聖母のレプリカ
中野京子先生の『欲望の名画』(文春新書,Kindle版) からもう一つ.下の画像はラファエロの『システィーナの聖母』である.『欲望の名画』では『サン・シストの聖母』としているが,この絵が元々は北イタリアのピアチェンツァにあるベネディクト派修道院のサン・シスト聖堂の祭壇画として制作された作品であるためにそう呼ばれている.ちなみに「システィーナ」「サン・シスト」のシストとは,古代ローマ帝国時代の教皇シクストゥス一世を意味する.
この絵がイタリアからドイツに持ち込まれた経緯はWikipedia【システィーナの聖母】に書かれているが,ドストエフスキーとの関りについては何も触れられていない.
しかし『欲望の絵画』には,ドストエフスキーが1867年にドレスデン美術館を訪れて『システィーナの聖母』に魅せられたことを記したあと,次のように書かれている.
《彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった。》
(『システィーナの聖母』;パブリック・ドメイン;Wikimedia:File:RAFAEL - Madonna Sixtina (Gemäldegalerie Alter Meister, Dresden, 1513-14. Óleo sobre lienzo, 265 x 196 cm).jpgから引用)
私が興味を引かれたのは,ドストエフスキーの臨終の場所が,書斎のソファであったということである.そのことの出典を鋭意調べていったところ,とうとう関連記事を見つけた.《МУЗЕЙ Ф.М.ДОСТОЕВСКОГО》と題した個人サイトである.ここに,ドストエフスキーの書斎の写真と,次の記述がある.
《この部屋のソファでドストエフスキーはその生涯を終えた。》
この記事の文脈からすると,どうやら江川卓『ドストエフスキー』(岩波新書) が出典らしい.ドストエフスキーの評伝は多いが,この岩波新書には確実にドストエフスキーの臨終が描かれているようなので,Amazonで古書を注文した.ドストエフスキーに興味はないが,ドストエフスキーの臨終には関心があるからである.
さて山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間文庫) は,高齢者必読の書である.まだ読んでいない爺諸兄には読破をお勧めする.
その第二巻 p.274から少し長く引用する.
《一八八一年一月二十五日の夜、彼は執筆中ペンを落とし、それを拾うために本棚を動かしたとたん喀血した。二十六日にも血を吐いた。
二月九日朝、二十五歳年下の妻のアンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーはじっと彼女をみつめていた。
「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
と、いった。そして福音書を読んでくれといった。彼女はマタイ伝第三章を読んだ。
九時ごろ、彼は妻の手をにぎったまま眠りにおちいり、十一時ごろ目ざめた。同時にまた喀血がはじまった。
彼の家にあるのは五千ルーブルだけであった。彼はいった。
「アーニア、君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しいだろう……」
夜八時過ぎ、ドストエフスキーはびくっとしてベッドの上に起き上った。血の細糸が彼のあごひげを伝わっていた。アンナは氷のかけらをふくませたが、血はとまらなかった。
医者が呼ばれた。アンナと子供たちはベッドのそばにひざまずいて、涙を流した。
八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。
世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月前に完成していた。》
どうであろうか.著者山田風太郎の叙述の詳しさからみて,何かしらの資料に基づいてこの場面を描いているのは確実だ.
山田風太郎は『人間臨終図鑑』の巻末に次のように記しているからである.
《書物の性質上、とりあげた人物の臨終に実際に立ち会われた方々の文章を多く引用ないし参考にせざるを得ませんでした。それらの諸著書諸文章に対して深く謝意を表するものです。》
だとすると,かくも著名な文学者ドストエフスキーの臨終の様子に,なぜか二つの説があることになる.書斎のソファに横たわって死んだ (江川説) のか,あるいは寝室のベッドで息をひきとった (山田説) のか.
文学史的事実関係の考証は大切である.ロシア文学者江川卓といえど自らドストエフスキーの臨終を目撃したはずがないから,必ずや誰かの書いた資料を参照しているはずだ.岩波新書に出典が書かれていれば,その資料をたぐって行き,臨終の目撃者を突き止める必要がある.
山田風太郎説もまた真偽は明らかにされねばならない.しかし山田風太郎が参照したはずの資料なり評伝なりは,誰が書いたものか,不明だ.臨終に立ち会って「ドストエフスキーは寝室のベッドの上で死んだ」と書き遺したのは誰なのか.それを取り入れて評伝を書いたのは誰なのかを山田風太郎は記していない.私の想像では小林秀雄か埴谷雄高あたりのような気がするのだが,そちら方面も明らかにしなければいけない.相違する二説があるということは,誰かが嘘をついていることを意味しているからだ.
ドストエフスキーが死んだのは書斎なのか,寝室なのか.これが何故重要かと言うと,ドストエフスキーが『システィーナの聖母』から受けた影響がどれほどのものであったかに関わるからである.既述のように,実際,中野京子先生は『欲望の名画』の中で次のように書いている.
《彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった。》
ネット上には,同様に「ドストエフスキーは愛した『システィーナの聖母』に見守られて死んだ」という趣旨の記述がみられる.仮にドストエフスキーがベッドの上で臨終を迎えたのが事実とすれば,これらの文章は,文学史的にドストエフスキーにとっての『システィーナの聖母』を過大に表現していることになるのだ.
実は私は,ドストエフスキーはベッドで死を待っていたが,息を引き取る最後に,『システィーナの聖母』を見たいからソファに移してくれと望み,そして暫くして死んだ,という妄想を持っている.私は,事実はどうであったかを知りたいのだが,諸兄はどうであろうか.
最後に一つ.中野京子先生も,ブロガーたちも,ドストエフスキーの書斎の壁の『システィーナの聖母』を「レプリカ」と書いている.
ところが,《〈あとがきのあとがき〉ドストエフスキーの中編・短編から 巨大な作品世界のテーマを覗いてみる『白夜/おかしな人間の夢』の訳者・安岡治子さんに聞く 》の中に,ドストエフスキーの書斎の写真が掲載されていて,筆者の『白夜/おかしな人間の夢』の訳者・安岡治子さんは,写真のキャプションに次のように書いている.
《「ドストエフスキー博物館」にある、「作家の書斎」。後ろの壁にかかってるのは、ラファエロのシスティナの聖母(マドンナ)の写真複製。アンナ夫人の回想によれば、ドストエフスキーは、この絵を、絵画の中でもっとも高く評価しており、晩年、入手、よく見入っていたという。》 (文字の着色は当ブログの筆者が行った)
書斎の壁にあったのは,レプリカだったのか,それとも写真だったのか.写真と複製は違う.通常,絵画を写真に撮ったものをレプリカとは言わない.これも白黒をはっきりさせるべきことだ.あ,書斎の壁の『システィーナの聖母』は白黒だ.ヾ(--;)
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