鉄の道 (補遺)
昨日の記事《鉄の道》の末尾を再掲する.
《スキタイの東端から製鉄の遺跡を辿ってユーラシア大陸を横断していくと,アルタイ地方に至る.
スキタイは文字を持たなかったため,従来は謎に包まれていたが,現在は版図の精力的な発掘が行われており,かなり詳しいことがわかってきたらしい.同時代のギリシャの記録などから著しく野蛮な民族だと思われてきたが,非常に高度な金属文化を持っていたようだ.
このスキタイからさらに東方へは二手に分かれて製鉄技術が伝播したという.》
この箇所は,誤解のないように,もう少し詳しく書く必要があった.以下の画像は,テレビ画面をカメラ撮影した画像をトリミングしたものである.
まず,ヒッタイトが発展させた製鉄技術は,ヒッタイトが興亡したアナトリア地方 (下の画像の黄色い円形部分のあたりにある;現在のトルコ共和国のアジア部分) からコーカサス地方 (黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と,それを取り囲む低地からなる地域) を経て,スキタイの版図の西端に伝えられた.
紀元前七世紀から前二世紀にかけて繁栄したスキタイの版図の西端から東方に,ほぼ同じ緯度の地帯に製鉄炉の遺跡が分布している.
製鉄炉が分布する地帯は,下の画像に示されているように,現在のカザフスタンからモンゴルにかけて,北の森林地帯と南の砂漠地帯の間に広がる草原地帯である.
この中央ユーラシアに紀元前四世紀に勃興したのが匈奴である.(下の画像)
匈奴が遺した製鉄炉を発掘調査している愛媛大学の笹田准教授は,匈奴の製鉄技術は西方 (スキタイ) から伝播したものだという.(下の画像)
冒頓単于が率いる匈奴の,鉄製の矢じりを付けた矢を騎射する騎馬軍団は,前漢皇帝・劉邦 (高祖) の軍を圧倒した.Wikipedia【冒頓単于】に次の記述がある.
《紀元前200年、40万の軍勢を率いて代を攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信を寝返らせた。前漢皇帝・劉邦(高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。
その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。これにより、匈奴は前漢から毎年贈られる財物により、経済上の安定を得、さらに韓王信や盧綰等の漢からの亡命者をその配下に加えることで勢力を拡大させ、北方の草原地帯に一大遊牧国家を築き上げることとなった。これには、成立したての漢王朝は対抗する力を持たず、劉邦が亡くなった後に「劉邦が死んだそうだが、私でよければ慰めてやろう」と冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉も、中郎将の季布の諌めにより、婉曲にそれを断る内容の手紙と財物を贈らざるを得なかった。
冒頓単于は更に月氏を攻め、更に西方へ追い立てた後、前174年に没した。》
《その後も東アジア最大の国として君臨していたが、前漢王朝が安定し国が富むに至り、武帝はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。しばらく一進一退が続いたものの、前漢の衛青と霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴はより奥地へと追い払われ、その約60年続いた隆盛も終わりを告げた。
ただそれまで部族単位での略奪と牧畜が産業だった遊牧民に、国家という概念と帝国型の社会システムを根付かせたことは大きく、後のモンゴル帝国へとつながることになる。》
筆者が受験勉強をしていた頃の高校世界史 (五十年前 ^^;) では,上の引用文のように,匈奴が前漢を圧倒したのは冒頓単于の卓抜した軍事的才能によるとしていたが,それだけだったろうか.上記引用文中の「白登山の戦い」だが,Wikipedia【白登山の戦い】には次のように書かれている.
《楚王項羽を滅亡させて中国再統一を果たした皇帝劉邦は、匈奴へ備えるために韓王信を馬邑(現在の山西省朔州市朔城区)に派遣するが、匈奴の脅威を間近で見た韓王信は匈奴との和平を唱えた。これを裏切りとみられた韓王信は、匈奴に投降した。韓王信の軍隊を加えた匈奴は40万の大軍で太原へ攻め込んできた。》
引用文中の,韓王信が目の当たりにした匈奴の脅威とは,匈奴軍の局地戦戦闘力,武器の殺傷能力ではなかったか.
番組の放送においては,その点を匈奴軍が開発した鉄製の矢じりを用いて説明した.(下の画像の ↓ )
下の画像の字幕説明は「この矢じりは一段目の刃で相手のよろいを貫き 二段目の刃で致命傷を負わせる目的で作られました」
下の画像は実験したところ.匈奴の鉄製矢じり (赤い↓) は,当時の鎧と同じ厚さの銅板 (青い→) と羊の肉を易々と貫通した.
これに対して漢軍は,青銅製の小さい矢じりを用いていた.匈奴の矢じりに比較して,見るからに殺傷力が低いと考えられる.
この当時の漢には強力な鉄製武器を製造する技術がなかった.しかも匈奴は,王宮に武器を製造する工場が併設される「鉄の軍事国家」であった.
鉄と青銅.武器性能の優劣のために漢は匈奴に屈した.しかし漢においてもやがて製鉄技術の革新が行われた.
中国における製鉄の始まりについては,永田和宏『人はどのように鉄を作ってきたか 4000年の歴史と製鉄の原理』(講談社ブルーバックス,2017年) によれば,次の短い記述だけである.
