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2019年9月 2日 (月)

武士の献立

 北國新聞創刊百二十周年記念作品として制作された映画『武士の献立』(2013年公開) は,浅草の料理屋の娘に生まれた春が加賀藩江戸屋敷に奉公に上がり,まだ幼いのに生まれつきの料理の才を発揮する場面から始まる.本作の時代背景は江戸時代の三大御家騒動といわれる加賀騒動である.
 加賀騒動は,六代藩主前田吉徳が,軽輩であった大槻伝蔵を側近に抜擢し,逼迫していた藩財政の改革に取り組んだことに端を発する.
 結局,吉徳の死後に守旧派の反撃で大槻伝蔵は失脚し,配流された越中五箇山で自害する.そして大槻伝蔵が思いを寄せていたとされる吉徳の側室,真如院もまた無実の罪を着せられて殺害されたのであるが,その真如院に女中として仕えたのが本作のヒロインの春だという設定である.
 映画『武士の献立』は六年も前の作品であるから,鑑賞した感想の記事はたくさんブログ等に書かれているが,ネタバレと称してはいるものは単なる粗筋を書いたものばかりである.そんな粗筋はWikipediaを読めばわかる.そうではなくて,調べなければわからない幾つかの点,調べてもわからなかったを幾つかのことを解説しながら,一度あるいは数度この映画を観た人のために,ノベライズ版『武士の献立』の誤りを指摘しつつ,以下に真のネタバレを記す.w
 
 映画は,ある日の夜分,風邪で体調すぐれぬお貞の方 (出家して真如院) のために,春が七輪で粥を炊く場面から始まる. 
 粥は,米から炊く方法 (炊き粥) と残り飯を炊き直すやり方 (入れ粥) がある.江戸時代は一日に何度も米の飯を炊くことはしなかった.上方では昼または夜に飯炊きをするが,江戸では朝に飯を炊く.加賀藩とはいえ江戸屋敷ではおそらく竈に薪で火を熾すのは朝だろうから,夜に粥を拵える場合は七輪に炭火で残り飯を炊き直すことになる.
 下の画像 (以下の画像はテレビ画面をカメラ撮影してトリミングしたもの) は,春が残り飯を水で洗っているところ.洗ってネバ (糊) を取り除かないと.おいしくないからだ.
 
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 水で洗った飯は行平鍋で炊く.行平鍋は,普通は単に行平と呼ばれる.銅を鍛造した片手鍋 (木製の柄が付いている) や,甚だしきはアルミをプレスしたチープ感あふれる片手鍋を行平と書いている書物や通販サイトがあるが,これは誤用である.正しくは下の画像のように注ぎ口と片手の柄が付いている土鍋の一種をいう.Wikipedia【鍋】には
 
雪平(行平)鍋(ゆきひらなべ)
和風鍋であり、蓋のない中程度の深さの片手鍋。汁の注ぎ口が左右両方に付いている場合が多い。煮物、茹で物、出汁を作る時など、鍋を利用する日本料理で使用される事が多い一種の万能鍋である。蓋は落とし蓋を利用する。本来は取っ手や蓋、つぎ口の付いた土製の鍋、あるいは銅製の鍛造鍋であったが、現在ではアルミ製の軽量な片手鍋であることが多い。鱗のように表面を覆うポリゴン状の模様は、本来は銅板を金槌で叩いて成型した跡である。廉価なプレス成型品でも、鍛造鍋に似せる装飾として模様を付けている。木製の柄がネジで固定されている物があり、これは取っ手が傷んだ場合に木製の柄だけを交換することが可能である。
 
