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2020年12月 8日 (火)

日米開戦の日の小麦粉シチュー

 先週水曜日放送のテレビ朝日の人気番組《家事ヤロウ!!!》の企画《家事ドキュメンタリー》に出演した「ワケありアイドル」の礒部希帆さんが素敵だった.彼女が《家事ヤロウ!!!》に出るのは二度目らしい.希帆さんのプロフィルはネットにデータがあるので省略.
 彼女の父上は,築八十年とかの,ほとんどバラック化した家に独居している.その家の台所は屋根が落ちたために天井がない.雨風吹き曝しである.
 この父上がどのように生活しているかは,よくわからない.しかし希帆さんは週に一度,実家に行って父上に食事を作ったり色々と面倒をみているようだ.
 二人は仲の良い父娘で,実家の有様はかなり深刻なのだが,彼女の明るさが救いだと《家事ヤロウ!!!》のレギュラー出演者 (バカリズム,中丸雄一,カズレーザー) たちは言う.
 さて,希帆さんは今回の放送では,父上に「キャベツロール」と「チキンカツ」を作ってあげた.
「キャベツロール」は礒部家独特の家庭料理である.中身の肉が非常に少なく,やたらとキャベツをたくさん巻くので,礒部家では「ロールキャベツ」ならぬ「キャベツロール」と呼んでいたという.ただし,ネット上のレシピサイトにも「キャベツロール」はたくさんあるが,これは「ロールキャベツ」を英語では cabbage rolls というからだろう.礒部家のとはちょっと違う.
 さてその礒部家のレシピだが,キャベツは丸ごと一個を大きい鍋で茹でる.
 茹であがったキャベツを巻く手順は,《家事ヤロウ!!!》の公式インスタグラムに譲るが,ここで紹介したいのは,巻いたキャベツロールの味付けである.
 礒部家では,キャベツを茹でた汁に塩胡椒で味付けをし,そこに水溶き小麦粉を投入して薄くトロミをつけたスープを作り,これでキャベツロールを煮込んだのだと希帆さんは語った.彼女が幼かった頃の「思い出の味」だそうだ.
 
 このシーンを観て私は思い出した.塩胡椒で味付けして小麦粉でトロミをつけた野菜のシチュー (礒部家のキャベツスープと似ている) は,昭和三十年代の日本の家庭料理であった.
 つまり希帆さんの「思い出の味」は,おそらく亡くなった彼女の祖母の得意料理だったのだろう.
 小麦粉を入れた野菜シチューは学校給食にも出た.今でも覚えているが,具は一センチ角に切ったわずかなタマネギ,キャベツ,ニンジンで,これに五ミリ角くらいにカットしたベーコン数個が浮いているというものだった.容易に想像できると思うが,キャベツの代わりにサイコロ状のジャガイモを入れ,カレー粉で風味付けしたものはカレーシチューという名のメニューだった.(昭和三十年頃,群馬県前橋市市内の小学校の給食では献立表にそう書かれていた)
 では,学校給食の野菜シチューは,なぜ豚肉ではなくベーコンだったのか.
 敗戦の年の昭和二十年 (1945年),我が国は,都市部において厳しい食糧危機に陥っていた.特に東京などの大都市住民は,列車の窓から外に溢れるほどの過密な国鉄に乗って農村に食い物を買い出しに出た.女たちは,親からもらって大切にしていた着物を,二束三文で強欲な農家に買いたたかれ,わずかな麦やサツマイモを手にした.農家との物々交換では衣類が用いられた.これについては「昭和館」のコンテンツ《これまでの特別企画展 戦後復興までの道のり》から一部を下に引用する.
 
