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2020年10月11日 (日)

「家人」の用例 /工事中

 この数日,四年以上も前 (2016年5月31日) に書いた記事《家人》にたくさんアクセスがあった.ココログのアクセス解析によると,Yahoo! 検索と Google 検索から来ている.検索語は不明.ページ・ビューは2,000を超えた.当ブログでは.一つの記事で2,000ページ・ビューを超えたのは初めてだ.
 推測するに,誰かが「家人」についてsnsにでもアップし,それを読んだ人が検索エンジンで「家人」を検索し,私のブログにやってきたのだ.しかし元の記事がなんなのか皆目わからない.
 おもしろいのは,Google検索の結果において,Wiktionray 日本語版の「家人」が私の記事「家人」と一緒に検索結果順位を上げたことである.
 その Wiktionary 日本語版の「家人」を下に引用する.
 
家人(かじん)
 家族。
  煙草の好きな某大学教授が、軽い肺尖カタルにかかった。煙草は何よりも病気にさわるというので、医者は禁煙か然らずんば節煙を命じ、家人たちもそれを懇望し、本人もその決心をした。(豊島与志雄『条件反射』)
 妻。
 召し使い。
(けにん)家来。
(けにん)御家人。
 六十四卦の一つ。卦の形はIching-hexagram-37.svgであり、離下巽上(りかそんしょう)で構成される。
 w:周易下経三十四卦の一覧#家人も参照。
 
 では,この辞書サイト Wiktionary が「家人」の語義を「家族」として,その用例に挙げている『条件反射』の文章を検討してみる.
 豊島与志雄は明治期の文学者で,小説の他に翻訳や児童文学の分野でも活躍した.
 用例の『条件反射』は随筆で,青空文庫に入っている.この作品は短い随筆だが,その全体は「煙草」「接客」「議会」「原稿紙」「襯衣の釦」「昆布茶」「病床」の七節からなっている.
 その中で「家人」が使われているのは「煙草」と「接客」であるが,この二節の用例の解釈に必要なので「病床」も以下に引用する.ただし引用文中の文字着色による強調は私が行ったものである.
 
煙草
 煙草の好きな某大学教授が、軽い肺尖カタルにかかった。煙草は何よりも病気にさわるというので、医者は禁煙か然らずんば節煙を命じ、家人たちもそれを懇望し、本人もその決心をした。ところが彼は、多年の習慣で、煙草の煙が濛々と立罩めた中でなければ勉強が出来ない。節煙の決心で書斎に坐っていると、うまいまずいの問題ではなく、殆ど無意識的に、いつしかやたらに煙草をふかしては、苦しい咳をしている。――然るに彼は、学校で、二時間の講義の間、煙草を吸いたいなどという気は毫も起ったことがない。教室では全然煙草を忘れてしまうのである。
 彼は嘆じて云う。「煙草を節するには、朝から晩まで立続けに講義をするか、或は書斎を教室に改造するかより、他に方法はない。」
 彼にとっては、教室で煙草を吸わないことと、書斎で煙草を吸うこととは、全く同一の条件らしい。
 
接客
 父祖数代江戸生れで、本当の江戸児――東京児――だということを誇りにしてる、老婦人がある。意地っぱりで気はしっかりしているが、数年来病弱で、始終医薬に親しみ、家の中でぶらぶら暮している。そして一度来客に接すると、態度から表情から言葉付まで、全く健康者と変りがなく、数時間の応対にも疲労の色さえ見せない。然し客が帰るや否や、気の張りが一時に弛んで、ぐったりと半病人の状態になってしまう。如何なる時如何なる来客に対しても、そうなのである。それが彼女の心身にどんな無理を来してるか、彼女自身でもよく分っていながら、どうにもならないのである。まして、家人の忠告など何の役にも立たない。
 野人の不愛想もさることながら、都会人のそうした性癖も困りものである。馬は死ぬまで立っている、と云ったら、彼女は快心の笑みを浮べるかも知れない。然し、芸妓は如何に心に屈託があろうともお座敷に出ては朗かに笑うものだ、と云ったら、彼女はどういう顔をするであろうか。
 
病床
 某夫人が感冒で寝ていた。八疊の室で、湯気、湿布、吸入。そして彼女は神経質に蒼ざめて、陰欝にしおれ返っていた。それが気になるので、再び見舞に行ってみると、病室が代って、日当りの悪い六疊になっている。而も彼女は、床の上に坐ってけろりとしている。そして云うのである。「この室に代って、大変気持がいいんですのよ。あちらに寝てると、今にも死にそうな気がして……。だって、屹度あの通りの寝方で死んでいった人があるに違いありません。」
 考えてみると、そういう五六室の家では、病人は屹度あの室にああいう位置に寝るに違いない。そしてその古い貸家では、幾人か病人も出来たことだろうし、そのうちには、あの位置で死んでいった人もあるに違いない。それをふと、神経質な彼女は自分の身に感じだして、堪まらなくなったのであろう。
 想像上の条件反射ということがあり得るならば、自我主義の潔癖な彼女は、或は、生きながら死を経験したかも知れない。
 
 まず緑色に着色強調した「婦人」と「夫人」の区別から始めよう.
 いうまでもなく『条件反射』の読者は,明治の作家である豊島与志雄はこの二つを区別していることに気が付く.
 今時の若い人はもう,古臭い印象を与える「婦人」とか「夫人」を使い分けて文章を書くなんてことはいないと思う.テレビ番組では,デヴィ夫人を単に夫人と言っている.w
 それはさておき,《接客》中の「老婦人」は寡婦である.夫が存命なら,明治の女が《家の中でぶらぶら暮している》はずがない.あれこれ忙しく夫の世話を焼くのが,この時代の女性の,家庭内の役割だったからである.
 もし夫が存命なら,豊島与志雄は彼女を老夫人と書いたはずである.それは《病床》で「某夫人」と書き分けていることでわかる.豊島は,その女性に夫がいることを「夫人」と書くことで読者に知らしめているのである.
 以上を踏まえて,考察する.
接客》中の《家人の忠告など何の役にも立たない》とある「家人」とは誰か.
 そもそも明治時代の「家族」とは何か.現代では

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