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2020年4月27日 (月)

疫病にて人の死に行く

 NHK教育《日曜美術館「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」》[放送日 2020年4月19日] は良質のコンテンツだった.
「疫病をこえて」はまず国宝法隆寺金堂釈迦三尊像から語り始めた.
 
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(法隆寺金堂釈迦三尊像;パブリックドメイン,Wikimedia Commons File:Shakyamuni Triad Horyuji2.JPG)
 
 国宝法隆寺金堂釈迦三尊像は,聖徳太子 (番組の中では厩戸皇子ではなく聖徳太子と呼んだ;下記の[*註1]を参照のこと) 逝去の翌年に止利仏師が造ったとされる.蓮弁形光背の裏面には造像の由来についての銘文が記されている.Wikipedia【法隆寺釈迦三尊像】からその銘文の大意を下に引用する.
 
西暦621年にあたる年の12月、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女が死去。翌年(622年)正月22日には太子も病に臥し、膳妃も看病疲れで並んで床に着いた。これを憂いた王后王子等と諸臣とは、太子の等身大の釈迦像を造ることを発願。太子の病が治り、長生きすることを望み、もしこれが運命であって太子のこの世での寿命が尽きるのであれば、極楽浄土に往生されることを望んだ。しかし、2月21日に膳妃が、翌日に太子が相次いで亡くなった。所願のとおり623年3月に釈迦像、脇侍像と荘厳具(光背や台座)を造り終えた。作者は司馬鞍首止利仏師である。
 
 このように聖徳太子本人,母と妻の三人が倒れた病は,諸説はあるが,天然痘 [*註2] だとするのが定説である.すなわち日本仏像美術の源流である法隆寺釈迦三尊像は,ウイルスの流行による災厄から生まれたのである.
 天然痘は,わが国には六世紀に中国・朝鮮半島からもたらされた.初めて天然痘に感染した人々は激甚な被害を受ける.人口の半分を失う可能性があるのだ.人はそれくらい大きい被害の代償として集団免疫 [*註3][*註4]を獲得するのだが,その効果は長持ちしない.人は,飢饉や大災害がないとしてもやがて寿命が尽きて死に,人口が未罹患の世代に交代すると集団免疫は失われる.こうして天然痘は繰り返し繰り返し人類を襲い続けた.世界史的にはローマ帝国で数百万人が死んだ.北米には部族が全滅した先住民があった.中南米ではアステカとインカの二大帝国が滅んだ.極東の小国日本が天然痘ウイルスに滅ぼされなかったのは,六世紀半ばのエピデミック [*註5] に,ある程度の人口が生き残ったからである.
 
[*註1] Wikipedia【聖徳太子】から一部引用.何年か前のテレビ番組で「現在の中学・高校の教科書には聖徳太子という名称はなく,厩戸皇子と書かれている」と放送されたのを観た覚えがあるが,今はさらに,厩戸皇子という人名もなくなったようだ.(下の記述を参照のこと)
歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)》(引用文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)
[*註2] Wikipedia【天然痘】から一部引用.
日本には元々存在せず、中国・朝鮮半島からの渡来人の移動が活発になった6世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた。『日本書紀』には「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)。585年の敏達天皇の崩御も天然痘の可能性が指摘されている。
[*註3] Wikipedia【集団免疫】
[*註4] NATIONAL GEOGRAPHIC 日本版《感染症の「集団免疫」対策 なぜ英国は撤回したのか?》[掲載日 2020年4月12日]
[*註5] epidemic エピデミック (流行) は,特定のコミュニティ内で特定の一時期に感染症が広がること.(Wikipedia【パンデミック】)
 
 八世紀頃になると,中国から追儺 (ついな) の行事が宮中に伝わり,新年 (立春) の前日である大晦日に行われて年中行事化した.
 その当時は,疫病を目にに見えない鬼に見立てて,陰陽師らが鬼に供物を捧げ祭文を読み上げたあと,鬼を門外に追い払うという形であったが,
やがて九世紀になると鬼の扮装をした者を追い払うという仕方になり,鬼が可視化されるように変化した.
 平安時代 (十一世紀頃) には,宮中以外でも公家や陰陽師などが追儺の行事をする者が増え,各地の寺社でも節分の行事として行われるようになった. 
 
