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2020年1月 3日 (金)

昭和三十八年のクリスマス

 記憶が定かではないのだが,たぶん昭和三十八年の十二月二十四日のことだ.
 当時の私は中学校で新聞部の部長をしていて,新年号の編集などで忙しく,帰宅したのは家族が皆,夕食を済ませたあとだった.
 デコラ天板に折り畳み脚を付けた食卓 (卓袱台の一種だが,星一徹が愛用した円形の木工製品でニス塗装のものより新しい.高度経済成長期に登場して全国に普及した) の上に,見たこともない妙なものが皿に載っていた.
 
 このブログでは毎度のことだが,話は冒頭から横道に逸れる.下の画像にあるのが,二尺五寸径の卓袱台 (ちゃぶ台と書くのがいいかも) だ.
 下の画像は,林芙美子の絶筆『めし』を原作にして映画化された成瀬巳喜男監督作品『めし』の一場面である.(Wikipedia【めし】)
 この作品は原節子上原謙の主演で昭和二十六年 (1951年) 十一月に公開された.上原謙 (加山雄三の父) は大スターだったが,今では知名度の点で原節子の陰に隠れてしまい,『めし』は原節子主演とだけ紹介されることがある.
 
Photo_20191224031301
(映画『めし』昭和26年の一場面;パブリックドメイン,File:Setsuko Hara in Meshi.jpg from Wikimedia)
 
 で,上の画像は朝食の場面だが,ちゃぶ台の上を見てみよう.粗いモノクロ画面なのでよく判別できないが,蓋付きの小鉢はたぶん佃煮か何かだろう.それと漬物の小鉢と醤油皿.醤油差しと急須が載っている.弁当箱とおかず入れは夫が会社に持っていくものだ.
 この場面の直前に,原節子が,飯を炊いた鍋から飯茶碗に飯を盛るシーンがある.原節子は飯のにおいを嗅ぎ,「外米が少し匂うかしら」と言う.
 なにしろ邦画でも洋画でも,今と違って録音音声が劣悪な時代だ.私よりも一世代若い人はこの映画を観ても,原節子の台詞が聴き取れないかも知れない.そもそも「外米」というものを見たことがないから,「○○が少し匂うかしら」の「○○ってなんだ?」というわけだ.外米の匂いを知っているのは,いやそれどころか「外米」という言葉自体を知っている人々も,もうみんな後期高齢者になったのである.
 国語辞典のリファレンスたる日本国語大辞典は「外米」を「国外から輸入した米。外国米」としているが,これは誤りである.「外米」は単なる外国産米ではない.太平洋戦争の戦前から戦後しばらくの間まで,東南アジアから輸入されたインディカ種を指す.似たような言葉に「外地米」があるが,「外米」と「外地米」は別物である.
 人気作家の宮部みゆきさんと,「歴史探偵」を自称する作家の半藤一利との対談『昭和史の10大事件』(東京書籍,2015年) 初めの辺りに次のようなやり取りがある.
 
宮部 昭和一桁生まれの両親と話していると、あ、この世代の人たちは苦労したんだなと、ぽっと感じることがあります。
 半藤 たとえば、どういうときに?
 宮部 平成五年かな、お米が穫れなかった年がありましたよね。タイ米を大量輸入して、まあ何とかみんなで食べましょうって。そのときに母がね、「べつにいいよ。お米が買えないんだったら、パン食べてもいいし、うどん食べてもいいし、かまわないよ。そんな遠くまで買いに行かなくても。」なんて言っててね。「でも、お母さん、外国のお米だっておいしいんだよ」と言ったら、「いいえ。私は内地米が食べたい」と言ったんですよ。内地米!?と思って。その言葉に、うちの母は昭和九年生まれなんですけど、ああやっぱり感覚的にはそんな時代の人なんだなって。
 半藤 外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ。
 
 宮部みゆきさんの母上の言葉「内地米」は,戦前・戦中においては本州,四国,九州で生産された米を言う.北海道産米は生産量が非常に少なく,しかも食味が劣悪だったことから,一般には「内地米」として流通はしなかった.北海道産米が庶民の食卓に現れたのは1988年の「きらら397」まで待たねばならなかったのである.余談だが,北海道でもうまい米が作れることを実証した「きらら397」のデビューは華々しかった.記憶にある高齢者は多かろう.
 時代によるが,本州,四国,九州を「内地」と呼び,北海道を「外地」としたこともある.しかし先の戦争の戦前から戦中にかけて,日本統治下の朝鮮と台湾および樺太が「外地」と定義された.樺太は稲作不能地であるから,「外地米」とはすなわち朝鮮産米と台湾産米のことである.我が国の農業・食糧史の文献や統計資料を読む際には,このことを知っておかないと,読み誤る.
 
 上に引用した宮部・半藤対談で,半藤一利は《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ。》と述べているが,これは大嘘のコンコンチキ.半藤一利はトンデモ歴史作家の出口治明との対談 (『世界史としての日本史』,小学館新書) で,出口治明と一緒になって戦後生まれの世代を無教養だと罵っているが,その半藤こそ「外地米」と「外米」の違いも知らないのである.戦前生まれのくせに無教養も甚だしい.流行語なら“How dare you !”だ.
 実は半藤は二重の間違いを犯している.一つは「外米」を「外地米」のことだと思い違いをしていること.「外地米」は日本語として間違いではないが,用例はほとんどない.普通は「外地米」と一まとめにせず,区別して「朝鮮米」「台湾米」と分けて呼んだからである.下に資料を一つ挙げる.
 海野洋氏 (公益財団法人農林水産長期金融協会専務理事) の講演《「開戦・終戦の決断と食糧」について ―軍・外地を含めた大日本帝国として― 》に次の表がある.((出典:公益財団法人日本農業研究所『農業研究』(別冊) 第4号 平成28年度日本農業研究所講演会記録)
 
○仏印・泰からの米輸入
   内地の米需給     (単位:万石)
----------------------------------------
米穀年度      昭和14    昭和15
----------------------------------------
前年度持越高     849     406
前年産米実収高   6,567    6,896
朝鮮米        569      40
台湾米        396     278
内外地合計     8,402    7,620
輸入米         16     799
供給合計      8,417    8,419
----------------------------------------
輸移出高        77      94
消費高       7,934    7,889
うち 農家保有   2,946    3,023
   軍民需配当  5,021    4,786
需要合計      8,011    7,983
----------------------------------------
翌年度持越高     406     436
 
 ここで上表についていくつか註をつけておく.
1. 仏印はフランス領インドシナ (現在のベトナム・ラオス・カンボジアを合わせた領域)
2. 泰はタイ.
3. 米穀年度は前年11月1日から当年10月31日まで.
4. 統計数値は海野氏の労作『食糧も大丈夫也 開戦・終戦の決断と食糧』(農林統計出版,2016年) に詳しい.
 