《中国には製鉄法は紀元前600年頃に伝わり、銑鉄が作られ、鍬や鎌、鑿などが鋳造で作られ、紀元前512年には鉄の大釜が鋳込まれた。一方、鋼はルツボ法で作られた。溶鉱炉は春秋時代初期に出現した。しかし、これで作った鋳鉄は質が悪く、悪金と呼ばれ、農具に使われた。》
『人はどのように鉄を作ってきたか …… 』はつい三年前の出版であるが,ヒッタイトからスキタイに伝わった製鉄技術は全く書かれていないし,匈奴と漢の抗争における鉄と青銅の武器の優劣にも触れていない.この書籍では漢にどこから製鉄法が伝えられたかもわからない.いかに「鉄の道」の考古学が最近の学問分野であり,最新の知見に満ちたものであるかが知れる.
この事情はWikipediaでも同じで,Wikipedia【鉄器時代】でも,わずかに次のように書かれているに過ぎない.
《中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、これはシュメールなどと同じくそれほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器であった。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及した。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けた。例えば、秦は高度に精錬された青銅剣を使っている。》
『人はどのように鉄を作ってきたか …… 』もWikipedia【鉄器時代】も,中国で製鉄が始まったのは紀元前600年頃であり,作られた鉄は武器を作れるような品質ではなく,農具に使われたとだけ述べている.
ところがごく最近,愛媛大学の研究グループがその後の中国の製鉄技術の発展を明らかにしている.
愛媛大学アジア古代産業考古学研究センター長・村上恭通氏によれば,中国では高炉を用いて大量の鉄が生産できるようになった.(下の画像)
しかしこの鉄は脆いため,武器には使えなかった.(下の画像)
そこで発明されたのが炒鋼炉であった.炒鋼炉は,高炉で作った銑鉄を脱炭素して鋼にする炉である.
炒鋼炉は明代の技術書『天工開物』に描かれている古代の鋼精錬法であるが,村上恭通氏らは漢代に作られた炒鋼炉の跡を発掘した.こうして漢は鋼の武器を鍛えることができる技術を手に入れたことが判明したのである.
漢の武帝は即位するや匈奴に反撃を開始した.番組は,漢軍は鋼の大型武器「戟」を用いることで匈奴との戦闘において優位に立ったと説明した.
Wikipedia【匈奴】には次のように書かれている.
《匈奴で軍臣単于(在位:前161年 - 前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年 - 前141年)が即位。互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であったが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。しかし、武帝(在位:前141年 - 前87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功した。
元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまった。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになった。
太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降した。これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになる。
その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いていった。》
以上がNHKスペシャル《アイアンロード ~知られざる古代文明の道~》を解説した記事《鉄の道》への補遺である.
しかし,視聴者は,ここで大きな疑問を持たざるを得ない.
番組の放送では漢の武器「鋼鉄製の戟」が漢の勝利の要因であるかのように説明していたが,これは納得しがたい.
戟には長短の種類があるが,いずれにせよ漢の時代よりも古くからある近接戦闘武器である.冒頓単于の匈奴軍が劉邦の漢軍を圧倒したのは,白登山の戦いが典型だが,騎馬民族たる匈奴の戦術が,騎射のヒット・アンド・アウェイだったからである.ヒット・アンド・アウェイで戦う限り,遠隔戦闘武器である弓は絶対に近接武器に負けない.負けるとすれば,白兵戦に持ち込まれたときである.
こう考えると,武帝の時代に漢が匈奴を撃退できた要因は,単に戟が青銅製から鋼製に変化したことではあり得ない.青銅製だろうが鋼鉄製だろうが,近接戦闘武器としての性能に大差があろうはずがない.だとすれば,匈奴の側に,戦闘力が低下する要因があったと考えるのが妥当だ.第一に考えやすいのは,消耗品である矢じりを大量に生産できなくなった可能性である.次に,良馬が戦闘で消耗減少し,あるいは馬の生産力が低下し,歩兵で戦うように戦術が変化したのかも知れない.
そこでハタと思い起こされることがある.
番組中,匈奴が製鉄に必要とした大量の炭はどこから調達されたかについて,全く説明がなかった.スキタイの製鉄は中央ユーラシア北部の森林地帯で炭が生産されたと説明された.
それと同じであれば,匈奴はモンゴル北部の山岳地帯で炭を作ったのだろう.
だがしかし,番組の中で視聴者が見たモンゴル北部山岳地帯は下の画像のようであった.
見渡す限り,草とわずかな灌木しか生えない荒涼たる岩山とハゲ山.騎馬民族の王国が栄えた時代の,製鉄に使われた森林はどこにいったのだろう.
もしかすると,匈奴は鉄の武器のために森林資源を枯渇させてしまったのだろうか.
その結果,彼らの鋼鉄生産量は大きく減少し,軍事力の低下と共に匈奴の王国は歴史の流れの中に消えたのかも知れない.
ともあれ,「鉄の道」の全体像を明らかにするには,この地における製炭と消費の歴史を明らかにせねばならないように思われる.
(この稿おわり)
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