« 栗御飯を炊く | トップページ | ほぼ同時 »

2019年11月 6日 (水)

ドストエフスキーの聖母 (一)

 中野京子先生の『欲望の名画』に,ラファエロの『サン・シストの聖母』(『システィーナの聖母』とも) の解説があり,そこに次のようにある.
 
そして一八六七年、ロシアから著名な作家がドレスデンを訪れた。彼はこの作品を見るため何度も所蔵美術館へ通ったのだが、なにしろ縦が二・六メートル以上ある大画面のうえ部屋が薄暗く、目の高さにあるのは聖母の素足あたり。肝心の顔がよく見えない。見たい、知りたい、その欲求抑えがたく、ある日ついに傍の椅子を引き寄せ、その上に乗って観るという暴挙に出た。係員に注意されたのは言うまでもない。だが彼は係員が去ると再び椅子に上がって絵に近づき、後から妻に「マドンナを見たよ」と報告したという。
 ――ドストエフスキー、四十六歳のエピソードである。
 彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった。
 
 私たちが中野先生のお名前を知った頃は,メディアには「専門はドイツ文学」と紹介された.やがて先生による西洋絵画の解説書が大ヒットを連発し,百科事典には今や西洋文化史家,作家と書かれている.上の引用箇所に書かれていることは,私は『欲望の絵画』で初めて知った知識であるが,何を調べ,どのように勉強したら,このようなエピソードを著書に記すことができるのだろうと私は感服した.
 そこで上の引用箇所を出発点にして,ドストエフスキーと『サン・シストの聖母』について調べることにした.西施の顰みに倣う,とはこのことだ.以下の記述にある書籍は,書誌事項や簡単な紹介を,本稿とセットの記事《メモ「ドストエフスキーの聖母」》に書いた.
 
 さてまず最初に読んだのはE・H・カー著,松村達雄訳『ドストエフスキー』(筑摩叢書106) である.
 カーは本書の第十一章を,『賭博者』の締め切りに追われた遅筆のドストエフスキーが,速記者としてアンナ・グリゴーリエヴナを雇ったことから書き始めている.それは一八六六年十月四日のことであったが,十月三十日に脱稿した.この二十六日間に,四十五歳のドストエフスキーは,二十歳のアンナを愛するようになった.十一月三日にドストエフスキーはアンナの家を訪問し,その母と会った.そして八日,アンナにプロポーズし,承諾を得たのである.
 カーによると,アンナはドストエフスキーとの結婚を受け入れたが,しかしいざ結婚してみると,ドストエフスキーは嫉妬深いくせに,夫として妻を守る気概に欠けていただけでなく,経済観念もなかった.そんなドストエフスキーの周りは,アンナにとって油断のならない親類たちが囲んでいた.彼らはドストエフスキーから金銭をせびり,食い物にしていた.それ故,もしもドストエフスキーが世を去った場合に,彼の著作物の正当な相続者となる新妻のアンナは,彼らにとって邪魔者だったのである.ドストエフスキーは,妻の敵に対して断固たる態度を取ることのできない男だった.いざこざを運命のせいにして手をこまねいているだけで,解決の途を探す能力がなかった.当ブログの筆者は,現代女性ならこのような優柔不断男にはさっさと離婚を言い渡して去るだろうと思う.
 そこでアンナは,親類との軋轢を避けて,ドストエフスキーを連れてヨーロッパに逃れることにした.このアンナの決断に,カーの筆は好意的である.
 