戦局が長期戦の構えを見せ始めた昭和15年(1940)6月から、6大都市(東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸)で砂糖・マッチの切符配給制が実験的に実施された。これは切符の提示によってのみ物品を購入することができるというもので、同年11月には全国で実施され、次第にその品目は米などの主要な食糧、その他の食料品、衣類、木炭などの日用品にも及んだ。
しかし、年を追うごとに計画的な配給ができなくなり、配給切符や通帳があっても配給所には品物がないという事態がおきるようになった。さらに19年11月以降、主要都市への空襲が本格化して被害が全国的に拡大し、混乱に拍車がかかり、食糧の配給状況は悪化の一途をたどるようになった。
 戦争が終わり、空襲におびえることはなくなったが、物資不足により人々の暮らしは戦中を上回り、一層苦しいものとなった。食糧や生活必需品などは引き続き配給制が取られたが、遅配や欠配が続き、都市部では餓死者も出たほどであった。人々は正規の配給量だけでは飢え、特に都市部の人々は、農村部への買い出しに行ったり、闇市で法外な値段で入手したりするほかになかった。また、衣類は物々交換の際に食糧と交換され、破れても丁寧に繕いながら着用するのが一般であった。
政府はこの食糧危機に対して、GHQ(連合国総司令部)に食糧輸入の承認を求め、昭和21年(1946)2月に米軍の余剰食糧である小麦粉が引き渡された。これを機に世界各国やユニセフ、国際NGOから様々な援助が行われ、危機的状況を回避することができた。》
 終戦後も主食配給量は絶対的に不足し、さらに予定の配給量が遅れる「遅配」と、配給が取り消しになる「欠配」が続いた。食糧不足が一層深刻となり、多くの餓死者が出るとの危機感がもたれた。この大会は、昭和20年(1945)11月1日に東京・日比谷公園で開催されたもので、配給量の確保を政府等へ訴えた。》(当ブログの筆者による註:引用文中の赤い文字の箇所は誤り;下の[*註]に後述する)
 
 今はもう高齢者の記憶の中に残るだけになってしまったが,NHKのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』(昭和二十二年~) が描いた戦災孤児たちが東京上野駅周辺にあふれていた.
 それでも親が戦死や空襲で死んだりしなかった子供たちはまだ幸運だった.昭和二十二年に教育基本法(昭和二十二年法律第二十五号) と学校教育法 (昭和二十二年年法律第二十六号) が公布・施行され,義務教育を受けることになったからである.
 しかし子供たちは,学校には行けても食うものがない子も多く,栄養失調が蔓延した.今の日本でも形を変えて存在している「欠食児童」である.Wikipediaから一部を下に引用する.(参考資料動画;《第三の居場所》)
 
日本の欠食児童
 第二次世界大戦後
 戦後の食糧難は深刻を極め、1945年(昭和20年)の東京の上野駅付近での餓死者は1日平均2.5人で、大阪でも毎月60人以上の栄養失調による死亡者を出した。1947年(昭和22年)には法律を守り、配給のみで生活しようとした裁判官山口良忠が餓死するという事件も起きている。
 ほとんど全ての食糧を統制物資とした食管制度のもとでは、配給以外の食糧を食べることは即ち違法行為だったのである。しかし一般の人々は、満員列車に乗って農村へと買出しに出かけ、米やサツマイモを背負って帰った。だが、十分な食糧が得られたわけではなかった。また、占領軍の主体となったアメリカにより援助があったものの、食糧不足の解決は難しく配給の遅配が相次ぐ事態となっていた。戦前一部行われていた学校給食も食糧事情悪化のために中断され、そのため食糧を生産していない都市部を中心に、欠食児童は多く存在した
 そのようななか、1946年(昭和21年)からララ物資として、小麦粉(メリケン粉)や砂糖、脱脂粉乳や缶詰といった救援物資が送られ、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)まではガリオア・エロア資金の資金援助で小麦粉などの食糧が大量に輸入された。この食糧により戦時中中断されていた学校給食が、1946年(昭和21年)12月に、東京都、神奈川県、千葉県で試験的に再開され、1947年(昭和22年)1月から主要都市の児童に学校給食が開始、徐々に全国的に学校給食が再開される。1954年(昭和29年)には学校給食法ができ、高度経済成長を経て日本が名実ともに先進国の仲間入りをして以降は、空腹の子どもたちの存在は忘れられ、欠食児童という言葉は死語となっていた。
 ところが、小泉内閣(2001年 - 2006年)の聖域なき構造改革以降、日本社会に格差社会と貧困が再び広がり、家庭で満足な食事が摂れず、長期休暇の期間中は飢えの危険に晒されるような児童が増えている。
 
