お箸の国の人なのに (十)
アマゾンのプライムビデオで提供されている無料コンテンツに『武士の家計簿』がある.(2019年8月21日現在)
この映画は磯田道史先生の『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』を原作 (映画の概要も同じWikipedia項目に書かれている) として,平成二十二年 (2010年) に制作された.監督は森田芳光.堺雅人,仲間由紀恵などの豪華なキャスティングで,そこそこのヒット作だった.劇場公開時,私は既に原作を読んでいたので映画館に足を運ばなかったのだが,無料ならば観ないテはない.
この映画 (以下,単に『武士の家計簿』) の冒頭で,加賀藩御算用者・猪山家七代目の猪山信之 (中村雅俊) が家族と食事する場面がある.以下,画像はプライムビデオ画面をカメラ撮影し,トリミング等の加工を行ったものである.
下の画像で正面奥は猪山家当主の信之,右側手前に座しているのが主人公である猪山家八代目猪山直之 (堺雅人),その正面は直之の妹の春 (桂木悠希),直之の右隣りは祖母「おばばさま」(草笛光子),春の左隣は信之の妻の常 (松坂慶子) である.なお,この家族構成は,原作とは異なっている.
団塊世代である私よりも一世代以上若い人たちはこのシーンを見てもどうも思わないだろうが,時代劇が身近であった今の高齢者は,この食事場面に時代考証上の疑問を感じるかも知れない.疑問というのは,膳の並べ方というか,家族の序列のことだ.
私自身がこの目で武家の食事を見たわけではないのであるが,戦後の昭和でも格式の高い家庭では,家長と息子たちは床の間のある部屋で食事し,女性たちは敷居を隔てた次の間に膳を並べたようだ.岩村暢子さんの著書にそう書かれている.
いわんや家父長制と男尊女卑の堅固であった江戸時代に,上の画像のような序列で膳を並べる食事シーンがあったとは到底考えられない.この膳配置では,家族の序列が信之,おばばさま,信之の妻,直之,直之の妹になってしまうが,元服を過ぎた一人前の嫡男である直之の序列は家長である信之の次であらねばならない.従って時代考証的に正しくは下図の配置である.信之と直之の膳は床の間のある部屋に置かれ,女性三人の膳は下座にあたる手前の部屋に置かれねばならない.女性三人の中で序列最下位の春は給仕係であるが,画面では春の脇に茶の土瓶と湯呑があるのに飯櫃が置かれていないのはおかしい.こういう細かいところを手抜きするとリアリティが失われるのだ.
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信之
直之
++++++++++++++++++++++++ 敷居
常 おばばさま
春
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しかし上図のように膳を配置すると,家族団欒の様子を演出しにくいだろうことは容易に理解できる.実際にこのシーンでは,婿養子である信之の自慢話を遮って常とおばばさまが勝手に喋るのだが,森田監督は,時代考証的正確さよりも,テレビのホームドラマの手法で猪山家の食事場面を描写することを優先させたと考えられる.(参考資料;《食事シーンの演出作法 重要10か条》)
しかし家族の序列の件は致し方ないとしても,このシーンには他に問題がある.それは手前の四人が畳の縁の上に正座していることだ.現代でも旅館に泊まった折に部屋で食事を摂る場合,膳は客の脚が畳の縁に乗らぬように置かれることになっている.すなわち下の場面では,手前の四人は,それぞれ後ろに三十センチくらい下がるのが正しい.これはドラマの演出意図を妨げるわけではないから,疎かにして欲しくなかった.
数年後,直之は,剣の稽古に通っていた道場の娘である駒 (仲間由紀恵) を娶る.下の場面は,その後の猪山家の食事の様子だ.直之の妹の春は他家に嫁いだらしい.
手前の四人の位置が左右に離れて,各自の脚が畳の縁に乗っていないのは,これで正しい.正しいのは結構だが,それならばなぜ上に掲げた画像では四人が畳の縁に乗っていたのか.このように場面間の整合性がとれていないのは,時代劇の演出作法について何も考えずにテキトーに撮影しているからだ.
しかしそれよりも大きな問題がある.それは,駒を嫁に迎える前には家族の序列で二番目であったおばばさまが突然,末席に座らされていることだ.おばばさまは猪山家先代の未亡人である.家族全体のうちの序列はナンバー・ツーで,女性たちの中での序列はトップのはずである.それが何の説明もなく,実の娘の常や嫁の駒よりも下座に膳を置かれている.そこは末席であり,給仕役が座る位置であるが,さすがにナンバー・ツーに給仕をさせるのはマズイと森田監督は思ったか,おばばさまの脇には土瓶も飯櫃もない.まことにその場限りの演出であり,テキトーこの上ない.
こんな膳の配置になってしまった原因は,直之と駒の夫婦を隣り合わせに座らせたことである.直之と駒が,飯を食いながら見つめ合ったり手をつないだり腿をつねったりしてイチャイチャするというのなら話はわかるが,そのようなことはしないのである.となると二人が隣り合わせに座る意味が不明である.森田監督が時代考証を無視してでもホームドラマにしたかったのであれば,仲間由紀恵さんが堺雅人の腿をつねり,何か思い出すように頬を赤らめて「うふ」とか言って欲しかったと思うのは私だけではあるまい.私だけですか.そうですか.