モスクワに十日ほど行った結果として、カトコフからもう千ルーブルがはいることになった。アンナが、外国旅行によってこの家庭的環境から夫を救い出そうという計画を思いついたのも、モスクワにおいてだったらしい。彼女は秘密主義の用心深い性格だったから、計画が充分熱するまでは、これを隠しておきたいところだった。しかし、ペテルブルグに帰った日に、フョードルは家族の集まっているところで、うっかり口をすべらしてしまった。彼はエミリヤに二百ルーブル、パーヴェルに百ルーブル、ニコライに百ルーブル、そして当座の家計の必要に百ルーブル、外国旅行に五百ルーブルとっておこうといった。みんなが口をそろえて騒ぎ立てた。エミリヤは家族の必要をみたすには五百ルーブル以下では駄目だとはっきり宣言した。パーヴェルは二百ルーブルを要求した。忘れられていた債権者も、彼に急に金がはいったことを嗅ぎつけて、五百ルーブルの期限経過の手形を持ち出した。ドストエフスキーは、どれをも断ることもできず、何一つ対策も言い出せなかった。こういうような場合には、自分の失望をただ運命のせいにするほかなかった。
 しかし、頭のよい、意志の強い若妻は、この危なっかしい結婚生活が破滅するか、救われるか、今やその瀬戸際だと決心した。彼女の持ってきたわずかな持参金はピアノとか、ほんの数少ない家具や宝石類に使ってしまった。そこで母の同意を得て、自分のもっている一切を質に入れ、その金で夫を外国に連れて行こうと決心した。二人がモスクワから帰ってきたのはパーム・サンデー (復活祭直前の日曜日) であった。月曜日にはフョードルは家族の要求に屈服した。火曜日にアンナは夫に自分の計画を打明け、彼が躊躇するのをおさえて、必要な旅券入手の手続きを遮二無二やらせた。翌日、商人が来て、アンナの所有品を値踏みし、持ち去る手はずをした。その夕方になって、親戚たちは二人がすぐにヨーロッパに出発するのだとはじめて知っておどろいた。彼らは反対を唱える余裕もなかった。二日前に彼らの要求はみな認められている。この外国旅行の費用が、とうてい自分たちにむかって開かれそうもない財布の所有者から出ることを知って、彼らはせめてもの慰めとした。受難日の午後二時、フョードルとアンナはベルリン行きの汽車にのった。古い伝記作者のいうように債鬼をのがれるためではなく、油断のならぬ執拗な親類からのがれるためであった。二人は四年三カ月の間、ペテルブルグに帰らなかった。アンナは突如として、完全な、決定的な勝利を得たのである。
 
 こうしてアンナは夫を連れてヨーロッパへ逃れた.この旅の途中で二人はラファエロの『システィーナの聖母』を鑑賞する機会を得た.そしてこの絵は,死が彼らを分かつまで,二人を魅了したのであった.
 さてカーの『ドストエフスキー』の十一章はアンナの回想録に基づいて書かれているが,第十二章以降はアンナが遺した日記を出典としている.その日記の日本語訳は『ドストエーフスキイ夫人 アンナの日記』(木下豊房訳,河出書房新社,1979年9月28初版発行;以下単に『アンナの日記』とする) である.以下は『アンナの日記』に拠って記す.
 
 ドストエフスキーとアンナは,一八六七年四月十四日の午後五時にペテルブルグを出発し,フランクフルト,ベルリンを経て,十九日の昼前にドイツのドレスデンに到着した.二人は一休みするとすぐにドレスデン美術館へ出かけた.Wikipedia【ドレスデン】には次の記述がある.
 
ザクセン侯の美術コレクションは現在ツヴィンガー宮殿の一角を占めるドレスデン美術館のアルテ・マイスター絵画館(Alte Meister)などで展示されている。アルテ・マイスターのコレクションの中にはラファエロの「システィーナの聖母」が含まれる。そのほかレンブラント、ルーベンス、ルーカス・クラナッハ、デューラーなどヨーロッパを代表する画家たちの膨大な数の作品が公開されている。この美術館はヨーロッパでも重要なコレクションを有する施設のひとつと言ってよいであろう。
 
『アンナの日記』を読むと,ドストエフスキーは絵画に詳しかったと思われるが,ドレスデン美術館所蔵『システィーナの聖母』を観るの初めてであった.それはアンナの日記に書かれている次の箇所,すなわち彼が館内でアンナを案内する際に絵の展示されている場所を間違ったという記述 (p.12) でわかる.以下の引用文中で,アンナは夫をフェージャと呼んでいる.
 
