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2019年10月

2019年10月30日 (水)

北村薫『中野のお父さん』

 ちょっと古い作品だが,購読しそこねていた北村薫『中野のお父さん』を読んだ.事前にAmazonのレビューを読んでいたので,あまり期待していなかったのだが,案に相違してなかなかおもしろい作品だった.
 あの『ビブリア古書堂』シリーズが成功した理由は,ヒロインの魅力もあるが,コアなミステリー読者層の他に,本好き,読書好きな人たちを喜ばせたことが挙げられる.
 その本好き読書好きな読者層に向けて,北村薫が書くとこうなるというのが『中野のお父さん』だ.本作中には志賀直哉,幸田露伴,尾崎一雄などの名が出て来るが,これは『ビブリア古書堂』ファンのツボもしっかと押さえている.
 Amazonの購入者レビューを一覧すると,これを書いた人たちは,ミステリー以外のジャンルにはあまり興味のない人たちのようだ.『中野のお父さん』は,読了後に露伴全集を引っ張り出してくるような人以外にはウケないと思われる.

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2019年10月29日 (火)

さよならガラケー

 毎日新聞《ドコモ、iモードとFOMAを26年3月終了 5Gに集中 》(掲載日付 2019年10月29日 16:46) によれば,あと六年余でガラケーの命運が尽きる.ガラケー端末そのものの出荷は既に終了しているが,サービスの終了時期が明らかになったわけだ.
 よく知られているように,六十歳以上の高齢者世代はスマホの普及率が低い.ネットにはPC (タブレットを含む) を使用し,通話はガラケーという人が多数派だ.
 それを示しているのが下のグラフ (平成三十年版情報通信白書の《人口減少時代のICTによる持続的成長 》から引用) だが,特に七十代以上のガラケー率が高いことを示している.
 
20191029b
 
 かつての地デジの時と同様の強制的方法で,2026年3月に,ガラケーを使用している高齢者はスマホに移行させられることになる.
 その際の端末購入費用を,高齢の年金生活者は負担することになるが,ドコモはそのあたりの社会的責任をどのように考えているのだろうか.現在七十代の世代のほとんどが世を去るのは二十年後だが,そこまで待てないのなら,いや待てと言うほうが無理だが,通信事業者と国の協同の政策として何らかの打つ手が必要だと私は思う.
 
 ところで,ネットメディアcitrusに,ライターの山田ゴメスが《スマホを使いこなす20代には衝撃! 50代のこんな言動に違和感を覚える…》(掲載日時 2019/10/29 10:14) を書いている.その文中にある次の箇所が情けない.
 
また、こんなこともあった。とある20代の女子が私の家に泊まった時の話。
夜中の1時くらいにトイレの水が止まらなくなった。為す術もなくおろおろするばかりの私は、「たしか郵便ポストの壁面に、クラシアンのマグネット広告がくっついてたよな…」と、あわててマンションエントランスへと向かおうとした。すると、その彼女がおもむろにスマホをいじり出し、「トイレの水 止まらない」で検索した対処法をもとに、いきなりタンクの蓋を開け、ガバッと手を入れてプラスティック製の風船みたいな器具をちょこちょこと触って、あっという間に「水のトラブル」を解決してくれたのであった。
 
「トイレの水が止まらない」トラブルはDIY以前の知識で,例えば切れた電球や,劣化して点滅するようになった蛍光管を新品に交換する程度の生活知識だ.現在五十六歳の山田ゴメスが知らないというので,私は脱力して床に崩れ落ちた.昭和の昔,「トイレのトラブル」と電球交換は家長の仕事であり,男たる者は,これができて初めて妻を迎え子を生す資格があったのである.ヾ(--;)チガウ
 水回りのトラブルが発生した際は,まず元栓乃至は止水栓を操作して水を止めてから行う.これ常識.
いきなりタンクの蓋を開け、ガバッと手を入れ 》るのは,スマホで検索するしか能のないバカのやることである.それを見て感心した山田ゴメスの,その歳まで生きてきて何とまあ不甲斐ない事よ.この男はテレビ番組『トリニクってなんの肉!?』に出るとよろしいレベルだ.
 それはともかく,この記事の結びはこうだ.
 
20191030b
 
 残念ながら私たちは山田ゴメスの期待に反して,スマホを活用することで《余った時間やお金を“別の有意義な何か”に回》すことなく,ネコ動画を観ているのである.w

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2019年10月28日 (月)

中古書籍の値付け

 Amazonで買い物をする際,特に書籍や映画ソフト (DVD,BD) で腑に落ちないことがある.
 例えば土井善晴『NHKきょうの料理シリーズ 土井善晴の懐かしごはん』は,NHK出版の通販サイトでは,定価が1,210円 (本体1,100円+税110円) と送料120円の,合計1,330円で購入できる.
 Amazonではどうか.下の画像は,昨日時点で出品されていた中古書籍の一部である.(画像はブラウザ画面のコピー)
 
20191029a
 
 キャッシュレス還元のことは横に置くと,上は配送料込1,393円,下は同1,406円である.中古品なのに新品よりも高いのだ.
 下の中古書籍は,「5%還元」をしても,新品より高い.
 そしてこれに続いて,もっと高価な中古品がたくさん出品されていて,最高は3,847円となっている.
 またこれとは別に「コレクター商品」3,399円 (新品未読品) が出品されていて,これには送料262円がかかる.可能性は非常に低いが,これは土井先生のサイン入りだと匂わせているような気がする.(本当に著者サイン入りなら,Amazonではなく,古書店の通販で売りそうなものだが)
 ところがしかし他の中古書籍は,何ら特別な付加価値はないと出品者自らが判断した上で,それでもなお新品より高い価格をつけて中古品のジャンルに出品しているわけだ.
 こういう書籍は,実際に売買されているのだろうか.それが知りたい.
 YAHOO!知恵袋に「Amazonで新品より高い中古書籍が出品されているのはなぜか」という質問に対して《新品より高くても売れてしまうからです 》や《なんで、そこが疑問になるのかがわかんない 》と回答した者がいる.このテの連中は,質問者が「なぜ新品よりも高い中古が売れるのか?」と質問していることを理解できていない.ま,自分に理解できない質問にも取り合えずテキトーな答えを書くのがYAHOO!知恵袋クオリティだが.
「新品の在庫切れを狙って,急いで購入したい客向けに高い価格をつけている」「絶版になったら,高くても中古を買うしかないから」旨の回答も質問掲示板によくみられる回答だが,NHK出版が土井先生の料理本を在庫切れや絶版にするはずがない.また,そんなに急いで料理本を必要とする人がいるとも思えない.
 ネット上を検索してみたが,納得いく答えがみつからない.不思議である.

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2019年10月25日 (金)

懐かしのルーシー

 Amazonプライム・ビデオをオンにしたら,「ザ・ルーシー・ショー」のシーズン1が追加されていた.
 これは懐かしいとばかりに見始めたら,最初っから爆笑また爆笑で,ああ昔のコメディはすごかったんだよね,と感心した.
 主人公ルーシー・カーマイケルをつとめる女優は,言わずと知れたルシル・ボールだ.
 
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(映画『ステージ・ドア』(1937年) に出演したルシル・ボール;パブリックドメイン〈From Wikimedia Commons,File:Lucille Ball in Stage Door trailer.jpg〉)
 
 上の画像のように,若い頃はスリムな長身と整った顔立ちの女優であったが,やがてテレビのコメディーで人気を博してからは,彼女のボケにボケまくる演技スタイルは,日本の子供たちをテレビの前に釘付けにした.
 シーズン1/エピソード1には,職場の上司であるムーニーさんの他に,ゲストでジョージ・バーンズが出演している.懐かしいなあ.今見直すと,ジョージ・バーンズの芸風は,「間」の取り方が噺家に似ている.
 これでしばらくはテレビを観る楽しみが大いに増えた.
 
 余談だが,上の画像の映画『ステージ・ドア』はキャサリン・ヘプバーンの名作だとのことだけれど,通販のDVDが五千円もする.いくら何でも高い.廉価版が出たら買うかも知れない,というほどの作品的魅力だ.
 ついでに.この記事でカウンターがキリ番になった.御閲覧ありがとうございます.
 
175000

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2019年10月24日 (木)

ナード映画

 Amazonが『宇宙人ポール』のBDを観るように勧めてきたので,買ってみた.古い作品なので,お値段はすごく安くて千と十円.だけど端数十円の意味がわからない.どうして九百九十円にしないのか.今の若い人たちには,そういう小細工な値付けは通用しないのだろうか.まあいいや.
 この作品,Amazonのレビューや映画評サイトでの評価が著しく高い.しかし少数ながら,作品中でマリファナが小道具として使われていることに嫌悪感を述べているレビューもある.また,登場人物がやたらと下品なスラングを口にすることに反感を表明している人もいる.
 それは日本人の良識からするとまことにその通りなのだが,しかし例えば,米国における1960年代から1970年代にかけての反戦運動と大麻喫煙は切り離せないものであったが,だからといって当時のヒッピーたちの反戦思想を,なかったものとして無視したり否定するのはどうかと思うのだ.
 
 この『宇宙人ポール』には“nerd”という単語が台詞に何度も登場する.というか,この映画の主人公二人はナードなのだ.ナードは日本語でいうとオタクに近い.それどころか出て来る宇宙人もナードなのだ.
 ナードは,ジョン・ウェイン以来の雄々しく強い (筋肉脳の) アメリカ人の対極にある.銃乱射事件でどれほどの子供たちが撃ち殺されようが,それでも銃こそが建国の精神だと主張する典型的なアメリカ人に対するカウンター・カルチャーがナードだ.ナードは殴り合いのケンカをするくらいなら逃げる.そういう文化に親近感を持たない人は,『宇宙人ポール』を観ても全くおもしろくないだろう.
 私はどうかというと,この映画を飽きずに最後まで鑑賞した.パロディとしてはあまり手が込んでいないが,コメディとしては,まあよくできていると思う.
 聖書に書いてあることしか認めないキリスト教原理主義は米国共和党の強力な基盤であるが,メインキャラの一人である娘ルースは,がっちがちのキリスト教原理主義者である.彼女の堅く頑迷な信仰を,宇宙人のポールが「科学の神の手」で捨てさせてしまうというストーリーは,米国映画としては勇気のあるシナリオだと思う.そのおかげでルースは下品なスラングをしゃべるようになってしまうのだが.w
 Wikipedia【宇宙人ポール】には,項目はあるがほとんど中身がないので,この作品の解説はコレがおすすめだ.

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2019年10月23日 (水)

讃岐の五位が往生した話

 少し前に書いた記事《ある説話の検索と発見》は,私の小学校時代の読書にまつわる思い出を書いたものだ.
 小学校の図書室にあった仏教説話集に,この歳になるまで遠い記憶に残っている話があって,それがどんな説話だったのかを調べたら,今昔物語集に収められていることがわかった.しかもこれは《やたがらすナビ 》というブログに全文のテキスト《巻19第14話 讃岐国多度郡五位聞法即出家語 第十四 》が掲載 (パブリックドメインで!) されていた.
 これで一件落着としてもよかったのだが,底本が違うことによる異同があるかも知れぬと思って,池上洵一『今昔物語集 本朝部〈中〉』(岩波文庫) の古書をAmazonで注文した.
 今日,注文した本が届いたので凡例を読むと,岩波文庫の『今昔物語集』は,新日本古典文学大系『今昔物語集』(岩波書店,1993-1999年) から約四割を抄出したものである.底本については次のようにあった.
 
《 底本は次のとおりである.
 巻一・三・四・十一・十三 ― 十六・十九・二十二・二十五・二十六 東京大学文学部国語研究室蔵 紅梅文庫旧蔵本 (東大本甲)
 巻二・五・七・九・十・十二・十七・二十七・二十九 京都大学附属図書館蔵 鈴鹿家旧蔵本 (鈴鹿本)
 巻二十 実践女子大学蔵黒川春村旧蔵本 (黒川本)
 巻二十三 静嘉堂文庫本
 巻二十四 カリフォルニア大学バークレー校アジア図書館本 (旧三井文庫本)
 
 その一方,《やたがらすナビ》が公開しているテキストは,『攷証今昔物語集』(芳賀矢一,冨山房,大正二年~大正十年) に記載されているものである.この『攷証今昔物語集』は,東京帝国大学所蔵田中頼庸旧蔵本 (田中本;関東大震災によって焼失して現存せず) が底本であるという.
 岩波書店『今昔物語集 本朝部〈中〉』と『攷証今昔物語集』とを比較すると,仮名遣いやテニヲハの類に細かな違いが数ヶ所あるものの,全体的には同一の説話である.
 ただし,文意に影響を及ぼす改行位置の違いが一ヶ所だけある.
 
岩波文庫『今昔物語集 本朝部〈中〉』の「讃岐の国の多度の郡の五位、法を聞きて即ち出家せる語 第十四」から.
《…其の後何にか成にけむ、不知ざりけり。必ず極楽に往生したる人にこそ有めれ。
  住持も正しく阿弥陀仏の御声を聞き奉り、口より生出たる蓮花を取てけるは、定めて罪人には非ずと思ゆ。
 
やたがらすナビ『攷証今昔物語集』の「巻19第14話 讃岐国多度郡五位聞法即出家語 第十四」から.
《…其の後何にか成にけむ、不知ざりけり。
  必ず極楽に往生したる人にこそ有めれ。住持も正しく阿弥陀仏の御声を聞き奉り、口より生出たる蓮花を取てけるは、定めて罪人には非ずと思ゆ。
 
 改行位置の違いは,原文にあるものではなく,校訂で生じたことだろう.
 岩波文庫版では,《必ず極楽に往生したる人にこそ有めれ 》なのは出家した五位 (大夫) であるが,やたがらすナビ版では五位の男の往生を見届けた住持である.どちらがよいかと問われれば,私は岩波文庫版の校訂を支持する.そうでないと,五位の男が往生したのかどうか,《不知ざりけり 》,つまり不明になってしまうからである.
 以上,小学校時代に図書室で読み,長く忘れずにいた仏教説話「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」を,私は岩波文庫の『今昔物語集』で再び読むことができたのであった.
 ちなみに,調べたところ,同じ説話が鴨長明『発心集』にあるとのことで,新潮日本古典集成『方丈記 発心集』(昭和五十一年十月十日 発行) にある「讃州源大夫、俄に発心・往生のこと」を読んでみた.ところがこちらは,五位の口に咲いた蓮華を僧が摘み取り,時の権力者の藤原頼道に捧げたとしてある.五位のひたむきさの描写も足らず,『今昔物語集』に比べて俗っぽく,坊主の説教のようで下らぬ話であった.
 