 上に述べたように,上表でも外地 (朝鮮,台湾) から輸送された米は「朝鮮米」「台湾米」と明記されている.
 それとは別項目として表に書かれている「輸入米」とは何かというと,これがすなわち「外米」であり,表のタイトルに「仏印・泰からの米輸入」とあるように,フランス領インドシナとタイから輸入されたインディカ種である.
 ちなみに,朝鮮米はジャポニカ種であった.台湾ではジャポニカとインディカの両方が栽培されていたようだが,日本に搬入されたのはジャポニカ種であった.日米開戦前,インディカ種の米は,日本人に普通の人間の食い物ではないと見下されていたからである.(夏目漱石『抗夫』,青空文庫) また,満州国では,統計には米の生産実績がなく,従って輸入統計にも満州国の産米はない.
 さて,半藤一利は『昭和史の10大事件』で《外地米しかなかったからね。外地米というのは色が黒くて細長いんだよ 》と述べた.これは,半藤が「外米」という昭和史の基本用語を知らないことを示していると同時に,明治から昭和に至る戦争の世紀における最重要用語である「外地」という言葉の意味も知らないことを赤裸々にしている.自称「歴史探偵」が聞いてあきれる.
 だが半藤一利の無知を深掘りするのはやめて,映画『めし』に戻ろう.
 現在,私たちが通販で入手できるインディカ米は,いわゆる「香り米」の範疇に属する良品質のものである.これを本来の調理方法である「湯取り法」で調理してチャーハンにでもすればアジア風味あふれる旨い飯になるのだが,明治維新から昭和の戦後まで,東南アジアからインディカ米を輸入し続けてきたにもかかわらず,日本人はインディカ米を受け入れようとはしなかった.上記の漱石『抗夫』には次のようにある.
 
自分はこの声を聞くや否や、いきなり茶碗を口へつけた。そうして光沢(つや)のない飯を一口掻(か)き込んだ。すると笑い声よりも、坑夫よりも、空腹よりも、舌三寸の上だけへ魂が宿ったと思うくらいに変な味がした。飯とは無論受取れない。全く壁土である。この壁土が唾液(つばき)に和(と)けて、口いっぱいに広がった時の心持は云うに云われなかった。
「面(つら)あ見ろ。いい様(ざま)だ」と一人が云うと、「御祭日(おさいじつ)でもねえのに、銀米(ぎんまい)の気でいやがらあ。だから帰(けえ)れって教(おせ)えてやるのに」と他(ほか)のものが云う。
「南京米(ナンキンめえ)の味も知らねえで、坑夫になろうなんて、頭っから料簡違(りょうけんちげえ)だ」
とまた一人が云った。
 自分は嘲弄(ちょうろう)のうちに、術(じゅつ)なくこの南京米(ナンキンまい)を呑み下した。一口でやめようと思ったが、せっかく盛り込んだものを、食ってしまわないと、また冷かされるから、熊の胆(い)を呑む気になって、茶碗に盛っただけは奇麗(きれい)に腹の中へ入れた。全く食慾のためではない。昨日(きのう)食った揚饅頭(あげまんじゅう)や、ふかし芋(いも)の方が、どのくらい御馳走(ごちそう)であったか知れない。自分が南京米の味を知ったのは、生れてこれが始てである。》(当ブログの筆者による註;斜体文字は本文で,小括弧の中はルビである)
 
 この『抗夫』は明治四十一年の元日から朝日新聞に連載された作品であるが,引用文中に「南京米」とあるのが東南アジアから輸入したインディカ米である.この用例に見られるように明治以来ずっと「南京米」がインディカ米の呼称であったが,戦前の昭和になって「外米」と呼ばれるようになる.
 戦後生まれの世代には理解しにくいことだが,日本人の米に対する感情は信仰に近いものがあった.米飯は銀 (シロガネ) であった.
 ところが明治になって,次第に米不足が深刻度を増した.増える人口に食糧生産が追い付かなくなりつつあった.そして二十世紀に入ると日本は米の恒常輸入国となった.これに対処するに,米を輸入していたのでは国際収支の悪化を招く.そこで日清戦争の結果,下関条約 (明治二十八年) によって台湾を清朝からもぎ取ったあと,日本は台湾に農業をアウトソーシングしようと図った.従来から台湾ではインディカ米が少量生産されていたが,台湾総督府は日本人の味覚に合う品種「蓬莱」の開発を行い,水稲二期作栽培技術も確立して,内地の米不足に対処したのである.
 明治四十三年には大韓帝国を併合して,朝鮮総督府の統治下に置いた.朝鮮総督府は朝鮮産米の増産を試みたが,失敗に終わった.これについてはWikipedia【朝鮮産米増殖計画】に次のように書かれている.
 
この間、土地改良や水利改善によって生産性の向上はあったものの、その反面大地主への土地集積や融資の返済に苦しむ中小農民の苦悩の深刻化、更には日本本土への米の移出増大を達成するため(および不況下での現金収入のため)に却って朝鮮半島における1人あたりの米消費量が減少する(その多くは半島住民の米獲得が困難になったことによる)など、朝鮮総督府の目論見には程遠いものであった。
 
 結果として,日本は朝鮮半島住民の米を収奪したのであった.食いたいものが食えない「食い物の恨み」は日本人でも韓国人でも同じだ.現下の徴用工問題と慰安婦問題のずっと前に,既に日韓の軋轢の種は撒かれていたのである.
 こうして,植民地とした朝鮮で米を作って日本に移出し,これによって内地の米不足に対処しようとした日本政府の目論見は外れたのだが,米増産計画が破綻して数年後に朝鮮半島を大旱魃が襲った.
 上に掲載した表「仏印・泰からの米輸入 内地の米需給」を再度見てみよう.昭和十五年の朝鮮産米が激減し,輸入米が激増していることがわかる.これは昭和十四年にの旱魃が朝鮮半島で起きた結果である.旱魃で大凶作になった原因を知って日本政府は驚いたに違いない.日本ならまるで江戸時代の話のようである.朝鮮は稲作に必要なインフラ (水利) の整備が不十分で,旱魃に見舞われるとひとたまりもないのであった.これでは安定的に内地用の米を供給する植民地として朝鮮を使えないことがわかった.
 昭和十五年産米は朝鮮米の代わりにインディカ米
輸入でしのぐとしても,その後の見通しが立たない.日本人はインディカ米を蔑んでおり,恒常的にインディカ米を日本国民が受け入れないことは自明のことだったからだ.
 既に紹介した海野洋『食糧も大丈夫也 開戦・終戦の決断と食糧』の第一章,第二章は, こうして十四年の旱魃がフランス領インドシナ,タイへの侵攻へと繋がっていった経緯を述べている.記述の中でも,『昭和天皇実録』にない天皇の振る舞い
が書かれているのが注目される.
 中国は,作付の大半はインディカ種であるが,ジャポニカ種も少し生産されている.そして,そのジャポニカだけで日本の米生産量を上回る.中国は世界最大の米生産国なのだ.日本が大陸中国のジャポニカ米に食指を動かしたのは当然のことであった.日本が太平洋戦争に突入していった理由として生産資材を求めたことがよく挙げられるが,食糧つまり米の問題もそれに勝るほどの原因だったことが,本書によってよく理解できる.
 当時の日本人のジャポニカ米に対する感情はほとんど信仰であった.それもかなり偏狭な信仰だ.
 昭和十年代,戦前の日本人がインディカ米の食文化を受容していたら,その後の昭和史は今と違うものになっていたかも知れないと私は思う.
 しかし歴史にイフはなく,日本人のインディカ米嫌いは一向に変わらず,差別的ニュアンスを持つ「外米」という言葉と共に敗戦後にまで持ち越された.
 