私たちは急いで支度して、美術館へ出かけた。美術館は宮殿の近くで、劇場に面していた。入場料は五ジルベルグローシ (十五コペイカ)。私たちは中に入って、まずざっと大急ぎで展示を見てまわった。フェージャは間違って、ホルバインの聖母の所へ私を連れてきてしまった。最初その絵は私には大変気に入った (美術館はゴブラン織が展示してある、円屋根で円形の大きな建物を境に二つの部分に分かれていて、一方の隅にホルバインの聖母、もう一方の隅にラファエロの聖母がある)。やっとフェージャは私を聖シストの聖母の所へ連れてきた。これまで見たどんな絵も、これほどの印象を私にあたえてくれたことはなかった。この神々しい顔はなんと美しく、なんと清らかで、そして憂いに満ちていることだろう。その目はなんと柔和で、どれほどの苦しみを秘めていることだろう。フェージャは、聖母の頬笑みには嘆きがこもっているといった (それはとても大きな絵で、ガラス張りの豪華な金の額縁におさめられている。一般に、どのすばらしい絵にも損傷を防ぐために、ガラスがはめこまれている)。絵から少し離れた所に、鑑賞者用のビロード張りの腰掛けがある。この場所で絵を見る人の数は多くないのだが、でもそこに腰をおろして、感慨深そうに聖母をじっと見ている人影がいつも絶えない。聖母に抱かれた幼児は私にはあまり気に入らない。あの子の顔はすこしも子供らしくないとフェージャがいうのは当たっている。聖シクストは実にすばらしい。聖母への敬虔の念にみちた老人の絶妙な顔。聖バルバラは一見美人のようだけれど私には全然気に入らない。彼女はひどく芝居がかって誇張した描き方がされており、そのポーズは不自然。天使たちのうちで私が好きなのは、右側にいて魅惑的な表情で上のほうを眺めている天使。聖シストの聖母の印象に私は圧倒されて、もう他の絵は見る気がしなくなった。
 
20191001b_20191107100501
[『システィーナの聖母』;パブリック・ドメイン;Wikimedia File:RAFAEL - Madonna Sixtina (Gemäldegalerie Alter Meister, Dresden, 1513-14. Óleo sobre lienzo, 265 x 196 cm).jpgから引用 ]
 
 アンナが称賛した『聖シストの聖母』(『システィーナの聖母』) は,ドレスデン美術館を構成する十二の美術館の一つであるアルテ・マイスター絵画館の所蔵である.『システィーナの聖母』の前に鑑賞して「気に入った」と日記に書いた「ホルバインの聖母」は,残念ながら引用可能な画像がウェブ上にないようである.その後,ホルバインのこの絵は「気に入らなくなった」と書いている.
『システィーナの聖母』に感動したドストエフスキーとアンナはドレスデン滞在中,何度も繰り返して美術館に出かけ,このラファエロの傑作を鑑賞したとアンナは日記に書いている.そして日記には,アンナは一人でも美術館に行き,有料でラファエロの画集を閲覧した (p.47) とか,『システィーナの聖母』の写真を買おうとした (p.113) となどというくだりがある.
 
今日は私にとって不本意な一日だった。今朝、かなり早く起き、美術館へ出かけるつもりよ、とフェージャにいった。もちろん彼は、それは結構なことだ、と同意してくれた。一時半に家を出たが、聖母の写真を買いたいと思って、途中で一軒の紙店に寄った。当地ではこの種の写真はとても高い。たいして大きくもなくて、あまり似てもいない写真が十Silb.もする。聖シストの聖母は一枚もなかった。夕方までにはとり寄せておきましょう、とのことだった。何も買わないのはぐあいが悪かった。Zauber-Photographien (マジック写真) を見かけた。それは二枚の封筒の組み合わせで、一枚には写真、すなわちワニスがかけられた紙、もう一枚には液をしみこませた紙が入っている。写真を浮き出させるには、ワニスをかけた紙を小皿に置き、その上に液をしみこませた紙を重ねて、水をかける。そうすると写真が見えてくる、という仕掛けだった。これは七・五Silb.で、六組入っていた。もちろん、私はこれを買った。
 