 この説話を転記するにあたっては許可を必要とせずとしている《やたがらすナビ》に謝意を表しつつ,以下に「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」全文を記す.
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今昔物語集
巻19第14話 讃岐国多度郡五位聞法即出家語 第十四
今昔、讃岐国多度の郡□□の郷に、名は知らず、源大夫と云ふ者有けり。心極て猛くして、殺生を以て業とす。日夜朝暮に山野に行て、鹿鳥を狩り、河海に臨て魚を捕る。亦、人の頸を切り、足手を折らぬ日は少くぞ有ける。亦、因果を知らずして、三宝を信ぜず、何に況や、法師と云はむ者をば、故らに忌て、当りにも寄らざりけり。此の如くして、悪(あしく)奇異(あさまし)き悪人にて有ければ、国の人も、皆恐てぞ有ける。
而る間、此の人、郎等四五人許を相ひ具して、鹿共多く取せて、山より返る道に、堂の有ける、人多く集りけるを見て、「此れは何事為る所ぞ」と問ければ、郎等、「此れは堂也。講を行にこそ侍るめれ。『講を行ふ』と云ふは、仏経を供養する事也。哀れに貴く侍る事也」と云ひければ、五位、「然る態を為る者有とは、髴(ほのか)に聞けれども、此く目近くは見ざりつ。何なる事を云ふぞ。去来(いざ)、行て聞かむ。暫く留れ」と云て、馬より下ぬ。
然れば、郎等共も、皆下て、「此れは何なる事せむずるにか有らむ。講師なむ捘ぜむずるにや。不便の態かな」と思ふ程に、五位、只、歩びに歩び寄て、堂に入れるを、此の講の庭に有る者共も、此る悪人の入来れば、「何なる事せむずるにか有む」と思て、恐ぢ騒ぐ。恐て出ぬる者も有り。
五位、並居たる人を押分て入れば、風に靡く草の様に、靡たる中を分け行て、高座の傍に居、講師に目を見合て云く、「講師は何なる事を云ひ居たるぞ。我が心に『現に』と思む許の事を云ひ聞せよ。然らずば、便無かりなむ者ぞ」と云て、前に差たる刀を押廻して居たり。
講師、「極めて不祥にも値ぬるかな」と恐くて、云ひつる事の終始も思えで、「引き落とされぬ」と思けるに、智恵有ける者にて、「仏け助け給へ」と念じて、答へて云く、「此より西に、多の世界を過て、仏在ます。阿弥陀仏と申す。其の仏、心広くして、年来罪を造り積たる人なりとも、思ひ返して、一度阿弥陀仏と申しつれば、必ず其の人を迎て、楽く微妙き国に、思ひと思ふ事叶ふ身と生れて、遂には仏となむ成る」と。五位、此れを聞て云く、「其の仏は、人を哀び給ひてば、我をも悪1)み給はじなむ」。講師の云く、「然也」と。五位の云く、「然らば、我れ、其の仏の名を呼び奉らむに、答へ給ひてむや」と。講師の云く、「其れを実の心を至て呼び奉らば、何どか答へ給はざらむ」と。五位の云く、「其の仏は、何なる人を吉とは宣ふぞ」と。講師の云く、「人の、他人よりは子を哀れと思ふ如くに、仏も誰をも悪2)しと思さねども、御弟子に成たるをば、今少し思ひ給ふ也」と。五位の云く、「何なるを弟子とは云ふぞ」と。講師の云く、「今日の講師の様に、頭を剃たる者は、皆仏の弟子也。男も女も御弟子なれども、尚、頭を剃れば増(まさ)る事也」と。
五位、此れを聞て、「然は、我が此の頭剃れ」と云ふ。講師、「哀れに貴き事に有れども、只今、俄に何でか其の御頭をば剃らむ。実に思す事ならば、家に返て、妻子・眷属などに云ひ合せて、万を拈(したため)れ剃り給べき」と。五位の云く、「汝ぢ、『仏の御弟子』と名乗て、『仏は虚言無き』と云て、『御弟子に成たる人をば、哀れと思す』と云て、何に忽に舌を返て、『後に剃れ』とは云ふぞ。糸当らぬ事也」と云て、刀をば抜て、自ら髻を根際より切つ。
此る悪人の、俄に此く髻を切つれば、「何なる事出来ぬらむ」とて、講師も周(あわて)て物も云はず、其の庭に居たる者共も喤(ののし)り合たり。亦、郎等共、此れを聞て、「我が君は何なる事の御するぞ」とて、太刀を抜き、箭を番て、走り入来たり。
主、此れを見て、大きに音を挙て、郎等共を静めて云く、「汝等は我が吉き身と成らむと為るを、何に思て妨げむとは為るぞ。今朝までは汝等が有る上にも、『尚人をもがな』と思ひつれども、此より3)後は、速に各行かむと思はむ方に行き、仕はれむと思はむ人に仕はれて、一人も我れには副ふべからず」と。郎等共の云く、「何に此る態をば、俄に成さしめ給へるぞ。直(ただし)き心にては、此る事有らじ。物の託(つ)き給ひにけるにこそ有けれ」と云て、皆臥し丸び泣く事限無し。
主、此れを止めて、髻を切て、仏に奉て、忽に湯を涌して、紐(ひも)を解て、押去(のけ)て、自ら頭を洗て、講師に向て、「此れ剃れ。剃らずば悪かりなむ」と云へば、「実に此く許思ひ取たらむ事を、剃らずば悪くも有なむ。亦、出家を妨げば、其の罪有なむ」と旁(かたがた)に恐れ思て、講師、高座より下て、頭を剃て、戒を授けつ。郎等共、涙を流して、悲む事限無し。
其の後、入道、着たりける水干袴に、布衣・袈裟など替つ。持たる弓・胡録などに、金鼓を替へて、衣・袈裟直く着て、金鼓を頸に懸て云く、「我れは此より西に向て、阿弥陀仏を呼び奉て、金を叩て、答へ給はむ所まで行かむとす。答へ給はざらむ限は、野山にまれ、海河にまれ、更に返るまじ。只、向たらむ方に行べき也」と云て、音を高く挙て、「阿弥陀仏よや、おい、おい」と叩て4)行くを、郎等、共に行かむと為れば、「己等は、我が道妨げむと為るにこそ有けれ」と云て、打たむと為れば、皆留りぬ。
此く西に向て、阿弥陀仏を呼び奉て、叩きつつ行くに、実に云つる様に、深き水とても、浅き所を求めず、高き峯とても、廻たる道を尋ずして、倒れ丸びて向たるままに行くに、日暮て、寺の有るに行き着ぬ。
其の寺に有る住持の僧に向て云く、「我れ、此く思ひを発して、西に向て行くに喬平(そばひら)を見ず。況や、後を見返らずして、此より西に高き峯を超て行かむとす。今七日有て、我が有らむ所を、必ず尋て来れ。草を結つつぞ、行かむと為る。其れを注(しるし)として来べし。若し、食ふべき物や有る。夢許得しめよ」と云ければ、干飯を取出て与へたれば、「多か」と云て、只少しを紙に裹て、腰に挟み、其の堂を出でて行ぬ。住持、「既に夜に入ぬ。今夜許は留まれ」と云て、留むと云へども、聞入れずして行ぬ。
其の後、住持、彼の教の如く、七日と云ふに尋て行くに、実に草を結びたる。其れを尋て、高き峯を超て見るに、亦た其よりも高く嶮き峯有り。其の峯に登て見れば、西に海、現に見ゆる所有り。其の所に、二胯(ふたまた)なる木有り。其の胯に、入道、登て居て、金を叩て、「阿弥陀仏よや、おい、おい」と呼び居たり。
住持を見て、喜て云く、「我れ、『尚此より西にも行て、海にも入なむ』と思ひしかども、此にて阿弥陀仏の答へ給へば、其れを呼び奉り居たる也」と。住持、此れを聞て、「奇異(あさま)し」と思ひて、「何に答へ給ぞ」と問へば、「然は、呼び奉らむ。聞(きけ)」など云て、「阿弥陀仏よや、おい、おい。何こに御ます」と叫べば、海の中に微妙の御音有て、「此に有り」と答へ給ひければ、入道、「此れを聞や」と云ふ。住持、此の御音を聞て、悲しく貴くて、臥し丸び泣く事限無し。入道も涙を流して云く、「汝ぢ、速に返るべし。今七日有て来て、我が有様を見畢よ」と。
「物や欲き」と思て、「干飯を取て持たり」と云へば、「更に物欲き事無くて、未だ有り」と。住持、見れば、実に有し如くにて、腰に挟みて有り。此くて、後の世の事を契り置て、住持は返ぬ。
其の後、七日有て、行て見れば、前の如く、木の胯に西に向て、此の度は死て居たり。見れば、口より微妙の鮮なる蓮華、一葉生たり。住持、此れを見て、泣き悲び貴びて、口に生たる蓮華をば折り取つ。「引もや隠さまし」と思ひけれども、「『此る人をば、只此くて置て、鳥獣にも噉はれむ』と思ひけむ」と思て、動かさずして、泣々く返にけり。其の後、何にか成にけむ、知らざりけり。
必ず往生したる人にこそ有めれ。住持も正く阿弥陀仏の御音を聞き奉り。口より生出たる蓮華を取てければ、定めて罪人には非ずと思ゆ。其の蓮華は何にか成にけむ。知らず。
此の事、糸昔の事には非ず。□□の比の事なるべし。世の末なれども、実の心を発せば、此く貴き事も有る也けりとなむ、語り伝へたるとや。






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2019年10月22日 (火)

それは要出典だ

 AERA dot. の記事《産経新聞社がフジHD傘下入り秒読み 背景に首相の「一声」》が面白かった.
 これは,産経新聞社の飯塚浩彦社長が,フジテレビの持ち株会社であるフジ・メディア・ホールディングス (FMH) で院政を敷く日枝久取締役相談役の招きで,FMHの「社長会」に出席したことから,経営難の産経新聞社がフジテレビの傘下に入るのではないかとする憶測記事である.
 古い言葉に「社会の木鐸」がある.現在の新聞で一応「社会の木鐸」と国民に見なされているのは,いわゆる全国紙四紙つまり読売,朝日,毎日,日経である.戦後の一時期までは,これに産経を加えて全国紙五紙と言われていたが,記事の質の低さ (例えば日本語が酷いとか,誤報が多いとか) で読者の支持を失い,部数減少して経営難に陥り,今では東スポ以下の準地方紙になった.
 余談だが,私が食品企業で品質保証の仕事をしていたとき,品質事故を起こして商品回収をすることになった.それはもう十年以上前の話だが,当時は全国販売された商品の回収をする場合,消費者への告知はまず全国紙に社告を掲載することで行うのが原則 (保健所のアドバイスによる) だった.
 品質保証部門では社告の原稿を作成し,本社所在地の保健所に原稿を読んでもらい,OKを得た.この原稿を広告代理店を経て読・朝・毎・日経へ出稿したところ,広告代理店の筋から産経新聞に漏れたのだろうと思われるが,産経から「産経は全国紙である.なにゆえに産経を外すのか」と抗議を受けた.
 産経はローカル紙だと思っていた私は驚いたが,「産経に社告を出さないと,社会面で記事にされるおそれがある」という忠告を業界通から受けて,産経にも社告を載せた.たかが産経が,と思ったが.w
 それはさておき,AERA dot. の記事でおもしろいと思ったのは,記事末尾の以下のセンテンスだ.
 
フジテレビは韓流が重要コンテンツ。産経の熱心な読者から「韓国大好きフジテレビの傘下に入るのか」と批判を受け、離反を招くおそれもある。
 
 私は仕事をリタイアしてからというもの,一日に何時間もテレビを観るが,フジテレビは《韓流が重要コンテンツ 》だなんて全く知らなかった.Wikipedia【韓流α】を読んで驚いた次第だ.
 しかし朝日はそう嫌味を書くが,産経の社是は反共であって,嫌韓は単なる部数獲得のためのポーズだと思う.
 産経新聞の面目躍如は,《【一筆多論】共産党は憲法を守れ 榊原智》(掲載日時 2019年10月22日 07:46) のような記事だ.
 こういう記事を書き続けてくれれば,産経新聞読者は産経を見捨てないと思われる.
 その末尾から一行を引用する.
 
憲法の英訳は「constitution」だが、これは国柄、国体とも訳される。共産党は、憲法は国柄を踏まえて解釈すべきだという常識を身につけ、現憲法を守ってもらいたい。(論説副委員長)
 
 憲法が constitution であることは正しい.そして constitution は多義語だから,「国柄」「政体」という語義もある.だが「国体」には一定の意味が存在しないので,constitution を「国体」と訳していいかどうかは文脈による.あの古すぎてものの役に立たない斎藤和英辞典でも,「国体」の例文には national constitution を用いているくらいだ.そういうことを無視して大雑把に「constitution は国体と訳す」のは頭が悪い.
 このように産経の日本語はからきしダメなのだが,とにかく反共の旗を振るのであれば,朝日の期待に反して,産経の《熱心な読者 》は離反しないであろう.
 また,その上の行の《憲法に同居する国民主権 》(下の画像はモニター画面のハードコピー) も日本語がおかしい.同居とは「一緒に住むこと」であるが,「憲法に天皇と国民主権が一緒に住む」とはどういう意味だ.もしそのような用例があるなら,出典を示して欲しい.
 
20191023a
 
 精選版日本国語大辞典によれば,比喩的に「同居」は《異質のものが同じ所に存在すること 》という意味に用いられるが,そうすると天皇と国民主権は異質のものだということになってしまう.大丈夫か,論説副委員長.w

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2019年10月21日 (月)

メモ「ドストエフスキーの聖母」/10/21更新終了

 ドストエフスキーは書斎のソファの上で亡くなった.書斎のソファは壁に接するようにして置かれており,その壁のソファの上方には額装された『システィーナの聖母』(『サン・シストの聖母』とも) が飾られていた.もちろん本物ではない.
 その額装『システィーナの聖母』は,翻訳された回想録,伝記,評論,小説等々によって,「レプリカ」「複製画」あるいは造語と思われる「写真複製」などと表現されており,一定していない.しかるに,ネット上を検索調査してみたが,このことを誰も問題にしていない.どうでもいいことだから誰も気にしていないということかも知れないが,私はこういう細かいところが気になるタチなので,容易に入手できる書籍を手に入れて,調べてみた.以下は資料として用いた書籍のリストである.これらの書籍を基に別稿「ドストエフスキーの聖母」を記す.
 
 ドストエフスキーの書斎の壁に飾られていた『システィーナの聖母』は,どのようなものだったのか.ドストエフスキーの文学ではなく,書斎のインテリアというこの小さな問題に関する当事者はドストエフスキーと彼の家族であるが,とりわけドストエフスキーの妻であったアンナ・ドストエフスカヤが遺した回想録が一次資料である.しかし彼女の回想録は原稿のまま遺され,生前は出版されなかった.その原稿がどこに存在するか調べたが所在不明である.わかっているのは,彼女の死後,回想録を編集 (=加工) した二つの出版物 (=二次情報) があるということである.
 しかし私はロシア語が全く読めないので,日本語に翻訳された書籍に頼るしかない.多くの翻訳書の中で,記述を参照する価値があると私が判断し,いま手元に集められた書籍は以下の通りである.著者名等の書誌事項は,このブログにおける標準的な書き方でなく,その書籍で用いられている表記に従った.ただし実際の書籍では正字体の漢字で印刷されていても,原則は新字体に変えた.しかし仮名遣いはそのままとした.
 
書籍[1]〈原著初版の発行は1931年=昭和六年〉
E・H・カー著,松村達雄訳『ドストエフスキー』
(筑摩叢書106,昭和43年3月23日初版第1冊発行,昭和49年5月30日初版第9冊)
 E・H・カーの原著は Edward Hallett Carr:Dostoevskey, A New Biography, 1931 である.この本は巻頭に,『ロシア文学史』を著したD・S・ミルスキーによる序文と,原著者カー自身による序文が置かれている.また巻末には訳者後記もある.それらから一部を下に引用する.
* ミルスキーによる序文から引用
《(前略)…… ドストエフスキーの新しい伝記も十年前ほどには人々の注目をひきそうにもない。しかし、まさにこの十年間にロシアの研究は彼の生涯と作品についての新しい資料をまったくおびただしく明るみに持ち出した。そこで、これまでの彼に関する書物は多少ともすべて古くさいものになってしまった。今日では、この新しい材料の集積も当然の限界に達し、その源泉はどうやら尽きたようだ。そこで、まさに今日こそドストエフスキーについての真に適切な伝記が書かれるべ時となった。そしてたまたま、この仕事ははじめて一イギリス人によって試みられた。――ロシア語に精通し、従って利用し得る資料の宝庫をも悠々と調査できるイギリス人である。かくてカー氏のこの書物を推薦せねばならぬ第一の理由は、これは、各国語の伝記のうちでも適切な資料を基にして書かれた最初のドストエフスキー伝だということである。
 しかし、それだけが長所であるといったようなことではおよそない。この書物はまた著しく識別力に富んだ書物である。ドストエフスキーの娘の書いた扇情的ゴシップめいた伝記、ミドルトン・マリ氏の偽善的、感傷的な評論、アンドレ・ジィドのひねくれたひとり勝手な詭弁、多くの深刻ぶったドイツの研究家たちの言語道断なたわ言、こうしたものの後で、このカー氏の書物はまことに感謝すべきものである。ここにはナンセンスは一つもない。これはおそらく、主張し得ることのきわめて多い主題について書かれた (ロシア以外で出版された) 最初の書物である。 ……(後略)》
 
ドストエフスキーの娘の書いた扇情的ゴシップめいた伝記 》とは,次女リュボーフィ・ドストエフスカヤが書いた邦題『わが父フョードル・ドストエフスキー』を指すと思われる.入手困難.
ミドルトン・マリ氏の偽善的、感傷的な評論 》は,ジョン・ミドルトン・マリーが書いたいくつかの評論を指す.山室静訳『ドストエフスキイ』(鎌倉書房,1953年) が古書で流通している.
アンドレ・ジィドのひねくれたひとり勝手な詭弁 》は,アンドレ・ジッドの書いた邦題『ドストエフスキー』を指す.新潮文庫 (1955年) が古書で流通している.
 