 戦争が終わった1945年 (昭和二十年) 8月30日14時5分,専用機「バターン号」のタラップから厚木基地に降り立ったマッカーサーは,当面の宿舎を横浜の「ホテルニューグランド」とし,接収した横浜税関で執務を開始した.(この時にマッカーサーが遺したエピソードを拙稿《マッカーサーの朝食》に記した)
 翌9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で降伏調印式を行ったあと,9月8日にマッカーサーは幕僚と共にホテルニューグランドを出発して東京に進駐した.連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) をどこに置くかについては事前に第一生命館と明治生命館が候補になっていたが,第一生命館を見て気に入ったマッーサーは,明治生命館は見ることなく第一生命館を総司令部とすることに決定した.そしてこのビルが戦後日本における占領政策の本丸となった.
 もともと日本の戦争目的の一つに米 (ジャポニカ米) の獲得があったことは上に述べた.戦前の日本は既に米を自給できなかったのである.
 しかるに敗戦により朝鮮と台湾からの米移入はもちろん,東南アジアからの輸入の手立ても失った日本は食糧危機に陥った.
 アメリカ政府とGHQは占領開始時,日本の食糧事情を楽観的に見ていたようで,対日方針は厳しいものたっだ.Wikipedia【連合国軍占領下の日本】に次の記述がある.
 
連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:終戦処理費として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年(昭和20年)9月22日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。
1945年(昭和20年)11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の生活水準を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と記されている。1945年(昭和20年)12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と記載されている。
 
 日本政府は9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出して食糧輸入の許可を求めたが,GHQはこれを拒否した.
 食糧危機の影響をまともに受けたのは都市部の勤労者たちであった.彼らは都市から地方へ行く列車にあふれるようにして乗り,闇米を求めた.戦時中から,食料の統制はザルであった.自家用と称して米を備蓄していた農家は,勤労者が持参した金品を買叩いて勤労者の恨みを買った.群馬県に住んでいた私の父母は栄養失調に陥り,母は失明寸前となった.
 一説には,終戦の翌年,昭和二十一年の時点ではまだ日本全体では食糧危機はそれほど深刻ではなかったという.しかし農家が米を出し惜しみしたことが都市部での食糧危機に拍車をかけたのだと戦後の一時期まで語られた.だがいずれ復員兵が次々に内地に戻ってくれば,米の絶対量の問題として,食糧供給が破綻することは自明であった.
 農家に持参して米に換えるものを持っていない人々は悲惨だった.食糧管理法違反者を裁く立場に立って闇米を拒否した山口良忠東京地裁判事が栄養失調の故に死去したのは昭和二十二年であったが,人心荒廃した日本国民は誰も山口判事に同情しなかった.
 豊葦原瑞穂国は,天皇制以前に稲の国であった.米が食えないのなら天皇に何の用があろう.米どころか芋も豆もなく,飢えの瀬戸際に立った国民の怒りはGHQではなく昭和天皇と政府に向けられた.
 1946年 (昭和二十一年) 5月19日,食糧を求めるデモが東京の各地で行われた.およそ二十五万人の民衆が皇居前に結集して「飯米獲得人民大会」と呼ばれる大規模なデモへと発展した.
 その一週間前の5月12日に,「米よこせ世田谷区民大会」が行われた.デモ隊の一部は皇居に向かった.坂下門で押し問答の末に皇居に突入したデモ隊は「天皇陛下はどんなものを食べているか台所を見せてください」と要求した.宮内省の岩瀬圭一運輸課長はデモ隊を,「天皇の台所」たる大膳寮ではなく,宮内省職員食堂に案内した.
 
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(坂下門に押し寄せるデモ隊;パブリックドメイン,File:Komeyokose.jpg from Wikimedia)
 
 そこでデモ隊が目にしたのは大量の飯と魚介であった.日頃はフスマ汁をすすって空腹をしのぎ,久しくこんな食材を目にしていなかったデモ隊参加者たちは度肝を抜かれ,次いで人々は飯桶に手を突っ込んで奪い合い,食堂は大混乱となった.天皇どころか臣民たる宮内省職員までが食糧危機とは無縁であり,しかもそのことをデモ隊に隠そうともしなかったのである.
 この時のことを,大島幸夫『人間記録 戦後民衆史』(毎日新聞社刊,1976年) は次のように記している.
 
50坪ほどの調理場には、120人分の夕食用麦飯が三つのタライに盛られ、マグロ半身、カレイ15匹、スズキ1匹、サケ4匹のほかイモ、大根などが置かれてあった。しかし、この食品データは後日の宮内省発表で、即日のデモ隊側発表では「冷蔵庫に目の下一尺位のヒラメ3、40尾、大ブリ5、6尾、牛肉5、6貫、平貝一山そのほか沢山」。タライ3つの中身も「麦入りはわずか、大半は銀メシ」ということだった。仮に宮内省側の発表によるとしても、“雑草食”の戦災・引揚者たちには、大変なゴチソウに見えた。オカミさんたちは目を丸くした。 ・・・
  すさまじい光景となった。タライに手を突っ込んで、ゴハンをわしづかみにする。口にほおばる。口の周囲はゴハンツブだらけ。おぶった幼児にも、背中越しに「それよ、それよ」と、投げるようにゴハンを与える。あわててオムスビを握り、着物のソデにたくし込むオカミさんもいた、という。
 このときたまたま、翌日に予定されていた「皇族会」の夕食メニューが黒板に書かれていた。その内容は以下のようなものだった。
「お通しもの平貝胡瓜ノリ酢のものおでん鮪刺身焼物から揚げ御煮物竹の子フキ
 
 二日後の5月14日にもデモ隊は坂下門に押し寄せたが,この日は宮内省は強硬で,皇宮警察と丸の内警察署員を動員して警備を固めた.宮内省は犬丸実総務課長がデモ隊との交渉に当り,結局,代表五名のみを皇居に入れた. 
 五日後の5月19日が昭和史に大きく記録された「食糧メーデー」であった.このデモに参加していた日本共産党員松島松太郎は,後世に伝えられることとなった文章を記したプラカードを掲げた. 
「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね ギョメイギョジ」
 松島松太郎が書いた文言は正鵠を射ていた.一週間前に「朕はタラフク食って」いたことがバレていたのだ.
 しかしこの事態におよんでもなお昭和天皇は首都の危機的状況を認識しようとはしなかった.昭和天皇は、5月24日に《祖国再建の第一歩は、国民生活とりわけ食生活の安定にある。…… 全国民においても、乏しきをわかち苦しみを共にするの覚悟を新たにし、同胞たがいに助け合って、この窮状をきりぬけねばならない。…… この際にあたって国民が家族国家のうるわしい伝統に生き、区区の利害を超えて現在の難局にうちかち、祖国再建の道を踏み進むことを切望し、かつこれを期待する 》というラジオ放送を行った。昨夏以来の二度目の玉音放送であった.(《 》は『人間記録 戦後民衆史』p.16からの引用である.全文は不明.文字の着色は当ブログ筆者が行った)
 
