に私は銭湯の女湯に突入してしまったのだが,それから暫くしたある日のこと,近所の下宿に住んでいる私大文学部のN君の部屋へ遊びに行った.
 N君と私は,大学一,二年生の時に,東京・中野区にあった同じ学生寮 (法務省所管の学生寮で「桐和寮」といった;現在は移転した旧中野刑務所の北側に隣接していた) アパートに住んでいたので知り合った友人である.そのアパートを出てから一年後に二人とも高円寺駅の南に引っ越してきたのだった.
 N君が引っ越してきたのは普通の下宿屋の四畳半の部屋であった.
 二階にあるその部屋でお茶を飲みながら彼は,卒業論文は石川啄木にしたと言った.啄木にはずっと前から傾倒していたようで,啄木の人生と作品を熱く語ってくれた.その話をしているうちに,実はこの高円寺駅南口界隈に,町名としては高円寺南三丁目といったが,『啄木亭』という居酒屋を見つけたと彼は言った.啄木を取り上げて論文を書くからには,『啄木亭』なる何やらいわくありそうな店には是非とも行かねばならぬように思う,ということだった.
 そこで私達はその日,『啄木亭』に出かけた.その店はどちらかというと彼の下宿よりも私のアパートに近いところにあった.私達はまだようやく暗くなったばかりの客のいないカウンターに陣取り,日本酒を注文した.
 当時の学生が飲む酒は,たいてい日本酒であった.自分の部屋で酒盛りするのなら,一本五百円だったサントリーの安ウイスキーが定番だが,店で飲むなら日本酒が安くあがった.

 熱燗を飲みながら私達が店のおばさんに店名の謂われを訊ねると,店の主人が岩手県の出身だということらしく,石川啄木との関係はそれ以上でも以下でもなかった.
 酒のお代わりを頼んでから,何か食おうかということで品書きを見ると『啄木コロッケ』というのがあった.それは一体何であるかと店のおばさんに訊くと,袋にした油揚げの中に,刻んだ葱などを詰めて焼いたものだという.コロッケではないのにコロッケと呼ぶのは何故か,石川啄木に関わりのある食い物なのかと更に訊ねると,特に意味はないという答えが返ってきた.ただの思いつきの命名のようだった.
 石川啄木論の足しになるかと思ってやってきたN君と私にとって,結局『啄木亭』は石川啄木とは全然無関係であるという,まことにがっかりなことになったが,まあ当然といえば当然ではあった.
 とはいえ,想像するのは勝手である.石川啄木が好んだ食い物ということにしようと私達は決めた.時代は明治の終わり,貧窮の底にあった啄木にとって洋食のコロッケは高嶺の花だったに違いない.
 そこで啄木は油揚げに葱を刻んで詰めて焼き,これをコロッケと称して食ったのだということにした.そんな馬鹿話をでっち上げては笑い,何本か酒を飲んでから私達は別れて帰った.
 
 今でも「啄木」と「コロッケ」でサイト検索してみると Google のキャッシュが幾つかヒットするが,『啄木コロッケ』が出てくるのはすべて居酒屋『啄木亭』の関連記事である.そのうちの一件の《*****》(2021/6/27の註;リンク切れ) では,鈴木さんという人が『啄木亭』の定番メニューであると断って画像入りでレシピを紹介している.その『啄木コロッケ』の作り方を要約すると次のようである.
 
[材料]
 油揚げ           4枚
 ミョウガ        2~3個
 ネギ            1本
 胡麻          中さじ1
 削りがつお         適宜
 ぽん酢           適宜
 
 ミョウガを千切りにする (と鈴木さんのウェブページには書いてあるが,要するに普通にスライスすれば良い).
 ネギ (とだけ書いてあるが,葉ネギではなく根深ネギ) はみじん切り.
 これに胡麻とかつお節を合わせポン酢少々で和える.これを,油揚げを2つに切り,袋に開いたものの中に詰める.袋の口を爪楊枝で閉じて,焼き網に並べて表面に少し焦げ目がつく程度に焼く.
 
 上のことがあってから暫くした後日,N君と『さくら貝ひとつ』に登場した飲み屋に行き,主人である老婦人に『啄木コロッケ』のことを話したところ,ポン酢を使うのは『啄木亭』の工夫かも知れないが,その種のものは昔からある油揚げ料理であるとのことだった.そしてポン酢ではなく味噌を使うやり方を教えてくれた.
 材料は一緒で,葱の白いところとミョウガを細かく刻む.これと削り節,白胡麻を合わせ,少量の味噌と水を加えて練る.好みだが味噌は甘めのものが良いと思う.手許になければミョウガと胡麻は省略して構わない.つまりただの葱味噌である.これを袋に開いた油揚げの内側に薄く塗って焼く.