 上の文中,Silb.は,ドイツの通貨単位“SilberGroschen”のことだろう.
 後述するが,ドストエフスキーは晩年に、ある人物から『システィーナの聖母』の高品質写真を贈られた.アンナの回想録に記されているその写真こそが,彼の臨終のときに書斎の壁に飾られていたものである.
 上の日記の記述によれば,当時のドレスデンで販売されていた絵の写真は《たいして大きくもなくて、あまり似てもいない写真が十Silb.も 》したという.ここでよくわからないのは《あまり似てもいない 》写真という表現である.このすぐあとにPhotographienという単語が出て来るところを見ると,これは誤訳ではなく,原文には「絵」ではなく確かに「写真」と書かれていると思われる.肉筆複製画あるいはその印刷物 (つまりレプリカ) なら「似ている」「似ていない」はあるけれど,写真が「似ていない」という意味がわからない.謎である.ちなみに,言うまでもなく,ここでいう写真は白黒写真である.カラー写真が実用になったのは,もう少しあとの時代である.
 この件は,ドストエフスキーの書斎にあった写真に関して,また触れることにする.
 
 さてこの年の六月二十七日 (日記の日付としては二十六日のところに書かれている),ドストエフスキーとアンナの二人は美術館に出かけた.その時のことをアンナは次のように書いている.(p.144)
 
美術館の中はものすごく暑かった。フェージャには例によって、今日は何ひとつ気に入らなかった。前にはすばらしいといっていたものも、今日は見る気もしない様子だった。これは彼にはよくあることで、発作のあとでは印象がまるで変ってしまうのだった。フェージャは聖シストの聖母をまだよく見たことがなかった。というのは遠くにあるので見にくかったし、彼は柄付眼鏡も持っていなかったからである。それで今日、フェージャは聖母をよく見るために、この絵の前の椅子の上に立つことを思いついた。もちろん、ほかの時ならば、フェージャはこんな突拍子もない無作法はやる気にならなかっただろうけれど、今日はそれをやってのけたのだった。私が止めても無駄だった。フェージャのところへ係員がやってきて、そんなことは禁止されています、と注意した。係員が部屋から姿を消してしまうと、フェージャは、外へ連れ出されてもかまわないから、もう一度、椅子にのぼって聖母を見るのだ、といい張り、もしおまえがいやな思いをするのなら、他の部屋へ行っててくれ、といった。私は彼をいらだたせたくなかったので、そのようにした。数分たって、フェージャは、聖母を見たよ、といって、やってきた。フェージャは、自分が外に連れ出されたところで、大した問題じゃない、使用人には使用人根性しかないのだ、などといいはじめた。心の中では、私はフェージャの考えに反対だった。使用人が館内のいろんな無作法を見逃さないようにと命じられていたところで、それは使用人がわるいわけではない。誰もが自分の都合のよいしかたで絵を見ようと考え出したとしたら、まったくとんでもないことになってしまう――それは些細な無秩序ではすまされなくなる。
 
 余談だが,ドストエフスキーという人物は,気に食わぬ他人を理不尽に罵ったり,上の引用文中にあるような非常識なことを平気で行う.その種のことが『アンナの日記』に色々と書かれている.それを記録したアンナは,内心ではドストエフスキーの振る舞いに反対であっても,愛情がそれを上回ってしまっているせいか,許してしまう.ドストエフスキーの小説に興味のない私にはわからぬことであるが,ドストエフスキーを褒めそやす人たちは,ドストエフスキーの人格をどのように評価しているのだろう.ユダヤ差別の件にしてもそうで,ナチスのゲッベルスに影響を与えた,という一点で,私はドストエフスキーを読む気が起きない.
 もう一つ余談.私は,人種や民族や性などについて差別主義傾向のある作家の作品は端から読まないのであるが,以前私が書いた記事にそのような事を書いたら,コメント投稿欄にどこかの無礼な若造が,私の読書に関するポリシーを非難する内容の書き込みをした.それはいかにも頭の悪そうなコメントで,しかもその後,ネチネチと何度も粘着してきたので,それ以来私はブログのコメント投稿欄を閉鎖した.このブログは私の生活と意見の記録なのであるから,私の考えを書く.差別を肯定する者の粘着コメントにつきあっている暇はない.このブログにコメント投稿欄がないのは,そういう事情である.
 