と書かれているが,これは全くの誤りである.「本来は」も何も,行平と呼んでいいのは土製で蓋つきの片手鍋だけである.銅の鍛造片手鍋やアルミの安物は,単に片手鍋と呼べばいいのである.
 行平は,実用性からいうと一般的な形状の土鍋 (両手で持つ形) や,ツルが付いた鉄製の囲炉裏鍋より遥かに劣る.その理由は,行平に中身が入っている状態では片手で扱うには重すぎて,結局のところ両手で持たねばならないからであることが大きい.そのため次第に使われなくなり,いつの頃からか,日常の台所仕事の場から姿を消した.しかし明治以降,戦前に至る文学作品や料理本に「行平」とあるのは土鍋の行平のことである.
 私が行平のことを知ったのは,四十年ほど前に読んだ大橋鎮子さんの随筆に書かれていたからである.本が手元にないので確認していないが,たぶん『すてきなあなたに』の最初の一冊だったかと思う.
 大橋さんは,今の流行り言葉でいうところの「丁寧な暮らし」を読者に示した人だった.その人が粥は行平で炊くものだと書いている.私自身は行平を使ったことはないのであるが,おそらく行平で炊いた粥は格別においしいのであろう.
 さてテレビドラマは言うまでもなく,映画でも行平で粥を炊くという場面があるのは空前絶後,この『武士の献立』だけではないか.少なくとも私は『武士の献立』で初めてスクリーン上に行平を見た.映画『武士の献立』のオープニングに,日本の料理の伝統を象徴する行平を映し出したのは,朝原雄三監督の行き届いた演出だと思う.
 もちろん監督だけで映画はできないわけで,エンドクレジットを読むと,本作には舟木家に繋がる金沢の老舗料亭大友楼や料理専門家たちが指導監修に携わっている.また私は何度も繰り返して意地悪く粗を探す目で本作を鑑賞したが,時代考証にほとんど瑕疵はないと考える.
 ちなみに本作のシナリオを,作家の大石直紀がノベライズしている (小学館文庫『武士の献立』).大石は行平のことを土鍋と書いているが,それは不適当だ.大石は行平という名称を知らなかったのだろう.料理のことであれば『包丁侍 舟木伝内』(平凡社) が参考になるという.この本の著者であり歴史家である陶智子先生 (故人) は本作の料理考証を担当した人である.
 
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 さて,まだ幼かった春が加賀藩江戸屋敷へ奉公にあがったあと,実家である浅草の料理屋は火事で燃え,家族は焼死して春は天涯孤独の身となった.そんな春の料理の才能を見込んで,加賀藩台所方である舟木伝内 (実在の人物がモデル) は,跡取り息子の安信 (これまた実在の武士がモデル) の嫁に是非欲しいと談判する.下の画像はその際のワンシーンである.春が調理したアシタバ (明日葉) を賞味した伝内は箸を膳に戻すのだが,箸の先を膳の縁に掛けた (赤い矢印).現代の私達は,つい皿の縁に箸先を掛けてしまいがちなのであるが,実は膳の縁に掛けるのが正しいのである.その際の伝内 (西田敏行) の動作がさりげなく速やかで,ここは感心する場面だ.
 なお,この場面で伝内の懐紙は,通常よりもかなり大きいサイズである.映画『武士の献立』の時代考証はかなり行き届いていると思われるので,このような大きい懐紙が実際に存在したのだろうが,大きさや用途などを調べてもよくわからなかった.もしかすると縦にして懐に入れている可能性があるかもと思ったが,それにしても普通の男性用懐紙より大きいように見える.
 
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 下の画像は,伝内の妻である満 (余貴美子) の箸遣いのアップ.作法通りでとてもきれいだ.『武士の家計簿』に松坂慶子が武家の内儀役で出演しているが,箸をきちんと持てない上に懐紙の使い方も心得ない松坂に比べると,余貴美子は女優としての格が違うのが歴然としている.
 余貴美子は『シン・ゴジラ』で防衛大臣花森麗子を演じているが,その時の存在感ある演技と,本作における口の軽い御内儀の演技が好対照で,これには感服した.
 ところで一般に料理屋とか旅館で,食事が銘々の膳で供される場合,箸は紙の箸袋に収めた利休箸か,紙の帯で巻いた卵中箸ではなかろうか.外食ならばそういうことになるが,自宅での食事なら布の箸袋に各自の箸を入れておくことになる.下の画像で右手の下,飯碗の手前にある布がそれだ.ただし,この形の布製箸袋を通販サイトで探してみたのだが見当たらなかった.御存知の向きに御教示頂きたいものだ.
 