「乏しきをわかち苦しみを共にする」は,今なら「お前が言うな!」と突っ込まれるところである.敗戦で昭和天皇の権威は地に落ち,庶民は昭和天皇を「天ちゃん」と呼んで馬鹿にしていた.その「天ちゃん」に「乏しきをわかち」と言われても,農家による米の売り惜しみが収まるわけがなかったからである.かくも国民に軽蔑された天皇を,私は他に知らない.現在の上皇御夫妻が国民に深く敬愛されているのとは比べ物にならぬ有様であった.(「天ちゃん」は,昭和二十年代から三十年代にかけて昭和天皇の蔑称として広く密かに使われた言葉である.現在Wikipediaの編集に関わっている人たちは耳にしたことがないと思われ,それはWikipedia【ノート:天ちゃん】を読めばわかる.この「ノート」には誤解があるようなので記しておくと,「天ちゃん」は歴代天皇を指すのではなく,昭和天皇だけを意味した.昭和天皇による沖縄蔑視や原爆投下を容認する発言あるいは終戦後の戦争責任回避行動が背景にあった)
 
 国民の窮状を他人事としか思わなかった天皇の「おことば」に比べると,マッカーサーはさすがであった.人民大会の翌日には「組織的な指導の下に行われつつある大衆的暴力と物理的な脅迫手段を認めない」とする声明を出した.
 国際政治の情勢に疎い日本の左翼政党は,連合軍を,天皇を敵視する「解放軍」であるとする誤った分析をしていた.人民大会のデモ隊がGHQではなく皇居に向かったのはその誤解があったからである.そのため,デモ隊を暴徒であるとしたマッカーサーの声明に大きな衝撃を受け,方針の再検討を余儀なくされた.
 続いてマッカーサーは食糧メーデーの翌日,首相の吉田茂に対して,アメリカが日本に食糧支援をすることを約束した.これにより戦時中以来の日本に対する経済封鎖の解除が始まり,食糧と生産資材の輸入が開始された.こうして戦後日本の復興が始まったのである.
 
 食糧輸入解禁とほぼ同時に,アメリカ西海岸に住む日系人による祖国救援運動が始まった. ララ物資である.
 Wikipedia【飯米獲得人民大会】には終戦直後,昭和二十一年以降の食糧事情について《内閣総理大臣吉田茂は、農林大臣に革新官僚の和田博雄農政局長を据え、5月22日に組閣を終えた。また、同年は幸いなことに気候が安定し、豊作となったため、翌年以降の危機は回避された 》としているが,食糧需給の数字が引用されておらず信憑性がない.さらに言うならば,本当の食糧危機は,地方農村と都市部との間の食糧の偏在にあったのだ.例えば地方都市の小学校では,農家の子弟は麦飯弁当を持ってくるが,勤労者家庭の子供たちは芋があればいいほうで,昼休みに食うものがないので校庭で遊ぶ子供たちもいた.このような小学校の様子を含め,昭和三十年代のテレビ放送では,八月と十二月の特別番組で,戦後における庶民の暮らしの映像記録をよく放送していたが,もうその映像は残っていないだろう.高齢者の記憶に刻まれているのみである.
 ともあれ,戦後数年間は,小学校児童生徒の栄養不良が大きな問題であった.その解決に,ララ物資を用いて行われた学校給食が果たした役割は大きかった.しかしララ物資による学校給食の実現に努力した当時の厚生省と文部省の官僚の活躍については,ほとんど記録も研究も行われていないようである.
 戦後初期の学校給食について,二十年近く前に私は「僕達の脱脂粉乳」と題した文章を個人サイト (@ニフティ) に載せた.そして@ニフティが個人サイトの運用を廃止したあと,ブログ記事《「和食」とはなにか 番外編》に転載した.昭和も後半の頃,昭和三十年代の記憶を持たない世代が戦後の学校給食を攻撃するようになった.曰く「学校給食でコッペパンを主食とし,これに脱脂ミルクが添えられたのは,アメリカの陰謀であった」と.米国は廃棄するしかない品質の小麦と脱脂粉乳を日本に無理やり押し付けたのであり,それはアメリカの穀物戦略だったという趣旨である.だが,私たち戦後すぐに生まれた世代の眼には,この陰謀論は,日本人の米離れを食糧安保の観点で阻止しようとする立場からの陰謀に見える.彼らは「いつ食糧を禁輸されてもいいように食糧自給率を高くするべきだ」と主張するが,「食糧禁輸されないような国になろう」というのが戦後日本の出発点だったからである.そしてそのような物の考え方は,平和憲法といわゆる戦後民主主義とセットになっていた.
 ララについては,和光大学経済経営学部・奥須磨子教授による短い総説《ララ物資のはなし 敗戦直後日本人への救援》があるが,本格的研究とは言い難い.またその結語に次のように書かれている.
 
──おわりに
講義準備ノートとしても不十分なままで終えてしまった。とくに、最後の町村における配分の一事例の箇所は分析に至っていない。また、救援物資の受給者までの配分経路、引取・運搬・倉入れなどの実務に関することに触れていないのが気がかりであるが、実際の授業までに補充することを期す。 ところで、今から50年余り前、「正に干天に慈雨」「日本の社会事業史に於て特筆大書すべき事業だと思います」と言われたララであった。しかし、50年後の今、日本の社会事業史上に位置づけることができるほどには、研究は進展していないように思われる。特筆大書すべきかどうかはもうしばらくおいておこう。 戦後の生活再建の観点からはまず、日本におけるララの活動の実際、わけても救援物資の配分と受給の実態を分析することが必要であることが分かった。史料は、旧厚生省をはじめ、各地・各所に残存している可能性は高い。》(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 この結語は,ララが「日本の社会事業史に於て特筆大書すべき事業」かどうかに疑問符をつけている.ララに限らないと思われるが,その時代の空気を知らないと真に理解するのは困難なことがある.例えば奥教授の総説には,祖国救援運動を立ち上げてララに結実させた浅野七之助氏の名がスッポリと抜け落ちている.また,浅野氏の伝記的な書物があるのだが,それは引用文献にすらなっていない.これは,その時代の空気を知らないとこうなる,と
いうことの一例である.激しく揺れ動いた社会を描写するには,数字の分析をすれば足りるというものではない.その時代の空気を吸った人々へのインタビューをせずに何をかいわんや.もうすぐその人々は死に絶えるのである.
 さて,ララ物資について述べたのは,これが日本人の食生活を米信仰の呪縛から解放するきっかけになったからである.
 学校給食のコッペパンと脱脂ミルクだけではなく,様々なアメリカの食品がララから寄贈されたと私は小学校時代に担任の先生から聞いた.ララ物資以外にはユニセフやその他のNGOからの援助があり,あるいは戦後初期には米軍からの放出もあった.それらが日本人の食事を変えることになった.
 戦後十年を過ぎる頃には,豊かな食生活の情報が私たちに届くようになった.テレビではポパイが人気番組だった.ポパイが缶詰のほうれん草を食べるのは台詞があるから理解しやすかったが,脇役キャラがフライドチキンを食べて口からプッと骨を飛ばすシーンもよくあった.それがフライドチキンであることを私と同世代の人たちが知ったのは,ずっと後年のことであった.
 アメリカ製ホームコメディ (ex.“The Donna Reed Show”) には,食卓を囲んで何だかよくわからない家庭料理を食べながら家族が楽しそうに会話するシーンが描かれた.無言で飯を食うのをよしとした日本の流儀とエラい違いであった.また,アメリカ人の食生活には主食という概念がないことも知った.
 他民族や異国の文化を理解するのに必要な最初のステップは,その人々が食べているものを自分も食べてみることだと私は思う.
 よく言われることだが,食習慣というものは極めて保守的だ.何もしなければ,人はいつまでも同じものを食べ続けるだろう.しかし今の私たちが,毎日毎日同じものを連続しては食べない (例外はあるだろうが) のは,戦後の食糧難によってコメへの執着から解放されたことの影響だろう.敗戦国に対する先進諸外国からの援助に対して,それが今まで食べたことがない得体の知れないものだとしても,文句を言ってはばちが当たる.それくらいの礼儀は,人心荒廃の中でも日本人はわきまえていたのである.こうして,何でも食べる国民ができあがった.
(ただ,インディカ米は例外だった.映画『めし』の冒頭シーンにあるように,本来は「湯取り法」で調理すべきインディカ米を,戦後の日本国民は相変わらず鍋釜で,ジャポニカ米に混ぜて「炊」いて食べた.すなわちインディカ米の食文化に対する敬意が払われなかった.東南アジア諸国に対する優越感を捨てなかったからである.そして原節子の台詞「外米が少し匂うかしら」がシナリオに書かれたのである.これは戦後すぐの庶民がどんな気持ちで外米を食っていたかの貴重な証言となった)
 