 昭和二十年八月十四日に「ポツダム宣言」を受諾し,降伏文書に署名 (同年九月二日) すると当然のことながら,戦地から兵が復員してくることになった.食糧危機が起こることは明らかであった.
 内地都市部の国民でも芋のツルを食って飢えに堪えていたのに,それに加えて「泥水すすり草を食」んで生き延びた男たちが戻って来るのだ.敗戦日本は窮地に立った.
 マッカーサーが厚木に降り立ったあと,東条英機以下の政治家たちは統治能力を失った.神にして大元帥たる昭和天皇は,正装してマッカーサーを訪問するのがやっとであった.(下の画像はパブリック・ドメイン;From Wikimedia Commons,File:Macarthur hirohito.jpg)
 すなわちこの国難に立ち向かうのは官僚群以外になかった.
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 彼らはGHQに食糧供給を要請した (昭和二十年九月) が,GHQは当初,敗戦日本の食糧生産の実態を知らなかった.
 また連合国各国自身が食糧自給に精一杯だったこともあって,極東委員会は日本への食糧輸出を禁じた.昭和二十一年二月,GHQは極東委員会の方針に従って,日本政府の要請を拒否した.( *註 上に引用した昭和館公式サイトのコンテンツに《昭和21年(1946)2月に米軍の余剰食糧である小麦粉が引き渡された》と書かれているが,この二月にGHQは食糧援助を拒否回答している.なぜ昭和館がこのような事実無根のことを書いたか理由不明である)
 しかしこの年の五月十九日,皇居前に二十五万人が集結して飯米獲得人民大会が開催されたのを見て,GHQは方針を転換した.事件の翌日,マッカーサーは吉田茂首相に,日本に対する食糧支援を約束したのである.
 五月に入りGHQは食糧三千三百七十四万ポンド相当の払い下げを発表し,六月には京浜地区に米麦二万二千トンを放出した.
 ようやく都市部国民の飢餓は回避される見込みが立った.厚生省および文部省の官僚たちはこのあと,児童を栄養失調から救うために,GHQとの交渉に奔走した.
 彼らは東北大学医学部の近藤正二教授の助言を得て,学校給食によって児童生徒たちを栄養失調から救うべく,GHQに小麦粉と脱脂粉乳の供給を要請し,GHQはこれを承諾した.
 この当時,米国が日本に,安定的かつ大量に輸出して援助できるタンパク源はこの二つだけだったのだ.特に,小麦は米国の主要農作物であるが,脱脂粉乳は貴重な農産物資だったから,これを日本に輸出することは米国政府にとってかなりの決断を要したはずである.そのような当時の状況から推測するに,小麦粉と脱脂粉乳は,マッカーサーの日本に対する好意だったろうと私は思っている.マッカーサーの新婚旅行は日本だった.日本は彼にとって思い出の国だったのである.
 さてGHQが日本に対する食糧援助に取り掛かった頃,当時サンフランシスコに在住の日系アメリカ人,浅野七之助氏は祖国日本の窮状を知り,終戦の年の十一月に「日本難民救済有志集会」を開き,祖国日本救済運動を開始した.
 翌昭和二十一年 (1946年) 一月,浅野氏を中心とする「日本難民救済会」は,サンフランシスコ在住の日系人から募った浄財で救済物資を購入し日本に輸送しようとしたが,適当な窓口団体がなかった.そこで浅野氏はキリスト教プロテスタントの団体 (クエーカー,Quaker) に働きかけ,大統領直轄の救済統制委員会に「日本難民救済会」を米政府公認団体とするよう陳情した.日本難民救済会は米国政府公認団体“ララ(LARA;Licensed Agencies for Relief of Asia)”の一組織として六月に正式発足し,十月に,この年のクリスマスに間に合うように衣類や脱脂粉乳などのいわゆる「ララ物資」第一便四百五十トンに輸出許可が下りた.ララ救援物資第一便の出航は十一月七日にずれ込んだが,十一月三十日,横浜港に到着した.当時の太平洋航路の貨物便はそれくらいの日数を要した.この第一便到着を記念する「ララ記念碑」が横浜新港埠頭 (赤レンガ倉庫の北側の海岸道路) にある.
 
