メモ「ドストエフスキーの聖母」/10/21更新終了
ドストエフスキーは書斎のソファの上で亡くなった.書斎のソファは壁に接するようにして置かれており,その壁のソファの上方には額装された『システィーナの聖母』(『サン・シストの聖母』とも) が飾られていた.もちろん本物ではない.
その額装『システィーナの聖母』は,翻訳された回想録,伝記,評論,小説等々によって,「レプリカ」「複製画」あるいは造語と思われる「写真複製」などと表現されており,一定していない.しかるに,ネット上を検索調査してみたが,このことを誰も問題にしていない.どうでもいいことだから誰も気にしていないということかも知れないが,私はこういう細かいところが気になるタチなので,容易に入手できる書籍を手に入れて,調べてみた.以下は資料として用いた書籍のリストである.これらの書籍を基に別稿「ドストエフスキーの聖母」を記す.
ドストエフスキーの書斎の壁に飾られていた『システィーナの聖母』は,どのようなものだったのか.ドストエフスキーの文学ではなく,書斎のインテリアというこの小さな問題に関する当事者はドストエフスキーと彼の家族であるが,とりわけドストエフスキーの妻であったアンナ・ドストエフスカヤが遺した回想録が一次資料である.しかし彼女の回想録は原稿のまま遺され,生前は出版されなかった.その原稿がどこに存在するか調べたが所在不明である.わかっているのは,彼女の死後,回想録を編集 (=加工) した二つの出版物 (=二次情報) があるということである.
しかし私はロシア語が全く読めないので,日本語に翻訳された書籍に頼るしかない.多くの翻訳書の中で,記述を参照する価値があると私が判断し,いま手元に集められた書籍は以下の通りである.著者名等の書誌事項は,このブログにおける標準的な書き方でなく,その書籍で用いられている表記に従った.ただし実際の書籍では正字体の漢字で印刷されていても,原則は新字体に変えた.しかし仮名遣いはそのままとした.
書籍[1]〈原著初版の発行は1931年=昭和六年〉
E・H・カー著,松村達雄訳『ドストエフスキー』(筑摩叢書106,昭和43年3月23日初版第1冊発行,昭和49年5月30日初版第9冊)
E・H・カーの原著は Edward Hallett Carr:Dostoevskey, A New Biography, 1931 である.この本は巻頭に,『ロシア文学史』を著したD・S・ミルスキーによる序文と,原著者カー自身による序文が置かれている.また巻末には訳者後記もある.それらから一部を下に引用する.
* ミルスキーによる序文から引用
《(前略)…… ドストエフスキーの新しい伝記も十年前ほどには人々の注目をひきそうにもない。しかし、まさにこの十年間にロシアの研究は彼の生涯と作品についての新しい資料をまったくおびただしく明るみに持ち出した。そこで、これまでの彼に関する書物は多少ともすべて古くさいものになってしまった。今日では、この新しい材料の集積も当然の限界に達し、その源泉はどうやら尽きたようだ。そこで、まさに今日こそドストエフスキーについての真に適切な伝記が書かれるべ時となった。そしてたまたま、この仕事ははじめて一イギリス人によって試みられた。――ロシア語に精通し、従って利用し得る資料の宝庫をも悠々と調査できるイギリス人である。かくてカー氏のこの書物を推薦せねばならぬ第一の理由は、これは、各国語の伝記のうちでも適切な資料を基にして書かれた最初のドストエフスキー伝だということである。
しかし、それだけが長所であるといったようなことではおよそない。この書物はまた著しく識別力に富んだ書物である。ドストエフスキーの娘の書いた扇情的ゴシップめいた伝記、ミドルトン・マリ氏の偽善的、感傷的な評論、アンドレ・ジィドのひねくれたひとり勝手な詭弁、多くの深刻ぶったドイツの研究家たちの言語道断なたわ言、こうしたものの後で、このカー氏の書物はまことに感謝すべきものである。ここにはナンセンスは一つもない。これはおそらく、主張し得ることのきわめて多い主題について書かれた (ロシア以外で出版された) 最初の書物である。 ……(後略)》
《ドストエフスキーの娘の書いた扇情的ゴシップめいた伝記 》とは,次女リュボーフィ・ドストエフスカヤが書いた邦題『わが父フョードル・ドストエフスキー』を指すと思われる.入手困難.
