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2021年6月

2021年6月29日 (火)

ゾウたちの南への転進を喜ぶ

 かなり前に書いた《北進するゾウたち》(6/9掲載) のその後.
 
 新華社《雲南省のゾウの群れ、移動ペース速め南進続ける》[掲載日 2021年6月27日 17:53] が伝えたところによると,象たちは無事で,方向を南に変えて移動を続けているという.
 
中国雲南省で進行を続けている野生のアジアゾウの群れは25日午後5時 (日本時間同6時) から26日午後5時の間、ペースを加速させながら南に10キロ移動し、同省玉渓市峨山 (がざん) イ族自治県の富良棚郷から塔甸 (とうでん) 鎮付近の林に入った。群れからはぐれた1頭は、群れから北東に53.3キロ離れた林で活動していることが確認された。
 
 欧州各国各民族に比較すると,中国 (の漢族) と朝鮮,日本には動物を資源と見る感覚が強かった.
「ペットを飼う」という生活習慣が,なかなか育たなかったのである.
 日本人が表向きは犬を食わなくなって久しいが,中国と朝鮮では今でもおおっぴらに犬を食用にしているし,中国南部では野生動物なら何でも食ってしまう.
 中国南部は新型コロナウイルス感染症に続いて,これからも野生動物に由来する人獣共通感染症の発生源であり続けるだろう.
 のみならず中国人は,食用ではなくカネのために貴重な野生動物を殺戮することにためらいがない.
 この点は日本は中国の相棒であった.
 両国では象牙を工芸品材料として多量に消費してきた過去があり,アフリカゾウの密漁と違法売買の中心であった.
 中国では,根拠もなく野生動物の内臓を生薬として売買してきたおぞましい歴史もある.
 また一部の日本人には,それらの生薬を珍重して服用してきた恥ずべき過去がある.
「北進するゾウ」の報道を知って私が危惧したのは,彼ら十五頭のアジアゾウが行政的に殺処分されてしまうのではないかということだった.
 しかしこのゾウたちのニュースは全世界に伝えられたから,行政が彼らを殺す可能性は幾分か低くなったと思われる.
 ゾウたちが元の生息地に戻ってくれることを祈る.
 
 しかしゾウたちが村落に侵入して,人命や財産に被害が生じたりすれば,中国政府が黙ってはいないだろう.その状況は中国政府にとって千載一遇の機会だ.
 そんなことがあったら,あの酷薄な顔つきの中国外務省・趙立堅報道官が「ゾウは共産党の指導と教育に従わねばならない.生命の尊重というたわごとは免罪符ではない」と冷たく述べるだろう.
 彼らにとって,台湾国民,香港人,国内少数民族とゾウは人間以下なのである.
 習近平思想に従わずに自由に生きるゾウたちが,なんとか生き延びて,これからも自由でありますように.
 
 ついでだが,通販向けのペットの子犬や子猫をダンボール箱に詰めて情け容赦なく輸送し,窒息死させた中国人たち (売るやつも買うやつも両方) に天罰が下りますように.

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焼きネギ味噌 (補遺)「高円寺駅南口青春譜」

 昨日の記事は,私が東京の高円寺の学生アパートに住んでいた昭和四十六年の思い出を書いたものだ.
 その思い出は《高円寺駅南口青春譜》と題した一連の記事だったので,昨日の文章の続きを,油揚げとは関係ないが,ここに載せておく.
 以下の文章にも末尾に註をつけた.
 
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2002年4月16日
高円寺駅南口青春賦・自炊立志篇
 
 さて高円寺のアパートで暮らすようになった私は,自炊をしようと思い立った.
 大学の講義は朝八時からだった (2021年6月30日の註;昭和四十三年の夏に学校は全学ストライキに突入し,翌年の安田講堂への機動隊導入によって大学はストライキが解除されたが,教養学部では半年間の講義議の遅れを取り戻すために朝早くから授業が行われた) ので,朝飯は駅の立ち食い蕎麦にすることが多かった.
 お昼は学校の生協食堂が安いし,日替わりのランチなら飽きもこない.
 問題は夕飯だった.
 家庭教師のバイトがある日は,その家庭でちゃんとしたものを食べさせてもらえるが,そうでない日はできるだけ自炊しようと考えたのだ.
 もともと小さい頃から私は母親の手伝いをよくする子だったので,食事の支度は苦にならない.多少の心得はあったのである.
 
 そうなると料理道具を揃えねばならないが,鍋の大小二つ,包丁,まな板はアパートの近くのスーパーで購入した.
 次は電気釜である.
 今なら炊飯ジャーであるが,当時のものは電気釜という名のもっと原始的なやつで,白い塗装の外釜の中にアルミの内釜,ジュラルミンの蓋,保温機能はなしという東芝製品.
 友達に聞いたところでは,秋葉原の電気街に行くと安く買えるらしかった.近所の下宿に住む例のN君は大阪の出身で,彼の指南によると,まずは徹底的に粘って言い値を値切らねばならない.
 そして店員がこれ以上は値引きできませんと言ったら「何かオマケにつけてサービスしてくれ」と言うのが良いとアドバイスしてくれた.さすが大阪人は違うと感心しつつ,私は電車に乗って秋葉原に出かけた.
 
 その頃の秋葉原電気街は現在と全く異なり,家電製品の街だった.何しろまだこの世にパソコンなんかの影も形もなく,オーディオは真空管が堂々とまだ現役を張っていた時代である.
 店の名は忘れてしまったが,秋葉原駅の電気街口から中央通りに出て万世橋側に折れた所の,今のオノデンあたりの小さな店だったように思う.東芝の二合炊き電気釜が欲しかったのでその旨を店員に告げると「ある」とのことだった.当時の価格が幾らであったか全然覚えていないが,スーパーの店頭よりは安かったと思う.
 元々秋葉原というところは一般の電器店より安いので,昔から価格交渉の効かないことが多いようであるが,当時の私にそんな知識はない.N君の事前指導を受けていた私は,もう少し安くして欲しいと頼み込んだ.
 すると,いかにも貧乏学生という風体の私を見てその店の店員は哀れに思ったか,百円単位の端数を引いて,切りの良い値段にしてくれた.
 調子に乗った私が「もう一声」と言うと,さすがに「勘弁してくださいよ,学生さん」と言われてしまった.
 それじゃあ何かサービスにオマケしてくださいと頼んだところ,「わかりました.サービスしましょう」と言って店員がくれた物は,私の期待に反してチャチなプラスチックの御飯シャモジであった.
 ここで引き下がってなるものかと「わざわざ電車賃を使って秋葉原に来たのだから,もう少しいい物をくれませんか」と申し述べると「そこまで言うなら,お客さんだけ特別ですからね」と彼は言い,布巾を一枚くれた.ご飯が炊けたら釜と蓋の間に布巾を拡げて挟む と蒸気が適度に逃げて美味しく蒸らせるという.そうですか.
 数百円の値引きとシャモジと布巾一枚が十分な戦果なのかどうか分からなかったが,諦めて高円寺のアパートに戻った.
 
 電気釜の次は米だが,米をどこで買ったのか思い出せない.昭和四十三年,青雲の志を抱いて上京した時は確か米穀通帳 (2021年6月30日の註;Wikipedia【米国配給通帳】) を持っていたような記憶があるが,しかしその翌年から米をどこでも買えるようになったはずだから,たぶん西友ストアあたりで買ってきたのだと思う.
 調達した米の袋を眺めて,ともかくこれで生活費がピンチになっても飢えることはない,ヨシヨシと思った.生活費がピンチにならぬように計画的に生きようという知恵がなかったのは,いま考えても不思議である.私はアルバイトの金が手に入れば無闇に本を買い込み,貯金通帳はなく,その日暮らしでいつもピーピーしていた.(2021年6月30日の註;バイト代が入ると私は,日本化学会編『実験化学講座』(丸善,全三十二巻) を数冊ずつ買い集めた.この講座は化学系学生のバイブルにも等しい書籍だった)
 
 自炊を始めてから気が付いたのは,食糧の保存がいかに難しいかということだった.
 あの頃の一人暮らしの学生で,冷蔵庫を持っているなんてのは余程のお坊っちゃまだったろう.私の周囲にはただ一人しかいなかった.
 余談だがそいつはN君と同じ賄い付き下宿にいた男で,自炊のための食料品を備蓄する必要がなかったから,彼の冷蔵庫には牛乳と,暑い夏場はパンツが入っていた.銭湯から戻った時などに,喫茶店で出してくれるオシボリのようにしてよく冷やしたパンツを着用すると,とっても快感であると言っていた.
 扇風機すら持っていない私には,それは王侯貴族の暮らしのように思えたものだ.いま単身赴任している私の部屋にもちろん冷蔵庫はある.しかしエアコンもあるので,その快楽を享受する機会がないのが残念である.
 
 さて昔も今も,長持ちする食材の代表格はタマネギ,ジャガイモとニンジンだろう.これで何を作ろうか.アウトドアならカレーであるが,インドアでもカレーが定番である.
 だがいつもいつもカレーでは能がない.この三者と豚肉を煮て,即席カレールーを加えればカレー,シチューの素を入れればシチュー,味噌を放り込めば豚汁,肉の代わりにコンニャクを用いて醤油味にすれば,けんちん汁モドキができる.タマネギ,ジャガイモおよびニンジンを煮た変幻自在のものを私は「日和見なべ」と名付けた.
 もうその頃の大学の学内には,かつての学生運動の熱気は跡形もなくなっていた.弥生町の農学部キャンパスには,学生自治会のタテカンもなくなった.
 志操軟弱にしてもはや街頭デモに行くこともなく勉強に自閉していた私に,「日和見なべ」は相応しい名の食い物であるなあと我ながら感心した.就職が決まって髪を切り「もう若くはないさと君に言い訳」しなければならない季節はもうすぐそこだった.(2021年6月30日の註;「もう若くはないさ……」は「『いちご白書』をもう一度」の歌詞;私は就職が決まって髪を切ったが,しかし「もう若くはないさ」と言い訳をしなければいけない相手はいなかった)
 
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2002年4月20日
高円寺駅南口青春賦・苦学奮闘篇
 
 学生にアルバイトはつきものである.何のために,という目的は違うだろうが,昔も今も学生はバイトする.

 私が初めてしたアルバイトは,荷物運びである.大学一年の時に住んでいたのは,法務省矯正局が所管する矯正施設 (刑務所や少年院など) 職員の子弟が入居できる学生寮で,色んな大学の学生達が住んでいた.名称は桐和学生寮といい,現在は移転してしまった旧中野刑務所の北側敷地にあった.最寄駅は西武新宿線沼袋駅であったが,学生たちは定期代節約のために当時の国鉄中野駅から通学していた.
 
 ある日,同じ階にいた中央大の二年生の人が「手を貸せ」と言った.三人必要なバイトの口があるので,あと二人集めたいのだという.
 翌朝,その先輩に連れて行かれたのは絨毯の問屋であった.まず問屋の倉庫から絨毯を運び出してトラックに載せ,これを都内のデパート数店に配送するのがその日の仕事だった.
 私は田舎から上京して西も東も分からない頃だったから,どこのデパートに行ったのか覚えていない.仕事は,ビルの裏口に回り,トラックの荷台から,太い丸太のように巻いた絨毯を降ろして,エレベーターに積み込むことだった.
 この絨毯というのが実に重かった.屈強とは言い難いが,体力ある若い学生二人がかりでようやく一本持てるという重量なのである.上の方にある階とトラックを何度も往復して運び揚げ,何枚かを拡げてフロアに展示するという単純肉体作業を,その日の夕方までやった.
 そして最後に「ごくろうさん」と言って問屋の人が二千円くれた.これが私の手にした初めてのバイト料だった.
 当時の物価がどうかというと,ラーメンが八十円,餃子ライスが百円,野菜炒めライスが百十円.食い物ばかりでナンだが,これが分かりやすい.つまり,多くみて一日三百円の食費がかかるとして,二千円は,一週間も飯が食える金だったのだ.もう足腰立たないくらいに疲れたが,その日はリーダー格だった早稲田の二年生と新宿西口の横丁で,天丼の大盛りという身分不相応な夕飯を食い,アルバイトの有り難みを知った.
 だが,こんな割のよい仕事はそうあるものではなかった.清掃系の作業 (2021年6月30日の註;高速道路の照明灯を拭くなど) などは一日働いても千円ちょっと程ではなかったか.感激したのは最初の絨毯運びだけだったので,それ以後のアルバイトでいくらもらったのか,あまり覚えていない.
 
 パチンコ屋のサクラというのもした.こんなのは,そう大っぴらに募集しているバイトではないだろう.これは同じ学生寮に住んでいた上智大生が雇われていたアルバイトだったのだが,落とした単位の試験があるので行けなくなった,代わりに君が行ってみないかと譲ってもらった仕事だった.
 バイト先は新宿の歌舞伎町にあったパチンコ屋だが,バイトは早朝開店前から店の前で待つ.列を作る客の先頭にいなければならないのだ.
 そしてガラスドアが開くやいなや,店からあらかじめ店から指定されたパチンコ台のところに走る.そこが「出る」台だからである.
 現在のデジタル化されたパチンコと違って当時のものは,台の釘の調整で「出る,出ない」が決まった.もちろんサクラ用の台は釘の調整が大甘にできている.
 誰が打っても出るようになっていて,深夜閉店時には足許に球入れの木箱がいくつか積み上がるという仕組みだった.ただ,これがツライのは, 一日中立ったままということだった.今と違って,台には椅子がないのだ.
 おまけに台を離れていいのはトイレだけである.食事の時間はない.従ってその日,私が口にできたのは,玉と交換した景品のパンとコーラだけだった.
 アルバイトでなければ夢のような大儲けという大量の玉を出したところで,もらえる金は,当時のバイト料の相場からすれば非常に高額だったが,気分的にはわずかなものに思え,これは虚しい仕事だった.
 
 静岡県まで遠征のバイトをしたこともあった.
 天竜川の河口付近に,小学校で使う日本地図とか世界地図などの教材を製造している工場があり,そこでは畳大のビニールのシートに,大きな謄写版のような装置で地図を印刷していた.友人の一人がそこの工場長の親類だとかで,そのツテで仲間数人が一週間泊まりがけのバイトに出かけたのだった.
 仕事自体は単調だが重労働ではなく,合宿気分で工場の宿直室のような部屋に寝泊まりし,一日の仕事が終われば麻雀に明け暮れるという,最高に気楽なバイトだった.
 最終日に給料をもらい,みんな揃って浜松市に行き,懐が暖かいので鰻屋に入った.全員が浜松イコール鰻という観念を持っていたのだ.
 私は,それまでに一度だけ鰻丼を食ったことがあった.上京した最初の日,ついてきた父親が別れ際に「入学祝いだ.一緒に夕飯を食おう」と言い,小さな食堂で鰻丼を注文してくれた.その時の丼の上の蒲焼は,花札くらいの大きさのものが二切れだった.それが何と今回は鰻重の肝吸い付きである.もっともその連中のうちの誰一人として,肝吸いがどういうものかは知らなかったのであるが.ともかく豪勢な飯を食って意気揚々と東京に引き上げたことを覚えている.
 
 例のN君から東海道新幹線の車内販売のアルバイトをやった話を聞いた.これも宿泊バイトで,朝一番の東京発に乗り込み,一日に何往復かする.一日の仕事が終わると,国鉄の施設かビュフェを営業する会社のものか知らないが,バイト学生用の施設で宿泊し,また翌日新幹線に乗り車内販売をするという仕事だと言っていた.
 そんなある日,彼が車内で弁当を販売していたら,グリーン車に小柳ルミ子が乗っていたそうだ.同行していた彼女のマネジャーがN君にサンドイッチを注文した.その時のビュフェは日本食堂だったらしいが,小柳ルミ子は「あたしは帝国ホテルのが好きなのにっ.日本食堂のじゃ嫌っ嫌っ」と言って駄々をこねまくったそうだ.
 N君は熱烈な小柳ルミ子ファンで,酒に酔うとアカペラで『瀬戸の花嫁』を歌うのが常であったが,それ以後二度と『瀬戸の花嫁』を歌うことはなかった.
 
 そんな具合に,大学生活の最初の二年間は臨時アルバイトが主で何とか生きていたが,次第に物価は上昇しつつあり,本代に事欠くようになって本気で常雇いの仕事を探さねばと思うようになった.
 持つべきものは友である.三年生の時に,私と同じ学部の友人が家庭教師のアルバイトを紹介してくれた.政治家,官僚,財界人,芸能人 (お笑いタレントではない) など,いわゆる上流階級の子弟専門に家庭教師を派遣する会社があり,その友人はそこの派遣家庭教師をしていた.家庭教師の学生は毎年卒業するとやめていくから,補充が必要になる.その補充の面接を受けられるよう,社長に紹介してくれたのだ.
 面接に合格した私が最初に派遣されたのは,当時の農林省の高級官僚の人の家だった.地下鉄茗荷谷駅から歩いてそう遠くない所にある高級高層マンションで,そこの中学生の女の子を受け持つことになった.夕方六時過ぎにそのマンションに行き,エレベーターで高い階まで上がる.玄関のチャイムを鳴らして中に入れてもらい,それからお勉強の前に東南の角部屋のLDKで夕ご飯を食べさせてもらう.東京の夜景が一望だった.光文社の社屋の看板が見えた.
 田舎の貧しい家に育った私は,東京にはこんな暮らしの人々がいるのだと驚き,自分もいつかはそうなれるのだろうかと憧れた.しかし結局ただの会社員で終わることになったのだが.
 その家庭教師派遣会社からは,半年くらいで別の家庭に行くように命ぜられた.高級官僚の家庭の次は田園調布にある大きな家だった.
 ここの家の子は頭は悪いし性格は悪いし,父親もまた同様で随分嫌な思いをした.田園調布の駅から超高級住宅街をその家に行く途中に公園があって,その中を通り抜ける時にチョロチョロとリスなんぞが目の前を走ったりするのも,わけもなく腹が立ったのを覚えている.
 このアルバイトを紹介してくれた友人の方はどうだったかというと,専ら芸能人の家庭を割り当てられていたようだ.
 両親が映画俳優で,後に男性アイドル歌手 (2021年6月30日の註;郷ひろみ) と結婚したが離婚して,そのことを少し前に本に書いた美しい女性 (二谷友里恵さん) がまだほんの小さい頃の家庭教師が彼だった.
 結婚して女優を引退した彼女の母親 (白川由美さん) は,私と同年代ならば知らぬ者のいない美人であったが,とても好感の持てる人だと言っていた.彼女自身も大変性格のよい子供であったようである.
 その子の次は,著名な歌舞伎俳優の妻でかつ女優,後に国会議員,そしてある政党の党首で大臣となった人 (扇千景) の家庭にも行ったと聞いた.その家では両親の姿を見たことはなかったとも言っていた.
 
 私が田園調布の家の次に派遣されたのは (この頃に私は高円寺に引っ越した) 下町の墨田区の家庭だった.詳しく訊いたのではないが,どうやら自民党の関係者のようだった.庶民的ではあるが大きな家で,その家の子供二人を教えたのだが,頭も性格もいい子達で,今もよい子達だったなあと覚えている.
 