* カー自身による序文から引用
ドストエフスキーが死んだのは一八八一年であるが、その二年後、彼の友人ストラーホフとオレスト・ミルレルが共同で彼の伝記を書き、その最初の小説全集に添えた。この伝記は今日でも貴重なものであるが、本書では終始「公式の伝記」と称することにする。この伝記には、ドストエフスキーの未亡人が発表したいと思うような事実と彼の手紙が含まれている。未亡人は一九一九年まで生存しており、その在世中は、これ以上の重要資料は発表を許さなかった。英文で書かれた現存の唯一の伝記 (J・A・T・ロイド著、一九一二) は、この公式の伝記にイギリスの衣を着せたものにすぎない。
 未亡人の死とソヴィエット革命とによって厖大な資料が解放され、過去十年間にそれは逐次発表された。最初にドストエフスキーの唯一の遺児である娘の手になる伝記が現れた (一九二一年ドイツで出版)。これは細かい点ではまったく信用できないが、これまで世間の眼から隠されていた彼の生活の多くの面――父の殺害、最初の結婚の不幸、ポリーナ・スースロワ (ただし名はあげていない) との複雑な関係、第二の結婚後に生じた家庭の内紛をはじめて明らかにした。一九二三年には彼の妻の日記が公にされ、ここには結婚生活第一年目における四カ月にわたる詳細な記述がある。(一九二八年英訳出版)。一九二五年には彼の妻の回想録が出た。これは彼の死後相当たってから書かれ、完結してはいないが、晩年の生活に関する豊富な資料を提供している。一九二六年にはてん彼の生涯の最後の十四年にわたる、全部で百六十二通の妻への手紙が出版された (一九三〇年英訳出版)。一九二八年にはポリーナ・スースロワの日記、一九三〇年には弟アンドレイの回想録が出た。
 
ポリーナ・スースロワ (ただし名はあげていない) との複雑な関係 》については,ポリーナ・スースロワの日記や手紙を基にして書かれたA・P・ドリーニン『スースロワの日記―ドストエフスキーの恋人』(みすず書房,1989年7月) がある.古書が流通している.
一九二三年には彼の妻の日記が公にされ 》については,アンナ・ドストエーフスカヤ著, 木下豊芳訳『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』(河出書房新社,1979年9月) がある.古書が流通している. 
 
* 松村による後記から引用
小林秀雄氏がその名著『ドストエフスキーの生活』(一九三九年) の執筆に当って、この書を有力な資料として利用したことは、小林氏自身の附記にも明らかだし、また周知のことでもある。》(正しくは,小林秀雄の著書のタイトルは『ドストエフスキイの生活』である.お粗末な間違いだ)
 
 アンナ・ドストエフスカヤの回想録が邦訳出版 (羽生操訳,興風館) されたのは,昭和十六年 (1941年) であるから,ロシア語を読めなかった小林秀雄は,既に紹介したアンナの日記 (邦訳出版1979年) 及びこの回想録を読んでいないはずである.
 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』には重大な誤り (江川卓『ドストエフスキー』参照のこと) があるが,松村達雄の訳は小林秀雄の誤りをそのまま引き継いでしまっている.
 
書籍[2]〈原著初版の発行は1925年=大正十四年〉
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイの回想 上巻』
(興風館,昭和十六年六月二十九日発行,昭和十七年七月十五日第四刷発行)
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイの回想 下巻』(興風館,昭和十六年十二月十日発行,昭和十七年八月十五日第三刷発行)
 1941年=昭和十六年.
 上巻には,訳者による序文があり,下巻には同じく訳者による後記と,訳者が独自に作成した年譜がある.
 序文と後記で訳者が記している重要なことは,この翻訳が,ロシア語で出版された書籍ではなく,フランス語の翻訳書 (アンドレ・ボークレル訳) を底本としていることである.従って仏訳における誤りは,仏訳者の思い違いによる明白な誤謬以外は引き継がれてしまった可能性がある.
 底本の誤訳に関して訳者の羽生が書いている箇所を下に引用する.
 
* 羽生による後記から引用
この下巻もアンドレ・ボークレルの仏訳によつたが、「ウォルホフ河」がヴォルガ河 (第三章)、「フョードル」がテオドル、「一月半ば」が二月半ば (第二十一章) となつているやうな、明かに誤謬だと思はれる箇所が外にも二三あつた (恐らく仏訳者の思ひ誤りであらう) ので訂正した。(上巻でも「ヴェニス」をウヰンとしたやうな誤謬が二三あつたので訂正しておいた。尚ほ上巻第三章の「イワンの馬鹿の死」は「イワン雷帝の死」の誤りであるから訂正する。) 》(当ブログ筆者による註;文中の「ヰ」は,原文では促音に表記されている)
 
 この訳者後記を読むと, 羽生が底本としたフランス語訳はかなり程度の低い翻訳 (イワンの馬鹿 w) であると思われる.従って羽生操訳『夫ドストエーフスキイの回想』の信頼性には疑問がある.
 
書籍[3]〈原著初版の発行は1940年=昭和十五年〉
アンリ・トロワイヤ著,村上香住子訳『ドストエフスキー伝』(中公文庫,一九八八年一二月一〇日)
 1988年=昭和六十三年.
 中公文庫版は昭和六十三年刊だが,単行本『ドストエフスキー伝』は昭和五十七年 (1982年) 刊である.
 
書籍[4]〈原著初版の発行は1925年=大正十四年〉
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイ 上巻』(三一書房,一九五七年,九月三十日 発行)
A・G・ドストエーフスカヤ著,羽生操訳『夫ドストエーフスキイ 下巻』(三一書房,一九五七年,十月三十日 発行)
 1957年=昭和三十二年.
 書籍[2]と同じ訳者が別の出版社から出した.フランス語訳を底本とした旧訳とは,底本が異なるかも知れないと期待して探したところ,運よく古書を発見できたので注文した.しかし確認したところ,底本は同じフランス語の翻訳書であった.再刊に至る事情は不明である.
 下巻の巻末に訳者の後記が附記されているが,なぜか底本上巻にあったという誤りについては言及がない (興風館版の後記には書かれている).また,興風館版にあった謝辞が削除されている.
 
書籍[5]
小林秀雄著『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫,昭和三十九年十二月二十日発行,昭和四十六年八刷改版,昭和五十三年十八刷)
 1964年=昭和三十九年.
 単行本は昭和十四年 (1939年) 五月に創元社から刊行された.
 文庫版巻末の解説で江藤淳は《小林の『ドストエフスキイの生活』そのものが、大部分の史料をカーの名著『ドストエフスキー』にあおいでいるからである 》と書いている.
 本書で小林秀雄が批評しているのはドストエフスキーの文学と思想であり,ドストエフスキーの実私生活に関して得るところはほとんどない.
 
書籍[6]
A・ドストエフスカヤ著,羽生操訳『ドストエフスキー』(筑摩書房『世界ノンフィクション全集27』に収載,昭和37年3月20日初版発行)
 1962年=昭和三十七年.
 時系列的に推察すると,書籍[4]を大幅にダイジェストしたものと思われる.訳者による解説はない.
 
書籍[7]
埴谷雄高著『ドストエフスキイ その生涯と作品』(NHKブックス,1965 (昭和40) 年1月20日 第1刷発行,2004 (平成16) 年6月10日 第40刷発行)
 埴谷雄高はロシア語で書かれた本の翻訳を行ったほどの人であるが,なぜかドストエフスキーが臨終直前にした聖書占いで,妻アンナが読んだマタイ伝の言葉を誤訳している.このことの詳細は別稿で詳しく述べる予定だが,元々は羽生操の翻訳 (書籍[4]) にある誤訳を,アンナの原文で正誤を確かめることなく,そのまま写してしまった可能性がある.
 
書籍[8]
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『夫ドストエフスキーの回想』(筑摩書房『ノンフィクション全集18』に収載,一九七三年四月二十五日 初版第一刷発行)
 1973年=昭和四十八年.
* 松下裕による「解題」から引用. 
《(前略)…… アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤのこの『回想』は、遺稿としてあったものを、ドストエフスキー研究家グロスマンの編集で、一九二五年にモスクワとレニングラードで出版された。また最近、一九七一年に、あらたに編集・校訂されて、完全なドストエフスキー全集の刊行 (全三十巻、一九七二年―) に先だちモスクワで出版された。この翻訳は、それにもとづいている。
 本書には、ドストエフスキーとの出会いから、結婚、外国生活、帰国後の二年間の、最も激動的な時期を収めてある。うち紙数の関係で、モスクワの妹の家庭訪問、モスクワ旅行の印象、ベルリンの一日、外国旅行のしめくくり、のみじかい各節を省いた。収録した部分は、全十二章のうち六章、全体の約半分にあたる。(七三・三・一) 》 
 
 限られた字数でありながら,翻訳の底本を明示して行き届いた「解題」だと思う.原著の仏語訳のそのまた日本語訳で,底本へのトレーサビリティがない羽生操の翻訳とエライ違いである.書籍[8]は松下裕訳のダイジェスト版であるが,そのフル・バージョンが上下二巻の書籍[9]である.
 
書籍[9]
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 上巻』(筑摩叢書,1973年,)
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 下巻』(筑摩叢書,1974年,)
 状態のよい古書があったので注文した.現在は到着待ちである.
 底本は書籍[8]と同じで,ドストエフスキー全集に先立って出版された「文学回想集」シリーズの一冊である.
 
書籍[10]
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 1』(みすず書房,1999年,)
アンナ・ドストエフスカヤ著,松下裕訳『回想のドストエフスキー 2』(みすず書房,1999年,)
 この二冊は,絶版になっていた筑摩叢書版 (書籍[9]) の再刊にあたって増補改訂したものである.訳者の「解説」には次のようにある.
 
これを機会に、本文の全体にわたって手を入れ、一九八一年に「文学回想集」シリーズの新版として出された原書によって、「子どものころと娘時代」の三、四の二章「『見合い』の経験!」と「修道院入りの願い」を増補した。またこの新版には省かれている「晩年」の三「大公たちとの交わり」の後半は省略せずにそのまま残してある。
 
 1は図書館で借りる予定.2は入手済み.
 
書籍[11]
江川卓著『ドストエフスキー』(岩波新書,1984年12月20日 第1刷発行)
 アンナ・ドストエフスカヤの回想によれば,ドストエフスキーは臨終の直前に「聖書占い」をした.その占いが指し示したイエスの言葉が,日本語で書かれた伝記,批評によってバラバラである.なぜそんなことが起きたのかが本書の冒頭で明らかにされている.著者の意図は別として,これは結果的に,小林秀雄や埴谷雄高らの文筆家としての姿勢を問うことになっている.
 
書籍[12]
レオニード・ツィプキン著,沼野恭子訳『バーデン・バーデンの夏』(新潮社,2008年5月25日)
 本書はドストエフスキーの実像を描こうとした小説である.史料的な意味では伝記とは一線を画するが,読めばなにがしかの参考になると考えた.

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2019年10月19日 (土)

マレフィセント2

『マレフィセント2』を観てきた.期待に反して,特に粗筋を紹介するほどの作品ではなかった.感想は,シナリオが粗雑だということ.
 要するに,唯一の悪役として登場するイングリス王妃 (オーロラ姫と結婚するフィリップ王子の母) が,なにゆえに「悪」になったのかが描きこまれていないのが原因だ.イングリスが若かった頃,彼女が王女として生まれ育った王国が飢饉で危機に瀕したとき,妖精に兄を殺されたらしく,その恨みについてイングリスが語る場面はあるが,台詞でそう言うだけで映像がないから,観客には真偽不明なのである.
 反対に,王とその息子であるフィリップは「平和」を連呼するのだが,なぜそのような平和主義者になったのかが全く不明である.さらに,フィリップが成人するまでの長い年月,イングリス王妃が,自分が「悪」であることを,どのようにして家族に知られぬよう隠してきたかが不明だ.映画というものは,善人でも悪人でも,そうなった理由を描かねばいけない.いきなり善人と悪人がでてくるのではテレビの水戸黄門と同じだ.水戸黄門ドラマを目指して制作したのであれば,たぶん費用がかかりすぎである.
 また普通は,フィリップ王子も成長する過程で母親に影響されて複雑な人格を形成するはずだが,しかしこの男はすごく単純な人格で,かつ国民を統率する人間的魅力がない.口で「平和」を唱えるだけでは平和はやってこないぞ.こんな男と一緒なって大丈夫かオーロラ.w
 それから,オーロラを眠らせた「呪いの糸車」をなぜかイングリスが所有しているのだが,入手経路が不明だ.
 それから,…… (以下略)
「マレフィセントとは何者なのか」は描かれているが,そのCGが大きいポケモンみたい (ネタバレ) で情けない.これさえ手抜きがなかったら,なんとかなったかも知れないのに.
 結局のところ,今年も残すところ二ヶ月少しとなった時点での公開予定作品の予告編を見てきたようなものだった.スターウォーズに期待しよう.だけどアナ雪は,もしかするとダメかも.

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2019年10月18日 (金)

勉強しないと大人になって

アラフォー向けNo.1動画メディア》と自称するメディア「citrus編集部」が,《電柱に登った電気工事士を見た母親が残念な一言…「勉強不足」「可哀想な方」と非難殺到 》(掲載日時 2019年10月17日 07:56) を掲載した.冒頭の部分を下に引用する.
 
電気工事士の知人が電柱に登って作業をしていると、親子が下を通りました。そして母親が息子さんにこう言ったそうです。「ほら、勉強しないと大人になってあんな仕事に就かなきゃいけないのよ」 電気工事士資格って、2種も1種も、並の勉強では取れない難関資格ですよね…
ネット上では、「勉強しないとあんな仕事に就くことになる」と言っている母親本人の勉強不足を嘆くコメントが多く寄せられました
 
 この記事の《ほら、勉強しないと大人になってあんな仕事に就かなきゃいけないのよ 》には,読売の「発言小町」あたりで,今までに何度も読んだ既視感がある.色んな職業について《ほら、勉強しないと大人になってあんな仕事に就かなきゃいけないのよ 》と言った母親がいる,けしからん,という作り話は,もはや定型化していると言っていい.今回のやつは台風被害に乗じて,もっともらしく電柱の工事を題材にしてこのテンプレを使ったものと思われる.

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2019年10月17日 (木)

心からはお詫びしたくない人たち

[1]
 台風19号によって断水被害を受けた神奈川県山北町に,陸上自衛隊の給水車が給水のために町に到着したが,神奈川県サイドから断られ,給水せずに撤収した問題.
 神奈川新聞社の記事《【台風19号】山北の給水車問題 黒岩知事が陳謝 》(掲載日時 2019年10月16日 21:36) によれば,黒岩祐治知事は16日,県庁で記者団の取材に応じた.
 同記事から知事の発言だけを抜き出せば以下の通りである.
 