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 いたって好人物であるが口が軽い満の性格を描写しているシーンがいくつかあるが,春が加賀の舟木家に到着して義母の満に挨拶するときの場面がおもしろい.満は,春が出戻りであることに触れて「江戸では初鰹をありがたがるようだが脂の乗った戻り鰹を好む者もいます」と口を滑らす.加賀では北上する鰹も戻り鰹も出回らないわけで,見たこともない戻り鰹のことを知ったかぶりして出戻りの女に喩えてしまう満の性格がよく描かれている.
 この時に春は畳に目を落としたままムッとした表情をする.春が舟木家に嫁いだ時点では,春に料理の才能を認め,それ故に舟木の家の嫁に欲しいと懇願したのは伝内ただ一人であった.義母の満も夫の安信も,武家の嫁は跡継ぎを生めばよいのだとしか言わないのである.これは,加賀騒動が落着したあと,春が舟木家を去ることに繋がる大切な伏線の一つである.それを,下の画像のワンシーンで眉間にしわを寄せ,口をとがらせて心中の不満をかわいらしく演じた上戸彩さんに私は拍手する.貴兄も拍手しなさい.
 しかしあちこちのブログに書かれた映画批評をざっと一通り読んだ限りでは,この伏線すなわち江戸時代における武士社会の強固な身分世襲制と,武家に嫁いだ女性の地位役割について触れたものは見当たらない.この時の春の表情が,本作における上戸彩さんの演技中の白眉なのに,みんなスクリーンのどこを観ているのだろう.
 
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 下の画像は,安信が昇進を果たした翌日の早朝,春が南瓜の煮物を拵える場面である.ここで春は手で種とワタを取り除いたが,包丁の背でこそげ取るやりかたがいいらしい.手前に半分に割った南瓜があるが,これを見た限りでは日本カボチャである.当然だが.
 
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 下の画像にあるように,春は南瓜を小豆と一緒に煮た.これは奈良の郷土料理として知られている「(南瓜と小豆の) いとこ煮」だが,江戸生まれの春が作ったところをみると,江戸でも知られていた料理ということだろう.一説には,南瓜と小豆のいとこ煮は,神仏にお供えした南瓜と小豆を下げてから煮たことに起源があり,婚礼や法事の料理であるという.つまり春としては安信の昇進祝いに作ったのであるが,北陸地方の「いとこ煮」は,小豆を大根などの根菜や里の芋と一緒に煮るもののようで,どうやら春の心尽くしは,満には理解してもらえなかったようだ.だがそれは各地の風習であるから致し方ない.味が良いと満にほめられた春はうれしげに微笑むのだった.
  
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 話は先に進んで,この頃から安信はいわゆる加賀騒動に巻き込まれる.
 六代加賀藩主前田吉徳が,軽輩であった大槻伝蔵を側近に抜擢して進めようとした藩政改革は,吉徳の急死で頓挫し,加賀騒動が始まる.このあたりをWikipedia【加賀騒動】から引用する.
 
一方加賀藩の財政は元禄期以降、100万石の家格を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化の一途を辿っていた。
享保8年 (1723年)、藩主綱紀が隠居し息子の前田吉徳が第六代藩主となった。吉徳はより強固な藩主独裁を目指した。足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を側近として抜擢し、吉徳・大槻のコンビで藩主独裁体制を目指す一方、藩の財政改革にも着手する。大槻は米相場を用いた投機、新税の設置、公費削減、倹約奨励を行った。しかし、それらにより藩の財政は悪化が止まったものの、回復には至らなかった。さらに、悪化を食い止めたことを良しとした吉徳が大槻を厚遇したことで、身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や、倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満はますます募り、前田直躬を含む藩内の保守派たちは、吉徳の長男前田宗辰に大槻を非難する弾劾状を四度にわたって差出すに至った。
延享2年 (1745年) 6月12日、大槻を支え続けた藩主吉徳が病死し、宗辰が第七代藩主となった。その翌年の吉徳の一周忌も過ぎた7月2日、大槻は「吉徳に対する看病が不充分だった」などの理由で宗辰から蟄居を命ぜられた。さらに延享5年(1748年)4月18日には禄を没収され、越中五箇山に配流となる。
 