 その少し前,帰省したら母親が家にいなかった.激しい咳がでるようになって,肺炎みたいだが,いま入院していると父が言った.
 入院すればお金が余計にかかるくらいの事は想像できたので,その頃は家から一万円を仕送りしてもらっていたのだが,バイトだけでやっていけるからもう送金しなくてもいい,と父に言った.実際,派遣とは別口の家庭教師のバイトがみつかりそうだったのだ.
 生徒は男の浪人生で,その家は中央線立川駅のほうにあった.私の友人が,その子の現役の時に面倒みていたのだが,立川まで往復するのに時間がかかって仕方ないので,誰か代わってくれるやつがいないかと探していた.高円寺から遠いことは遠いのだが,週に一回二時間で月に二万円もらえるという破格の条件だったので私が引き受けた.それまでやっていた分と合わせると月収三万円である.日本育英会の奨学金八千円と合計すると,これは当時の大卒初任給に迫る金額であった.
 前任者の友人にもらった地図を見ながらバイト先に行き,その浪人生の父親に会ってみたら,随分年寄りっぽい実直そうな農家の親父さんで,子供は末っ子らしかった.先生どうかよろしく頼みますと頭を下げられた私は,どうか大舟に乗ったつもりでご安心下さい,と大口を叩いた.簡単に安心したらしい親父さんは,自分ちの畑で穫れた落花生を出してもてなしてくれた.私が落花生の殻を割って食べようとすると,彼はこう言った.
 
「先生,落花生は殻ごと食うのがよいです」
「はあ?」
「どっかの大学のえらい先生が,うちの落花生を調べたら,ヒソという栄養素がたくさん入っとるちゅうとりました」
 
 そう言って殻付きの落花生を口に放り込み,バキバキとかみ砕いた.
 
「んだもんでそれ以来,わしは落花生を殻ごと食うようにしとります.バキバキ.先生も殻ごと,バキ,どうぞ,バキバキ」
 
 大変な事になったと思ったが,ここで機嫌を損ねてはいかんと思い,ナポレオンの死因のことが頭に浮かんだが,私もヒ素入り落花生をそのまま食べた.後にも先にも,これくらい不味いものはなかった.
 だが,本当に大変なのはその毒落花生ではなく,浪人生の子供の方だったのだ.
 その家庭は農家であるがアパートを何棟も持っており,その子はアパートの一室に住んで管理人みたいなことをやっているという.勉強を教えるのはそのアパートの部屋で頼みますということだった.
 理科系に進学したいという希望で,数学だけ教えて欲しいということであったが,初日に少し問題集をやらせてみて判明したのは,高校一年の数学もよく理解していないという事態だった.おまけに勉強して来年こそは合格したいという熱も意欲も感じられなかった.
 大舟に乗ったつもりで,と言い切ったことを私は激しく後悔したが,二万円は,捨てるには惜しい金だった.
 この家庭教師の話を私に紹介した友人に「なんだあれは」と詰め寄ると,「あ,言い忘れてたけど,あの子ぜんぜんやる気ないの」
と言った.言い忘れるなよ.
 ある日のこと,そのやる気のない生徒を相手に私は虚しい努力をしていた.
 
「だからあ,二次方程式の解の公式ってのは,2分の」
「先生,それよか,これ知ってる?」
 
 そいつは小さな茶筒を持ち出してきた.中には見たことのない植物の葉が一杯入っていた.
「なんだこれは」
「これはね,マリハナっていうらしいの」
 
 私はぶっ飛んだが,よく聞いてみると,そいつのいるアパートには,立川という土地柄なのか,アメリカ人がうようよ入居しているとかで,そのうちの一人が部屋代のかわりにくれたものだという.休憩と称して,そいつはマリファナを吸い始めた.多幸症というのか,マリファナの効果でへらへらと笑っているそいつの顔を眺めながら,これは入試の結果が出る前に逃げ出したほうがいいな,と思った.
 前任者もそれがいいと言ったので,結局十二月一杯でなんとか口実を作ってそのバイトは止めてしまった.
 
 その年の暮れ.派遣家庭教師先の墨田区の方の子供の勉強をみてあげたあとで,もう卒業なので私は今月でおしまいですと挨拶して帰ろうとすると,子供達の母親が私に「先生これをどうぞ」と言い,四角い綺麗な包みをくれた.餞別兼お歳暮のようだった.
 箱の中身は一体なんだろうと地下鉄の駅に行く途中でちょっと振ってみると,チャポンチャポンと液体の揺れる音がする.これはひょっとしたら,と思った.
 アパートに戻って包みをあけてみると果たしてそれはウイスキーだった.それも,発売されて間もないサントリーのリザーヴという酒だった.
 それまで角瓶を飲んだことはあったが,オールドなどはボトルの形がどんなのかぐらいしか知らない.
 しかしリザーヴは,その上をいく高級酒のはずだ.おそるおそる箱を開けてみると,中に黒い楕円形のシールが一枚入っており,これにボールペンで字を書くと,金色の跡ができると説明が書かれていた.つまりボトルにネームを入れなさいということなのだ.私はそのシールにサインをし,瓶に貼り付けた.
 どんな味がするのだろう.きっと信じられないくらいに美味い酒なんだろうな.開封なんかせずにずっととっておこうかな.そんな事を考えながら,ためつすがめつそのボトルを眺めているその時,部屋の扉を叩く音がした.開けてみると,雀牌の箱を抱えた友達が三人そこに立っていた.
 こうして私の部屋に降臨したリザーヴのボトルは,たったの一晩で空瓶になった.人生ってのは,そういうふうに出来ている.その翌朝しみじみとそう思った.
 
 翌年の正月,中野駅の近くのパチンコ屋の前で,立川の浪人男を見かけた.進学はあきらめたのだろうか,遊びまわっているような雰囲気だった.今は立川で農業でもしているかも知れないなと思う.
 
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2002年4月23日
高円寺駅南口青春賦・さらば青春篇
 
 高円寺の私のアパートは古い木造で玄関に三和土があり,そこで靴を脱いでスリッパに履き替えて部屋まで行くという造作だった.
 そして私以外の全員が半同棲状態と思われ,玄関を入って上がったところの床には女物のスリッパがたくさんあった.他の部屋の前を通りかかる時に,楽しそうな女の笑い声が聞こえることもあった.
 私自身はその頃,彼女などいなかったし,また欲しいとも思わず,たまには女子学生と映画やコンサートに出かける事はあったものの,休みの日はほとんど部屋で読書に明け暮れていた.だがそんな生活が淋しくないわけではなかった.
 その年の夏休みは二,三日しか帰省しなかった.私は既に就職が内々定しており,その会社から研究所でアルバイトをしてみないかと言われていたので,家庭教師の方の休みをもらった期間はそちらのバイトをしたのである.
 
 夏休みが終わって学校の講義や卒業実験が再開したある日,夜遅くアパートに戻ってくると,扉に電報が貼り付けてあった.それは田舎の父からで,母親が危篤だという知らせだった.
 
 翌朝,財布だけ持って私は上野駅に急いだ.

 郷里の駅で下車し,実家に着いてみると鍵がかかっていて,誰もいないようだった.
 親しくしていた隣家を訪ねると,伝言が書かれている一枚の紙を渡してくれた.
 父から聞いていなかったのだが,母はそれまで入院していた市立病院から,やはり市内にある大学病院に転院していたようで,そこにすぐ向かうようにと書かれていた.大学病院への道筋がよく分からないので,いったん駅に戻り,そこからタクシーに乗った.
 大学病院の受付で母の病室のある棟を教えてもらい,病室に入ると父と姉がベッドの脇に立っていた.私も静かに二人の横に立った.
 医師は何も語ろうとはせず時々脈をはかり,父も姉も私も,無言のまま長い時間が経過した.
 夏に帰宅した折りに姉から,母の病状が思わしくないことは知らされていた.だがこんなに早く死期が迫るとは思ってもいなかった.
 そんなことをぼんやりと考えながら,ふと気が付くと医師が看護婦に何か言い,注射の用意をさせていた.彼は,私が見たこともないくらい長い針を注射器に装着し,それを母の心臓の辺りに深々と,ゆっくりと刺し込んだ.それから心臓マッサージを始めた.随分と長時間,それを続けたように思えたのだが,実際はどれほどの時間だったのだろう.やがてマッサージを止め,医師は父に母の臨終と死亡時刻を告げた.
 人の記憶というのは頼りにならないものだ.三十年以上も経つと細部は曖昧になってしまっているが,葬儀の日がとても暑かった事は今も覚えている.
 
 秋が来た.ある日,近くのスーパーへ食料を買い出しに行くと,その外で男が何やら売っていた.男の前には箱が置いてあり,その中で人の親指ほどの小さなものがたくさんゴソゴソと動いていた.
 男の後ろの壁に貼ってある紙片を読むと,それはハムスターというものらしかった.
 たしか一匹二百円ではなかったか.茶色と,白茶ブチのがいて,私がブチのを一匹くれと言うと男はそいつをボール紙の箱に入れてくれた.ネズミみたいなもんだから囓られないようなものに入れて飼うようにと教えてくれた.
 部屋に戻り,何か適当なものはないかと探したが,結局小さいポリバケツで飼うことにした.
 そいつはヒマワリの種を好んだが,雑食で野菜等も食い,そしてみるみる大きくなった.よく分からないが,たぶん雌のようだった.
 彼女はどうも夜行性のようで,私の相棒に格好の生き物だった.私の部屋にはほとんど家具らしいものがなかったから,ポリバケツから出し,そこら辺で遊ばせておいても,何処かに潜りこんで行方不明になることはなかった.
 そして私が布団に腹這いになって本を読んでいる時など,稲荷寿司ほどの大きさの彼女が視界の端で身繕いなどしていると妙に心和むようで,こうして私と彼女の同棲が始まった.
 
 ところでN君の下宿には,私と同じ大学のO君という人がいた.
 私とN君,O君は,中野の桐和寮で知り合った仲間だった.
 私とN君とO君の三人はよく連れだって酒をのんだ.部屋で飲み,居酒屋で飲み,少し金のある時には当時「コンパ」と呼ばれていたパブにも行った.
 私がハムスターと一緒に暮らし始めた頃だと思うが,その三人で高円寺南口商店街の通りから少し入ったところにあるスナックバーに行くようになった.そこのマスターは学生のバイトで,私達より年上だったが四年生のまま留年しており,同学年なので気が合ったからである.彼は廃校になることが決まっていた東京教育大の学生だった.
 その店には女の子が二人いて,そのうちの一人はマスターの恋人だった.昼間は吉祥寺のデパートに勤めているといっていた.
 私達三人がある夜そのスナックに行くと,彼女が「すごくいい曲があるの.聞いてみる?」と言った.そのレコードを聞いてみると,アップテンポのなかなかいいメロディだった.
 
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
‥‥‥‥
少女よ 泣くのはおやめ
風も木も川も土も みんなみんな 戯れの口笛をふく
 
「すごくいい歌だね.歌詞が詩のようだ」
 そう言うと,彼女は嬉しそうに微笑んだ.
「この歌はね,さらば青春.歌ってるのは小椋佳っていう人なの.作詞も作曲も.でもジャケットに自分の写真は載せないんだって.だからどんな顔なのかわかんない」
 
 私達はその晩,何度も何度も『さらば青春』を歌い,そして二番までしかない短い歌詞を暗記してしまった.
 
 そのスナックのある細い通りには,ビリヤード場もあった.私とN君,O君の三人は,それまで三人とも一度も玉撞きをしたことがなかったのだが,ある日おそるおそる,その撞球場に入ってみた.
 店の主人は,アパートの近くの飲み屋の老婦人よりも少し年下かと思われる上品な女性で,いつも和服を着ていた.
 私達が全くの初心者であると知ると,その女主人は四ツ玉の撞き方を丁寧に教えてくれた.数時間後には,私達はもの凄い下手くそであるが一応は撞けるようになり,そしてそれ以来,玉撞きにハマってしまった.三人一緒に,週に一度くらいは通ったように思う.
 誰か一人金がないと,あとの二人が「俺達が料金を払うから行こうぜ」と言って撞きに行ったから,かなりの熱中具合だった.
 母の死後,なんとなく気持ちに空洞ができたような私には,先生役の女主人が優しい人だったからということもあったように思う.
 
 しかしこんな具合に遊んでばかりいたわけではなく,私達は各自それぞれの勉強もちゃんとしてはいたのだ.年末には,文科系系学部のN君とO君は既に卒論を書き上げ,私は卒業実験がほぼ終わって,あとは論文にして提出すればよいところまできていた.

 私は家庭教師のアルバイトを十二月一杯でやめ,年の暮れはヒマ を持て余した.いよいよ押し詰まった三十日は徹夜で麻雀をして,そのあとN君等とボーリングをやりに行き,眠気で意識朦朧として皆やたらガーターばかり出し,全員酷い二桁スコアだったので大笑いをして,それから部屋に帰って眠った.
 大晦日の夜に起きると今度は三人で例によって玉を撞きに行った.撞球場の女主人が,今夜は特別に深夜まで撞いていてもいいと言ってくれたので,私達は明け方近く疲れるまで玉を撞き,そして壁際に置かれたソファで仮眠をとった.
 朝起きると,親切な女主人が汁粉を作ってご馳走してくれた.
 お汁粉で腹ごしらえしてから私達は初詣のハシゴに行くことにした.
 新宿の花園神社,神田明神,湯島天神,浅草寺をまわった.浅草で友人達と別れて,私は上野駅に行き高崎線に乗った.元旦の電車は空いていた.
 
 四年前の春,上京して大学に入るとすぐ全学ストライキになった.
 校舎にバリケードを築き,何日もその中で寝た.
 学生同士の対立があり,殴り合い,石を投げた.
 運よく怪我はしなかった.
 N君は新宿で機動隊に逮捕され,暫く留置場にいた.
 桐和寮時代の彼の友人たちは,N君の救援隊を作って差し入れに入った. 
 慌ただしく時間が過ぎて行き,色んなことがあった長い休暇のような日々の終わりは,もうすぐそこにきていた.
 
 正月休みが終わり,また高円寺に戻った私達はいつものスナックに行った.マスターが店を辞めると聞いたからだ.
「いつまでもこんな商売やってられないからね.卒論を提出して卒業することにした」
 卒業してどうするのか訊ねると,田舎に帰って教師の口を探すとマスターは言った.彼の恋人の娘は,一緒に付いていくと言った.
 私達は,いつもはサントリー白札しか飲まなかったのに,彼らの前途を祝して角瓶を一本出してもらい,『さらば青春』を歌い,明け方まで飲んだ.
 
僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去る者に
僕は呼びかけはしない 傍らを行くものさえ
 
 ぼろ雑巾のように疲れ,よろよろと店のドアを開けて外にでると高円寺駅南口商店街の方角が薄明るくなっていた.昭和四十七年の一月の,寒い朝だった.
 
 やがて二月になるとN君もO君も帰省して,私もアパートを引き払う日が近づいてきた.
 ある朝,ポリバケツの中を覗いてみると,ハムスターが元気なくうずくまっていた.なんとなく震えているように見えた.手のひらに乗せてみると,両目は目ヤニでふさがり,明らかに病気だった.
 暖房は炬燵しかない寒い部屋だったから,風邪を引かせてしまったのだろう.
 彼女を炬燵布団の端に置いて暖め,ずっと見守っていたのだが,その日のうちに死んでしまった.冷たくなった彼女は,かちかちのただの塊になっていた.
 私は部屋を出て,アパートの建家と塀の隙間の狭いところに穴を掘って彼女を埋めた.そして部屋に戻って,引っ越しの支度に取りかかった.
 
 その年の五月の連休の時に,N君と再会した.彼は就職した会社が嫌になっていて,新宿の深夜喫茶でその話を聞いた.朝になり,新宿駅まで歩きながら,どちらからともなく旅に出ようという話になった.
 金の持ち合わせがあまりなかったので,安い「四国金比羅参り」の周遊券を買い,その足で大阪へ行った.
 大阪の彼の実家で夜まで寝させてもらった.彼のお袋さんは私達に握り飯を作ってくれた.それを持ってその夜,大阪から船に乗り,神戸沖を通過して明け方,高松に着いた.
 金比羅宮に着いて,だらだらとした石段を昇って行くと,途中に広場がある.そこで私達は握り飯を食い,ベンチに横になって,昼まで眠った.目がさめた時に,彼は会社を辞める決心をしていた.やっぱり,自分のしたい仕事に就きたいのだとN君は言った.
 そして私たちは参道を下り,N君は参道の下の公衆電話から,今日で辞めると会社に連絡した.
 
 そんな事があってから数年後,大阪に戻っていたN君から電話があった.それはO君の訃報だった.新潮社に就職し,週刊新潮の記者になったO君は, 睡眠不足ででもあったのか,取材の帰りに高速道路の分離帯に激突横転して即死したらしかった.
 N君の話を呆然と聞きながら,私は高円寺の南口で過ごした,あの頃の日々を思い浮かべた.呼びかけても遠く過ぎ去る者達のことを.
 
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[本文への追記と註]
★ 私が住んでいた高円寺の木造学生アパートは,のちに高橋由美子の『めぞん一刻』に描かれた一刻館によく似ていた.
 彼女の学生時代には,一刻館のような木造アパートが都内にまだ残っていたらしい.
 私のいたアパートは大家の名○○をとって「○○荘」という名称で,『めぞん一刻』と違って可憐な美女管理人はおらず,近所に住んでいる大家さんがトイレの掃除をしていた.
 トイレは水洗だったが,便器は和式で,水のタンクは天井に近いあたりの壁に設置されていた.そのタンクから下にさげられている細い鎖を手で引くと水が流れる仕組みだった.今では余程の年寄りでなければこんな構造の水洗トイレは見たことがないだろう.画像がないかとウェブを検索してみたが見つからなかった.
 
『いちご白書』をもう一度」はフォーク・グループのバンバンがリリースしたシングル盤で,荒井由実時代の松任谷由実作品である.
 松任谷由実自身は全く学生運動と無縁に青春時代を過ごした若者 (昭和二十九年生まれ) であり,当然のことながら学生運動に関する知識もなかっために,昭和中頃の東京における学生運動を「挫折」として歌詞に書いた.
 この曲を歌ったバンバンの ばんばひろふみ (ばんば は昭和二十五年二月生まれで,私は同年三月生まれである) もまた,学生運動の無風地帯であった京都の立命館大学の学生だったから,東京の学生運動のことはよく知らないだろう.
 当時の京都では,反戦平和運動や,現実の社会的問題意識に基づく学生運動はニッチな存在で,むしろいわゆる「関西フォーク」と当時呼ばれた音楽活動が京都の学生たちの「学生運動」だったと私には思われる.
 ばんばひろふみ は,その関西フォークの影響の直下にあったのである.従って,学生運動のリアルを知らない松任谷由実や ばんばひろふみ が,学生の長髪と就職と「挫折」を,わかりやすいマンガ的に結びつけて描いたのは致し方のないことだったと思う.自分が知らないことを描くのは難しいのだ.
 さて,いわゆる団塊世代が中高年になった頃,世はカラオケの全盛時代を迎えた.
 団塊中高年の男たちはカラオケボックスやらカラオケスナックやらで,マイクを握って思い入れたっぷりに「『いちご白書』をもう一度」を歌った.
 だが私の見るところ,酒を飲んで「『いちご白書』をもう一度」を歌う男というのは,集会にもデモにも無縁な学生たちだったろう.
 この歌の歌詞の「自分の掌返しを恋人に軽蔑された苦い思い出」が本当にあるのなら,カラオケで得意げに歌えるはずがないではないか.
「『いちご白書』をもう一度」は,松任谷由実が実体験なしの想像で作った歌だ.
 これを歌う男にとっての昭和四十三年の東京は,ファッショナブルで楽しい時期だったに違いない.
 
