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2019年10月13日 (日)

ドストエフスキーの臨終メモ /工事中 10/13更新

 ドストエフスキーの臨終の様子は,書物によっていくつかの食い違いがある.どうしてそのような事が起きたのか,明らかにするための資料調査の過程を下にメモしておく.
 調査開始時点での仮説は,アンナ・ドストエフスカヤの遺した原稿を編集した書籍によって,内容に大きな齟齬があるということである.従ってそれらを基にした伝記にも食い違いが発生していると考えられる.
 
(1) アンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフスキー 2』(松下裕訳,みすず書房,1999年)
「解説」p.285から引用
 《アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤのこの『回想』は、没後原稿のまま残されていたが、ドストエフスキー研究家レオニード・グロスマンの編集によって一九二五年にモスクワとレニングラードで出版された。また一九七一年に、あらたに編集・校訂されてより完全な形で、一九七二年から刊行された全三十巻本ドストエフスキー全集に先だって、「文学回想集」シリーズの一冊として出された。わたしの翻訳はそれにもとづいている。
 
(2) アンナ・ドストエフスカヤの略歴 (みすず書房のサイトから引用)
作家フョードル・ドストエフスキーの二番目の妻。旧姓スニートキナ。1867年2月15日にドストエフスキーと結婚。25歳の年齢差があった。ふたりのあいだにソフィヤ、リュボーフィ、フョードル、アレクセイのニ女ニ男が生まれる。速記者として夫の著者の出版に尽力。夫の没後、ドストエフスキー全集の編集出版にたずさわる。モスクワの歴史博物館にドストエフスキー記念室を設け、のちのドストエフスキー博物館の基礎をつくる。ヤルタで歿。

  生没年:1846-1918
  英語版Wikipedia
 
(3) アンナ・ドストエフスカヤの原稿 (一次資料) は所在不明
  * レオニード・グロスマン編の「回想」(二次資料) は1925年刊
     a. 羽生操訳・興風館1941年刊『夫ドストエフスキーの回想』(上・下),
     b. 羽生操訳・三一書房1957年刊『夫ドストエーフスキイ』(上・下),
        b.は,これを底本にしていると思われる.
        a.はさいたま市立図書館にあるらしい.
  * ロシアで出版された「文学回想集」シリーズの「回想」(二次資料,編集者不明) は1971年刊
     松下裕『回想のドストエフスキー』(みすず書房,1999年) はこれを底本としている.
 
(4) 山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間文庫) の第二巻 p.274から引用する.
一八八一年一月二十五日の夜、彼は執筆中ペンを落とし、それを拾うために本棚を動かしたとたん喀血した。二十六日にも血を吐いた。
 二月九日朝、二十五歳年下の妻のアンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーはじっと彼女をみつめていた。
「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
 と、いった。そして福音書を読んでくれといった。彼女はマタイ伝第三章を読んだ。
 九時ごろ、彼は妻の手をにぎったまま眠りにおちいり、十一時ごろ目ざめた。同時にまた喀血がはじまった。
 彼の家にあるのは五千ルーブルだけであった。彼はいった。
「アーニア、君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しいだろう……」
 夜八時過ぎ、ドストエフスキーはびくっとしてベッドの上に起き上った。血の細糸が彼のあごひげを伝わっていた。アンナは氷のかけらをふくませたが、血はとまらなかった。
 医者が呼ばれた。アンナと子供たちはベッドのそばにひざまずいて、涙を流した。
 八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。
 世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月前に完成していた。》(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 この記述で注目すべきは褐色の文字の部分である.すなわち,他の評伝等の資料で記されている「聖書占い」のことが書かれていないこと.
次にドストエフスキーにアンナが氷を含ませたこと.臨終の時刻を八時三十八分としていること.アンナの『回想のドストエフスキー』(みすず書房;1999年) には八時三十六分と記されている.
 
(5) アンナ・ドストエフスカヤ翻訳作品一覧
Анна Григорьевна Достоевская (Anna Grigoryevna Dostoyevskaya),1846/9/12-1918/6/9,Russia
『回想のドストエフスキー』 Воспоминания
  Two Volumes
  translator:松下裕 (Matsushita Yutaka),Publisher:筑摩書房 (Chikuma Shobo)/筑摩叢書
    One:1973,Two:1974
『回想のドストエフスキー』 Воспоминания
  Two Volumes
  translator:松下裕 (Matsushita Yutaka),Publisher:みすず書房 (Misuzu Shobo)/みすずライブラリー
    One:1999/9 ISBN4-622-05043-9
    Two:1999/12 ISBN4-622-05048-X
『夫ドストエーフスキイ』
  Two Volumes
  translator:羽生操 (Habu Misao),Publisher:三一書房 (San-ichi Shobo)
    1957
『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』
  translator:木下豊房 (Kinoshita Toyofusa),Publisher:河出書房新社 (Kawade Shobo ShinSha)
    1979/9
『夫ドストエーフスキイの回想』
  Two Volumes
  translator:羽生操 (Habu Misao),Publisher:興風館 (Kofukan)
    1941
『良人の追憶』
  translator:井田孝平 (Ida Kōhei),Publisher:春秋社 (ShunjyuSha)
    1924
「ドストエフスキー」(『世界ノンフィクション全集27』)
  translator:羽生操 (Habu Misao),筑摩書房 (Chikuma Shobo)
 
