« 袋入り麺の今昔 | トップページ | 旅館の陳腐な夕食 »

2020年8月21日 (金)

家事をヤロウ

 家事といっても料理のことである.その点で,バカリズムやカズレーザーや中丸君と意見は一致している.
 私の性格の場合,一番めんどくさいのが掃除である.というのは,私はモノに囲まれているのが幸せなのである.必然的に,身の回りはモノだらけで,非常に掃除しにくいことになっている.
 次は洗濯だが,これは洗濯機が勝手にやってくれるので,家事のうちに入らぬ.各種のゴミを集積所まで持っていくのも,必ずいかねばならぬのは週に二回の不燃ゴミ (廃プラ) と可燃ゴミ (生ゴミなど) の日だけで,これはそれほどいやでもない.散歩にもなる.
 掃除よりも料理はずっと好きであり「好きこそものの上手なれ」の結果,そこら辺のスーパー惣菜程度のものは作れる.

 さて都市部の居酒屋や飯屋に閑古鳥が鳴いているというが,コロナ禍のせいで「おうちごはん」が流行し,みんなが自分で好きなものを作って食うことに覚醒したのであろうと私は思う.
 料理というものは,馴れだ.なんの才能もないニイチャンが修行することもなく,業務用食材を混ぜたり加熱したりしてデッチあげた「料理」なんぞ,一度食えば私たちはすぐに自分で同じものを作れるようになる.
 さらに言えば,昔から継ぎ足し継ぎ足してきた名店の秘伝のタレなんてのは,都市伝説だ.そんな秘伝のタレなんぞすぐに新陳代謝してしまうインチキであることは高校数学程度の知識でわかってしまう.嘘にだまされず,テレビの人気番組《家事ヤロウ》を毎週観て,自分の食うものは自分で作ろう.それが一番安全で安心だ.食べ歩きの「まいうー」や「宝石箱やー」より,料理初心者バカリズムが自分で作って食う「うまいよーうまいよー」の方が役に立つ.
 
 ところで先日の《家事ヤロウ》で,ホットサンドメーカーを使って「焼きおにぎらず」を作っていた.一般人の考案である.
 焼おにぎりは,きちんと昔風に自作すると,表面が香ばしくパリッと醤油味に焼けて,中は白いほかほかの飯であり,非常においしいものだが,作り方は少々めんどくさい.しかし市販の冷凍食品は「なんじゃこれは」という程度のものしか世に出ていない.製造工程の都合で,要するに醤油味の炊き込み飯を型に入れて加熱しただけであるから,フニャフニャしているし焦げた醤油の香りもなく,明らかにまずい.
 だが,ホットサンドメーカーを使えば,好みの香ばしさに焼き上げることができるし,にぎる手間は要らなくて簡単だ.
 誰が考案したのか知らぬが,この放送を見て私はアッと驚いた.この工夫には全く気が付かなかった.
 ただし放送で作った「焼きおにぎらず」は冷凍食品の焼きおにぎりに近いものだったが,刷毛で醤油を塗りながら焼く正しい昔風の焼きおにぎりも必ずできるはず.
 