 余談だが,昭和四十三年の秋,京都大学の学生自治会が「十月の国際反戦デーに東京から日大全共闘が京大へ攻めてくる」という荒唐無稽なデマを流し,自治会執行部が一般学生を集めてキャンパスをバリケード封鎖した.
 当時の学生運動を代表する日大全共闘の何たるかを全く承知しない京大生たちの社会性欠如に,私たち東京の学生は驚き呆れた.
 しかも,どういう理由で,どのようにして「日大全共闘が京都に攻めて」くるのか,京大の学生たちは考えもしなかったのだ.新幹線でやって来るのか,あるいはデモ隊列を組んで東海道を進撃してくるのか.昭和の「おかげ参り」か.w
 その奇想天外な「京大防衛戦」を武勇伝として語る京大卒業生を一人私は知っている.
 その男は,酒の席で皆が昔話に興じると時々,大昔の「京大防衛戦」でバリケードを作った話をした.テレビで報道される「バリケード封鎖」をしてみたかったのだと思われる.
 私が「それで,反戦デーの日に日大全共闘とはどのように戦ったんだい?」と訊くと,彼は「いやあ,結局,日大全共闘はこなかったよ」と答えた.
 くるはずがないよ.w 
 ちなみにその男は出世して,取締役専務執行役員で会社員人生を終えた.
 さらにちなみに,その頃の京大生で出世頭になったのは,昭和二十三年生まれの出口治明である.
 出口治明は,半藤一利との対談『世界史としての日本史』(小学館新書, 2016) 中で高慢にも,自分以外の団塊世代の人間は無教養であると嘲笑している.
 これに,昭和天皇に対して己を「臣一利」と称し,昭和天皇のやる事なす事を肯定して恥じなかった半藤一利は,出口に同意して互いを褒め合っている.
 だが出口治明が週刊文春誌上で書き殴った「日本史」を読むと,卑弥呼が関西弁でしゃべっていたりする.
「週刊誌の読者なんぞこんな程度のインチキを日本史だといって読ませときゃいいんだ」と言わぬばかりの出口治明の「教養」が,聞いて呆れる.いかにも「日大全共闘が攻めてくる」というデマに踊らされて逆バリケードを張った京大生の「教養」ではある.w
 
★「さらば青春篇」本文に登場するO君が亡くなってからもう半世紀近い時が流れた.
 彼の名前をウェブ上で検索しても,一件もヒットしない.
 誰もO君のことを覚えていないのだろうか.誰もO君との思い出を書いてはいないのか.
 もしそうなら,かつて彼と学生時代を共に過ごした誰かが,O君の名をサーチしたときのために,私が彼の名をここに記しておこうと思う.彼の名は王子博夫という.
 昭和四十三年の冬,彼はノンセクトだったが,東大文学部共闘会議のバリケードの内側にいた.
 そういう学生が,岩波書店とか文藝春秋社などのガチガチに体制的な出版社に入社するのは困難だったろう.
 昭和四十七年,王子君は新潮社に就職して週刊新潮の記者となり,その後は地方都市の風俗ルポを書き続ける過酷な仕事の中で,おそらく過労のために,高速道で自動車事故を起こして世を去った.
 在学時には,N君や私を相手に文学論を熱く語る青年であった王子君としては,風俗や犯罪やスキャンダルを取り上げることが多かった週刊新潮の仕事は彼の志とは遠いものだったように思うが,しかしそれはもう遠い日のことになった.
 私の学生時代のもう一人の友人であったN君については,私には彼がまだ存命であって欲しいとの思いがあって,ここに名を記すことはしない.しかし誰かがサーチした時にヒットすることを期待して少しだけ書いておく.
 N君は昭和四十三年に日大文学部に入学し,四十七年に卒業した.当時の日大は,経営者が腐敗の極みにあり,日大の学生運動は,腐敗に対する学生たちの抗議行動に端を発したものであった.Wikipedia【全学共闘会議】に次のようにある.
発端
 1968年5月、日本大学で東京国税局の家宅捜索により、22億円の使途不明金が発覚した。当時日大では時の理事長・古田重二良の方針により学生自治会が認められていなかったが、この使途不明金問題をきっかけに、大学当局に対する学生の不満が爆発し、5月23日に神田三崎町の経済学部前で、日大初めてのデモとなる「二百メートル・デモ」が行われた。
 N君は,ほんの数分間の「二百メートル・デモ」に加わった誠実な学生の一人であった.その日の夜,桐和寮の一室で,王子君や私に,二百メートル・デモの意義を熱く語るN君のことが忘れられない.
 
★私は小学生低学年の頃,カナリアを飼ったことがある.正確には父親が知人に一つがいをもらい受け,その世話をさせられたのである.
 このつがいは,何度も抱卵してヒナを孵したが,途中でヒナを巣から蹴落として死なせてしまう.そしてその度に私はカナリアのヒナの墓をつくることになった.このカナリアがどうなったのかよく覚えていない.本来の飼い主である父親が,他家に引き取ってもらったような気がする.
 高円寺のアパートで暮らしていたときに飼ったメスのハムスターは,私が初めて飼ったペットだったが,一年も生きさせることができなかった.
 私は正しい飼い方を知らなかったのである.
 それと,彼女が死んでから気がついたのであるが,私はそのハムスターに名前をつけていなかった.
 その迂闊さが忘れられない.もっと長生きさせるように飼えばよかったと,今も後悔している.
 

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2021年6月27日 (日)

焼きネギ味噌 (二) 「啄木亭篇」

(昨日の記事《焼ネギ味噌 (一)》の続き)
 その昔,Windows98がリリースされて,個人がウェブサイトに日記や会議室などのコンテンツを載せることが容易になった.
 私も早速,ココログに『江分利万作の生活と意見』と題した個人サイトを作った.
 そしてそこにほぼ毎日,エッセイのような文章を掲載し続けた.
 これがこのブログ《江分利万作の生活と意見》の前身である.
 日本の私的インターネット利用の黎明期はWindows98の普及と共に始まり,それまでパソコン通信のネットワークに参加していた多くのネットユーザーたちはこぞって個人サイトに移行したのだが,その当時に建てられた無数の個人サイトのほとんどは姿を消した.ブログに再移行したのである.
 そして今は既に高齢化したネットユーザーたちのブログも,次第に風化した.私のブラウザに「お気に入り」登録したブログで,今も存在しているのは数えるほどしかない.
 私は個人サイトに書き貯めた文章をブログに移行しなかった.駄文が多かったからであるが,一応すべてのエッセイをテキストファイルで保存はしてある.
 その中から時折,二十年近く前の思い出として,ここに古い文章を再掲載している.それが「私が昔書いたこと」というカテゴリーである.
 昨日の記事に,焼ネギ味噌を取り上げたのだが,十九年前にもネギ味噌の思い出を書いていた.
 それを再掲載する.
 文中の「啄木篇」に,居酒屋の油揚げ料理「啄木コロッケ」が登場する.この料理のレシピについて書かれたウェブ上の記事には少し混乱があるので,末尾に注釈をつけた.
 
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2002年4月9日
さくら貝ひとつ
 
 私は大学の四年生の時,東京の高円寺に住んでいた.JR高円寺駅の南口を降りるとすぐ狭い商店街があり,その通りを南に下って行き,店が途切れて住宅が多くなった辺りである.今は随分と様子が変わってしまったが,そこにちょうど『めぞん一刻』に出てくるようなおんぼろ木造アパートが建っていて,私はその一室に暮らしていた.
 
 アパートから駅に通じる通りに出ると,赤い提灯を軒にかけた小さな飲み屋が数軒あった.その一つは,当時もう六十歳は越したと思われる女主人が一人でやっていた.店の名は忘れた.
 店はカウンターだけで,五人が腰をかければ一杯になるというほどの広さだった.やはり高円寺の南口に住んでいた私大に通う友人と連れだってよくその店に行き,老婦人と話をしたものだ.
 
 彼女はたぶん旧制女学校出の,上品な物腰の人で,訊ねると色々昔の話を聞かせてくれた.生まれは神奈川県の鎌倉あたりのようなことを言っていた.
 ある晩,お客が友人と私の二人だけの時,私達にふろふき大根の作り方を実演しながら (時々,自炊の貧乏学生のために,簡単な飯のおかずの作り方を教えてくれたのだ),昔の鎌倉近辺の思い出を話してくれた.
 彼女は戦争で家族をすべて失い,戦後は焼け野原となった新宿に出て,一人でバラックの飲食店を始めたという.それからずっと水商売一筋だが,女一人で生きて行くのは,やはり辛いことが多かったと言った.そういう時には店を休み,生まれ育った鎌倉の浜辺を歩くのが慰めだった.砂浜にはさくら貝が一杯あって,まるで桜の花びらが散ったようだった.
 両手にこぼれるほど薄桃色の貝殻を集め,帰る時にはそのさくら貝を波打ち際に置き,それが波が引くのに合わせてまた海に戻って行くのを,ずっと眺めていたものだとも言った.
「あなたたちは,さくら貝の歌を知ってる?」
「聞いたことはあるけど,歌えない」
「じゃあ歌ってあげる」
 戦前の鎌倉由比ヶ浜の近くに住んでいた鈴木義光という青年が,十八歳で亡くなった恋人を「わが恋のごとく悲しやさくら貝 片ひらのみのさみしくありて」と短歌に詠んだ.
 この短歌をもとに,彼の友人であった逗子町役場職員の土屋花情という人が歌詞を作り,鈴木青年自身が作曲したのが『さくら貝の歌』である.『あざみの歌』などで知られる作曲家八洲秀章は,鈴木義光その人.
 
 戦後を一人で生きてきた老婦人は,細い声で歌った.
 美わしきさくら貝ひとつ 去りゆける君に捧げん.
 それから『さくら貝の歌』は私の愛唱歌となった.もう三十年前の思い出である.
 
 今日,神奈川県鎌倉市小町一丁目の市中央公民館で,さくら貝をテーマにしたシンポジウムとコンサートが開かれる.かつて鎌倉市から葉山町にかけての海岸でよく見られ,今はほとんど姿を消したさくら貝の現状を取り上げ,葉山町立葉山しおさい博物館長の池田等さんが「相模湾・海の生き物の現状」と題して基調講演を行い,水質悪化など環境問題を考える.
 第二部のコンサートは「さくら貝の歌」など海や浜辺にちなんだ曲が中心の構成となっている.
 午後2時開会.参加費 1000円.申し込みと問い合わせは主催のモース研究会(0466-26-3028)へ.
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2002年4月14日
高円寺駅南口青春賦・銭湯篇
 
 先日の『さくら貝ひとつ』に,私が大学生四年生で東京・高円寺駅の南に住んでいた頃の話を書いているうちに,昔のことを色々と思い出してしまった.
 高円寺に引っ越す前の一年間,私は西武新宿線の野方駅の近くに住んでいた.今も神州一味噌の宮坂醸造の工場がある辺りである.
 そこは学生専門の賄い付き下宿だったが,主人である婆さんの作る食事があまりにも劣悪 (極超短周期サイクルメニューである上に,しばしば飯に婆さんの白髪が入っていたりした) だったので,住み始めてすぐに嫌気がさした.
 銭湯は割と近くにあったのだが,夕方の,お湯がきれいで空いている時間帯に行ったりすると,時たまオカマと出くわした.私が湯に浸かっていると,ガラス戸を開けてオカマ氏が入って来る.片手に持ったタオルで股間を隠しているのはよいとして,もう片方の手で胸を隠している.ないものを隠してどうする,と思った.
 彼はざっと湯をかぶると,恥じらいの表情を浮かべつつ浴槽に入ってくる.浴槽は,どこの銭湯もそうであるように二つあり,一つは普通の温度でもう一つは熱い湯だったが,彼はいつも私がいる方の浴槽に入ってきた.私がいる位置から少し離れたところに内股で入り,湯に浸かってしばらくすると,ニジリニジリと私の方に静かに近寄ってくる.こんなことが何度もあって,どうにもその銭湯に行くのが鬱陶しくなった.
 そんなこんなで,一年間その下宿にいたが,意を決して引っ越しすることにした.
 野方の下宿は三畳間で部屋代は月に三千円だったのだが,三畳間というのはやはり窮屈だった.次に移った高円寺のアパートは六畳間で大きな押入があり,南側には畳一枚ほどの板の間がついていた.
 ちょうどその頃,週一回で月額二万円という当時としてはベラボーに割の良い家庭教師の仕事にありついたので,思い切って広い部屋を探したのだった.生活費は,その前からしていた別口の家庭教師の謝礼が月に一万円,育英会の奨学金が八千円あったのでなんとかやって行けそうだった.
 引っ越しは三月の末だった.車を持っていた友人に頼んで,野方から高円寺まで荷物を運んでもらった.ほとんど家具らしいものは有していなかったので,片道一回で済んだ.
 小さな本棚を壁際に立て,部屋の真ん中に電気ゴタツを置いて,それにコタツ板を載せて机代わりにする.そして押入に布団を入れ,それでおしまいという重度のシンプルライフであったが,狭苦しい三畳間から一気に広い部屋になったので嬉しかった.
 
 引っ越したその日,夕方になったので私は風呂に行くことにした.
 駅の南口商店街が途切れる辺りに銭湯があり,アパートから歩いて数分という好条件の距離であった.
 石ケン箱を入れたポリ洗面器を持ち,銭湯の入り口のガラス戸を開けると左右に下足入れがあった.木製の札を蓋の穴に差し入れて蓋を開閉する仕組みの昔ながらのやつである.そこにサンダルを仕舞い,左側の引き戸を開けた.
 そのとたん「きゃあっ」という悲鳴があがった.
 脱衣場にいた銭湯の従業員と思しき婆さんが私の方にどかどか駆け寄ってきて「こっちは女湯っ,女湯っ」と言い,私を引き戸の外に押し出した.
 婆さんに押し出されてから磨りガラスの引き戸をよく眺めると,確かにそこには「女湯」と書いてあった.野方の下宿の近くの銭湯は左側が男湯だったので,つい習慣で左側に入ってしまったのだが,この銭湯は逆だったのである.
 特殊な目的を意図して女湯に侵入したわけではなく,それに私は近視であったので,その時に脱衣場にいた御婦人達の裸体をしかと見はしなかった.無念である.違う.しかし,おそらく私の顔は,痴漢として御婦人達に目撃されただろう.これは無念である.
 それ以来,アパートのすぐ近くに銭湯がありながら,私はそれと反対方向の随分と遠いところにある別の銭湯に通うことになった.あの時の目撃者に銭湯の玄関で出くわして,白い眼で見られることを恐れたからである.
 こうして私の高円寺駅南口での新しい生活は,情けない思い出と共に始まったのだった.
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2002年4月15日
高円寺駅南口青春賦・啄木篇
 
 昭和四十六年の春,高円寺のアパートに引っ越しをしたその日に私は銭湯の女湯に突入してしまったのだが,それから暫くしたある日のこと,近所の下宿に住んでいる私大文学部のN君の部屋へ遊びに行った.
 N君と私は,大学一,二年生の時に,東京・中野区にあった同じ学生寮 (法務省所管の学生寮で「桐和寮」といった;現在は移転した旧中野刑務所の北側に隣接していた) アパートに住んでいたので知り合った友人である.そのアパートを出てから一年後に二人とも高円寺駅の南に引っ越してきたのだった.
 N君が引っ越してきたのは普通の下宿屋の四畳半の部屋であった.
 二階にあるその部屋でお茶を飲みながら彼は,卒業論文は石川啄木にしたと言った.啄木にはずっと前から傾倒していたようで,啄木の人生と作品を熱く語ってくれた.その話をしているうちに,実はこの高円寺駅南口界隈に,町名としては高円寺南三丁目といったが,『啄木亭』という居酒屋を見つけたと彼は言った.啄木を取り上げて論文を書くからには,『啄木亭』なる何やらいわくありそうな店には是非とも行かねばならぬように思う,ということだった.
 そこで私達はその日,『啄木亭』に出かけた.その店はどちらかというと彼の下宿よりも私のアパートに近いところにあった.私達はまだようやく暗くなったばかりの客のいないカウンターに陣取り,日本酒を注文した.
 当時の学生が飲む酒は,たいてい日本酒であった.自分の部屋で酒盛りするのなら,一本五百円だったサントリーの安ウイスキーが定番だが,店で飲むなら日本酒が安くあがった.

 熱燗を飲みながら私達が店のおばさんに店名の謂われを訊ねると,店の主人が岩手県の出身だということらしく,石川啄木との関係はそれ以上でも以下でもなかった.
 酒のお代わりを頼んでから,何か食おうかということで品書きを見ると『啄木コロッケ』というのがあった.それは一体何であるかと店のおばさんに訊くと,袋にした油揚げの中に,刻んだ葱などを詰めて焼いたものだという.コロッケではないのにコロッケと呼ぶのは何故か,石川啄木に関わりのある食い物なのかと更に訊ねると,特に意味はないという答えが返ってきた.ただの思いつきの命名のようだった.
 石川啄木論の足しになるかと思ってやってきたN君と私にとって,結局『啄木亭』は石川啄木とは全然無関係であるという,まことにがっかりなことになったが,まあ当然といえば当然ではあった.
 とはいえ,想像するのは勝手である.石川啄木が好んだ食い物ということにしようと私達は決めた.時代は明治の終わり,貧窮の底にあった啄木にとって洋食のコロッケは高嶺の花だったに違いない.
 そこで啄木は油揚げに葱を刻んで詰めて焼き,これをコロッケと称して食ったのだということにした.そんな馬鹿話をでっち上げては笑い,何本か酒を飲んでから私達は別れて帰った.
 
 今でも「啄木」と「コロッケ」でサイト検索してみると Google のキャッシュが幾つかヒットするが,『啄木コロッケ』が出てくるのはすべて居酒屋『啄木亭』の関連記事である.そのうちの一件の《*****》(2021/6/27の註;リンク切れ) では,鈴木さんという人が『啄木亭』の定番メニューであると断って画像入りでレシピを紹介している.その『啄木コロッケ』の作り方を要約すると次のようである.
 
[材料]
 油揚げ           4枚
 ミョウガ        2~3個
 ネギ            1本
 胡麻          中さじ1
 削りがつお         適宜
 ぽん酢           適宜
 
 ミョウガを千切りにする (と鈴木さんのウェブページには書いてあるが,要するに普通にスライスすれば良い).
 ネギ (とだけ書いてあるが,葉ネギではなく根深ネギ) はみじん切り.
 これに胡麻とかつお節を合わせポン酢少々で和える.これを,油揚げを2つに切り,袋に開いたものの中に詰める.袋の口を爪楊枝で閉じて,焼き網に並べて表面に少し焦げ目がつく程度に焼く.
 
 上のことがあってから暫くした後日,N君と『さくら貝ひとつ』に登場した飲み屋に行き,主人である老婦人に『啄木コロッケ』のことを話したところ,ポン酢を使うのは『啄木亭』の工夫かも知れないが,その種のものは昔からある油揚げ料理であるとのことだった.そしてポン酢ではなく味噌を使うやり方を教えてくれた.
 材料は一緒で,葱の白いところとミョウガを細かく刻む.これと削り節,白胡麻を合わせ,少量の味噌と水を加えて練る.好みだが味噌は甘めのものが良いと思う.手許になければミョウガと胡麻は省略して構わない.つまりただの葱味噌である.これを袋に開いた油揚げの内側に薄く塗って焼く.

 ポン酢で作ると素朴ではあるがそれなりに酒肴の一品という感じである.対するに葱味噌式のものはいかにも垢抜けない「ビンボーおかず」である.しかし飯のおかずとしては『さくら貝』の老婦人に教えてもらったものの方が美味いと思う.今でも時々自分で作るが,これを食うと高円寺で暮らした頃のことが思い出される.
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2002年4月16日
高円寺駅南口青春賦・自炊立志篇
 
 さて高円寺のアパートで暮らすようになった私は,自炊をしようと思い立った.
 大学の講義は朝八時からだったので,朝飯は駅の立ち食い蕎麦にすることが多かった.お昼は学校の生協食堂が安いし,日替わりのランチなら飽きもこない.問題は夕飯だった.家庭教師のバイトがある日は,その家庭でちゃんとしたものを食べさせてもらえるが,そうでない日はできるだけ自炊しようと考えた.もともと小さい頃から私は母親の手伝いをよくする子だったので,食事の支度は苦にならない.多少の心得はあったのである.

