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2019年8月 2日 (金)

トラック島 (補遺一)

 以下は先月の記事《トラック島》(7/26) への補遺である.
 
 アマゾンに注文していた古書の佐藤清夫著『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』(2004年) が届いた.駆逐艦「野分」は,昭和十五年九月に進水し,昭和十九年十月にレイテ沖海戦で沈没した艦船である.
 著者佐藤清夫氏は大正十一年二月静岡県に生まれ,海軍兵学校卒業後の昭和十八年二月に戦艦大和,次いで同年十二月駆逐艦野分に乗組.翌年四月に航海長兼分隊長となる.終戦時は海軍大尉.戦後は海上自衛隊に勤務した.御存命かどうか不明.
 米軍によるトラック空襲によってトラック島に在泊していた多数の艦船と航空機が失われ,トラック泊地が壊滅した海軍丁事件の前に,実は連合艦隊の巨艦大和も旗艦武蔵も,主力の第二艦隊も,戦死した山本五十六が既に予想していたように,戦力として役立たずになっていた.前線に出撃することなく連合艦隊首脳がいわば居住している大和と武蔵は「大和ホテル」「武蔵屋御殿」と揶揄された.(Wikipedia【山本五十六】)
 そして戦争に敗色が濃くなった頃,連合艦隊は退避に退避を重ねた.(Wikipedia【トラック島空襲】)
 帝国海軍は,連合艦隊が戦って海の藻屑となるより,温存する途を選んだ.後世に「時代遅れ」と批判される巨艦建造を推進した海軍首脳にとっては,海戦における勝利よりも大和や武蔵を温存することが戦争の目的と化していたのかも知れない.
『駆逐艦「野分」物語』の一節「トラック空襲」から幾つかの箇所を引用する.なお引用文中の註1~4は,当ブログの筆者が附したものである.また読者の便宜のために,原文にはないリンクを引用文中に挿入した.
 
昭和十九年に入ると、開戦以来の最大の策源地トラック基地にも敵の来襲が予想されるようになり、二月上旬には連合艦隊旗艦「武蔵」とその主力艦艇 (第二艦隊)(註1) は、ついにこのトラック泊地を捨て、そしてふたたびこの基地を使用することはできなくなった。
「平家の西海落ち」に似て、落ち行く先はボルネオ島に近いタウイタウイ泊地 (小沢部隊・サイパン沖海戦の待機基地)、さらに西のシンガポールに近いスマトラ島のリンガ泊地 (栗田部隊がレイテ沖海戦前に待機した基地) まで後退する。
…(中略)…
 このようにして、在泊中の全水上部隊が避退した。この艦隊の出撃を「帽振れ」
(註2) で見送った基地の軍人軍属と在泊中の多くの輸送船の乗員は、連合艦隊がどこかの戦場に向かうものと頼もしく思っていたという(註3)
 山本元帥を失った後の古賀連合艦隊には、建軍以来の見敵必殺の海軍魂はなくなり、燃料の枯渇問題もあって、軍令部の艦隊温存だけが海軍の戦略になり、恥も外聞もなく後退し、さらに後退していく。
 空母という「どんがら」だけを造り、その航空機搭乗員の練度不足を承知で (とすれば、その犠牲者の若者は浮かばれない)、つぎつぎと葬送作戦 (サイパン沖海戦、フィリピン沖海戦) を計画し押し付けた軍令部と、それを強行した艦隊の責任者、とくにその補佐たる部員、参謀たちが誰か
(註4) をここで述べるつもりはない。
 この人たちにより計画されたあとの作戦は、筆者もいやというほどの負け戦を体験し、先輩、同僚、後輩とその部下たちが犠牲者となった。戦争とは負けるものかとの印象さえ持っていた。
》(p.114~115から引用)
 
[ブログ筆者による註]
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(註1) 附番ではトップの第一艦隊は,日露戦争で活躍したが太平洋戦争では出撃する機会が少なく,ミッドウェー海戦後は所属航空戦隊や水雷戦隊を他の艦隊に移し,瀬戸内海で訓練艦隊となっていた.
 
(註2) 「帽振れ」は帝国海軍から海上自衛隊に至り行われてきた礼式.Wikipedia【海上自衛隊の礼式から下に引用する.
艦の出航における登舷礼では見送る隊員が互いに正帽を振る『帽振れ』が行われている。
手順は「帽振れ」の号令で正帽の鍔を右手で持ってゆっくり3度回して着用を何度も繰り返し、「帽元へ」の号令で礼を終了する。
出航以外にも、宇宙飛行士に選出された金井宣茂一等海尉が退職する際や、不祥事で辞任することになり栄誉礼を辞退した吉川榮治の離任式など、退職時の見送りとしても行われている。
イギリス海軍では見送りの際に相手に帽子の上を向けて時計回りに回す見送りが行われており、大日本帝国海軍では帽子の上は向けずに右手で持って頭の上で回す礼として導入され、海上自衛隊でもほぼ同じ礼が行われている。なお大日本帝国海軍では3回以上連続して回し、持つ位置や速さには個人差があった。
 
(註3) このエピソードは著者佐藤清夫氏の経験ではなく伝聞である.またNHK『歴史秘話ヒストリア 南の島は戦場になった トラック空襲75年目の真実』でもナレーションで紹介された.とすると佐藤氏と『歴史秘話ヒストリア』に共通する出典 (証言) が存在することになる.それを現在調査中であるが,まだ見つかっていない.
 