《ミドルトン・マリ氏の偽善的、感傷的な評論 》は,ジョン・ミドルトン・マリーが書いたいくつかの評論を指す.山室静訳『ドストエフスキイ』(鎌倉書房,1953年) が古書で流通している.
《アンドレ・ジィドのひねくれたひとり勝手な詭弁 》は,アンドレ・ジッドの書いた邦題『ドストエフスキー』を指す.新潮文庫 (1955年) が古書で流通している.
* カー自身による序文から引用
《ドストエフスキーが死んだのは一八八一年であるが、その二年後、彼の友人ストラーホフとオレスト・ミルレルが共同で彼の伝記を書き、その最初の小説全集に添えた。この伝記は今日でも貴重なものであるが、本書では終始「公式の伝記」と称することにする。この伝記には、ドストエフスキーの未亡人が発表したいと思うような事実と彼の手紙が含まれている。未亡人は一九一九年まで生存しており、その在世中は、これ以上の重要資料は発表を許さなかった。英文で書かれた現存の唯一の伝記 (J・A・T・ロイド著、一九一二) は、この公式の伝記にイギリスの衣を着せたものにすぎない。
未亡人の死とソヴィエット革命とによって厖大な資料が解放され、過去十年間にそれは逐次発表された。最初にドストエフスキーの唯一の遺児である娘の手になる伝記が現れた (一九二一年ドイツで出版)。これは細かい点ではまったく信用できないが、これまで世間の眼から隠されていた彼の生活の多くの面――父の殺害、最初の結婚の不幸、ポリーナ・スースロワ (ただし名はあげていない) との複雑な関係、第二の結婚後に生じた家庭の内紛をはじめて明らかにした。一九二三年には彼の妻の日記が公にされ、ここには結婚生活第一年目における四カ月にわたる詳細な記述がある。(一九二八年英訳出版)。一九二五年には彼の妻の回想録が出た。これは彼の死後相当たってから書かれ、完結してはいないが、晩年の生活に関する豊富な資料を提供している。一九二六年にはてん彼の生涯の最後の十四年にわたる、全部で百六十二通の妻への手紙が出版された (一九三〇年英訳出版)。一九二八年にはポリーナ・スースロワの日記、一九三〇年には弟アンドレイの回想録が出た。》
《ポリーナ・スースロワ (ただし名はあげていない) との複雑な関係 》については,ポリーナ・スースロワの日記や手紙を基にして書かれたA・P・ドリーニン『スースロワの日記―ドストエフスキーの恋人』(みすず書房,1989年7月) がある.古書が流通している.
《一九二三年には彼の妻の日記が公にされ 》については,アンナ・ドストエーフスカヤ著, 木下豊芳訳『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』(河出書房新社,1979年9月) がある.古書が流通している.
* 松村による後記から引用
《小林秀雄氏がその名著『ドストエフスキーの生活』(一九三九年) の執筆に当って、この書を有力な資料として利用したことは、小林氏自身の附記にも明らかだし、また周知のことでもある。》(正しくは,小林秀雄の著書のタイトルは『ドストエフスキイの生活』である.お粗末な間違いだ)
アンナ・ドストエフスカヤの回想録が邦訳出版 (羽生操訳,興風館) されたのは,昭和十六年 (1941年) であるから,ロシア語を読めなかった小林秀雄は,既に紹介したアンナの日記 (邦訳出版1979年) 及びこの回想録を読んでいないはずである.