 料理道具を揃えねばならないが,鍋の大小二つ,包丁,まな板はアパートの近くのスーパーで購入した.次に電気釜である.今なら炊飯ジャーであるが,当時のものは電気釜という名のもっと原始的なやつで,白い塗装の外釜の中にアルミの内釜,ジュラルミンの蓋,保温機能はなしというタイプのものであった.友達に聞いたところでは,秋葉原の電気街に行くと安く買えるらしかった.例のN君は大阪の出身で,彼の指南によると,まずは徹底的に粘って言い値を値切らねばならない.そして店員がこれ以上は値引きできませんと言ったら,何か物をオマケにつけてサービスしてくれと言うと良いとアドバイスしてくれた.さすが大阪人は違うと感心しつつ,私は電車に乗って秋葉原に出かけた.
 
 その頃の秋葉原電気街は現在と全く異なり,家電製品の街だった.何しろまだこの世にパソコンなんかの影も形もなく,オーディオは真空管が堂々とまだ現役を張っていた時代である.
 店の名は忘れてしまったが,秋葉原駅の電気街口から中央通りに出て万世橋側に折れた所の,今のオノデンの隣あたりの小さな店だったように思う.東芝の二合炊き電気釜が欲しかったのでその旨を店員に告げると「ある」とのことだった.当時の価格が幾らであったか全然覚えていないが,スーパーの店頭よりは安かったと思う.元々秋葉原というところは一般の電器店より安いので,昔から価格交渉の効かないことが多いようであるが,当時の私にそんな知識はない.N君の事前指導を受けていた私は,もう少し安くして欲しいと頼み込んだ.
 すると,いかにも貧乏学生という風体の私を見てその店の店員は哀れに思ったか,百円単位の端数を引いて,切りの良い値段にしてくれた.調子に乗った私が「もう一声」と言うと,さすがに「勘弁してくださいよ,学生さん」と言われてしまった.
 それじゃあ何かサービスにオマケしてくださいと頼んだところ,「わかりました.サービスしましょう」と言って店員がくれた物は,私の期待に反してチャチなプラスチックの御飯シャモジであった.
 ここで引き下がってなるものかと「わざわざ電車賃を使って秋葉原に来たのだから,もう少しいい物をくれませんか」と申し述べると「そこまで言うなら,お客さんだけ特別ですからね」と彼は言い,布巾を一枚くれた.ご飯が炊けたら釜と蓋の間に布巾を拡げて挟む と蒸気が適度に逃げて美味しく蒸らせるという.そうですか.はあ.
 数百円の値引きとシャモジと布巾一枚が十分な戦果なのかどうか分からなかったが,諦めて高円寺のアパートに戻った.
 こうして電気釜を買ったが,米をどこで買ったのか思い出せない.昭和四十三年,青雲の志を抱いて上京した時は確か米穀通帳を持っていたような記憶があるが,しかしその翌年から米をどこでも買えるようになったはずだから,たぶん西友ストアあたりで買ってきたのだと思う.調達した米の袋を眺めて,ともかくこれで生活費がピンチになっても飢えることはない,ヨシヨシと思った.生活費がピンチにならぬように計画的に生きようという知恵がなかったのは,いま考えても不思議である.アルバイトの金が手に入れば無闇に本を買い込み,貯金通帳はなく,その日暮らしでいつもピーピーしていた.
 自炊を始めてから気が付いたのは,食糧の保存がいかに難しいかということだった.あの頃の一人暮らしの学生で,冷蔵庫を持っているなんてのは余程のお坊っちゃまだったろう.私の周囲にはただ一人しかいなかった.
 余談だがそいつはN君と同じ下宿 (賄い付き) にいた男で,自炊のための食料品を備蓄する必要がなかったから,彼の冷蔵庫には牛乳と,暑い夏場はパンツが入っていた.銭湯から戻った時などに,喫茶店で出してくれるオシボリのようにしてよく冷やしたパンツを着用すると,とっても快感であると言っていた.扇風機すら持っていない私には,それは王侯貴族の暮らしのように思えたものだ.いま単身赴任している私の部屋にもちろん冷蔵庫はある.しかしエアコンもあるので,その快楽を享受する機会がないのが残念である.
 
 さて昔も今も,長持ちする食材の代表格はタマネギ,ジャガイモとニンジンだろう.これで何を作ろうか.アウトドアならカレーであるが,インドアでもカレーが定番である.
 だがいつもいつもカレーでは能がない.この野菜三種と豚肉を煮て,即席カレールーを加えればカレー,シチューの素を入れればシチュー,味噌を放り込めば豚汁,肉の代わりにコンニャクを用いて醤油味にすれば,けんちん汁モドキができる.タマネギ,ジャガイモおよびニンジンを煮た変幻自在のものを私は「日和見なべ」と名付けた.
 もうその頃の大学の学内には,かつての学生運動の熱気は跡形もなくなっていた.志操軟弱にして,もはや街頭デモに行くこともなく勉強に自閉していた私に,「日和見なべ」は相応しい名の食い物であるなあと我ながら感心した.就職が決まって髪を切り「もう若くはないさと君に言い訳」しなければならない季節はもうすぐそこだった.
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[註]
 上記「高円寺南口青春譜・啄木篇」には,高円寺の「啄木亭」について少し記してある.この記事を書いたのはもう十九年前のことであるし,私の思い出自体は五十年前のことだ.
「啄木亭」についてあらためて調べてみたら,五年前のネット掲示板投稿に「啄木亭」は閉店したと書かれている.
 私が「啄木亭」に通ったのは昭和四十六年の三月から翌年の三月頃までであるが,当時の「啄木コロッケ」は上の本文に書いたように,ミョウガと長ネギをポン酢で和えたものを油揚げに詰めて焼いた小料理 (酒肴) だった.つまり「啄木亭」のオリジナル小料理であった.
 他の人が書いたものを読んでみても,ブログ《草日誌》の《啄木亭のこと》[掲載日 2014年5月4日] にも《啄木コロッケ (お揚げの中に刻みネギとか茗荷とかを入れて焼いたもの)》とある.
 ところが時代がそれから十数年経った後になると「啄木コロッケ」は,袋に開いた油揚げの中にネギ味噌を塗って焼いたものになってしまったようだ.
《岡田純良帝國小倉日記》というブログの《懐かしい小料理屋たち(番外其乃弐)――高円寺「啄木亭」》[掲載日 2012年5月9日] に《小さな日本家屋。地べたの石にそのまま柱を立てたような昔の普請だったから、冬場はシンシンと冷気が地面から上がって寒かった記憶がある。佃煮と「啄木コロッケ」があった。ミソと青ネギを和えたものを油揚げに包んで焼いたもの。焦げ目が付いていて、香ばしい》と書かれている.
 油揚げにネギ味噌を入れて焼くのはどこにでもある居酒屋惣菜であり,特に「啄木コロッケ」と名付けるほどの凝った食べ物ではないし,その上,石川啄木とは何の関係もないというおまけ付きだ.
 想像するに,元々の「啄木コロッケ」はミョウガが材料だったが,これでは通年のメニューにはならないので,作るのをやめて「啄木コロッケ」という呼び名だけ残したのだろう.
 元の「啄木コロッケ」自体も石川啄木とは全く無関係の創作小料理だったのだが,昭和の終わりころに何の変哲もない油揚げ惣菜にレシピを変えてしまったので,石川啄木とはさらに遠いものになってしまったという事情である.
 また,上記《啄木亭のこと》や,他のいくつかのブログには,「啄木亭」の主人は「啄木研究家」と紹介されている.
 私とN君が「啄木亭」に通ったころは,その御主人は啄木の代表歌もそらで言えないのであったが,きっとその後,研鑚勉強なさったのであろう.

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焼きネギ味噌 (一)

 豆腐を油で揚げた油揚げが,豆腐よりも日持ちしないのは,多孔質だからである.
 油で揚げると豆腐の内部から水が蒸気となって放出され,その水の抜け出したところが泡状の孔 (あな) となって残る.これを膨化といい,スポンジ状になる.
 実際の製法は全国豆腐連合会のサイトのコンテンツ《豆腐加工食品詳細》に紹介されている.
 多孔質になると,表面積が著しく増える.その結果,油揚げに含まれている揚げ油の酸化速度が非常に大きくなる.
 また表面積が大きいと細菌の繁殖も速くなる.
 圧搾脱水して薄くカットした豆腐 (油揚げの材料) を油で揚げている最中は,表面は高温になるが,豆腐の内部は沸騰水程度の温度であるため,耐熱性菌が残存してしまう.
 また,スーパー等の店頭で油揚げが置かれている場所はあまり温度が低くないので,菌の繁殖が進行している上に,照明光 (油脂の酸化を促進する) に晒されているので酸化も進んでいる.
 そのため午後遅くになると,消費期限の迫った油揚げが値引きされて販売されるのだが,その日の夜に食べるというのでなければ,これは避けた方がよい.
 このような少々劣化が始まった値引き品を買って,すぐ帰宅して食べる場合に一番よい調理方法は,煮ることである.
 まず油揚げに熱湯をかけて,いわゆる「油抜き」をしたあと,汁の具にしてもいいし,稲荷寿司のような味付けに煮て,飯のおかずにしたり,熱いうどんに載せて食べるのが私の好物だ.
 それはそうなのだが,値引き品の油揚げを焼いて食べるにはどうしたらいいか,諸兄は御存知か.
 
 藤沢駅北口のスーパー「サミットストア」の棚に値引き販売の「栃尾の油揚げ」(あぶらげ) があった.消費期限はあと二日.
 安かったので買ったが,この越後長岡名物の油揚げは米の飯のおかずにしにくい.
 レシピサイトを覗いてみても,この油揚げは焼いて酒の肴にするしかないと思われる.
 他人のレシピで多いのは,中に切り込みを入れて納豆やネギ味噌を詰め込むというやつ.
 しかし,栃尾揚げは普通の油揚げとは異なり,元々が袋状にはならないものだから,何のために中に納豆なんぞを詰めるのか,その理由がわからない.普通の油揚げを巾着にする料理方法に発想が引っ張られているだけだ.わざわざそんなことをせずに,焼いた栃尾揚げと,小鉢の納豆を一緒に口に入れて食べれば同じことだからである.
 納豆だけでなくネギ味噌も,栃尾揚げの中に詰め込む理由がない.面倒なだけである.
 だが私のやり方は違う.それを以下に紹介する.
 
 賞味期限が迫った栃尾揚げを,ポリ袋のパッケージに入ったまま,パッケージの一部をほんの少し開封し,電子レンジで数分加熱する.
 加熱時間の目安は,パッケージの中に水蒸気が満ちて外にシューッと出てくるまで.
 これを「達温100℃」といい,繁殖しつつあった耐熱性菌は死んでしまう.菌の一部は耐熱性の高い芽胞を作って生き延びるが,加熱後はすぐ食べてしまうので,問題なし.
 この加熱処理は色々と応用が広く,冷蔵庫に入れてある常備菜を一日に一度「達温100℃」処理することで,かなり日持ちをよくすることができる.ただし,ジャガイモのように煮崩れてしまうものが入っているおかずはだめ.しかし牛肉とタマネギだけでカレーを作り,これをポリプロピレンやガラス製の耐熱保存容器に入れ,毎日加熱して「達温100℃」を繰り返すせば,長期保存もできるし風味も増すので,電子レンジの活用方法として優れている.
 
 さて「達温100℃」にした栃尾揚げはすっかりフニャフニャになっているが,これをオーブントースターで焼く.
 そのトースター用のトレーに載せて,上面だけを焼く.そのままトースターに入れて上面下面を同時に焼くと,油が垂れてトースターの中を汚してしまうので,トレーがなければアルミホイルを皿代わりにするとよい.
 焼いている間に,ネギ味噌を作る.
 深谷ネギのような普通の太ネギをみじん切りにする.白いところだけでなく緑色がかった部分も使える.
 栃尾揚げ一枚に対して,ネギは白いところを一本分くらいかと思うが,使う量のことは深く考えず,ネギ味噌は御飯の菜になるのだし,ネギ一本をみじん切りにして目分量でたくさん作ってしまえばいい.
 使う味噌の量は,常備している味噌の種類によって変わるから,これは各自の好みだ.
 私は小鉢いっぱいのみじん切りネギに対して,味噌をカレースプーンに一杯くらい使う.味噌は少ないかと思えるくらいでちょうどいい.減塩タイプがおすすめ.
 次に,器に入れたネギと味噌に,水または湯を加えて軟らかく練る.
 ネギ味噌は,他人のレシピ通りに作らず,初めての人は試行錯誤で自分が旨いと思う作り方を覚えるとよい.
 
 ネギ味噌の準備ができてトースターを覗くと,フニャフニャだった栃尾揚げの表面がカリッとして,いかにも旨そうになっているだろう.
 そうしたら,上下をひっくり返して,下面も焼く.
 下面も焼けたら,その上にネギ味噌をたっぷり塗り,再びトースターに入れて焼く.
 やがてネギ味噌の焼けるいい匂いがしてくるから,そうしたら取り出して四つに切って皿に盛り付ける.
 
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 焼いたネギ味噌は,しみじみと旨いものだ.もうとうに亡くなった私の父親の好物で,私は小学生の時に,父にネギ味噌の作り方を教えてもらった.以来,六十年の間,私はネギ味噌を作っては食べてきた.
 私の父親は,越後の長岡から東へ山深くに入ったところにあった中蒲原郡村松町 (合併して現在は五泉市) の生まれ育ちで,隣の長岡の栃尾地域に旨い油揚げがあると小学生の私に語った.
 当時は,油揚げは日持ちしないので,栃尾揚げは長岡に行かないと食べることができなかったのだが,昭和の後半に食品のチルド流通が発達したおかげで,首都圏のスーパー店頭に置かれるようになった.そしてすぐに居酒屋の定番メニューにもなった.
 熱い炊きたての飯にネギ味噌を載せて食うのも旨いが,握り飯や油揚げに塗って焼くのは格別だ.栃尾揚げは,ネギ味噌を塗って焼くのが一番美味だと私は思う.
 
 ところで,越後長岡のローカルな食べ物だった栃尾揚げが世間の人に知られる前に,普通の油揚げとネギ味噌の取り合わせは,昔からあった.私は学生時代に自炊してよく食べたものだ.
(続く)

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2021年6月26日 (土)

結局ロキソニンでいいじゃん

 毎日新聞《ワクチン接種後の発熱で服用できる解熱鎮痛剤を公表 厚労省》[掲載日 2021年6月25日 19:54] を読んで「アレ?」と思った.
 
厚生労働省は、新型コロナウイルスワクチンの接種後に発熱や痛みなどが出た場合に服用できる解熱鎮痛剤の成分を公表した。アセトアミノフェンや非ステロイド性抗炎症薬のイブプロフェンのほか、ロキソプロフェンなど市販の解熱鎮痛薬も含まれている。
 厚労省はこれまで成分を具体的に示していなかったが、アセトアミノフェンを成分とする市販薬が薬局などで品薄になっており、他の市販薬でも服用できることをホームページを通じて明示した。同省の担当者は「インフルエンザワクチンと比べて接種後に熱や痛みが強く出ることもあり、焦らずに市販薬で対応してほしい。在庫は十分にある」と呼びかけている。
 
 現在,薬局等の店頭でアセトアミノフェン系解熱剤が見当たらなくなっているのは「新型コロナウイルス感染症ワクチンの副反応で発熱した場合,イブプロフェンやロキソプロフェンは副作用のおそれがあるので,アセトアミノフェン系が推奨される」という情報が,ワクチン接種開始後に広く浸透していたからである.そのため,接種を受けた高齢者たちがアセトアミノフェン系解熱剤を買いに走ったのである.
 
 私の記憶では,この情報の発信源は他ならぬ厚労省だったような気がするのだが,今はどう探してもその情報は厚労省のサイト内にない.
 どこに書かれてあったのだろう.不思議だ.
 情報源を記録しておけばよかったと思うがこれは後の祭り.
 私だけではなく,山中伸弥先生も《山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信》の中の《ワクチン接種による発熱時の解熱鎮痛剤》で,
 
ワクチン接種後、特に2回目接種後は、多くの人に発熱、頭痛、倦怠感などの全身性副反応が起こります。これはワクチンに対する免疫反応のひとつで、数日で軽快します。ワクチンの効果が低下するのではと、解熱鎮痛剤の使用に不安を持つ人がいるようです。アスピリン、ロキソプロフェンやイブプロフェンなどの非ステロイド性抗炎症薬(NSAIDs)ではなく、抗炎症作用の少ないアセトアミノフェン(カロナールやタイレノール)を服用した方が良いという考えもあるようです。
 妊娠時においては発熱や頭痛等の副反応に対して、アセトアミノフェンが推奨されています。
 妊娠時以外の場合はどうでしょうか?
 厚生労働省はワクチン接種の副反応に対して解熱鎮痛剤は使用して良いとしています。》(文字の着色による強調と下線を付したのは当ブログの筆者である)
 
と書いていらっしゃるのだが,残念ながら,ワクチン接種後にはアセトアミノフェン系が推奨されるという情報の発信源には言及していない.
 不思議ではあるが,ほとんど家庭常備薬に近いロキソニンが使えるというのは朗報であるから詮索はやめて,よしとしよう.

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2021年6月25日 (金)

謝罪の日本語

 テレビ新潟《市民「もったいない」「しっかりして」 ワクチン3192回分廃棄 管理ミスが原因 新潟市が発表》[掲載日 2021年6月24日 19:57] から下に一部引用する.
 
新潟市は6月24日、新型コロナウイルスワクチン約3000回分を廃棄することになったと発表しました。冷蔵の状態で運ぶワクチンを再凍結してしまったということで、管理ミスが原因としています。
【新潟市保健衛生部 野島晶子部長】
「貴重なワクチンを無駄にし皆さまにご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。」
 
 何度も報道されているが,大量の新型コロナウイルス感染症ワクチンが,全国各地の自治体のワクチン接種担当者とワクチン配送業者たちの杜撰な仕事ぶりのおかげで,廃棄されてしまっている.
 不思議なのは,ワクチン廃棄の責任に関する報道がないことである.
 業者に責任がある場合は,自治体は業者に損害賠償を求めるべきだし,責任が自治体の職員にあれば懲戒処分とすべきである.
 上の記事の新潟県の場合,ファイザー社製ワクチンの輸入単価は12ユーロ (約千五百二十円) と推定されているから,損失額は約四百八十五万円である.(この価格は,ベルギーの大臣がツイッターで暴露した)
 少ない金額ではない.
 しかし野島部長は,自分の年収の半年分相当のカネをドブに捨てたが,どうせ国が負担するんだし,自分のハラは痛まないから,記者会見して謝れば済むと思っているだろう.
 それが《申し訳ございませんでした》という言葉遣いに表れている.まっとうな日本語では「申し訳ございません」と現在形で言うのだ.
 そんなことも知らずに部長職をやっているのかと呆れて声も出ない.(過去のことにして水に流したいという気分が,つい「でした」に出てしまったのかも知れぬ)
 
 バカは何度も同じ誤りを繰り返すのが常だから,新潟県の場合,野島部長を保健衛生部から更迭しなければまた事故が起きる.
 減給くらいで済む話ではない.
 また政府は新潟県に対して,廃棄したワクチンの損害額を請求することが必要だ.