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(融通念仏縁起絵巻)
 
 上の画像は融通念仏縁起絵巻の一場面である.十四世紀に原本が描かれたこの絵巻は,平安時代後期の天台宗の僧で融通念仏宗の開祖である良忍の事績と念仏の功徳を説いた説話を描いている.番組で紹介された画像は清涼寺本といい,室町時代の制作で重要文化財.
 ここでは,
とある屋敷に人々が集まって念仏を唱えている.右半分は屋敷と人々.左側を拡大したのが下の画像だ.いずれも《日曜美術館「疫病をこえて 人は何を描いてきたか」》の画面を撮影したもの.

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(部分拡大図)
 
 上の拡大図で,屋敷に押し掛けているのは鬼だ.妖怪や物の怪ではない.この鬼たちは疫病,おそらく天然痘である.
 門のところで鬼たちに応接しているのは,この屋敷の主人か家来か不明だが,念仏を唱えに集まった人々の名が記された巻紙を渡している.
 すると鬼の一匹が,名簿にある名に印を書き入れる.この印は,現代の言葉でいうと「抗体ができた」という意味で,もう疫病には罹患しないということになる.これが念仏の功徳である.仏の御加護があるから,人々は密集・密接しているが感染リスクはないのだ.
《日曜美術館》の解説によれば,疫病を鬼の姿に仮託したのは,目に見えぬものへの恐怖からだという.
 確かに,災厄にもいろいろあるが,地震や台風などの災害は一過性だし,特定地域の人口の半分が失われる事態は考えにくい.旱魃や冷夏で飢饉が起きて,たくさんの人々が餓死するにしても,空腹という体感があるから死ぬ理由がわかりやすいかと思われる.
 ところが疫病は違う.目には何も見えないのに,人々が高熱を発して倒れ,全身に膿疱が生じて死ぬ.そして病人死人の周囲に伝染流行し,次々に人々が死んでいく.一家が皆死ぬ.一村が全滅する.恐怖にかられて山に逃げて隠れるも,やがて発症して死ぬ.あるいは飢えて死ぬ.
 まるでこの世の地獄なのに,目には見えぬ.死ぬ理由がわからぬ.これほどの理不尽があろうか.
 そこで絵師たちはその恐怖を鬼の姿に描いた.それは疫病死というものを理解するのに少し役に立ったかも知れない.
 
 しかし,新型コロナウイルス感染症流行の只中にいる私たちには,赤い鬼や青い鬼には恐怖が感じられない.
 そこで昨今のテレビの,新型コロナウイルスを取り上げる情報番組,報道番組において,必ず登場するのは鬼ではなく電顕写真だ.
 
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(アメリカ疾病予防管理センターが作成した新型コロナウイルスの外観図;パブリックドメイン,Wikimedia File:SARS-CoV-2 without background.png)
 
 上の図はCGだが,テレビ番組で毎日目にするので今や誰でも知っているのは透過型電子顕微鏡で撮影された画像だ.これは東京都健康安全研究センターのサイトに数葉の電顕写真が掲載されている.このうち,特に《細胞表面から出芽する新型コロナウイルス粒子を走査型電子顕微鏡にて撮影。(出芽の様子を見やすくするためにウイルス粒子をコンピューター上で青く着色しています)》はおぞましい.現代の悪鬼だ.
 パチンコ屋で呆けたように玉を打ち続けている愚か者たちはもう手の施しようがないから捨て置くとして,単に頭が悪いだけの故に,幼い子を連れて気晴らしに商店街を散歩したり,あるいは公園に集まっている若い人たちには,この電顕写真を見せてあげたい.あなたの体はこのようにして蝕まれるのだよと.彼らはウイルスを我が事として実感できていないのだ.だから,何とかして疫病の恐怖をわからせてあげたい.でも自分が感染するまではわからないだろうが.
 
 七世紀,法隆寺に釈迦三尊像を祀った人々は,天然痘で人が死ぬことを悪鬼の仕業ではなく,神罰あるいは仏罰と理解したようだ.
 それは自らの業であるから,静かに受容するしかなかったであろう.
 