「町民の皆さんのお怒りは至極当然。心からおわび申し上げたい」
「後から考えると、ルールに基づいてなかったとしても、融通を利かせて(自衛隊の給水車で)給水するという柔軟な対応もできた。判断を下す余裕がなかった」
「部隊が上からの指令ではない形で動いたということ。ただ、善意で対応されたことで(陸自を)責めるつもりはない」
 
 これは,山北町の町長がメディアを通じて,県の対応に不満を表明したことに対する黒岩知事の逆襲である.
 まずは型通り,記者団には《心からおわび申し上げたい 》と語ったが,自衛隊による給水は《ルールに基づいてなかった 》と「ルール」を強調し,次いで《部隊が上からの指令ではない形で動いたということだ 》と婉曲に非難した.自衛隊の部隊が,上からの指令に基づかぬ行動を取ることは組織として許されざることだ,というわけだ.さらに次に《 (陸自を) 責めるつもりはない 》と上から目線で自衛隊駒門駐屯地の部隊を見下してみせた.
 すごいなあ,と感服した.お詫びするかに見せかけて最後は《責めるつもりはない 》と,お詫びとは正反対の高圧的姿勢で締めくくったのである.
 ただし,黒岩知事の言うところの「ルール」は自衛隊の災害派遣の手順を意味しているのであるが,自衛隊は災害派遣において,緊急の場合は「ルール」に基づかずに行動することがあるのである.(資料)
 そのことを記者会見で触れないのは,アンフェアである.
 
[2]
 神戸新聞NEXT/神戸新聞社の記事《人間として恥ずべきことした 加害4教員謝罪の言葉 神戸・教員暴行》(掲載日時 2019年10月17日 00:17) によれば,神戸市立東須磨小学校の教員間暴行・暴言問題を巡る保護者説明会が16日に開かれ,加害教員四人の謝罪のコメントが読み上げられたという.そのうち,ネット上で「女帝」と呼ばれている女性教員のコメントは以下の通り.
 
子どもたちに対しては、こんな形になって申し訳ないです。子どもたちを精いっぱい愛してきたつもりですが、他の職員を傷つけることになり、子どもたちの前に出られなくなり、申し訳ありません。私の行動で、迷惑をかけてしまったことに対して、本当に申し訳ないと思っています。
 被害教員に対しては、ただ申し訳ないというしかありません。被害教員のご家族に画像を見せられ、入院までしている事実と、苦しんでいる事実を知りました。本当にそれまでは、被害教員には自分の思いがあって接していたつもりです。自分の行動が間違っていることに気付かず、彼が苦しんでいる姿を見ることは、かわいがってきただけに本当につらいです。どうなっているのかと、ずっと思っています。
 
かわいがってきただけに本当につらいです 》が,付き人に対して暴行傷害事件を起こした相撲取りのコメント(*)みたいである.w
どうなっているのかと、ずっと思っています 》は彼女の心境をよく表している.彼女は,自分がなんでこんなに非難されるのかわからないのだ.どうなっているのか心底から不思議なのである.子分の男性教員たちが,snsでは「反省しない」と表明しつつも,保護者に対して一応は反省のコメントを出したのと大きな違いである.追い詰められても土俵を割らないドスコイ先生,すごいなあ.
 
(*) Wikipedia【かわいがり】から
「かわいがり」の名を借りた暴力により怪我をしたり、ひどい場合死亡事件が起きることがあり、問題視されている。相撲界のみならず一般的な隠語としても利用されている。

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2019年10月16日 (水)

自由の女神

 中野京子先生の『欲望の絵画』には,これまでに読んだどの御著書でもそうだが,いくつも蒙を啓かれた.
 その一節「革命の高揚感」は,ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』を取り上げている.
 下の画像で,自由の女神の隣にいる少年について先生は次のように書いている.
 
この少年は、『レ・ミゼラブル』(ユゴー作) に登場するパリの浮浪児ガヴローシュの原型と言われる。両親によって「世の中に蹴り捨てられた」ガヴローシュは、「あらゆる子供のうちで最もあわれむべき者のひとり」だったが、優しい心根の主で、困っている人を見れば助けずにおれなかった。革命側の一員として活躍し、戦闘のさなか果敢に銃弾を拾っていて、政府軍に撃ち殺される。十二歳の英雄的な死であった。
 
20191016a
(『民衆を導く自由の女神』;パブリックドメイン,Wikimedia File:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpgから引用)

 私がこの名画を知ったのは,高校の世界史教科書に掲載されていたからである.油彩画なんて一度も見たことがない田舎の高校生だった私は,教科書の『民衆を導く自由の女神』の小さな画像を見ても,へーと思っただけだった.
 真ん中の女性が右手で打ち振っているのはトリコロールだから,ボンクラ高校生の眼にも,これが自由の擬人化であることは明々白々であったが,しかし私はそれ以上のことを考えようともしなかった.
 今にして思えば,大学入試を世界史で受験するというだけならそれでいいが,世の中に出てから少しは教養を身に着けんとして美術展に出かけても,とりわけ「暗黙の了解事項」の多い西洋絵画ジャンルでは,何の知識も持たずに絵を鑑賞しても,得るものは少ないのであった.それどころか,画家の創作意図を誤解してしまうことだってあり得ると中野先生は指摘している.絵画の研究と批評が学問として成立しているのは,それ故だろう.だから,中野先生だけでなく美術史研究者の著書を読むのは,実におもしろくて,ためになる.
 さてフランス七月革命の戦いで,民衆を導く自由の隣にいる少年のことだ.Wikipedia【民衆を導く自由の女神】には次の記述がある.
 
女性の左隣の二丁拳銃の少年については、誰をイメージしたのかは不明。
レ・ミゼラブルの登場人物ガヴローシュは女神の右前にいる少年にヒントを得て描かれたといわれている。
 
『欲望の名画』にも《この少年は、『レ・ミゼラブル』(ユゴー作) に登場するパリの浮浪児ガヴローシュの原型と言われる 》とある.
 しかし私なんかには,何をどのように調べれば,二丁拳銃の少年が『レ・ミゼラブル』に結びつくのか,皆目わからない.奥が深いなあ.
 ところで古来,泰西名画には下の画像のように神話をモチーフにしたものが多い.
 
20191017a
(『ヴィーナスの誕生』;パブリックドメイン,Wikimedia File:Sandro Botticelli - La nascita di Venere - Google Art Project - edited.jpgから引用)
 
 別の著書で中野京子先生が解説されているところによると,この当時の神話画は,現代の写真集みたいなものだったらしい.美を追求する立場の画家は裸婦を描きたいし,絵画を買う上流階級の人々,というか男たちは,女性の裸体を眺めたかったのである.
 両者のニーズは一致していたが,宗教的な道徳がそれを阻んだ.そこで工夫されたのが神話画だったというわけ.
 ここで話を『民衆を導く自由の女神』に戻す.
 Wikipedia【民衆を導く自由の女神】には次の記述がある.
 
原題のLa Liberté guidant le peupleから分かるように、女性は自由を、乳房は母性すなわち祖国を、という具合に、ドラクロワはこの絵を様々な理念を比喩(アレゴリー)で表現している。
 
 フランス人が女性 (マリアンヌ) の姿で「自由」を象徴したことは大いに納得できるところであるが,《乳房は母性すなわち祖国を 》はどうだろう.民衆を導くためとはいえ,なにも胸をフルオープンにせんでもいいのではあるまいか.つまるところドラクロワは,祖国云々よりも女性の美しい胸を描きたかったのであると私は思う.それが証拠に,マリアンヌの足元に倒れている革命市民の視線は,三色旗ではなくマリアンヌの胸にくぎ付けになっている.革命のさなか,負傷して死を目前にしても男は乳房を見ずにはいられない.ドラクロワの創作意図は,実にこれなのである.ヾ(--;)チガウトオモウ
 
20191017b
(『民衆を導く自由の女神』;パブリックドメイン,Wikimedia File:Eugène Delacroix - La liberté guidant le peuple.jpgを加工した)




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2019年10月13日 (日)

ドストエフスキーの臨終メモ /工事中 10/13更新

 ドストエフスキーの臨終の様子は,書物によっていくつかの食い違いがある.どうしてそのような事が起きたのか,明らかにするための資料調査の過程を下にメモしておく.
 調査開始時点での仮説は,アンナ・ドストエフスカヤの遺した原稿を編集した書籍によって,内容に大きな齟齬があるということである.従ってそれらを基にした伝記にも食い違いが発生していると考えられる.
 
(1) アンナ・ドストエフスカヤ『回想のドストエフスキー 2』(松下裕訳,みすず書房,1999年)
「解説」p.285から引用
 《アンナ・グリゴーリエヴナ・ドストエフスカヤのこの『回想』は、没後原稿のまま残されていたが、ドストエフスキー研究家レオニード・グロスマンの編集によって一九二五年にモスクワとレニングラードで出版された。また一九七一年に、あらたに編集・校訂されてより完全な形で、一九七二年から刊行された全三十巻本ドストエフスキー全集に先だって、「文学回想集」シリーズの一冊として出された。わたしの翻訳はそれにもとづいている。
 
(2) アンナ・ドストエフスカヤの略歴 (みすず書房のサイトから引用)
作家フョードル・ドストエフスキーの二番目の妻。旧姓スニートキナ。1867年2月15日にドストエフスキーと結婚。25歳の年齢差があった。ふたりのあいだにソフィヤ、リュボーフィ、フョードル、アレクセイのニ女ニ男が生まれる。速記者として夫の著者の出版に尽力。夫の没後、ドストエフスキー全集の編集出版にたずさわる。モスクワの歴史博物館にドストエフスキー記念室を設け、のちのドストエフスキー博物館の基礎をつくる。ヤルタで歿。

  生没年:1846-1918
  英語版Wikipedia
 
(3) アンナ・ドストエフスカヤの原稿 (一次資料) は所在不明
  * レオニード・グロスマン編の「回想」(二次資料) は1925年刊
     a. 羽生操訳・興風館1941年刊『夫ドストエフスキーの回想』(上・下),
     b. 羽生操訳・三一書房1957年刊『夫ドストエーフスキイ』(上・下),
        b.は,これを底本にしていると思われる.
        a.はさいたま市立図書館にあるらしい.
  * ロシアで出版された「文学回想集」シリーズの「回想」(二次資料,編集者不明) は1971年刊
     松下裕『回想のドストエフスキー』(みすず書房,1999年) はこれを底本としている.
 
(4) 山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間文庫) の第二巻 p.274から引用する.
一八八一年一月二十五日の夜、彼は執筆中ペンを落とし、それを拾うために本棚を動かしたとたん喀血した。二十六日にも血を吐いた。
 二月九日朝、二十五歳年下の妻のアンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーはじっと彼女をみつめていた。
「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
 と、いった。そして福音書を読んでくれといった。彼女はマタイ伝第三章を読んだ。
 九時ごろ、彼は妻の手をにぎったまま眠りにおちいり、十一時ごろ目ざめた。同時にまた喀血がはじまった。
 彼の家にあるのは五千ルーブルだけであった。彼はいった。
「アーニア、君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しいだろう……」
 夜八時過ぎ、ドストエフスキーはびくっとしてベッドの上に起き上った。血の細糸が彼のあごひげを伝わっていた。アンナは氷のかけらをふくませたが、血はとまらなかった。
 医者が呼ばれた。アンナと子供たちはベッドのそばにひざまずいて、涙を流した。
 八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。
 世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月前に完成していた。》(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 この記述で注目すべきは褐色の文字の部分である.すなわち,他の評伝等の資料で記されている「聖書占い」のことが書かれていないこと.
次にドストエフスキーにアンナが氷を含ませたこと.臨終の時刻を八時三十八分としていること.アンナの『回想のドストエフスキー』(みすず書房;1999年) には八時三十六分と記されている.
 
(5) アンナ・ドストエフスカヤ翻訳作品一覧
Анна Григорьевна Достоевская (Anna Grigoryevna Dostoyevskaya),1846/9/12-1918/6/9,Russia
『回想のドストエフスキー』 Воспоминания
  Two Volumes
  translator:松下裕 (Matsushita Yutaka),Publisher:筑摩書房 (Chikuma Shobo)/筑摩叢書
    One:1973,Two:1974
『回想のドストエフスキー』 Воспоминания
  Two Volumes
  translator:松下裕 (Matsushita Yutaka),Publisher:みすず書房 (Misuzu Shobo)/みすずライブラリー
    One:1999/9 ISBN4-622-05043-9
    Two:1999/12 ISBN4-622-05048-X
『夫ドストエーフスキイ』
  Two Volumes
  translator:羽生操 (Habu Misao),Publisher:三一書房 (San-ichi Shobo)
    1957
『ドストエーフスキイ夫人アンナの日記』
  translator:木下豊房 (Kinoshita Toyofusa),Publisher:河出書房新社 (Kawade Shobo ShinSha)
    1979/9
『夫ドストエーフスキイの回想』
  Two Volumes
  translator:羽生操 (Habu Misao),Publisher:興風館 (Kofukan)
    1941
『良人の追憶』
  translator:井田孝平 (Ida Kōhei),Publisher:春秋社 (ShunjyuSha)
    1924
「ドストエフスキー」(『世界ノンフィクション全集27』)
  translator:羽生操 (Habu Misao),筑摩書房 (Chikuma Shobo)
 
(6) 小林秀雄『ドストエフスキイの生活』(新潮文庫,1964年12月20日発行) のp.199から引用する.
彼は一八八一年一月二十八日に死んだ。夜八時半であった。臨終に就いては別に記すべきこともない。安らかな死であった。死ぬ二日前にリュビイモフに宛て彼の書簡集が強いられた最大の主題であった原稿料の催促を書き、死ぬ日の朝には聖書で占いをした。彼は日頃トボリスクでデカブリストの妻達から送 (ママ) られた聖書を枕頭に置き、これを出鱈目に開いては最初に目に這入った文句で危機を占う習慣があった。その朝出た文句はマタイ伝の次の文句であった。「ヨハネ之を止めんとして言う。我は汝にパブテスマを受くべき者なるに、反って我に来り給う。イエス答えて言い給う、今は許せ、我等斯く正しきことをことごとく為遂ぐるは当然なり」。「今は許せとは今日死ぬという事だ」と彼はアンナに言った。死因は明瞭には分かっていない。三日前に重い家具を動かそうとして、突然肺から出血したのだとアンナは記している。》(当ブログの筆者による註;「一月二十八日」はユリウス暦である)(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 最初に目に這入った文句では全くの誤り.「聖書占い」は,聖書を無作為に開き,見開き左頁の最初に出てきたイエスの言葉を占いに用いるのが決まりである.
 今は許せは,松下裕『回想のドストエフスキー』(みすず書房,1999年) では「とどむるなかれ」である.
 臨終の描写はこれだけである.本書の「解説」を書いている江藤淳によると,小林秀雄が参考にしたのはE.H.カーの『ドストエフスキー』と,イエルモリンスキーの『ドストエフスキー』(書誌事項は全く不明;国会図書館に情報なし) である.またアンナの著書としては,羽生操訳の『夫ドストエーフスキイ』(三一書房) の可能性が高い.
 