 さて,いよいよ「何でも食べる国民」のクリスマスの話だ.
 食文化というほど大きなテーマでなくても,食べ物の話を考察する時は,平面に縦軸と横軸を引いて場合分けするのが原則だ.縦軸と横軸にどんな意味を設定するかは自由だが,例えば横軸の左端を「地方」とし,右端を東京とする.次に縦軸の上端を「お金持ち」,下端を「貧乏人」とする.こうすると四つに場合分けすることができる.右上から時計回りにいくと,右上の区分は (1) 東京の富裕階層の家庭,右下は (2) 東京の庶民階層/貧しい家庭,左下は (3) 地方の庶民階層/貧しい家庭,左上は (4) 地方の富裕階層の家庭,という具合になる.
 戦後の話をするので横軸の右端を東京としたが,鎌倉時代や室町時代のことを考えるのであれば今の京都にすればいい.
 
〈戦後日本の場合分け〉         
         l
地方の富裕階層の l 東京の富裕階層の
家庭       l 
家庭
         l

         l
地方の庶民階層  l 東京の庶民階層
貧しい家庭    l 貧しい家庭
         l
 
 都会度と貧富の二次元で場合分けするのはとても便利だ.弥生時代以来,貧富の差がなくなったことはない.拡大する一方だ.田舎はずっと田舎だし,都会はますます都会化する.田舎と都会が均質化することはない.だから,都会度と貧富で場合分けするのは,歴史的なことを考察するのに適している.
 話はちょっと横に逸れるが,農水省が旗を振って「和食;日本人の伝統的な食文化」をユネスコ無形文化遺産に登録することに成功したのであるが,この「和食」は,日本人の貧富差を一切考慮せず,富裕階層の食事を伝統的食事であると捏造することによって成し遂げられた.農水省の御用学者たちの非科学的な頭には,上に示した「場合わけ」がなかったのである.江戸の裏店のおかみさんから,昭和二十六年の『めし』の原節子に至るまで,佃煮と漬物で飯を食ってきた.「米よこせ世田谷区民大会」に栄養失調でフラつく足取りで宮内省の職員食堂に突入したおかみさんたちが目にしたものこそ,上流階級の食事,つまり今の農水省が「和食=一汁三菜」と呼ぶものだった.
 行政主導で「和食=一汁三菜」が日本人の食事であると制定されたのだが,それは奈良平安の昔から現代に至るまで庶民の日常の食事ではなかった.「一汁三菜」を強く推す行政に対して,それは違うと言った料理研究家は土井善晴先生だけである.
 
 閑話休題 カレーライスがインドの料理ではないように,広東麺が中国にはないように,クリスマスは日本のお祭りだ.それを徹頭徹尾,文字として現存する記録 (東京朝日新聞/朝日新聞の記事を中心に,書籍も加えて) を基に明らかにした労作が二年前に出版された.現代日本の優れた知性の一人である堀井憲一郎の『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』(講談社現代新書,2017年) だ.東京朝日新聞/朝日新聞の十二月の社会面記事がこの本の基礎だから,一つには地方の情報が欠落していることが指摘される.「歳末の賑わい」は東京の銀座ばかりが取り上げられていたのだ.また例えば記事に「クリスマスケーキ」とあっても,それがどんなケーキなのかは新聞記事には書かれていない.従って「戦後の日本人がクリスマスに何を食べたか」は,堀井の著作から読み取るのは難しい.上に掲げた図でいえば,右上のカテゴリのみを経年観察したのが堀井の『愛と狂瀾のメリークリスマス ……』である.ただし少し参考になる記載もある.
 堀井が東京朝日新聞/朝日新聞 (以下,単に朝日) の記事を調べたところによれば,東京におけるクリスマスのドンチャン騒ぎは大正期にキリスト教徒とは無関係に盛り上がるようになり,酔っぱらったおっさんたちがダンスホールの女給さんと踊り狂う祝祭と化したらしい.その破目は昭和に入って益々度を越し,満州事変が勃発した昭和六年から三年ほどが《日本クリスマス史上もっとも狂乱的に騒いでいた時期 》だという.なるほど朝日のクリスマス記事に添えられた銀座のダンスホールの写真は,和装洋装の接客業女性と踊るおっさんたちで立錐の余地もない.混雑具合だけなら
後年のマハラジャに似ている.堀井は《「満州事変や国際連盟の脱退くらいでは、昭和のクリスマス熱狂はおさまらなかった」 しっかり記録し、きちんと記憶しておくべきである。》(同書 Kindle版の位置55%)
 翌昭和七年十二月十六日,日本橋の百貨店白木屋で火災が発生した.この日本初の高層ビル火災は死傷者八十人を超す大惨事であったが,その原因は漏電のためにクリスマスの飾りつけが燃えたことであった.そしてこの火災で驚くのは,わずか四日後の朝日には,何もなかったかのようにクリスマス特集が掲載されていた.同書から引用する.
 