 ポン酢で作ると素朴ではあるがそれなりに酒肴の一品という感じである.対するに葱味噌式のものはいかにも垢抜けない「ビンボーおかず」である.しかし飯のおかずとしては『さくら貝』の老婦人に教えてもらったものの方が美味いと思う.今でも時々自分で作るが,これを食うと高円寺で暮らした頃のことが思い出される.
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2002年4月16日
高円寺駅南口青春賦・自炊立志篇
 
 さて高円寺のアパートで暮らすようになった私は,自炊をしようと思い立った.
 大学の講義は朝八時からだったので,朝飯は駅の立ち食い蕎麦にすることが多かった.お昼は学校の生協食堂が安いし,日替わりのランチなら飽きもこない.問題は夕飯だった.家庭教師のバイトがある日は,その家庭でちゃんとしたものを食べさせてもらえるが,そうでない日はできるだけ自炊しようと考えた.もともと小さい頃から私は母親の手伝いをよくする子だったので,食事の支度は苦にならない.多少の心得はあったのである.

 料理道具を揃えねばならないが,鍋の大小二つ,包丁,まな板はアパートの近くのスーパーで購入した.次に電気釜である.今なら炊飯ジャーであるが,当時のものは電気釜という名のもっと原始的なやつで,白い塗装の外釜の中にアルミの内釜,ジュラルミンの蓋,保温機能はなしというタイプのものであった.友達に聞いたところでは,秋葉原の電気街に行くと安く買えるらしかった.例のN君は大阪の出身で,彼の指南によると,まずは徹底的に粘って言い値を値切らねばならない.そして店員がこれ以上は値引きできませんと言ったら,何か物をオマケにつけてサービスしてくれと言うと良いとアドバイスしてくれた.さすが大阪人は違うと感心しつつ,私は電車に乗って秋葉原に出かけた.
 
 その頃の秋葉原電気街は現在と全く異なり,家電製品の街だった.何しろまだこの世にパソコンなんかの影も形もなく,オーディオは真空管が堂々とまだ現役を張っていた時代である.
 店の名は忘れてしまったが,秋葉原駅の電気街口から中央通りに出て万世橋側に折れた所の,今のオノデンの隣あたりの小さな店だったように思う.東芝の二合炊き電気釜が欲しかったのでその旨を店員に告げると「ある」とのことだった.当時の価格が幾らであったか全然覚えていないが,スーパーの店頭よりは安かったと思う.元々秋葉原というところは一般の電器店より安いので,昔から価格交渉の効かないことが多いようであるが,当時の私にそんな知識はない.N君の事前指導を受けていた私は,もう少し安くして欲しいと頼み込んだ.
 すると,いかにも貧乏学生という風体の私を見てその店の店員は哀れに思ったか,百円単位の端数を引いて,切りの良い値段にしてくれた.調子に乗った私が「もう一声」と言うと,さすがに「勘弁してくださいよ,学生さん」と言われてしまった.
 それじゃあ何かサービスにオマケしてくださいと頼んだところ,「わかりました.サービスしましょう」と言って店員がくれた物は,私の期待に反してチャチなプラスチックの御飯シャモジであった.
 ここで引き下がってなるものかと「わざわざ電車賃を使って秋葉原に来たのだから,もう少しいい物をくれませんか」と申し述べると「そこまで言うなら,お客さんだけ特別ですからね」と彼は言い,布巾を一枚くれた.ご飯が炊けたら釜と蓋の間に布巾を拡げて挟む と蒸気が適度に逃げて美味しく蒸らせるという.そうですか.はあ.
 数百円の値引きとシャモジと布巾一枚が十分な戦果なのかどうか分からなかったが,諦めて高円寺のアパートに戻った.
 こうして電気釜を買ったが,米をどこで買ったのか思い出せない.昭和四十三年,青雲の志を抱いて上京した時は確か米穀通帳を持っていたような記憶があるが,しかしその翌年から米をどこでも買えるようになったはずだから,たぶん西友ストアあたりで買ってきたのだと思う.調達した米の袋を眺めて,ともかくこれで生活費がピンチになっても飢えることはない,ヨシヨシと思った.生活費がピンチにならぬように計画的に生きようという知恵がなかったのは,いま考えても不思議である.アルバイトの金が手に入れば無闇に本を買い込み,貯金通帳はなく,その日暮らしでいつもピーピーしていた.
 自炊を始めてから気が付いたのは,食糧の保存がいかに難しいかということだった.あの頃の一人暮らしの学生で,冷蔵庫を持っているなんてのは余程のお坊っちゃまだったろう.私の周囲にはただ一人しかいなかった.
 余談だがそいつはN君と同じ下宿 (賄い付き) にいた男で,自炊のための食料品を備蓄する必要がなかったから,彼の冷蔵庫には牛乳と,暑い夏場はパンツが入っていた.銭湯から戻った時などに,喫茶店で出してくれるオシボリのようにしてよく冷やしたパンツを着用すると,とっても快感であると言っていた.扇風機すら持っていない私には,それは王侯貴族の暮らしのように思えたものだ.いま単身赴任している私の部屋にもちろん冷蔵庫はある.しかしエアコンもあるので,その快楽を享受する機会がないのが残念である.
 