(7) 埴谷雄高『ドストエフスキイ その生涯と作品』(NHK BOOKS;1965年1月20日発行) のp.179から引用する.
「朝の七時に目を覚ますと、彼が、私の方を眺めていたので、私はその上に屈みながら訊ねた。
――いかがですの、お具合は?
――アーニャ、と、彼は低音でいった。僕はもう三時間も眠らなくて、じっと考えていたんだが、今日僕は死ぬよ、今、僕にそれがはっきりわかるんだ。」
 そして、ドストエフスキイはアンナに、蝋燭をともして、福音書をとってくれといいました。
 「この福音書は、彼が徒刑囚として出発の途についたとき、トボリスクにおいて、デカブリストの女たち――P.E.アンネンコフ、その娘のオルガ・イワノヴナ、R.D.ムラヴィヨフ・アポステル及びフォン・ヴィジーナから贈られたものであった。彼女たちは、ここへ着いた政治犯人たちとの面会を許してくれるよう、要塞司令官に願い出て、一時間だけ一緒にいることの許可を得た。で、彼らを((この新しい道程))で祝福し、十字を切って、犯人の一人一人に、要塞で許された唯一の本、福音書を、一冊ずつ贈ったのである。
 フョードル・ミハイロヴィッチは、徒刑場での四年間、少時もこの聖書を身体からはなさなかった。
 後にも、この福音書は始終テーブルの上で手にとられて、しばしば、何か疑いが起こるとか、決心のつかないことがあるとかすると、これをでたらめに開いて、出た頁を上から読んだものだ。今度もまたこれに訊ねようと思って、それを開いて、私に読んでくれるように言った。
 それはマタイ伝の第三章第十四節及び第十五節であった。《ヨハネいなみていいけるは、我は爾よりパブテスマを受くるべき者なるに、爾かえって我にきたるか。イエス答えけるは、暫し許せ、かくのごとくすべての義しきことは我等尽すべきなり。》
 聞いたろう! 暫し許せ、これは僕が死ぬことをさしているのだ!
 と良人は、本を閉じながら言った。」
 その夜の八時三十六分、血のしたたりが下顎を伝わったドストエフスキテは息をひきとりました。
 暫し許せは,松下裕『回想のドストエフスキー』(みすず書房,1999年) では「とどむるなかれ」である.
 
(8) 「今は許せ」「暫し許せ」問題
 ロシア文学者である江川卓『ドストエフスキー』(岩波新書,1984年12月20日) は,ドストエフスキーの臨終の詳細は書かれていないが,ドストエフスキーが最後の「聖書占い」に用いた聖書について詳しく述べている.

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2019年10月11日 (金)

台風19号 (12~13日随時更新)

 台風19号が,非常に強い勢力のまま首都圏直撃しそうだと,テレビ等で繰り返し報道されている.
 
気象庁の梶原靖司・予報課長は11日午前に記者会見し、1958年に伊豆半島の狩野(かの)川が氾濫し、死者888人、行方不明者381人を出した台風に匹敵する記録的な大雨になる恐れがあり、大雨特別警報を出す可能性があることを指摘。「自分の命、大切な人の命を守るために、風雨が強まる前に、夜間暗くなる前に、市町村の避難勧告などに従って早め早めの避難、安全確保をお願いします」と呼び掛けた。》(毎日新聞 2019/10/11 11:27)
 
 今日の午前十一時頃,藤沢のダイエーに食料の買い出しに行って驚いた.
 パンの棚,カップ麺の棚がガラガラになっていたのだ.
 私のうちは食料備蓄は十分なので,パンやラーメンを買えなくても別にかまわないのであるが,みんな心配なんだろうなあ.
 
 ある情報サイトのコンテンツに,各地の停電リスクというのがあり,それによると藤沢市は停電可能性がかなり高い地域になっている.
 私の住居は横浜市であるが,藤沢市に近い.東電の電力供給網は行政区分に従っているわけではないから,湘南の海岸各地域が停電した場合,私の家も停電に見舞われる可能性が高い.実際,大昔だが,平塚市から藤沢市に至る一帯が長期停電した時,横浜市の南部も停電した.
 台風15号が千葉県を襲ったとき,強風で飛ばされた瓦が家の窓ガラスを破壊し,その窓から吹き込む強風で屋根が吹き飛ばされると言う事態が多数発生したという.私の家は,飛来した瓦が直撃したら必ず割れる (雨戸がない) という窓が一つある.困ったなあ.ベニア板で補強しておけばよかった.(後悔)
 実は瓦が当たったくらいでは破れない強度の繊維入りシートをAmazonに発注していたのだが,発送が延び延びになって,台風来襲に間に合わなかったのだ.まあ,よその家の屋根がぶっ飛んで我が家に落下衝突したら,そんなものでは無意味だけど.
 
 テレビの台風報道で,NHKほかが「セブン・イレブンが首都圏1000店休業」と報道し,解説委員みたいな人が「利益よりも従業員の安全を優先した大英断です」と語った.その一方で「ローソンとファミマは,オーナー判断にまかせる」と画面に文字だけで簡単に報じた.
 しかし,例えば読売などネット上の新聞では,
 
セブン&アイ・ホールディングスは11日、首都圏・東海地方のセブン―イレブン約1000店が12日に休業することを明らかにした。
 
休業は加盟店オーナーの判断になるため、詳細な店舗数や休業時間などは明らかにしていない。
 セブンは「顧客や従業員らの安全を第一に判断をしてもらっている」としている。
》(2019/10/11 20:10 読売に掲載)
 
と書かれている.ローソンとファミマと同じ対応なのに,セブンだけが「大英断」とほめられた.w
 これは広報の上手下手なんだろう.今年に入ってからのセブン本部とオーナーの対立で,コンビニ業界を見る市民の目は「コンビニのオーナーを苦しめるセブンvsオーナーにも配慮するローソン&ファミマ」という図式が固まっている.そこへもってきてこのメディアへのリリースはホントにうまい.その知恵をオーナーへの配慮に回せばいいのに.
 
(10/12 10:35) テレビの台風情報と tenki.jp の台風19号進路予想図をずっと見ているのだが,既に私のうちあたりは強風域にあり,やがて暴風域になりなんとしているわけだが,実際には,雨は小降り (部屋の中では雨音があまり聞こえない) で,空は明るい.風はほとんどない.風雨の激しいところと,そうでないところが著しくまだら模様になっていると思われる.
 
(10/12 15:05) 依然として雨も風もたいしたことはない.伊豆半島付近に上陸の可能性が高まっているが,そこから埼玉県方面に進むらしい.とすると私の住んでるあたりは直撃コースだ.と書いてるうちに風の音が急に大きくなってきた.
 
(10/12 18:15) 台風19号は現在,下田市の西方にあり,北北東に進んで上陸する見込み.テレビの中継を見ると,藤沢市の海岸は猛烈な暴風雨に見舞われている.川崎市では住宅への浸水が極めて激しいレベルで発生している模様.
 
(10/12 22:15) ようやく風と雨はおさまった.翌朝になってみないと何とも言えないが,私の家の周辺は被害が軽微だったと思われる.
 
 上に時系列的に記した状況は,テレビとネット情報を参照しながら書いたものだ.
 震災と異なり,台風は現在は事前に詳しい情報が入手できる災害になっている.公共交通機関は計画運休というパラダイムシフトを成し遂げた.
 その効果は著しい.今回の台風19号はあの狩野川台風を上回る規模とされたが,狩野川台風の死者 (1269人) を思えば,人命の安全という点で比較にならぬほど我が国の台風対策は進んだと言える.
 それにしても,と思う.私は貧乏大学生の時には新聞をとっておらず,テレビはもちろん持っていなかった.当時の学生で,自宅通学の学生は別だが,テレビを持っているなんてのは裕福な家庭の子女だったのだ.
 私は,中学生の時に親が買ってくれた小さなラジオ (新書くらいの大きさ) を,高校受験,大学受験勉強の時に愛用していた.大学に合格したあと,そのラジオを後生大事に持って上京した.そのラジオの電池は006Pだったから,すぐ消耗した.
 そんな情報弱者状態でも何とかやってこれたのは,昭和四十年代は実に災害の少ない時代だった (首都圏では,だが) からだとしみじみ思う.
 
 台風が関東地方を通過した十三日の朝五時以降のテレビニュースを見ていると,「昨夜,七十代の男性が○○川の様子を見てくるといって家を出たまま戻らない,と家族から警察に連絡があった」という内容の報道がいくつもあった.
 これだけテレビ各局のアナウンサーたちが口を酸っぱくして,川の様子を見に,などという外出はしないでください,と言い続けているにもかかわらず,外に出ていく高齢者の心境が理解できない.川の様子を見たら何かよいことがあるのか.不思議だ.

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2019年10月10日 (木)

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 各位
 これまではコメントを常時受け取る方式にしていましたが,今後は通常はコメント投稿欄を常時クローズしておく方法に変更します.
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2019年10月 9日 (水)

横浜美術館と WINE STAND BASIL

 ようやく昼間の気温が下がって,外出しても汗をかかずに済む季節になったようだ.
 少し前のことだが,藤沢駅のホームに美術展などの案内掲示をするスペースがあり,そこにオランジュリー美術館コレクション ルノワールとパリに恋した12人の画家たちがあった.今週末から来週にかけて,またまた東京湾に台風が上陸するらしいので,今のうちに出掛けてこようと思った.
 横浜市は,六十五歳以上の高齢者に「濱ともカード」という優待施設利用証を配布している.横浜美術館はこれが使えるのかと思ってネットで調べたら,月に一度だけ「コレクション展」が無料で鑑賞できるのだという.しみったれているなあ.
 ちなみにこのカードは,横浜市内の高齢者は「持っているけど使わない」ものらしい.どの施設で利用できるのか,スマホでネット検索できる高齢者以外にはわからない仕組みになっているからだと思われる.例えば横浜美術館は横浜市のお膝元でありながら,カード特典はないに等しい.美術館に限らず,横浜市の高齢者優待事業に協賛していない施設 (それがほとんど) で「ここは濱ともカードを使えますか?」と施設側に訊ねて,「いいえ」と断られるのを何度か経験すると,もう使う気になれない.カードのデザインも,デカデカと「寿」と書いてあり,こんなものを人前で出したくない.高齢者=寿というのが行政側の国語感覚なのである.w
 あ,いいことを思いついた.条例で横浜市の高齢者は,運転する車のボンネットにデッカイ「寿」ステッカーの掲示を義務付けるのだ.高齢者が運転を嫌がって事故が減るかも知れない.
 それはともかく,横浜美術館のカフェ (単なる休憩所だが) では電子マネーもQRコード決済も使えない.濱ともカードも使えない.使えるのはクレジットカードだけである.コーヒー一杯をクレカで払う高齢者がいたらお目にかかりたい.ミュージアムショップも同じだ.絵葉書一枚を買うのにクレカを使うのは勇気がいる.
 ついでに書くと,横浜市の「敬老特別乗車証」は,これを使ってバスに乗るためには,厚生年金をフルに受給している健常高齢者の場合,年額九千円を負担しなければならない.たまにバスに乗るだけで,そんな高額負担を納得する者はいない.これも,敬老精神ありますという形だけの「お飾り」だ.
 もっと書くと,林文子横浜市長は,元々がお茶くみOLから身を立てて遂には外車販売会社の社長,ダイエーの会長,東京日産自動車販売の社長に上り詰めた 立身出世伝 立志伝中の人である.だから営利事業と聞くと血が騒ぐのだと思われる. 市長は横浜の生まれではないので,ペリー以来の横浜の歴史なんか知ったことではないから,山下公園一帯を大規模再開発し,現時点で市民の大部分が反対であるとされるカジノを山下埠頭にぶっ建てることに執念を燃やしている.再開発構想をごり押しすれば,赤レンガ倉庫も馬車道も歴史の証人氷川丸も,古き良き港横浜の情緒は霧消するだろう.自民党公認を勝ち取り,晴れて故郷の東京から国政に打って出るにはそれくらいのことを
 
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 さて上の写真 (↑) にある横浜美術館の最寄駅は,みなとみらい駅で,地上に出るとすぐ近くに敷地入り口がある.
 
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 (↑) 上の写真は美術館前の広場で,掲示板の奥に玄関がある.
 
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 (↑) 玄関を入ると大きな立て看板.今回の美術展のメダマはルノワールの『ピアノを弾く少女たち』だというアピールだ.ルノワールはほぼ同じ構想とサイズで六枚の絵を描いた.下の画像はそのうちの一つで,Wikipediaに掲載されている作品.オルセー美術館蔵.
 
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(Wikipedia【ピアノに寄る少女たち】から引用;パブリックドメイン) 
 
 今回の美術展の出品作家は ここ で一覧できる.作品リストは ここ
 私はアンドレ・ドランの作品は初めて観たのだが,『座る画家の姪』(『座っている画家の姪』とも) が素敵な絵だと思った.
 平日の午前中ということで,展示室は適度な込み具合だった.ざっと見た感じ,私のような爺 σ(^^) は数人しか来ていなかった.来館者はほぼ女性ばかりで,もしかすると美大生かも知れない若い娘さんが数人,真剣な眼差しで絵を鑑賞していた.あとは高齢の婦人たちであったが,彼女らは,失礼ながら巣鴨地蔵通り商店街へ買い物にきたとでもいうような服装と髪型の皆様であった.それがセザンヌの絵の前で井戸端会議的に「パリに行ってもルーヴルしか観ないなんて人がいるから驚いちゃうよねー」とか会話しておられる.恐るべし,日本婦人の経済力とタフネス.私ゃもう欧州に行く気力も体力もない.お金もね.
 
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 (↑) は大画商ポール・ギョームの邸宅を模型化したものの一部.展示室の壁に埋め込むような形で観覧に供されている.これは撮影可.
 実は朝,バスに乗り遅れまいとして走ったときに足首をくじいたせいで,立っているのがしんどくなってきた.それで,この美術展の他に横浜美術館コレクション展が同じフロアにあるのだが,そちらは次回に,ということにして,飯を食って帰ることにした.
 会場出口の特設ショップで展示会グッズを販売していたので,マグネットを一つと来年の卓上カレンダーを買った.
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WINE STAND BASIL
 
 横浜美術館に隣接する商業施設「クイーンズ・スクエア」で,いい店はないかと少し歩き回った.商店やレストランはいくつかのブロックに分かれているが,「1st」の二階に「WINE STAND BASIL」という店を発見した.ちょっとわかりにくい場所にあるのだが,要するにビルの外に張り出したテラスがレストランになっている.
 上の写真は,遊園地「よこはまコスモワールド」の向こうに見えるランドマーク「コスモクロック21」だ.ウェイターは細身の青年で,テラスの空いているテーブルに案内してくれた.隣のテーブルには,ちょっと知的な雰囲気が漂う中年の外国人女性がいて,グラスワインの赤を飲んでいた.
 私もまねて,グライワインの赤と「本日のシャルキュトリーと前菜の盛り合わせ」を注文した.シャルキュトリーcharcuterie.いろいろな肉加工品のこと.これは千二百円なのに,量が思ったよりずっと多かったので,グラスワインを三杯も飲んでしまった.
 隣のテーブルの外国人女性は,赤の次に白のグラスワインをオーダーした.そしてそれをすっと飲み終わると,カツカツとヒールの音をさせながら去って行った.彼女は特に酒肴をつままなかったようで,それはなかなか恰好いいと思った.
 その次に隣のテーブルにきたのは,まだ二十代の前半と思われる娘さんだった.彼女はランチを注文したあと,スマホで通話をした.電話の相手はどうやら友達らしく,彼女は,クイーンズスクエアかどうかはわからないけれど,服とか雑貨のショップ店員さんのようだった.
「しゃべらなくていいから,わたしの話を聞いてほしいの」
と言った.昼飯時ではあるけれど,たぶん相手はまだ仕事中なんだろう.
 ランチに来るちょっと前に,店に外国人の客がきたという.彼女は英語での接客がうまくいかなかったらしい.店長か先輩かに叱られたのだそうだ.
「それでね,心がおれちゃったの」
と言った.そして,聞いてくれてありがとう,と言って通話を切った.
 若い時は,そんなことはよくあることだ.折れた心は食べれば治る.彼女はランチをもりもりと食べ終わると,伝票をつかんで仕事に戻って行った.私もそろそろ帰ろうと思った.
 グラスワイン三杯が千二百円,シャルキュトリー盛り合わせが千二百円.合計二千四百円に加えて消費税10%のお昼御飯であった.ごちそうさまでした.また寄ります.