クリスマス音楽の会の紹介から始まり、クリスマスの舞踏会が紹介される。ラジオ番組の紹介、クリスマスレコードの売れ行きの記事が続き、あとは高級な帝国ホテルと上野精養軒の降誕祭のお祭りが紹介され、そして銀座の大売り出し、カフェー、バーの繁盛ぶり、"1円から1円50銭の高価なクリスマス・ヂナー"が紹介され、クリスマスケーキの人気と、七面鳥を扱う鳥屋が大忙しと書かれ、最期はこの一文で締めくくられている。
「思えば、クリスマスも年中行事として大衆化したものだ」
 
 昭和七年の朝日に,クリスマスの料理として「七面鳥を扱う鳥屋が大忙し」と書かれているのは特筆される.
 この,大人が酒を飲んで大騒ぎする日として定着したかに見えたクリスマスは,1937年 (昭和十二年) 支那事変の勃発以降,1938年の国家総動員体制,1940年の大政翼賛会へと,急速な戦時体制の成立と共に消滅することになった.
 内務省はクリスマスのお祭り騒ぎ禁止を通達し,商店街の装飾も禁止された.1938年12月25日の朝日は見出しに《七面鳥は半減 法度破りのカフェー等にお灸 事変下・自粛Xマス》と書いた.「半減」ということは,この年はまだ七面鳥料理が存在していたのであるが,1939年を最後に,新聞に「クリスマス」の文言が消えた.以上が,戦前日本ではクリスマスに七面鳥が食べられていたという資料ということになる.
 戦時中の記録は省略するが,戦後日本のクリスマスが興味深い.敗戦の翌年,1946年 (昭和二十一年) には朝日に,進駐軍のクリスマスについての記事が掲載された.また三越や高島屋がクリスマスセールを広告している.翌昭和二十二年には菊池章子が夜の女の悲哀を歌った「星の流れに」をテイチクから発売した.
 それが1948年 (昭和二十三年) になると東京の街にクリスマスの飾りが復活し,戦前の乱痴気騒ぎもまた始まった.昭和二十四年には,酔っぱらったおっさんたちが女給とダンスホールで踊るクリスマスが完全復活した.家庭では妻子が「外米が少し匂う」飯を食っているのに,夫は歓楽街でデスパレートに遊んでいたのである.
 この年の世相風俗としては,発売以来ジワジワと売れ行きを伸ばしてきた「星の流れに」と,三條町子の「かりそめの恋」が爆発的にヒットしたことが挙げられる.退廃と享楽のクリスマス,夜の女,銀座の女給はワンセットの社会現象であった.
 この狂乱クリスマスは1952年から1955年にかけて続いた.当時の歓楽街の様子は,黒澤明『生きる』の一シーンとして描かれている.私は1950年生まれなので,この種の社会現象の記憶はないが,団塊世代の先頭学年の人たちは覚えているかも知れない.それはもちろん東京の話であって,地方の県民には無関係だったろうとは思うが.
 
 その後,1956年 (昭和三十一年) の経済白書が結語に〈もはや「戦後」ではない〉と述べて,戦後日本の復興モードは終了した.ちなみに〈もはや「戦後」ではない〉は,官僚や作家,評論家,大学の研究者など,原典に当たらずに文章を書き飛ばす人々によって変質させられ,現在は〈もはや戦後ではない〉と「 」抜きで書かれるのが普通になり,そのためこの結語の意味内容まで誤り伝えられるようになっている.これについては拙稿《経済白書の都市伝説》に書いた.
『愛と狂瀾のクリスマス ……』によると,戦後の復興が一段落すると同時に,なぜか急速にクリスマスの舞台は歓楽街から家庭へと変化していった.昭和三十年代後半以降は,クリスマスイブに商店街のそこかしこの特設売り場でクリスマスケーキが販売され,仕事帰りにケーキを買って帰る会社員の様子が新聞の定番記事となった.私のクリスマスの記憶はこの辺りから始まる.
 よく指摘されることだが,1959年 (昭和三十四年) の皇太子御成婚が色々な意味で時代の変曲点になった.例えば御成婚のパレードを観るためにテレビ受像機が爆発的に売れた.そしてこれで一気にテレビの時代がはじまったのである.
 既に述べたが,アニメのポパイが子供たちに圧倒的な人気だった関東地方の話だが,番組提供は不二家だった.Wikipedia【ポパイ】につぎのように書かれている.
 
日本でも、1959年から1965年までTBS『不二家の時間』(不二家一社提供枠)で放映されたテレビアニメは最高視聴率33.7%を記録した。
 
 その放送枠のCMには,ミルキーとチョコレートの他に,パーラーのパフェやケーキも登場した.
 ミルキーとチョコレートは東京以外の地方でも商品を買えたが,洋生菓子類はそうはいかない.不二家の直営店舗でしか購入できなかった.だとすると,パフェやケーキのテレビ広告宣伝は一見無駄なCMのようだが,そうではなかった.
 不二家に取材した大変に価値あるウェブサイトがあるので紹介する.《あの不二家が元祖だった!? クリスマスケーキ誕生秘話》だ.
 このサイトに掲載されているデコレーション・ケーキは不二家がデザインしたものだが,例えば私の郷里である北関東の地方都市でも,これがスタンダードになっていた.おそらくそれには不二家のテレビCMが大きく影響したと思われる.少年時代の私は,クリスマスケーキといえば不二家が始めた形のものしか知らなかったのだが,上京してのちに,これが日本独自のものだと知って随分と驚いた.クリスマスケーキには,ブッシュド・ノエルや他のものもあって,東京には何でもあるんだなあと思ったのである.
 
 さて私の少年時代,クリスマスの御馳走といえばクリスマスケーキだけだった.夕飯にサンマの干物と里芋の煮っころがしを食べて,それからケーキが出て来るのであった.
 当時はそれでよかったのであるが,昭和三十年代に日本人の食生活が次第に和洋中折衷になっていき,変化が現れた.国民のほとんどは相変わらず貧しかったが,それでも貧困レベルよりはマシになった.毎度の食事も変化に富むようになった.そうしてクリスマスの夕飯のおかずが里芋の煮っころがしではない日がやってきた.
 
 ここでこの記事の冒頭に戻る.
 記憶が定かではないのだが,たぶん昭和三十八年の十二月二十四日のことだ.
 当時の私は中学校で新聞部の部長をしていて,新年号の編集などで忙しく,帰宅したのは家族が皆,夕食を済ませたあとだった.
 デコラ天板に折り畳み脚を付けた食卓 (卓袱台の一種だが,星一徹が愛用した円形の木工製品でニス塗装のものより新しい.高度経済成長期に登場して全国に普及した) の上に,見たこともない妙なものが皿に載っていた.若鶏の丸焼きだった.
 正確に言うと,チョン切った首にリボンを巻いた若鶏の丸焼きから,腿とか手羽とかの可食部を切り取りって残った胴体だった.
 レストランに勤めていた従姉が,今の言葉で言うならテイクアウトで買ってきてくれたものだという.
「一番大きいところを残しておいたよ」と家族は私に言った.優しい家族に感謝しながらそれを食べようとしたら,空洞に詰め物がしてあって,食べられるのは鶏の皮ばかりであった.悔しくて今も忘れられないクリスマスである.
 農業統計を見るまでもなく,戦後著しく盛んになった畜産に養鶏 (肉用のブロイラー,採卵用のレイヤー) がある.そのおかげで鶏肉も鶏卵も価格は安く安定した.それで昭和三十年代に,クリスマスの食べ物として鶏腿のローストが定着した.
 上に述べたように日本でも戦前はクリスマスに七面鳥のローストが食べられていた.それが戦後は姿を消した.理由の推測だが,七面鳥肉には鶏肉に対する価格競争力が全くなかったと思われる.七面鳥は,東京の銀座や帝国ホテルのパーティーで大騒ぎして遊ぶ金のある富裕層のためのクリスマス料理だったのだろう.
 戦後の昭和三十年代は,家族で楽しむものになったから,それには,量と言い御馳走感といい,鶏腿のローストが適していた.そしてこの
「不二家スタイルのクリスマスケーキ+鶏腿のロースト」のコンビが長らくクリスマスの定番となった.
 