 聖武天皇の御代に伊吉宅麻呂という者がいた.天平八年四月に遣新羅使の随行員として大使・阿倍継麻呂らと出航するが,現在の周防灘で嵐に遭い,漂流の末に豊前国下毛郡に漂着した.その後,宅麻呂は壱岐島まで渡るがここで疫病にかかり卒去した.
 宅麻呂への,作者不詳の挽歌が万葉集第15巻の歌番号3688番に採られている.
 
天皇の遠の朝廷と 韓国に渡る我が背は 家人の斎ひ待たねか 正身かも過ちしけむ 秋去らば帰りまさむと たらちねの母に申して 時も過ぎ月も経ぬれば 今日か来む明日かも来むと 家人は待ち恋ふらむに 遠の国いまだも着かず 大和をも遠く離りて 岩が根の 荒き島根に宿りする君

 秋になれば帰ってきますと母に告げて旅立ったけれど,月日が経っても新羅の国に到着せず,また故郷の大和にも帰らず,君はかの島に眠ったままなのか,と作者は悼む.
 この歌で「家人の斎ひ待たねか 正身かも過ちしけむ」は,疫病を鬼として捉えていない天平の世の時代性を表している.「家人」は「いえびと」と読む.後世の用例とは異なり,妻だけでなく一家の人たちと解する.「家の人たちの祈りが足りなかったのであろうか,あるいは本人に落ち度でもあったのか」ほどの意だろう.疫病死の原因を人の側に求めて受容するのである.死がまことに身近で,抗い難い
時代における諦念と言っていい.それだけに一層,「今日か来む 明日かも来むと 家人は待ち恋ふらむ」が切ない.
 
 現代の私たちは多くの場合,何の咎もない人が感染症で命を落とすことを受容しない.
 だが受容しようと説く少数の者は,人命と経済はバランスをとらねばいけないと言う.
 彼らは,感染症で死ぬ命と,不況で自殺する命は等価である [*註1] [*註2] と言う.感染症による死者を減らしても,日本経済が破綻して自殺する人が増えたら意味はないのだから,つまりは両者の死亡者合計で考えればいいのだと主張する.
 そんなことがあるものか.
 不況下の自殺は,防ぐことができる.人が経済的理由で自殺するのは,政治が彼らを救わないからだ.
 しかしワクチンも治療薬も存在しないステージの感染症死は,致死率という確率に従って生じる.防ぐことができない.
 死というものは数ではない.一人ひとりの人生と死は,一人ひとり異なる.そのことに目をふさぎ,死んだ人間の頭数でしか人の世を見ることのできない人間には,大和田獏さんが妻の遺骨を胸に抱いて振り絞った「悔しくて悲しいです」を,我が事として胸の底にしまうことは遂にできないであろう.
 
[*註1] サンスポ《三浦瑠麗氏、政府に苦言「コロナで死ぬ命と経済で死ぬ命は等価」「経済が死んだら終わり」》[掲載日 2020年3月15日 14:54] から一部を下に引用.
私達がどんなにうまく自粛したり、休校措置に対する対応を頑張っても経済が死んだら終わり。それは経済vs命ではなく、命vs命。コロナで死ぬ命と、経済で死ぬ命は等価なんです。
 
[*註2] 文藝春秋digital《「新型コロナウイルス」で事態を悪化させるメディアと野党|三浦瑠麗》[掲載日 2020年3月9日 16:30] から一部のスクリーンショットを下に引用.
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 ミュージシャンやアスリートやノーベル賞受賞者や,無名の市民たちが,危機感を持ってこの難局を乗り越えようとメッセージを発しているときに,三浦瑠麗は「危機感の感度を下げて日常生活に復帰しよう」と説く.安倍晋三ですら,そんなことは言わない.言っているのは三浦瑠麗と堀江貴文の二人である.
 
[補遺]
 飛騨地方には「さるぼぼ」というお守りが伝えられている.これは伝統的には赤い色の布で作るが,赤は天然痘除けの色であるという.
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