小林秀雄『ドストエフスキイの生活』には重大な誤り (江川卓『ドストエフスキー』参照のこと) があるが,松村達雄の訳は小林秀雄の誤りをそのまま引き継いでしまっている.
書籍[2]〈原著初版の発行は1925年=大正十四年〉
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイの回想 上巻』(興風館,昭和十六年六月二十九日発行,昭和十七年七月十五日第四刷発行)
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイの回想 下巻』(興風館,昭和十六年十二月十日発行,昭和十七年八月十五日第三刷発行)
1941年=昭和十六年.
上巻には,訳者による序文があり,下巻には同じく訳者による後記と,訳者が独自に作成した年譜がある.
序文と後記で訳者が記している重要なことは,この翻訳が,ロシア語で出版された書籍ではなく,フランス語の翻訳書 (アンドレ・ボークレル訳) を底本としていることである.従って仏訳における誤りは,仏訳者の思い違いによる明白な誤謬以外は引き継がれてしまった可能性がある.
底本の誤訳に関して訳者の羽生が書いている箇所を下に引用する.
* 羽生による後記から引用
《この下巻もアンドレ・ボークレルの仏訳によつたが、「ウォルホフ河」がヴォルガ河 (第三章)、「フョードル」がテオドル、「一月半ば」が二月半ば (第二十一章) となつているやうな、明かに誤謬だと思はれる箇所が外にも二三あつた (恐らく仏訳者の思ひ誤りであらう) ので訂正した。(上巻でも「ヴェニス」をウヰンとしたやうな誤謬が二三あつたので訂正しておいた。尚ほ上巻第三章の「イワンの馬鹿の死」は「イワン雷帝の死」の誤りであるから訂正する。) 》(当ブログ筆者による註;文中の「ヰ」は,原文では促音に表記されている)
この訳者後記を読むと, 羽生が底本としたフランス語訳はかなり程度の低い翻訳 (イワンの馬鹿 w) であると思われる.従って羽生操訳『夫ドストエーフスキイの回想』の信頼性には疑問がある.
書籍[3]〈原著初版の発行は1940年=昭和十五年〉
アンリ・トロワイヤ著,村上香住子訳『ドストエフスキー伝』(中公文庫,一九八八年一二月一〇日)
1988年=昭和六十三年.
中公文庫版は昭和六十三年刊だが,単行本『ドストエフスキー伝』は昭和五十七年 (1982年) 刊である.
書籍[4]〈原著初版の発行は1925年=大正十四年〉
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイ 上巻』(三一書房,一九五七年,九月三十日 発行)
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイ 下巻』(三一書房,一九五七年,十月三十日 発行)
1957年=昭和三十二年.
書籍[2]と同じ訳者が別の出版社から出した.フランス語訳を底本とした旧訳とは,底本が異なるかも知れないと期待して探したところ,運よく古書を発見できたので注文した.しかし確認したところ,底本は同じフランス語の翻訳書であった.再刊に至る事情は不明である.
下巻の巻末に訳者の後記が附記されているが,なぜか底本上巻にあったという誤りについては言及がない (興風館版の後記には書かれている).また,興風館版にあった謝辞が削除されている.
書籍[5]
小林秀雄著『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫,昭和三十九年十二月二十日発行,昭和四十六年八刷改版,昭和五十三年十八刷)
1964年=昭和三十九年.
単行本は昭和十四年 (1939年) 五月に創元社から刊行された.
文庫版巻末の解説で江藤淳は《小林の『ドストエフスキイの生活』そのものが、大部分の史料をカーの名著『ドストエフスキー』にあおいでいるからである 》と書いている.
本書で小林秀雄が批評しているのはドストエフスキーの文学と思想であり,ドストエフスキーの実私生活に関して得るところはほとんどない.
書籍[6]
A・ドストエフスカヤ著,羽生操訳『ドストエフスキー』(筑摩書房『世界ノンフィクション全集27』に収載,昭和37年3月20日初版発行)
1962年=昭和三十七年.