 さて昔も今も,長持ちする食材の代表格はタマネギ,ジャガイモとニンジンだろう.これで何を作ろうか.アウトドアならカレーであるが,インドアでもカレーが定番である.
 だがいつもいつもカレーでは能がない.この野菜三種と豚肉を煮て,即席カレールーを加えればカレー,シチューの素を入れればシチュー,味噌を放り込めば豚汁,肉の代わりにコンニャクを用いて醤油味にすれば,けんちん汁モドキができる.タマネギ,ジャガイモおよびニンジンを煮た変幻自在のものを私は「日和見なべ」と名付けた.
 もうその頃の大学の学内には,かつての学生運動の熱気は跡形もなくなっていた.志操軟弱にして,もはや街頭デモに行くこともなく勉強に自閉していた私に,「日和見なべ」は相応しい名の食い物であるなあと我ながら感心した.就職が決まって髪を切り「もう若くはないさと君に言い訳」しなければならない季節はもうすぐそこだった.
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[註]
 上記「高円寺南口青春譜・啄木篇」には,高円寺の「啄木亭」について少し記してある.この記事を書いたのはもう十九年前のことであるし,私の思い出自体は五十年前のことだ.
「啄木亭」についてあらためて調べてみたら,五年前のネット掲示板投稿に「啄木亭」は閉店したと書かれている.
 私が「啄木亭」に通ったのは昭和四十六年の三月から翌年の三月頃までであるが,当時の「啄木コロッケ」は上の本文に書いたように,ミョウガと長ネギをポン酢で和えたものを油揚げに詰めて焼いた小料理 (酒肴) だった.つまり「啄木亭」のオリジナル小料理であった.
 他の人が書いたものを読んでみても,ブログ《草日誌》の《啄木亭のこと》[掲載日 2014年5月4日] にも《啄木コロッケ (お揚げの中に刻みネギとか茗荷とかを入れて焼いたもの)》とある.
 ところが時代がそれから十数年経った後になると「啄木コロッケ」は,袋に開いた油揚げの中にネギ味噌を塗って焼いたものになってしまったようだ.
《岡田純良帝國小倉日記》というブログの《懐かしい小料理屋たち(番外其乃弐)――高円寺「啄木亭」》[掲載日 2012年5月9日] に《小さな日本家屋。地べたの石にそのまま柱を立てたような昔の普請だったから、冬場はシンシンと冷気が地面から上がって寒かった記憶がある。佃煮と「啄木コロッケ」があった。ミソと青ネギを和えたものを油揚げに包んで焼いたもの。焦げ目が付いていて、香ばしい》と書かれている.
 油揚げにネギ味噌を入れて焼くのはどこにでもある居酒屋惣菜であり,特に「啄木コロッケ」と名付けるほどの凝った食べ物ではないし,その上,石川啄木とは何の関係もないというおまけ付きだ.
 想像するに,元々の「啄木コロッケ」はミョウガが材料だったが,これでは通年のメニューにはならないので,作るのをやめて「啄木コロッケ」という呼び名だけ残したのだろう.
 元の「啄木コロッケ」自体も石川啄木とは全く無関係の創作小料理だったのだが,昭和の終わりころに何の変哲もない油揚げ惣菜にレシピを変えてしまったので,石川啄木とはさらに遠いものになってしまったという事情である.
 また,上記《啄木亭のこと》や,他のいくつかのブログには,「啄木亭」の主人は「啄木研究家」と紹介されている.
 私とN君が「啄木亭」に通ったころは,その御主人は啄木の代表歌もそらで言えないのであったが,きっとその後,研鑚勉強なさったのであろう.

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