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2019年12月19日 (木)

NHK『歴史探偵』の科学的考証の誤り

 テレビの娯楽番組に,しばしば御出演される歴史学者といえば,磯田道史 (国際日本文化研究センター准教授) 先生と,河合敦 (多摩大学客員教授) 先生のお二人だ.
 磯田先生はフジテレビ『新説!所JAPAN』の準レギュラーで,少し前 (2019年7月29日放送) に「本能寺の変で信長の遺体が見つかっていないのは何故か」というテーマで先生の説を紹介した.
 簡単にいうと,自害した信長の遺灰は本能寺 (事件当時の位置は現在の本能寺から少し離れた現在の中京区元本能寺南町である) から運び出され,阿弥陀寺 (現在は京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町だが,当時は上立売通大宮にあった) に埋葬されたというのが磯田先生の「新説」である.しかし磯田先生は「新説」だと番組で述べたが,実は従前から寺伝によれば,遺灰は本能寺から持ち出されて阿弥陀寺に埋葬されたという説はあるのである.Wikipedia【阿弥陀寺】には次の記載がある.
 
天正10年(1582年)、信長が本能寺で討たれると、清玉上人が自ら現地に赴いて信長の遺灰を持ち帰って、墓を築いたとされる。後に信忠の遺骨も、二条御新造より拾い集めて、その横に墓をなした。さらに本能寺の変の名の分からぬ犠牲者大勢も、阿弥陀寺に葬って供養したという。
 
 さらにWikipedia【本能寺の変】には,信長の遺骸に関する異説について,より詳しく次の記述がある.
 
また異説として、信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売通大宮)の縁起がある。変が起きた時、大事を聞きつけた玉誉清玉上人は僧20名と共に本能寺に駆けつけたが、門壁で戦闘中であって近寄ることができなかった。しかし裏道堀溝に案内する者があり、裏に回って生垣を破って寺内に入ったが、寺院にはすでに火がかけられ、信長も切腹したと聞いて落胆する。ところが墓の後ろの藪で10名あまりの武士が葉を集めて火をつけていたのを見つけ、彼らに信長のことを尋ねると、遺言で遺骸を敵に奪われて首を敵方に渡すことがないようにと指示されたが、四方を敵に囲まれて遺骸を運び出せそうにもないので、火葬にして隠してその後切腹しようとしているところだと答えた。上人はこれを聞いて生前の恩顧に報いる幸運である、火葬は出家の役目であるから信長の遺骸を渡してくれれば火葬して遺骨を寺に持ち帰り懇ろに弔って法要も欠かさないと約束すると言うと、武士は感謝してこれで表に出て敵を防ぎ心静かに切腹できると立ち去った。上人らは遺骸を荼毘に付して信長の遺灰を法衣に詰め、本能寺の僧衆が立ち退くのを装って運び出し、阿弥陀寺に持ち帰り、塔頭の僧だけで葬儀をして墓を築いたと云う。また二条で亡くなった信忠についても、遺骨(と思しき骨)を上人が集めて信長の墓の傍に信忠の墓を作ったと云う。さら上人は光秀に掛け合って変で亡くなった全ての人々を阿弥陀寺に葬る許可を得たとしている。秀吉が天下人になった後、阿弥陀寺には法事領300石があてられたが、上人はこれを度々拒否したので、秀吉の逆鱗に触れ、大徳寺総見院を織田氏の宗廟としてしまったので、阿弥陀寺は廃れ無縁寺になったという。この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため、享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないという説もあるが、この縁で阿弥陀寺には「織田信長公本廟」が現存する。ただし阿弥陀寺と墓は天正15年に上京区鶴山町に移転している。
 
 磯田先生は,従来からあるこの異説を「新説」として主張したのであるが,証拠は全くない.
 さすがに磯田説は大胆に過ぎると思ったか,昨日から始まった新番組のNHK『歴史探偵「本能寺の変」』は磯田説を完全に無視した.というか,磯田先生の関心は「信長の遺骸はどこにあるのか」であるが,『歴史探偵「本能寺の変」』にコメンテーターとして出演した河合先生は「信長の遺骸がどこにあろうと,それより大切なことは,遺骸が見つからなかったために光秀の謀反が短時日で終わったことだ」とのオーソドックスな歴史解釈の立場のみで番組の解説をした.両先生は関心のあるところが全然別なのである.だから河合先生は,阿弥陀寺にある伝「信長の墓」には触れなかったのだろう.
 この『歴史探偵』の第一回「本能寺の変」は,明らかに来年の大河ドラマ『麒麟がくる』の番宣を兼ねているわけで,如何に『麒麟がくる』のシナリオがちゃんとした考証の上に書かれているかを視聴者に見せようとした.
 昨日の放送では,光秀の進軍経路について,主流の説である山陰道経路つまり「丹波亀山城老ノ坂→山崎→本能寺」と,「明智越え」の言い伝え,すなわち「丹波亀山城→唐櫃越から四条街道→本能寺」の二経路を,進軍に要する時間で比較した.この進軍所要時間に関する考証の杜撰さ (例えば「刻」には前後一時間ずつの大きな誤差があることを無視した等) も専門家なら異議を唱えるに違いないが,それはともかく,明智の軍勢は本能寺に到着して奇襲をかけた.
 信長は,明智一万三千の軍に襲われては成す術なく,死を覚悟して本能寺建屋に火を放てと命ずる.
  
