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2019年8月 9日 (金)

トラック島 (補遺二)

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 アマゾンに注文していた古書『海軍病院船はなぜ沈められたか 第二氷川丸の航跡』が届いた.
 著者の三神國隆氏は昭和十七年生れ.同三十九年に現在のテレビ東京に入社し,ニュース報道を担当した.その後はフリーのジャーナリストとして執筆活動を行ってきた.
 同書の中からトラック島空襲に関する抜粋引用するが,その前に,海軍の病院船「第二氷川丸」すなわち「天応丸」について若干の解説をする.
 第二氷川丸 (天応丸) は本来はオランダの艦船「オプテンノール (船)」である.オランダ王立郵船会社の客船として建造され,東南アジア航路に就いていたが,第二次大戦の勃発と共に, ドイツに征服されてからロンドンに逃れたオランダ亡命政府が徴用した.
 太平洋戦争が始まるとオランダ海軍はオプテンノールを改装し病院船とした.Wikipedia【病院船】に次のように書かれている.
 
近代戦時国際法のもとでは、病院船は一定の標識を行い、医療以外の軍事活動を行わないなどの要件をみたすことで、いかなる軍事的攻撃からも保護される。
 
 ところが実際には,同Wikipediaによると
 
オプテンノールを病院船とすることは1942年2月4日に日本側に通告され、オプテンノールは2月19日に病院船として就役した。2月20日に、磁気機雷対策用の舷外電路を装着するためスラバヤ軍港に入港したが、直後に日本軍機の空襲に見舞われ、至近弾で損傷、軍医や従軍看護婦ら13人が死傷した。
 
とある.さらには,昭和十七年三月一日,日本軍はオプテノールに威嚇爆撃を行い,拿捕した.同六月にはオランダ船旗を降ろし,日本海軍旗が掲げられた.同十月に日本海軍は天応丸を横須賀鎮守府に回航して大幅な改装を行い,天応丸病院船として使用することにした.捕虜となったオランダ人医療関係者や高級船員は外国人収容所へと移された.
 昭和十九年九月に横須賀鎮守府において再び改装工事が行われたが,これは擬装用の第二煙突を追加するなど外観を大きく変更して元はオプテンノールであったことを隠蔽する意図があったとされる.そして天応丸は第二氷川丸と改名された. これ以後のオプテンノールの運命の詳細はWikipediaに譲るが,その最後については以下の通りである.
 
1945年7月下旬以降、オプテンノールは舞鶴港に係留され8月15日の終戦の日を迎えた。終戦まで生きのびたオプテンノールだったが、終戦直後の8月19日に、舞鶴港外の沓島近海でキングストン弁を解放したうえ、船体に爆雷を装着して遠隔操作で起爆して自沈させられた。自沈作業は舞鶴鎮守府の隷下にある舞鶴防備隊の掃海部隊により、秘密裏に遂行された。自沈を決定したのは海軍大臣の米内光政であったとも言われる。なお、作業にあたった決死隊24人が船とともに沈んで戦死したとの情報は誤りで、全員が無事に作業を終えている。
 
 オプテンノールの自沈は,日本海軍がオプテンノールを病院船と知りつつ攻撃したこと,また拿捕後の改装と運用が戦犯問題になることを恐れた海軍による一種の証拠隠滅であり,これが『海軍病院船はなぜ沈められたか』のモチーフとなっている.
 戦後世代,とりわけ団塊の世代の者と太平洋戦争について論じていると,米内光政の評価が高い.しかし,《自沈を決定したのは海軍大臣の米内光政であったとも言われる 》が事実 (この説の典拠は本書『海軍病院船はなぜ沈められたか』である) とすれば,終戦間際でなく直後に,すなわち占領軍の支配下において,旧軍に対する如何なる指揮権限が米内にあったのか知らぬ (無論,建前上はなかったはずである) が,保身の多ために証拠隠滅を図るがごときアンフェアな人格であったことを私たちは知るべきである.
 
 さて連載「トラック島」の「補遺一」は,佐藤清夫『駆逐艦「野分」物語』から,トラック島空襲について記した部分を紹介した.著者の佐藤氏は「野分」の乗組員だった人である.すなわち『駆逐艦「野分」物語』は佐藤氏の体験に基づく氏自身の「戦記」である.
 本稿で紹介する『海軍病院船はなぜ沈められたか』の著者,三神國隆氏は昭和十七年 (1942年) 生まれで,終戦前の生まれではあるが,団塊世代に少し先行する戦後世代だとしていいだろう.従って『海軍病院船はなぜ沈められたか』は氏の調査に基づいたノンフィクション作品である.昭和十九年二月十日,司令長官古賀峯一海軍大将率いる連合艦隊が,トラック泊地に多数の艦艇と兵員を置き去りにして逃げ去ったあと,十七日から十八日にかけて何があったのか.私たちが両作品を並べ読むことは,トラック泊地の海に沈んで還らぬ七千の魂を想い,何が,誰が,責められねばならぬのかを今一度明らかにすることに繋がるだろう.そこで,本書の中からトラック島空襲の様子を書いた部分を下に抜粋引用して紹介する.
  