 ところがいつの間にか,デパ地下やスーパーでは鶏腿のローストと並んで鶏唐揚げがクリスマス用に販売されるようになった.フライドチキンはKFCの専売かと思っていたら,コンビニでもフライドチキンが定番商品になった.(コンビニは鶏腿ローストもクリスマス用を販売する)
 KFCの公式サイトの《“クリスマスにフライドチキン”はKFCから始まった?》を見てみよう.
 
このような背景のなか、1971年4月には神戸に4号店を、7月には東京1号店である5号店を青山に出店、KFCは「いままで知らなかったおいしさ」、「おしゃれな食べ物」、「カッコいいお店」として、若者を中心に一気に、人気のお店となっていき ました。
ある日、店舗近くのミッション系の幼稚園から、「フライドチキン」を買ってパーティーをしたい。サンタクロースに扮装してクリスマス会に来てもらえませんか?との相談を受けました。サンタクロースに扮した店長が会場に入り「メリークリスマス!」の掛け声と、慣れない踊りで場が盛り上がり子供たちは大喜び。次第にいろいろな学校からご注文が入るようになりました。これにヒントを得た営業担当者が『クリスマスにはケンタッキー』を広くアピールしようと考えたのです。
そうして、初のクリスマスキャンペーンは1974年12月1日に開始、以降、KFCでは毎年全店でクリスマスキャンペーンを実施しています。
日本のクリスマスは、宗教的な色彩からは少し離れ、どちらかというと、楽しく、あるいはロマンティックに過ごす行事の一つ、生活を彩る催しとして広がってきたようです。
これが1960年代半ば頃からだと思われますが、子ども達を中心に家族が集まって欧米風の食卓や飾り付けを楽しむというクリスマスの過ごし方が徐々に定着しつつあったところに、KFCがおすすめする『クリスマスにはケンタッキー』が、まさにぴったりとあてはまったということでしょう。
こうしてKFCのチキンは、「特別な日」、「欧米風のおしゃれな日」、「子どもを喜ばせる日」・・・といった時の“特別なごちそう”として、広くお求めいただくようになりました。
やがて日本では「クリスマスはフライドチキン」という風習が根付き、欧米からみると不思議な風物詩として定着することになったのです。
 
 私は割と頻繁にKFCを利用する.月に一回はフライドチキン (6ピース) を買ってきて食べる.KFCは,年に一回または二回の利用者が六割を占めるらしいから,私はリピーターの部類だろう.そのリピーターの意見だが,KFCのチキンが《「欧米風のおしゃれな日」・・・といった時の“特別なごちそう” 》だとは,とても思えない.なにしろ「健康によくないジャンクフードの横綱はマクドナルドのハンバーガーとKFCのフライドチキン」というイメージが定着して久しい.
 
 Wikipedia【フライドチキン】を見てみよう.
 
欧州の料理では昔から一般に揚げ物は労働階級や低所得者の食事とみなされてきた。これは鮮度の落ちた食材や、骨や皮の多い食べづらい安価な部位も長時間油で揚げることで食べることが出来るという理由からである。さらにフライドチキンには骨付きの手羽や脚までも使用されており、これらはナイフとフォークで食べることができないため、西欧においてはスープを取るのに用いる程度で通常は捨てる部位である。歴史的には20世紀中ごろまで、アメリカでフライドチキンは「南部の黒人の好物」として偏見の目で見られ、白人富裕層は食べることはなかった。
 
 まあこれがフライドチキンの妥当な評価だろう.《「おしゃれな食べ物」》とは程遠い.それなのになぜ私は月一で食べるかというと,あのスパイスと油をむしょうに食べたくなるのだ.やめられない,それがいかにもジャンクフードである.
 ところで問題なのは,KFCが《やがて日本では「クリスマスはフライドチキン」という風習が根付き、欧米からみると不思議な風物詩として定着することになったのです 》と言っていることだ.問題点の一つは《風習が根付き 》としているが,それはいつのことなのか.もう一つは《欧米からみると不思議な風物詩として定着 》だが,そんなに不思議なことなのか,ということである.
 KFCのサイトから引用した文章では,クリスマスにフライドチキンを食べようというキャンペーン《1974年12月1日に開始 》と読み取れる.しかし私の記憶では,クリスマスの食べ物としてKFCのチキンに人気がでたのは,1985年のパーティーバーレル発売以降である.Wikipedia【風趣】によれば,
 
風習(ふうしゅう、custom)とは、土地ごとに存在する社会生活上のならわしやしきたりのこと。風俗習慣。行為伝承のひとつ。地理、歴史、その地域の産業の違いによって顕在化し人々の行動や思考パターンに影響を与える。学術的には歴史学、民俗学の研究対象とされることが多い。
 
である.厳密な定義とは言い難いが,それにしてもたった三十五年程度の「クリスマスはフライドチキン」を風習と呼ぶのはいかがなものか.せいぜい「古くからの流行」といったところだろう.べつのジャンルの話になるが,食品の安全性にかんする「食習慣」という用語がある.これまた漠然とした言葉だが,親から子へ,子から孫へと,数世代にわたる食の「習慣」と理解できる.そのことからしても,わずか三十五年の「クリスマスはフライドチキン」は「流行」の類だろう.仮にKFCが日本から撤退すれば,雲散霧消することなのだから.
 
 次に《欧米からみると不思議な風物詩として定着 》について考えてみる.欧米におけるクリスマスに食べる特別な御馳走は,それこそ何世紀にもわたる習慣であり,これは風習と呼ぶに値する.ここで欧米と一括りにしたが,英国とその他の欧州諸国では異なるようだ.
 日本みたいに狭い国でも地方によって御馳走にも色々あるくらいだから,欧州全体 (英国を除く) がみんな同じであるわけはないと私は思う.そこで,よく知られた例を一つ挙げるにとどめる.それはアンデルセンの童話「マッチ売りの少女」だ.この中にクリスマスの御馳走が描かれている.少女がマッチを擦って小さな炎の中に幻を見る場面の一部を下に抜粋する.(英訳版)
 
THE LITTLE MATCH GIRL
…… She rubbed another against the wall: it burned brightly, and where the light fell on the wall, there the wall became transparent like a veil, so that she could see into the room. On the table was spread a snow-white tablecloth; upon it was a splendid porcelain service, and the roast goose was steaming famously with its stuffing of apple and dried plums. And what was still more capital to behold was, the goose hopped down from the dish, reeled about on the floor with knife and fork in its breast, till it came up to the poor little girl; when—the match went out and nothing but the thick, cold, damp wall was left behind. She lighted another match. Now there she was sitting under the most magnificent Christmas tree: it was still larger, and more decorated than the one which she had seen through the glass door in the rich merchant's house. ……
 
 これが十九世紀のデンマークにおけるクリスマスの御馳走の例である.引用文中に描かれているガチョウのローストは「胸にナイフとフォークが刺されたまま少女のほうに近寄ってきた」とあるところから,丸焼きであることがわかる.邦訳の童話ももちろん御馳走はガチョウであるが,改竄された例もある.改竄例としてWikipedia【マッチ売りの少女】から引用する.将来この改竄箇所が訂正された場合に備えて,当該箇所のスクリーン・ショットもその下に掲載する.
 