 安信の親友である今井定之進は家禄没収の上で加賀藩追放の身となった.定之進と妻の佐与が旅立つ朝,春は二人のために弁当を拵える.映画中で全く説明されないが,薄焼きにした卵の上に薄く削いだ鱒 (鱒寿司と同じ) を載せ,これで酢飯を巻いたものである.これと同じものをウェブ検索したが見当たらない.市販はもちろん,家庭でも作られなくなった加賀の伝統料理なのだろうか,実に旨そうである.しかしこの巻き寿司をノベライズ版『武士の献立』は《定之進と佐与が加賀を離れることを昨夜話すと春は、何も言わずに押し寿司を作り始めた 》として,押し寿司に変えてしまった.著者は春が拵えた寿司を説明するのが面倒だったのかも知れないが,だからといってシナリオを勝手に改変するノベライズがあっていいものか.
 
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 加賀藩守旧派は大槻伝蔵一派を一掃するだけでなく,陰謀は真如院の身にまで及ぶ.同じくWikipedia【加賀騒動】から下に引用する.
 
その後、宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半で病死し、異母弟の前田重煕が第八代藩主を継いだ。ところが延享5年の6月26日と7月4日に、藩主重熙と浄珠院への毒殺未遂事件が発覚する。浄珠院は宗辰の生母であり、重熙の養育も任されていた人物である。藩内で捜査した結果、これは奥女中浅尾の犯行であり、さらにこの事件の主犯が吉徳の側室だった真如院であることが判明した。これを受けて真如院の居室を捜索したところ、大槻からの手紙が見つかり不義密通の証拠として取り上げられ、一大スキャンダルとなる。寛延元年 (1748年) 9月12日、真如院の身柄が拘束されたことを聞いた大槻は五箇山の配所で自害した。寛延2年 (1749年) には禁固中の浅尾も殺害され、真如院と前田利和 (勢之佐) は幽閉されていたが、真如院は自ら絞殺を望んでその通りに殺されたという。大槻一派に対する粛清は宝暦4年(1754年)まで続いた。
 
 加賀騒動のスキャンダルとして世に知られた大槻伝蔵の不義密通事件は史実として疑わしいが,本作は歌舞伎や実録本によって世間に流布したいわゆる加賀騒動を一部取り入れ,吉徳の側室お貞の方と伝蔵は相思相愛の間であったという設定になっている.
 金沢城下で拘束されている真如院に会いたい思いが募る春に,満は軽率な行動をするなと命じる.しかし安信は春のために手はずを整え,そのおかげで春は真如院に密かに面会することができた.春は加賀に来て覚えた料理の数々を重箱に収めて持参するが,偶々城下で購った柚餅子も差し上げたところ,真如院は懐かしいと殊の外喜んだ.そして柚餅子がゆっくりと熟成されて作られることになぞらえて,春もそのような夫婦になれよと諭した.
 このシーンを大石直紀によるノベライズ版『武士の献立』は次のようにしている.
 
真如院は、重箱の横に並んだ小皿に目を留めた。柚餅子は小さい頃よく食べた。思わず笑みがこぼれる。
 
 だがこれはおかしい.《小さい頃よく食べた 》などという台詞は劇中にない.これは大石直紀が勝手にシナリオに書き加えたのだ.
 真如院は江戸の芝神明宮の神職の家に生まれた.能登の特産品が江戸市中にまで一般に流通していたとは考えにくいから,真如院が柚餅子を口にしたのは吉徳の側室となって加賀藩江戸屋敷に住むようになってからであり,国元からの献上品を食べたのに違いない.大罪人として幽閉された真如院は,藩主に寵愛されて何不自由なく暮らしていたかつての日々を,柚餅子を見て懐かしんだのだ.《小さい頃よく食べた 》は一体どこから引っ張り出してきたのだと言いたい.
 