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自分で極言と言っちゃってる w

 デイリースポーツ《安倍前首相SNS反論 森友・赤木ファイル「報道しない自由で握り潰され」秘書アップと》[掲載日 2021年6月24日 20:27] は,重要箇所が黒塗りで開示された「赤木ファイル」に関する安倍晋三サイドからの反論を,産経新聞がヨイショしていることを伝えた.
 
安倍晋三前首相の公式ツイッターに24日夜に新規投稿があり、森友学園の国有地売却問題に絡む「赤木ファイル」が家族側に公開された件について記された、産経新聞の記事に赤線を引いた画像をアップし、「この証言が所謂『報道しない自由』によって握り潰されています」と主張した。
 投稿末尾に「秘書アップ」と、安倍氏の秘書が投稿したととれる記載がある。
 
 安倍の公式ツイッターの記事とはこれ
 
 産経新聞の記事とは,《財務省文書改竄 忖度説の崩壊》[掲載日 2021年6月24日 1:00] (「阿比留瑠比の極言御免」) のことである.
 
 筆者は産経新聞論説委員にして安倍晋三の最強応援団の一人,かつ牽強付会我田引水型のウルトラ右派論者である阿比留瑠比
 赤木ファイルに関する産経新聞の立場をよく示している.
 
 ちなみに「報道しない自由」はWikipedia【報道しない自由】を参照のこと.
 これは朝日新聞他の新聞を非難するときに三流紙産経がよく使う言葉.目糞鼻糞というか,私たち常識人から見るとブーメランだ.w

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2021年6月23日 (水)

つい最近のことも覚えていないNEWSポストセブン

 NEWSポストセブンの無署名記事《職場や大学で横行する「ワクチンハラスメント」 過剰な同調圧力社会の悲惨な末路》[掲載日 2021年6月23日 7:05] を読んで「無署名記事だからって嘘をつくんじゃねえっ」と思った.次の箇所である.(文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
新型コロナウイルスのワクチン接種が広がるとともに、世間にまた嫌な緊張感が漂ってきた。副反応のリスクだけではない。ワクチン接種を強制したり、拒否した人が差別的な扱いを受けたりする「ワクチンハラスメント」が横行しているからだ。
 昨年の今ごろ暗躍した「自粛警察」や「マスク警察」、そして10年前の東日本大震災直後の「不謹慎狩り」を思い出す人は少なくないだろう。
「自粛」が「他粛」に転化
 考えてみればおかしな話である。「自粛」「不要不急」「不謹慎」…いずれも主語は自分であり、自分が判断すればよいはずだ。ところが、いつの間にか周りから自粛を強要されて「他粛」になり、何が不要不急か他人が勝手に判断するようになった
 
 昨年,新型コロナウイルス感染症が拡大し始めた当初,東京都の小池知事ら自治体首長が「不要不急の外出を避けてくだい」と連日国民に呼びかけたところ,これに対する次のような強い反発が起きた.

何が「不要」で「何が不急」なのか意味がわからん!
知事は「不要不急」の具体的な基準を示せっ!
 
 私のような年寄りは,人生の色々な場面で,どんなことが「不要不急」なのか自分で判断して対処してきたから,「不要不急の基準を示せっ」という国民的大合唱に驚き,呆れた.
 そんなことも他人に教えてもらわにゃいかんのか,と.
 私が会社員だった頃を思い起こしてみれば,昭和の会社員というのは,仕事を自立して実行できる者が二割で,あとの八割は「指示待ち」の能無し社員ばっかりであった.(「パレートの法則」を基にして唱えられた経験則で,昭和のビジネス界で流行した説)
 つまり《何が不要不急か他人が勝手に判断するようになった》は大ウソのコンコンチキで,平成,令和の世でも日本国民の八割は能無しで,自分では「不要不急」の判断ができず,そのため自治体に「不要不急の判断基準を示せっ!」と大合唱するに至ったのだ.これは日本社会の反映であった.
 自治体や医師会の公式サイトには「不要不急」の基準を解説した記事が現在も多数ある.それらは昨年,指示を求める国民たちに向けて,半ば呆れつつ書かれたものなのである.(日医ニュース《「不要不急」》[掲載日 2020年6月20日] など)
 
[追記]
 昨年の今頃,「不要不急の判断基準を示せっ!」とテレビの情報番組も新聞もネットメディアも声を合わせて自治体を批判したのだが,「私にとって今夜の飲み会は,不要ではなく不急でもない」と判断した国民がやたらと多かったため,渋谷も銀座も酒を求める暗愚大衆であふれた.
 飲酒が人生の目的と化した連中が,夜な夜な京都鴨川の畔で車座になってウンコ座りをして酒を飲み,喫煙して吸い殻をポイ捨てし,あるいはヨロヨロと馬鹿踊りを踊っている様子がテレビで報道された.(新聞報道は産経新聞《「自粛を」「息抜き」路上飲みで行政側と若者らせめぎ合い 京都・鴨川河川敷や大阪》[掲載日 2021年4月29日 19:28] ほか)
 インタビューに対して「飲み屋が自粛しちゃっているから仕方ないっす」と馬鹿どもは答えていた.飲んだあと,ゴミはもって帰りましょう.

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ハムカツ

 昨日,かかりつけのクリニックでワクチンを接種したあと,藤沢駅北口のデパート「さいか屋」に立ち寄った.
 地下一階で昼飯のおかずを買おうと思ったのである.
 この地下には入口にスーパーの成城石井やパンのポンパドウル,ローストビーフの鎌倉山があり,他には天ぷらの「はげ天」や惣菜の人気店「茅ヶ崎えぼし」があり,客はかなり多い.
 また,地下フロアの真ん中あたりに「鎌倉ハム石井商会」という店が入っている.
「鎌倉ハム」というのは特定の業者のブランドではなく,複数の製造者が共通の冠にしている地域ブランドのようなものだ.
 湘南の人々に一番親しまれているのは,創業明治三十三年の「鎌倉ハム富岡商会」だろう.
 他には創業大正十年の「鎌倉ハム石井商会」,昭和四年創業の新参「鎌倉ハム村井商会」などがある.
 で,「さいか屋」地下の石井商会の店は,幅一間のガラスショーケースに揚げ物が陳列されている.
 私は石井商会の揚げ物惣菜を食べたことがなかったので,ふらと立ち寄ってショーケースの中を見て,店員の年配女性に「メンチカツを一つと,ハムカツを一枚ください」と注文した.
 値段はよく覚えていないのだが,メンチが三百五十円くらい.ハムカツは二百二十円くらいだったと思う.(以下は大体の価格で話を進める)
 いずれも,スーパーで買うより百円くらい高い.昼飯のおかずにプチ贅沢をしてみようと思ったのである.
 透明食品容器に店員はメンチとハムカツを入れて輪ゴムでフタを留め,「八百八十円になりまーす」と言った.
 小銭入れから金を出して支払う用意をしていた私は驚いた.そして店員に訊ねた.
「三百五十円と二百二十円で,どうして八百八十円になるの?」
 すると店員は,商品が載ったトレーをどこからか出してきて,「ハムカツは四百五十円ですから,合計で八百八十円です!」と言った.
 そのトレーには「厚切りハムカツ」と書かれた小さいカードが載っていた.
 私は,ケースの中の二百二十円の「ハムカツ」が載ったトレーを指さして「これはハムカツじゃないのかね」と言った.
 すると件の女は「あー安いほうのですか,うちのハムカツはこっちなんですよ」と「厚切りハムカツ」を指示して言った.
 
 私はムカッとしたので,その女に「もういらない,買うのはやめた」と言って石井商会を後にした.
 この石井商会は,客が何か買っているのを見かけたことがない.店員のバカ女に原因があるのだろう.
 デパートは,売り上げが少ない店は契約解除される.石井商会も早くなくなればいいと思った.

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ワクチン二回目接種

 昨日,新型コロナウイルス感染症ワクチンの二回目の接種を受けた.
 午前十時に接種してもらって,夕方の四時から左上腕の疼痛が始まった.
 かかりつけ医師には「副反応は二回目の接種のほうが強い」と言われたのだが,痛みは我慢できぬほどではない.熱もない.大丈夫のようだ.
 
 接種の時に医師に「ワクチンを打ったあと,抗体ができているか調べる抗体検査はこのクリニックでできますか?」と訊ねた.
 すると医師は「IgGは検査できますけど,私も看護師もIgG検査はやっていません」と答えた.
 続けて「もし抗体ができていなかったとしても,じゃあ何か打つ手があるかというと,ないんですよね」と言った.
 一部の医療機関での成績によれば,その期間の医療従事者を対象として,二回目の接種を終えて一ヶ月後に中和抗体が平均で40%程度まで減少したという.
(抗体についての解説《【ワクチン接種前後】スパイクタンパク抗体(中和抗体)検査》)
 能天気な河野大臣は「一年はもつ」と根拠のない発言をして世間に無知の恥を晒したが,今のところファイザー社製mRNAワクチンの有効期間は半年くらいと考えられている.
 しかし人によってはワクチンで抗体ができない人もいるらしく,それで一ヶ月後に抗体が「平均40%」にまで減ってしまうということのようだ.
 
「なるほど,確かにそうですね」と私は言った.
 医師は「ワクチンを接種すれば,できるだけのことはしたという安心材料にはなりますが,抗体ができないこともあることを考えると,手洗いとかマスクとかの基本的な感染対策を続けることのほうが大切です」とも言った.
 抗体検査は高額である.コスパは非常に悪いと考えたほうがよい.
 
 最近,街中をマスクなしで闊歩している高齢者を見かけるようになった.
 ワクチンを打ったので安心しきっているのだろう.もうすぐこういう連中が,スーパーにマスク無しで入店して買い物をしたり,真昼間からカラオケに狂ったりするのかと思うと気が重い.
 爺婆のカラオケクラスターは自業自得で,現代の木口小平たちはマイクを握ったまま名誉の戦死だ.
 カラオケジジイ ハ テキ ノ ウイルス ニ アタリマシタ ガ シンデモ マイク ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ
 しかしワクチンで無敵モードになった迷惑系爺たちは,スーパーの店員さんたちにマスクを外せと食って掛かり,トラブルとなることが予想される.スーパーは対策を考えていたほうがいいと思う.

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2021年6月22日 (火)

もう一度掌返しを

 神奈川新聞《【横浜市長選】小此木氏がIR誘致に異論か 地元・自民市議に衝撃「混乱」「今更反対と言われても・・・」》[掲載日 2021年6月21日 23:10] が,この夏に迫っている横浜市長選について,自民党の候補者が固まりつつあると伝えた.
 
任期満了に伴う横浜市長選(8月8日告示、22日投開票)を巡り、自民党県連会長の小此木八郎国家公安委員長(衆院3区)が出馬の意向を固めたことに、地元で衝撃が広がっている。
「われわれの頭の中は混乱している」。小此木氏の突然の表明に、ベテランの横浜市議は戸惑いを隠せない。
 現役閣僚からの転出意欲だけでなく、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)の横浜誘致に異論を唱えたと伝わったからだ。

 
 このニュースに先立つ先々週 (6/10),現職の林文子市長は,自民党横浜市連との面会時に,四選を目指してこの八月の市長選に出馬する意思を伝えた.
 ところが林市長の親分である菅首相 (横浜が地盤) は既に,市民の支持を失っている林市長を見限っていて,横浜市連は林市長に,高齢を理由に出馬断念を迫った.(毎日新聞《自民、現職・林文子氏に支援しない意向伝達 横浜市長選》[掲載日 2021年6月10日 21:28])
 というのは,横浜港に賭博場を建設するのは菅首相が以前から目論んでいる計画で,林市長はその実現に邁進してきたのだが,各種調査によれば市民の大部分は賭博場の誘致建設に反対していて,林市長の行政手腕ではにっちもさっちもいかなくなっているのである.
 そこで菅首相は新しい市長候補者を立てることにしたと考えられる.
 しかしどんな候補者を立てようが,賭博場の誘致に賛成するとの姿勢では,当選が危うい.
 そこで打ち出したのが,選挙前には賭博場建設に反対し,選挙後には掌返をして賭博場建設に賛成するという林市長の選挙戦術の踏襲だ.
 前回の市長選で林市長は,賭博場誘致を白紙に戻すと言明しておきながら,当選後は「白紙に戻すとは言ったが止めるとはいっていない」という幼稚園児の嘘のような屁理屈をこねて,再び賭博場計画に突き進んだ.
 しかしこの市民を小馬鹿にした態度が祟って,林市長は完全に市民にソッポを向かれてしまった.
 当然だが,林市長の見苦しい掌返し戦術は一度しか有効でない.同じ市長に二度も騙される横浜市民はいない.つまり菅首相が横浜に賭博場を作る計画を捨てない以上,もはや林市長出馬のメはなくなっていたのである.しかるに林市長は,横浜市連の支援拒絶に対して正面から反論し,立候補の意欲を顕わにしたと伝えられる.権力をほしいままにした味が忘れられぬか.老醜とはこのこと.
 
 小此木県連会長はは菅首相と親しい関係だと報道されている.
 それであれば,小此木氏の本心は賭博場建設賛成のはずだ.
 候補者を変えれば掌返し戦術は有効かも知れない.もう一度,小此木候補者で掌返し戦術をやってみよう.そう菅・小此木ラインは考えたのだと思われる.まことに市民を愚弄した話である.
 
[追記]
 上の記事を掲載したのは昨日 (6/22) だが,今朝のAERAdot.《菅首相の側近・小此木八郎氏が「横浜市長選」出馬の裏事情 あえて「カジノ反対」を打ち出した真意とは》[掲載日 2021年6月23日 8:00] が同じことを書いている.
 
「小此木さんも誰か候補者がいないか口説きに行ったそうですが、うまくいきませんでした。すると、菅首相は『(候補者が)いなかったら林さんでいこう』と発言をしたところ、小此木さんはかなり反発したと聞いています。(林さんが4選するくらいなら)小此木さんは『自分が横浜を変えたい』という思いが強くなり、立候補を決意して、菅首相も了承したようです。ただ、小此木さんはもともと、カジノ推進派です。しかし、野党も候補者を出してくるなかで、カジノ推進を旗印にしたら選挙を戦えないと判断し、『カジノ反対』の立場で出馬を固めたとのことです」(官庁関係者)
 横浜市はカジノを含むIR(統合型リゾート)の誘致を進めており、市長選の大きな争点でもある。だが、小此木氏は「反対」に回ることで、あえてIRを争点化させない戦略に出た、ということのようだ。
「本音ではカジノを推進したい菅首相も『やむを得ない』となったようです。菅首相にとっては、もしお膝元の横浜で市長選を落としたら面目が丸つぶれです。選挙では何よりも”勝ち”を優先し、カジノについては、小此木さんが当選した後に諸情勢や世論の推移を見極めながら改めて考えればいい、ということのようです。菅首相としては、気脈の通じた小此木さんが市長になれば、その後のIRの扱いも含め、くみしやすいと考えたのだと思います」(前出・官庁関係者)》(文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 菅・小此木ラインが,横浜市民をまた騙す気満々なのはバレバレだが,他のメディアには「小此木氏は賭博場の建設に反対だ」などと書いているものがあり,菅首相の政治手法のどこを見ているのだと呆れる.

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2021年6月20日 (日)

犬の物語

 日本テレビ《I LOVE みんなのどうぶつ園》[放送日 2021年6月19日] をたまたま観たら,制作中の映画『石岡タロー』の話題を取り上げていた.
 私は犬の物語に弱い.偶然観た番組なのにそのまま見続けて,おいおいと泣いた.
 前半部は撮り終えたとのことだが,コロナ禍のためにこれからの撮影にはいろんな困難があるだろう.
 公開がいつになるかわからぬが,この作品は劇場へ出かけて観るつもりだ.犬と暮らしている高齢者の皆さんにぜひ鑑賞いただきたい.
 
[追記]
 映画の公式サイトには書かれていないが,この映画のもとになった実話は,九年前に『忠犬タローものがたり あした会えるさ』(今泉文彦,茨城新聞社刊) と題して出版された.その当時に私が買った第一刷は定価千円だったが,今は古書が驚くほどの高値をつけていて入手が困難である.
 しかもこの書籍は,国会図書館には蔵書されているが,地方の公共図書館にはほとんどないので,実話を紹介した新聞記事を下に載せておく.
 朝日新聞DIGITAL《45年越しの待ち人 タローは駅に通い続けた》[掲載日 2009年6月19日 17:54]


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なんで飲み屋ばかりが優遇されるのか /工事中

 我が国がコロナ禍に見舞われてから既にかなりの時間が過ぎた.
 これまで,厚労省のアドバイザーである感染症関連分野の専門家諸氏は,毎日の新規感染者数が,いわゆる「人流」と強い相関関係にあることをデータで示してきた.
 このことに高い蓋然性があることは,テレビ各局の情報番組が両者の推移をグラフ化して図示しているが,これを観れば一般国民にも容易に理解できる.
 現在,この日々の新規感染者数と「人流」の相関を否定しているのは橋下徹ただ一人である.
 橋下徹の主張は「新型コロナウイルス感染症は飛沫感染であるから,感染は人と人が近距離で接近することで起こる.人と人が近距離で接近することと直接の関係はない『人流』を抑制するのは,経済に打撃を与えるだけで無意味だ」というもの.
 感染症専門家は,新規感染者数と「人流」に正の相関関係が存在することを,「人と人との近距離接触」は「人流」が増加すると増加するという正の相関関係で説明していて,これは論理的かつ妥当な解釈であるわけだ.「相関関係」という高校数学の基礎事項が,橋下徹の理解力ではたぶんわからないのだろう.
 というわけで,手指の消毒やマスクの着用その他の基本的感染対策が個々人の行うべきものとすれば,行政的な対策である「人流の抑制」が感染拡大防止策の柱の一つになっている.
 
 さて「人流の抑制」は感染拡大防止に必要だが,これは結果的に消費の抑制になってしまう.私たちの消費行動の多くは不急不要のものだからである.
 この「コロナ後に先延ばし」された消費行動は,小売業だけでなくその川上の広範な事業者に打撃を与えている.
 テレビの報道を観ていると「緊急事態宣言解除後に飲食店で酒類の提供を認めるかどうか」などと,飲み屋の話ばかりしている.
 まるで,コロナ禍は飲み屋にばかり影響しているかのような風潮である.
 実際にはもっと広範な小売業種が追い詰められているはずだ.
 例えば一昨日,東京では古い歴史のあったパン屋の築地木村屋が閉店した.同店の「けしあんぱん」は東京名物の一つでもあった.
 長引くコロナ禍で業績が低迷したことが閉店の理由だという.
 そこら辺のいい加減な居酒屋が何軒潰れても,この国の食文化にとっては屁でもないが,築地木村屋のような店が倒れたら国民的損失だ.
 私は,行政もメディアも,食事を提供する店と,酒を提供する店を,一緒くたにして「飲食店」と呼んでいるが,これは大変な間違いだと思う.この二つは区別されるべきである.
 世の中には自宅で食事を摂れる人もいるが,外食に頼らざるを得ない人は多い.だから食事を提供する店は,私たちの生活になくてはならないものだが,飲み屋はそうではない.
 飲み屋は,銀座の高級クラブから赤羽の立ち飲み酒に至るまで,世の中にあってもなくてもいい生業である.
 しかも酒を提供する店は,カラオケ店と並んで感染拡大の舞台の一つだ.カラオケパブなんてのは最悪だ.
 食事を提供する店,つまりフレンチ・レストランから立ち食い蕎麦屋に至る店は,酒を提供する店の,いわば巻き添えを食っているのである.
 築地木村屋のような有名店の閉店は報道されるが,テレビが報道しないだけで,実際にはもっと広範な,飲み屋ではない店が経営困難になっているという.
 なのに,テレビは飲み屋の経営が苦しいという状況ばかりを報道する.
 酒がそんなに大事なことなのか.日本人はいつから酒飲みばかりになったのか.
 日本国民の多くは飲んだくれではないと私は信じたいが,東京の盛り場では都の要請を丸っきり無視して
 

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2021年6月19日 (土)

言わんでもいいことなのに /工事中

 たまたまMSNを眺めていたら次の記事を見つけて,私は驚いた.
 管理栄養士の平井千里 (プロフィル) というかたが AllAbout《ギネス認定の低カロリー野菜、きゅうりは「ビタミンCを壊し健康に悪い」って本当?》[掲載日 2021/06/16 20:35] に書いた記事である.そこには次の記述があった.
 