…… 夜も更け、少女は少しでも暖まろうとマッチに火を付けた。マッチの炎と共に、暖かいストーブや七面鳥などのごちそう、飾られたクリスマスツリーなどの幻影が一つ一つと現れ、炎が消えると同時に幻影も消えるという不思議な体験をした。……
 
[スクリーン・ショット]
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 Wikipedia【マッチ売りの少女】が,有名なこの場面で,ガチョウを七面鳥に改竄した意図は不明であるが,これを引用して欧州のクリスマス料理は七面鳥であるとした例も見られるので,罪は軽くない.
「マッチ売りの少女」と同じ時代の英国では,従来からのガチョウに加えて,十六世紀に北米から伝えられた七面鳥が普及していた.ただ,七面鳥は大きいから,これを丸焼きにするには大きなオーブンが必要で,そういうオーブンを持っている家庭の料理だったと考えられる.従ってガチョウがクリスマスに全く食べられなくなったわけではなく,依然としてガチョウはクリスマスの御馳走の一つであった.ディケンズの「クリスマス・キャロル」にその文例がある.(原作)
 
STAVE  III
THE SECOND OF THE THREE SPIRITS
……
The moment Scrooge’s hand was on the lock, a strange voice called him by his name, and bade him enter. He obeyed. It was his own room. There was no doubt about that. But it had undergone a surprising transformation. The walls and ceiling were so hung with living green, that it looked a perfect grove; from every part of which, bright gleaming berries glistened. The crisp leaves of holly, mistletoe, and ivy reflected back the light, as if so many little mirrors had been scattered there; and such a mighty blaze went roaring up the chimney, as that dull petrification of a hearth had never known in Scrooge’s time, or Marley’s, or for many and many a winter season gone. Heaped up on the floor, to form a kind of throne, were turkeys, geese, game, poultry, brawn, great joints of meat, sucking-pigs, long wreaths of sausages, mince-pies, plum-puddings, barrels of oysters, red-hot chestnuts, cherry-cheeked apples, juicy oranges, luscious pears, immense twelfth-cakes, and seething bowls of punch, that made the chamber dim with their delicious steam. In easy state upon this couch, there sat a jolly Giant, glorious to see; who bore a glowing torch, in shape not unlike Plenty’s horn, and held it up, high up, to shed its light on Scrooge, as he came peeping round the door.
“Come in!” exclaimed the Ghost. “Come in! and know me better, man!” ……
》(文中の文字の着色は当ブログの筆者が行った)

 引用文中に,クリスマスの御馳走が列記されているが,七面鳥 (turkeys) とガチョウ (geese) は両方とも挙げられている.
 では七面鳥料理の本場である米国ではどうなのか.
 ネット上の日本語記事を漁ってみると,(1) 七面鳥は感謝祭の料理であって,クリスマスには食べない,(2) 七面鳥は感謝祭の料理だが,クリスマスにも食べる,の二つの意見がある.いずれの意見も,鶏は食べないという点で一致している.
 日本のKFCは,クリスマスにフライドチキンを食べる日本独自の流行を作った張本人のくせに「不思議な風物詩」などと書いているのが気に入らない.おかげでこれを拡大解釈して「欧米ではクリスマスにチキンは食べない」と書いているブログがネット上にあふれる有様となっている.
 ところが,だ.年末のテレビ東京『ありえへん世界』に“「クリスマスの奇跡!ありえへん感動のプレゼント」”というタイトルの実話が紹介された.番組紹介ページから引用すると以下の通り.
 
12月24日(火)の「ありえへん∞世界」(夜6:55-9:54)は、世界各国の“ありえへん”衝撃映像と衝撃事件を紹介する3時間スペシャル。妻を亡くし、4人の子供を育てるシングルファザーの男性に訪れた奇跡に、ゲストの芳根京子は「これはやばいですね」と号泣する。
死別の悲しみを乗り越えることができずにいた男性に、クリスマスのある日、ラジオ局のスタッフから突然電話が。戸惑いながらラジオ収録に参加する男性は、2年前に亡くなった妻から手紙が届いていることを知る。そんな驚きと感動の“クリスマスプレゼント”に、丸山隆平も「年々くる…こういう話」と胸を熱くさせる。
 
 これだけでは何のことやらわからないだろうが,それは話の本題ではないから省略する.ともかく米国で制作・放送された再現VTRの中にクリスマスのシーンがあり,家族が食卓を囲んでいると「チキンが焼けたわよ」と言いながらママが鶏の丸焼きをテーブルに運んできたのである.
 これを見て私は「なーんだ,アメリカ人もクリスマスに鶏を食べるじゃないか」と思った.
 とある企業ブログに《アメリカの定番クリスマス料理とは?過ごし方や日本との違いなど》という記事がある.ここからスクリーン・ショットを撮って下に引用する.
 
[スクリーン・ショット]
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 自信たっぷりに,チキンは《アメリカのクリスマスには見られません 》と断定しているが,その根拠が書かれていない.同様のウェブページやブログが山のようにあるが,根拠が示されているものはない.もしかすると,この企業ブログの筆者は,ジャンクフードであるKFCのフライドチキンと,戦後の日本人がクリスマスの御馳走として食べたローストチキンを混同しているのではないか.そして混同の原因はたぶんKFCのテレビCMだろうが.
 
 堀井憲一郎が『愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか』で示したように,明治以来ずっと日本人 (人口の1%以下しかいないキリスト教徒は除く) のクリスマスは,キリスト教とは無関係の日本のお祭りであった.戦前の日本のクリスマスは,帝国ホテルなどの大きなホテルで行われるクリスマス・パーティでは七面鳥料理が供されたが,戦後は養鶏が盛んになったことを受けて鶏料理が一般家庭のクリスマスで食べられるようになった.私の思い出でいえば昭和三十八年のクリスマスだった.
 私はKFCのフライドチキンが好きだが,このジャンクフードが御馳走だと言われると少々わびしい.フライドチキンもローストチキンも鶏には違いがないが,ローストチキンはもう少しのあいだ,クリスマスの御馳走であり続けるだろう.たぶん多くの高齢者は,ローストチキンが御馳走だった時代の思い出を持っているからだ.私たちの世代の思い出を,KFCに《不思議な風物詩 》などと言われる筋合いはない.
「思い出は最上の調味料」という言葉がある.ウェブを「クリスマス チキン」で検索すると,ローストチキンのレシピがずらりと並ぶ.どうかここにフライドチキンが登場しませんように.
 
[追記]
 近年,一部の食品スーパーでクリスマス向けに七面鳥の脚 (leg) のローストが販売されるようになった.私の行動範囲ではクイーンズ伊勢丹藤沢店が販売している.これは旨味が少ない肉なのでソースを作る必要があるが,ソースを自分で作れる人には定着するかも知れない.
 昨日 (1/4) のテレビ東京「新 美の巨人」で横浜のホテルニューグランドが取り上げられた.番組中に,かつて同ホテルで行われていたクリスマス舞踏会の映像が放送された.これは日本の家庭にクリスマスが広まる前,ホテルのクリスマスの貴重な映像と思われる.再放送は1月18日のBS 18時~.

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