(註4) この箇所は,名指しはしないといいつつも,《恥も外聞もなく後退し、さらに後退して》いった古賀司令長官と福留参謀長ら連合艦隊首脳を批判していることが明らかである.旧海軍軍人としては,山本元帥が戦死さえしなければ連合艦隊はもう少し…との思いがあるのだろうが,しかし歴史に“if”はないとしか言えないだろう.
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[註終わり]
 
 Wikipedia【トラック島空襲】に次の記述がある.
 
2月16日の索敵結果を受けて、日本側は同日午前中に警戒体制を緩めた。ちょうど大本営陸軍部(参謀本部)の秦彦三郎次長以下瀬島龍三や服部卓四郎らと大本営海軍部(軍令部)の伊藤整一次長一行が南方視察行の途中でトラックに立ち寄っていた。この件に関し、16日の晩に夏島の料理屋で宴を催していたため、空襲がはじまると指揮官達は各自の島に戻れなくなった……という噂がある。なお次長一行は翌17日の空襲に遭遇し、18日サイパン到着(秦次長はサイパン島防備について懇談)、20日東京に戻った。また士官の人事異動のため深夜まで送別会を開いており、多くの者が陸上施設に泊まり込んでいた……という噂もあった。元海軍大尉の佐藤清夫(トラック島空襲時、駆逐艦野分乗組)によれば、五五一空の肥田真幸飛行隊長(機44期、当時海軍大尉)や整備長の回想に「司令部が接待をしているのに部隊だけ警戒配備でもあるまい」という記述があっため、瀬島に手紙で質問した。瀬島からは、陸軍単独の視察であったが、料亭に泊まった士官は居り、空襲に対する警戒心が弛緩している傾向は見られた旨の返信があったという。》(引用文中の文字の着色は,当ブログの筆者が行った)
 
 上の引用中,赤く着色した部分は『駆逐艦「野分」物語』を出典としている.しかしこの箇所は記述不充分で誤解を生む可能性がある.瀬島龍三は佐藤氏からの問い合わせに対する回答で陸海の「官官接待」は否定したが,しかし料亭で別の宴会は行われていたと証言した.従って上のWikipediaからの引用中の,官官接待に関する《この件に関し、16日の晩に夏島の料理屋で宴を催していたため、空襲がはじまると指揮官達は各自の島に戻れなくなった……という噂がある》は誤りであるとしていいだろう.
 ただし佐藤氏は,瀬島龍三一行とは別に他の宴会が行われていたことについては,『駆逐艦「野分」物語』の第四章「連合艦隊の落日」で詳細に,小林中将指揮するトラック島守備部隊に対する激しい批判を行っている.そしてその宴会に関する出典は《第四十七警備隊会編『トラック島海軍戦記』(七十二期、松元金一氏編著) 》であると書かれている.現時点 (7/2) での古書店検索結果では本書の出品は見あたらなかったが,国会図書館の蔵書がある.
 戦後の映画やテレビドラマでは,帝国陸軍の体質を陰湿に描き,海軍は開明的であるとする傾向があったと思われる.しかし,当然だが,日本人社会・組織の体質が陸と海で異なるわけもない.
 事実,戦艦「長門」の乗員であった私の父は,上官の鉄拳制裁で片耳の聴力を失なった.戦後はほとんど戦時中のことを子らに語らず,皇居には決して行こうとしなかった.
 その海軍という組織の非人間性について佐藤氏は,連合艦隊司令部が「トラック泊地を捨てて逃げ出す」(佐藤氏による表現) 際,トラック泊地に在泊あるいはトラック島に向けて航海中の輸送船団および護送艦艇四十余隻に対して,空襲に関する情報を一切流さなかったことを述べたあと,次のように記している.
 
情報を提供しなかったのは、主力艦隊を脱出させるための囮であったと公言したというが、その真偽のほどは知らない。仮にそうであるとすれば、この礁湖に永眠している英霊に何と言ったらよいだろうか。その発言の根底は、その昔の海軍当局者の発言「駆逐艦などは戦艦を護るためには犠牲にしてもよい」というものに発しているかも知れない。
 
主力艦隊を脱出させるための囮…》や《駆逐艦などは戦艦を…》は,トラック島空襲を生き延びた人々が著した戦記が出典ではないかと思われるが,残念ながら調査の糸口がつかめていない.
 
(この稿,終わり)

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