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 大槻伝蔵は自害し,真如院は殺害された.こうして加賀騒動は,守旧派の勝利で幕を閉じた.
 守旧派を率いた重臣前田土佐守直躬は,八代藩主重煕の国許入りを祝って徳川家や近隣の大名を集めて饗応料理を振舞うことを企画した.そして舟木伝内が差配を勤めることになった.
 ところが大槻派の残党が前田直躬の殺害を図ったのである.安信もこれに加わろうとしたが,春は安信を死なせたくない一念で,安信の大小を持って逃げた.
 結局残党は全員が討たれた.ただ一人死に損なった安信は怒り心頭で,心ここにあらずの態で家に戻ってきた春を手討ちにしようとする.春は,安信が生きていてくれさえすれば,己は安信に討たれても構わぬと思った.そして安信が刀を振り下ろそうとしたその時,間一髪で満が止めに入った.この親不孝者と,泣き崩れる満の様子を見て安信の気勢が削がれた時に,出かけていた伝内が倒れたと知らせが入る.こうしてその場は大事に至らずに収まった.
 翌日,病床の舟木伝内は安信に,包丁侍の本分は刀剣ではなく料理で主君に仕えることにあると諭す.そして春と共に能登の食材と料理の調査をせよと指示する.能登にはまだ加賀に知られていない食材と料理があるだろう.それを用いて加賀藩饗応料理の完成度を高めたいというのが伝内の目論見であった.
 城下を出立した二人はまず日本海を左手に見て輪島に向かう.安信は,仲間の中で一人生き残ったことで心に深い傷を負った.そのわだかまりを抱えて黙々と歩く.春は,夢中でしたこととはいえ,そのために夫の心がもはや自分を離れてしまったのだと思いつつ,安信の後ろを離れて歩く.下の画像のシーンに,二人の心の距離が描かれている.本作のラストシーンでは,二人が仲睦まじく離れずに歩くのと対照的である.
 
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 輪島から先,能登半島の先端にかけて揚げ浜式製塩 (下の画像) が盛んな村々があった.これは今でも石川県の文化財としてわずかに行われているようだ.ロケ地は株式会社奥能登塩田村と思われる.左奥の建屋には鹹水を煮詰める釜がある.
 
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 塩の味は,塩田ごとに異なるという.日本古来の製塩方法は,濃縮した海水 (鹹水) を釜で煮詰めて塩の結晶を得るのだが,煮詰める塩梅で塩の組成が違ってくるからであろう.安信と春は塩田を訪ね,作られている塩を舐めては帳面に記録していく.
 塩田を訪ねる旅の途中で春は,柚餅子作りを目にした.今は亡き真如院が,過ぎし日々を懐かしんだ,あの柚餅子である.
 下の画像,和紙に包まれて糸で吊り下げられているのが「輪島の丸柚餅子」である.これは,各地に在る一般的な和菓子の柚餅子と異なり,柚子を丸々一個使うところが他所の柚餅子と違う.元々は能登の柚餅子が全国に伝播しているうちに餅菓子に変化したのであろう.丸柚餅子は,いささかお値段は張るが能登土産として知られ,通販でも購入できる.(柚餅子の資料と通販は柚餅子総本家中浦屋)
 下の場面は,ラストシーンに繋がる伏線である.
 