 閑話休題.
 ドストエフスキーが椅子の上に乗って『システィーナの聖母』を観たというエピソードは,実はアンナの回想録 (羽生操による新訳および旧訳,松下裕による新訳および旧訳) には書かれていない.従って,このエピソードの出所とすべきは『アンナの日記』だけである.
 では再び中野京子先生の『欲望の絵画』から,当該箇所を抜き出してみよう.
 
そして一八六七年、ロシアから著名な作家がドレスデンを訪れた。彼はこの作品を見るため何度も所蔵美術館へ通ったのだが、なにしろ縦が二・六メートル以上ある大画面のうえ部屋が薄暗く、目の高さにあるのは聖母の素足あたり。肝心の顔がよく見えない。見たい、知りたい、その欲求抑えがたく、ある日ついに傍の椅子を引き寄せ、その上に乗って観るという暴挙に出た。係員に注意されたのは言うまでもない。だが彼は係員が去ると再び椅子に上がって絵に近づき、後から妻に「マドンナを見たよ」と報告したという。
 ――ドストエフスキー、四十六歳のエピソードである。

 
 上の引用文中,下線の部分は『アンナの日記』に書かれていることと食い違っている.『アンナの日記』では,ドストエフスキーが椅子に乗った理由を「近眼でしかも眼鏡を持っていない」ためであったとしているのに対して,『欲望の絵画』では,絵が大きい上に展示室が薄暗かったためであるとしている.
 ではカーはどのように書いているか.下に松村達雄訳『ドストエフスキー』から抜粋引用するが,松村の翻訳では,この部分は引用文の形となっている.明示していないが,いうまでもなく『アンナの日記』からの引用だとわかる.内容的にも『アンナの日記』と同じである.
 
フョードルにはシスティナのマドンナがよく見えませんでした。近眼で、眼鏡をもっていなかったからです。きょう彼は、もっとよく見るために、絵の前に椅子をおいてその上に立とうと考えました。……私は止めさせようとしましたが駄目でした。画廊の番人がやってきて、そういうことは禁止されていると申しました。番人が部屋から出ていってしまうと、すぐにフョードルは、追い出されたってかまうものか、椅子にのって是非ともマドンナをみたいんだ、もしそれがいやなら、私は次の部屋にいったらいいのだ、といいました……彼をいら立たせたくないので、いわれる通りにしました。やがて彼は私のところに来て、マドンナは見たよ、といいました。
 
 それでは私の手元にある他の翻訳書にはどう書かれているか.
 アンリ・トロワイヤ著,村上香佳子訳『ドストエフスキー伝』は,このエピソードを採用していない.レオニード・ツィプキン著,沼野恭子訳の小説『バーデン・バーデンの夏』は,このエピソードを材料にはしているが大きく書き換えていて実際を知る手掛かりにはなっていない.
 その他の,小林秀雄や埴谷雄高の評論は,ドストエフスキーが『システィーナの聖母』を高く評価していたこと自体を重く見ていないようだ.
 というわけで,私が調べた限りでは,『欲望の絵画』の《彼はこの作品を見るため何度も所蔵美術館へ通ったのだが、なにしろ縦が二・六メートル以上ある大画面のうえ部屋が薄暗く、目の高さにあるのは聖母の素足あたり。肝心の顔がよく見えない。見たい、知りたい、その欲求抑えがたく、ある日ついに傍の椅子を引き寄せ、その上に乗って観るという暴挙に出た 》の下線部は,中野先生の脚色だろうと思われるのである.
 
 次に,《彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった 》を検証してみよう.
(ドストエフスキーの聖母 (二) へ続く)

|

« 栗御飯を炊く | トップページ | ほぼ同時 »

続・晴耕雨読」カテゴリの記事