「きゅうりはビタミンCを壊して健康に悪い」という説はウソ
 たまに「きゅうりはビタミンCを壊して健康に悪いというのは本当ですか?」という人がいますが、解答を先に書いておきますとこれは「誤り」です。
 ビタミンCには「還元型」と「酸化型」の2つがあります。以前は、このうち「還元型」だけがビタミンCとしての活性を持っているため、「酸化型」になると活性を持たなくなると思われていた時期がありました。この頃、酸化型になってしまうことを“壊れた”と称していました。
 きゅうりには、還元型ビタミンCを酸化型に変える「アスコルビン酸酸化酵素」が含まれているため、きゅうりは栄養を摂れるどころか、ビタミンCを破壊する悪いヤツだとウワサされてしまったのです。
 しかし、本当は「還元型」と「酸化型」は可逆的。つまり、一旦、変化してもまた元へ戻ることができるため、「アスコルビン酸還元酵素」で「酸化型」になってもビタミンCとしての効果は変わりません。よって、「きゅうりがビタミンCを壊す」ことはありません。安心して召し上がってください。》(引用中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 予め断っておくと,平井先生が書いていることが間違っているという話ではない.小見出しの《「きゅうりはビタミンCを壊して健康に悪い」という説はウソ》は正しい.
 だがそこで私が驚いたのは,文字着色箇所の《以前は》である.
 平井先生は私よりもかなりお若いかたであるとお見受けする.
 余談だが,平井先生の経歴を記した資料はいくつもあるのだが,生年はもちろん経歴からも年齢がわからないように記述されている.これは女性研究者のプロフィルに普通にあるのだが,よくないことだ.女優のごとき人気商売ならともかく,科学者が自分の正確な研究歴を明らかにしないでどうすると思う.
 で,まず間違いなく平井先生は《以前は、このうち「還元型」だけがビタミンCとしての活性を持っているため、「酸化型」になると活性を持たなくなると思われていた時期がありました》という記述を,リアルタイムではその時期を知らずに,伝聞に基づいて書いている.
 なぜかというと,私が学生時代には既に,ビタミンCの「酸化型」すなわちデヒドロアスコルビン酸は生体における酵素反応によって容易に「還元型」すなわちアスコルビン酸に変換されることが知られていた (科学的常識だった) からである.
 だから,どういう理由で平井先生がそんな大昔の話を蒸し返して書いているのかが大いに疑問なのである.
 資料をいくつか挙げる.
 下に《アスコルビン酸とデヒドロアスコルビン酸の人体における代謝の比較》(辻村卓ら,ビタミン45巻3号,1972,136-147》の,冒頭の緒言部分を画像で示す.(画像中の赤い下線は私が挿入した)
 
20210619b
 
 この引用文中で,AsA はアスコルビン酸,DASA はデヒドロアスコルビン酸の略である.
 さてこの論文末に記されている参照文献で《DAsA は in vitro では不安定でこわれやすいが組織内ではそう不安定ではない (還元されるため)》の根拠とされているのは“Kagawa, Y. ,Takiguchi, H. t : Biochem.Biophys.Acta 51, 413 (1961) である.
 次の《肝,小腸粘膜などに加えた DAsA は容易に AsA に還元される》では
11),13)
 
《正常組織には DAsA 型はほとんどなく大部分は AsA 型である》
14)・15)

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2021年6月15日 (火)

戦わないやつらが笑うだろう

 このところ,新型コロナウイルス感染症のワクチンに対するアンチの論調が現れている.
 例えば昨日アップされた女性セブン2021年6月24日号《ワクチン否定派の声「打ちたくない人はいないはずという風潮が怖い」》[掲載日 2021年6月14日 16:05] はその一つ.
 
新潟大学名誉教授で医師の岡田正彦さんも、ワクチンには懐疑的だ。自身は打たない決断をし、辞職する覚悟で、職場に意思を伝えたと明かす。
「私の場合は運よく経営者に理解があって、意思を受け入れてもらえました。でも医療現場では、同じようにはいかずに退職せざるを得なかったスタッフも珍しくない。特に若い人は免疫が活発であるため、ワクチンを打つことで発熱などの強い副反応が起こりやすい。あまりのつらさに『もう二度と受けたくない』という声も耳にします」(岡田さん)
 
 この岡田という元大学教授の医師は,《という声も耳にします》という伝聞に基づいて自分の行動を選択した.
 医師ならmRNAワクチンについての論文を読めるはず.(読めないなら論外だが)
 その論文を自分の学問的力量によって評価し,その結果としてワクチン接種を忌避するのであればそれは妥当な態度である.
 しかし岡田医師は,mRNAワクチンの副反応として軽微なものである「発熱など」に恐れをなしたのである.とても医師とは思えぬ.
 そんなものは既に諸外国からの報告にもあるように,解熱剤で対処できる.それもクラシックなアセトアミノフェン系解熱剤が有効だ.
 すなわち今回のファイザー社製等のmRNAワクチンで発生する反応のうち,接種を避けるべきはアレルギー性ショックの可能性がある場合のみである.
 もちろん厚労省が公式サイトに記しているように,治験では明らかにならなかった未知の副反応の存在は否定できない.しかしそれを怖れていたのでは人類は感染症との戦いに勝てない.
 そんなこともわからぬ程度の知力と理解力で,よく今まで大学で教鞭を執ってきたものだと呆れて声もない.
 現在の職を辞さなかったそうだが,ぜひ国民としては辞職していただきたいものだ.
 
 岡田医師や私たち高齢者にとって,このワクチンの接種は,人類のお役に立てる絶好のチャンスだ.
 アナフィラキシー・ショックの可能性がほとんどない人に限っての場合だが,発熱だろうが筋肉痛だろうが「いざ良き敵ござんなれ」である.
 私自身は一回目の接種をした日の晩から,倦怠感と左上腕の痛みを覚えた.痛みは,腕が肩より上に上げられないくらいで,上腕が少し腫れた.
 しかし丸二日後には回復した.そして左腕を上に上げて私はガッツポーズをした.
 岡田医師に,この程度のわずかな勇気の持ち合わせもないのであれば,どうぞ医療の世界から退場して欲しいと思うのである.
 
 東京都のどこかの医療機関で,高齢者への集団接種を始める前に,医師や看護師たちが自らの接種を受ける様子を,テレビの報道で観た.この接種会場でテレビ局のインタビューを受けたある看護師が「コロナの患者さんのために私ができることは,すべてやります」と語っていた.
 航空会社の客室乗務員たちが職域ワクチン接種を受け始めている.彼女らは取材に対して「私たちがワクチンを接種することで,少しでもお客様の安全が図られるようになればと思います」と語っていた.
 この方々が接種を受けたファイザー社製等のmRNAワクチンは,数万人規模の治験が行われたのちに実用規模の接種が開始された.
 治験に参加した人々は,自分がmRNAワクチン実用化のための人柱になるかも知れないのに,敢えて治験に加わったのである.
 しかし岡田医師は,理由もなくワクチン接種を忌避することによって,彼ら治験参加者の善意を足で踏みにじったのだ.
 また治験は数万人規模ではあるが,全世界規模であるパンデミックに対する人類の戦いとしては,ささやかな予備実験といっていい.
 すなわち今,世界中で進行しているmRNAワクチンの接種は,人類が未経験のワクチンを用いた壮大な実験なのである.
 この実験において,世界中の諸国民の諸階層の人々が,例えば看護師が,例えば航空機の客室乗務員が,それぞれの職業倫理に基づいてパンデミックに立ち向かっている.
 だが,本来であればこのパンデミックに対し先頭に立って戦うべき医師と言う職業にありながら,怯懦にも戦線から離脱した者たちがいる.
 岡田医師はその一人だ.
 いつの世にも戦うべき時に戦わぬ者たちはいる.
 エッセンシャル・ワーカーとは,自分の職業倫理に則り,社会の危機に立ち向かう人々である.
 ワクチンは完全な感染防止力ではないから,接種しても感染リスクはゼロではない.そのために彼らがもし倒れたら,戦わぬ者たちは笑うだろう.「だからワクチンは信用できないと私は言ったのだ」と.
 だが信用できぬのは,戦うべき職業倫理的義務を負いながら戦わぬ彼らである.ワクチン接種を忌避する正当な理由がないのに,接種を受けるべき立場にありながら接種を拒否する者たちのことである.私たちは,彼らの名を覚えておこう.
 
[追記1]
 上のことは,ファイザー社製のmRNAワクチンについて書いている.血栓が生じる可能性のある他社製ワクチンは別に考える必要がある.
 
[追記2]
 メディアの報道にも,陰謀論的反ワクチンの論調が忍び込んでいる.
 接種会場での緊張のために「接種後に気分が悪くなった」人を取り上げて,副反応だとしたメディアがある.緊張が解けて元気になったその人について,これを「副反応が疑われる」とするのは悪意に基づく報道だと断じてよい.(東海テレビ《経過観察中に気分悪化し吐き気等訴える…副反応の疑いで緊急搬送 集団接種会場でワクチン接種した女性》[掲載日 2021年6月14日 20:52])

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その歳でいまさら英会話といっても無理ではあるが

 毎日新聞《G7首脳の中でぽつん 菅首相の「ディスタンス」に批判と同情》[掲載日 2021年6月14日 17:39] から下に一部引用する.
 
インターネット上で話題になったのは、11日の写真撮影など。恒例のG7首脳による記念撮影の後、米バイデン、仏マクロン両大統領らが肩を寄せて話し込みながら移動したのに対し、菅首相は黙々と後方を歩く様子。エリザベス女王との記念撮影後も、女王を囲んで歓談する英ジョンソン、独メルケル、カナダのトルドー各首相らと、菅首相の間には距離があった。
 ツイッター上では「国際的孤立感がある」「おいてけぼり」「一般人と違い、首相の立ち居振る舞いは批判の対象」などと皮肉る声が上がった。一方では「自分なら、この輪に入るのは無理」「知り合いがいない初の国際会議での孤立はある程度仕方ない」などと、同情のコメントも寄せられた。
 
 同記事は,菅首相の孤立ぶりを遠慮がちに書いているが,各国首脳が写真撮影したり談笑したりする様子をテレビで見た私たちが確信したのは,菅首相は英会話が全くできないんだろうなあ,ということである.
 ホストのジョンソン首相が菅首相を会話の輪に誘っているように見える時でも,テレビ画面には「(菅首相) ・・・」という無言を意味するテロップが流れ,その時の菅首相は,他の首脳たちが何を言っているのか,チンプンカンプンで茫然としているのがあからさまだった.
 
 人を顔で判断してはいけないとは思いつつ言ってしまうと,二階自民党幹事長も英会話はできないんじゃないか.あの日本語の発音もどうかと思われるオチョボぐちでは,英語の発音は無理だと私は思う.

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2021年6月14日 (月)

ジンギスカンの思い出 /工事中

 地方のテレビや新聞等のメディアが,その地方独特の物の言い方や単語に影響されているってことがあるんだなあと,おもしろく思った.
 その例として,北海道放送《「金がなかったが、食べたかった」ジンギスカン1袋をリュックに…逮捕の45歳、所持金は数百円》[掲載日 2021年6月14日 9:09] を下に引用する.
 
13日午後、札幌市西区のスーパーマーケットでジンギスカン1袋を盗んだとして、45歳の男が逮捕されました。
 窃盗の疑いで逮捕されたのは、札幌市西区の45歳の無職の男です。男は13日午後3時半ごろ、札幌市西区のスーパーマーケットで、ジンギスカン1袋(販売価格753円)を盗んだ疑いが持たれています。
 
「ジンギスカン」は省略した言い方で,「ジンギスカン料理」のことだ.その辞書的な意味はこうだ.
 
Wiikipedia【ジンギスカン (料理)】
ジンギスカンは、マトン(成羊肉)やラム(仔羊肉)などの羊肉を用いた日本の焼肉料理。鍋料理に分類されることもあるが調理方法は鉄板料理の調理方法である。
 
精選版日本国語大辞典【ジンギスカン料理】
(昔、ジンギスカンが戦いの際に軍勢を鼓舞するために野外で羊肉をかぶとの上であぶり焼いて兵士に食べさせたという伝説から) あらかじめたれに漬け込んだ羊肉や野菜を鉄板・金網・鍋などで焼きながら食べる料理。ジンギスカン。
 
 他の百科事典も辞書も,語義の解説は大同小異である.
 つまり一般に「ジンギスカン」と言った場合,それは料理名である.
 ところが冒頭に引用した北海道放送の文章では,料理名ではない.
 おそらく,北海道ではスーパーで販売されている「味付け加工してポリ袋に包装した羊肉」も,ジンギスカンと呼んでいるのだろう.
 これが北海道ローカルではなく全国区のメディアが全国に流す記事なら「味付けジンギスカン」としただろう.
 たぶん記事を書いた北海道放送の社員にとっては「ジンギスカン」があまりにも日常普通の言葉なので,「ジンギスカン1袋」が全国共通に通じる言い方なんだと思ってしまったのだろう.
 
 さてジンギスカンには忘れられない思い出がある.
 昭和四十六年の初夏,私は東大農学部の学生だった.
 私が理科二類に入学したのは昭和四十三年だが,その夏に東大闘争全学共闘会議が結成され,秋にかけて全学部が無期限ストライキに突入していった.
 翌昭和四十四年に闘争が壊滅するまでのことは,この闘争に中心的に関わった数人の人たちが書籍を出版しているので,私がここに書くまでのことはない.
 思い出というのは,卒業前年のことである.
 私は高校生の時から薬学部志望で,それで薬学部に進むのに有利な理科二類に入ったのであるが,東大闘争の最中に全く勉強しなかったせいで,薬学部への進学に失敗し,農学部に進んだ.
 だが農学部の講義は,おもしろくなかった.私と同じ研究室で卒論を書くことになった宮内君という同級生は,大学院へ行くことを決めていたが,私は東大闘争の後遺症というか,多くの級友がそうだったのであるが,学問に関心を失いかけていた.
 しかしさりとて積極的に就職しようという気もなく,だらだらと無気力な毎日を過ごしていた.
 そんなある日,実験をしていた時に,所属講座の助手の先生が私のところに来て,教授のM先生が呼んでいるから教授室に行くようにとのことだった.
 恐る恐る教授室に入ると,窓を背にした大きなデスクの前に,院生がゼミなどをする大きなテーブルがあり,そこに背広を着た三人の人たちが席に着いていた.
 

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2021年6月13日 (日)

醜い仲間割れ

 テレビ朝日系列《テレメンタリー2021「民意偽造~軽んじられた“名前”~」》[放送日 2021年6月13日 5:20~5:50]》を観た.
 番組紹介ページには冒頭に次のようにある.
 
愛知県知事のリコール運動で、事務局長らが署名を偽造した疑いで逮捕された。43万筆の署名のうち8割以上が「無効」と判断。事務局長に密着取材、署名偽造の真相に迫る。
 
 上の引用箇所には《署名偽造の真相に迫る》とあるが,残念ながら全く真相に迫っていなかった.
 愛知県の大村知事の解職を求める運動を主導したのは河村たかし名古屋市長と高須クリニックの高須克弥院長の二人であるが,署名偽造を直接指揮したのは運動事務局長の田中孝博 (地方自治法違反容疑で既に逮捕) である.
 番組《民意偽造~軽んじられた“名前”~》は,警察の捜査が田中事務局長の身に及び,田中がホテルを転々と渡り歩いて逃亡する状況の中で,記者がいわゆる密着取材をした.記者は,逃亡の車中では運転する田中の助手席に座り,伊豆のホテルで逮捕された時には田中と同じ部屋にいた.
 しかしこの記者は,田中から何の証言も引き出せなかった.これでは記者は,取材能力を疑われても仕方ないだろう.
 せっかく密着取材なのにもったいない.視聴者としては強い不満を持たざるを得ない.
 
 事件が発覚した当初,高須院長は河村市長に利用されたかのような発言をした.しかし高須院長の秘書が,「署名偽造に関与」どころか,偽造行為そのものを行っていたことが明らかになって,あたかも被害者であるかのように装った化けの皮がはがれた.
 河村市長は,田中事務局長に騙されたかのような発言をしたが,田中事務局長は,河村市長が黒幕であると示唆している.
「悪事の行きつくところは仲間割れ」というわかりやすい展開だ.
 
 田中が署名偽造行為に使った費用,一千五百万円の出所が不明で問題となっている.
 多額の闇資金をポンと出せる富裕な人物はいったい誰か.
 そのような視点の追及がないのでは,《民意偽造~軽んじられた“名前”~》は調査報道として非常に低レベルであり,がっかりした.

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2021年6月 9日 (水)

北進するゾウたち

 中国雲南省付近を北上しているゾウたちだが,彼らを突き動かしているものはなんだろうかと考える.
 群れで彷徨するのではなく,北へ移動し続けているというところに,何かしら胸が痛くなる思いがする.
 中国人というのは,ペットの子犬や子猫を宅配便のダンボール箱に包装して輸送し,平気で死なしてしまう人たちである.
 動物愛護精神に欠けると批判されることの多い日本人でも,そこまで残虐であるという話は聞かない.
 結局のところ,中国当局は彼ら北進するゾウの群れの駆除をするのではないか.そうならぬことを祈る.

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猪瀬直樹呆けたり

 報知新聞《猪瀬直樹氏、五輪関係者への厳しい検査態勢に私見「なんだか日本人が陰険になっている気がする」》[掲載日 2021年6月7日 12:21] によると,元東京都知事の猪瀬直樹は,次のようにネットで述べている.
 
この日、ツイッターに「なんだか日本人が陰険になっているような気がするのでFacebookにこう書いた」とつづった猪瀬氏。フェイスブックには「出発前に2回の検査を実施する」、「アスリートとアスリートに同行するチーム役員は毎日検査を実施」などの来日関係者に義務づけられた感染症対策を列記した上で「来日オリパラ関係者7万8000人にこれだけ(以下)義務づけているのに彼らが原因でパンデミックになったらとどうする、と言うなら日本国民はふだんどれだけ気をつけているかも問われるはずだ」とつづり、「来客だけに厳しい義務を要求し、来客から感染させられたらどうするのだと言うが、来客を日本人側からも感染させないようおもてなしをするのが道義ではないか」と続けていた。》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
彼らが原因でパンデミックになったらとどうする、と言うなら日本国民はふだんどれだけ気をつけているかも問われるはずだ》は,猪瀬直樹が「パンデミック」という用語の意味を全く理解していないことを示している.
 パンデミックは,単にある感染症が広まることとは意味が異なるのだが,猪瀬は感染拡大と同じ意味で使っている.(Wikipedia【パンデミック】)
 これだけよく報道で使われている言葉の意味を調べずに文章を書くということは,猪瀬が既に文筆家ではないことの証左である.
 しかも猪瀬は,五輪誘致の中心人物の一人であった.責任を感じることなく恥をさらす前に,でたらめな発言をやめたらどうだと言いたい.