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 安信と春は,能登漁師たちが使う「いしる」(魚醤) も調査をする.下の画像で安信が手にしている徳利に入っているのが「いしる」だ.鮑等の貝殻に魚介を入れて焼く能登の「貝焼き」は「いしる」で調味するものだという.無論「いしる」は工業生産品ではないから,漁家ごとに風味は異なったであろう.それもまた安信夫婦は帳面に書き留めて旅を続けた.
 能登の塩はともかく,「いしる」を耳にしたことのない人には,全く台詞のないままに進む下の場面は,何のことやら全くわからない.
 
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 下の画像は熟成中の「いしる」の樽.既に述べた鱒の巻き寿司と同じく,これについても劇中で全く説明がないが,映画の観客が物語を追体験することを欲するならば,映画に対して能動的に関わるべし (つまりわからないことは自分で調べよ!) というのが監督の姿勢なのだろう.文学作品も映画も同じだ.漫然とスクリーンを眺めていたのでは物語を理解できないという映画作法に私はむしろ好感を持つ.
  
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 時には野宿をしながらの長い旅は,女の身の春には辛かったであろう.しかし安信の調査を助けながら,足袋に血を滲ませながらも健気につき従ってくる春を見て,一度は凍りかけた安信の心は遂に融けた.春を,この妻をいとおしく思った.
 ちなみに邦画の名作『砂の器』で,石川県の寒村に生まれた本浦秀夫と父・千代吉が放浪の旅に出たのが能登であった.安信と春の二人が海岸を旅する光景は『砂の器』へのオマージュである.
 
 能登の旅から戻った安信は,伝内を後見にして加賀藩伝統の饗応料理の献立を作成した.それには能登の旅の成果を取り入れた.
 そして饗応の当日,安信は伝内に代わって差配を執った.
 だが伝内父子が城中で一世一代の技を揮っているとき,春は舟木の家を出た.あの日,舟木伝内は厨房の土間に膝をついて,安信を一人前の包丁侍にしてくれと春に頭を下げた.安信が立派にお役目を果たす侍になった今,自分の役目はもう終わったと思ったのである.
 真如院の墓前に柚餅子を供え,柚餅子のような夫婦になれませぬでしたと春は掌を合わせ,脚は北へ向かった.
 
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 それから暫く経った頃,舟木家から出奔した春は,能登の浜で海女相手の食い物商いをして暮らしていた.能登は,かつて夫と旅した思い出の地である.
 海女のために貝焼きを拵えていると,「うまそうだ」と懐かしい声がした.
 
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 安信は,春をみつけるまで戻るなと伝内に命じられたと言った.
 そして,満には,孫を生むのは春しかいないと言われたと.
 安信は,二人で能登を旅した時以来,春以外の妻は考えられなくなっていた.だから頭を下げた.俺と一生を共にしてくれと.
 
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 こうして安信と春の夫婦の絆は確かなものとなった.
 それからまた少しして,能登から金沢へ向かう街道に二人の姿があった.それは,春を安信と巡り合わせてくれた恩人であり,優しかった真如院を偲びながらの帰路であった.春は通りかかった村で柚餅子を購い,夫婦は路辺の地蔵尊に柚餅子を供え,供養とするのであった.
 ちなみに,本作における舟木安信のモデルは,加賀藩御料理頭に登った二代目舟木伝内すなわち長左衛門安信である.舟木家当主たちの書き遺した書物のうち,安信が著したとされる『料理の栞』は国会図書館にある.
 
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 邦画の楽しみ方は様々だろう.とりわけ時代劇は.
 よく言われることだが,海坂藩の武士たちは現代に生きる私たちなのである.そして,加賀藩の包丁侍も,その妻も,私たちなのだ.
 だとすれば,ある場合には,映画を作った者の意図を離れた鑑賞も許されるだろう.
 例えば,南洋諸島における玉砕で死に損なった兵士はその後の人生をどう生きたか.これは戦後の文学と映画のモチーフの一つとなった.
 例えば私と同世代なら,バリケードに立て籠もった友たちが大学を追われたあと,日常性に復帰したたくさんの安信たちはそれからあとをどう生きたか.
 老人は時代劇を観て,そんなことを考えるのである.

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