以上のように,森田芳光監督という人は時代考証に無関心であることが歴然としており,映画『武士の家計簿』は時代劇として完全に破綻している.原作の『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』は,磯田道史先生が偶々入手した実際の武家の家計簿を題材にして,江戸末期の下級武士の生活を実証的に描いた作品である.ところが森田監督は『武士の家計簿』を,あちこち辻褄の合わない杜撰なホームドラマ化することで,原作の持つリアリティを台無しにしてしまった.まことに残念である.
ちなみに,映画『武士の家計簿』と同じく実在した加賀藩の下級武士をモデルに描いた朝原雄三監督作品『武士の献立』には,つぎのシーンがある.
上に掲げた二つのシーンのうち,上は加賀藩台所方・舟木安信 (高良健吾),母の満 (余貴美子),妻の春 (上戸彩) の三人が食事する場面である.
下は江戸詰めの舟木家当主・舟木伝内 (西田敏行) が加賀に戻った際の夕餉の様子である.
いずれも武家における家族の序列に従って正しく膳が配置され,給仕役の春の脇には飯櫃と茶の土瓶が置かれている.まことに時代劇らしい行き届いた演出である.
加賀藩の下級武士を描いた二つの映画が,片方は駄作になり,もう片方は佳作になった.映画はまことに監督の力量次第であるというよい見本だ.
『武士の献立』については稿を改めて感想を記すことにして,『武士の家計簿』の緩みきった細部描写を挙げる.箸と椀の作法のことである.
下の画像は,猪山信之 (中村雅俊) の手元をアップにしたものである.見ての通り,右手人差し指の方向と親指の方向が直行している.これでは箸が平行に揃ってしまうから,箸先を大きく開閉できない.これは典型的なダメな箸の持ち方である.
上の画像で,左手の人差し指が飯椀の側面に添えられている.このようにする場合は,親指を椀の縁に乗せずに,人差し指と同じく椀の側面に添えなければいけない.親指を椀の縁に乗せる場合は,残りの指四本を揃えて椀の底を支えるように持つ.それが武士の食事作法である.
もちろん中村雅俊が日常の飯を食う時にどんな箸と椀の持ち方をしようが中村の勝手である.しかし加賀藩士猪山信之が食事する際には,きちんと武士の作法通りに箸と椀を使わなければいけない.そんな自明のことを役者に指導できない映画監督は時代劇に手を出さぬがよろしい.
事のついでに,当たるを幸いに主要なキャストの箸遣いを列挙する.まずは,おばばさま (草笛光子).
画像中の赤い矢印で示した親指は,中村雅俊と同じ持ち方の間違い.正しくは人差し指の先端に添えられねばならない.彼女の年齢からすると,箸をまともに持てないのは少数派であったはずだが,遂に直す気がなかったということか.
次は松坂慶子と桂木悠希.二人とも武家の女とは思えぬ飯の食い方である.
主演の堺雅人はどうかというと,箸はちゃんと持てていたが,椀の持ち方が見苦しく,それどころか,下の画像に示すように,芋に箸を突き刺して食うという狼藉を働いた.
芋に箸を突き刺すという武士の作法にあるまじき行為を行い,しかも何やら意味ありげに芋を見るというアクションに,物語の進展上の何らかの意味 (これすなわち伏線である) があるかというと,全くそんなことはない.このシーンのあと,芋のことは全く出てこないのだ.
つまりただ単に堺雅人は箸で芋を持てなかったのでそうしたようだ.ということは,このアクションは物語の進行上,全く無意味なのである.森田監督は,無意味なアクションを行うよう堺雅人に演技指示し,意味ありげに撮影して観客に見せたのだ.無意味な演技が増えれば,映画から緊張感が失われる.昔の映画監督の作品には,俳優の演技も大道具も小道具も,それしかあり得ないという緊張感があった.それを考えると,いかにこの監督が映画というものをナメているかがわかるシーンだ.
以上の役者たちは,時代劇に出演せぬがよかろう.
ついでに言うと,日本の作法では,箸と筆記具特に万年筆の持ち方は同じである.箸が持てぬ者は金釘流と相場が決まっておる.
鉛筆はデタラメな持ち方でも字を書けるが,その場合は適切な筆圧を加えることができないので,芯が硬いHBの鉛筆ではきれいな字を書けない.最近の小学校では4Bの鉛筆を使っていると聞くが,それは子供たちも教師も箸を正しく持てないことと関係している.
箸を正しく持てない者は,万年筆をすぐに壊すだろう.筆記具のパイロットがCМに吉永小百合様のご登場をお願い致しているが,それは小百合様の万年筆の持ち方が正しいからである.このCМは,株式会社パイロットコーポレーションの見識を示すものである.残念なことに,私と同世代の人間でも,箸と万年筆を正しく持てる者は少数派になってしまったが,それだけにこれは貴重な映像である.
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