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アサリの呼吸

 冷蔵庫の肉や魚がなくなりそうなので,買い物に出かけた.
 藤沢駅北口のダイエー藤沢店で野菜を購入.キュウリ,カットレタス,モヤシ (ブラックマッペ),ミョウガ,アスパラガス,etc..
 それから「さいか屋」デパートの地下に降りて,鮮魚を見て回ると,アサリが安かった.季節だなあ.
 料理素材としては,アサリは水煮缶詰が便利なので普段はそれで済ませるとして,しかし味噌汁は殻付きのものでないと有難味がない.
 一パックをカゴに放り込んだが,量は味噌汁なら三椀,酒蒸しなら一皿分はたっぷりある.
 あとは本マグロの中おち丼,塩鮭切り身,精肉店に回って牛肉の切り落としを買った.
 
 帰宅して最初にしたのはアサリをリラックスさせてやること.
 店頭で売られている状態のアサリは大抵の場合,発泡スチロールのトレイに盛ってラップ包装されている.
 つまり窒息状態なのである.
 アサリはエラ呼吸だが,このように海水の無い酸素不足の環境では,呼吸ができないので体内に蓄積してあるグリコーゲンを分解する方法で生きることがわかっている.
 従ってアサリを買ってきてそのままにしておくと,どんどんグリコーゲンが減って (遂には死んで) しまうので,すぐにラップを外して塩水に入れてやらねばいけないのである.一番やってはいけないことは,ラップ包装されている酸欠状態で冷蔵庫に放り込むことである.こんなことをするとアサリは簡単に死んでしまう.
 酸欠状態のアサリを回復させるために用意する塩水の濃度は,水一リットルに食塩三十グラムでよい.
 これがアサリの一時的な保存方法 (飼育にはまた別のことが必要) だが,同時に砂抜きの方法にもなっている.
 
 さて,ここで私はかねてより疑問に思っていることがある.ウェブからの引用で示そう.
 次の記述は,福田かずみさんというかたが,一流誌ESSEのウェブ版,ESSEonline《効率的なアサリの砂抜き。水を多く入れすぎないで》に書いている解説記事だ.
 福田かずみさんは,《冷蔵庫収納家。独自の冷蔵庫活用術を構築し、家庭の冷蔵庫から食料廃棄をなくす啓蒙活動にも積極的に取り組む。ブログ「美人冷蔵庫LIFE」を更新中》だそうである.美人である (画像) ことに全く異論はないが,「美しい冷蔵庫LIFE」ではなく自分から「美人冷蔵庫LIFE」と言ってしまうのは如何なものかと批判する人がいるかも知れない.しかしかずみさんは美人だからよろしい.美人は無敵だ.
 
海水の塩分濃度は、約3%。
 水 500mlに対して塩大さじ1で、ちょうど3%になります。
 次に、砂抜きをするときの容器と塩水の量です。
 アサリは、水に深く浸かっていると酸欠になってしまいます。スーパーで売っているときも、パックの中には水が入っていないですね。
 砂抜きをするときの塩水の量は、アサリがやっと浸かるくらいが理想です。容器はというと、アサリが重ならないように、ボウルではなく平らなトレーがおすすめです。》

 アサリは水に深く浸かっていると酸欠になる (つまり溺れる) とかずみさんは言う.パックに包装されている時に水が入っていないのは,水があると酸欠になるからだというのだが,本当か.
 Wikipedia【アサリ】の記述を読んでみよう.次のように書かれている.
 
日本、朝鮮半島、台湾、フィリピンまで広く分布する。地中海(アドリア海とティレニア海)、フランス(ブルターニュ地方)、ハワイ諸島、北アメリカの太平洋岸に移入されている。汽水状態を好み、成貝は海岸の潮間帯から干潮線下10mほどまでの、浅くて塩分の薄い砂あるいは砂泥底に分布する》(引用文中の文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 満潮時の海面と干潮時の海面のあいだの範囲を潮間帯というのだが,潮間帯で,しかも遠浅で海底が砂質または砂泥質のところがアサリの潮干狩りに適した砂浜である.
 しかし,実はアサリは,干潮線下10m (干潮時の海面より10mも深いところ) にも生息している.すなわち,福田かずみさんの説 (⇒ 海面下ではアサリは酸欠で溺死する) に反して,常時海面下の海底でもアサリは生きているのである.
 では,なぜアサリは深い海底でも酸欠にならないか.
 普通の小学生でも「貝はエラ呼吸だからです」と答えるだろう.
 むしろ頭の良い小学生 (低学年) には「干潮のとき,アサリはエラ呼吸なのに,海水のない砂浜でも酸欠にならないのはなぜですか?」と質問するのが適当だろう.きっと海の生き物について興味を持ってお勉強してくれるに違いない.
 だが福田かずみさんは,海の深いところを泳いでいる魚は,時々は海面に出てきて息継ぎをしないと酸欠になってしまうと,小学校の頃に思い込んだのだ.イルカみたいに.
 そしてその後のかずみさんは,魚類とか爬虫類とか両生類とか私たちの身の回りの生き物の体の仕組みがどうなっているか,本を読むことなく,授業中は教科書のページの隅に落書きして過ごしてきたのだろう.オタマジャクシがカエルの子だなんて聞いたら,幼い子の純真な眼差しをして驚くに違いない.
 福田かずみさんは,魚や貝の体がどうなっているかについて全く関心がないはずだ.塩鮭は,切り身がヒラヒラと海を泳いでいると思っているだろう.
 冷蔵庫に入っている色んな食材は,野菜でも魚介でも元は生き物だ.生き物について勉強しようとしない人が,栄養士を対象にして冷蔵庫の食品ロスを減らすにはどうしたらいいかを講演して ギャラを稼いで いるのだ.日本の未来は明るい.よかったよかった.
 さて,アサリは肺呼吸していると思い込んでいるのは,福田かずみさんだけではない.ウェブを「アサリ+砂抜き+ひたひた」で検索すると,「アサリは肺呼吸」派の人々がワラワラと出てくる.
 みんな小学校で,貝類はエラ呼吸をすると学習したはずなのに,どうしてこんな状態なのか.それが私が以前から持っている疑問なのである.
 
 三越伊勢丹グループが運営する食のメディア“Foodie”には,《失敗しないあさりの砂抜き法はこれ!【鮮魚店直伝】簡単レシピ付き》が掲載されているが,そこから一部引用してみよう.三越伊勢丹といえば一流デパートだ.そこの社員は優秀に違いない.アサリが肺呼吸だなんて言うはずがない.
 
A.「水に深く浸かっていると、あさりが酸欠になり死んでしまう場合があります。頭が少し出るくらいのひたひたの水分量にすれば、あさりが殻を開け閉めする時に塩水が適度に混ざり酸欠になるのを防いでくれます」
 
 だがしかし,砂浜にいるアサリは,満潮時には酸欠になって死んでしまうことがあると三越伊勢丹デパートは主張しておる.
 全くどいつもこいつも,冷蔵庫評論家も一流デパートも,満潮時にアサリが酸欠で死ぬのを見たことがあるのか,正直に言ってみるがいい.
 実はアサリの砂抜きの際に,塩水をヒタヒタ程度にするのは,それでも砂抜きができるからである.
 つまりそれ以上に多く塩水を作るのは無駄だから,しないのだ.日々の暮らしの中で節約が大切だった時代からの生活の知恵なのである.
 
 料理の世界は嘘がまかり通っている.聞きかじったことを,試しもしないでブログに書いたりする人の何と多いことか.
 自分が思いついた嘘を自分で信じ込んで,ウェブに記事を書くのは馬鹿だ.
 デパートで活アサリを買ってきて,これを長生きさせるにはどうしたらいいか,実験してみよう.
 アサリをバットに拡げてヒタヒタの塩水に浸しておくと,水中の溶存酸素は次第に減少し,やがてアサリは酸欠で死ぬ.
 その逆に,水槽にたっぷりの塩水 (海水程度の塩分濃度) を入れて飼育すれば,塩水ヒタヒタ状態よりもずっと長生きする.決して溺れ死にはしない.これは,やってみればすぐわかることだ.
 さあ,冷蔵庫評論家や一流デパートがどう言おうと,アサリが肺呼吸ではないことをその目で確かめてみようではないか.
 もしも貝が肺呼吸で,海水中では酸欠になるのなら,養殖のホタテもカキもとっくの昔に死に絶えているぞ.
 
 ちなみに,店頭で売られているアサリは,トレーに入れたまま塩水のない状態で包装されているが,この状態ではアサリは呼吸ができないため,既に述べたように体内のグリコーゲンを分解する方法でエネルギーを得て生きている.この時に,グリコーゲンの代謝でコハク酸が生成する.コハク酸は旨味成分の一つなので,数時間程度であれば,塩水のない環境で酸欠状態にすると旨味が増すということはいえる.ただし,ストレスを受けたアサリの食味は落ちると思われるので,私は食材をこのように不自然なやり方で扱うことはお勧めしない.
 
[追記]
 上の記事を掲載した日の夜,NHK《ガッテン》が実にタイムリーに《まさか!?育てて最強「アサリ」新調理術》を放送した.
 この放送の中で,アサリの大産地である熊本県から,どのようにして東京の市場へアサリが輸送されるかが紹介された.
 熊本県の水深数十センチくらいの浅瀬で漁獲されたアサリは,メッシュコンテナと呼ばれる樹脂製の箱に入れられ,海水に浸った状態ではなくトラックに積まれて輸送される.
 この状態ではアサリは呼吸ができず,グリコーゲンを消費しながら何とか生きているが,三重県あたりで非常に弱ってしまう.(放送では「ヘロヘロ」と表現)
 そこでアサリは,メッシュコンテナに入れられた状態のまま,三重県下に設置されている輸送中継施設の,海水を満たした生け簀に沈められる.
 そしてその生け簀で二十四時間,静置されるとアサリは鮮度が回復する.
 そしてまたトラックに積まれて,大消費地である東京へと運ばれていくという.番組の公式サイトから下に解説を引用する.
 
アサリは、生きたまま家まで届くちょっと珍しい食材。鮮度が命なので、とにかく生かして、消費者まで届けなければならないんです。だから、スーパーで買ってきたアサリをよ~く見てみたら、どれも心臓がバックバク!では、いったいどうやって生きたまま届けられるのか。その要となるのが、いわゆる“アサリの保養所”。遠く離れた産地から、中央の市場やスーパーなどへ届けられる前に立ち寄る“中継点”で、アサリの活力を回復させる施設です。着いたときは、殻を閉じる力すら失っていたヘロヘロのアサリを温度や水質が管理された海水に、およそ1日浸してあげます。すると、すっかりリフレッシュ!殻をピッタリ閉じた元気なアサリに戻ることができるんです。
 
 生き物について小学生以下の知識しかない福田かずみさんは《ガッテン》を観ただろうか.
 貝類はエラ呼吸をするから,水がないところでは呼吸ができない.
 アサリは,海水中の溶存酸素をエラから取り入れている.だから,海水が少ないと弱ってしまう.かずみさんは《アサリは、水に深く浸かっていると酸欠になってしまいます》と書いているが,それは全く正反対の大間違いなのである.
 弱ったアサリを生け簀の海水に沈めることで,酸欠で瀕死寸前の状態から回復させることができるのを,かずみさんが理解してくれるとよいのだが.

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2021年6月 7日 (月)

ウイルスにスポーツの力で立ち向かうアジアン・ビューティ

 東京五輪開催に関する政府対策分科会の尾身茂会長の発言について,丸川珠代五輪相が《我々はスポーツの持つ力を信じて今までやってきた》と述べ,これを多くのメディアが伝えた.
 この一般人よりも知的レベルの低い女性は普段から何をしているのか不明であり,発言は要領を得ないのであるが,唐突に新型コロナウイルス感染症に《スポーツの持つ力》を対置させたのである.
 百歩譲ってスポーツが免疫力を高めるとしても,パンデミックに対してスポーツの力なんぞ屁の突っ張りにもならぬわ.
 
 今年三月二日の衆院予算委員会の場で,自民党の鬼木誠議員が「パリ協定が採決された2015年のCOP21 (註;気候変動枠組み条約締約国会議) で,丸川環境大臣はアジアン・ビューティと呼ばれて各国からの参加者に人気があった」とヨイショした.
 国会の場で女性議員の容姿を云々するのは禁じ手であり,下司の極みであるが,美人と言われた丸川大臣は魚木議員をたしなめなかった.ま,その程度の知性の持ち主だから,ウイルスにスポーツの力を対置させちゃうのである.


 

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私はパスタを茹でるのに塩を使わない /工事中

 AllAbout《塩を入れないでパスタを茹でるとどうなるの? 意外と知らない、茹で汁に「塩を入れる」理由》[掲載日 2021年6月6日 12:35] に土屋敦というかたが,いいことを書いている.
 
ネットで調べていると、塩を入れるのは沸点を上げるため、とか、塩なしの水で茹でるとパスタがくたくたになって食べられたものではない、とか、いろいろ書かれています。料理の世界は今も迷信に満ちていますので、自分でいろいろ試して、確かめてみるとよいでしょう。
 
 ほんとにそうだ.
 私は高齢になってからというもの,血圧がややもすると130を越えたりするので,パスタを茹でるのに塩を入れることをやめた.
 私はうどんが大好きだが,茹でる時はたっぷりの水を使い,茹で上がった麺も水でよく洗って充分に塩気を抜いてから食べる.
 乾麺の蕎麦で,最近増えている低品質の製品は原材料表示に「小麦粉,塩」あるいは酷いのになると「小麦タンパク,塩」と書かれているものが非常に多い.
 これは,蕎麦の製麺技術が低いので,それをカバーするために,うどんの製麺法を用いているのである.
 小麦

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2021年6月 5日 (土)

じり焼の謎

 テレビの料理番組を観ていると,希に乾物のサクラエビを使った料理が紹介されることがある.
 サクラエビは日本の数ヶ所で生息が確認されているが,漁業として行われているのは駿河湾のサクラエビ漁で,その歴史は古くはなく,明治二十七年に始まったとされている.
 静岡県外には,水揚げされた浜で天日乾燥した乾物が流通するが,駿河湾に面したあちこちでは乾物に加工する以外の食べ方も行われる.中でも,静岡県の郷土料理といってもいいのは生のサクラエビのかき揚げで,これは農水省の「農産漁村の郷土料理百選」に入っている.
 私が幼少の砌は,乾物のサクラエビはそれほど高級な食材ではなく,玉ねぎと乾物のサクラエビのかき揚げは庶民的な惣菜であった.
 それがこのところ不漁が続き,乾物のサクラエビは高級食材の仲間入りをしている状況である.
 同等のものが台湾からも輸入されているが,駿河湾産は台湾産の二倍近い店頭価格だ.
 
 さて話代わって,私の郷里の群馬県には,家庭で作る「じり焼」という食い物がある.超シンプルな「お好み焼き」みたいなもので,小麦粉に少々の具材を混ぜ込んでフライパンで焼いたものだ.
 この系統の食い物は,近畿地方の「一銭洋食」が有名だ.Wikipediaにも項目が立てられていて,Wikipedia【一銭洋食】に次のように解説されている.
 
一銭洋食(いっせんようしょく)は、水に溶いた小麦粉にネギなど乗せて焼いた鉄板焼き料理。「洋食焼き」、「壱銭焼き」、「べた焼き」などとも呼ばれる。
 大正時代の近畿地方の駄菓子屋では、水で溶いた小麦粉に刻みネギやわずかな肉片などを乗せて焼き、ウスターソースを塗ったものが「洋食」と銘打って売られていた。当時は小麦粉やソース自体がエキゾチックな食材と見なされており、お好み焼きのルーツのひとつとされる料理である。
 東京のどんどん焼き(お好み焼き)を起源とする説もある。神戸では同種の料理を「肉天」と呼び、洋食という言葉は使用されない。
 洋食焼きは当時1枚1銭で売られていた為に「一銭洋食」と呼ばれるようになった。 具材はねぎ、千切りキャベツ、ひき肉、すじ肉、こんにゃく、かまぼこ、もやし、魚粉、豆類、天かすなど多岐にわたり、店や時代によって様々である。
 洋食焼きは戦後も「拾円焼き」「五〇円焼き」などと銘打って店舗の軒下などで作られてきた。岸和田市のかしみん焼きや高砂市のにくてんのように、現在も一銭洋食系統の粉物料理が作られ続けている地域もある。懐古的に商品化された京都市の壹錢洋食や、ねぎ焼、キャベツ焼きのような例もある。
 また名称は「お好み焼き」に変えたものの、戦前と同じ様式で作り続けられている地域も少なくない。広島では戦後、洋食焼きをベースに独自の地域的発展を遂げ、広島風お好み焼きが誕生した。》
 
 上の記述にあるように,「一銭洋食」は駄菓子屋などで子供相手に売られていた食べ物であり,家庭料理 (というほどのものではないが) ではない.
 今でこそ家電のホットプレートが普及しているが,昔は鉄板で焼く料理は外食に限られていたからである.まあ外食といっても見栄えの良い店舗ではなく,駄菓子屋とか縁日の屋台が主だったのであるが,それがいつしか具材に肉や魚介を使うようになり,高級化して「お好み焼」になった.
 東京の「もんじゃ焼」も同じで,今でこそ月島あたりの名物料理になってしまっているが,ありゃあ昔は駄菓子屋の店先に置かれた小さな鉄板で子供たちが作って食ったものが,今は大人の食い物に昇格したもんだと年寄りは言っている.
 群馬の「じり焼」も同じで,腹を減らした子供が,勝手にフライパンで焼いて食ったものだ.
 さて,ここでタイトルに「謎」と書いたのは,同じ名称でちょっと様子の異なるものが大分県にもあるからだ.
 これは農水省のサイトのコンテンツ《うちの郷土料理》に《大分県 じり焼き (じりやき)》として紹介されている.大分県は豊後大野市という地方に伝わるものだそうだ.このコンテンツにダウンロード・フリーの画像があるので,下に示す.
 
20210605a
 
 掲載されている解説には《地粉を水で溶いたものをクレープのように薄く焼いて、細かく砕いた黒砂糖やかぼちゃのあんを巻いて食べる》とあり,「お好み焼」ではなく,素朴な甘い菓子に近いもののようだ.
 この記事の元になったのは,大分県が作成した《次代に残したい大分の郷土料理》に掲載されている《じり焼 (豊後大野市)》である.
 大分県はこうして県の公式サイトにレシピを記しており,他のウェブコンテンツと参照比較しても内容に間違いはないようである.
 しかし私の郷里の群馬県は,《次世代へ伝えたい ぐんまの郷土料理・伝統料理》の中で
 
群馬県の特産品である小麦粉を使って手軽に作ることができる「やきもち」は、群馬の粉食文化を代表する郷土食です。小麦粉を使い、丸く焼き上げるほかには特別な決まりはなく、地域や家庭によって生地や具、作り方や呼び方も少しずつ違い、県内各地でいろいろな味の「やきもち」があります。地域によって「おやき」や「じり焼き」などと呼ぶこともあります。
 
と述べており,「じり焼」は「やきもち」の別称であるとしている.
 群馬県の公式サイトにレシピが書かれていないので,「じり焼」がどのようなものかが不明である.(しかも掲載されている写真は明らかに「じり焼」とは別物である)
 それなのに《小麦粉を使い、丸く焼き上げるほかには特別なきまりはな》い,と書かれている.作り方に決まりがないようなものが,すなわちレシピのない食べ物が,どうして《群馬の粉食文化を代表する郷土食》になり得るのか.小麦粉を材料にして丸く焼けば「じり焼」であるなら,ホットケーキもドラ焼も,「一銭洋食」も「お好み焼」もすべて「じり焼」だということになる.そんなわけがあるもんか.少しは考えてものを言うがよい.
 大分県が「じり焼」の典型的レシピを示して,これが「じり焼」だとしているのに比較すると,我が郷土,群馬県という地方 (の人間) のいい加減さが際立っている.
 こんな有様だから,テレビ番組《踊る!さんま御殿!!》や《秘密のケンミンshow》で中山秀征 (群馬県出身) が「群馬県人はホットケーキに砂糖醤油をつけて食べる」なんてことを言い始めるのである.(中山秀征は子供の頃「じり焼」をホットケーキと呼んでいたらしい w)
 そこで群馬県の「じり焼」について書かれたレシピを探してみた.
 すると群馬県玉村町の公式サイトにそのレシピを発見した.
 それがこれ
 まずキャプションが次のように記述され,次にレシピが掲載されている.
 