 私が調べた限りでは,ララ物資に関する詳しい記録研究は『日本が受けた恩-ララ物資を始めた人々』が現在安価に入手できる唯一の新刊書籍である.今日現在はAmazonまたは楽天のオンデマンド出版が利用できるが,残念ながら国会図書館あるいは公共図書館の蔵書にはないようだ.この書籍は,ララは米国のキリスト教慈善団体の活動であるとして,西海岸および東海岸在住日系人の祖国救援活動を全く無視して書かれているので,かなり問題のある本だが,ララ関係の文献が巻末に列挙されているので,その点では貴重な資料である.
 浅野七之助氏の自伝等の古書は,流通してはいるがかなり高価なため,研究者向けである.
 ともかく私の記憶では,第一便の物資は首都圏で配布されたと思われる.
 私の記憶とは,二十五年前に開設されたある個人サイトに書かれていたことである.
 
 今の中堅社会人諸兄は覚えておられるだろう,諸兄がまだ若かった二十五年前とはWindows95がリリースされた年である.
 Wikipedia【Microsoft Windows 95】から下に一部引用する.
 
ネットワーク機能の充実
 ビジネス分野でのLANの普及に対応し、ネットワーク設定の容易化を進めた。特に日本では、ネットワーク機能付きのWindows for Workgroup 3.11が販売されず、代替としてWindows NT Workstation 3.5が他国の販売価格と比較して安価に提供されていたが、ごく一部の先進的なユーザが導入するに留まっていた。そういった背景もあり、Windows 95は大きな期待を集めた。当初の戦略としては、LANはNetBEUIまたはIPX/SPX、WANはパソコン通信(ホストとしてはMSNの利用を想定)を利用すると位置付けていたが、前年の1994年頃よりインターネットでWWWの普及に弾みが付き始めたことに対応して、インターネットに必要な通信プロトコルのTCP/IPを選択することもできた。
 もっとも、ビル・ゲイツはインターネットの普及はまだ先であるとして、パソコン通信を前提としたネットワークを考えていた。それ故、Windows 95の初期バージョンには、インターネット関連の機能は搭載されておらず、別売りの「Microsoft Plus!」による拡張機能として、Internet Explorer 2.0(英語版はIE1.0)を提供していた。しかし、ビル・ゲイツはWindows 95発売後すぐに、自分の判断の誤りに気づき、OSR2以降ではインターネット関連機能が標準搭載されるようになった。すなわち、OSR2ではTCP/IPが初期状態で選択されており、Windows 95を使えばインターネットに接続できるというイメージ戦略も成功し人気に拍車をかけることになった。》(引用文中の文字の着色強調は,当ブログの筆者が行った)
 