時系列的に推察すると,書籍[4]を大幅にダイジェストしたものと思われる.訳者による解説はない.
書籍[7]
埴谷雄高著『ドストエフスキイ その生涯と作品』(NHKブックス,1965 (昭和40) 年1月20日 第1刷発行,2004 (平成16) 年6月10日 第40刷発行)
埴谷雄高はロシア語で書かれた本の翻訳を行ったほどの人であるが,なぜかドストエフスキーが臨終直前にした聖書占いで,妻アンナが読んだマタイ伝の言葉を誤訳している.このことの詳細は別稿で詳しく述べる予定だが,元々は羽生操の翻訳 (書籍[4]) にある誤訳を,アンナの原文で正誤を確かめることなく,そのまま写してしまった可能性がある.
書籍[8]
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『夫ドストエフスキーの回想』(筑摩書房『ノンフィクション全集18』に収載,一九七三年四月二十五日 初版第一刷発行)
1973年=昭和四十八年.
* 松下裕による「解題」から引用.
《(前略)…… アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤのこの『回想』は、遺稿としてあったものを、ドストエフスキー研究家グロスマンの編集で、一九二五年にモスクワとレニングラードで出版された。また最近、一九七一年に、あらたに編集・校訂されて、完全なドストエフスキー全集の刊行 (全三十巻、一九七二年―) に先だちモスクワで出版された。この翻訳は、それにもとづいている。
本書には、ドストエフスキーとの出会いから、結婚、外国生活、帰国後の二年間の、最も激動的な時期を収めてある。うち紙数の関係で、モスクワの妹の家庭訪問、モスクワ旅行の印象、ベルリンの一日、外国旅行のしめくくり、のみじかい各節を省いた。収録した部分は、全十二章のうち六章、全体の約半分にあたる。(七三・三・一) 》
限られた字数でありながら,翻訳の底本を明示して行き届いた「解題」だと思う.原著の仏語訳のそのまた日本語訳で,底本へのトレーサビリティがない羽生操の翻訳とエライ違いである.書籍[8]は松下裕訳のダイジェスト版であるが,そのフル・バージョンが上下二巻の書籍[9]である.
書籍[9]
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 上巻』(筑摩叢書,1973年,)
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 下巻』(筑摩叢書,1974年,)
状態のよい古書があったので注文した.現在は到着待ちである.
底本は書籍[8]と同じで,ドストエフスキー全集に先立って出版された「文学回想集」シリーズの一冊である.
書籍[10]
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 1』(みすず書房,1999年,)
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 2』(みすず書房,1999年,)
この二冊は,絶版になっていた筑摩叢書版 (書籍[9]) の再刊にあたって増補改訂したものである.訳者の「解説」には次のようにある.
《これを機会に、本文の全体にわたって手を入れ、一九八一年に「文学回想集」シリーズの新版として出された原書によって、「子どものころと娘時代」の三、四の二章「『見合い』の経験!」と「修道院入りの願い」を増補した。またこの新版には省かれている「晩年」の三「大公たちとの交わり」の後半は省略せずにそのまま残してある。》
1は図書館で借りる予定.2は入手済み.
書籍[11]
江川卓著『ドストエフスキー』(岩波新書,1984年12月20日 第1刷発行)
アンナ・ドストエフスカヤの回想によれば,ドストエフスキーは臨終の直前に「聖書占い」をした.その占いが指し示したイエスの言葉が,日本語で書かれた伝記,批評によってバラバラである.なぜそんなことが起きたのかが本書の冒頭で明らかにされている.著者の意図は別として,これは結果的に,小林秀雄や埴谷雄高らの文筆家としての姿勢を問うことになっている.
書籍[12]
レオニード・ツィプキン著,沼野恭子訳『バーデン・バーデンの夏』(新潮社,2008年5月25日)
本書はドストエフスキーの実像を描こうとした小説である.史料的な意味では伝記とは一線を画するが,読めばなにがしかの参考になると考えた.
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