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2019年10月 7日 (月)

袋ラーメンのパック

 初めてAmazonのパントリーをやってみた.
 パントリーというシステムは,要するに手数料オフになる商品を規定数買えばいいのであり,梱包ダンボール箱の使用率は気にしなくてもいい (緩衝材が空隙に詰められるから) のであるが,何となくそれはイケナイことのような気がした.
 大昔,「かっぱえびせん」とか各社のポテトチップスが世に出た頃の話だが,工場からそれらの菓子を運ぶトラックのドライバーは「張り合いがない」と嘆いたという.運転時の体感的に,空気を運んでいるような気分がするからであった.今の感覚でいえば,運輸というのは価値を運ぶ仕事であり,積載重量で評価するものではないから,スナック菓子はむしろ良い荷物なのだが,しかし当時のドライバーさんたちの気持ちはよくわかる.私は今もそういう感覚 (→空気を運ぶなんて,モッタイナイ) を捨てられない.
 そこで,パントリー箱の使用率をぎりぎり高めようと試みた.パントリー専用商品は食品ジャンルに多いし,食品はかさばるのでパントリーに適しているような気がする.
 そこで即席袋麺とスナック菓子,米菓,珍味などをカートにポイポイ放り込んだ.(下記の価格は変動する)
 袋麺は体積当たりの単価が安い.「日清のラーメン屋さん」シリーズが特に安い (スープの味が今一つだから売れていないのかも) ので,「旭川しょうゆ 5食パック 299円」を入れた.店頭でも袋ラーメンはこれが一番安い.
 次に安いのは「サッポロ一番みそラーメン 5食パック 399円」と「サッポロ一番塩ラーメン 5食パック 399円」だった.店頭でも価格はこんなもんだ.
 高いのは「日清焼そば 5食パック 499円」で ,同じ日清食品なのに,どうしてこれが「日清のラーメン屋さん」よりも200円も高いのか理解できない.できないがパントリー箱をいっぱいにするためにカートに放り込んだ.
 そうこうするうちに,手数料オフ商品を入れる余裕がなくなってきたので「明星 中華三昧 四川風味噌拉麺 手数料オフ対象品 456円」もカートに入れた.なんで「日清焼きそば」より高いんだと不思議に思ったが,このあたりでは「単価と手数料オフかどうか」にしか注意が向いておらず,何個入りであるかには注意が向かなくなっていた.パントリー箱の使用率を極限にすることと,手数料オフを両立させる組み合わせを求めて,商品をカートに入れたり出したりすることに熱中したのであった.「日清焼きそば」を買った頃には既に逆上していたと思われる.
 
 さてパントリー箱が届いて,中身を点検しながら気が付いた.「中華三昧」は三食入りだったのである.エラい高いものをつかんでしまった.ディスカウンターで買えばよかったと後悔した.
 熱くなって袋ラーメンをたくさん買ったので,しばらくは袋ラーメンを日に一食する.飽きそうだなあ.

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2019年10月 6日 (日)

ある説話の検索と発見

 昔の朧げな記憶で,時々思い出すのだが,あまりにも不確かなことなのでそのまま放ってあることがいくつもある.
 そのうちの一つのこと.
 私は前橋市立城南小学校の生徒だった.この学校は国鉄高崎線前橋駅のすぐ南にあったのだが,現在は駅からかなり南に下ったところにある.
 つまり校舎が移転したのであるが,その移転時期がわからない.Wikipedia【前橋市立城南小学校】は,これについて何の記載もない.同小学校の公式サイトの《学校のあゆみ》には,
 
1971 S46年 7月 新校舎地鎮祭
 1973 S48年 1月 プール起工式
        3月 校舎体育館落成式「伸びゆく子」の像除幕式
        7月 プール竣工式
 1974 S49年 2月 50周年記念式典
 
とあるから,なぜか明記はされていないけれど昭和四十九年の二月に「50周年記念」事業として校舎が移転したものと推察される.
 ならばとて検索語を変えて色々試みたが,移転時期についてはっきりしたことはわからなかった.
 
 私の在学時は木造二階建ての校舎で,外壁は木造炭鉱住宅の板壁のようであり,窓枠も木材で,今にして思えば旧陸軍兵舎のほうが余程立派に見えるくらいのボロ校舎だった.市内中心部の他の小中高校は立派な鉄筋校舎だったが,なぜか城南小学校だけ他とひどい格差があった.例えば梅雨時には,窓枠から廊下に雨水が漏れ,水が浸み込んて湿った廊下にはキノコが生えた.まるでサルマタケだ.
 サルマタケが生えた廊下の一番端に図書室があった.私は小学生当時から本が好きであったが,小学生の頃は親がひどい貧乏だったので本を買い与えられることはほとんどなく,それで図書室の本をよく読んだ.たぶん小さな学校図書室の蔵書はあらかた読んだと思う.どんな本を読んだかは,あらかた忘れた.ヾ(--;)
 今でも記憶しているのは,少年少女向けに書かれた白瀬矗中尉の南極探検物語と,対象年齢がわからないが,何冊ものシリーズになっていた仏教説話集であった.
 
 余談だが,NHKが今朝のニュー
スで《「日本南極探検」日本最古の記録映画 公開当時の状態に復元》(2019年10月7日5時49分) を報道した.これまで「日本南極探検」には二つの上映用プリント (東京国立近代美術館と早稲田大学が所蔵) が存在していたが,その後に発見された原形に近いフィルムを一昨年九月に東京国立近代美術館フィルムセンター がデジタル修復した. (《日本初南極探検、鮮明に 最古の記録映画修復》産経ニュース,2017年9月9日 11:37 ) 
 以上のことは既に知られていたので,今朝の報道の意味がよくわからない.一昨年に修復されていたエディションをさらに修復したということであろうか.
 いずれにせよ,日本人として初めて南極探検を試みた偉人の業績を,南極探検後援会 (会長大隈重信) が卑劣にも遊興三昧で食い物にし,白瀬中尉に巨額の借財を負わせた.帰還した白瀬中尉は返済のために奔走し,悲惨な晩年を迎えた.Wikipedia【白瀬矗】は中尉の最期を次のように記している.
 
昭和21年 (1946年) 9月4日、愛知県西加茂郡挙母町 (現・豊田市) の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去。享年85。死因は腸閉塞であった。床の間にみかん箱が置かれ、その上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられた祭壇を、弔問するものは少なかった。近隣住民のほとんどが、白瀬矗が住んでいるということを知らなかった。白瀬の死後、遺族はその窮状を見かねた浄覚寺の住職が引き取った。
 
 もちろん私が読んだ白瀬中尉の物語は偉人伝であるから,中尉の悲しい最期は書かれていなかった.たぶんそんなことを書いたら,少年少女はエラくなる意欲を失うからであった.私が事実を知ったのは,ウェブを検索することが容易にできるようになってからのことである.まことに当時,子供を対象にして数多く出版された偉人伝なる書物は,ある事ない事を見境なく書きなぐったひどいものだった.おかげさまで昔のの子供たち σ(--;) は,今では詐欺師,人間の屑,外道,犯罪者などと罵倒される野口英世や島崎藤村を尊敬してしまったのである.
 
 閑話休題
 白瀬中尉の南極探検物語には,小学生の私は実は感動しなかった.しかし,子供向け仏教説話の一つには,いたく心を動かされた.
 どんな話かを大雑把にいうと,ある悪人が西方浄土を目指して歩き,遂に大往生を果たすという物語であった.ディテイルは全く覚えていないのだが,その悪人の,なんというか「ひたむきさ」に胸を打たれたのである.
 以来,子供向けに書き直されたその説話が,元々は一体どんな話であったが,ずっと気になっていた.色々と説話文学について論じる書物を読んでも見つからなかったからである.
 そこでつい先日,本腰を入れてウェブを検索してみた.種々の検索語を入れて絞り込んでみたが見つからない.そこで名詞を用いての「絞り込み」をやめた.単なる状況説明として「仏教説話 × 西へ歩く」を検索窓に入力したのである.
 すると一発でヒットした.その説話は,今昔物語集巻十九「讃岐国多度郡五位聞法即出家語」であった.しかもこの説話は,芥川龍之介が材にして作品としていた.『往生絵巻』である.
『往生絵巻』は青空文庫に収められていたので早速読んでみたが,しかし面白くも何ともない話であった.駄作である.
 原文はないかと探したら,すぐに見つかった.《やたがらすナビ》というサイトのコンテンツ《攷証今昔物語集》に《巻19第14話 讃岐国多度郡五位聞法即出家語 第十四》が掲載されていた.これを読み始めるや,小学校の図書室で読んだときのことが懐かしく思い出された.これだ,これである.私が読んだのはこの説話の現代語訳なのであった.
 この原文は最終更新が2016年2月9日だと記載されている.私の検索がもっと早かったら,この説話原文に出会うことはなかった.このサイトの開設者に深く感謝する.
 この説話は割と知られているものらしく,ある人のブログに,尾崎秀樹による現代語訳が『現代語訳日本の古典〈8〉今昔物語』(1980年) に収録されていると記されていた.しかし原文が入手できたのだから,それを読む必要はない.むしろ底本が違うことによる異同があるかも,と思って池上洵一『今昔物語集 本朝部〈中〉』(岩波文庫) をAmazonで注文した.到着するのが楽しみである.

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パスポート受け取りの日に

 一週間前に切換申請したパスポートを受け取りに,神奈川県パスポートセンターに行った.
 JRで藤沢から横浜へ行き,みなとみらい線横浜駅で発車寸前の電車に飛び乗ったら,これが特急で,日本大通り駅を通過して終点の元町・中華街駅まで行ってしまった.しかしここで逆方向の電車が来るのを待つのは何だかバカみたいなので,下車して地上に出た.
 山下公園を右手の道路の向こうに見ながら散歩だ.そういえばマリンタワーを眺めるなんて何年ぶりのことだろう.
 スターホテルの前を通る.ここの一階にはカジュアルなレストラン Eggs'n Things がある.遅い朝食を摂る外国人でテラス席は一杯だった.
 その次はホテルニューグランドだ.公園通りに面して「ザ・カフェ」の窓が並んでいる.時刻は昼前の十一時過ぎ.ここでナポリタンを食べたい気分になったが,その前に用事を済ませなきゃと思って通過.それから旧英国七番館,ホテルモントレ横浜,県民ホールの前を通って産業貿易センターに到着.二階のパスポートセンターに入ると,パスポート受け取り窓口の前の長椅子には三人しかいなかった.
 そのうちの一人は若い女性で,大きいキャップを深くかぶり,濃い色のサングラスをかけ,大きなマスクをしていた.顔が全くわからない.何かわけありなんだろうか.彼女は窓口で「全部とってください」と言われた.写真と照合するのだから,そりゃそうだよね.
 私の番が来て,窓口の職員さんに名前を呼ばれた.本籍を口頭で述べて顔をよく見せれば手続き終わり.さあ昼飯だ.
 パスポート切換申請書を出しに来た前の週は,THE HOF BRAU の日替わりランチを食べてガッカリした.今日はどうしようと少し思案して,SCANDIA GARDEN に決めた.
 このレストランは,二階がちょっと改まった会食の席に使える SCANDIA で,一階がカジュアルな SCANDIA GARDEN という具合に分かれている.SCANDIA GARDEN は洋食屋さんと呼んでもいいくらいの気軽な店だが,しかし会社員が毎日の昼飯を食うにはお値段がやや高め.赤レンガ倉庫や山下公園に遊びにきた人たちが「お昼は久しぶりにスカンディヤにしましょう」と立ち寄るくらいの感じだ.若い二人連れは赤レンガ倉庫のレストランに行くせいか,この店は客の年齢層がやや高め.
 
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 ランチセットの中からハンバーグステーキ・デンマーク風をチョイス.パンかピラフのどちらにしますかと訊かれたのでピラフにした.
 飲み物は冷たいウーロン茶.
 
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 デンマーク風のハンバーグといっても別段かわったものではない.ファミレスのそれと異なる点は,フライドポテトではなく,煮たジャガイモが付け合わせになっているところである.あとはブロッコリとフライドオニオン,マッシュルームが皿に載っている.
 よくテレビの食い物番組で,何を食っても「甘い~」としか言えない頭の甘いタレントが,ハンバーグにナイフを入れると,決まって「肉汁があふれてるー」とか言うておるが,ありゃあ肉のスープではのうて牛の脂肪がとけたもんだがね.単に脂身の多い肉を挽けば,そうなるんだがね.肉の良否とはまた別の話じゃ.
 この店のハンバーグは,あの手のふわふわしたやつではなく,しっかりとした食感で満足感が高い.私はこのハンバーグが好きである.
 ではあるけれど,サイドのピラフは,いただけない.もう少しよい米を使って欲しい.米は,ランチ一人前に使う量は少しだから,原価をそれほど押し上げないはずだ.
 
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 昼飯を終えて外に出る.食事の最中は,すぐ帰宅するつもりでいたのだが,交差点の歩道を渡って横浜開港資料館の裏口 (↑画像) を通りかかって気が変わった.元々は門衛の詰所だったとかいう建屋 (↓画像) にある喫茶店"Au Jardin de Perry"に寄ってみようと思ったのだ.ついでに開港資料館の展示も見てみよう.
 
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 "Au Jardin de Perry"は片仮名だと「オゥ・ジャルダン・ドゥ・ペリー」だ.直訳は「ペリーの庭」らしいが,ペリーの庭って何だ.ていうか店名が長すぎ.「開港資料館の裏口の喫茶店」も長い.「ペリーの庭」でいいじゃないか.意味わからんけど.
 店内は昭和レトロで,戦後の銀幕のスターが,向かい合ってお茶を飲むのによさそうな雰囲気.
 下の画像の席の反対側の窓にある席 (敷地の外の広場が見える) がいいのであるが,あいにく満席だったので,ここに腰かけた.
 
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 各テーブルには「値上げの御挨拶」が書かれた手書きのメモがあった.
 ほー,十二年もの間,値上げせずに頑張ってきたのか.うんうん.
 
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 おいしいコーヒーを頂いて,会計をしたらコーヒーは税込み四百四十円だった.前に来たときは確か税込み四百円だったはずだがと思ってネットで確認したら,最近この店に来た人のブログに四百円だったと書いてある.前から外税表示だったっけ? この文面だと,値上げ前は消費税8%を,あたかも店側が負担していたように受け取れる.と思ったが,零細な喫茶店に目くじら立てるのはやめよう.
 ちなみに SCADIA GARDEN は増税前後で価格 (内税表示) を変えていない.実質値下げしたということである.
 
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 上の画像は開港資料館の中庭にある「たまくすの木」を正門から撮ったもの.「たまくす」は漢字で玉楠と書くが,タブノキと呼ぶのが普通かと思う.Wikipedia【タブノキ】には《また横浜開港資料館の中庭の木は「玉楠」と呼ばれ有名である 》とある.
 今やっている企画展示は「横浜開港160周年記念 開港前後の横浜 村びとが見た1858~1860」だ.同資料館の公式サイトには,展示されている資料の一部しか掲載されていない.たまには散歩がてら,展示を見に来るのもいいもんだと思った.

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2019年10月 5日 (土)

白花曼殊沙華

 陋屋のネズミの額ほどの土があるところに,シロバナマンジュシャゲが咲いた.
 