 この番組の影響力は侮りがたい.「おうちごはん」流行のおかげで,そこら辺の低レベルの飯屋は,閑古鳥が鳴いても仕方あるまいと思わせるほどだ.
 好きこそものの上手なれ.一般人がすごくうまいものを作ってネットに発表する時代になったのだ.みんながそこそこ料理をできるようになり,自分の食べたいものを自分で作って食べる時代が来る.そうなったら,繁華街のビルに入って家賃をン百万も払っているから客単価を高く設定せざるを得ず,しかしコストダウンのために業務用食材を多用するせいで,料理好きな一般人が作る家庭料理以下のものしか出せぬ店は,どんどん淘汰されればいいのである.自治体はそんな店に二十万円程度の営業自粛補償金なんか出す必要はない.そういう店は潰れても一向に構わぬ.
 今の日本に必要なのは,消費システムではない.生産人口だ.テレビの報道によれば,東南アジアからの技能研修性が来日できなくなったせいで,各地で野菜や果実の収穫がままならなくなっている.つまり,ただでさえ食料自給率が低い我が国であるのに,国内の農業従事者が必要なだけ存在しないのだ.日本がこの問題を解決するためには,このコロナ禍を機に,食糧消費に偏った社会の状態から,食糧・食料を生産する産業へ,政策的に労働人口を移動する必要がある.それが高齢社会日本の食料自給率向上と国際社会における自立につながる.我が国は戦後,農村から都市へ労働人口を大移動させ,これによってその後の経済成長の基礎とした.六十年経って,その逆のことが必要な時代がきた.
 首都圏や関西圏,あるいは北海道,九州などの都市部では飲食店が異様に多い.
 私がまだ若かった昭和四十年代,日本の外食産業は黎明期 (日本最初のファミレス「すかいらーく」とフライド・チキンのKFCの開業は共に昭和四十五年で,この年は外食元年と呼ばれた) だった.従って日本人の食生活は基本的に家庭内食 (内食) だった.
 やがてファミレスとファスト・フードは日本に定着して外食は日常的なものとなった.
 次いで昭和五十年代にコンビニが登場すると,コンビニやスーパーの食品を買って家で食べる中食が外食を圧迫し,外食産業は競争激化により不振業種となった.
 外食産業の現在は水膨れである.店頭に「このままでは潰れてしまうから来店してください」旨の社長メッセージを貼りだすような いきなり ステーキ店がほんとに私たちに必要なのか.なくてもいい店だから客が来ないのではないのか.
 この種の本来は存在価値のない飲食店が,流行を作り出すことで繁華街に蔓延していることすらある.例えば,小さな商店街に三つも四つもタピオカ・ドリンクの店がほんとに必要だろうか?
 このコロナ禍は,私たちの生活に必要なものと本当は不必要なものを明らかにした.このまでは日本はジリ貧だ.消費から生産へ,労働人口を,我が国にとってあってもなくてもいい不必要な分野から,絶対に必要な分野へ移動する断捨離が必要なんだろうと私は思う.ホストやキャバ嬢を農村へ
 このコロナ禍下の政策としては,飲食サービス分野では,我々一般人にはとても作れぬものを提供する店だけに,行政は一千万でも二千万でも長期返済の無利子貸し付けをしてくれればいいのである.あるいは気さくな夫婦が二人でつましく商売している小さな食堂に手を差し伸べて欲しい.売り物の味ではなく値段が高いがゆえに客が列をなすバブリーな店は,この際だから外食マーケットから撤退させるべきである.
 一方で,残るべき価値のある飲食店を消費者は見捨てない.日本に定着するかどうかよくわからないと私は思っていたフード・デリバリー・サービスが,若い世代の消費者に強く支持されたのである.
 それまで,鮨とかピザなどの狭い範囲に限定されていた「出前」を,この新しいサービスは一気に拡大した.確かにかなり割高にはなるが,食事に費やされる「時間」をコストに織り込むなら充分に元が取れると若い人たちは言う.その通りだろう.高齢者でも,コロナ感染リスクを避けたい人たちはこのサービスに魅力を感じるに違いない.そして内食→外食→中食へと変化してきた戦後七十五年の日本の食シーンを,コロナ禍は「自分で料理する」と「新しい出前」に再編成するかも知れないと思う.
 
 全くの余談だが,少し前に藤沢駅ビルに入っているスーパーのクイーンズ伊勢丹でマカロニ・サラダを買った.掌に載るほどの小さなパック入りで,七百円以上もする.とんかつ和光のロースカツ弁当よりも高い.この値段からすると,どんなに旨いものだろうかと期待したのだ.
 しかしすぐに,私は値段に騙されるお人よしであることが判明した.帰宅して晩酌の肴にしたら,異常に塩っぱい.とても食えたものではなかったのである.
 驚いて子細に点検したところ,キュウリの小口薄切りを塩もみしたあと,全く水気を絞らずに加えたものだと判明した.
 つまりこのマカロニ・サラダを製造した小田原の田中屋本店は,料理にズブの素人である作業員が作った商品を,味見せずに出荷しているのだ.まことにふざけた話である.田中屋本店の惣菜は,家庭料理以下だ.こういう業者は惣菜マーケットから退却すべきだ.
 私たち高齢者はあと十年も生きればオンの字だ.山田風太郎は晩年に『あと千回の晩飯』を書いた.風太郎のように私たちも毎度の食事を大切にしよう.こんなもの (↓) にお金をだすなら自作しよう.
「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と絡んだ根性曲がりジジイのことは別として,ポテトやマカロニのサラダは,そんな難しくないぞと若いママさんたちに言いたい.田中屋に騙された私は声を大にして言う.高い値段を付けて消費者をだます田中屋本店の例もあるからサラダは自分で作ろう.自戒を込めてそう書く.
 
2020072801

|

« 袋入り麺の今昔 | トップページ | 旅館の陳腐な夕食 »

新・雑事雑感」カテゴリの記事