(6) 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫,1964年12月20日発行) のp.199から引用する.
彼は一八八一年一月二十八日に死んだ。夜八時半であった。臨終に就いては別に記すべきこともない。安らかな死であった。死ぬ二日前にリュビイモフに宛て彼の書簡集が強いられた最大の主題であった原稿料の催促を書き、死ぬ日の朝には聖書で占いをした。彼は日頃トボリスクでデカブリストの妻達から送 (ママ) られた聖書を枕頭に置き、これを出鱈目に開いては最初に目に這入った文句で危機を占う習慣があった。その朝出た文句はマタイ伝の次の文句であった。「ヨハネ之を止めんとして言う。我は汝にパブテスマを受くべき者なるに、反って我に来り給う。イエス答えて言い給う、今は許せ、我等斯く正しきことをことごとく為遂ぐるは当然なり」。「今は許せとは今日死ぬという事だ」と彼はアンナに言った。死因は明瞭には分かっていない。三日前に重い家具を動かそうとして、突然肺から出血したのだとアンナは記している。》(当ブログの筆者による註;「一月二十八日」はユリウス暦である)(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 最初に目に這入った文句では全くの誤り.「聖書占い」は,聖書を無作為に開き,見開き左頁の最初に出てきたイエスの言葉を占いに用いるのが決まりである.
 今は許せは,松下裕『回想のドストエフスキー』(みすず書房,1999年) では「とどむるなかれ」である.
 臨終の描写はこれだけである.本書の「解説」を書いている江藤淳によると,小林秀雄が参考にしたのはE.H.カーの『ドストエフスキー』と,イエルモリンスキーの『ドストエフスキー』(書誌事項は全く不明;国会図書館に情報なし) である.またアンナの著書としては,羽生操訳の『夫ドストエーフスキイ』(三一書房) の可能性が高い.
 
(7) 埴谷雄高『ドストエフスキイ その生涯と作品』(NHK BOOKS;1965年1月20日発行) のp.179から引用する.
「朝の七時に目を覚ますと、彼が、私の方を眺めていたので、私はその上に屈みながら訊ねた。
――いかがですの、お具合は?
――アーニャ、と、彼は低音でいった。僕はもう三時間も眠らなくて、じっと考えていたんだが、今日僕は死ぬよ、今、僕にそれがはっきりわかるんだ。」
 そして、ドストエフスキイはアンナに、蝋燭をともして、福音書をとってくれといいました。
 「この福音書は、彼が徒刑囚として出発の途についたとき、トボリスクにおいて、デカブリストの女たち――P.E.アンネンコフ、その娘のオルガ・イワノヴナ、R.D.ムラヴィヨフ・アポステル及びフォン・ヴィジーナから贈られたものであった。彼女たちは、ここへ着いた政治犯人たちとの面会を許してくれるよう、要塞司令官に願い出て、一時間だけ一緒にいることの許可を得た。で、彼らを((この新しい道程))で祝福し、十字を切って、犯人の一人一人に、要塞で許された唯一の本、福音書を、一冊ずつ贈ったのである。
 フョードル・ミハイロヴィッチは、徒刑場での四年間、少時もこの聖書を身体からはなさなかった。
 後にも、この福音書は始終テーブルの上で手にとられて、しばしば、何か疑いが起こるとか、決心のつかないことがあるとかすると、これをでたらめに開いて、出た頁を上から読んだものだ。今度もまたこれに訊ねようと思って、それを開いて、私に読んでくれるように言った。
 それはマタイ伝の第三章第十四節及び第十五節であった。《ヨハネいなみていいけるは、我は爾よりパブテスマを受くるべき者なるに、爾かえって我にきたるか。イエス答えけるは、暫し許せ、かくのごとくすべての義しきことは我等尽すべきなり。》
 聞いたろう! 暫し許せ、これは僕が死ぬことをさしているのだ!
 と良人は、本を閉じながら言った。」
 その夜の八時三十六分、血のしたたりが下顎を伝わったドストエフスキテは息をひきとりました。
 暫し許せは,松下裕『回想のドストエフスキー』(みすず書房,1999年) では「とどむるなかれ」である.
 
(8) 「今は許せ」「暫し許せ」問題
 ロシア文学者である江川卓『ドストエフスキー』(岩波新書,1984年12月20日) は,ドストエフスキーの臨終の詳細は書かれていないが,ドストエフスキーが最後の「聖書占い」に用いた聖書について詳しく述べている.

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