考証『ツバキ文具店』(一)
手紙とは狭い意味では封書であるが,広義には葉書,あるいは郵便物ではないメモや回覧物などの形も含むと事典にある.街角にある普通の郵便ポストの場合,左側の投入口には「手紙・はがき」と書かれていて,これによれば手紙と葉書は区別されている.
恩師や知人に宛てて書く狭義の意味の手紙は,前回書いたのがもう十年前だったか二十年前のことであるかも覚えていないくらい,長いこと私は書いていない.問い合わせ状などのビジネス的な文書は稀に書くが,それもメールで済むものであればメールにしてしまう.
葉書は頂き物の礼状が主だ.
話が横に逸れるが,私が会社員だった頃,年末の忙しい時に賀状をたくさん書くのが面倒くさいので,通信面には定型文を書き,年末に「○○年元旦」などと嘘の日付を書いて投函していた.
それが,遅ればせながら六十五歳を過ぎてようやく正直者の真人間になった私は,元日の朝に年賀状を書くことにした.前年の旅行のこととか思ったことなどを盛り込んだ文章を小さな字でミッシリと書き,日付を「○○年元旦」として元日にポストに入れるようにしたのである.
このようにすると,相手のところには一月四日あたりに着くことになるのだが,世の人々は元日に届かない年賀状を不愉快に思うとみえて,二年ほどで私宛の年賀状は激減した.中には,顔を合わせたときに「年が明けてから年賀状を書くとは失礼な!」と文句を言う人もいたのには笑った.そうこうしているうちに,頼まれて媒酌人をしてあげた数人の元部下たちですら今では音信不通になり,同僚や元部下で今でも年賀状で近況を知らせてくれる人はわずかになった.年賀状というものは,やはり嘘の日付で書くのが喜ばれるらしい.しかし私は元旦に賀状を書くのを改めるつもりはない.元日の朝に賀状を書き,文末の日付を元旦とするのはなかなか気分のよいものだと思うからである.
閑話休題
小川糸さんの『ツバキ文具店』(幻冬舎;平成二十八年に初版:幻冬舎文庫;平成三十年に初版) は,鎌倉を舞台にしたちょっと変わった小説だ.主人公の女性である鳩子は,亡くなった祖母が遺した小さな文具店 (ツバキ文具店) を営んでいるが,副業で「代書屋」もしている.その代書屋も,祖母から受け継いだものという設定である.
とはいうものの,現代日本に代書屋という職業は存在しない.ここでWikipedia【代書屋】から下に引用する.
《代書屋(だいしょや)、代書業(-ぎょう)は、本人に代わって書類や手紙等の代筆を行う職業。
日本では、江戸時代に非公認の代書業として公事師や奉行所公認の代書業として公事宿があったとされる。明治政府は近代司法制度導入に伴い1872年(明治5年)に司法職定制代書人制度を定め、今日ではそれを引き継いだ司法書士と行政書士が存在する。》
《近世以前においては識字率が低く、すべての人が手紙や書類を書けるわけではなかったため、教養のある者が代筆することは一般的であった。また識字率が向上した後にも、専門書類などの作成には代書人が用いられた。
日本での役所等への手続書類の代書に関しては、前述の1872年(明治5年)に司法職定制代書人制度が法制化され、裁判所関連機関提出書類については今日の司法書士制度になり、また一方で行政機関等提出書類と権利義務事実証明書類については、明治30年代後半の警視庁令、各府県令や1920年(大正9年)内務省令代書人規則等で法制化され、それを引き継いで1951年昭和26年に行政書士法が制定され、今日の行政書士となっている。》
上の記述によれば,江戸時代からあったとされる代書屋は,明治時代に制度として明確化され,現代の司法書士と行政書士に引き継がれているという.すなわち本来の代書屋は,行政関連文書や司法関連文書など公的な性格を有する文書を代筆する職業だったわけである.もちろんこれには資格が必要だ.
一方で,ツバキ文具店の主人である鳩子が有償で何を代書しているかというと,不要不急の挨拶程度の内容の手紙とか,借金の申し込みを断る手紙など,全く公的な性格を持たない手紙である.