 小学生でもスマホを持つ今の若い人たちは想像もできないだろうが,アナログ音声伝送の電話機にNECのコンピュータを繋ぎ,パソコン通信で交流していたネットワーカーたちは,Windows95が走るPC/AT互換機を自作して,ウェブになだれ込んだ.
 若かった私も,深夜に飽きることなくインターネットの海を徘徊した.
 そしてその中に,戦後の学校給食の思い出をつづった個人サイトを発見した.
 そのサイトを設置したのは,神奈川県藤沢市在住のネットワーカーだった.私よりもずっと年上である.
 そのかたは,初めて口にした給食は,小指の爪ほどの豚の脂身と油滴が少し浮いた塩味のスープであったと書いておられた.
 おそらくその脂身は,ララ物資第一便で横浜に到着したベーコンだった.いうまでもなく敗戦後の日本では民生用畜産業は壊滅していたから,庶民の口に入る豚肉はもちろん加工肉もなかった.それは太平洋を越えてサンフランシスコから横浜に贈られたクリスマスプレゼントのベーコンに他ならなかったのである.
 この九月の二日,学校に弁当を持参できない生徒のために,一日だけの給食が全国で実施され,GHQ放出小麦粉によるコッペパンが児童に配給された.また九日には生活保護法が公布されている.
 
 やがて年を越して昭和二十二年 (1947年) 一月,主要都市の約三百万人の児童にララ物資を使用した学校給食が開始された.
 二年後の昭和二十四年 (1949年) になると,ユニセフ (国連児童基金) から脱脂粉乳が贈られ,「ユニセフ給食」が行われた。
 昭和二十五年 (1950年),米国から小麦粉が贈られ,八大都市で完全給食が行われた.
 この完全給食は「ガリオア資金」によるものであった.もともとこの資金は1947米会計年度より支出を開始し,1951米会計年度の6月で打切られた.そのため日本の学校給食は中止の危機にさらされた.しかしこれに対し,国庫補助による学校給食の継続を要望する運動が全国的に展開された.
 昭和二十六年 (1952年),財団法人日本学校給食会が脱脂粉乳の輸入業務を開始し,ユニセフ寄贈の脱脂粉乳の受入配分業務も実施された.
 この(財)日本学校給食会,学校給食法,日本学校給食会法,都道府県の学校給食会 etc. の関係がかなりややこしいが,全国学校給食会連合会の公式サイトの《学校給食の歴史》に書かれている.
 上述した昭和館公式サイトや,Wikipediaの学校給食関係項目にもかなり誤りがある.辻褄が合わない点はこの全国学校給食会連合会のサイトをレファレンスとすべきである.
 
 話を元に戻す.
 学校給食の歴史的なことは上に紹介し,レファレンスも記した.しかし献立はどうであったか.
 実は『なつかしの給食』という労作があって,かなり高価な古書でしか入手できないのであるが,昭和三十年代後半以降の献立とレシピが掲載されている.私の手元にもあるが,残念ながら,団塊世代が体験した献立はほとんど載っていない.書かれているのは,日本の経済成長が軌道に乗り,学校給食が質的にも量的にも充実してからの献立である.
 それ故,礒部希帆さんのおばあさんが希帆さんたちに拵えてくれた「小麦粉でトロミをつけた野菜 (キャベツ) のスープ」はこの書籍にはレシピがない.
 そこで昨日,つまり昭和十六年の日米戦争開戦の日に,私はわずかなありあわせの野菜と薄切りのベーコンを刻み,塩胡椒で味をつけ,小麦粉で薄くトロミをつけたシチューを作ってみた.
 家庭料理の土井善晴先生は「具だくさんの野菜スープはそれだけでおいしいんです.他にお出汁をとる必要はありません」と仰る.
 実にその通りだと私も思うのだが,具だくさんではない貧相な野菜スープは,やはり頼りない味であった.
《家事ヤロウ!!!》の中で希帆さんは結局,キャベツロールを煮るスープにはコンソメの素を加えた.
 希帆さんのお父上は,そのスープをおいしいと言って飲んだ.希帆さんはとても嬉しそうであった.
 私も,コンソメの素で懐かしの野菜シチューの味を調整しなおして食べた.
 思い出は最高の調味料だと言われるが,それも場合によりけりであると思った.w

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