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 我が家は建ててから四十年経つが,これまで一度たりとも庭にヒガンバナが咲いたことはない.もちろんシロバナマンジュシャゲも初見である.
 あまりに唐突なので,驚いてウェブを検索してみた.すると,既にヒガンバナが群生している場所に,シロバナマンジュシャゲが突然に現れることは屡々あることのようであった.この現象について,日本植物生理学会のコンテンツ《植物Q&A 白色のヒガンバナについて 》には次のように説明されていた.文章がコンパクトに凝縮されているので,これ以上の要約はむずかしく,それで少々長いが全文引用する.
 
白色のヒガンバナについて
質問者: 一般 R.T.
登録番号3374 登録日:2015-09-24
ここ数年、近所で白色のヒガンバナをよく見るようになりました)。それまでずっと、赤のヒガンバナが咲いていた場所に、白色のヒガンバナが混在して咲いています。近所を中心にしか確認できていませんが、1つの場所ではなく、複数の地点でこの現象が観察されます。
インターネットでは、シロバナはショウキズイセンとの雑種なのだと書かれています。白のヒガンバナが観察されるようになった場所の1つは、わたしの親戚宅ですが、ショウキズイセンを育てたことはないそうです。これは、遠方から、ショウキズイセンの花粉が飛んで来ることを意味するのですか。
ヒガンバナと近縁種の自然交配は、比較的簡単におこるものなのでしょうか。それとも、白化には、別の理由があるのでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。

R.T.さま
みんなのひろばへのご質問有り難うございました。頂いたご質問の回答を遺伝学がご専門の奈良女子大学の鈴木孝仁先生にお願い致しましたところ、ヒガンバナの系統や自然交配についての論文を調べて下さり、以下のような非常に詳しい回答をお寄せ下さいました。少し難しいかも知れませんが、難しいところを飛ばしても、ショウキズイセンとの自然交雑ではないとか、ヒガンバナは種子を作らないとかなどなど、ご参考になる点が多いと思います。

【鈴木先生からのご回答】
シロバナマンジュシャゲについて
シロバナマンジュシャゲLycoris x albifloraについては、ヒガンバナL. radiateとショウキズイセンL. aureaの自然交雑種と牧野富太郎が提唱しました。稲荷山資生(1951)および栗田子郎(1976)による核型をもとにした系統関係の研究から、コヒガンバナL. radiate var. pumila(2倍体)から現存のヒガンバナL. radiata var. radiata(3倍体)が染色体突然変異で生まれたと示唆されること、および祖先型マンジュシャゲからの染色体突然変異を重ねてできたショウキズイセンとコヒガンバナの自然交雑からシロバナマンジュシャゲが生まれたと記述されています。
現存のヒガンバナは11本の半数型を構成している染色体の組が3組で構成されている3倍体となっており、種ナシスイカと同じように交雑ができず、種子もできない不稔性の性質をしています。互いに異なる11本の染色体の組はすべてアクセントリック染色体といって、動原体に対して両腕の関係になる部分の長さが異なる形態をしています。祖先型マンジュシャゲはあくまで仮想の原種ですが、現存のコヒガンバナがそれを継承した種とみなすことができ、この11本のアクセントリック染色体が2本ずつ存在する2倍体であり、稔性があります。一方、祖先型から3段階の染色体突然変異によって、2倍体(2本のアクセントリック染色体、10本の動原体が末端にあるテロセントリック染色体)の核型をもつようになったショウキズイセンL. aureaができ、稔性があったためコヒガンバナと自然交雑してシロバナマンジュシャゲが生まれたとされています。ただし、ショウキズイセンとされている種には、核型では3種類が存在し、そのうちの1亜種とコヒガンバとの自然交配によって、シロバナマンジュシャゲができたと推定されています。シロバナマンジュシャゲの核型は動原体に対して両腕の長さがほぼ等しいメタセントリック染色体5本と、2本の染色体どうしが末端で結合したテロセントリック染色体が1本、および11本のアクセントリック染色体から構成されており、稔性がありません。
こうした核型と不稔性の特徴を考慮すると、現在の日本に生えているマンジュシャゲL. radiata var. radiata(3倍体)とシロバナマンジュシャゲLycoris x albifloraはそれぞれ無性的に(つまり鱗茎や地下茎で)繁殖してきたものであると結論できます。さらに3倍体であるマンジュシャゲから遺伝子突然変異でシロバナマンジュシャゲと同等なものができる可能性は極めて低いと推定できます。なぜなら、花が白色になるような遺伝子の突然変異が起きたとしても、野生型の対立遺伝子は2つ残っているので(ヘテロ接合状態なので)、白い表現型が現れることがないからです。また、減数分裂過程もないので、白い花となる対立遺伝子が子孫に分離してホモ接合状態になることも起こりません。むしろ2倍体であるコヒガンバナに白い花となる突然変異が生じた場合には、この対立遺伝子が減数分裂過程でホモ接合となった子孫種子が形成される可能性は十分にあり得ます。ただしこの場合には、コヒガンバナの開花期がヒガンバナより1ヶ月ほど早いので、白化した突然変異種がヒガンバナのように一斉に開花する時期に同じように開花するとは限りません。
(結論)ヒガンバナ(3倍体)と近縁種の自然交配は、風媒であろうと、昆虫が媒介しようと、種子形成には至りません。よって自然交配は、先ず起こりえないと結論できます。

白色のヒガンバナが混在している理由は、(1)かつてシロバナマンジュシャゲの鱗茎がヒガンバナと共に植えられおり、ヒガンバナに遅れて地上に出てきたとする可能性が最も高く、(2)次の可能性はショウキズイセンの種子が鳥の糞と共に遠方から運ばれた場合だと考えられます。なお、(1)の場合には、ヒガンバナのアレロパシー(他感作用)がはたらいて、シロバナマンジュシャゲの生育を抑制していたことも考慮する必要があるかも知れません。
また、(2)の場合にはショウキズイセンの種子に含まれる有毒のアルカロイドが鳥に影響しないという前提が必要かもしれません。

 鈴木 孝仁 (奈良女子大学)
JSPPサイエンスアドバイザー
柴岡 弘郎
回答日:2015-09-29
 
 文意からすると,回答者の奈良女子大学鈴木先生は,ヒガンバナの中にシロバナマンジュシャゲが混在しているのを実際に観察したことがないようである.そのため頓珍漢な回答になっている.
 これと異なって,実見した上での写真付き解説は,簡単だが《筑波実験植物園 植物図鑑 シロバナマンジュシャゲ 》にある.この解説ではシロバナマンジュシャゲは,ヒガンバナ二倍体とショウキラン (註;ショウキズイセンのこと) との交雑で生じると書かれている.
 少し横道に逸れるが,この《筑波実験植物園 植物図鑑》ではショウキズイセンをショウキランと書いている.ショウキランはラン科ヒガンバナ属のショウキズイセンの別名であるが,ラン科ショウキラン属の多年草の名でもあって紛らわしい.そのことを注釈せずに.単にショウキランと書いてしまう「研究者」には困ったものである.
 私の住居に近く,国道一号線が横浜市戸塚区から藤沢市に入るあたりにヒガンバナが道路沿いに群生する場所がある.この群生は三十年ほど前に発生した.それ以来の三十年間,私はそのヒガンバナ群生を季節になると目にしてきたが,去年初めてシロバナマンジュシャゲが咲いているのを発見した.上記の《植物のQ&A》の質問者と同じ状況である.
 仮にこれを,奈良女子大鈴木先生の説明《(1)かつてシロバナマンジュシャゲの鱗茎がヒガンバナと共に植えられおり、ヒガンバナに遅れて地上に出てきたとする可能性が最も高く 》によって解釈すると,誰かがシロバナマンジュシャゲを植えたことになる.筑波実験植物園でも,また《植物Q&A》の質問者の家の近所でも,誰かがシロバナマンジュシャゲを植えて回ったということになる.鎌倉にもヒガンバナとシロバナマンジュシャゲが混在しているところがあちこちにある.それもみな誰かが植えたのだ.奇特なことである.
 次に鈴木先生の説明《(2)次の可能性はショウキズイセンの種子が鳥の糞と共に遠方から運ばれた場合だ 》とすると,シロバナマンジュシャゲが咲く前年にショウキランが開花していなければならない.私はその開花を目撃していないが,見落とした可能性はある.事実としてシロバナマンジュシャゲが咲いたのであるから,この群生場所でヒガンバナとショウキズイセンとの交雑が起こったとしか考えられない.
 
 さて陋屋の片隅に咲いたシロバナマンジュシャゲのことに戻る.
 そこには今までヒガンバナが咲いたことはない.ショウキズイセンが咲いたこともない.突然シロバナマンジュシャゲが出現したのである.
 これは鈴木先生の二つの説では説明できないことだ.たった一つの可能性は「植えられた」ということである.誰が植えた?
 そう考えた時,私の頭に浮かんだことがある.その花が咲いた場所は,暫く前まで,一匹の黒い猫が昼寝のお気に入りにしていた場所なのだ.
 その猫は,隣家の御主人が食べ物の面倒をみていた猫で,食事が終わると,うちの庭に来てずっと寝ていたのである.
 彼の姿を見なくなって少し経つ.もしかしたらこのシロバナマンジュシャゲは,彼がどこかへ行ってしまう時に植えていったものかも知れない.挨拶代わりの白い花を見ながら,そんなことを考えた.

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2019年10月 4日 (金)

聖母のレプリカ

 中野京子先生の『欲望の名画』(文春新書,Kindle版) からもう一つ.下の画像はラファエロの『システィーナの聖母』である.『欲望の名画』では『サン・シストの聖母』としているが,この絵が元々は北イタリアのピアチェンツァにあるベネディクト派修道院のサン・シスト聖堂の祭壇画として制作された作品であるためにそう呼ばれている.ちなみに「システィーナ」「サン・シスト」のシストとは,古代ローマ帝国時代の教皇シクストゥス一世を意味する.
 この絵がイタリアからドイツに持ち込まれた経緯はWikipedia【システィーナの聖母】に書かれているが,ドストエフスキーとの関りについては何も触れられていない.
 しかし『欲望の絵画』には,ドストエフスキーが1867年にドレスデン美術館を訪れて『システィーナの聖母』に魅せられたことを記したあと,次のように書かれている.
 
彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった。
 
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(『システィーナの聖母』;パブリック・ドメイン;Wikimedia:File:RAFAEL - Madonna Sixtina (Gemäldegalerie Alter Meister, Dresden, 1513-14. Óleo sobre lienzo, 265 x 196 cm).jpgから引用)

 私が興味を引かれたのは,ドストエフスキーの臨終の場所が,書斎のソファであったということである.そのことの出典を鋭意調べていったところ,とうとう関連記事を見つけた.《МУЗЕЙ Ф.М.ДОСТОЕВСКОГО》と題した個人サイトである.ここに,ドストエフスキーの書斎の写真と,次の記述がある.
 
この部屋のソファでドストエフスキーはその生涯を終えた。
 
 この記事の文脈からすると,どうやら江川卓『ドストエフスキー』(岩波新書) が出典らしい.ドストエフスキーの評伝は多いが,この岩波新書には確実にドストエフスキーの臨終が描かれているようなので,Amazonで古書を注文した.ドストエフスキーに興味はないが,ドストエフスキーの臨終には関心があるからである.
 さて山田風太郎『人間臨終図鑑』(徳間文庫) は,高齢者必読の書である.まだ読んでいない爺諸兄には読破をお勧めする.
 その第二巻 p.274から少し長く引用する.
 
一八八一年一月二十五日の夜、彼は執筆中ペンを落とし、それを拾うために本棚を動かしたとたん喀血した。二十六日にも血を吐いた。
 二月九日朝、二十五歳年下の妻のアンナが七時ごろ眼をさますと、ドストエフスキーはじっと彼女をみつめていた。
「アーニア、僕はもう三時間もずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
 と、いった。そして福音書を読んでくれといった。彼女はマタイ伝第三章を読んだ。
 九時ごろ、彼は妻の手をにぎったまま眠りにおちいり、十一時ごろ目ざめた。同時にまた喀血がはじまった。
 彼の家にあるのは五千ルーブルだけであった。彼はいった。
「アーニア、君を残していくのがとても心配だ。これから生きていくのが、どんなに苦しいだろう……」
 夜八時過ぎ、ドストエフスキーはびくっとしてベッドの上に起き上った。血の細糸が彼のあごひげを伝わっていた。アンナは氷のかけらをふくませたが、血はとまらなかった。
 医者が呼ばれた。アンナと子供たちはベッドのそばにひざまずいて、涙を流した。
 八時三十八分、ドストエフスキーは息をひきとった。
 世界文学史上の最高傑作ともいうべき『カラマーゾフの兄弟』は、その三カ月前に完成していた。
 
 どうであろうか.著者山田風太郎の叙述の詳しさからみて,何かしらの資料に基づいてこの場面を描いているのは確実だ.
 山田風太郎は『人間臨終図鑑』の巻末に次のように記しているからである.
 
書物の性質上、とりあげた人物の臨終に実際に立ち会われた方々の文章を多く引用ないし参考にせざるを得ませんでした。それらの諸著書諸文章に対して深く謝意を表するものです。
 
 だとすると,かくも著名な文学者ドストエフスキーの臨終の様子に,なぜか二つの説があることになる.書斎のソファに横たわって死んだ (江川説) のか,あるいは寝室のベッドで息をひきとった (山田説) のか.
 文学史的事実関係の考証は大切である.ロシア文学者江川卓といえど自らドストエフスキーの臨終を目撃したはずがないから,必ずや誰かの書いた資料を参照しているはずだ.岩波新書に出典が書かれていれば,その資料をたぐって行き,臨終の目撃者を突き止める必要がある.
 山田風太郎説もまた真偽は明らかにされねばならない.しかし山田風太郎が参照したはずの資料なり評伝なりは,誰が書いたものか,不明だ.臨終に立ち会って「ドストエフスキーは寝室のベッドの上で死んだ」と書き遺したのは誰なのか.それを取り入れて評伝を書いたのは誰なのかを山田風太郎は記していない.私の想像では小林秀雄か埴谷雄高あたりのような気がするのだが,そちら方面も明らかにしなければいけない.相違する二説があるということは,誰かが嘘をついていることを意味しているからだ.
 ドストエフスキーが死んだのは書斎なのか,寝室なのか.これが何故重要かと言うと,ドストエフスキーが『システィーナの聖母』から受けた影響がどれほどのものであったかに関わるからである.既述のように,実際,中野京子先生は『欲望の名画』の中で次のように書いている.
 
彼はよくよくこの絵のマドンナに呪縛されたのだろう。書斎に本作のレプリカ (聖母子の顔だけを切り取ったもの) を額装して飾り、その絵の真下に置いたソファに横になった姿で亡くなった。
 
 ネット上には,同様に「ドストエフスキーは愛した『システィーナの聖母』に見守られて死んだ」という趣旨の記述がみられる.仮にドストエフスキーがベッドの上で臨終を迎えたのが事実とすれば,これらの文章は,文学史的にドストエフスキーにとっての『システィーナの聖母』を過大に表現していることになるのだ.
 実は私は,ドストエフスキーはベッドで死を待っていたが,息を引き取る最後に,『システィーナの聖母』を見たいからソファに移してくれと望み,そして暫くして死んだ,という妄想を持っている.私は,事実はどうであったかを知りたいのだが,諸兄はどうであろうか.
 最後に一つ.中野京子先生も,ブロガーたちも,ドストエフスキーの書斎の壁の『システィーナの聖母』を「レプリカ」と書いている.
 ところが,《〈あとがきのあとがき〉ドストエフスキーの中編・短編から 巨大な作品世界のテーマを覗いてみる『白夜/おかしな人間の夢』の訳者・安岡治子さんに聞く 》の中に,ドストエフスキーの書斎の写真が掲載されていて,筆者の『白夜/おかしな人間の夢』の訳者・安岡治子さんは,写真のキャプションに次のように書いている.
 