米軍はまず航空戦力の撃滅を狙い、これらの基地を襲ったのである。しかし、南洋生活にゆるみ切っていたトラック基地の反応は緩慢だった。
 空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り渡り、海上の艦船から戦闘ラッパが鳴り響いても迎撃に飛び立つ日本機の姿は見えない。天応丸の船上からは、春島から夏島へ向かって全速力で駆けつける内火艇が見えた。乗っているのは航空隊司令だと誰かがいう。駆けつける内火艇に向かって機銃掃射が浴びせられ、水上機基地では水上滑走中の水上機が一瞬炎に包まれ、そのまま海中に消えていった。一機だけ離水して上昇し始めたが、たちまち撃墜されてしまった。指揮官不在のため日本側の戦闘機は飛び立つこともできないのか、天応丸乗組員は歯がゆい思いで見守っていた。
 
(中略)
 
一週間ぶりに見るトラック島の光景は大きく変わっていた。泊地には大型貨物船が赤い船腹をさらして転覆しており、山肌は爆撃で掘り起こされて赤土が剥き出しになっている。海岸近くのヤシの木々は途中で折れて見る影もない。二月十七日、十八日の空襲ではトラの子の航空部隊が壊滅 (地上撃破二〇〇機、撃墜七〇機) し、軽巡洋艦「那珂」「香取」をはじめ一〇隻の艦艇と三一隻の輸送船が撃沈された。地上施設の被害も甚大で、燃料タンク三基が爆撃で破壊され、一万七〇〇〇トンの重油、ガソリンが失われ、軍需倉庫の糧食二〇〇〇トンが消失するなど、基地の機能は決定的な打撃を受けた。艦船乗組員を除いた陸上だけの死傷者も六〇〇人に達する。これだけの被害を受けた原因は油断であり士気の緩みというほかない。空襲の前夜、夏島では上級士官の異動のため送別会が深夜まで行われており、指揮官の多くは陸上の施設にそのまま泊まり込んでしまった。中には、空襲警報で浴衣のままあわててランチに飛び乗り自艦に戻った士官もいたといわれる。そんな噂が天応丸乗組員の間でもささやかれた。トラック島でなすすべもなく撃沈された商船の生き残りの間では、自分たちは連合艦隊の囮にされたという思いが強く残った。
 
『駆逐艦「野分」物語』は著者の体験を元に書かれたために,旧海軍首脳と連合艦隊司令部の卑劣さとトラック島守備部隊幹部の無能についての強い怒りが文章にあからさまであった.
 しかし『海軍病院船はなぜ沈められたか』はノンフィクションの手法で書かれたものであるから,文章に激昂した調子はない.しかしトラック島泊地の壊滅に関しては『駆逐艦「野分」物語』と同じ批判的立場に立っている.中でも,上の引用文中で文字を着色した箇所は,『駆逐艦「野分」物語』では伝聞として書かれていたことだが,本書では目撃談,証言であることが注目される.従ってこれは事実であった可能性があるが,Wikipedia【トラック島空襲】では「噂」とされている.Wikipedia【トラック島空襲】の執筆者がどのような根拠でこれらのことを「噂」として片づけたのかは不明であるが,執筆が匿名で行われている以上,文責の追及は困難である.
 
 以上,記事《トラック島 》に《トラック島 (補遺一) 》と《トラック島 (補遺二) 》を補足した.
 トラック島泊地が壊滅した主たる原因は連合艦隊が前線から逃げ去ったことであると生き残りの人々は捉えたようだが,それは戦後に証言されたことである.戦時中,帝国海軍首脳と連合艦隊司令部は,トラック泊地に沈んだ七千の
犠牲に対する責任をとらなかった.
 Wikipedia【古賀峯一】に以下のエピソードが書かれている.
 
墓所は東京都多磨霊園の名誉霊域にある。ここには古賀と並んで東郷平八郎、山本五十六が葬られている。古賀の墓は他の二人と比べて質素で目立たない。古賀が戦死した時の連合艦隊参謀長であった福留繁が、戦後になって、古賀の墓碑を立派なものに建て替えたい、と考えて古賀宅を訪問したところ、応対した古賀の妻は福留に「古賀はなんのお手柄一つ立てずあのような死を遂げたのですから、今の墓石で十分です、故人もそう思っているのにちがいありません」と述べた。
 
 福留繁は,海軍乙事件と丁事件の両方に関与した人間である.戦後も自分の責任を認めようとしなかった男だ.だが古賀峯一の妻は,夫の責任を認めた.軍人ではない人間のほうが潔かったということである.
(連載終わり)
 
[この連載は以下の三記事です]
トラック島
トラック島 (補遺一)
トラック島 (補遺二)

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