群馬県南部は、古くから米麦二毛作と養蚕が盛んで、多様な粉もの食が生まれてきました。また、県内の他の地域と同様「かかあ天下と空っ風」と言われるように、上州独自の風土や気質が知られ、女性も男性と一緒に働き仕事を終えてから食事作りをすることから、簡単・時短で栄養もとれる「おっきりこみ」や、おやつとして「おやき」などが食されてきました。「じり焼き)」は、ご飯が少し足りないときに、小麦粉に野菜や桜海老などを具として混ぜ、お好み焼きのように焼き、ご飯の足しにしました。また、小麦粉の生地に少し余ったご飯も具として他の具材と一緒に混ぜ込み、子どものおやつなどにしました。
 
[じり焼き ]
材料
材 料 4個分
地粉(小麦粉)   200g
水         200ml
キャベツ      160g
長ネギ       140g
さくらえび     20g
かつお節      10g
紅しょうが     20g
油         小さじ2
しょうゆ(ソース) 小さじ4
① キャベツは細切りに、長ねぎは小口切りにする。
② 小麦粉と水を混ぜ、生地を作る。
③ ②の生地に具を加え混ぜる。
④ フライパンに薄く油をひき、③を流し入れて中火で焼く。焼き色がついたらひっくり
返し、ふたをして火が通るまで弱火で焼く。
⑤ 適当に切り分け、しょうゆ、またはソースをかける。
※ 具は玉ねぎやニラ、小女子やじゃこなど家庭にあるものを使い、残りご飯を混ぜ込む
こともあります
 
 およそのところは上のレシピでよいのだが,「キャベツ,かつお節,紅しょうが」を入れると具だくさんの「お好み焼」感が出てしまう.
 つまりクレープ状にはならず,ぼってりとした食感になってしまう.
 そうではなくて,群馬県で終戦後から昭和三十年代にかけて,腹を減らした子供たちがフライパンで焼いて食っていたプアな代用食は,小麦粉,長ネギの小口切り,サクラエビを焼いたものであった.(群馬の農家が農作業の間に食べる間食は「おやき」「やきもち」と言うが,これと「じり焼」を混同している人が多い.また最もよく知られている「おやき」は長野県の名物だが,それは群馬のものとは異なる)
 ここまできてようやく冒頭に振ったサクラエビの話を回収しよう.
 あくまで「昔は」の話であるが,群馬県の「じり焼」の具材は,長ネギの小口切りとサクラエビだったのである.
 それくらい,サクラエビは身近で安価な乾物だったのである.
 一つ付け加えると,昭和三十年代の群馬県では,庶民にとって鰹節は高級食材であった.味噌汁や蕎麦つゆなどの出汁を取るには専ら煮干しが用いられ,鰹節は正月の雑煮のすまし汁など,ハレの日の食材であった.
 
 その思い出のプアな代用食「じり焼」を再現してみた.
 調理に用いる熱源だが,プロパンガスはまだ普及していなかった時代である.
 小学校低学年の当時,私は「じり焼」を作る時はまず七輪に炭火を熾した.飯は,台所の「へっつい」で羽釜と薪で炊いたが,調理には七輪または灯油のコンロが用いられた.
 食パンを焼くにも七輪だ.灯油コンロでは石油臭いにおいがついてしまうからである.七輪なら遠赤外線効果でトーストされるわけで,あれはうまかった.思い出は最上の調味料である.
 閑話休題.下がその再現「じり焼」である.
 
 20210604a
 
 小麦粉は市販の「お好み焼粉」で代用できる.玉村町のレシピに従うと,26センチのフライパンで三枚を焼ける.
 生地には下味を付けず,焼いた「じり焼」にはウスターソースをかけるのが昔風だが,なければ中濃ソースでよい.
 豊後の人がこの写真を見たら「これがじり焼?」と思うかも知れないが,これが上州の「じり焼」である.
 で,私が以前から不思議に思っているのは,九州と北関東という遠く離れた二つの地方で,全く異なる食べ物がなぜ「じり焼」という同じ名で呼ばれているのだろう,ということである.
 江戸時代からある郷土食では,殿様の国替えの結果,ある地方の食べ物が別の地方でも食べられるようになったという例はあるが,豊後の殿様が上州に転封されたことはないようだ.
 私はかねてよりそういう疑問を持っていたが,群馬県人である中山秀征の世代でも,もはや「じり焼」を食べたことがないことから考えると,群馬の「じり焼」は滅びたのだろう.だから私の疑問は無意味なものになった.大してうまい食い物ではないから,それもよかろうと今は思っている.
 

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2021年6月 3日 (木)

横浜市の大規模ワクチン接種は 予約困難なのにワクチンは余っている

 神奈川新聞《【新型コロナ】横浜のワクチン大規模接種 75歳以上の枠埋まらず 3日から65歳以上予約開始》[掲載日 2021年6月2日 23:23]
 
新型コロナウイルスの高齢者向けワクチン接種を巡り、横浜市が75歳以上から受け付けている横浜ハンマーヘッド(同市中区新港2丁目)での大規模接種予約数が想定を下回っていることが2日、分かった。
 65歳~74歳を対象とした約5万人分の予約受け付けを3日から始めるが、予約枠が残っている75歳以上からも引き続き予約を受け付ける。
 市は当初、75歳以上の予約枠(約4万2千人分)が6月2日までに埋まると想定していたが、実際は5月31日からの3日間で約3万6400人分(速報値)にとどまった。
 初日は電話と予約サイトで計約2万7千人分(同)を受け付けたが、2日目と3日目を電話のみにしたところ、想定には届かなかった。
 
 この記事は,大本営発表を鵜呑みにしている.
 私が数人の七十五歳以上の高齢者に訊ねたところ,全く電話が繋がらず,予約を断念したとのことである.
 今日から制限年齢を下げて六十五歳にしたが,私が七十歳の知人に聞いてみたら,やはり電話予約は通話中で全く繋がらないと言っている.
 
 要するに「予約」がネックになっているのだ.
 大規模接種開始の前から,市当局が勝手な考えで可能な接種数をウェブと電話予約の二つの「枠」に振り分け,ウェブ枠は早々に埋まってしまうが,通話は一日中繋がらないという状況が起きた. これは,電話予約では,一人の予約を確定処理するのに時間がかかるためである.これに対してウェブ予約は,圧倒的に短時間で予約手続きが終わる.(報道によると,老人たちに特有のことと思うが,予約のこと以外に色々と無関係な相談をコールセンターの人にするらしい.うちの嫁が,なんてことを言っていなければいいのだが)
 今回の大規模接種においても,全くこれと同じ現象が起きたとみられる.
 記事に《2日目と3日目を電話のみにしたところ、想定には届かなかった》とあるが,七十五歳の高齢者では,家族が横についてウェブ予約の手伝いをしたはずであり,それなのに予約を電話のみにしたのがそもそも阿呆である.アクションの方向が逆だ.
 市当局が「高齢者は電話予約しかできない」という思い込みを排して,ウェブ予約の「枠」を大幅に増やせばよかったのだ.
 同じ失敗を繰り返すのは大阿呆である.市長の頭の中が見てみたい.たぶん市長の親分である菅首相の命令で,カジノ誘致のことで頭の中は一杯なのだろう.
 
 AERAdot.《「ポンコツ過ぎる」政府配布のワクチン接種記録タブレット 使わない自治体が続出》[掲載日 2021年6月3日 9:00] も暢気な事を書いている.
 
1都3県に対象が広がった5月31日以降も、同じような状況が続く。6月2から13日の予約枠12万6千人に対し、1日夕方現在で約1万人以上の空きがあるという。
 他方で31日から一週間の市区町村別の予約状況を見ると、横浜市が7160件と、2位の川崎市1221件に大差をつけている。菅首相のお膝元、横浜市が最も恩恵を受けている形だ。防衛省関係者はこう語る。
 当日ドタキャンが相当数ある。……中略…… 他方で予約がなかなか埋まらず、一番恩恵を受けているのは菅首相の地元の横浜。『こんなところにも首相への忖度か?』など冗談交じりに語られています」》(文字の着色強調は当ブログの筆者が行った)
 
 文字を着色した箇所は事実に反する.横浜市民が,何が悲しうて菅首相に忖度せにゃいかんのであるか.超阿呆なことを書くでないわ.たわけ.
 横浜市民は,横浜ではワクチン接種の予約がとれないから,やむを得ず電車賃を払って東京の大規模接種を受けに行っているである.

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事は人命に関わる

 新型コロナウイルス感染症のワクチン接種が各地で行われているが,連日,取り扱い方法の誤りにより廃棄を余儀なくされたという報道が続いている.
 人間の行動には誤りが避けられない.
 だがしかし産業界では,なんとかして偶発的な,不可避な事故以外の品質不良を回避すべく努力が行われてきた.
 それでは,不可避な事故はいったいどれくらい発生するのか.
 経験則として私たちは,事故率を1ppm以下に抑え込めれば,ほぼ満足すべき水準であるということを知っている.
 例えば,高度な品質が要求される製品を100万個製造する工程があるとして,その工程で発生する不良品が1個以上である場合,その工程の品質管理は不十分なのである.
 この許容限度は,製品によって異なる.
 自動車部品のように人命に関わる製品の場合は,高度な品質が要求されるが,食品のようなものの場合は,実用的には5ppmならなんとか許容できる範囲であるとされている.
 実際に,私が会社員時代に仕事をしていた食品業界では,消費者クレーム発生率が10ppmを越えたら取引停止が常識だった.
 
 今回のワクチン接種について言えば,取り扱いの事故が人命に繋がりかねないわけだから,もちろん事故発生は接種100万回につき1回以下に抑えることが妥当だと考えられる.
 しかし現実は,連日の事故発生報道である.
 しかも,そのミスのレベルが低すぎる.
 もしかすると,ワクチン接種に関与している自治体職員や薬剤師や看護師等は,現在接種に用いられているワクチンがどのような性質のものなのか (なぜ極低温での保存が必要なのか,など) を知らないのではなかろうかと疑われる.
 このことについて政府厚労省は,徒に「接種の加速」を号令するのではなく,国民が「安全安心なワクチン接種」を受けられるよう,ここで一度腰を落として,ワクチンの取り扱い方法についての教育,知識の周知徹底に取り組む必要があるだろう.
 このままでは,新型コロナウイルス感染症のワクチン接種に反対する勢力の声が大きくなる可能性が高い.
 
[追記] なぜファイザー製ワクチンのようなmRNAワクチンは極低温で保管せねばならないか.それはmRNAが著しく不安定な物質だからに他ならない.このことについて,看護師と薬剤師に対しては,厚労省が詳細な文書を作成して通知することで済ませることは可能としても,自治体職員には二時間程度の取り扱い講習が必要ではないかと私は考える.

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2021年6月 2日 (水)

言えば言うほど

 チバテレ+プラス《千葉県市川市長室ガラス張りシャワー 村越市長「災害時に女性用として活用」表明》[掲載日 2021年6月1日 19:59] から下に引用する.
 
市川市役所の市長室に「シャワー室」が設置され、批判が出ていた問題で、村越祐民市長は1日、シャワー室について、撤去はせず、「災害時に女性用として活用し、それ以外は使わない」と表明しました。
村越市長は1日の会見で、震度5以上の地震など、夜通しの対応が続く災害が起きた際、市長室を、女性職員の休憩室にする考えを示しました。
その上で、市長室に設置されたシャワー室について、撤去はせず、災害時に女性用として活用し、それ以外は使わない方針を示しました。ただ、村越市長も、災害時に使う可能性があるということです。
 
 問題のユニットシャワー室は,一般のシャワー室とは異なり,ガラス張りで外から全身丸見えの仕様である.
 その丸見えシャワー室を自分と女性職員だけに使わせると村越市長は言明した.
 市川市議会がもっと厳しく追及すれば,自分と若い女性職員だけに使用させると答弁したかも知れない.

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申し訳があります

 昔はなかった言葉や言い回しが,いつの間にか定着しているということがある.
 
 毎日放送《大阪でワクチン廃棄相次ぐ『冷蔵庫の電源入っておらず』『冷凍庫ではなく冷蔵庫に』》[掲載日 2021年6月1日 18:26] にその例が載っている.
 
大阪府堺市は新型コロナウイルスのワクチン210回分を廃棄したことを明らかにしました。
 (堺市健康福祉局 河野淳一理事)
 「本当に申し訳ございませんでした」
 堺市によりますと、集団接種会場である「ホテルアゴーラリージェンシー大阪堺」で保管していたワクチン210回分を廃棄したということです。ワクチンはファイザー製で、会場内の冷蔵庫で保管されていましたが、6月1日朝に会場の責任者が『冷蔵庫の電源が入っておらず温度が20℃まで上昇している』と気づいたということです。
 
 私が現役の会社員だった頃は,謝罪する時は「申し訳ございません」と言って謝ったものだ.それがいつの間にか時制がでたらめになり,「申し訳ございませんでした」になってしまった.
 自治体の理事というのは,若い人ではないだろう.それが記者会見の場で「失態の直後は申し訳がなかったのですが,現在は申し訳があります」なんてことを言っているのである.あーあ.

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ワクチン一回目接種

 横浜市における新型コロナウイルス感染症のワクチン接種は,自治体としての取り組みに積極性がなかった.
 似た状況にある西の神戸市は,政府 (実行は自衛隊) が東京都と大阪府に設置した大規模接種センターとは別に,市独自の大規模接種センターを置いて高齢者優先接種を開始するとアナウンスしたが,横浜はそのあとでようやく動き出した.
 横浜市の林市長は,実に無策だった.
 市が設置したワクチン接種予約窓口は,ウェブも電話も,全く役に立たなかった.というのは,元々,高齢者の人数分のワクチンを市は用意していなかったのである.
 そのわずかしかない「枠」に高齢市民が殺到したために,ウェブ窓口はパンクし,通話はつながらなかったのである.
 テレビの報道を観ていたら,東京の大規模接種センターにやってきた女性が「横浜では予約がとれないので東京に来ました」と語っていた.
 なるほど.やっぱりねー.
 私は横浜市のやる気のなさに呆れて,隣の藤沢市の開業医に相談したら,そのクリニックで接種してもらえることになった.横浜市以外の神奈川県内自治体は,順調にいっているらしい.
 
 さて昨日,午前十時の予約 (このコロナ禍で,おそらく大部分の医院は予約制になっている) の少し前にクリニックに着いた.
 このクリニックの待合室には長椅子が六つあるのだが,予約を常に五人程度になるように調整して,待合室での「密」を避けるようにしている.
 私が待合室に入った時は,かなり高齢の女性と彼女の付き添いの青年が長椅子にかけていた.
 そして私のすぐあとに「会社では部長でしたけど,このあいだ定年退職しました」的雰囲気の男が待合室に入ってきた.
 それからすぐ,十時になったところで診察室の中から看護師さんが顔を見せて「予約番号○番のかたー」と呼んだ.
 すると長椅子にかけていた青年が,彼の祖母とおぼしき女性の手を引いて診察室に入って行った.
 この時,元管理職氏が立ち上がると受付窓口に行って「予約の順番は私が早いのにどうしてだ!」と事務の女性に食ってかかった.彼の予約はその女性よりも早い順番だったのである.
 
 どこの医院でもそうだが,患者を診察する順番は,院長の医師が決める.
 予約の順番はあくまで仮の順番である.待合室にいる患者のカルテに基づいて,診察の前あるいは後で行う検査の有無等を勘案し,診察が遅滞なく進むように,医師が「この患者を先に診察しよう」と判断して,待合室に声をかけるのである.
 従って「診察の順番は前後することがあります」と待合室に貼ったポップに書かれているのが普通だ.
 幸か不幸か頑健で滅多に風邪もひかない会社員は,病院には病院のルールがあるということを知らずに定年退職を迎える.
 そして「私のほうが診察の順番は早いはずだ!」と医院の受付でわめいたりする.
 自分より先に診察室に入った患者が,明らかに「祖母をワクチン接種に連れてきた孫」という状況なのであれば,なぜそれを許容できないのだ.
 よく聞く話だが,定年退職した元会社員 (例えば執行役員○○部長とか,窓を背にした大きなデスクを与えられている人たち) が,長年働いて尽くした会社から退き,家庭に戻ってきたら,妻も子供も自分の部下として仕えてくれない.
 お前たちはワシを誰だと思っているんだ.そういう鬱憤を地齋さんはクリニックで爆発させ,先入れ先出しのルールを看護師に説いたりするのである.
 ま,クリニックでそういう不愉快なことがあり,嫌な野郎がいるもんだと思って長椅子に腰かけていたら,青年と老女の二人連れの次に私が看護師さんに呼ばれ,私は診察室に入った.一般の診察に比べるとワクチン接種は短時間で済む (かかりつけ医なので問診がすぐ終わる) から,どんどん進むのである.
 医師から問診とワクチン接種後の注意 (解熱剤等,発熱した場合の対処) を受けて,実際の注射は看護師さんがやってくれた.
 それが済んだ後,待合室で三十分待機した.何事もないようなので,受診受付の窓口に「大丈夫みたいなので帰ります」と声をかけ,帰宅した.
 筋肉痛が強くなったのは,その日の午後である.
 腕を下におろしている時には何の痛みもないのであるが,腕を肩のあたりまで上げると痛む.
 しかし腕が上がらなくてもキーボードを打つには不自由はないし,左尻が痒くなっても尻を掻くにも困らない.
 だが次第に弱い倦怠感が始まった.
 ダルイ感じはあるが,テレビを観るくらいのことはできる.
 体温は測定しなかったが,特に熱があるとも感じない.
 そんな状態で二日が過ぎた朝,筋肉痛もけだるさもなくなっていた.
 ファイザー社製ワクチンに関する軽度の副反応については既に調査報告がある.
 予防接種・ワクチン分科会副反応検討部会&医薬品等安全対策部会安全対策調査会がまとめた《新型コロナワクチンの投与開始初期の重点的調査》だ.
 この調査によると,上腕の疼痛は接種の二日目にやや多く現れるが,私のように接種当日という被接種者もかなり多い.
 私の体に生じた副反応は,接種前に予想した通りという結果であった.
 
 周知のように現在のワクチン接種は,自治体によって少し違いがあるが,後期高齢者の中でも八十歳以上とか,平均余命以上の老人から接種が開始された.
 人並以上の長寿者というのは,いつ死んでもおかしくない.
 接種後に亡くなった人はいるが,これまでのところワクチン接種との因果関係が疑われる例はない.
 しかるに接種後に亡くなったことを強調して,ワクチンに対する不安をあおろうとする記事がネット上に散見される.
 ワクチン接種が進行するに連れて,科学的合理性のないアンチ・ワクチンの論調が多くなっているのは危険な兆候である.

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