「ドストエフスキー博物館」にある、「作家の書斎」。後ろの壁にかかってるのは、ラファエロのシスティナの聖母(マドンナ)の写真複製。アンナ夫人の回想によれば、ドストエフスキーは、この絵を、絵画の中でもっとも高く評価しており、晩年、入手、よく見入っていたという。
(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 書斎の壁にあったのは,レプリカだったのか,それとも写真だったのか.写真と複製は違う.通常,絵画を写真に撮ったものをレプリカとは言わない.これも白黒をはっきりさせるべきことだ.あ,書斎の壁の『システィーナの聖母』は白黒だ.ヾ(--;)

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2019年10月 3日 (木)

美しいバラは君の庭に

 私は外国文学に疎い.ミステリーやSF小説をいくらか読んだことはあるが,ジャンルは偏っているし,読書量も知識も出来の悪い高校生以下だと自覚している.
 そのような私であるから,「ハムレット」を通しで読んでいない.粗筋は知っているが.
 
 中野京子先生の『欲望の名画』(文春新書,Kindle版) を開いたら,ミレイ『オフィーリア』(1852年,油彩) の説明の中に《バラ (愛。オフィーリアの兄は彼女を「五月の薔薇」と呼んでいた) 》と書かれていた.
 
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(パブリック・ドメイン;Wikimedia Commons,"File:Sir John Everett Millais 003.jpg"から引用)
 
 ああそうだったなあ,と思い出して,それから暫く「五月の薔薇」を検索してみた.
 すると,五月の薔薇と呼ばれた乙女の名を冠したバラの画像がたくさんでてきた.これって,バラ園では必ずといっていいほど咲いている花じゃなかろうか.よく知らぬが.
 それから横道に逸れて,Wikipedia【五月のバラ】を読んでみた.この曲を歌った歌手の一人にブレンダ・リーが挙げられている.私がこの歌を最初に聴いたのは中学三年,高校の受験勉強をしている頃だったが,当時はブレンダ・リーの人気がすごくて,深夜放送を聴いていると,毎日必ずといっていいくらい彼女の歌が放送された.
 ブレンダは日本に何度も来て公演をしている.NHKテレビのショーに出演したのは1977年の来日の時で,この動画がたぶんその時のもの.日本では「五月のバラ」が曲名だが,ブレンダのカバーは「五月のバラ」ではなく「Omoide no Bara」(または邦題「思い出のバラ」) と呼ぶ.
「思い出のバラ」はネットにいくつか録音がアップされているが,これは比較的音がよい.ただしこのYouTubeは『この世の果てまで ブレンダ・リー』のCDジャケットが静止画になっているが,実はこのCDには「Omoide no Bara」は収録されていない.これが何かの勘違いなのか,あるいは音源を秘匿する必要があったのか,理由がわからない.
 現在のところ,日本国内で販売されているCDで,「Omoide no Bara」を収録したものはないと思われる.その意味でYouTubeにアップされている1977年のテレビ録画は貴重な音源である.しかしあちこち探したところ,海外で録音された7inchEPレコードの中古品 (骨董 w) が輸入されていて,日本のショップでも入手できるようだ.レコードプレイヤーを持っている人はそれを買うといいだろう.
 想像するに,日本国内でシングル・カットされたEP盤 (入手は極めて困難) とアメリカでリリースされたシングルEP盤はあるが,LPのアルバムには収録されなかっんじゃないかという気がする.
 ということで,私にとって「五月のバラ」はブレンダ・リーの歌なのであるが,いつの間にかラジオ番組でかけられる「五月のバラ」は塚田三喜夫のカバーがデフォになった.この歌をカバーした歌手は多いが,塚田バージョンが一番評価が高いからだろう.私もそう思う.
 ところでWikipedia【五月のバラ】には,次のように書いてある.
 
五月のバラ(ごがつのばら)は、津川晃の楽曲である。作詞:なかにし礼、作曲・編曲:川口真。1970年4月、再デビュー2枚目のシングルとしてエキスプレスより発売。規格品番はEP-1213。
1960年代、日本で活躍したカヴァーポップス歌手フランツ・フリーデルが、1969年に津川晃と改名し再デビュー。歌謡曲のジャンルでレコードリリースするようになり、そのシングル第2弾として1970年4月にリリースされた。
 
「五月のバラ」のオリジナルは津川晃 (フランツ・フリーデル) というドイツ人/日本人のハーフ歌手なのである.この人が1970年にEP盤にシングル・カットした録音が,この曲の最初のリリースだ.
 私はそれを聴いたことがなかったので,ネット上を探した.すると《五月のバラ Cover 津川 晃(フランツ・フリーデル) / 私撰・和シャンソン by Sima 》というYouTubeがトップにヒットした.
 この動画のタイトルを読むと,いかにも津川晃の歌唱のようにみえる.ところがこれは,Simaという人物が歌っているのだ."Cover津川晃"という和製英語が紛らわしくて誤解を招く.というより,アクセスを増やすためにわざと誤解を招くようなタイトルにしているのだろう.
 それはたまにあることなので,別に構わないが,驚いたのはSimaという男の歌唱である.音程外しまくり,リズム無視しまくりなのだ.明らかに音痴なのである.
 では,その奇跡のジャイアン・リサイタル《五月のバラ Cover 津川 晃(フランツ・フリーデル) / 私撰・和シャンソン by Sima 》を,どうぞお聴きください!

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2019年10月 2日 (水)

続々・アンフェア

 いくつかのメディアで小泉環境大臣がバッシングされている.結婚報告に総理大臣官邸へ行くという,メディア受けを狙ったとしか思えない行動を取った時も,一部で批判の声があったが,テレビの情報番組では「めでたいことだから,いいんじゃないすか」で終わった.加藤浩次から宮根誠司にいたるまでMC諸君は誰も批判しなかった.暇でテレビばかり観ている私が言うのだから間違いない.
 それからあまり経っていないが,テレビ以外のところで急に小泉進次郎叩きが始まった.きっかけは国連の気候行動サミットに出席するためニューヨークを訪問した際,小泉環境大臣の「セクシー発言」だった.これにメディアが噛みついた.この発言を小泉大臣があまり丁寧に弁解しなかったので,かなりこれで盛り上がった.その間の状況を,後になって割と冷静に報じたのは,FNN PRIMEの《小泉大臣「セクシー発言」ナゼ炎上?説明は野暮?記者とのやりとりの全容を検証 》(2019年9月26日) だったが,一度始まったバッシングの勢いは止められなかった.
 この時のニューヨーク滞在中に,ステーキ屋に行ったことを攻撃したのは,津山恵子というライターが BUSINESS INSIDER jp に書いた《日本は「環境汚染大国」という世界の評価と進次郎大臣「ステーキ」発言の波紋 》(2019年9月27日) だった.
 津山恵子は記事を次のように書き始める.
 
日本メディアを引き連れ、ニューヨークのステーキ屋に行った小泉進次郎・新環境相のビデオを見て、目を疑った。
環境大臣という環境問題で日本を代表する公人が「気候行動サミット」に参加するために来たニューヨークで、ドヤ顔でステーキ屋に行くのを喧伝するセンスのなさ。それをテレビでニュースであるかのように放送するメディア。
放送したTBSによると、小泉氏は「毎日でもステーキを食べたい」と話していた。TPOを完全に間違えている。
牛肉、豚肉、鶏肉などの畜産業界は、農場で多大な土地と水を汚染し、加工や輸送にも多くの二酸化炭素を出すため、「地球汚染ビジネス」の代表格とみられている。少なくとも欧米では環境問題を語る上では“常識”とされ、肉を食べないベジタリアンになる若者も増えているというのに、信じられない発言だ。
 
 畜肉1kgを生産するに必要な飼料用穀物は,牛肉で11kg,豚肉で7kg,鶏肉で3kg必要である.これを飼料要求率という.
 この飼料要求率で牛肉は突出している上に,消化管 (第1胃) でメタン (温室効果ガスの一つ) 醗酵が行われ,これが環境に排出されるために,牛肉生産は環境負荷が高い.これは十年以上も前から指摘され続けてきた事実である.肉牛肥育の他に酪農もあり,地球温暖化における畜産による環境負荷は牛肥育が過半を占める.これに対して養豚と養鶏の環境負荷は相対的に低く,牛肥育から養豚養鶏へのシフトが必要だとする意見はあるが,津山が言うように「畜産は環境汚染ビジネスだ」として養鶏までも排除を求める議論を私は知らない.データの詳細はFAOのサイトに譲るが,コンテンツの一例《農業からの温室効果ガス排出は増加 》を挙げておく.そのFAOも牛肥育の排除までも求めてはいない.
 津山の主張《(畜産は環境汚染ビジネスだということは) 少なくとも欧米では環境問題を語る上では“常識”とされ》は,果たして本当か.欧州はともかく,米国では“常識”ではない.それどころか,そもそも米国民は地球温暖化自体を認めていない.だから一向に牛肉生産をやめようとしないし,私たちにも「牛肉を食え」と勧めてくるのである.このように何でもかんでも「欧米では」と一括りにするのが,頭の悪い人間の特徴である.
 実を言うと私も畜産の環境負荷は大きいと思っているが,津山のように,欧米では畜産が環境汚染ビジネスとするのが常識だ,とするのは事実ではない.地球温暖化に関する各国国民の意識は,欧州と米国とでは分けて考える必要がある.それが常識だと私は考える.
 
 次にベジタリアンのこと.津山は,欧米ではベジタリアンになる若者が「増えている」と主張するが,調査数値は示していない.各国のベジタリアン数を調査したデータはある (Wikipedia【ベジタリアン】など) が,その増減に関する調査データを私は目にしたことがない.私だけでなく一般の人は,欧米におけるベジタリアンの増減データなんか知るはずもない.このように,読者に提供すべき出典を敢て示さずに,さも広く認められている事実であるかのように書くのが,ある種のライターの特徴だ.
 続いて津山は,畜産を指弾することから「ミートレスマンデー」に話を変える.
英国発 ミートフリーマンデーで飲食店はどう変わる 後編 》(2013年4月25日) は今から六年前に書かれたレポートであるが,欧米で盛んになった「ミートフリーマンデー」「ミートレスマンデー」運動は,当時の米国では専ら健康改善を志向したものであったことを報告している.その後,この運動は地球温暖化と結びついて盛り上がりを見せるようになったわけだが,その地球環境保護の面だけを一面的に取り上げるのはアンフェアである.この運動の健康と地球環境の両面を同時に紹介するのがフェアだ.例えば《米NYの全学校で「ミートレスマンデー」実施へ、ベジタリアン向け食事提供 》(2019年3月12日) のように.
 ところが津山は,論点を地球環境の面に絞り,しかも,《肉、乳製品、皮革製品、ウール製品など家畜に関連するビジネスは、人間に起因する地球温暖化ガスの14.5%を占める。その中で、牛肉が占める割合が一番高い(国連の食糧農業機関による)》(下線は当ブログの筆者が引いた) として,自分が養鶏もひっくるめて環境汚染ビジネスだと断じたことを,なかったことのようにして引っ込めてしまう.これでは論旨がまるで通らない.
 さらに津山は以下の引用箇所で電力問題に話を展開するのだが,ここでいよいよ馬脚を現す.
 
日本では、大量の二酸化炭素を出す石炭火力発電の割合が高いことは、海外の環境運動家から批判の的だ。国連のグテーレス事務総長は、2020年以降の新規建設をやめるように加盟国に何度も要請してきた。欧州では、将来的に火力発電からの撤退を決める国が相次いでいる。
ベルギーは2016年までに欧州連合(EU)で初めて、火力発電ゼロを達成。フランス、ドイツをはじめ、欧州の10カ国以上が、稼働ゼロか段階的削減を宣言している。
 
欧州では、将来的に火力発電からの撤退を決める国が相次いでいる 》が嘘である.
ベルギーは2016年までに欧州連合(EU)で初めて、火力発電ゼロを達成。フランス、ドイツをはじめ、欧州の10カ国以上が、稼働ゼロか段階的削減を宣言している 》も嘘である.
 
 いずれも,火力発電の一部である石炭火力発電を,火力発電全体のことにしてしまった.ベルギーが達成したのは石炭火力発電であるし,欧州各国が縮小しようとしているのも石炭火力発電なのである.
 津山がこんな小学生並みの間違いを書いてしまったのは,彼女が発電について無知であり,論じ慣れていないことを示している.
 発電について無知な津山であるが,実は原子力発電の推進を主張したいのである.
 次の図は,経産省資源エネルギー庁の『エネルギー白書2018』の《第2部 エネルギー動向 / 第2章 国際エネルギー動向 / 第4節 国際的なエネルギーコストの比較 》から引用した.
 
20191003a
 
 これを見ると,日本の電力供給は,2011年の東日本大震災後に,発電方法の内訳が大きく変わったことがわかる.原子力発電が激減し,それをLNG火力発電と石炭火力発電で穴埋めしたのである.
 上の図で明らかであるが,原子力発電を東日本大震災前の発電量に戻すと,石炭火力発電量を大きく減少させることができる.
 従って,新エネルギーの開発推進が今後の我が国の選択肢の一つであるのと同じく,「日本の原子力発電を震災前の状態に復旧し,それによってCO2排出量を減らす」というのも一つの選択肢ではある.
 だが津山はそう主張はしない.我が国の石炭火力発電を非難はするが,原子力発電には触れない.日本の電力政策に関する自分の立場を明らかにしない.なぜなら,津山の記事の目的は小泉進次郎のゴシップを叩くことであり,エネルギーに関する高尚なことを論じる知識も,ライターとしての度胸もないからである.それならそのように,せせこましいゴシップを探して書いておればいいのに,実にアンフェアなライターだ.
 最後に一つ.津山は記事の中で,下のような間抜けなことを書いている.
 
自然エネルギー財団によると、日本の発受電電力量に占める火力発電の割合は1990年に9.7%だったのが、2016年には32.3%になった。
 
 このライターが,火力発電とは石炭火力発電のことだと思い違いしていることは既に書いたが,それとは別に,《自然エネルギー財団によると》と書いているのが情けない.日本のエネルギーに関する資料の出所は経産省資源エネルギー庁である.孫正義が立ち上げた「自然エネルギー財団」のサイトには資源エネルギー庁のデータを加工したものが載ってはいるが,そんな二次加工資料を論拠にしてどうする.もしかすると津山は「エネルギー白書」の存在を知らぬかも知れない.

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2019年10月 1日 (火)

続・アンフェア

 文春オンラインに近藤奈香というライターが《ノーベル賞候補に躍り出た16歳、グレタ・トゥンベリさんの驚くべきメディア戦略 》と題した記事を書いている.(2019年9月29日 5:30)
 同記事から一部引用する.
 
全世界でムーブメントを起こすトゥンベリさんだが、その活動を訝しむ声が飛び交っているのも事実だ。
「まず子供たちに学校をボイコットさせる手法が疑問視されている。そして最大の疑問が、彼女のバックに仕掛け人がいるのではないかというもの。国会前の座り込みをSNSで広めた活動家が彼女を自身の会社にアドバイザーとして迎え入れようとし、その株価が一気に跳ね上がったこともあった。またスウェーデンの企業20社が彼女への支援を申し出ており、そうした企業の狙いは各国の補助金にあるのも間違いありません」》(文字の着色は当ブログの筆者が行った)
 
 近藤奈香は《そして最大の疑問が、彼女のバックに仕掛け人がいるのではないかというもの》の根拠として「現地メディア」としか書いていない.現地メディアってなんだよ.
 メディアの名称 (日本の場合に例えれば,文藝春秋とアサヒ芸能ではえらい違いである),その報道の品質をスウェーデン国民がどのように評価しているか,そしてその「疑問」を書いた文章を引用して示さねば,お話にならない.つまり近藤奈香は,自分の文章が根も葉もない嘘ではないことを明示しなければならぬのである.それをしないで単に「現地メディアがそう言っている」で済ませるのは,アンフェアの極みである.

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