『ツバキ文具店』の読者は,まずそのような手紙の代筆が職業として成立するのかどうかに強い疑問を抱かざるを得ない.
上記のWikipedia【代書屋】には近世以前のこととして,無学で読み書きのできない者に代わって,教養あるものがこの種の手紙を代筆するのは普通であったと書かれている.ところが,近世に入ると一般庶民の学問教養レベルが飛躍的に向上する.Wikipedia【寺子屋】から下に引用する.
《寺子屋の起源は、中世の寺院での学問指南に遡ると言われる。その後、江戸時代に入り、商工業の発展や社会に浸透していた文書主義などにより、実務的な学問の指南の需要が一層高まり、先ず江戸や京都などの都市部に寺子屋が普及して行った。1690年代頃から農村や漁村へも広がりを見せ始め、江戸時代中期 (18世紀) 以降に益々増加し、幕府御用銅山経営、西江邸内には江戸中期創建の手習い場が現存している。特に江戸時代後期の天保年間 (1830年代) 前後に著しく増加した。1883年に文部省が実施した、教育史の全国調査を編集した『日本教育史資料』(1890-1892年刊 二十三巻) による開業数の統計では、寺子屋は19世紀に入る頃からさらに増加し、幕末の安政から慶応にかけての14年間には年間300を越える寺子屋が開業している。同資料によると全国に16560軒の寺子屋があったといい、江戸だけでも大寺子屋が400-500軒、小規模なものも含めれば1000-1300軒ぐらい存在していた。また経営形態も職業的経営に移行する傾向を見せた。幕末に内外の緊張が高まると、浪人の再就職 (仕官) が増えた事により、町人出身の師匠の比率が増え、国学の初歩である古典を教える寺子屋も増えるなど、時代状況に応じて寺子屋も少しずつ変化を遂げて行った。》
《寺子屋にて指南された学問は「いろは」は方角・十二支などからはじまり、「読み書き算盤」と呼ばれる基礎的な読み方・習字・算数の習得に始まり、さらに地理・人名・書簡の作成法など、実生活に必要とされる要素の学問が指南された。教材には『庭訓往来』『商売往来』『百姓往来』など往復書簡の書式をまとめた往来物のほか、漢字を学ぶ『千字文』、人名が列挙された『名頭』『苗字尽』、地名・地理を学ぶ『国尽』『町村尽』、『四書五経』『六諭衍義』などの儒学書、『国史略』『十八史略』などの歴史書、『唐詩選』『百人一首』『徒然草』などの古典が用いられた。中でも往復書簡を集めた形式の書籍である往来物は特に頻用され、様々な書簡を作成する事の多かった江戸時代の民衆にとっては実生活に即した教科書であり、「往来物」は教科書の代名詞ともなった。》
上に《「往来物」は教科書の代名詞となった 》とあるように,江戸時代には都市部庶民だけでなく農山村の者でも手紙の読み書きができるのが普通になった.こうして手紙は,相手と自分 (差出人) との間に誰も介在しない内密の通信手段 (私信) となった.そして明治の中頃には大日本帝国憲法で信書の秘密が保障されるに至り,公的な性格を持たない手紙 (公開しない文書) は,自分で書くものだということが私たちの常識となった.
現実は以上のようであるが,『ツバキ文具店』は,もしも現代に,近世以前のような私的な手紙の代書屋が存在したとしたらどんなことになるだろう,という物語である.
この種の空想物語を作り上げるには,かなりの作家的力量が必要とされるに違いない.物語の細部にいささかでも破綻があれば,小説ではなくリアリティのない単なるヨタ話になってしまうからだ.例えば宮部みゆきが描く江戸時代の怪異譚が小説として成功しているのは,彼女の緻密な筆力があるからである.
それでは小川糸『ツバキ文具店』が小説として成功しているかを,以下に読み解いてみよう.
| 固定リンク
「 続・晴耕雨読」カテゴリの記事
- エンドロール(2022.05.04)
- ミステリの誤訳は動画を観て確かめるといいかも(2022.03.22)
- マンガ作者と読者の交流(2022.03.14)
最近のコメント