20191219a
画面説明1;助からぬと悟った信長が,手の者に「火を掛けいっ」と命ずる.すると床に油が撒かれる.
 
20191219b
画面説明2;次に室内の灯台が蹴倒され,撒かれた油に着火する.
 
20191219c
画面説明3;そして瞬くまに油は燃え上がった.
  
という具合に再現VTRは描いたが,これが大嘘のコンコンチキなのである.
 なぜかというと,この当時の室内照明には植物油が用いられていたからである.
 簡単に説明すると,小皿 (灯明皿) に少量の植物油 (安価な荏胡麻油や高価な菜種油) を入れ,これを灯台に載せる.灯台とは,時代劇を見ているとよく登場するもので,百科事典 (小学館日本大百科全書「灯台」) に次の解説がある.
 
油が灯火に使われ始めたのはかなり古い時代からで、初めは細い棒を3本束ねて足を開き、その頂部に灯明皿を置いた結(むすび)灯台とよぶ簡単な作りのものを使用した。灯台の高さはほぼ三尺二寸(約97センチメートル)とされ、丈の高いものを高(たか)灯台、長檠(ちょうけい)といい、低いものを切(きり)灯台、短檠(たんけい)などとよんだ。屋内でこうした灯火具を使用していたようすは中世の絵巻物にも描かれている。平安時代以降、円型の台に長竿(さお)を立てその先端に蜘蛛手(くもで)をつけて灯明皿を置いた灯台が用いられるようになった。
 
 再現VTRで使われているのは,上の引用箇所にある高灯台である.
 灯明皿の油には短い灯心を浸す.油で濡れた灯心の先に点火すると,灯心の先端は高温になるため油は燃えるという具合だ.ここで重要なのは灯心の先のように高温にならないと,植物油は燃焼しないということである.
 ではよく報道される「てんぷら油火災」とは,どういう現象か.
 植物油は二百度以上に熱せられると一部が加熱分解して燃焼性のガスを発生する.三百度以上になると分解が激しくなって表面から分解ガスがどんどん揮発し,火種があると簡単に着火する.こうして着火した油の表面は,容易に油自体の着火温度である三百六十度以上になり,遂には植物油自体が燃焼を始める.
 つまり植物油を燃やすためには,非常に高温に加熱しなければならない.てんぷら鍋に入れた数百ミリリットルの油に火をつけるには,現在のガス器具でも強火でガンガンに数分間も熱する必要がある.植物油は,揮発性である白灯油のように簡単には着火しないのである.
 この事実は消防署員でも知らないことがある.防火訓練で鍋のてんぷら油にチャッカマンで火をつけようとして着火せず,困惑している消防署員を私は見たことがある.ただし正しい知識が書かれている消防関係のサイトもある.例えばここ
 
 今回の『歴史探偵』の再現VTRで描かれたデタラメは,実は昔からテレビ時代劇ではおなじみの真っ赤な嘘なのである.
 どうすれば火事になるか,あるいはならないか.これは調べれば簡単に得られる知識だ.それをせずに『歴史探偵「本能寺の変」』は,無知というよりも,番組制作に必要な誠実さを欠く思い込みで制作されたのだ.
 NHKには,首都直下地震時の火災を取り上げた体感 首都直下地震ウイーク パラレル東京』を制作した多数の優れたスタッフ陣がいる一方で, 消防署に電話一本をかけて火災のメカニズムを知ろうとする知恵もない連中が,『歴史探偵』みたいなエンタメ番組を作っているのだ.
 今回の放送で『歴史探偵』制作スタッフの力量が情けないものであることが,よくわかった.小言幸兵衛の如く,第二回以降の考証の誤りをイジルのが楽しみになってきた.おそらく来年の『麒麟がくる』も,考証もヘッタクレもない番組になるであろうが,それはそれで私の老後の楽しみになるだろう.w

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